みだれ髪
與謝野晶子
みだれ髪
ー明治三十四年八月十五日
鳳晶子の名にて発行
臙脂紫
1
夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ
2
歌にきけな誰れ野の花に紅き否むおもむきあるかな春罪もつ子
3
髮五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
4
血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな
5
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る
6
その子二十櫛にながるる黒髮のおごりの春のうつくしきかな
7
堂の鐘のひくきゆふべを前髮の桃のつぼみに経たまへ君
8
紫にもみうらにほふみだれ篋をかくしわづらふ宵の春の神
9
臙脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命
10
紫の濃き虹説きしさかづきに映る春の子眉毛かぼそき
11
紺青を絹にわが泣く春の暮やまぶきがさね友歌ねびぬ
12
まゐる酒に灯あかき宵を歌たまへ女はらから牡丹に名なき
13
海棠にえうなくときし紅すてて夕雨みやる瞳よたゆき
14
水にねし嵯峨の大堰のひと夜神絽蚊帳の裾の歌ひめたまへ
15
春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髮か梅花のあぶら
16
今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾さはりてわが髮ぬれぬ
17
細きわがうなじにあまる御手のべてささへたまへな帰る夜の神
18
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
19
秋の神の御衣より曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ
20
経はにがし春のゆふべを奧の院の二十五菩薩歌うけたまへ
21
山ごもりかくてあれなのみをしへよ紅つくるころ桃の花さかむ
22
とき髮に室むつまじの百合のかをり消えをあやぶむ夜の淡紅色よ
23
雲ぞ青き来し夏姫が朝の髮うつくしいかな水に流るる
24
夜の神の朝のり帰る羊とらへちさき枕のしたにかくさむ
25
みぎはくる牛かひ男歌あれな秋のみづうみあまりさびしき
26
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
27
許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき
28
わすれがたきとのみに趣味をみとめませ説かじ紫その秋の花
29
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴にもたす乱れ乱れ髮
30
たまくらに鬢のひとすぢきれし音を小琴と聞きし春の夜の夢
31
春雨にぬれて君こし草の門よおもはれ顏の海棠の夕
32
小草いひぬ『酔へる涙の色にさかむそれまで斯くて覚めざれな少女』
33
牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君
34
春よ老いな藤によりたる夜の舞殿ゐならぶ子らよ束の間老いな
35
雨みゆるうき葉しら蓮絵師の君に傘まゐらする三尺の船
36
御相いとどしたしみやすきなつかしき若葉木立の中の蘆遮那仏
37
さて責むな高きにのぼり君みずや紅の涙の永劫のあと
38
春雨にゆふべの宮をまよひ出でし小羊君をのろはしの我
39
ゆあみする泉の底の小百合花二十の夏をうつくしと見ぬ
40
みだれごこちまどひごごちぞ頻なる百合ふむ神に乳おほひあへず
41
くれなゐの薔薇のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな
42
旅のやど水に端居の僧の君をいみじと泣きぬ夏の夜の月
43
春の夜の闇の中くるあまき風しばしかの子が髮に吹かざれ
44
水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君
45
誰ぞ夕ひがし生駒の山の上のまよひの雲にこの子うらなへ
46
悔いますなおさへし袖に折れし剣つひの理想の花に刺あらじ
47
額ごしに暁の月みる加茂川の浅水色のみだれ藻染よ
48
御袖くくりかへりますかの薄闇の欄干夏の加茂川の神
49
なほ許せ御国遠くば夜の御神紅盃船に送りまゐらせむ
50
狂ひの子われに焔の翅かろき百三十里あわただしの旅
51
今ここにかへりみすればわがなさけ闇をおそれぬめしひに似たり
52
うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今
53
わかき小指胡紛をとくにまどひあり夕ぐれ寒き木蓮の花
54
ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鴬
55
ふしませとその間さがりし春の宵衣桁にかけし御袖かつぎぬ
56
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
57
しのび足に君を追ひゆく薄月夜右のたもとの文がらおもき
58
紫に小草が上へ影おちぬ野の春かぜに髪けづる朝
59
絵日傘をかなたの岸の草になげわたる小川よ春の水ぬるき
60
しら壁へ歌ひとつ染めむねがひにて笠はあらざりき二百里の旅
61
嵯峨の君を歌に仮せなの朝のすさびすねし鏡のわが夏姿
62
ふさひ知らぬ新婦かざすしら萩に今宵の神のそと片笑みし
63
ひと枝の野の梅をらば足りぬべしこれかりそめのかりそめの別れ
64
鴬は君が声よともどきながら緑のとばりそとかかげ見る
65
紫の紅の滴り花におちて成りしかひなの夢うたがふな
66
ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清瀧夜の明けやすき
67
紫の理想の雲はちぎれちぎれ仰ぐわが空それはた消えぬ
68
乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き
69
神の背にひろきながめをねがはずや今かたかたの袖ぞむらさき
70
とや心朝の小琴の四つの緒のひとつを永久に神きりすてし
71
ひく袖に片笑もらす春ぞわかき朝のうしほの恋のたはぶれ
72
くれの春隣すむ画師うつくしき今朝山吹に声わかかりし
73
郷人にとなり邸のしら藤の花はとのみに問ひもかねたる
74
人にそひて樒ささぐるこもり妻母なる君を御墓に泣きぬ
75
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
76
おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る
77
ゆあみして泉を出でしやははだにふるるはつらき人の世のきぬ
78
売りし琴にむつびの曲をのせしひびき逢魔がどきの黒百合折れぬ
79
うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風の青き
80
恋ならぬめざめたたずむ野のひろさ名なし小川のうつくしき夏
81
このおもひ何とならむのまどひもちしその昨日すらさびしかりし我れ
82
おりたちてうつつなき身の牡丹見ぬそぞろや夜を蝶のねにこし
83
その涙のごふゑにしは持たざりきさびしの水に見し二十日月
84
旅の身の大河ひとつまどはむや徐かに日記の里の名けしぬ(旅にて)
85
小傘とりて朝の水くむ我とこそ穂麦あをあを小雨ふる里
86
おとに立ちて小川をのぞく乳母が小窓小雨のなかに山吹のちる
87
恋か血か牡丹に尽きし春のおもひとのゐの宵のひとり歌なき
88
長き歌を牡丹にあれの宵の殿妻となる身の我れぬけ出でし
89
春三月柱おかぬ琴に音たてぬふれしそぞろの宵の乱れ髪
90
いづこまで君は帰るとゆふべ野にわが袖ひきぬ翅ある童
91
ゆふぐれの戸に寄り君がうたふ歌『うき里去りて徃きて帰らじ』
92
さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ
93
君が歌に袖かみし子を誰と知る浪速の宿は秋寒かりき
94
その日より魂にわかれし我れむくろ美しと見ば人にとぶらへ
95
今の我に歌のありやを問ひますな柱なき纖絃これ二十五絃
96
神のさだめ命のひびき終の我世琴に斧うつ音ききたまへ
97
人ふたり無才の二字を歌に笑みぬ恋二万年ながき短き
蓮の花船
98
漕ぎかへる夕船おそき僧の君紅蓮や多きしら蓮や多き
99
あづまやに水のおときく藤の夕はづしますなのひくき枕よ
100
御袖ならず御髪のたけときこえたり七尺いづれしら藤の花
101
夏花のすがたは細きくれなゐに真昼いきむの恋よこの子よ
102
肩おちて経にゆらぎのそぞろ髪をとめ有心者春の雲こき
103
とき髪を若枝にからむ風の西よ二尺足らぬうつくしき虹
104
うながされて汀の闇に車おりぬほの紫の反橋の藤
105
われとなく梭の手とめし門の唄姉がゑまひの底はづかしき
106
ゆあがりのみじまひなりて姿見に笑みし昨日の無きにしもあらず
107
人まへを袂すべりしきぬでまり知らずと云ひてかかへてにげぬ
108
ひとつ篋にひひなをさめて蓋とぢて何となき息桃にはばかる
109
ほの見しは奈良のはづれの若葉宿うすまゆずみのなつかしかりし
110
紅に名の知らぬ花さく野の小道いそぎたまふな小傘の一人
111
くだり船昨夜月かげに歌そめし御堂の壁も見えず見えずなりぬ
112
師の君の目を病みませる庵の庭へうつしまゐらす白菊の花
113
文字ほそく君が歌ひとつ染めつけぬ玉虫ひめし小筥の蓋に
114
ゆふぐれを籠へ鳥よぶいもうとの爪先ぬらす海棠の雨
115
ゆく春をえらびよしある絹袷衣ねびのよそめを一人に問ひぬ
116
ぬしいはずとれなの筆の水の夕そよ墨足らぬ撫子がさね
117
母よびてあかつき問ひし君といはれそむくる片頬柳にふれぬ
118
のろひ歌かきかさねたる反古とりて黒き胡蝶をおさへぬるかな
119
額しろき聖よ見ずや夕ぐれを海棠に立つ春夢見姿
120
笛の音に法華経うつす手をとどめひそめし眉よまだうらわかき
121
白檀のけむりこなたへ絶えずあふるにくき扇をうばひぬるかな
122
母なるが枕経よむかたはらのちひさき足をうつくしと見き
123
わが歌に瞳のいろをうるませしその君去りて十日たちにけり
124
かたみぞと風なつかしむ小扇のかなめあやふくなりにけるかな
125
春の川のりあひ舟のわかき子が昨夜の泊の唄ねたましき
126
泣かで急げやは手にはばき解くえにしえにし持つ子の夕を待たむ
127
燕なく朝をはばきの紐ぞゆるき柳かすむやその家のめぐり
128
小川われ村のはづれの柳かげに消えぬ姿を泣く子朝見し
129
鴬に朝寒からぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき
130
道たまたま蓮月が庵のあとに出でぬ梅に相行く西の京の山
131
君が前に李春蓮説くこの子ならずよき墨なきを梅にかこつな
132
あるときはねたしと見たる友の髪に香の煙のはひかかるかな
133
わが春の二十姿と打ぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹
134
春はただ盃にこそ注ぐべけれ智慧あり顏の木蓮や花
135
さはいへど君が昨日の恋がたりひだり枕の切なき夜半よ
136
人そぞろ宵の羽織の肩うらへかきしは歌か芙蓉といふ文字
137
琴の上に梅の実おつる宿の昼よちかき清水に歌ずする君
138
うたたねの君がかたへの旅づつみ恋の詩集の古きあたらしき
139
戸に寄りて菖蒲売る子がひたひ髪にかかる薄靄にほひある朝
140
五月雨もむかしに遠き山の庵通夜する人に卯の花いけぬ
141
四十八寺そのひと寺の鐘なりぬ今し江の北雨雲ひくき
142
人の子にかせしは罪かわがかひな白きは神になどゆづるべき
143
ふりかへり許したまへの袖だたみ闇くる風に春ときめきぬ
144
夕ふるはなさけの雨よ旅の君ちか道とはで宿とりたまへ
145
巌をはなれ谿をくだりて躑躅をりて都の絵師と水に別れぬ
146
春の日を恋に誰れ寄るしら壁ぞ憂きは旅の子藤たそがるる
147
油のあと島田のかたと今日知りし壁に李の花ちりかかる
148
うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君
149
まどひなくて経ずする我と見たまふか下品の仏上品の仏
150
ながしつる四つの笹舟紅梅を載せしがことにおくれて徃きぬ
151
奧の室のうらめづらしき初声に血の気のぼりし面まだ若き
152
人の歌をくちずさみつつ夕よる柱つめたき秋の雨かな
153
小百合さく小草がなかに君まてば野末にほひて虹あらはれぬ
154
かしこしといとなみいひて我とこそその山坂を御手に寄らざりし
155
鳥辺野は御親の御墓あるところ清水坂に歌はなかりき
156
御親まつる墓のしら梅中に白く熊笹小笹たそがれそめぬ
157
男きよし載するに僧のうらわかき月にくらしの蓮の花船
158
経にわかき僧のみこゑの片明り月の蓮船兄こぎかへる
159
浮葉きるとぬれし袂の紅のしづく蓮にそそぎてなさけ教へむ
160
こころみにわかき唇ふれて見れば冷かなるよししら蓮の露
161
明くる夜の河はばひろき嵯峨の欄きぬ水色の二人の夏よ
162
藻の花のしろきを摘むと山みづに文がら濡ぢぬうすものの袖
163
牛の子を木かげに立たせ絵にうつす君がゆかたに柿の花ちる
164
誰が筆に染めし扇ぞ去年までは白きをめでし君にやはあらぬ
165
おもざしの似たるにまたもまどひけりたはぶれますよ恋の神々
166
五月雨に築土くづれし鳥羽殿のいぬゐの池におもだかさきぬ
167
つばくらの羽にしたたる春雨をうけてなでむかわが朝寝髪
168
しら菊を折りてゑまひし朝すがた垣間みしつと人の書きこし
169
八つ口をむらさき緒もて我れとめじひかばあたへむ三尺の袖
170
春かぜに桜花ちる層塔のゆふべを鳩の羽に歌そめむ
171
憎からぬねたみもつ子とききし子の垣の山吹歌うて過ぎぬ
172
おばしまのその片袖ぞおもかりし鞍馬を西へ流れし霞
173
ひとたびは神より更ににほひ高き朝をつつみし練の下襲
白百合
174
月の夜の蓮のおばしま君うつくしうら葉の御歌わすれはせずよ
175
たけの髪をとめ二人に月うすき今宵しら蓮色まどはずや
176
荷葉なかば誰にゆるすの上の御句ぞ御袖片取るわかき師の君
177
おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合
178
いづれ君ふるさと遠き人の世ぞと御手はなちしは昨日の夕
179
三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿
180
今宵まくら神にゆづらぬやは手なりたがはせまさじ白百合の夢
181
夢にせめてせめてと思ひその神に小百合の露の歌ささやきぬ
182
次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみじかき
183
友のあしのつめたかりきと旅の朝わかきわが師に心なくいいひぬ
184
ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし
185
いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人と一人
186
もろ羽かはし掩ひしそれも甲斐なかりきうつくしの友西の京の秋
187
星となりて逢はむそれまで思ひ出でな一つふすまに聞きし秋の声
188
人の世に才秀でたるわが友の名の末かなし今日秋くれぬ
189
星の子のあまりによわし袂あげて魔にも鬼にも勝たむと云へな
190
百合の花わざと魔の手に折らせおきて拾ひてだかむ神のこころか
191
しら百合はそれその人の高きおもひおもわは艷ふ紅芙蓉とこそ
192
さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花
193
友は二十ふたつこしたる我身なりふさはずあらじ恋と伝へむ
194
その血潮ふたりは吐かぬちぎりなりき春を山蓼たづねますな君
195
秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき
196
かの空よ若狭は北よわれ載せて行く雲なきか西の京の山
197
ひと花はみづから渓にもとめきませ若狭の雪に堪へぬ紅
198
『筆のあとに山居のさまを知りたまへ』人への人の文さりげなき
199
京はもののつらきところと書きさして見おろしませる加茂の河しろき
200
恨みまつる湯におりしまの一人居を歌なかりきの君へだてあり
201
秋の衾あしたわびし身うらめしきつめたきためし春の京に得ぬ
202
わすれては谷へおりますうしろ影ほそき御肩に春の日よわき
203
京の鐘この日このとき我れあらずこの日このとき人と人を泣きぬ
204
琵琶の海山ごえ行かむいざと云ひし秋よ三人よ人そぞろなりし
205
京の水の深み見おろし秋を人の裂きし小指の血のあと寒き
206
山蓼のそれよりふかきくれなゐは梅よはばかれ神にとがおはむ
207
魔のまへに理想くだきしよわき子と友のゆふべをゆびさしますな
208
魔のわざを神のさだめと眼を閉ぢし友の片手の花あやぶみぬ
209
歌をかぞへその子この子にならふなのまだ寸ならぬ白百合の芽よ
はたち妻
210
露にさめて瞳もたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹
211
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな
212
何となきただーひらの雲に見ぬみちびきさとし聖歌のにほひ
213
淵の水になげし聖書を又もひろひ空仰ぎ泣くわれまどひの子
214
聖書だく子人の御親の墓に伏して弥勒の名をば夕に喚びぬ
215
神ここに力をわびぬとき紅のにほひ興がるめしひの少女
216
痩せにたれかひももる血ぞ猶わかき罪を泣く子と神よ見ますな
217
おもはずや夢ねがはずや若人よもゆるくちびる君に映らずや
218
君さらば巫山の春のひと夜てぬ西のみやこの春さむき朝
341
春の宵をちひさく撞きて鐘を下りぬ二十七段だん堂のきざはし
342
手をひたし水は昔にかはらずとさけぶ子の恋われあやぶみぬ
343
病むわれにその子五つのをとこなりつたなの笛をあはれと聞く夜
344
とおもひてぬひし春着の袖うらにうらみの歌は書かさせますな
345
かくて果つる我世さびしと泣くは誰ぞしろ桔梗さく伽藍がらんのうらに
346
人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ
347
卯の衣を小傘をがさにそへて褄とりて五月雨わぶる村はづれかな
348
大御油おほみあぶらひひなの殿とのにまゐらするわが前髪に桃の花ちる
349
夏花に多くの恋をゆるせしを神悔い泣くか枯野ふく風
350
道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る
351
魔に向ふつるぎの束つかをにぎるには細き五つの御指みゆびと吸ひぬ
352
消えむものか歌よむ人の夢とそはそは夢ならむさて消えむものか
353
恋と云はじそのまぼろしのあまき夢詩人しじんもありき画だくみもありき
354
君さけぶ道のひかりの遠をちを見ずやおなじ紅あけなる靄もやたちのぼる
355
かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在の翅はねなからずや
356
ふとそれより花に色なき春となりぬ疑ひの神まどはしの神
357
うしや我れさむるさだめの夢を永久とはにさめなと祈る人の子におちぬ
358
わかき子が髪のしづくの草に凝りて蝶とうまれしここ春の国
359
結願けちぐわんのゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ
360
罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ
361
そとぬけてその靄もやおちて人を見ず夕の鐘のかたへさびしき
362
春の小川うれしの夢に人遠き朝を絵の具の紅き流さむ
363
もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔神まがみの翼つばさ
364
酔に泣くをとめに見ませ春の神男の舌のなにかするどき
365
その酒の濃きあぢはひを歌ふべき身なり君なり春のおもひ子
366
花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ
367
みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根
368
ゆく水に柳に春ぞなつかしき思はれ人に外ならぬ我れ
369
その夜かの夜よわきためいきせまりし夜琴にかぞふる三とせは長き
370
きけな神恋はすみれの紫にゆふべの春の讃嘆さんたんのこゑ
371
病みませるうなじに纖ほそきかひな捲きて熱にかわける御口みくちを吸はむ
372
天の川そひねの床のとばりごしに星のわかれをすかし見るかな
373
染めてよと君がみもとへおくりやりし扇かへらず風秋あきとなりぬ
374
たまはりしうす紫の名なし草うすきゆかりを歎きつつ死なむ
375
うき身朝をはなれがたなの細柱ほそばしらたまはる梅の歌ことたらぬ
376
さおぼさずや宵の火かげの長き歌かたみに詞あまり多かりき
377
その歌を誦ずします声にさめし朝なでよの櫛の人はづかしき
378
明日を思ひ明日の今おもひ宿の戸に寄る子やよわき梅暮れそめぬ
379
金色こんじきの翅はねあるわらは躑躅つつじくはへ小舟をぶねこぎくるうつくしき川
380
月こよみいたみの眉はてらさざるに琵琶だく人の年とひますな
381
恋をわれもろしと知りぬ別れかねおさへし袂風の吹きし時
382
星の世のむくのしらぎぬかばかりに染めしは誰のとがとおぼすぞ
383
わかき子のこがれよりしは斧のにほひ美妙みめうの御相みさうけふ身にしみぬ
384
清し高しさはいへさびし白銀しろがねのしろきほのほと人の集しう見し(醉茗の君の詩集に)
385
雁かりよそよわがさびしきは南なりのこりの恋のよしなき朝夕あさゆふ
386
来し秋の何に似たるのわが命せましちひさき萩よ紫苑よ
387
柳あをき堤にいつか立つや我れ水はさばかり流とからず
388
幸さちおはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち
389
打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くか名にうとき羊ひつじ
390
誰に似むのおもひ問はれし春ひねもすやは肌もゆる血のけに泣きぬ
391
庫裏くりの藤に春ゆく宵のものぐるひ御経みきやうのいのちうつつをかしさ
392
春の虹ねりのくけ紐たぐります羞はぢろひ神がみの暁あけのかをりよ
393
室むろの神に御肩みかたかけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一襲ひとかさね
394
天あめの才さいここににほひの美しき春をゆふべに集ゆるさずや
395
消えて凝こりて石と成らむの白桔梗しらぎきやう秋の野生のおひの趣味しゆみさて問ふな
396
歌の手に葡萄をぬすむ子の髪のやはらかいかな虹のあさあけ
397
そと秘めし春のゆふべのちさき夢はぐれさせつる十三絃よ
■このファイルについて
標題:みだれ髪
著者:與謝野晶子
本文:日本文学選「初版本 みだれ髪」 昭和22年2月25日 初版発行
表記:原文の表記を尊重しますが、読みやすさに配慮して以下のように扱いました。
○原文で用いられている旧字体は、現行の新字体に変更しました。
○本文の仮名づかいは、原文通りとしました。
○歴史的仮名遣いの誤りを正しました。
○歌番号を追加しました。
○明治三十四年発行の初版本(復刻版)に基づき訂正した箇所があります。
その他
○明治三十四年発行の初版本の歌数は三百九十九首ですが、この「初版本 みだれ髪」は、二首少なく、三百九十七首です。以下の二首が欠けています。
水十里ゆふべの船をあだにやりて柳による子ぬかうつくしき(をとめ)
袖にそむきふたたびここに君と見ぬ別れの別れさいへ乱れじ
入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2004年10月20日 里実文庫