悲しき玩具

石川啄木





悲 し き 玩 具

(一握の砂以後)



石川啄木


ー(四十三年十一月末より)ー






   内容

一握の砂以後百九十四首(歌)

一利己主義者と友人との対話(感想)

歌のいろいろ(感想)







悲しき玩具


            ー 一握の砂以後 ー







1

呼吸いきすれば、
むねうちにて鳴るおとあり。
 こがらしよりもさびしきそのおと



2

眼閉めとづれど、
こころにうかぶなにもなし。
 さびしくも、また、をあけるかな。



3

途中とちうにてふとかはり、
つとめさきやすみて、今日けふも、
河岸かしをさまよへり。



4

咽喉のどがかわき、
まだきてゐる果物屋くだものやさがしにきぬ。
あきふけに。



5

あそびに子供こどもかへらず、
して
はしらせて玩具おもちや機関車きかんしや



6

ほんひたし、ほんひたしと、
あてつけのつもりではなけれど、
つまひてみる。



7

たびおもをつとこころ
しかり、く、妻子つまここころ
あさ食卓しよくたく



8

いへ五町ちやうばかりは、
ようのあるひとのごとくに
あるいてみたれど



9

いたをおさへつつ、
赤赤あかあかと、
ふゆもやなかにのぼるをたり。



10

いつまでもあるいてゐねばならぬごとき
おもぬ、
深夜しんや町町まちまち



11

なつかしきふゆあさかな。
をのめば、
湯気ゆげがやはらかに、かほにかかれり。



12

なんとなく、
今朝けさすこしく、わが心明こころあかるきごとし。
つめる。



13

うつとりと
ほん挿絵さしゑながめ入り、
煙草たばこけむりきかけてみる。



14

途中とちうにて乗換のりかへ電車でんしやなくなりしに、
かうかとおもひき。
あめりてゐき。



15

二晩ふたばんおきに、
の一時頃じごろ切通きりどほしさかのぼりしもー
つとめなればかな。



16

しつとりと
さけのかをりにひたりたる
なうおもみをかんじてかへる。



17

今日けふもまたさけのめるかな!
さけのめば
むねのむかつくくせりつつ。



18

何事なにごと今我いまわれつぶやけり。
かくおもひ、
をうちつぶり、ひをあぢはふ。



19

すつきりとひのさめたる心地ここちよさよ!
夜中よなかきて、
すみるかな。



20

真夜中まよなか出窓でまどでて、
欄干らんかんしも
手先てさきやしけるかな。



21

どうなりと勝手かつてになれといふごとき
わがこのごろを
ひとりおそるる。



22

あしもはなればなれにあるごとき
ものうき寝覚ねざめ
かなしき寝覚ねざめ



23

あさあさ
でてかなしむ、
したにしてほうもものかろきしびれを。



24

曠野あらのゆく汽車きしやのごとくに、
このなやみ、
ときどきわれこころとほる。



25

みすぼらしき郷里くに新聞しんぶんひろげつつ、
誤植ごしよくひろへり。
今朝けさのかなしみ。



26

たれわれ
おも存分ぞんぶんしかりつくるひとあれとおもふ。
なんこころぞ。



27

なにがなく
初恋人はつこひびとのおくつきにまうづるごとし。
郊外こうぐわいぬ。



28

なつかしき
故郷こきやうにかへるおもひあり、
ひさりにて汽車きしやりしに。



29

あたらしき明日あすきたるをしんずといふ
自分じぶん言葉ことば
うそはなけれどー



30

かんがへれば、
ほんとにしとおもふことるやうでし。
煙管きせるをみがく。



31

今日けふひよいとやまこひしくて
やまぬ。
去年腰掛きよねんこしかけしいしをさがすかな。



32

朝寝あさねして新聞しんぶんなかりしを
負債ふさいのごとく
今日けふかんずる。



33

よごれたるをみるー
ちやうど
このごろ自分じぶんこころむかふがごとし。



34

よごれたるあらひしとき
かすかなる満足まんぞく
今日けふ満足まんぞくなりき。



35

年明としあけてゆるめるこころ
うつとりと
かたをすべてわすれしごとし。



36

昨日きのふまであさからばんまでりつめし
あのこころもち
わすれじとおもへど。



37

には羽子突はねつおとす。
わらこゑす。
去年きよねん正月しやうぐわつにかへれるごとし。



38

なんとなく、
今年ことしはよいことあるごとし。
元日ぐわんじつあされて風無かぜなし。



39

はらそこより欠伸あくびもよほし
ながながと欠伸あくびしてみぬ、
今年ことし元日ぐわんじつ



40

いつのとしも、
たよなうたを二つ三つ
年賀ねんがふみいてよこすとも



41

正月しやうぐわつ四日になりて
あのひと
ねんに一葉書はがきにけり。



42

におこなひがたきことのみかんがへる
われのあたまよ!
今年ことしもしかるか。



43

ひとがみな
おな方角はうがくいてく。
それをよこよりてゐるこころ



44

いつまでか、
この見飽みあきたる懸額かけがく
このままけておくことやらむ。



45

ぢりぢりと、
蝋燭らうそくえつくるごとく、
よるとなりたる大晦日おほみそかかな。



46

青塗あをぬり瀬戸せと火鉢ひばちによりかかり、
眼閉めとぢ、け、
ときをしめり。



47

なんとなく明日あすはよきことあるごとく
おもこころ
しかりてねむる。



48

ぎゆける一ねんのつかれしものか、
元日ぐわんじつといふに
うとうとねむし。



49

それとなく
そのるところかなしまる、
元日ぐわんじつ午後ごごねむたきこころ



50

ぢつとして、
蜜柑みかんのつゆにまりたるつめつむる
こゝろもとなさ!



51

ちて
眠気ねむけ返事へんじきくまでの
そのもどかしさにたるもどかしさ!



52

やみがたきようわすぬー
途中とちうにてくちれたる
ゼムのためなりし。



53

すつぽりと蒲団ふとんをかぶり、
あしをちゞめ、
したしてみぬ、たれにともなしに。



54

いつしかに正月しやうぐわつぎて、
わが生活くらし
またもとのみちにはまりきたれり。



55

神様かみさま議論ぎろんしてきしー
あのゆめよ!
ばかりもまへあさなりし。



56

いへにかへる時間じかんとなるを、
ただ一つのつことにして、
今日けふはたらけり。



57

いろいろのひとおもはく
はかりかねて、
今日けふもおとなしくらしたるかな。



58

おれがしこの新聞しんぶん主筆しゆひつならば、
やらむーとおもひし
いろいろのこと



59

石狩いしかり空知郡そらちごほり
牧場ぼくぢやうのおよめさんよりおく
バタかな。



60

外套ぐわいとうえりあごうづめ、
ふけにたちどまりてく。
よくこゑかな。



61

Yといふ符牒ふてふ
古日記ふるにつき処処しよしよにありー
Yとはあのひとことなりしかな。



62

百姓ひやくせうおほくはさけをやめしといふ。
もつとこまらば、
なにをやめるらむ。



63

さましてぐのこころよ!
としよりの家出いへで記事きじにも
涙出なみだいでたり。



64

ひととともにことをはかるに
てきせざる、
わが性格せいかくわも寝覚ねぎめかな。



65

なにとなく、
案外あんぐわいおほもせらる、
自分じぶんおなじことおもひと



66

自分じぶんよりも年若としわかひとに、
半日はんにち気焔きえんきて、
つかれしこころ



67

めづらしく、今日けふは、
議会ぎくわいののしりつつ涙出なみだいでたり、
うれしとおもふ。



68

ひとばんかせてみむと、
うめはちあぶりしが、
かざりしかな。



69

あやまちて茶碗ちやわんをこはし、
ものをこはす気持きもちのよさを、
今朝けさおもへる。



70

ねこみゝつぱりてみて、
にやとけば、
びつくりしてよろこ子供こどもかほかな。



71

何故なぜかうかとなさけなくなり、
よわこころ何度なんどしかり、
かねかりにく。



72

てどてど、
はづひとなりき、
つくへ位置ゐち此処ここへしは。



73

古新聞ふるしんぶん
おやここにおれのうたことめていてあり、
二三ぎやうなれど。



74

引越ひつこしのあさあしもとにちてゐぬ、
をんな写真しやしん
わすれゐし写真しやしん



75

そのころもつかざりし
仮名かなちがひのおほきことかな、
むかし恋文こひぶみ



76

八年前はちねんぜん
いまのわがつま手紙てがみたば
何処どこしまひしかとにかかるかな。



77

ねむられぬくせのかなしさよ!
すこしでも
眠気ねむけがさせば、うろたへてる。



78

わらふにもわらはれざりきー
ながいことさがしたナイフの
うちにありしに。



79

この四五ねん
そらあふぐといふことが一もなかりき。
かうもなるものか?



80

原稿紙げんかうしにでなくては
かぬものと、
かたくしんずるのあどけなさ!



81

どうかかうか、今月こんげつ無事ぶじらしたりと、
ほかよくもなき
晦日みそかばんかな。



82

あのころはよくうそひき。
平気へいきにてよくうそひき。
あせづるかな。



83

古手紙ふるてがみよ!
あのをとことも、五年前ねんまへは、
かほどしたしくまじはりしかな。



84

なんひけむ。
せい鈴木すずきなりき。
いまはどうして何処どこにゐるらむ。



85

うまれたといふ葉書はがきみて、
ひとしきり、
かほをはれやかにしてゐたるかな。



86

そうれみろ、
あのひとをこしらへたと、
なに心地ここちにてる。



87

『石川いしかははふびんなやつだ。』
ときにかう自分じぶんひて、
かなしみてみる。



88

ドアしてひと足出あしでれば、
病人びやうにんにはてもなき
長廊下ながらうかかな。



89

おもおろしたやうな、
気持きもちなりき、
この寝台ねだいうへていねしとき。



90

そんならば生命いのちしくないのかと、
医者いしやはれて、
だまりしこころ



91

真夜中まよなかにふとがさめて、
わけもなくきたくなりて、
蒲団ふとんをかぶれる。



92

はなしかけて返事へんじのなきに
よくれば、
いてゐたりき、となりの患者くわんじや



93

病室びやうしつまどにもたれて、
ひさしぶりに巡査じゅんさたりと、
よろこべるかな。



94

れしのかなしみの一つ!
病室びやうしつまどにもたれて
煙草たばこあぢはふ。



95

よるおそく何処どこやらのへやさはがしきは
ひとにたらむと、
いきをひそむる。



96

みやくをとる看護婦かんごふの、
あたたかきあり、
つめたくかたもあり。



97

病院びやうゐんりてはじめてのよるといふに、
すぐ寝入ねいりしが、
物足ものたらぬかな。



98

なにとなく自分じぶんをえらいひとのやうに
おもひてゐたりき。
子供こどもなりしかな。



99

ふくれたるはらでつつ、
病院びやうゐん寝台ねだいに、ひとり、
かなしみてあり。



100

さませば、からだいたくて
うごかれず。
きたくなりて、夜明よあくるをつ。



101

びつしよりと盗汗出ねあせでてゐる
あけがたの
まだめやらぬおもきかなしみ。



102

ぼんやりとしたかなしみが、
となれば、
寝台ねだいうへにそつとる。



103

病院びやうゐんまどによりつつ、
いろいろのひと
元気げんきあるくをながむ。



104

もうおまへ心底しんていをよく見届みとどけたと、
ゆめ母来ははき
いてゆきしかな。



105

おもふことぬすみきかるるごとくにて、
つとむねきぬー
聴診器ちやうしんきより。



106

看護婦かんごふ徹夜てつやするまで、
わがやまひ、
わるくなれとも、ひそかにねがへる。



107

病院びやうゐんて、
つまをいつくしむ
まことのわれにかへりけるかな。



108

もううそをいはじとおもひきー
それは今朝けさ
いままた一つうそをいへるかな。



109

なんとなく、
自分じぶんうそのかたまりのごとおもひて、
をばつぶれる。



110

いままでのことを
みなうそにしてみれど、
こころすこしもなぐさまざりき。



111

軍人ぐんじんになるとして、
父母ちちはは
苦労くらうさせたるむかしわれかな。



112


うつとりとなりて、
けんをさげ、うまにのれるおの姿すがた
むねゑがける。



113

藤沢ふぢさはといふ代議士だいぎし
おとうとのごとくおもひて、
いてやりしかな。



114

なにか一つ
おほいなる悪事あくじしておいて、
らぬかほしてゐたき気持きもちかな。



115

ぢつとしてていらつしやいと
 子供こどもにでもいふがごとくに
 医者いしやのいふかな。



116

氷嚢へうのうしたより
まなこひからせて、
 られぬよるひとをにくめる。



117

はるゆきみだれてるを
 ねつのある
 かなしくも眺めりたる。



118

人間にんげんのその最大さいだいのかなしみが
 これかと
ふつとをばつぶれる。



119

回診くわいしん医者いしやおそさよ!
いたみあるむねをおきて
 かたくをとづ。



120

医者いしや顔色かほいろをぢつとほか
なにざりきー
 むねいたつの



121

 みてあればこころよはるらむ!
さまざまの
きたきことがむねにあつまる。



122

つつほんおもさに
 つかれたる
やすめては、ものおもへり。



123

今日けふはなぜか、
 二も、三も、
 金側きんがわ時計とけいひとしとおもへり。



124

いつか是非ぜひさんとおもほんのこと、
表紙へうしのことなど、
 つまかたれる。



125

むねいたみ、
はるみぞれなり。
 くすりせて、してをとづ。



126

あたらしきサラドのいろ
 うれしさに
はしとりあげてつれどもー



127

しかる、あはれ、このこころよ。
 ねつたかくせとのみ
 つまよ、おもふな。



128

運命うんめいれるかと
 うたがひぬー
蒲団ふとんおも夜半よは寝覚ねざめに。



129

たへがたきかわおぼゆれど、
 をのべて
 林檎りんごとるだにものうきかな。



130

氷嚢へうのうのとけてぬくめば、
おのづからがさめきたり、
 からだいためる。



131

いま、ゆめ閑古鳥かんこどりけり。
 閑古鳥かんこどりわすれざりしが
 かなしくあるかな。



132

ふるさとをでて五年いつとせ
 やまひをえて、
かの閑古鳥かんこどりゆめにきけるかな。



133

閑古鳥かんこどり
 渋民村しぶたみむら山荘さんさうをめぐるはやし
 あかつきなつかし。



134

ふるさとのてらほとり
 ひばの
いただきにきし閑古鳥かんこどり



135

みやくをとるのふるひこそ
かなしけれー
 医者いしやしかられしわか看護婦かんごふ



136

いつとなく記臆きおくのこりぬー
 Fといふ看護婦かんごふ
 つめたさなども。



137

はづれまで一度いちどゆきたしと
 おもひゐし
かの病院びやうゐん長廊下ながらうかかな。



138

きてみて、
またたくなるとき
 ちからなきでしチユリツプ!



139

かたにぎるだけのちからくなりし
やせし
 いとほしさかな。



140

わがやまひ
 そのるところふかとほきをおもふ。
 をとぢておもふ。



141

かなしくも、
 やまひいゆるをねがはざるこころわれり。
なんこころぞ。



142

あたらしきからだをしとおもひけり、
 手術しゆじゆつきづ
 あとでつつ。



143

くすりのむことをわするるを、
 それとなく、
たのしみにおも長病ながやまひかな。



144

ポロオヂンといふ露西亜名ろしあなが、
 何故なぜともなく、
幾度いくどおもさるるなり。



145

 いつとなくわれにあゆみり、
 にぎり、
 またいつとなくりゆく人人ひとびと



146

ともつまもかなしとおもふらしー
 みてもなほ
 革命かくめいのことくちたねば。



147

ややとほきものにおもひし
テロリストのかなしきこころ
 ちかづくのあり。



148

かかる
 すでに幾度会いくたびあへることぞ!
るがままにれといまおもふなり。



149

つきに三十ゑんもあれば、田舎ゐなかにては、
らくくらせるとー
 ひよつとおもへる。



150


今日けふもまたむねいたみあり。
 ぬならば、
 ふるさとにきてなむとおもふ。



151

いつしかになつとなれりけり。
 やみあがりのにこころよき
 あめあかるさ!



152

みて四ぐわつ
 そのときどきにかはりたる
 くすりのあぢもなつかしきかな。



153

みて四ぐわつ
 そのにも、なほえて、
 わが背丈せたけのびしかなしみ。



154

すこやかに、
背丈せたけのびゆくつつ、
 われの日毎ひごとにさびしきほぞ。



155

まくらすはらせて、
まじまじとそのかほれば、
 げてゆきしかな。



156

いつも
 うるさきものにおもひゐしあひだに、
その、五さいになれり。



157

そのおやにも、
 おやおやにもるなかれー
かくちちおもへるぞ、よ。



158

かなしきは、
 (われもしかりき)
 しかれども、てどもかぬこころなる。



159

労働者らうどうしや」「革命かくめい」などといふ言葉ことば
 きおぼえたる
 五さいかな。



160

ときとして、
 あらんかぎりのこゑし、
唱歌しやうかをうたふをほめてみる。



161

 なにおもひけむー
玩具おもちやをすてておとなしく、
わがそばすわりたる。



162

菓子くわしもらときわすれて、
 二かいより、
 まち往来ゆききながむるかな。



163

あたらしきイソクのにほひ、
むもかなしや。
 いつかにはあをめり。



164

ひとところ、たたみつめてありし
 そのおもひを、
つまよ、かたれといふか。



165

あのとしのゆくはるのころ、
をやみてかけし黒眼鏡くろめがね
 こはしやしにけむ。



166

くすりのむことをわすれて、
 ひさしぶりに、
ははしかられしをうれしとおもへる。



167

枕辺まくらべ障子しやうじあけさせて、
そらくせもつけるかなー
 ながやまひに。



168

おとなしき家畜かちくのごとき
 こころとなる、
ねつややたかのたよりなさ。



169

なにか、かう、いてみたくなりて、
 ペンをりぬー
花活はないけはなあたらしきあさ



170

はなたれしをんなのごとく、
わがつま振舞ふるまなり。
 ダリヤを見入みいる。



171

あてもなきかねなどをおもひかな。
 きつして、
 今日けふくらしたり。



172

なにもかもいやになりゆく
この気持きもちよ。
 おもしては煙草たはこふなり。



173

まちにゐしころこととして、
 ともかた
こひがたりにうそまじるかなしさ。



174

ひさしぶりに、
 ふとこゑしてわらひてみぬー
はひ両手りやうてむが可笑をかしさに。



175

むねいたむのかなしみも、
 かをりよき煙草たばこごとく、
 てがたきかな。



176

なにか一つさわぎをおこしてみたかりし、
 先刻さつきわれ
 いとしとおもへる。



177

さいになるに、何故なぜともなく、
ソニヤといふ露西亜ろしあをつけて、
 びてはよろこぶ。



178

けがたき
不和ふわのあひだにしよして、
 ひとりかなしく今日けふいかれり。



179

ねこはば、
そのねこがまたあらそひのたねとなるらむ、
 かなしきわがいへ



180

おれひとり下宿屋げしゆくやにやりてくれぬかと、
 今日けふもあやふく、
 いひでしかな。



181

ある、ふと、やまひをわすれ、
うし真似まねをしてみぬ、ー
 妻子つまこ留守るすに。



182

かなしきはもち
 今日けふ新聞しんぶんみあきて、
 には小蟻こありあそべり。



183

ただ一人ひとり
をとこのなるわれはかくそだてり。
 父母ふぼもかなしかるらむ。



184

ちやまでちて、
わが平復へいふくいのりたまふ
 はは今日けふまたなにいかれる。



185

今日けふひよつと近所きんじよ子等こらあそびたくなり、
べどきたらず。
 こころむづかし。



186

やまひえず、
なず、
 日毎ひごとにこころのみけはしくなれる七八月ななやつきかな。



187

ひおきし
くすりつきたるあさ
 とものなさけの為替かはせのかなしき。



188

しかれば、
いて、寝入ねいりぬ。
 くちすこしあけし寝顔ねがほにさはりてみるかな。



189

なにがなしに
はいちいさくなれるごとおもひてきぬー
 秋近あきちかあさ



190

秋近あきちかし!
 電燈でんとうたまのぬくもりの
 さはればゆび皮膚ひふしたしき。



191

ひるせし枕辺まくらべ
人形にんげうてかざり、
 ひとりたのしむ。



192

クリストをひとなりといへば、
 いもうとがかなしくも、
 われをあはれむ。



193

縁先えんにまくらさせて、
 ひさしぶりに、
 ゆふべのそらにしたしめるかな。



194

にはのそとをしろいぬゆけり。
 ふりむきて、
 いぬはむとつまにはかれる。





     対 話 と 感 想








      一利己主義者と友人との対話

 B おい、おれは今度こんどまた引越しをしたぜ。
 A さうか。君は来るたんび引越しの披露をして行くね。
 B それはぼくには引越し位のほかに何もわざわざ披露するやうな事件が無いからだ。
 A 葉書はがきでもむよ。
 B しかし今度のは葉書では済まん。
 A どうしたんだ。何日いつかの話の下宿のむすめから縁談えんだんでも申込まれて逃げ出したのか。
 B 莫迦ばかなことを言へ。女のことなんか近頃もうちつともぼくの目にうつらなくなつた。女より食物くひものだね。きな物を食つてさへ居れあ僕には不平はない。
 A 殊勝しゆしやうな事を言ふ。それでは今度の下宿げしゆくはうまい物をはせるのか。
 B 三度三うまい物ばかり食はせる下宿が何処どこにあるもんか。
 A 安下宿やすげしゆくばかりころがり歩いたくせに。
 B 皮肉ひにくるない。今度のは下宿ぢやないんだよ。ぼくはもう下宿生活にはき飽きしちやつた。
 A よく自分に飽きないね。
 B 自分にも飽きたさ。飽きたから今度の新生活を始めたんだ。へやだけ借りていて、めしは三度とも外へ出てふことにしたんだよ。
 A きみのやりさうなこつたね。
 B さうかね。僕はまた君のやりさうなこつたと思つてゐた。
 A 何故なぜ
 B 何故なぜつてさうぢやないか。第一こんな自由じいうな生活はないね。居処ゐどころつて奴は案外あんぐわい人間を束縛そくばくするもんだ。何処かへてゐても、飯時になれあぐ家のことを考へる。あれだけでもぼくみたいな者にや一種の重荷おもにだよ。それよりは何処でもかまはす腹のいた時にび込んで、自分のきな物を食つた方がいぢやないか。(間)なんでもきなものが食へるんだからなあ。初めのうちは腹のへつてるのが楽みで、一日に五回づつつてやつた。出掛でかけて行つて食つて来て、煙草たばこでもんでるとまたぐ食ひたくなるんだ。
 A めしの事をさう言へやねむる場所だつてさうぢやないか。毎晩毎晩同じ夜具をるつてのも余り有難ありがたいことぢやないね。
 B それはさうさ。しかしそれは仕方しかたがない。身体からだ一つならどうでもいが、つくえもあるし本もある。あんな荷物にもつをどつさり持つて、毎日毎日引越ひつこしてあるかなくちやならないとなつたら、それこそ苦痛くつうぢやないか。
 A めしのたんびに外になくちやならないといふのとおなじだ。
 B 飯を食ひに行くには荷物にもつはない。身体だけでむよ。食ひたいなあとおもつた時、ひよいと立つて帽子ばうしかぶつて出掛けるだけだ。財布さいふさへ忘れなけや可い。ひとあしひと足うまい物にちかづいて行くつて気持はじついね。
 A ひと足ひと足あたらしい眠りに近づいて気持きもちはどうだね。ああ眠くなつたとおもつた時、てくてく寝床を探しに出かけるんだ。昨夜ゆうべは隣の室で女のくのを聞きながらねむつたつけが、今夜はなにいて眠るんだらうとおもひながらくんだ。初めての宿屋やどやぢや此方こつちの誰だかをちつともらない。知つた者の一人ひとりもゐない家の、行燈あんどんなにかついたおくまつた室に、やはらかな夜具やぐの中にゆつくり身体をばして安らかな眠りをつてる気持はどうだね。
 B それあいさ。君もなかなかはなせる。
 A いだらう。毎晩まいばん毎晩まいばんさうして新しい寝床ねどこで新しい夢をむすぶんだ(間)本も机もてつちまふさ。なにもいらない。本をんだつてどうもならんぢやないか。
 B ますますはなせる。しかしそれあ話だけだ。はじめのうちはそれでいかも知れないが、しまひには吃度きつとおつくうになる。やつぱり何処かに落付おちついてしまふよ。
 A 飯をひに出かけるのだつてさうだよ。見給みたまへ、二日つと君はまた何処どこかの下宿げしゆくにころがり込むから。
 B ふむ。おれは細君さいくんを持つまでは今のとほりやるよ。吃度やつてせるよ。
 A 細君さいくんを持つまでか。可哀想かあいさうに。(間)しかしうらやましいね君の今のやり方は、実はずつとまへからのおれの理想りさうだよ。もう三年からになる。
 B さうだらう。おれはどうもはじめ思ひたつた時、きみのやりさうなこつたとおもつた。
 A 今でもやりたいとおもつてる。たつた一月でもい。
 B どうだ、おれんところへ来て一しよにやらないか。いぜ。そして飽きたら以前もとに帰るさ。
 A しかしいやだね。
 B 何故なぜ。おれと一しよが厭なら一人ひとりでやつても可いぢやないか。
 A一緒でも一しよでなくても同じことだ。君はいまそれを始めたばかりでおほいに満足してるね。僕もさうにちがひない。やつぱり初めのうちは日に五たびも食事をするかもれない。しかし君はそのうちにきてしまつておつくうになるよ。さうしておれん処へ来て、また引越しの披露ひろうをするよ。そのときおれは、「とうとうきたね。」と君にふね。
 B 何だい。もうその時の挨拶あいさつまで工夫くふうしてるのか。
 A まあさ。「とうとうきたね。」と君に言ふね。それは君に言ふのだからい。おれは其奴そいつを自分にはひたくない。
 B 相不変あひかはらずいやな男だなあ、きみは。
 A いやな男さ。おれもさうおもつてる。
 B 君は何日いつかーあれは去年きよねんかなーおれと一しよに行つて淫売屋いんばいやから逃げ出したときもそんなことをつた。
 A さうだつたかね。
 B 君は吃度きつと早く死ぬ。もうすこし気を広く持たなくちやかんよ。一体たい君はあまりアンビシヤスだからかん。何だつて真の満足まんぞくつてものは世のなかに有りやしない。したがつて何だつて飽きるときが来るにきまつてらあ。飽きたり、不満足ふまんぞくになつたりする時を予想よさうして何にもせずにゐるくらゐなら、生れて来なかつた方がほど可いや。生れた者は吃度きつとぬんだから。
 A わらはせるない。
 B わらつてもゐないぢやないか。
 A 笑しくもない。
 B 笑ふさ。可笑しくなくつたつてちつたあ笑はなくちやかん。はは。(間)しかし何だね。君は自分できつぽい男だと言つてるが、案外あんぐわいさうでもないやうだね。
 A 何故なぜ
 B 相不変あひかはらず歌をつくつてるぢやないか。
 A うたか。
 B めたかと思ふとまたつくる。執念しうねんぶかいところが有るよ。やつぱり君は一しやううたを作るだらうな。
 A どうだか。
 B 歌もいね。こなひだ友人ゆうじんとこへ行つたら、やつぱり歌を作るとか読むとかいふねえさんがゐてね。君の事をはなしてやつたら、「あの歌人かじんはあなたのお友達ともだちなんですか。」つて喫驚びつくりしてゐたよ。おれはそんなに俗人ぞくじんに見えるのかな。
 A 「歌人かじん」はかつたね。
 B くびをすくめることはないぢやないか。おれもじつは最初変だと思つたよ Aは歌人かじんだ! 何んだかへんだものな。しかし歌を作つてる以上いじやうはやつぱり歌人にやちがひないよ。おれもこれから一つ君を歌人扱ひにしてやらうと思つてるんだ。
 A 御馳走ごちさうでもしてくれるのか。
 B 莫迦ばかなことを言へ。一たい歌人にしろ小説家せうせつかにしろ、すべて文学者ぶんがくしやといはれる階級かいきふに属する人間は無責任むせきにんなものだ。何をいても書いたことに責任をはない。待てよ、これは、何日いつきみから聞いた議論ぎろんだつたね。
 A どうだか。
 B どうだかつて、たしかにつたよ。文芸上ぶんげいじやうの作物はうまいにしろまづいにしろ、それがそれだけで完了してると云ふてんに於て、人生の交渉かうせふは歴史上の事柄ことがらと同じく間接だ、とか何んとか。(間)それはまあどうでも可いが、かくおれは今後無責任むせきにんを君の特権としてみとめて置く。特待生とくたいせいだよ。
 A ゆるしてくれ。おれは何よりもその特待生がきらひなんだ。何日だつけ北海道ほくかいだうへ行く時青森からふねに乗つたら、船の事務長じむちやうが知つてるやつだつたものだから、三等の切符きつぷを持つてるおれを無理矢理むりやりに一等室に入れたんだ。しつだけならまだいが、食事の時間じかんになつたらボーイをこしてとうとう食堂まで引張ひつぱり出された。あんなに不愉快ふゆくわいな飯を食つたことはない。
 B それは三とうの切符をつてゐた所為せゐだ。一等の切符さへ有れああたり前ぢやないか。
 A 莫迦ばかを言へ。人間はみな赤切符あかきつぷだ。
 B 人間は皆赤切符! やつぱりはなせるな。おれが飯屋めしやへ飛び込んで空樽あきだる腰掛こしかけるのもそれだ。
 A 何だい、うまいものうまい物つてふから何を食ふのかとおもつたら、一ぜん飯屋めしやへ行くのか。
 B かみは精養軒の洋食からしもは一膳飯、牛飯、大道の焼鳥やきとりに至るさ。飯屋めしやにだつてうまい物はるぜ。先刻さつき来る時はとろろめしを食つてた。
 A あさには何を食ふ。
 B 近所きんじよにミルクホールが有るから其処そこへ行く。君の歌も其処そこで読んだんだ。何でも雑誌ざつしをとつてるうちだからね。(問)さうさう、君は何日いつか短歌がほろびるとおれにつたことがあるね。此頃その短歌滅亡論たんかめつばうろんといふ奴が流行つて来たぢやないか。
 A 流行はやるかね。おれのんだのは尾上柴舟おのへさいしうといふ人の書いたのだけだ。
 B さうさ。おれのんだのもそれだ。しかし一人が言ひ出す時分じぶんにや十人か五人はおなじ事をかんがへてるもんだよ。
 A あれは尾上といふひとの歌そのものがきづまつて来たといふ事実に立派りつぱ裏書うらがきをしたものだ。
 B なにを言ふ。そんなら君があの議論ぎろんとなへた時は、君の歌が行きづまつたときだつたのか。
 A さうさ。うたばかりぢやない、なにもかも行きづまつたときだつた。
 B しかしあれには色色理屈りくつが書てあつた。
 A 理屈はなんにでもくさ。ただ世の中のことは一つだつて理屈りくつによつて推移すゐいしてゐないだけだ。たとへば、近頃の歌は何首或は何十首を、一首一首引きいて見ないで全体として見るやうな傾向かたむきになつて来た。そんなら何故なぜそれらをはじめから一つとしてあらはさないか。一一分解ぶんかいして現す必要が何処にあるか、とあれにいてあつたね。一おうもつともに聞えるよ。しかしあの理屈りくつに服従すると、人間にんげんは皆死ぬ間際まで待たなければ何もけなくなるよ。歌はー文学は作家さくかの個人性の表現へうげんだといふことをせまく解釈してるんだからね。かりに今夜なら今夜こんやのおれのあたま調子てうしを歌ふにしてもだね。なるほどひとばんのことだから一つにまとめて現した方が都合は可いかも知れないが、一時間じかんは六十分で、一分は六十べうだよ。連続はしてゐるが初めから全体になつてゐるのではない。きれざれにあたまに浮んで来る感じをあとから後からときれぎれにうたつたつて何も差支さしつかへがないぢやないか。一つにまとめる必要が何処どこにあると言ひたくなるね。
 B きみはさうすつと歌は永久えいきうほろびないと云ふのか。
 A おれは永久といふ言葉ことばきらひだ。
 B 永久えいきうでなくてもい。兎に角まだまだ歌は長生ながいきすると思ふのか。
 A 長生ながいきはする。昔から人生五十といふが、それでも八十位まできる人は沢山たくさんある。それと同じ程度ていどの長生はする。しかしぬ。
 B 何日いつになつたら八十になるだらう。
 A 日本の国語こくごとう一される時さ。
 B もう大分とう一されかかつてゐるぜ。小説せうせつはみんな時代語になつた。小学校の教科書けうくわしよと詩も半分はなつて来た。新聞しんぶんにだつて三分の一は時代語じだいごで書いてある。せんしてローマ字を使つかふ人さへある。
 A それだけ混乱こんらんしてゐたら沢山たくさんぢやないか。
 B うむ。さうすつとまだまだか。
 A まだまだ。日本にほんは今三分の一までたところだよ。なにもかも三分の一だ。所謂いはゆる古い言葉と今の口語とくらべて見てもわかる。正確に違つてたのは、「なり」「なりけり」と「だ」「である」だけだ。それもまだまだ文章の上では併用へいやうされてゐる。音文字おんもじが採用されて、それであらはすに不便な言葉がみんな淘汰たうたされる時がなくちや歌はなない。
 B 気長きながい事を言ふなあ。君は元来性急せつかちな男だつたがなあ。
 A あまり性急せつかちだつたおかげで気長になつたのだ。
 B さとつたね。
 A 絶望ぜつばうしたのだ。
 B しかしかく今の我我の言葉ことばが五とか七とかいふ調子てうしを失つてるのは事実じじつぢやないか。
 A 「いかにさびしきなるぞや。」「なんてさびしいばんだらう。」どつちも七五調てうぢやないか。
 B それはきはめて稀なれいだ。
 A むかしの人は五七調や七五調でばかりものを言つてゐたと思ふのか。莫迦ばか
 B これでもかしこいぜ。
 A とはいふものの、五と七がだんだんみだれて来てるのは事実じじつだね。玉が六にび、七が八にびてゐる。そんならそれでうたにも字あまりを使つかへば済むことだ。自分じぶんが今迄勝手に古い言葉を使つかつて来てゐて、今になつて不便ふべんだもないぢやないか。るべく現代の言葉にちかい言葉を使つて、それで三十一まとまりかねたら字あまりにするさ。それで出来できなけれあ言葉やかたふるいんでなくつてあたまが古いんだ。
 B それもさうだね。
 A のみならず、五も七もさらにことか三とか四とかにまだまだ分解ぶんかいすることが出来できる。歌の調子はまだまだ複雑ふくざつになり得る余地よちがある。昔は何日の間にか五七五、七七と二行にくことになつてゐたのを、明治になつてから一本にくことになつた。今度はあれをこわすんだね。歌には一首一首かくことなつた調子てうしがある筈だから、一首一首べつなわけ方で何行なんぎやうかに書くことにするんだね。
 B さうすると歌の前途ぜんとはなかなか多望たばうなことになるなあ。
 A 人はうたの形は小さくて不便ふべんだといふが、おれは小さいからかへつて便利だとおもつてゐる。さうぢやないか。人はだれでも、その時がぎてしまへは間もなくわすれるやうな、乃至ないしは長く忘れずにゐるにしても、それを思ひすには余り接穂つぎほがなくてとうとう一生思ひ出さずにしまふといふやうな、うちからそとからのかずかぎりなき感じを、あとから後からと常に経験けいけんしてゐる。多くの人はそれを軽蔑けいべつしてゐる。軽蔑しないまでもほとんど無関心にエスケープしてゐる。しかしいのちをあいする者はそれを軽蔑けいべつすることが出来ない。
 B てよ。ああさうか一分は六十べうなりの論法ろんぱふだね。
 A さうさ。一生に二度とはかへつて来ないいのちの一べうだ。おれはその一秒がいとしい。たゞがしてやりたくない。それをあらはすには、形が小さくて、手間暇てまひまのいらない歌が一ばん便利べんりなのだ。実際便利だからね。うたといふ詩形を持つてるといふことは、我我日本人にほんじんの少ししか持たない幸福かうふくのうちの一つだよ。(間)おれはいのちヽヽヽを愛するから歌を作る。おれ自身じしんが何よりも可愛かあいいから歌を作る。(間)しかしそのうた滅亡めつばうする。理窟りくつからでなく内部から滅亡する。しかしそれはまだまだだ、はやく滅亡すれば可いとおもふがまだまだだ。(間)日本にほんはまだ三分の一だ。
 B いのちヽヽヽを愛するつてのは可いね。きみは君のいのちヽヽヽあいして歌を作り、おれはおれのいのちヽヽヽあいしてうまい物を食つてあるく。たね。
 A (間)おれはしかし、本当ほんたうのところはおれに歌なんか作らせたくない。
 B どういふ意味いみだ。君はやつぱり歌人かじんだよ。歌人だつていぢやないか。しつかりやるさ。
 A おれはおれにうたを作らせるよりも、もつとふかくおれをあいしてゐる。
 B わからんな。
 A わからんかな。(間)しかしこれは言葉ことばでいふとくつまらんことになる。
 B うたのやうな小さいものに全生命ぜんせいめいを託することが出来できないといふのか。
 A おれは初めから歌に全生命をたくさうと思つたことなんかない。(間)なんにだつて全生命ぜんせいめいを託することが出来るもんか。(間)おれはおれをあいしてはゐるが、其のおれ自身じしんだつてあまり信用しんようしてはゐない。
 B (やや突然とつぜんに) おい、飯食ひに行かんか。(間、独語どくごするやうに。)おれもはらのへつた時はそんな気持きもちのすることがあるなあ。






      歌のいろいろ


               (一)

日毎ひごとに集つて来る投書のうたんでゐて、ひよいとめうな事を考へさせられることがある。ー此処こゝに作者その人に差障さしさはりを及ぼさない範囲はんゐに於て一二の例を挙げて見るならば、此頃このごろになつてやうやく手を着けた十月ちう到着たうちやくの分の中に、神田の某君なにがしくんといふひとの半紙ふたをりへ横に二十首の歌をいて、『我目下の境遇』と題を付けたのがあつた。
んでゐて私は不思議に思つた。それは歌の上手じやうずためではない。歌は字とともむしまづかつた。またその歌つてあることの特にめづらしい為でもなかつた。私を不思議ふしぎに思はせたのは、脱字だつじの多いことである。誤字ごじ仮名かなちがひは何百といふ投書家のうちに随分やるひとがある。むしろ驚くくらゐある。然し恁麼こんな脱字だつじおほいのは滅多にない。らぬこととは思ひながら数へてみると、二十首の中に七箇所の脱字だつじがあつた。三首に一箇所かしよの割合である。
〇歌つてある歌には、母が病気になつて秋風がいてたといふのがあつた。僻心ひがみごゝろを起すのは悪い悪いと思ひながら何時いつしかそれくせになつたといふのがあつた。十八のとしから生活の苦しみをつたといふのがあつた。やすらかに眠つてゐる母の寝顔を見ればなみだが流れるといふのがあつた。おとゝ無邪気むじやきなのをいたんでゐる歌もあつた。かねといふものに数々かずかずうらみを言つてゐるのもあつた。終日しうじつの仕事の疲れといふことを歌つたのもあつた。
某君なにがしくんは一たい粗忽そゝつかしい人なのだらうか?小学校にゐた頃から脱字だつじをしたり計数けいすうを間違つたり、忘れ物をするくせのあつた人なのだらうか?ー恁麼こんなことうてみるからが既に勝手かつてな、作者に対して失礼な推量で、したがつてその答へもまた勝手かつてな推量に過ぎないのだが、私には何うもさうは思へなかつた。進むべき路を進みかねて境遇きやうぐう犠牲ぎせいとなつた人の、その心に消しがたき不平が有れば有る程、元気げんきも顔色も人先ひとさきおとろへて、幸運かううんな人がこれから初めて世の中に打つて出ようといふ歳頃としごろに、はやすでしがたき神経衰弱におちいつてゐる例は、私の知つてゐる範囲にも二人ふたりや三にんではない。私は「十八のとしから生活の苦しみを知つた人」と「脱字だつじを多くするひと」とを別々に離して考へることは出来なかつた。
某君なにがしくんのこの投書は、多分何か急がしい事のある日か、心の落付かぬ程嬉しい事でもある日に書いたので、斯う脱字だつじが多かつたのだらう。さうだらうと私は思ふ。然し若し此処に私の勝手に想像さうざうしたやうな人があつて、某君なにがしくんの歌つたやうな事を誰かの前にうつたへたとしたならば、その人は果して何と答へるだらうか。
〇私は色々の場合ばあい、色々の人のそれに対する答へを想像さうざうしてた。それは皆如何にももつともな事ばかりであつた。然しそれらの叱咤しつたそれらの激励、それらの同情ははたして何れだけその不幸なる青年の境遇きやうぐうへてくれるだらうか。のみならず私は又次のやうな事も考へなければならなかつた。二十しゆの歌に七箇所かしよ脱字だつじをする程頭の悪くなつてゐるひとならば、その平生の仕事にも「脱字」が有るに達ひない。その処世しよせいじゆつにも「脱字だつじ」があるに達ひない。ー私の心はいつか又、今の諸々もろもろの美しい制度、美しい道徳をそのまゝながく我々の子孫に伝へる為には、れだけのおびたゞしい犠牲を作らねばならぬかといふ事に移つてつた。さうして泌々しみじみした心持になつて次の投書の封を切つた。

        (二)
大分だいぶ前の事である。茨城いばらきだつたか千葉ちばだつたか乃至ないしは又群馬ぐんまの方だつたか、何しろ東京とうきやうから余り遠くない県の何とかこほり何とかむら小学校内せうがくかうないなにがしといふ人から歌が来た。何日か経つての歌の中の何首なんしゆかが新聞につた。すると間もなく私は同じ人からの長い手紙をへた二度目の投書を受け取つた。
〇其の手紙は候文さふらふぶん普通文ふつうぶんとをね交ぜたやうな文体で先づ自分が「憐れなる片田舎かたゐなかの小学教師」であるといふ事から書き起してあつた。さうして自分が自分の職務に対し兎角興味を有ち得ない事、誰一人趣味を解する者△△△△△△△なき片田舎かたゐなか味気あぢきない事、さうしてる間に予々かねがね愛読してゐる朝日新聞に歌壇かだんの設けられたので空谷の跫音△△△△△おもつたといふこと、近頃は新聞が着くとづ第一に歌壇かだんを見るといふ事、いては今後分も全力を挙げて歌を研究する△△△△△△△△△△△△つもりだから宜しく頼む。今日から毎日必ず一通づゝ△△△△△△△△投書するといふ事が書いてあつた。
〇此の手紙が宛名人あてなにんたる私の心に惹起ひきおこした結果は、けだ某君なにがしくんの夢にも想はなかつた所であらうとおもふ。何故なれば、私はこれを読んでしまつた時、私の心にあきらかに一種の反感はんかんの起つてゐる事を発見したからである。詩や歌やない至は其の外の文学にたづさはることを、人間の他の諸々もろもろの活動よりも何か格段かくだんに貴い事のやうに思ふ迷信めいしんーそれは何時如何なる人の口から出るにしても私の心にある反感はんかんを呼び起さずにんだことはない。「歌を作ることを何かえらことでもするやうに思つてる、莫迦はかな奴だ。」私はさう思つた。さうして又成程なるほど自ら言ふ如く憐れなる小学教師△△△△△△△△に違ひないとおもつた。手紙には仮名違かなちがひも文法ぶんはふの違ひもあつた。
〇然しその反感はんかんも直ぐと引込まねばならなかつた。「うらやましい人だ。」といふやうな感じが軽く横合よこあひから流れて来た為めである。此の人は自分で自分を「あはれなる」と呼んではゐるが、如何にあはれで、如何にしてあはれであるかに就いて真面目に考へたことのない人、むしろさういふ考へ方をしないたちの人であることは、自分が不満足ふまんぞくなる境遇きやうぐうに在りながら全力を挙げて歌を研究しようなどとつてゐること、しかも其歌のごく平凡へいぼんな叙事叙景の歌に過ぎないこと、さうして他の営々えいえいとして刻苦こつくしてゐる村人むらびと趣味を解せぬ者△△△△△△△あざけつて僅に喜んでゐるらしいことなどに依て解つた。おのれる事、言ふ事、考へる事に対して、それをながら、言ひながら、考へながら常に一々いちいち反省はんせいせずにゐられぬ心、何事にまれ正面まともに其問題に立向つて底の底まできはめようとせずにゐられぬ心日毎々々自分自身からも世の中からも色々の不合理ふがふり矛盾むじゆんとを発見して、さうしての発見によつてかへつますます自分自身の生活に不合理と矛盾とをふかくしてく心ーさういふ心を持たぬ人に対する羨みの感は私のよく経験する所のものであつた。
〇私はとある田舎いなかの小学校の宿直室にごろごろしてゐる一人の年若としわか准訓導じゆんくんだう想像さうざうしてた。その人は真に人を怒らせるやうな悪口を一つも胸にたくはへてゐない人である。漫然として教科書にあるだけ字句じくを生徒に教へ、漫然として自分の境遇の憐れな事を是認ぜにんし、漫然まんぜんとして今後大に歌を作らうと思つてるひとである。未だかつて自分の心内乃至身辺しんへんに起る事物に対して、その根ざす処如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考へて見たことのない人である。日毎に新聞を読みながらも、我々の心を後から後からと急がせて、日毎に新しく展開てんかいしてる時代の真相に対してなん切実せつじつ興味きやうみをもつてゐない人である。私はこの人の一生に快よく口を開いて笑ふ機会が、わたしのそれよりも吃度きつと多いだらうと思つた。
〇翌日出社した時は私の頭にもう某君の事は無かつた。さうして前の日と同じ色の封筒ふうとうに同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本当に毎日投書する積なのかと心持眼を大きくして見た。其翌日も来た。其又翌日も来た。或時は投函の時間が遅れたかして一日置いての次の日に二通一しよに来たこともあつた。「また来た。」私は何時もさう思つた。意地悪い事ではあるが、私はこの人が下らない努力どりよくに何時まで飽きずにゐられるかに興味を有つて、それとはなしに毎日待つてゐた。
〇それがたしか七日か八日のあひだつゞいた。或日私は、「とうとう飽きたな。」と思つたその次の日も来なかつた。さうして其後既に二箇月、私は再び某君なにがしくんの墨のうす肩上かたあがりの字を見る機会を得ない。来ただけの歌は随分夥しい数に上つたが、ただ所謂いはゆる歌になりさうな景物けいぶつ漫然まんぜんと三十一かたちあらはしただけで、新聞に載せるほどのものは殆どなかつた。
〇私は今この事を書いてて、其後某君なにがしくんは何うしてゐるだらうと思つた。矢張新聞が着けばたゞ文芸欄や歌壇や小説許りに興味を有つて読んでゐるだらうか。漫然と歌を作り出して漫然と罷めてしまつた如く、更に又漫然と何事かを始めてゐるだらうか。私は思ふ。若し某君にて唯一つの事、例へば自分で自分を憐れだといつた事に就いてゞも、その如何に又如何にして然るかを正面に立向つて考へて、さうして其処にあるうごかすべからざる隠れたる事実を承認する時、其某君の歌は自からにして生気ある人間の歌△△△△になるであらうと。
        (三)
〇うつかりしながら家の前まで歩いて来た時、出し抜けに飼ひ犬に飛着かれて、「あゝ喫驚びつくりした。こん畜生!」と思はず知らず口に出すーといふやうな例はよく有ることだ。下らない駄酒落だじやれを言ふやうだが、人は喫驚びつくりすると悪口を吐きたがるものと見える。「こん畜生」と言はなくとも、白なら白、ポチならポチで可いではないかー若し必ず何とか言はなければならぬのならば。
〇土岐哀果君が十一月の「創作さうさく」に発表した三十何首なんしゆの歌は、この人がこれまで人の褒貶はうへん度外どぐわいに置いて一人で開拓かいたくして来た新しい畑に、漸く楽いあきの近づいててゐることを思はせるものであつた。その中に、
  やけあとの煉瓦れんぐわの上に
  Syo  ^benをすればしみじみ
  秋の気がする
といふ一しゆがあつた。好い歌だと私は思つた。(小便といふ言葉だけを態々わぎわざ羅馬ローマで書いたのは、作者の意味では多分この言葉を在来の漢字で書いた時に伴つて来る悪い連想をこばむ為であらうが、私はそんな事をする必要はあるまいと思ふ。)
〇さうすると今月になつてから、私は友人の一人から、或雑誌が特にこの歌を引いて土岐君の歌風をのゝしつてゐるといふ事を聞いた。私は意外に思つた勿論この歌が同じ作者の歌の中で最も優れた歌といふのではないが、然し何度読み返して見ても悪い歌にはならない。評者は何故この鋭い実感を承認することが出来なかつたであらうか。さう考へた時、私は前に言つた「こん畜生」の場合を思ひ合せぬ訳に行かなかつた。評者は吃度きつと歌といふものに就いてあるせまい既成概念を有つてる人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時となく歌は漸ういふもの、斯くあるべきものといふ保守的な概念を形成かたちづくつてさうしてそれにとらはれてゐる人に達ひない。其処へ生垣の隙間すきまから飼犬の飛び出したやうに、小便といふ言葉が不意に飛び出して来て、その保守的な、苟安的こうあんてきな既成概念のそでむづ、、と噛み着いたのだ。然し飼犬が主人の帰りを喜んで飛び着くに何の不思議もない如く、我々の平生使つてゐる言葉が我々の歌に入つて来たとて何も吃驚するには当らないではないか。
〇私の「やとばかり桂首相に手とられし夢みてめぬ秋の夜の二時」といふ歌も或雑誌で土岐君の小便の歌と同じ運命に会つた。もつともこの歌は、同じく実感の基礎を有しながらも桂首相を夢に見るといふ極稀ごくまれなる事実を内容に取入れてあるだけに、言ひ換へれば万人の同感を引くべく余りに限定された内容を歌つてあるだけに、小便の歌ほど歌としての存在の権利を有つてゐない事は自分でも知つてゐる。
〇故独歩はかつてその著名なる小説の一つに「驚きたい」と云ふ事を書いてあつた。その意味に於ては私は今でも驚きたくないことはない。然しそれと全く別な意味に於て、私は今「驚きたくない」と思ふ。何事にも驚かずに、眼を大きくして正面にその問題に立向ひたいとおもふ。それは小便と桂首相に就いてのみではない、又歌の事に就いてのみではない。我々日本人は特殊なる歴史を過去に有してゐるだけに、今正に殆どすべての新しい出来事に対して驚かねばならぬ境遇に在る。さうして驚いてゐる。然し日に百回「こん畜生」を連呼したとて、時計の針は一秒でも止まつてくれるだらうか。
〇歴史を尊重するは好い。然しその尊重を逆に将来に向つてまで維持しようとして一切の「驚くべき事」に手を以てふたをする時、其保守的ほしゆてきな概念を厳密に究明きうめいして来たならば、日本がかつて議会を開いた事からが先づ国体に牴触ていしよくする訳になりはしないだらうか。我々の歌の形式は万葉まんえふ以前から在つたものである。然し我々の今日の歌は何処までも我々の今日の歌である。我々の明日の歌も矢つ張り何処までも我々の明日の歌でなくてはならぬ。
        (四)
〇机の上に片肘かたひぢをついて煙草たばこを吹かしながら、私は書き物に疲れた眼を置時計の針に遊ばせてゐた。さうしてこんな事を考へてるた。ー凡そすべての事は、それが我々にとつて不便を感じさせるやうになつて来た時、我々はその不便な点に対して遠慮なく改造を試みるが可い。またさうるのが本当だ我々はひとの為に生きてゐをのではない、我々自身の為に生きてゐるのだ。
〇たとへば歌にしてもさうである。我々は既に一しゆの歌を一行に書き下すことに或不便、或不自然を感じて来た。其処でこれは歌それぞれの調子に依つて、或歌は二ぎやうに或歌は三ぎやうに書くことにすれば可い。よしそれが歌の調子てうしそのものを破ると言はれるにしてからが、その在来の調子それ自身が我々の感情にしつくりそぐはなくなつて来たのであれば、何も遠慮をする必要がないのだ。三十-文字もじといふ制限が不便な場合にはどしどし字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいふ勝手な拘束こうそくを罷めてしまつて、何に限らず歌ひたいと思つた事は自由に歌へば可い。かうしてさへ行けば、忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々せつなせつなの感じを哀惜あいせきする心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。かりに現在の三十一文字もじが四十一文字もじになり、五十一文字もじになるにしても、兎に角歌といふものはほろびない。さうして我々はそれに依つて、その刹那々々せつなせつな生命いのち哀惜あいせきする心を満足させることが出来できる。
〇こんな事を考へて、恰度ちやうど秒針べうしんが一回転する程の間、私は凝然ぢつとしてゐた。さうして自分の心が次第々々に暗くなつて行くことを感じた。ー私の不便を感じてゐるのは歌を一行に書き下す事ばかりではないのである。しかも私自身が現在に於て意のまゝに改めるもの、改め得べきものは、僅にこの机の上の置時計や硯箱やインキつぼ位置ゐちと、それから歌ぐらゐなものである。謂はゞ何うでも可いやうな事ばかりである。さうして其他の真に私に不便を感じさせ、苦痛を感じさせるいろいろの事に対しては、一をも加へることが出来ないではないか。否、それに忍従にんじゆうし、それに屈伏くつぷくして、惨ましき二重の生活を続けて行く外に此の世に生きる方法を有たないではないか。自分でも色々自分に弁解しては見るものゝ、私の生活は欠張現在の家族制度、階級制度資本制度、知識売買制度の犠牲である。
〇日を移して、死んだものゝやうに畳の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。

                土岐京果
石川は遂に死んだ。それは明治四十五年四月十三日の午前九時三十分であつた。
その四五日前のことである。金がもう無い、歌集を出すやうにしてくれ、とのことであつた。で、すぐさま東雲堂へ行つて、やつと話がまとまつた。
うけとつた金を懐にして電車に乗つてゐた時の心もちは、今だに忘れられない。一生忘れられないだらうと思ふ。
石川は非常によろこんだ。氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。
しばらくして、「それで、原稿はすぐ渡さなくてもいゝのだらうな、訂さなくちやならないところもある、癒つたらおれが整理する」と言つた。その声は、かすれて聞きとりにくかつた。
「それでもいゝが、東雲堂へはすぐ渡すといつておいた、」と言ふと、「さうか」と、しばらく目を閉ぢて、無言でゐた。
やがて、枕もとにゐた夫人の節子さんに、「おい、そこのノートをとつてくれ、ーその陰気な、」とすこし上を向いた。ひどく痩せたなアと、その時僕はおもつた。
「どのくらゐある?」と石川は節子さんに訊いた。一ページに四首つゝで五十頁あるから四五の二百首ばかりだと答へると、「どれ、」と、石川は、その、灰色のラシャ帋の表帋をつけた中版のノートをうけとつて、ところど披いたが、「さうか。では、万事よろしくたのむ。」と言つて、それを僕に渡した。
それから石川は、全快したら、これこれのことをすると、苦しさうに、しかし、笑ひながら語つた。
かへりがげに、石川は、襖を閉めかけた僕を「おい呼びとめた。立つたまゝ「何だい」と訊くと、「おいこれからも、たのむぞ、」と言つた。
これが僕の石川に物をいはれた最後であつた。
石川は死ぬ、さうは思つてゐたが、いよいよ死んで、あとの事を僕がするとなると、実に変な気がする。
石川について、言ふとなると、あれもこれも言はなければならない。しかし、まだ、あまり言ひたくない。もつと、じつとだまつて、かんがへてゐたい。実際、石川の、二十八年の一生をかんがへるには、僕の今までがあまりに貧弱に思ほれてならないのである。
しかし、この歌集のことについては、も少し書いておく必要がある。
これに収めたのは、大てい雑誌や新聞に掲げたものである。しかし、ここにはすべて「陰気」なノートに依つた。順序、句読、行の立て方、字を下げるところ、すべてノートのままである。たゞ最初の二首は、その後帋片に書いてあつたのを発見したから、それを入れたのである。第九十頁に一首空けてあるが、ノートに、あすこで頁が更めてあるから、それもそのまゝにした。生きてゐたら、訂したいところもあるだらうが、今では、何とも仕やうがない。
それから、「一利己主義者と友人との対話」は創作の第九号(四十三年十一月発行)に掲げたもの、「歌のいろいろ」は朝日歌壇を選んでゐた時、(四十三年十二月前後)東京朝日新聞に連載したものである。この二つを歌集の後へ附けることは、石川も承諾したことである。
表題は、ノートの第一頁に「一握の砂以後明治四十三年十一月末より」と書いてあるから、それをそのまゝ表題にしたいと思つたが、それだと「一握の砂」とまぎらはしくて困ると東雲堂でいふから、これは止むをえず、感想の最後に「歌は私の悲しい玩具である」とあるのをとつてそれを表題にした。これは節子さんにも伝へておいた。あの時、何とするか訊いておけばよかつたのであるが、あの寝姿を前にして、全快後の計画を話されてはもう、そんなことを訊けなかつた。(四十五年六月九日)


明治四十五年六月十五日印刷
明治四十五年六月二十日発行

著 者  石川 一
発行者  西村寅次郎
印刷者  岡田錬一
発行所  東雲堂書店





■このファイルについて
標題:悲しき玩具
著者:石川啄木
本文:「悲しき玩具」 明治45年6月20日発行(初版)
     精選 名著復刻全集 近代文学館   昭和57年4月1日 発行
参照:●啄木全集 第一巻 歌集
     1967年6月30日 初版第一刷発行
     1972年6月30日 初版第六刷発行
    ●啄木全集 第四巻 評論・感想
     1967年9月30日 初版第一刷発行
     1972年3月30日 初版第五刷発行
     発行所 筑摩書房
    ●直筆ノート
     昭和五十五年 啄木忌 複製
     発行  盛岡啄木会
     異同
      (1)次の二首は、直筆ノートには載っていません。
        (原稿用紙の半片に書かれています。)

1
呼吸すれば、
胸の中にてる音あり。
 こがらしよりもさびしきその音!
2
眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
 さびしくもまた眼をあけるかな。



      (2)最後の194首目の後に、次のような歌の断片が書かれています。

大股に縁側を歩けば、



表記:原文の表記を尊重しますが、読みやすさに配慮して、以下のように扱います。

○旧字体は、現行の新字体に変えました。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。
○本文のかなづかいは、底本通りとしました。
○底本通り総ルビをふりました。
○歌と歌の間に「*」がありますが、省略しました。
○原文で使われているく形(\/)の反復記号は用いず、同語反復で表記しました。
○歌番号を追加しました。
○行間処理(行間250%)を行いました。

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2005年4月20日 里実文庫