一 握 の 砂  石川啄木著  東雲堂版 世の中には途法も無い仁〔じん〕もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途法も無い処が即ち新の新たる極意かも知れん。 定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手当り次第に繰り展げた処が、   高きより飛び下りるごとき心もて   この一生を   終るすべなきか 此ア面白い、ふソ此の刹那の心を常住に持することが出来たら、至極ぢや。面白い処に気が着いたものぢや、面白く言ひまはしたものぢや。   非凡なる人のごとくにふるまへる   後のさびしさは   何にかたぐへむ いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覚えずに過す人が、所謂当節の成功家ぢや。   何処やらに沢山の人が争ひて   鬮引くごとし   われも引きたし 何にしろ大混雑のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大概は空鬮〔からくじ〕ぢや。   何がなしにさびしくなれば   出てあるく男となりて   三月にもなれり   とある日に   酒をのみたくてならぬごとく   今日われ切に金を欲りせり   怒る時   かならずひとつ鉢を割り   九百九十九割りて死なまし   腕拱みて   このごろ思ふ   大いなる敵目の前に曜り出でよと   目の前の菓子皿などを   かりかりと噛みてみたくなりぬ   もどかしきかな   鏡とり   能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ   泣き飽きし時   こころよく   我にはたらく仕事あれ   それを仕達げて死なむと思ふ   よごれたる足袋穿く時の   気味わるき思ひに似たる   思出もあり さうぢや、そんなことがある、斯ういふ様な想ひは、俺にもある。二三十年もかけはなれた比の著者と比の読者との間にすら共通の感ぢやから、定めし総ての人にもあるのぢやらう。然る処俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見てこれぢや、もつと面白い歌が比の集中に満ちて居るに違ひない。そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合点して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い淮にも承知の出来る歌も亦当節新発明に為つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。     犬の年の大水後                藪 野 椋 十       函館なる郁雨宮崎大四郎君       同国の友文学士花明金田一京助君 この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。 また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。                                     著 者 明治四十一年夏以後の作一千余首中よ り五百五十一首を抜きてこの集に収 む。集中五章、感興の来由するところ 相邇きをたづねて仮にわかてるのみ。 「秋風のこころよさに」は明治四十一 年秋の紀念なり。 目次 我を愛する歌……………………一 煙………………………………七九 秋風のこころよさに………一三三
忘れが炊き人人……………一六一
手套を脱ぐ時………………二三一   我を愛する歌 東海〔とうかい〕の小島〔こじま〕の磯〔いそ〕の白砂〔しらすな〕に われ泣〔な〕きぬれて 蟹〔かに〕とたはむる 頬〔ほ〕につたふ なみだのごはず 一握〔いちあく〕の砂〔すな〕を示〔しめ〕しし人〔ひと〕を忘〔わす〕れず 大海〔だいかい〕にむかひて一人〔ひとり〕 七八日〔ななやうか〕 泣〔な〕きなむとすと家〔いへ〕を出〔い〕でにき いたく錆〔さ〕びしピストル出〔い〕でぬ 砂山〔すなやま〕の 砂〔すな〕を指〔ゆび〕もて掘〔ほ〕りてありしに ひと夜〔よ〕さに嵐〔あらし〕来〔きた〕りて築〔きづ〕きたる この砂山〔すなやま〕は 何〔なに〕の墓〔はか〕ぞも 砂山〔すなやま〕の砂〔すな〕に腹這〔はらば〕ひ 初恋〔はつこひ〕の いたみを遠〔とほ〕くおもひ出〔い〕づる日〔ひ〕 砂山〔すなやま〕の裾〔すそ〕によこたはる流木〔りうぼく〕に あたり見〔み〕まはし 物〔もの〕言〔い〕ひてみる いのちなき砂〔すな〕のかなしさよ さらさらと 握〔にぎ〕れば指〔ゆび〕のあひだより落つ しつとりと なみだを吸〔す〕へる砂〔すな〕の玉〔たま〕 なみだは重〔おも〕きものにしあるかな 大〔だい〕という字〔じ〕を百〔ひやく〕あまり 砂〔すな〕に書〔か〕き 死〔し〕ぬことをやめて帰〔かへ〕り来〔きた〕れり 目〔め〕さまして猶〔なほ〕起〔お〕き出〔い〕でぬ児〔こ〕の癖〔くせ〕は かなしき癖〔くせ〕ぞ 母〔はは〕よ咎〔とが〕むな ひと塊〔くれ〕の土〔つち〕に涎〔よだれ〕し 泣〔な〕く母〔はは〕の肖顔〔にがほ〕つくりぬ かなしくもあるか 燈影〔ほかげ〕なき室〔しつ〕に我〔われ〕あり 父〔ちち〕と母〔はは〕 壁〔かべ〕のなかより杖〔つゑ〕つきて出〔い〕づ たはむれに母〔はは〕を背負〔せお〕ひて そのあまり軽〔かろ〕きに泣〔な〕きて 三〔さん〕歩〔ぽ〕あゆまず 飄然〔へうぜん〕と家〔いへ〕を出〔い〕でては 飄然〔へうぜん〕と帰〔かえ〕りし癖〔くせ〕よ 友〔とも〕はわらへど ふるさとの父〔ちち〕の咳〔せき〕する度〔たび〕に斯〔か〕く 咳〔せき〕の出〔い〕づるや 病〔や〕めばはかなし わが泣〔な〕くを少女等〔をとめら〕きかば 病犬〔やまいぬ〕の 月〔つき〕に吠〔ほ〕ゆるに似〔に〕たりといふらむ 何処〔いづく〕やらむかすかに虫〔むし〕のなくごとき こころ細〔ぼそ〕さを 今日〔けふ〕もおぼゆる いと暗〔くら〕き 穴〔あな〕に心〔こころ〕を吸〔す〕はれゆくごとく思〔おも〕ひて つかれて眠〔ねむ〕る こころよく 我〔われ〕にはたらく仕事〔しごと〕あれ それを仕遂〔しと〕げて死〔し〕なむと思〔おも〕ふ こみ合〔あ〕へる電車〔でんしや〕の隅〔すみ〕に ちぢこまる ゆふべゆふべの我〔われ〕のいとしさ 浅草〔あさくさ〕の夜〔よ〕のにぎはひに まぎれ入〔い〕り まぎれ出〔い〕で来〔き〕しさびしき心〔こころ〕 愛犬〔あいけん〕の耳〔みみ〕斬〔き〕りてみぬ あはれこれも 物〔もの〕に倦〔う〕みたる心〔こころ〕にかあらむ 鏡〔かがみ〕とり 能〔あた〕ふかぎりのさまざまの顔〔かほ〕をしてみぬ 泣〔な〕き飽〔あ〕きし時〔とき〕 なみだなみだ 不思議〔ふしぎ〕なるかな それをもて洗〔あら〕へば心〔こころ〕戯〔おど〕けたくなれり 呆〔あき〕れたる母〔はは〕の言葉〔ことば〕に 気〔き〕がつけば 茶碗〔ちやわん〕を箸〔はし〕もて敲〔たた〕きてありき 草〔くさ〕に臥〔ね〕て おもふことなし わが額〔ぬか〕に糞〔ふん〕して鳥〔とり〕は空〔そら〕に遊〔あそ〕べり わが髭〔ひげ〕の 下向〔したむ〕く癖〔くせ〕がいきどほろし このごろ憎〔にく〕き男〔をとこ〕に似〔に〕たれば 森〔もり〕の奥〔おく〕より銃声〔じうせい〕聞〔きこ〕ゆ あはれあはれ 自〔みづか〕ら死〔し〕ぬる音〔おと〕のよろしさ 大木〔たいぼく〕の幹〔みき〕に耳〔みみ〕あて 小半日〔こはんにち〕 堅〔かた〕き皮〔かわ〕をばむしりてありき 「さばかりの事〔こと〕に死〔し〕ぬるや」 「さばかりの事〔こと〕に生〔い〕くるや」 止〔よ〕せ止〔よ〕せ問答〔もんだふ〕 まれにある この平〔たひら〕なる心〔こころ〕には 時計〔とけい〕の鳴〔な〕るもおもしろく聴〔き〕く ふと深〔ふか〕き怖〔おそ〕れを覚〔おぼ〕え ぢつとして やがて静〔しづ〕かに臍〔ほそ〕をまさぐる 高山〔たかやま〕のいただきに登〔のぼ〕り なにがなしに帽子〔ばうし〕をふりて 下〔くだ〕り来〔き〕しかな 何処〔どこ〕やらに沢山〔たくさん〕の人〔ひと〕があらそひて 鬮〔くじ〕引〔ひ〕くごとし われも引〔ひ〕きたし 怒〔いか〕る時〔とき〕 かならずひとつ鉢〔はち〕を割〔わ〕り 九百九十九〔くひやくくじふく〕割〔わ〕りて死〔し〕なまし いつも逢〔あ〕ふ電車〔でんしや〕の中〔なか〕の小男〔こをとこ〕の 稜〔かど〕ある眼〔まなこ〕 このごろ気〔き〕になる 鏡屋〔かがみや〕の前〔まへ〕に来〔き〕て ふと驚〔おどろ〕きぬ 見〔み〕すぼらしげに歩〔あゆ〕むものかも 何〔なに〕となく汽車〔きしや〕に乗〔の〕りたく思〔おも〕ひしのみ 汽車〔きしや〕を下〔お〕りしに ゆくところなし 空家〔あきや〕に入〔い〕り 煙草〔たばこ〕のみたることありき あはれただ一人居〔ゐ〕たきばかりに 何〔なに〕がなしに さびしくなれば出〔で〕てあるく男〔をとこ〕となりて 三月〔みつき〕にもなれり やはらかに積〔つも〕れる雪〔ゆき〕に 熱〔ほ〕てる頬〔ほ〕を埋〔うづ〕むるごとき 恋〔こひ〕してみたし かなしきは 飽〔あ〕くなき利己〔りこ〕の一念〔いちねん〕を 持〔も〕てあましたる男〔をとこ〕にありけり 手〔て〕も足〔あし〕も 室〔へや〕いつぱいに投〔な〕げ出〔だ〕して やがて静〔しず〕かに起〔お〕きかへるかな 百年〔ももとせ〕の長〔なが〕き眠〔ねむ〕りの覚〔さ〕めしごと 呿呻〔あくび〕してまし 思〔おも〕ふことなしに 腕〔うで〕拱〔く〕みて このごろ思〔おも〕ふ 大〔おほ〕いなる敵〔てき〕目〔め〕の前〔まえ〕に躍〔をど〕り出〔い〕でよと 手〔て〕が白〔しろ〕く 且〔か〕つ大〔だい〕なりき 非凡〔ひぼん〕なる人〔ひと〕といはるる男〔をとこ〕に会〔あ〕ひしに こころよく 人〔ひと〕を讃〔ほ〕めてみたくなりにけり 利己〔りこ〕の心〔こころ〕に倦〔う〕めるさびしさ 雨〔あめ〕降〔ふ〕れば わが家〔いへ〕の人〔ひと〕誰〔たれ〕も誰〔たれ〕も沈〔しづ〕める顔〔かほ〕す 雨〔あめ〕霽〔は〕れよかし 高〔たか〕きより飛〔と〕びおりるごとき心〔こころ〕もて この一生〔いつしやう〕を 終〔おわ〕るすべなきか この日頃〔ひごろ〕 ひそかに胸〔むね〕にやどりたる悔〔くい〕あり われを笑〔わら〕はしめざり へつらひを聞〔き〕けば 腹立〔はらだ〕つわがこころ あまりに我〔われ〕を知〔し〕るがかなしき 知〔し〕らぬ家〔いへ〕たたき起〔おこ〕して 遁〔に〕げ来〔く〕るがおもしろかりし 昔〔むかし〕の恋〔こひ〕しさ 非凡〔ひぼん〕なる人〔ひと〕のごとくにふるまへる 後〔のち〕のさびしさは 何〔なに〕にかたぐへむ 大〔おほ〕いなる彼〔かれ〕の身体〔からだ〕が 憎〔にく〕かりき その前〔まへ〕にゆきて物〔もの〕を言〔い〕ふ時〔とき〕 実務〔じつむむ〕には役〔やく〕に立〔た〕たざるうた人〔びと〕と 我〔われ〕を見〔み〕る人〔ひと〕に 金〔かね〕借〔か〕りにけり 遠〔とほ〕くより笛〔ふえ〕の音〔ね〕きこゆ うなだれてある故〔ゆゑ〕やらむ なみだ流〔なが〕るる それもよしこれもよしとてある人〔ひと〕の その気〔き〕がるさを 欲〔ほ〕しくなりたり 死〔し〕ぬことを 持薬〔ぢやく〕をのむがごとくにも我〔われ〕はおもへり 心〔こころ〕いためば 路傍〔みちばた〕に犬〔いぬ〕ながながと呿呻〔あくび〕しぬ われも真似〔まね〕しぬ うらやましさに 真剣〔しんけん〕になりて竹〔たけ〕もて犬〔いぬ〕を撃〔う〕つ 小児〔せうに〕の顔〔かほ〕を よしと思〔おも〕へり ダイナモの 重〔おも〕き唸〔うな〕りのここちよさよ あはれこのごとく物〔もの〕を言〔い〕はまし 剽軽〔へうきん〕の性〔さが〕なりし友〔とも〕の死顔〔しにがほ〕の 青〔あお〕き疲〔つか〕れが いまも目〔め〕にあり 気〔き〕の変〔かは〕る人〔ひと〕に仕〔つか〕へて つくづくと わが世〔よ〕がいやになりにけるかな 龍〔りよう〕のごとくむなしき空〔そら〕に躍〔をど〕り出〔い〕でて 消〔き〕えゆく煙〔けむり〕 見〔み〕れば飽〔あ〕かなく こころよき疲〔つか〕れなるかな 息〔いき〕もつかず 仕事〔しごと〕をしたる後〔のち〕のこの疲〔つか〕れ 空寝入〔そらねいり〕生呿呻〔なまあくび〕など なぜするや 思〔おも〕ふこと人〔ひと〕にさとらせぬため 箸〔はし〕止〔と〕めてふつと思〔おも〕ひぬ やうやくに 世〔よ〕のならはしに慣〔な〕れにけるかな 朝〔あさ〕はやく 婚期〔こんき〕を過〔す〕ぎし妹〔いもうと〕の 恋文〔こひぶみ〕めける文〔ふみ〕を読〔よ〕めりけり しつとりと 水〔みず〕を吸〔す〕ひたる海綿〔かいめん〕の 重〔おも〕さに似〔に〕たる心地〔ここち〕おぼゆる 死〔し〕ね死〔し〕ねと己〔おのれ〕を怒〔いか〕り もだしたる 心〔こころ〕の底〔そこ〕の暗〔くら〕きむなしさ けものめく顔〔かほ〕あり口〔くち〕をあけたてす とのみ見〔み〕てゐぬ 人〔ひと〕の語〔かた〕るを 親〔おや〕と子〔こ〕と はなればなれの心〔こころ〕もて静〔しず〕かに対〔むか〕ふ 気〔き〕まづきや何〔な〕ぞ かの船〔ふね〕の かの航海〔かうかい〕の船客〔せんかく〕の一人〔ひとり〕にてありき 死〔し〕にかねたるは 目〔もく〕の前〔めのまえ〕の菓子〔かし〕皿〔さら〕〔くわしざら〕などを かりかりと噛〔か〕みてみたくなりぬ もどかしきかな よく笑〔わら〕ふ若〔わか〕き男〔をとこ〕の 死〔し〕にたらば すこしはこの世〔よ〕さびしくもなれ 何〔なに〕がなしに 息〔いき〕きれるまで駆〔か〕け出〔だ〕してみたくなりたり 草原〔くさはら〕などを あたらしき背広〔せびろ〕など着〔き〕て 旅〔たび〕をせむ しかく今年〔ことし〕も思〔おも〕ひ過〔す〕ぎたる ことさらに燈火〔ともしび〕を消〔け〕して まぢまぢと思〔おも〕ひてゐしは わけもなきこと 浅草〔あさくさ〕の凌雲閣〔りよううんかく〕のいただきに 腕組〔うでく〕みし日〔ひ〕の 長〔なが〕き日記〔にき〕かな 尋常〔じんじやう〕のおどけならむや ナイフ持〔も〕ち死〔し〕ぬまねをする その顔〔かほ〕その顔〔かほ〕 こそこその話〔はなし〕がやがて高〔たか〕くなり ピストル鳴りて 人生〔じんせい〕終〔をは〕る 時〔とき〕ありて 子供〔こども〕のやうにたはむれす 恋〔こひ〕ある人〔ひと〕のなさぬ業〔わざ〕かな とかくして家〔いへ〕を出〔い〕づれば 日光〔につくわう〕のあたたかさあり 息〔いき〕ふかく吸ふ つかれたる牛〔うし〕のよだれは たらたらと 千万〔せんまんねん〕年も尽〔つ〕きざるごとし 路傍〔みちばた〕の切石〔きりいし〕の上〔うへ〕に 腕〔うで〕拱〔く〕みて 空〔そら〕を見上〔みあ〕ぐる男〔をとこ〕ありたり 何〔なに〕やらむ 穏〔おだや〕かならぬ目付〔めつき〕して 鶴嘴〔つるはし〕を打〔う〕つ群〔むれ〕を見〔み〕てゐる 心〔こころ〕より今日〔けふ〕は逃〔に〕げ去〔さ〕れり 病〔やまひ〕ある獣〔けもの〕のごとき 不平〔ふへい〕逃〔に〕げ去〔さ〕れり おほどかの心〔こころ〕来〔きた〕れり あるくにも 腹〔はら〕に力〔ちから〕のたまるがごとし ただひとり泣〔な〕かまほしさに 来〔き〕て寝〔ね〕たる 宿屋〔やどや〕の夜具〔やぐ〕のこころよさかな 友〔とも〕よさは 乞食〔こじき〕の卑〔いや〕しさ厭〔いと〕ふなかれ 餓〔う〕ゑたる時〔とき〕は我〔われ〕も爾〔しか〕りき 新〔あたら〕しきインクのにほひ 栓〔せん〕抜〔ぬ〕けば 餓〔う〕ゑたる腹〔はら〕に沁〔し〕むがかなしも かなしきは 喉〔のど〕のかわきをこらへつつ 夜寒〔よざむ〕の夜具〔やぐ〕にちぢこまる時〔とき〕 一度〔いちど〕でも我〔われ〕に頭〔あたま〕を下〔さ〕げさせし 人〔ひと〕みな死〔し〕ねと いのりてしこと 我〔われ〕に似〔に〕し友〔とも〕の二人〔ふたり〕よ 一人〔ひとり〕は死〔し〕に 一人〔ひとり〕は牢〔らう〕を出〔い〕でて今〔いま〕病〔や〕む あまりある才〔さい〕を抱〔いだ〕きて 妻〔つま〕のため おもひわづらふ友〔とも〕をかなしむ 打明〔うちあ〕けて語〔かた〕りて 何〔なに〕か損〔そん〕をせしごとく思〔おも〕ひて 友〔とも〕とわかれぬ どんよりと くもれる空〔そら〕を見〔み〕てゐしに 人〔ひと〕を殺〔ころ〕したくなりにけるかな 人並〔ひとなみ〕の才〔さい〕に過〔す〕ぎざる わが友〔とも〕の 深〔ふか〕き不平〔ふへい〕もあはれなるかな 誰〔たれ〕が見〔み〕てもとりどころなき男〔をとこ〕来〔き〕て 威張〔ゐば〕りて帰〔かへ〕りぬ かなしくもあるか はたらけど はたらけど猶〔なほ〕わが生活〔くらし〕楽〔らく〕にならざり ぢつと手〔て〕を見〔み〕る 何〔なに〕もかも行末〔ゆくすゑ〕の事〔こと〕みゆるごとき このかなしみは 拭〔ぬぐ〕ひあへずも とある日〔ひ〕に 酒〔さけ〕をのみたくてならぬごとく 今〔けふ〕われ切〔せち〕に金〔かね〕を欲〔ほ〕りせり 水晶〔すゐしやう〕の玉〔たま〕をよろこびもてあそぶ わがこの心〔こころ〕 何〔なに〕の心〔こころ〕ぞ 事〔こと〕もなく 且〔か〕つこころよく肥〔こ〕えてゆく わがこのごろの物〔もの〕足〔た〕らぬかな 大〔おお〕いなる水晶〔すゐしやう〕の玉〔たま〕を ひとつ欲〔ほ〕し それにむかひて物〔もの〕を思〔おも〕はむ うぬ惚〔ぼ〕るる友〔とも〕に 合槌〔あひづち〕うちてゐぬ 施与〔ほどこし〕をするごとき心〔こころ〕に ある朝〔あさ〕のかなしき夢〔ゆめ〕のさめぎはに 鼻〔はな〕に入〔い〕り来〔き〕し 味噌〔みそ〕を煮〔に〕る香〔か〕よ こつこつと空地〔あきち〕に石〔いし〕をきざむ音〔おと〕 耳〔みみ〕につき来〔き〕ぬ 家〔いへ〕に入〔い〕るまで 何〔なに〕がなしに 頭〔あたま〕のなかに崖〔がけ〕ありて 日毎〔ひごと〕〔ひごと〕に土〔つち〕のくづるるごとし 遠方〔ゑんぱう〕に電話〔でんわ〕の鈴〔りん〕の鳴〔な〕るごとく 今日〔けふ〕も耳〔みみ〕鳴〔な〕る かなしき日〔ひ〕かな 垢〔あか〕じみし袷〔あはせ〕の襟〔えり〕よ かなしくも ふるさとの胡桃〔くるみ〕焼〔や〕くるにほひす 死〔し〕にたくてならぬ時〔とき〕あり はばかりに人目〔ひとめ〕を避〔さ〕けて 怖〔こは〕き顔〔かほ〕する 一〔いつ〕隊〔たい〕の兵〔へい〕を見送〔みおく〕りて かなしかり 何〔なに〕ぞ彼等〔かれら〕のうれひ無〔な〕げなる 邦人〔くにびと〕の顔〔かほ〕たへがたく卑〔いや〕しげに 目〔め〕にうつる日〔ひ〕なり 家〔いへ〕にこもらむ この次〔つぎ〕の休日〔やすみ〕に一日〔いちにち〕寝〔ね〕てみむと 思〔おも〕ひすごしぬ 三年〔みとせ〕このかた 或〔あ〕る時〔とき〕のわれのこころを 焼〔や〕きたての 麺麭〔ぱん〕に似〔に〕たりと思〔おも〕ひけるかな たんたらたらたんたらたらと 雨滴〔あまだれ〕が 痛〔いた〕むあたまにひびくかなしさ ある日〔ひ〕のこと 室〔へや〕の障子〔しやうじ〕をはりかへぬ その日〔ひ〕はそれにて心〔こころ〕なごみき かうしては居〔を〕られずと思〔おも〕ひ 立〔た〕ちにしが 戸外〔おもて〕に馬〔うま〕の嘶〔いなな〕きしまで 気〔き〕ぬけして廊下〔らうか〕に立〔た〕ちぬ あららかに扉〔ドア〕を推〔お〕せしに すぐ開〔あ〕きしかば ぢつとして 黒〔くろ〕はた赤〔あか〕のインク吸〔す〕ひ 堅〔かた〕くかわける海綿〔かいめん〕を見〔み〕る 誰〔たれ〕が見〔み〕ても われをなつかしくなるごとき 長〔なが〕き手紙〔てがみ〕を書〔か〕きたき夕〔ゆふべ〕 うすみどり 飲〔の〕めば身体〔からだ〕が水〔みづ〕のごと透〔す〕きとほるてふ 薬〔くすり〕はなきか いつも睨〔にら〕むラムプに飽〔あ〕きて 三日〔みか〕ばかり 蝋燭〔らふそく〕の火〔ひ〕にしたしめるかな 人間〔にんげん〕のつかはぬ言葉〔ことば〕 ひよつとして われのみ知〔し〕れるごとく思〔おも〕ふ日〔ひ〕 あたらしき心〔こころ〕もとめて 名〔な〕も知〔し〕らぬ 街〔まち〕など今日〔けふ〕もさまよひて来〔き〕ぬ 友〔とも〕がみなわれよりえらく見〔み〕ゆる日〔ひ〕よ 花〔はな〕を買〔か〕ひ来〔き〕て 妻〔つま〕としたしむ 何〔なに〕すれば 此処〔ここ〕に我〔われ〕ありや 時〔とき〕にかく打驚〔うちおどろ〕きて室〔へや〕を眺むる 人〔ひと〕ありて電車〔でんしや〕のなかに唾〔つば〕を吐〔は〕く それにも 心〔こころ〕いたまむとしき 夜明〔よあ〕けまであそびてくらす場所〔ばしよ〕が欲〔ほ〕し 家〔いへ〕をおもへば こころ冷〔つめ〕たし 人〔ひと〕みなが家〔いへ〕を持〔も〕つてふかなしみよ 墓〔はか〕に入〔い〕るごとく かへりて眠〔ねむ〕る 何〔なに〕かひとつ不思議〔ふしぎ〕を示〔しめ〕し 人〔ひと〕みなのおどろくひまに 消〔き〕えむと思〔おも〕ふ 人〔ひと〕といふ人〔ひと〕のこころに 一人〔ひとり〕づつ囚人〔しうじん〕がゐて うめくかなしさ 叱〔しか〕られて わつと泣〔な〕き出〔だ〕す子供心〔こどもごころ〕 その心〔こころ〕にもなりてみたきかな 盗〔ぬす〕むてふことさへ悪〔あ〕しと思〔おも〕ひえぬ 心〔こころ〕はかなし かくれ家〔が〕もなし 放〔はな〕たれし女〔をんな〕のごときかなしみを よわき男〔をとこ〕の 感〔かん〕ずる日〔ひ〕なり 庭石〔にはいし〕に はたと時計〔とけい〕をなげうてる 昔〔むかし〕のわれの怒〔いか〕りいとしも 顔〔かほ〕あかめ怒〔いか〕りしことが あくる日〔ひ〕は さほどにもなきをさびしがるかな いらだてる心〔こころ〕よ汝〔なれ〕はかなしかり いざいざ すこし呿呻〔あくび〕などせむ 女〔をんな〕あり わがいひつけに背〔そむ〕かじと心〔こころ〕を砕〔くだ〕く 見〔み〕ればかなしも ふがひなき わが日〔ひ〕の本〔もと〕の女等〔をんなら〕を 秋雨〔あきさめ〕の夜〔よ〕にののしりしかな 男〔おとこ〕とうまれ男〔おとこ〕と交〔まじ〕り 負〔ま〕けてをり かるがゆゑにや秋〔あき〕が身〔み〕に沁〔し〕む わが抱〔いだ〕く思〔おも〕想〔しさう〕はすべて 金〔かね〕なきに因〔いん〕するごとし 秋〔あき〕の風〔かぜ〕吹〔ふ〕く くだらない小説〔せうせつ〕を書〔か〕きてよろこべる 男〔をとこ〕憐〔あは〕れなり 初秋〔はつあき〕の風〔かぜ〕 秋〔あき〕の風〔かぜ〕 今日〔けふ〕よりは彼〔か〕のふやけたる男〔をとこ〕に 口〔くち〕を利〔き〕かじと思〔おも〕ふ はても見〔み〕えぬ 真直〔ますぐ〕の街〔まち〕をあゆむごとき こころを今日〔けふ〕は持〔も〕ちえたるかな 何事〔なにごと〕も思〔おも〕ふことなく いそがしく 暮〔く〕らせし一日〔ひとひ〕を忘〔わす〕れじと思〔おも〕ふ 何事〔なにごと〕も金金〔かねかね〕とわらひ すこし経〔へ〕て またも俄〔には〕かに不平〔ふへい〕つのり来〔く〕 誰〔た〕そ我〔われ〕に ピストルにても撃〔う〕てよかし 伊藤〔いとう〕のごとく死〔し〕にて見〔み〕せなむ やとばかり 桂〔かつら〕首相〔しゆしやう〕に手〔て〕とられし夢〔ゆめ〕みて覚〔さ〕めぬ 秋〔あき〕の夜〔よ〕の二時〔にじ〕  煙    一 病〔やまひ〕のごと 思郷〔しきやう〕のこころ湧〔わ〕く日〔ひ〕なり 目〔め〕にあをぞらの煙〔けむり〕かなしも 己〔おの〕が名〔な〕をほのかに呼〔よ〕びて 涙〔なみだ〕せし 十四〔〔じふし〕の春〔はる〕にかへる術〔すべ〕なし 青空〔あをぞら〕に消〔き〕えゆく煙〔けむり〕 さびしくも消〔き〕えゆく煙〔けむり〕 われにし似〔に〕るか かの旅〔たび〕の汽車〔きしや〕の車掌〔しやしやう〕が ゆくりなくも 我〔わ〕が中学〔ちゆうがく〕の友〔とも〕なりしかな ほとばしる喞筒〔ポンプ〕の水〔みづ〕の 心地〔ここち〕よさよ しばしは若〔わか〕きこころもて見〔み〕る 師〔し〕も友〔とも〕も知〔し〕らで責〔せ〕めにき 謎〔なぞ〕に似〔に〕る わが学業〔がくぎやう〕のおこたりの因〔もと〕 教室〔けうしつ〕の窓〔まど〕より遁〔に〕げて ただ一人〔ひとり〕 かの城址〔しろあと〕に寝〔ね〕に行〔ゆ〕きしかな 不来方〔こずかた〕のお城〔しろ〕の草〔くさ〕に寝〔ね〕ころびて 空〔そら〕に吸〔す〕はれし 十五〔じふご〕の心〔こころ〕 かなしみといはばいふべき 物〔もの〕の味〔あぢ〕 我〔われ〕の嘗〔な〕めしはあまりに早〔はや〕かり 晴〔は〕れし空〔そら〕仰〔あふ〕げばいつも 口笛〔くちぶえ〕を吹〔ふ〕きたくなりて 吹〔ふ〕きてあそびき 夜〔よる〕寝〔ね〕ても口笛〔くちぶえ〕吹〔ふ〕きぬ 口笛〔くちぶえ〕は 十〔じふ〕五〔ご〕の我〔われ〕の歌〔うた〕にしありけり よく叱〔しか〕る師〔し〕ありき 髯〔ひげ〕の似〔に〕たるより山羊〔やぎ〕と名〔な〕づけて 口真似〔くちまね〕もしき われと共〔とも〕に 小鳥〔ことり〕に石〔いし〕を投〔な〕げて遊〔あそ〕ぶ 後備大尉〔こうびたいゐ〕の子〔こ〕もありしかな 城址〔しろあと〕の 石〔いし〕に腰掛〔こしか〕け 禁制〔きんせい〕の木〔こ〕の実〔み〕をひとり味〔あぢは〕ひしこと その後〔のち〕に我〔われ〕を捨〔す〕てし友〔とも〕も あの頃〔ころ〕は共〔とも〕に書読〔ふみよ〕み ともに遊〔あそ〕びき 学校〔がくかう〕の図書庫〔としよぐら〕の裏〔うら〕の秋〔あき〕の草〔くさ〕 黄〔き〕なる花〔はな〕咲〔さ〕きし 今〔いま〕も名〔な〕知〔し〕らず 花〔はな〕散〔ち〕れば 先〔ま〕づ人〔ひと〕さきに白〔しろ〕の服〔ふく〕着〔き〕て家〔いへ〕出〔い〕づる 我〔われ〕にてありしか 今〔いま〕は亡〔な〕き姉〔あね〕の恋人〔こひびと〕のおとうとと なかよくせしを かなしと思〔おも〕ふ 夏休〔なつやす〕み果〔は〕ててそのまま かへり来〔こ〕ぬ 若〔わか〕き英語〔えいご〕の教師〔けうし〕もありき ストライキ思〔おも〕ひ出〔い〕でても 今〔いま〕は早〔は〕や吾〔わ〕が血〔ち〕躍〔をど〕らず ひそかに淋〔さび〕し 盛岡〔もりをか〕の中学校〔ちゆうがくかう〕の 露台〔バルコン〕の 欄干〔てすり〕に最一度〔もいちど〕我〔われ〕を倚〔よ〕らしめ 神〔かみ〕有〔あ〕りと言〔い〕ひ張〔は〕る友〔とも〕を 説〔と〕きふせし かの路傍〔みちばた〕の栗〔くり〕の樹〔き〕の下〔もと〕 西風〔にしかぜ〕に 内丸大路〔うちまるおほぢ〕の桜〔さくら〕の葉〔は〕 かさこそ散〔ち〕るを踏〔ふ〕みてあそびき そのかみの愛読〔あいどく〕の書〔しよ〕よ 大方〔おほかた〕は 今〔いま〕は流行〔はや〕らずなりにけるかな 石〔いし〕ひとつ 坂〔さか〕をくだるがごとくにも 我〔われ〕けふの日〔ひ〕に到〔いた〕り着〔つ〕きたる 愁〔うれ〕ひある少年〔せうねん〕の眼〔め〕に羨〔うらや〕みき 小鳥〔ことり〕の飛〔と〕ぶを 飛〔と〕びてうたふを 解剖〔ふわけ〕せし 蚯蚓〔みみず〕のいのちもかなしかり かの校庭〔かうてい〕の木柵〔もくさく〕の下〔もと〕 かぎりなき知識〔ちしき〕の慾〔よく〕に燃〔も〕ゆる眼〔め〕を 姉〔あね〕は傷〔いた〕みき 人〔ひと〕恋〔こ〕ふるかと 蘇峯〔そほう〕の書〔しよ〕を我〔われ〕に薦〔すす〕めし友〔とも〕早〔はや〕く 校〔かう〕を退〔しりぞ〕きぬ まづしさのため おどけたる手〔て〕つきをかしと 我〔われ〕のみはいつも笑〔わら〕ひき 博学〔はくがく〕の師〔し〕を 自〔し〕が才〔さい〕に身〔み〕をあやまちし人〔ひと〕のこと かたりきかせし 師〔し〕もありしかな そのかみの学校〔がくかう〕一〔いち〕のなまけ者〔もの〕 今〔いま〕は真面目〔まじめ〕に はたらきて居〔を〕り 田舎〔ゐなか〕めく旅〔たび〕の姿〔すがた〕を 三日〔みか〕ばかり都〔みやこ〕に曝〔さら〕し かへる友〔とも〕かな 茨島〔ばらじま〕の松〔まつ〕の並木〔なみき〕の街道〔かいだう〕を われと行〔い〕きし少女〔をとめ〕 才〔さい〕をたのみき 眼〔め〕を病みて黒〔くろ〕き眼鏡〔めがね〕をかけし頃〔ころ〕 その頃〔ころ〕よ 一人〔ひとり〕泣〔な〕くをおぼえし わがこころ けふもひそかに泣〔な〕かむとす 友〔とも〕みな己〔おの〕が道〔みち〕をあゆめり 先〔さき〕んじて恋〔こひ〕のあまさと かなしさを知〔し〕りし我〔われ〕なり 先〔さき〕んじて老〔お〕ゆ 興〔きよう〕来〔きた〕れば 友〔とも〕なみだ垂〔た〕れ手〔て〕を揮〔ふ〕りて 酔漢〔ゑひどれ〕のごとくなりて語〔かた〕りき 人〔ひと〕ごみの中〔なか〕をわけ来〔く〕る わが友〔とも〕の むかしながらの太〔ふと〕き杖〔つゑ〕かな 見〔み〕よげなる年賀〔ねんが〕の文〔ふみ〕を書〔か〕く人〔ひと〕と おもひ過〔す〕ぎにき 三年〔みとせ〕ばかりは 夢〔ゆめ〕さめてふつと悲〔かな〕しむ わが眠〔ねむ〕り 昔〔むかし〕のごとく安〔やす〕からぬかな そのむかし秀才〔しうさい〕の名〔な〕の高〔たか〕かりし 友〔とも〕牢〔らう〕にあり 秋〔あき〕のかぜ吹〔ふ〕く 近眼〔ちかめ〕にて おどけし歌〔うた〕をよみ出〔い〕でし 茂雄〔しげを〕の恋〔こひ〕もかなしかりしか わが妻〔つま〕のむかしの願〔ねが〕ひ 音楽〔おんがく〕のことにかかりき 今〔いま〕はうたはず 友〔とも〕はみな或日〔あるひ〕四方〔しはう〕に散〔ち〕り行〔ゆ〕きぬ その後〔のち〕八年〔やとせ〕 名〔な〕挙〔あ〕げしもなし わが恋〔こひ〕を はじめて友〔とも〕にうち明〔あ〕けし夜〔よる〕のことなど 思〔おも〕ひ出〔い〕づる日〔ひ〕 糸〔いと〕切〔き〕れし紙鳶〔たこ〕のごとくに 若〔わか〕き日〔ひ〕の心〔こころ〕かろくも とびさりしかな    二 ふるさとの訛〔なまり〕なつかし 停車場〔ていしやば〕の人〔ひと〕ごみの中〔なか〕に そを聴〔き〕きにゆく やまひある獣〔けもの〕のごとき わがこころ ふるさとのこと聞〔き〕けばおとなし ふと思〔おも〕ふ ふるさとにゐて日毎〔ひごと〕聴〔き〕きし雀〔すずめ〕の鳴〔な〕くを 三年〔みとせ〕聴〔き〕かざり 亡〔な〕くなれる師〔し〕がその昔〔むかし〕 たまひたる 地理〔ちり〕の本〔ほん〕など取〔と〕りいでて見〔み〕る その昔〔むかし〕 小学校〔せうがくかう〕の柾屋根〔まさやね〕に我〔わ〕が投〔な〕げし鞠〔まり〕 いかにかなりけむ ふるさとの かの路傍〔みちばた〕のすて石〔いし〕よ 今年〔ことし〕も草〔くさ〕に埋〔うづ〕もれしらむ わかれをれば妹〔いもと〕いとしも 赤〔あか〕き緒〔を〕の 下駄〔げた〕など欲〔ほ〕しとわめく子〔こ〕なりし 二日〔ふつか〕前〔まえ〕に山〔やま〕の絵〔ゑ〕見〔み〕しが 今朝〔けさ〕になりて にはかに恋〔こひ〕しふるさとの山〔やま〕 飴売〔あめうり〕のチャルメラ聴〔き〕けば うしなひし をさなき心〔こころ〕ひろへるごとし このごろは 母〔はは〕も時時〔ときどき〕ふるさとのことを言〔い〕ひ出〔い〕づ 秋〔あき〕に入〔い〕れるなり それとなく 郷里〔くに〕のことなど語〔かた〕り出〔い〕でて 秋〔あき〕の夜〔よ〕に焼〔や〕く餅〔もち〕のにほひかな かにかくに渋民村〔しぶたみむら〕は恋〔こひ〕しかり おもひでの山〔やま〕 おもひでの川〔かは〕 田も畑〔はた〕も売〔う〕りて酒〔さけ〕のみ ほろびゆくふるさと人〔びと〕に 心〔こころ〕寄〔よ〕する日〔ひ〕 あはれかの我〔われ〕の教〔をし〕へし 子等〔こら〕もまた やがてふるさとを棄〔す〕てて出〔い〕づるらむ ふるさとを出〔い〕で来〔き〕し子等〔こら〕の 相会〔あひあ〕ひて よろこぶにまさるかなしみはなし 石〔いし〕をもて追〔お〕はるるごとく ふるさとを出〔い〕でしかなしみ 消〔き〕ゆる時〔とき〕なし やはらかに柳〔やなぎ〕あをめる 北上〔きたかみ〕の岸辺〔きしべ〕目〔め〕に見〔み〕ゆ 泣〔な〕けとごとくに ふるさとの 村医〔そんい〕の妻〔つま〕のつつましき櫛巻〔くしまき〕なども なつかしきかな かの村〔むら〕の登記所〔とうきしよ〕に来〔き〕て 肺〔はい〕病〔や〕みて 間〔ま〕もなく死〔し〕にし男〔をとこ〕もありき 小学〔せうがく〕の首席〔しゆせき〕を我〔われ〕と争〔あらそ〕ひし 友〔とも〕のいとなむ 木賃宿〔きちんやど〕かな 千代治等〔ちよぢら〕も長〔ちやう〕じて恋〔こひ〕し 子〔こ〕を挙〔あ〕げぬ わが旅〔たび〕にしてなせしごとくに ある年〔とし〕の盆〔ぼん〕の祭〔まつり〕に 衣〔きぬ〕貸〔か〕さむ踊〔おど〕れと言〔い〕ひし 女〔をんな〕を思〔おも〕ふ うすのろの兄〔あに〕と 不具〔かたは〕の父〔ちち〕もてる三太〔さんた〕はかなし 夜〔よる〕も書〔ふみ〕読〔よ〕む 我〔われ〕と共〔とも〕に 栗毛〔くりげ〕の仔馬〔こうま〕〔こうま〕走〔はし〕らせし 母〔はは〕の無〔な〕き子〔こ〕の盗癖〔ぬすみぐせ〕かな 大形〔おほがた〕の被布〔ひふ〕の模様〔もやう〕の赤〔あか〕き花〔はな〕 今〔いま〕も目〔め〕に見〔み〕ゆ 六歳〔むつ〕の日〔ひ〕の恋〔こひ〕 その名〔な〕さへ忘〔わす〕られし頃〔ころ〕 飄然〔へうぜん〕とふるさとに来〔き〕て 咳〔せき〕せし男〔をとこ〕 意地悪〔いぢわる〕の大工〔だいく〕の子〔こ〕などもかなしかり 戦〔いくさ〕に出〔い〕でしが 生〔い〕きてかへらず 肺〔はい〕を病〔や〕む 極道地主〔ごくだうぢぬし〕の総領〔そうりやう〕の よめとりの日〔ひ〕の春〔はる〕の雷〔らい〕かな 宗次郎〔そうじろ〕に おかねが泣〔な〕きて口説〔くど〕き居〔を〕り 大根〔だいこん〕の花〔はな〕白〔しろ〕きゆふぐれ 小心〔せうしん〕の役場〔やくば〕の書記〔しよき〕の 気〔き〕の狂〔ふ〕れし噂〔うはさ〕に立〔た〕てる ふるさとの秋〔あき〕 わが従兄〔いとこ〕 野山〔のやま〕の猟〔かり〕に飽〔あ〕きし後〔のち〕 酒〔さけ〕のみ家〔いへ〕売〔う〕り病〔や〕みて死〔し〕にしかな 我〔われ〕ゆきて手〔て〕をとれば 泣〔な〕きてしづまりき 酔〔ゑ〕ひて荒〔あば〕れしそのかみの友〔とも〕 酒〔さけ〕のめば 刀〔かたな〕をぬきて妻〔つま〕を逐〔お〕ふ教師〔けうし〕もありき 村〔むら〕を遂〔お〕はれき 年〔とし〕ごとに肺病〔はいびやう〕やみの殖〔ふ〕えてゆく 村〔むら〕に迎〔むか〕へし 若〔わか〕き医者〔いしや〕かな ほたる狩〔がり〕 川〔かは〕にゆかむといふ我〔われ〕を 山路〔やまぢ〕にさそふ人〔ひと〕にてありき 馬鈴薯〔ばれいしよ〕のうす紫〔むらさき〕の花〔はな〕に降〔ふ〕る 雨〔あめ〕を思〔おも〕へり 都〔みやこ〕の雨〔あめ〕に あはれ我〔わ〕がノスタルジヤは 金〔きん〕のごと 心〔こころ〕に照〔て〕れり清〔きよ〕くしみらに 友〔とも〕として遊〔あそ〕ぶものなき 性悪〔しやうわる〕の巡査〔じゆんさ〕の子等〔こら〕も あはれなりけり 閑古鳥〔かんこどり〕 鳴〔な〕く日〔ひ〕となれば起〔おこ〕るてふ 友〔とも〕のやまひのいかになりけむ わが思〔おも〕ふこと おほかたは正〔ただ〕しかり ふるさとのたより着〔つ〕ける朝〔あした〕は 今日〔けふ〕聞〔き〕けば かの幸〔さち〕うすきやもめ人〔びと〕 きたなき恋〔こひ〕に身〔み〕を入〔い〕るるてふ わがために なやめる魂〔たま〕をしづめよと 讃美歌〔さんびか〕うたふ人〔ひと〕ありしかな あはれかの男〔おとこ〕のごときたましひよ 今〔いま〕は何処〔いづこ〕に 何〔なに〕を思〔おも〕ふや わが庭〔には〕の白〔しろ〕き躑躅〔つつじ〕を 薄月〔うすづき〕の夜〔よ〕に 折〔を〕りゆきしことな忘〔わす〕れそ わが村〔むら〕に 初〔はじ〕めてイエス・クリストの道〔みち〕を説〔と〕きたる 若〔わか〕き女〔をんな〕かな 霧〔きり〕ふかき好摩〔かうま〕の原〔はら〕の 停車場〔ていしやば〕の 朝〔あさ〕の虫〔むし〕こそすずろなりけれ 汽車〔きしや〕の窓〔まど〕 はるかに北〔きた〕にふるさとの山〔やま〕見〔み〕え来〔く〕れば 襟〔えり〕を正〔ただ〕すも ふるさとの土〔つち〕をわが踏〔ふ〕めば 何〔なに〕がなしに足〔あし〕軽〔かろ〕くなり 心〔こころ〕重〔おも〕れり ふるさとに入〔い〕りて先〔ま〕づ心〔こころ〕傷〔いた〕むかな 道〔みち〕広〔ひろ〕くなり 橋〔はし〕もあたらし 見〔み〕もしらぬ女教師〔をんなけうし〕が そのかみの わが学舎〔まなびや〕の窓〔まど〕に立〔た〕てるかな かの家〔いへ〕のかの窓〔まど〕にこそ 春〔はる〕の夜〔よ〕を 秀子〔ひでこ〕とともに蛙〔かはづ〕聴〔き〕きけれ そのかみの神童〔しんどう〕の名〔な〕の かなしさよ ふるさとに来〔き〕て泣〔な〕くはそのこと ふるさとの停車場路〔ていしやばみち〕の 川〔かわ〕ばたの 胡桃〔くるみ〕の下〔した〕に小石〔こいし〕拾〔ひろ〕へり ふるさとの山〔やま〕に向〔むか〕ひて 言〔い〕ふことなし ふるさとの山〔やま〕はありがたきかな    秋風のこころよさに ふるさとの空〔そら〕遠〔とほ〕みかも 高〔たか〕き屋〔や〕にひとりのぼりて 愁〔うれ〕ひて下〔くだ〕る 皎〔かう〕として玉〔たま〕をあざむく小人〔せうじん〕も 秋〔あき〕来〔く〕といふに 物〔もの〕を思〔おも〕へり かなしきは 秋風〔あきかぜ〕ぞかし 稀〔まれ〕にのみ湧〔わ〕きし涙〔なみだ〕の繁〔しじ〕に流〔なが〕るる 青〔あお〕に透〔す〕く かなしみの玉〔たま〕に枕〔まくら〕して 松〔まつ〕のひびきを夜〔よ〕もすがら聴〔き〕く 神〔かみ〕寂〔さ〕びし七山〔ななやま〕の杉〔すぎ〕 火〔ひ〕のごとく染〔そ〕めて日〔ひ〕入〔い〕りぬ 静〔しづ〕かなるかな そを読〔よ〕めば 愁〔うれ〕ひ知〔し〕るといふ書〔ふみ〕焚〔た〕ける いにしへ人〔びと〕の心〔こころ〕よろしも ものなべてうらはかなげに 暮〔く〕れゆきぬ とりあつめたる悲〔かな〕しみの日〔ひ〕は 水潦〔みづたまり〕 暮〔く〕れゆく空〔そら〕とくれなゐの紐〔ひも〕を浮〔うか〕べぬ 秋雨〔あきさめ〕の後〔のち〕 秋立〔あきた〕つは水〔みづ〕にかも似〔に〕る 洗〔あら〕はれて 思〔おも〕ひことごと新〔あたら〕しくなる 愁〔うれ〕ひ来〔き〕て 丘〔おか〕にのぼれば 名〔な〕も知〔し〕らぬ鳥〔とり〕啄〔ついば〕めり赤〔あか〕き茨〔ばら〕の実〔み〕 秋〔あき〕の辻〔つじ〕 四〔よ〕すぢの路〔みち〕の三〔み〕すぢへと吹〔ふ〕きゆく風〔かぜ〕の あと見〔み〕えずかも 秋〔あき〕の声〔こゑ〕まづいち早〔はや〕く耳〔みみ〕に入〔い〕る かかる性〔さが〕持〔も〕つ かなしむべかり 目〔め〕になれし山〔やま〕にはあれど 秋〔あき〕来〔く〕れば 神〔かみ〕や住〔す〕まむとかしこみて見〔み〕る わが為〔な〕さむこと世〔よ〕に尽〔つ〕きて 長〔なが〕き日〔ひ〕を かくしもあはれ物〔もの〕を思〔おも〕ふか さららさらと雨〔あめ〕落〔お〕ち来〔きた〕り 庭〔にわ〕の面〔も〕の濡〔ぬ〕れゆくを見〔み〕て 涙〔なみだ〕わすれぬ ふるさとの寺〔てら〕の御廊〔みらう〕に 踏〔ふ〕みにける 小櫛〔をぐし〕の蝶〔てふ〕を夢〔む〕にみしかな こころみに いとけなき日〔ひ〕の我〔われ〕となり 物〔もの〕言〔い〕ひてみむ人〔ひと〕あれと思〔おも〕ふ はたはたと黍〔きび〕の葉〔は〕鳴〔な〕れる ふるさとの軒端〔のきば〕なつかし 秋風〔あきかぜ〕吹〔ふ〕けば 摩〔す〕れあへる肩〔かた〕のひまより はつかにも見〔み〕きといふさへ 日記〔にき〕に残〔のこ〕れり 風流男〔みやびを〕は今〔いま〕も昔〔むかし〕も 泡雪〔あわゆき〕の 玉手〔たまで〕さし捲〔ま〕く夜〔よ〕にし老〔お〕ゆらし かりそめに忘〔わす〕れても見〔み〕まし 石〔いし〕だたみ 春〔はる〕生〔お〕ふる草〔くさ〕に埋〔うも〕るるがごと その昔〔むかし〕揺籃〔ゆりかご〕に寝〔ね〕て あまたたび夢〔ゆめ〕にみし人〔ひと〕か 切〔せち〕になつかし 神無月〔かみなづき〕 岩手〔いはて〕の山〔やま〕の 初雪〔はつゆき〕の眉〔まゆ〕にせまりし朝〔あさ〕を思〔おも〕ひぬ ひでり雨〔あめ〕さらさら落〔お〕ちて 前栽〔せんざい〕の 萩〔はぎ〕のすこしく乱〔みだ〕れたるかな 秋〔あき〕の空〔そら〕廓寥〔くわくれう〕として影〔かげ〕もなし あまりにさびし 烏〔からす〕など飛〔と〕べ 雨後〔うご〕の月〔つき〕 ほどよく濡〔ぬ〕れし屋根瓦〔やねがはら〕の そのところどころ光〔ひか〕るかなしさ われ饑〔う〕ゑてある日〔あるひ〕に 細〔ほそ〕き尾〔を〕を掉〔ふ〕りて 饑〔う〕ゑて我〔われ〕を見〔み〕る犬〔いぬ〕の面〔つら〕よし いつしかに 泣〔な〕くといふこと忘〔わす〕れたる 我〔われ〕泣〔な〕かしむる人〔ひと〕のあらじか 汪然〔わうぜん〕として ああ酒〔さけ〕のかなしみぞ我〔われ〕に来〔きた〕れる 立〔た〕ちて舞〔ま〕ひなむ 蛼〔いとど〕鳴〔な〕く そのかたはらの石〔いし〕に踞〔きよ〕し 泣〔な〕き笑〔わら〕ひしてひとり物〔もの〕言〔い〕ふ 力〔ちから〕なく病〔や〕みし頃〔ころ〕より 口〔くち〕すこし開〔あ〕きて眠〔ねむ〕るが 癖〔くせ〕となりにき 人〔ひと〕ひとり得〔う〕るに過〔す〕ぎざる事〔こと〕をもて 大願〔たいぐわん〕とせし 若〔わか〕きあやまち 物〔もの〕怨〔ゑ〕ずる そのやはらかき上目〔うはめ〕をば 愛〔め〕づとことさらつれなくせむや かくばかり熱〔あつ〕き涙〔なみだ〕は 初恋〔はつこい〕の日〔ひ〕にもありきと 泣〔な〕く日〔ひ〕またなし 長〔なが〕く長〔なが〕く忘〔わす〕れし友〔とも〕に 会〔あ〕ふごとき よろこびをもて水〔みづ〕の音〔おと〕聴〔き〕く 秋〔あき〕の夜〔よ〕の 鋼鉄〔はがね〕の色〔いろ〕の大空〔おほそら〕に 火〔ひ〕を噴〔は〕く山〔やま〕もあれなど思〔おも〕ふ 岩手山〔いはてやま〕 秋〔あき〕はふもとの三方〔さんぱう〕の 野〔の〕に満〔み〕つる虫〔むし〕を何〔なに〕と聴〔き〕くらむ 父〔ちち〕のごと秋〔あき〕はいかめし 母〔はは〕のごと秋〔あき〕はなつかし 家〔いへ〕持〔も〕たぬ児〔こ〕に 秋〔あき〕来〔く〕れば 恋〔こ〕ふる心〔こころ〕のいとまなさよ 夜〔よ〕もい寝〔ね〕がてに雁〔かり〕多〔おほ〕く聴〔き〕く 長月〔ながつき〕も半〔なか〕ばになりぬ いつまでか かくも幼〔おさな〕く打出〔うちい〕でずあらむ 思〔おも〕ふてふこと言〔い〕はぬ人〔ひと〕の おくり来〔き〕し 忘〔わす〕れな草〔ぐさ〕もいちじろかりし 秋〔あき〕の雨〔あめ〕に逆反〔さかぞ〕りやすき弓〔ゆみ〕のごと このごろ 君〔きみ〕のしたしまぬかな 松〔まつ〕の風〔かぜ〕夜昼〔よひる〕ひびきぬ 人〔ひと〕訪〔と〕はぬ山〔やま〕の祠〔ほこら〕の 石馬〔いしうま〕の耳〔みみ〕に ほのかなる朽木〔くちき〕の香〔かを〕り そがなかの蕈〔たけ〕の香〔かを〕りに 秋〔あき〕やや深し 時雨〔しぐれ〕降〔ふ〕るごとき音〔おと〕して 木伝〔こづた〕ひぬ 人〔ひと〕によく似〔に〕し森〔もり〕の猿〔さる〕ども 森〔もり〕の奥〔おく〕 遠〔とほ〕きひびきす 木〔き〕のうろに臼〔うす〕ひく侏儒〔しゆじゆ〕の国〔くに〕にかも来〔き〕し 世〔よ〕のはじめ まづ森〔もり〕ありて 半神〔はんしん〕の人〔ひと〕そが中〔なか〕に火〔ひ〕や守〔まも〕りけむ はてもなく砂〔すな〕うちつづく 戈壁〔ゴビ〕の野〔の〕に住〔す〕みたまふ神〔かみ〕は 秋〔あき〕の神〔かみ〕かも あめつちに わが悲〔かな〕しみと月光〔げつくわう〕と あまねき秋〔あき〕の夜〔よ〕となれりけり うらがなしき 夜〔よる〕の物〔もの〕の音〔ね〕洩〔も〕れ来〔く〕るを 拾〔ひろ〕ふがごとくさまよひ行〔ゆ〕きぬ 旅〔たび〕の子〔こ〕の ふるさとに来〔き〕て眠〔ねむ〕るがに げに静〔しづ〕かにも冬〔ふゆ〕の来〔き〕しかな  忘れがたき人人    一 潮〔しほ〕かをる北〔きた〕の浜辺〔はまべ〕の 砂山〔すなやま〕のかの浜薔薇〔はまなす〕よ 今年〔ことし〕も咲〔さ〕けるや たのみつる年〔とし〕の若〔わか〕さを数〔かぞ〕へみて 指〔ゆび〕を見〔み〕つめて 旅〔たび〕がいやになりき 三度〔みたび〕ほど 汽車〔きしや〕の窓〔まど〕よりながめたる町〔まち〕の名〔な〕なども したしかりけり 函館〔はこだて〕の床屋〔とこや〕の弟子〔でし〕を おもひ出〔い〕でぬ 耳〔みみ〕剃〔そ〕らせるがこころよかりし わがあとを追〔お〕ひ来〔き〕て 知〔し〕れる人〔ひと〕もなき 辺土〔へんど〕に住〔す〕みし母〔はは〕と妻〔つま〕かな 船〔ふね〕に酔〔ゑ〕ひてやさしくなれる いもうとの眼〔め〕見〔み〕ゆ 津軽〔つがる〕の海〔うみ〕を思〔おも〕へば 目〔め〕を閉〔と〕ぢて 傷心〔しやうしん〕の句〔く〕を誦〔ず〕してゐし 友〔とも〕の手紙〔てがみ〕のおどけ悲〔かな〕しも をさなき時〔とき〕 橋〔はし〕の欄干〔らんかん〕に糞〔くそ〕塗〔ぬ〕りし 話〔はなし〕も友〔とも〕はかなしみてしき おそらくは生涯〔しやうがい〕妻〔つま〕をむかへじと わらひし友〔とも〕よ 今〔いま〕もめとらず あはれかの 眼鏡〔めがね〕の縁〔ふち〕をさびしげに光〔ひか〕らせてゐし 女〔をんな〕教師〔けうし〕よ 友〔とも〕われに飯〔めし〕を与〔あた〕へき その友〔とも〕に背〔そむ〕きし我〔われ〕の 性〔さが〕のかなしさ 函館〔はこだて〕の青柳町〔あをやぎちやう〕こそかなしけれ 友〔とも〕の恋歌〔こひうた〕 矢〔や〕ぐるまの花〔はな〕 ふるさとの 麦〔むぎ〕のかをりを懐〔なつ〕かしむ 女〔をんな〕の眉〔まゆ〕にこころひかれき あたらしき洋書〔やうしよ〕の紙〔かみ〕の 香〔か〕をかぎて 一途〔いちづ〕に金〔かね〕を欲〔ほ〕しと思〔おも〕ひしが しらなみの寄〔よ〕せて騒〔さわ〕げる 函館〔はこだて〕の大森浜〔おほもりはま〕に 思〔おも〕ひしことども 朝〔あさ〕な朝〔あさ〕な 支那〔しな〕の俗歌〔ぞくか〕をうたひ出〔い〕づる まくら時計〔どけい〕を愛〔め〕でしかなしみ 漂泊〔へうはく〕の愁〔うれ〕ひを叙〔じよ〕して成〔な〕らざりし 草稿〔さうかう〕の字〔じ〕の 読〔よ〕みがたさかな いくたびか死〔し〕なむとしては 死〔し〕なざりし わが来〔こ〕しかたのをかしく悲〔かな〕し 函館〔はこだて〕の臥牛〔ぐわぎう〕の山〔やま〕の半腹〔はんぷく〕の 碑〔ひ〕の漢詩〔からうた〕も なかば忘〔わす〕れぬ むやむやと 口〔くち〕の中〔うち〕にてたふとげの事〔こと〕を呟〔つぶや〕く 乞食〔こじき〕もありき とるに足〔た〕らぬ男〔をとこ〕と思〔おも〕へと言〔い〕ふごとく 山〔やま〕に入〔い〕りにき 神〔かみ〕のごとき友〔とも〕 巻煙草〔まきたばこ〕口〔くち〕にくはへて 浪〔なみ〕あらき 磯〔いそ〕の夜霧〔よぎり〕に立〔た〕ちし女〔をんな〕よ 演習〔えんしふ〕のひまにわざわざ 汽車〔きしや〕に乗〔の〕りて 訪〔と〕ひ来〔き〕し友〔とも〕とのめる酒〔さけ〕かな 大川〔おほかは〕の水〔みづ〕の面〔おもて〕を見〔み〕るごとに 郁雨〔いくう〕よ 君〔きみ〕のなやみを思〔おも〕ふ 智慧〔ちゑ〕とその深〔ふか〕き慈悲〔じひ〕とを もちあぐみ 為〔な〕すこともなく友〔とも〕は遊〔あそ〕べり こころざし得〔え〕ぬ人人〔ひとびと〕の あつまりて酒〔さけ〕のむ場所〔ばしよ〕が 我〔わ〕が家〔いへ〕なりしかな かなしめば高〔たか〕く笑〔わら〕ひき 酒〔さけ〕をもて 悶〔もん〕を解〔げ〕すといふ年上〔としうへ〕の友〔とも〕 若〔わか〕くして 数人〔すにん〕の父〔ちち〕となりし友〔とも〕 子〔こ〕なきがごとく酔〔ゑ〕へばうたひき さりげなき高〔たか〕き笑〔わら〕ひが 酒〔さけ〕とともに 我〔わ〕が腸〔はらわた〕に沁〔し〕みにけらしな 呿呻〔あくび〕噛〔か〕み 夜汽車〔よぎしや〕の窓〔まど〕に別〔わか〕れたる 別〔わか〕れが今〔いま〕は物足〔ものた〕らぬかな 雨〔あめ〕に濡〔ぬ〕れし夜汽車〔よぎしや〕の窓〔まど〕に 映〔うつ〕りたる 山間〔やまあひ〕の町〔まち〕のともしびの色〔いろ〕 雨〔あめ〕つよく降〔ふ〕る夜〔よ〕の汽車〔きしや〕の たえまなく雫〔しづく〕流〔なが〕るる 窓〔まど〕硝子〔ガラス〕かな 真夜中〔まよなか〕の 倶知安駅〔くちあんえき〕に下〔お〕りゆきし 女〔をんな〕の鬢〔びん〕の古〔ふる〕き痍〔きず〕あと 札幌〔さつぽろ〕に かの秋〔あき〕われの持〔も〕てゆきし しかして今〔いま〕も持〔も〕てるかなしみ アカシヤの街樾〔なみき〕にポプラに 秋〔あき〕の風〔かぜ〕 吹〔ふ〕くがかなしと日記〔にき〕に残〔のこ〕れり しんとして幅広〔はばひろ〕き街〔まち〕の 秋〔あき〕の夜〔よ〕の 玉蜀黍〔たうもろこし〕の焼〔や〕くるにほひよ わが宿〔やど〕の姉〔あね〕と妹〔いもと〕のいさかひに 初夜〔しよや〕過〔す〕ぎゆきし 札幌〔さつぽろ〕の雨〔あめ〕 石狩〔いしかり〕の美国〔びくに〕といへる停車場〔ていしやば〕の 柵〔さく〕に乾〔ほ〕してありし 赤〔あか〕き布片〔きれ〕かな かなしきは小樽〔をたる〕の町〔まち〕よ 歌〔うた〕ふことなき人人〔ひとびと〕の 声〔こゑ〕の荒〔あら〕さよ 泣〔な〕くがごと首〔くび〕ふるはせて 手〔て〕の相〔さう〕を見〔み〕せよといひし 易者〔えきしや〕もありき いささかの銭〔ぜに〕借〔か〕りてゆきし わが友〔とも〕の 後姿〔うしろすがた〕の肩〔かた〕の雪〔ゆき〕かな 世〔よ〕わたりの拙〔つたな〕きことを ひそかにも 誇〔ほこ〕りとしたる我〔われ〕にやはあらぬ 汝〔な〕が痩〔や〕せしからだはすべて 謀叛気〔むほんぎ〕のかたまりなりと いはれてしこと かの年〔とし〕のかの新聞〔しんぶん〕の 初雪〔はつゆき〕の記事〔きじ〕を書〔か〕きしは 我〔われ〕なりしかな 椅子〔いす〕をもて我〔われ〕を撃〔う〕たむと身構〔みがま〕へし かの友〔とも〕の酔〔ゑ〕ひも 今〔いま〕は醒〔さ〕めつらむ 負〔ま〕けたるも我〔われ〕にてありき あらそひの因〔もと〕も我〔われ〕なりしと 今〔いま〕は思〔おも〕へり 殴〔なぐ〕らむといふに 殴〔なぐ〕れとつめよせし 昔〔むかし〕の我〔われ〕のいとほしきかな 汝〔なれ〕三度〔みたび〕 この咽喉〔のど〕に剣〔けん〕を擬〔ぎ〕したりと 彼〔かれ〕告別〔こくべつ〕の辞〔じ〕に言〔い〕へりけり あらそひて いたく憎〔にく〕みて別〔わか〕れたる 友〔とも〕をなつかしく思〔おも〕ふ日〔ひ〕も来〔き〕ぬ あはれかの眉〔まゆ〕の秀〔ひい〕でし少年〔せうねん〕よ 弟〔おとうと〕と呼べば はつかに笑〔ゑ〕みしが わが妻〔つま〕に着物〔きもの〕縫〔ぬ〕はせし友〔とも〕ありし 冬〔ふゆ〕早〔はや〕く来〔く〕る 植民地〔しよくみんち〕かな 平手〔ひらて〕もて 吹雪〔ふぶき〕にぬれし顔〔かほ〕を拭〔ふ〕く 友〔とも〕共産〔きようさん〕を主義〔しゆぎ〕とせりけり 酒〔さけ〕のめば鬼〔おに〕のごとくに青〔あを〕かりし 大〔おほ〕いなる顔〔かほ〕よ かなしき顔〔かほ〕よ 樺太〔からふと〕に入〔い〕りて 新〔あたら〕しき宗教〔しうけう〕を創〔はじ〕めむといふ 友〔とも〕なりしかな 治〔をさ〕まれる世〔よ〕の事無〔ことな〕さに 飽〔あ〕きたりといひし頃〔ころ〕こそ かなしかりけれ 共同〔きようどう〕の薬屋〔くすりや〕開〔ひら〕き 儲〔まう〕けむといふ友〔とも〕なりき 詐欺〔さぎ〕せしといふ あをじろき頬〔ほほ〕に涙〔なみだ〕を光〔ひか〕らせて 死〔し〕をば語〔かた〕りき 若〔わか〕き商人〔あきびと〕 子〔こ〕を負〔お〕ひて 雪〔ゆき〕の吹〔ふ〕き入〔い〕る停車場〔ていしやば〕に われ見送〔みおく〕りし妻〔つま〕の眉〔まゆ〕かな 敵〔てき〕として憎〔にく〕みし友〔とも〕と やや長〔なが〕く手〔て〕をば握〔にぎ〕りき わかれといふに ゆるぎ出〔い〕づる汽車〔きしや〕の窓〔まど〕より 人〔ひと〕先〔さき〕に顔〔かほ〕を引〔ひ〕きしも 負〔ま〕けざらむため みぞれ降〔ふ〕る 石狩〔いしかり〕の野〔の〕の汽車〔きしや〕に読〔よ〕みし ツルゲエネフの物語〔ものがたり〕かな わが去〔さ〕れる後〔のち〕の噂〔うはさ〕を おもひやる旅出〔たびで〕はかなし 死〔し〕ににゆくごと わかれ来〔き〕てふと瞬〔またた〕けば ゆくりなく つめたきものの頬〔ほほ〕をつたへり 忘〔わす〕れ来〔き〕し煙草〔たばこ〕を思〔おも〕ふ ゆけどゆけど 山〔やま〕なほ遠〔とほ〕き雪〔ゆき〕の野〔の〕の汽車〔きしや〕 うす紅〔あか〕く雪〔ゆき〕に流〔なが〕れて 入日影〔いりひかげ〕 曠野〔あらの〕の汽車〔きしや〕の窓〔まど〕を照〔てら〕せり 腹〔はら〕すこし痛〔いた〕み出〔い〕でしを しのびつつ 長路〔ちやうろ〕の汽車〔きしや〕にのむ煙草〔たばこ〕かな 乗合〔のりあひ〕の砲兵士官〔はうへいしくわん〕の 剣〔つるぎ〕の鞘〔さや〕 がちやりと鳴〔な〕るに思〔おも〕ひやぶれき 名〔な〕のみ知〔し〕りて縁〔えん〕もゆかりもなき土地〔とち〕の 宿屋〔やどや〕安〔やす〕けし 我〔わ〕が家〔いへ〕のごと 伴〔つれ〕なりしかの代議士〔だいぎし〕の 口〔くち〕あける青〔あお〕き寐顔〔ねがほ〕を かなしと思〔おも〕ひき 今夜〔こんや〕こそ思〔おも〕ふ存分〔ぞんぶん〕泣〔な〕いてみむと 泊〔とま〕りし宿屋〔やどや〕の 茶〔ちや〕のぬるさかな 水蒸気〔すゐいじようき〕 列車〔れつしや〕の窓〔まど〕に花〔はな〕のごと凍〔い〕てしを染〔そ〕むる あかつきの色〔いろ〕 ごおと鳴〔な〕る凩〔こがらし〕のあと 乾〔かわ〕きたる雪〔ゆき〕舞〔ま〕ひ立〔た〕ちて 林〔はやし〕を包〔つつ〕めり 空知川〔そらちがは〕雪〔ゆき〕に埋〔うも〕れて 鳥〔とり〕も見〔み〕えず 岸辺〔きしべ〕の林〔はやし〕に人〔ひと〕ひとりゐき 寂莫〔せきばく〕を敵〔てき〕とし友〔とも〕とし 雪〔ゆき〕のなかに 長〔なが〕き一生〔いつしやう〕を送〔おく〕る人〔ひと〕もあり いたく汽車〔きしや〕に疲〔つか〕れて猶〔なほ〕も きれぎれに思〔おも〕ふは 我〔われ〕のいとしさなりき うたふごと駅〔えき〕の名〔な〕呼〔よ〕びし 柔和〔にうわ〕なる 若〔わか〕き駅夫〔えきふ〕の眼〔め〕をも忘〔わす〕れず 雪〔ゆき〕のなか 処処〔しよしよ〕に屋根〔やね〕見〔み〕えて 煙突〔えんとつ〕の煙〔けむり〕うすくも空〔そら〕にまよへり 遠〔とほ〕くより 笛〔ふえ〕ながながとひびかせて 汽車〔きしや〕今〔いま〕とある森林〔しんりん〕に入〔い〕る 何事〔なにごと〕も思〔おも〕ふことなく 日〔ひ〕一日〔いちにち〕 汽車〔きしや〕のひびきに心〔こころ〕まかせぬ さいはての駅〔えき〕に下〔お〕り立〔た〕ち 雪〔ゆき〕あかり さびしき町〔まち〕にあゆみ入〔い〕りにき しらしらと氷〔こほり〕かがやき 千鳥〔ちどり〕なく 釧路〔くしろ〕の海〔うみ〕の冬〔ふゆ〕の月〔つき〕かな こほりたるインクの罎〔びん〕を 火〔ひ〕に翳〔かざ〕し 涙〔なみだ〕ながれぬともしびの下〔もと〕 顔〔かほ〕とこゑ それのみ昔〔むかし〕に変〔かは〕らざる友〔とも〕にも会〔あ〕ひき 国〔くに〕の果〔はて〕にて あはれかの国〔くに〕のはてにて 酒〔さけ〕のみき かなしみの滓〔をり〕を啜〔すす〕るごとくに 酒〔さけ〕のめば悲〔かな〕しみ一時〔いちじ〕に湧〔わ〕き来〔く〕るを 寐〔ね〕て夢〔ゆめ〕みぬを うれしとはせし 出〔だ〕しぬけの女〔をんな〕の笑〔わら〕ひ 身〔み〕に沁〔し〕みき 厨〔くりや〕に酒〔さけ〕の凍〔こほ〕る真夜中〔まよなか〕 わが酔〔ゑ〕ひに心〔こころ〕いためて うたはざる女〔をんな〕ありしが いかになれるや 小奴〔こやつこ〕といひし女〔をんな〕の やはらかき 耳朶〔みみたぼ〕なども忘〔わす〕れがたかり よりそひて 深夜〔しんや〕の雪〔ゆき〕の中〔なか〕に立〔た〕つ 女〔をんな〕の右手〔めて〕のあたたかさかな 死〔し〕にたくはないかと言〔い〕へば これ見〔み〕よと 咽喉〔のんど〕の痍〔きず〕を見〔み〕せし女〔をんな〕かな 芸事〔げいごと〕も顔〔かほ〕も かれより優〔すぐ〕れたる 女〔をんな〕あしざまに我〔われ〕を言〔い〕へりとか 舞〔ま〕へといへば立〔た〕ちて舞〔ま〕ひにき おのづから 悪酒〔あくしゆ〕の酔〔ゑ〕ひにたふるるまでも 死〔し〕ぬばかり我〔わ〕が酔〔ゑ〕ふをまちて いろいろの かなしきことを囁〔ささや〕きし人〔ひと〕 いかにせしと言〔い〕へば あをじろき酔〔ゑ〕ひざめの 面〔おもて〕に強〔し〕ひて笑〔ゑ〕みをつくりき かなしきは かの白玉〔しらたま〕のごとくなる腕〔うで〕に残〔のこ〕せし キスの痕〔あと〕かな 酔〔ゑ〕ひてわがうつむく時〔とき〕も 水〔みづ〕ほしと眼〔め〕ひらく時〔とき〕も 呼〔よ〕びし名〔な〕なりけり 火〔ひ〕をしたふ虫〔むし〕のごとくに ともしびの明〔あか〕るき家〔いへ〕に かよひ慣〔な〕れにき きしきしと寒〔さむ〕さに踏〔ふ〕めば板〔いた〕軋〔きし〕む かへりの廊下〔ろうか〕の 不意〔ふい〕のくちづけ その膝〔ひざ〕に枕〔まくら〕しつつも 我〔わ〕がこころ 思〔おも〕ひしはみな我〔われ〕のことなり さらさらと氷〔こほり〕の屑〔くづ〕が 波〔なみ〕に鳴〔な〕る 磯〔いそ〕の月夜〔つきよ〕のゆきかへりかな 死〔し〕にしとかこのごろ聞〔き〕きぬ 恋〔こひ〕がたき 才〔さい〕あまりある男〔をとこ〕なりしが 十年〔ととせ〕まへに作〔つく〕りしといふ漢詩〔からうた〕を 酔〔ゑ〕へば唱〔とな〕へき 旅〔たび〕に老〔お〕いし友〔とも〕 吸〔す〕ふごとに 鼻〔はな〕がぴたりと凍〔こほ〕りつく 寒〔さむ〕き空気〔くうき〕を吸〔す〕ひたくなりぬ 波〔なみ〕もなき二月〔にぐわつ〕の湾〔わん〕に 白塗〔しろぬり〕の 外国〔ぐわいこく〕船〔せん〕が低〔ひく〕く浮〔う〕かべり 三味線〔さみせん〕の絃〔いと〕のきれしを 火事〔くわじ〕のごと騒〔さわ〕ぐ子〔こ〕ありき 大雪〔おほゆき〕の夜〔よ〕に 神〔かみ〕のごと 遠〔とほ〕く姿〔すがた〕をあらはせる 阿寒〔あかん〕の山〔やま〕の雪〔ゆき〕のあけぼの 郷里〔くに〕にゐて 身投〔みな〕げせしことありといふ 女〔をんな〕の三味〔さみ〕にうたへるゆふべ 葡萄色〔えびいろ〕の 古〔ふる〕き手帳〔てちやう〕にのこりたる かの会合〔あひびき〕の時〔とき〕と処〔ところ〕かな よごれたる足袋〔たび〕穿〔は〕く時〔とき〕の 気味〔きみ〕わるき思〔おも〕ひに似〔に〕たる 思出〔おもひで〕もあり わが室〔へや〕に女〔をんな〕泣〔な〕きしを 小説〔せうせつ〕のなかの事〔こと〕かと おもひ出〔い〕づる日〔ひ〕 浪淘沙〔らうたうさ〕 ながくも声〔こゑ〕をふるはせて うたふがごとき旅〔たび〕なりしかな    二 いつなりけむ 夢〔ゆめ〕にふと聴〔き〕きてうれしかりし その声〔こゑ〕もあはれ長〔なが〕く聴〔き〕かざり 頬〔ほ〕の寒〔さむ〕き 流離〔りうり〕の旅〔たび〕の人〔ひと〕として 路〔みち〕問〔と〕ふほどのこと言〔い〕ひしのみ さりげなく言〔い〕ひし言葉〔ことば〕は さりげなく君〔きみ〕も聴〔き〕きつらむ それだけのこと ひややかに清〔きよ〕き大理石〔なめいし〕に 春〔はる〕の日〔ひ〕の静〔しず〕かに照〔て〕るは かかる思〔おも〕ひならむ 世〔よ〕の中〔なか〕の明〔あか〕るさのみを吸〔す〕ふごとき 黒〔くろ〕き瞳〔ひとみ〕の 今〔いま〕も目〔め〕にあり かの時〔とき〕に言〔い〕ひそびれたる 大切〔たいせつ〕の言葉〔ことば〕は今〔いま〕も 胸〔むね〕にのこれど 真白〔ましろ〕なるラムプの笠〔かさ〕の 瑕〔きず〕のごと 流離〔りうり〕の記憶〔きおく〕消〔け〕しがたきかな 函館〔はこだて〕のかの焼跡〔やけあと〕を去〔さ〕りし夜〔よ〕の こころ残〔のこ〕りを 今〔いま〕も残〔のこ〕しつ 人〔ひと〕がいふ 鬢〔びん〕のほつれのめでたさを 物〔もの〕書〔か〕く時〔とき〕の君〔きみ〕に見〔み〕たりし 馬鈴薯〔ばれいしよ〕の花咲〔はなさ〕く頃〔ころ〕と なれりけり 君〔きみ〕もこの花〔はな〕を好〔す〕きたまふらむ 山〔やま〕の子〔こ〕の 山〔やま〕を思〔おも〕ふがごとくにも かなしき時〔とき〕は君〔きみ〕を思〔おも〕へり 忘〔わす〕れをれば ひよつとした事〔こと〕が思〔おも〕ひ出〔で〕の種〔たね〕にまたなる 忘〔わす〕れかねつも 病〔や〕むと聞〔き〕き 癒〔い〕えしと聞〔き〕きて 四百里〔しひやくり〕のこなたに我はうつつなかりし 君〔きみ〕に似〔に〕し姿〔すがた〕を街〔まち〕に見〔み〕る時〔とき〕の こころ躍〔をど〕りを あはれと思〔おも〕へ かの声〔こゑ〕を最一度〔もいちど〕聴〔き〕かば すつきりと 胸〔むね〕や霽〔は〕れむと今朝〔けさ〕も思〔おも〕へる いそがしき生活〔くらし〕のなかの 時折〔ときおり〕のこの物〔もの〕おもひ 誰〔たれ〕のためぞも しみじみと 物〔もの〕うち語〔かた〕る友〔とも〕もあれ 君〔きみ〕のことなど語〔かた〕り出〔い〕でなむ 死〔し〕ぬまでに一度〔いちど〕会〔あ〕はむと 言〔い〕ひやらば 君〔きみ〕もかすかにうなづくらむか 時〔とき〕として 君〔きみ〕を思〔おも〕へば 安〔やすし〕かりし心〔こころ〕にはかに騒〔さわ〕ぐかなしさ わかれ来〔き〕て年〔とし〕を重〔かさ〕ねて 年〔とし〕ごとに恋〔こひ〕しくなれる 君〔きみ〕にしあるかな 石狩〔いしかり〕の都〔みやこ〕の外〔そと〕の 君〔きみ〕が家〔いへ〕 林檎〔りんご〕の花〔はな〕の散〔ち〕りてやあらむ 長〔なが〕き文〔ふみ〕 三年〔みとせ〕のうちに三度〔みたび〕来〔き〕ぬ 我〔われ〕の書〔か〕きしは四度〔よたび〕にかあらむ    手套を脱ぐ時 手套〔てぶくろ〕を脱〔ぬ〕ぐ手〔て〕ふと休〔や〕む 何〔なに〕やらむ こころかすめし思〔おも〕ひ出〔で〕のあり いつしかに 情〔じやう〕をいつはること知〔し〕りぬ 髭〔ひげ〕を立〔た〕てしもその頃〔ころ〕なりけむ 朝〔あさ〕の湯〔ゆ〕の 湯槽〔ゆぶね〕のふちにうなじ載〔の〕せ ゆるく息〔いき〕する物〔もの〕思〔おも〕ひかな 夏〔なつ〕来〔く〕れば うがひ薬〔ぐすり〕の 病〔やまひ〕ある歯〔は〕に沁〔し〕む朝〔あさ〕のうれしかりけり つくづくと手〔て〕をながめつつ おもひ出〔い〕でぬ キスが上手〔じやうず〕の女〔をんな〕なりしが さびしきは 色〔いろ〕にしたしまぬ目〔め〕のゆゑと 赤〔あか〕き花〔はな〕など買はせけるかな 新〔あたら〕しき本〔ほん〕を買〔か〕ひ来〔き〕て読〔よ〕む夜半〔よは〕の そのたのしさも 長〔なが〕くわすれぬ 旅〔たび〕七日〔なのか〕 かへり来〔き〕ぬれば わが窓〔まど〕の赤〔あか〕きインクの染〔し〕みもなつかし 古文書〔こもんじよ〕のなかに見〔み〕いでし よごれたる 吸取紙〔すひとりがみ〕をなつかしむかな 手〔て〕にためし雪〔ゆき〕の融〔と〕くるが ここちよく わが寝飽〔ねあ〕きたる心〔こころ〕には沁〔し〕む 薄〔うす〕れゆく障子〔しやうじ〕の日影〔ひかげ〕 そを見〔み〕つつ こころいつしか暗〔くら〕くなりゆく ひやひやと 夜〔よる〕は薬〔くすり〕の香〔か〕のにほふ 医者〔いしや〕が住〔す〕みたるあとの家〔いへ〕かな 窓〔まど〕硝子〔ガラス〕 塵〔ちり〕と雨〔あめ〕とに曇〔くも〕りたる窓〔まど〕硝子〔ガラス〕にも かなしみはあり 六年〔むとせ〕ほど日毎〔ひごと〕日毎〔ひごと〕にかぶりたる 古〔ふる〕き帽子〔ばうし〕も 棄〔す〕てられぬかな こころよく 春〔はる〕のねむりをむさぼれる 目〔め〕にやはらかき庭〔にわ〕の草〔くさ〕かな 赤煉瓦〔あかれんぐわ〕遠〔とほ〕くつづける高塀〔たかべい〕の むらさきに見〔み〕えて 春〔はる〕の日〔ひ〕ながし 春〔はる〕の雪〔ゆき〕 銀座〔ぎんざ〕の裏〔うら〕の三〔さん〕階〔がい〕の煉瓦〔れんぐわ〕造〔づくり〕に やはらかに降〔ふ〕る よごれたる煉瓦〔れんぐわ〕の壁〔かべ〕に 降〔ふ〕りて融〔と〕け降〔ふ〕りては融〔と〕くる 春〔はる〕の雪〔ゆき〕かな 目〔め〕を病〔や〕める 若〔わか〕き女〔をんな〕の寄〔よ〕りかかる 窓〔まど〕にしめやかに春〔はる〕の雨〔あめ〕降〔ふ〕る あたらしき木〔き〕のかをりなど ただよへる 新開町〔しんかいまち〕の春〔はる〕の静〔しず〕けさ 春〔はる〕の街〔まち〕 見〔み〕よげに書〔か〕ける女名〔をんなな〕の 門札〔かどふだ〕などを読〔よ〕みありくかな そことなく 蜜柑〔みかん〕の皮〔かわ〕の焼〔や〕くるごときにほひ残〔のこ〕りて 夕〔ゆふべ〕となりぬ にぎはしき若〔わか〕き女〔をんな〕の集会〔あつまり〕の こゑ聴〔き〕き倦〔う〕みて さびしくなりたり 何処〔どこ〕やらに 若〔わか〕き女〔をんな〕の死〔し〕ぬごとき悩〔なや〕ましさあり 春〔はる〕の霙〔みぞれ〕降〔ふ〕る コニヤツクの酔〔ゑ〕ひのあとなる やはらかき このかなしみのすずろなるかな 白〔しろ〕き皿〔さら〕 拭〔ふ〕きては棚〔たな〕に重〔かさ〕ねゐる 酒場〔さかば〕の隅〔すみ〕のかなしき女〔をんな〕 乾〔かわ〕きたる冬〔ふゆ〕の大路〔おほぢ〕の 何処〔いづく〕やらむ 石炭酸〔せきたんさん〕のにほひひそめり 赤赤〔あかあか〕と入日〔いりひ〕うつれる 河〔かは〕ばたの酒場〔さかば〕の窓〔まど〕の 白〔しろ〕き顔〔かほ〕かな 新〔あたら〕しきサラドの皿〔さら〕の 酢〔す〕のかをり こころに沁〔し〕みてかなしき夕〔ゆふべ〕 空色〔そらいろ〕の罎〔びん〕より 山羊〔やぎ〕の乳〔ちち〕をつぐ 手〔て〕のふるひなどいとしかりけり すがた見〔み〕の 息〔いき〕のくもりに消〔け〕されたる 酔〔ゑ〕ひのうるみの眸〔まみ〕のかなしさ ひとしきり静〔しづ〕かになれる ゆふぐれの 厨〔くりや〕にのこるハムのにほひかな ひややかに罎〔びん〕のならべる棚〔たな〕の前〔まへ〕 歯〔は〕せせる女〔をんな〕を かなしとも見〔み〕き やや長〔なが〕きキスを交〔かは〕して別〔わか〕れ来〔き〕し 深夜〔しんや〕の街〔まち〕の 遠〔とほ〕き火事〔かじ〕かな 病院〔びやうゐん〕の窓〔まど〕のゆふべの ほの白〔じろ〕き顔〔かほ〕にありたる 淡〔あは〕き見覚〔みおぼ〕え 何時〔いつ〕なりしか かの大川〔おほかは〕の遊船〔いうせん〕に 舞〔ま〕ひし女〔をんな〕をおもひ出〔で〕にけり 用〔よう〕もなき文〔ふみ〕など長〔なが〕く書〔か〕きさして ふと人〔ひと〕こひし 街〔まち〕に出〔で〕てゆく しめらへる煙草〔たばこ〕を吸へば おほよその わが思〔おも〕ふことも軽〔かろ〕くしめれり するどくも 夏〔なつ〕の来〔きた〕るを感〔かん〕じつつ 雨後〔うご〕の小庭〔こには〕の土〔つち〕の香〔か〕を嗅〔か〕ぐ すずしげに飾〔かざ〕り立〔た〕てたる 硝子〔ガラス〕屋〔や〕の前〔まへ〕にながめし 夏〔なつ〕の夜〔よ〕の月〔つき〕 君〔きみ〕来〔く〕るといふに夙〔と〕く起〔お〕き 白〔しろ〕シヤツの 袖〔そで〕のよごれを気〔き〕にする日〔ひ〕かな おちつかぬ我〔わ〕が弟〔おとうと〕の このごろの 眼〔め〕のうるみなどかなしかりけり どこやらに杭〔くひ〕打〔う〕つ音〔おと〕し 大桶〔おほをけ〕をころがす音〔おと〕し 雪〔ゆき〕ふりいでぬ 人気〔ひとけ〕なき夜〔よ〕の事務〔じむ〕室〔しつ〕に けたたましく 電話〔でんわ〕の鈴〔りん〕の鳴〔な〕りて止〔や〕みたり 目〔め〕さまして ややありて耳〔みみ〕に入〔い〕り来〔きた〕る 真夜中〔まよなか〕すぎの話〔はなし〕声〔ごゑ〕かな 見〔み〕てをれば時計〔とけい〕とまれり 吸はるるごと 心〔こころ〕はまたもさびしさに行〔ゆ〕く 朝朝〔あさあさ〕の うがひの料〔しろ〕の水薬〔すゐやく〕の 罎〔びん〕がつめたき秋〔あき〕となりにけり 夷〔なだら〕かに麦〔むぎ〕の青〔あを〕める 丘〔をか〕の根〔ね〕の 小径〔こみち〕に赤〔あか〕き小櫛〔をぐし〕ひろへり 裏山〔うらやま〕の杉生〔すぎふ〕のなかに 斑〔まだら〕なる日影〔ひかげ〕這〔は〕ひ入〔い〕る 秋〔あき〕のひるすぎ 港町〔みなとまち〕 とろろと鳴〔な〕きて輪〔わ〕を描〔えが〕く鳶〔とび〕を圧〔あつ〕せる 潮〔しほ〕ぐもりかな 小春日〔こはるび〕の曇〔くもり〕硝子〔ガラス〕にうつりたる 鳥影〔とりかげ〕を見〔み〕て すずろに思〔おも〕〔おも〕ふ ひとならび泳〔およ〕げるごとき 家家〔いへいへ〕の高低〔たかひく〕の軒〔のき〕に 冬〔ふゆ〕の日〔ひ〕の舞〔ま〕ふ 京橋〔きやうばし〕の滝山町〔たきやまちやう〕の 新聞〔しんぶん〕社〔しや〕 灯〔ひ〕ともる頃〔ころ〕のいそがしさかな よく怒〔いか〕る人〔ひと〕にてありしわが父〔ちち〕の 日〔ひ〕ごろ怒〔いか〕らず 怒〔いか〕れと思〔おも〕〔おも〕ふ あさ風〔かぜ〕が電車〔でんしや〕のなかに吹〔ふ〕き入〔い〕れし 柳〔やなぎ〕のひと葉〔は〕 手〔て〕にとりて見〔み〕る ゆゑもなく海〔うみ〕が見〔み〕たくて 海〔うみ〕に来〔き〕ぬ こころ傷〔いた〕みてたへがたき日〔ひ〕に たひらなる海〔うみ〕につかれて そむけたる 目〔め〕をかきみだす赤〔あか〕き帯〔おび〕かな 今日〔けふ〕逢〔あ〕ひし町〔まち〕の女〔をんな〕の どれもどれも 恋〔こひ〕にやぶれて帰〔かへ〕るごとき日〔ひ〕 汽車〔きしや〕の旅〔たび〕 とある野中〔のなか〕の停車場〔ていしやば〕の 夏草〔なつくさ〕の香〔か〕のなつかしかりき 朝〔あさ〕まだき やつと間〔ま〕に合〔あ〕ひし初秋〔はつあき〕の旅出〔たびで〕の汽車〔きしや〕の 堅〔かた〕き麺麭〔ぱん〕かな かの旅〔たび〕の夜汽車〔よぎしや〕の窓〔まど〕に おもひたる 我〔わ〕がゆくすゑのかなしかりしかな ふと見〔み〕れば とある林〔はやし〕の停車場〔ていしやば〕の時計〔とけい〕とまれり 雨〔あめ〕の夜〔よ〕の汽車〔きしや〕 わかれ来〔き〕て 燈火〔あかり〕小暗〔をぐら〕き夜〔よ〕の汽車〔きしや〕の窓〔まど〕に弄〔もてあそ〕ぶ 青〔あを〕き林檎〔りんご〕よ いつも来〔く〕る この酒肆〔さかみせ〕のかなしさよ ゆふ日〔ひ〕赤赤〔あかあか〕と酒〔さけ〕に射〔さ〕し入〔い〕る 白〔しろ〕き蓮沼〔はすぬま〕に咲〔さ〕くごとく かなしみが 酔〔ゑ〕ひのあひだにはつきりと浮〔う〕く 壁〔かべ〕ごしに 若〔わか〕き女〔をんな〕の泣〔な〕くをきく 旅〔たび〕の宿屋〔やどや〕の秋〔あき〕の蚊帳〔かや〕かな 取〔と〕りいでし去年〔こぞ〕の袷〔あはせ〕の なつかしきにほひ身〔み〕に沁〔し〕む 初秋〔はつあき〕の朝〔あさ〕 気〔き〕にしたる左〔ひだり〕の膝〔ひざ〕の痛〔いた〕みなど いつか癒〔なほ〕りて 秋〔あき〕の風〔かぜ〕吹〔ふ〕く 売〔う〕り売〔う〕りて 手垢〔てあか〕きたなきドイツ語〔ご〕の辞書〔じしよ〕のみ残〔のこ〕る 夏〔なつ〕の末〔すゑ〕かな ゆゑもなく憎〔にく〕みし友〔とも〕と いつしかに親〔した〕しくなりて 秋〔あき〕の暮〔く〕れゆく 赤紙〔あかがみ〕の表紙〔へうし〕手擦〔てず〕れし 国禁〔こくきん〕の 書〔ふみ〕を行李〔かうり〕の底〔そこ〕にさがす日〔ひ〕 売〔う〕ることを差〔さ〕し止〔と〕められし 本〔ほん〕の著者〔ちよしや〕に 路〔みち〕にて会〔あ〕へる秋〔あき〕の朝〔あさ〕かな 今日〔けふ〕よりは 我〔われ〕も酒〔さけ〕など呷〔あふ〕らむと思〔おも〕〔おも〕へる日〔ひ〕より 秋〔あき〕の風〔かぜ〕吹〔ふ〕く 大海〔だいかい〕の その片隅〔かたすみ〕につらなれる島島〔しまじま〕の上〔うへ〕に 秋〔あき〕の風〔かぜ〕吹〔ふ〕く うるみたる目〔め〕と 目〔め〕の下〔した〕の黒子〔ほくろ〕のみ いつも目〔め〕につく友〔とも〕の妻〔つま〕かな いつ見〔み〕ても 毛糸〔けいと〕の玉〔たま〕をころがして 韈〔くつした〕を編〔あ〕む女〔をんな〕なりしが 葡萄色〔えびいろ〕の 長椅子〔ながいす〕の上〔うへ〕に眠〔ねむ〕りたる猫〔ねこ〕ほの白〔じろ〕き 秋〔あき〕のゆふぐれ ほそぼそと 其処〔そこ〕ら此処〔ここ〕らに虫〔むし〕の鳴〔な〕く 昼〔ひる〕の野〔の〕に来〔き〕て読〔よ〕む手紙〔てがみ〕かな 夜〔よる〕おそく戸〔と〕を繰〔く〕りをれば 白〔しろ〕きもの庭〔にわ〕を走れり 犬〔いぬ〕にやあらむ 夜〔よ〕の二時〔にじ〕の窓〔まど〕の硝子〔ガラス〕を うす紅〔あか〕く 染〔そ〕めて音〔おと〕なき火事〔くわじ〕の色〔いろ〕かな あはれなる恋〔こひ〕かなと ひとり呟〔つぶや〕きて 夜半〔よは〕の火桶〔ひをけ〕に炭〔すみ〕添〔そ〕へにけり 真白〔ましろ〕なるラムプの笠〔かさ〕に 手〔て〕をあてて 寒〔さむ〕き夜〔よ〕にする物〔もの〕思〔おも〕〔おも〕ひかな 水〔みづ〕のごと 身体〔からだ〕をひたすかなしみに 葱〔ねぎ〕の香〔か〕などのまじれる夕〔ゆふべ〕 時〔とき〕ありて 猫〔ねこ〕のまねなどして笑〔わら〕ふ 三十路〔みそぢ〕の友〔とも〕のひとり住〔ず〕みかな 気弱〔きよわ〕なる斥候〔せきこう〕のごとく おそれつつ 深夜〔しんや〕の街〔まち〕を一人〔ひとり〕散歩〔さんぽ〕す 皮膚〔ひふ〕がみな耳〔みみ〕にてありき しんとして眠〔ねむ〕れる街〔まち〕の 重〔おも〕き靴音〔くつおと〕 夜〔よる〕おそく停車場〔ていしやば〕に入〔い〕り 立〔た〕ち坐〔すわ〕り やがて出〔い〕でゆきぬ帽〔ばう〕なき男〔をとこ〕 気〔き〕がつけば しつとりと夜霧〔よぎり〕下〔お〕りて居〔を〕り ながくも街〔まち〕をさまよへるかな 若〔も〕しあらば煙草〔たばこ〕恵〔めぐ〕めと 寄〔よ〕りて来〔く〕る あとなし人〔びと〕と深夜〔しんや〕に語〔かた〕る 曠野〔あらの〕より帰〔かへ〕るごとくに 帰〔かへ〕り来〔き〕ぬ 東京〔とうきやう〕の夜〔よ〕をひとりあゆみて 銀行〔ぎんかう〕の窓〔まど〕の下〔した〕なる 舗石〔しきいし〕の霜〔しも〕にこぼれし 青〔あを〕インクかな ちよんちよんと とある小藪〔こやぶ〕に頬白〔ほほじろ〕の遊〔あそ〕ぶを眺〔なが〕む 雪〔ゆき〕の野〔や〕の路〔みち〕 十月〔じふぐわつ〕の朝〔あさ〕の空気〔くうき〕に あたらしく 息〔いき〕吸〔す〕ひそめし赤坊〔あかんぼ〕のあり 十月〔じふぐわつ〕の産〔さん〕病院〔びやうゐん〕の しめりたる 長〔なが〕き廊下〔ろうか〕のゆきかへりかな むらさきの袖〔そで〕垂〔た〕れて 空〔そら〕を見上〔みあ〕げゐる支那〔しな〕人〔じん〕ありき 公園〔こうゑん〕の午後〔ごご〕 孩児〔をさなご〕の手〔て〕ざはりのごとき 思〔おも〕〔おも〕ひあり 公園〔こうゑん〕に来〔き〕てひとり歩〔あゆ〕めば ひさしぶりに公園〔こうゑん〕に来〔き〕て 友〔とも〕に会〔あ〕ひ 堅〔かた〕く手〔て〕握〔にぎ〕り口疾〔くちど〕に語〔かた〕る 公園〔こうゑん〕の木〔こ〕の間〔ま〕に 小鳥〔ことり〕あそべるを ながめてしばし憩〔いこ〕ひけるかな 晴〔は〕れし日〔ひ〕の公園〔こうゑん〕に来〔き〕て あゆみつつ わがこのごろの衰〔おとろ〕へを知〔し〕る 思出〔おもひで〕のかのキスかとも おどろきぬ プラタスの葉〔は〕の散〔ち〕りて触〔ふ〕れしを 公園〔こうゑん〕の隅〔すみ〕のベンチに 二度〔にど〕ばかり見〔み〕かけし男〔をとこ〕 このごろ見〔み〕えず 公園〔こうゑん〕のかなしみよ 君〔きみ〕の嫁〔とつ〕ぎてより すでに七月〔ななつき〕来〔き〕しこともなし 公園〔こうゑん〕のとある木蔭〔こかげ〕の捨椅子〔すていす〕に 思〔おも〕〔おも〕ひあまりて 身〔み〕をば寄〔よ〕せたる 忘られぬ顔〔かほ〕なりしかな 今日〔けふ〕街〔まち〕に 捕吏〔ほり〕にひかれて笑〔ゑ〕める男〔をとこ〕は マチ擦〔す〕れば 二〔に〕尺〔しやく〕ばかりの明〔あか〕るさの 中〔なか〕をよぎれる白〔しろ〕き蛾〔が〕のあり 目〔め〕をとぢて 口〔くち〕笛〔くちぶえ〕かすかに吹〔ふ〕きてみぬ 寐〔ね〕られぬ夜〔よ〕の窓〔まど〕にもたれて わが友〔とも〕は 今日〔けふ〕も母〔はは〕なき子〔こ〕を負〔お〕ひて かの城址〔しろあと〕にさまよへるかな 夜〔よる〕おそく つとめ先〔つとめさき〕よりかへり来〔き〕て 今〔いま〕死〔し〕にしてふ児〔こ〕を抱〔だ〕けるかな 二三〔ふたみ〕こゑ いまはのきはに微〔かす〕かにも泣〔な〕きしといふに なみだ誘〔さそ〕はる 真白〔ましろ〕なる大根〔だいこん〕の根〔ね〕の肥〔こ〕ゆる頃〔ころ〕 うまれて やがて死〔し〕にし児〔こ〕のあり おそ秋〔あき〕の空気〔くうき〕を 三尺四方〔さんじやくしはう〕ばかり 吸〔す〕ひてわが児〔こ〕の死〔し〕にゆきしかな 死〔し〕にし児〔こ〕の 胸〔むね〕に注射〔ちうしや〕の針〔はり〕を刺〔さ〕す 医者〔いしや〕の手〔て〕もとにあつまる心〔こころ〕 底〔そこ〕知〔し〕れぬ謎〔なぞ〕に対〔むか〕ひてあるごとし 死児〔しじ〕のひたひに またも手〔て〕をやる かなしみの強〔つよ〕くいたらぬ さびしさよ わが児〔こ〕のからだ冷〔ひ〕えてゆけども かなしくも 夜〔よ〕明〔あ〕くるまでは残〔のこ〕りゐぬ 息〔いき〕きれし児〔こ〕の肌〔はだ〕のぬくもり                      ー(をはり)ー 明治四十三年十一月廿八日印刷 明治四十三年十二月 一日発行      著 者  石 川 啄 木      発行者  西 村 寅次郎      印刷者  横 田 五十吉      印刷所  横 田 活版所 発行所     東 雲 堂 書 店 ■このファイルについて 標題:一握の砂 著者:石川啄木 本文:「一握の砂」 明治43年2月1日発行(初版)    (新選 名著復刻全集 近代文学館   昭和47年4月10日 発行) 参照:啄木全集 第一巻 歌集      1967年6月30日 初版第一刷発行      1972年6月30日 初版第六刷発行      発行所 筑摩書房
表記:原文の表記を尊重しますが、読みやすさに配慮して、以下のように扱います。 ○旧字体は、現行の新字体に変えました。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。 ○本文の仮名づかいは、底本通りとしました。 ○底本通り総ルビをふりました。 ただし、427首目の「我」だけには、ルビが振られていません。ルビは追加せず、そのままにしてあります。 入力:今井安貴夫 ファイル作成:里実工房 公開:2005年3月12日 里実文庫