若菜集      島崎藤村 こゝろなきうたのしらべは ひとふさのぶだうのごとし なさけあるてにもつまれて あたゝかきさけとなるらむ ぶだうだなふかくかゝれる むらさきのそれにあらねど こゝろあるひとのなさけに かげにおくふさのみつよつ そはうたのわかきゆゑなり あぢはひもいろもあさくて おほかたはかみてすつべき うたゝねのゆめのそらごと 明治二十九年の秋より三十年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は青葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌はまだ萌出しまゝの若菜なるをや。 ――――――――――――     目 次 おふゆ…………………一 おきぬ…………………六 おさよ…………………九 おくめ………………一六 おつた………………二〇 おきく………………二五 明星…………………三二 ―――――――――――― ―――――――――――― 草枕…………………三五 潮音…………………四七 春の歌………………四八 新暁…………………五〇 若水…………………五一 春の歌………………五三 佐保姫………………五六 春の曲………………五九 酔歌…………………六一 ―――――――――――― ―――――――――――― 二つの声……………六四 白壁…………………六七 四つの袖……………六八 暗香…………………七〇 蓮花舟………………七九 葡萄の樹のかげ……八四 高楼…………………九〇 天馬…………………九七 哀歌………………一〇六 ―――――――――――― ―――――――――――― 母を葬るのうた…一二四 梭の音……………一二八 かもめ……………一二九 流星………………一三〇 夏の夜……………一三〇 昼の夢……………一三二 東西南北…………一三三 懐古………………一三四 秋の歌……………一三八 ―――――――――――― ―――――――――――― 初恋………………一四〇 狐のわざ…………一四二 相思………………一四三 一得一失…………一四四 傘のうち…………一四六 ゑにし……………一四八 知るや君…………一四八 秋風の歌…………一五〇 雲のゆくえ………一五四 ―――――――――――― ―――――――――――― 逃げ水……………一五五 月光………………一五七 強敵………………一五八 別離………………一六〇 望郷………………一六四 葡萄栗鼠の木彫の観て… ……………………一六六 鶏…………………一六八 深林の逍遙………一七九 ―――――――――――― 若 菜 集              島崎藤村著   おえふ 処女[をとめ]ぞ経[へ]ぬるおほかたの われは夢路[ゆめぢ]を越えてけり わが世の坂にふりかへり いく山河[やまかは]をながむれば 水[みづ]静[しづか]なる江戸川の ながれの岸にうまれいで 岸の桜の花影[はなかげ]に われは処女[をとめ]となりにけり 都鳥[みやこどり]浮[う]く大川[おほかわ]に 流れてそゝぐ川添[かはぞひ]の 白菫[しろすみれ]さく若草[わかぐさ]に 夢多かりし吾身かな 雲むらさきの九重[こゝのへ]の 大宮内につかへして 清涼殿の春の夜[よ]の 月の光に照らされつ 雲を彫[ちりば]め濤[なみ]を刻[ほ]り 霞[かすみ]をうかべ日をまねく 玉の台[うてな]の欄干に かゝるゆふべの春の雨 さばかり高き人の世の 耀[かがや]くさまを目にも見て ときめきたまふさまざまの ひとりのころもの香[か]をかげり きらめき初[そ]むる暁星[あかぼし]の あしたの空に動くごと あたりの光きゆるまで さかえの人のさまも見き 天[あま]つみそらを渡る日の 影かたぶけるごとくにて 名[な]の夕暮[ゆふぐれ]に消えて行く 秀[ひい]でし人の末路[はて]も見き 春志(し)づかなる御園生[みそのふ]の 花に隠れて人を哭[な]き 秋のひかりの窓に倚り 夕雲[ゆふぐも]とほき友を恋[こ]ふ ひとりの姉をうしなひて 大宮内の門[かど]を出で けふ江戸川に来[き]て見れば 秋はさみしきながめかな 桜の霜葉[しもは]黄[き]に落ちて ゆきてかへらぬ江戸川や 流れゆく水|静[しづか]にて あゆみは遅きわがおもひ おのれも知らず世を経[ふ]れば 若き命[いのち]に絶えかねて 岸のほとりの草を藉[し]き 微笑[ほゝえ]みて泣く吾身かな   おきぬ みそらをかける猛鷲[あらわし]の 人の処女[をとめ]の身に落ちて 花の姿に宿[やど]かれば 風雨[あらし]に渇[かわ]き雲に饑[う]ゑ 天翅[あまかけ]るべき術[すべ]をのみ 願ふ心のなかれとて 黒髪[くろかみ]長き吾身こそ うまれながらの盲目[めしひ]なれ 芙蓉を前[さき]の身とすれば 泪[なみだ]は秋の花の露 小琴[をごと]を前[さき]の身とすれば 愁[うれひ]は細き糸[いと]の音[おと] いま前[さき]の世は鷲の身の 処女[をとめ]にあまる羽翼[つばさ]かな あゝあるときは吾心 あらゆるものをなげうちて 世はあぢきなき浅茅生[あさぢふ]の 茂れる宿[やど]と思ひなし 身は術[すべ]もなき蟋蟀[こほろぎ]の 夜[よる]の野草[のぐさ]にはひめぐり たゞいたづらに音[ね]をたてゝ うたをうたふと思ふかな 色[いろ]にわが身をあたふれば 処女[をとめ]のこゝろ鳥となり 恋に心をあたふれば 鳥の姿は処女[をとめ]にて 処女ながらも空[そら]の鳥 猛鷲[あらわし]ながら人の身の 天[あめ]と地[つち]とに迷ひゐる 身の定めこそ悲しけれ   おさよ 潮[うしほ]さみしき荒磯[あらいそ]の 巌陰[いはかげ]われは生れけり あしたゆふべの白駒[しろごま]と 故郷[ふるさと]遠きものおもひ をかしくものに狂へりと われをいふらし世のひとの げに狂はしの身なるべき この年までの処女[をとめ]とは うれひは深く手もたゆく むすぼゝれたるわが思[おもひ] 流れて熱[あつ]きわがなみだ やすむときなきわがこゝろ 乱[みだ]れてものに狂ひよる 心を笛の音[ね]に吹かん 笛をとる手は火にもえて うちふるひけり十[とを]の指[ゆび] 音[ね]にこそ渇[かわ]け口唇[くちびる]の 笛を尋ぬる風情[ふぜい]あり はげしく深きためいきに 笛の小竹[をだけ]や曇るらん 髪は乱れて落つるとも まづ吹き入るゝ気息[いき]を聴[き]け 力[ちから]をこめし一ふしに 黄楊[つげ]のさし櫛[ぐし]落ちてけり 吹けば流るゝ流るれば 笛吹き洗ふわが涙 短き笛の節[ふし]の間[ま]も 長き思[おもひ]のなからずや 七つの情[こゝろ]声を得て 音[ね]をこそきかめ歌神[うたがみ]も われ喜[よろこび]を吹くときは 鳥も梢[こずゑ]に音[ね]をとゞめ 怒[いかり]をわれの吹くときは 瀬[せ]を行く魚も淵[ふち]にあり われ哀[かなしみ]を吹くときは 獅子[しゝ]も涙をそゝぐらむ われ楽[たのしみ]を吹くときは 虫も鳴く音[ね]をやめつらむ 愛[あい]のこゝろを吹くときは 流るゝ水のたち帰り 悪[にくみ]をわれの吹くときは 散り行く花も止[とどま]りて 慾[よく]の思[おもひ]を吹くときは 心の闇[やみ]の響[ひびき]あり うたへ浮世[うきよ]の一ふしは 笛の夢路[ゆめぢ]のものぐるひ くるしむなかれ吾友[わがとも]よ 志(し)ばしは笛の音[ね]に帰れ 落つる涙をぬぐひきて 静かにきゝね吾笛を   おくめ こひしきまゝに家を出[い]で こゝの岸よりかの岸へ 越えましものと来[き]て見れば 千鳥鳴くなり夕[ゆふ]まぐれ こひには親も捨てはてゝ やむよしもなき胸の火や 鬢[びん]の毛[け]を吹く河風よ せめてあはれと思へかし 河波[かはなみ]暗[くら]く瀬[せ]を早[はや]み 流れて巌[いは]に砕[くだ]くるも 君を思へば絶間なき 恋の火炎[ほのほ]に乾[かわ]くべし きのふの雨の小休[をやみ]なく 水嵩[みかさ]や高くまさるとも よひよひになくわがこひの 涙の滝におよばじな 志(し)りたまはずやわがこひは 花鳥[はなとり]の絵にあらじかし 空鏡[かゞみ]の印象[かたち]砂[すな]の文字[もじ] 梢の風[かぜ]の音にあらじ 志(し)りたまはずやわがこひは 雄々[をゝ]しき君の手に触れて 嗚呼|口紅[くちべに]をその口に 君にうつさでやむべきや 恋は吾身の社[やしろ]にて 君は社の神なれば 君の祭壇[つくへ]の上ならで なにゝいのちを捧[さゝ]げまし 砕[くだ]かば砕け河波[かはなみ]よ われに命[いのち]はあるものを 河波高く泳ぎ行き ひとりの神にこがれなむ 心のみかは手も足も 吾身はすべて火炎[ほのほ]なり 思ひ乱れて嗚呼恋の 千筋[ちすぢ]の髪の波に流るゝ   おつた 花|仄[ほの]見[み]ゆる春の夜の すがたに似たる吾命[わがいのち] 朧々[おぼろおぼろ]に父母[ちゝはゝ]は 二つの影と消えうせて 世に孤児[みなしご]の吾身こそ 影より出でし影なれや たすけもあらぬ今は身は 若き聖[ひじり]に救はれて 人なつかしき前髪[まへがみ]の 処女[をとめ]とこそはなりにけれ 若き聖[ひじり]ののたまはく 時をし待たむ君ならば かの柿の実[み]をとるなかれ かくいひたまふうれしさに ことしの秋もはや深し まづその秋を見よやとて 聖[ひじり]に柿をすゝむれば その口唇[くちびる]にふれたまひ かくも色よき柿ならば などかは早くわれに告げこぬ 若[わか]き聖[ひじり]のゝたまはく 人の命の惜[を]しからば 嗚呼かの酒を飲むなかれ かくいひたまふうれしさに 酒なぐさめの一つなり まづその春を見よやとて 聖[ひじり]に酒をすゝむれば 夢の心地に酔ひたまひ かくも楽しき酒ならば などかは早くわれに告げこぬ 若[わか]き聖[ひじり]のゝたまはく 道行き急[いそ]ぐ君ならば 迷ひの歌をきくなかれ かくいひたまふうれしさに 歌も心の姿[すがた]なり まづその声をきけやとて 一ふしうたひいでければ 聖[ひじり]は魂[たま]も酔ひたまひ かくも楽しき歌ならば などかは早くわれに告げこぬ 若[わか]き聖[ひじり]のゝたまはく まことをさぐる吾身なり 道の迷となるなかれ かくいひたまふうれしさに 情[なさけ]も道の一つなり かゝる思[おもひ]を見よやとて わがこの胸に指ざせば 聖は早く恋ひわたり かくも楽しき恋ならば などかは早くわれに告げこぬ それ秋の日の夕まぐれ そゞろあるきのこゝろなく ふと目に入るを手にとれば 雪[ゆき]より白き小石[こいし]なり 若[わか]き聖[ひじり]のゝたまはく 智恵の石とやこれぞこの あまりに惜しき色なれば 人に隠[かく]して今も放[は]なたじ   おきく くろかみながく     やはらかき をんなごゝろを     たれか志(し)る をとこのかたる     ことのはを まことゝおもふ     ことなかれ をとめごゝろの     あさくのみ いひもつたふる     をかしさや みだれてながき     鬢[びん]の毛[け]を 黄楊[つげ]の小櫛[をぐし]に     かきあげよ あゝ月[つき]ぐさの     きえぬべき こひもするとは     たがことば こひて死なんと     よみいでし あつきなさけは     たがうたぞ みちのためには     ちをながし くにゝは死ぬる     をとこあり 治兵衛はいづれ     恋[こひ]か名[な]か 忠兵衛も名の     ために果[は]つ あゝむかしより     こひ死にし をとこのありと     志(し)るや君 をんなごゝろは     いやさらに ふかきなさけの     こもるかな 小春はこひに     ちをながし 梅川こひの     ために死ぬ お七はこひの     ために焼け 高尾はこひの     ために果[は]つ かなしからずや     清姫は 蛇[へび]となれるも     こひゆゑに やさしからずや     佐容姫は 石となれるも     こひゆゑに をとこのこひの     たはふれは たびにすてゆく     なさけのみ こひするなかれ     をとめごよ かなしむなかれ     わがともよ こひするときと     かなしみと いづれかながき     いづれみじかき   明 星 浮べる雲と身をなして あしたの空に出でざれば などしるらめや明星の 光の色のくれなゐを 朝の潮[うしほ]と身をなして 流れて海に出でざれば など志(し)るらめや明星の 清[す]みて哀[かな]しききらめきを なにかこひしき暁星[あかぼし]の 空[むな]しき天[あま]の戸を出でゝ 深くも遠きほとりより 人の世近く来[きた]るとは 潮[うしほ]の朝のあさみどり 水底[みなそこ]深き白石を 星の光に透[す]かし見て 朝[あさ]の齢[よはひ]を数ふべし 野の鳥ぞ啼く山河[やまかは]も ゆふべの夢をさめいでゝ 細く棚引く志(し)のゝめの 姿をうつす朝ぼらけ 小夜[さよ]には小夜の志(し)らべあり 朝には朝の音[ね]もあれど 星の光の絲[いと]の緒[を]に あしたの琴は静[しづか]なり まだうら若き朝の空 きらめきわたる星のうち いといと若き光をば 名[なづ]けましかば明星と   草 枕 夕波くらく啼く千鳥 われは千鳥にあらねども 心の羽[はね]をうちふりて さみしきかたに飛べるかな 若き心の一筋に なぐさめもなくなげきわび 胸の氷のむすぼれて とけて涙となりにけり 蘆葉[あしは]を洗ふ白波の 流れて巌[いは]を出づるごと 思ひあまりて草枕 まくらのかずの今いくつ かなしいかなや人の身の なきなぐさめを尋ね侘び 道なき森に分け入りて などなき道をもとむらん われもそれかやうれひかや 野末に山に谷蔭[たにかげ]に 見るよしもなき朝夕の 光もなくて秋暮れぬ 想[おもひ]も薄く身も暗く 残れる秋の花を見て 行へもしらず流れ行く 水に涙の落つるかな 身を朝雲[あさぐも]にたとふれば ゆふべの雲の雨となり 身を夕雨[ゆふあめ]にたとふれば あしたの雨の風となる されば落葉[おちば]と身をなして 風に吹かれて飄[ひるがへ]り 朝[あさ]の黄雲[きぐも]にともなはれ 夜[よる]白河を越えてけり 道なき今の身なればか われは道なき野を慕ひ 思ひ乱れてみちのくの 宮城野にまで迷ひきぬ 心の宿[やど]の宮城野よ 乱れて熱き吾身には 日影も薄く草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ ひとりさみしき吾耳は 吹く北風を琴と聴き 悲み深き吾目には 色彩[いろ]なき石も花と見き あゝ孤独[ひとりみ]の悲痛[かなしさ]を 味ひ知れる人ならで 誰にかたらん冬の日の かくもわびしき野のけしき 都のかたをながむれば 空冬雲[そらふゆぐも]に覆はれて 身にふりかゝる玉霰[たまあられ] 袖の氷と閉ぢあへり みぞれまじりの風|勁[つよ]く 小川の水の薄氷 氷のしたに音[おと]するは 流れて海に行く水か 啼[な]いて羽風[はかぜ]もたのもしく 雲に隠るゝかさゝぎよ 光もうすき寒空[さむぞら]の 汝[なれ]も荒れたる野にむせぶ 涙も凍る冬の日の 光もなくて暮れ行けば 人めも草も枯れはてゝ ひとりさまよふ吾身かな かなしや酔ふて行く人の 踏めばくづるゝ霜柱 なにを酔ひ泣く忍び音[ね]に 声もあはれのその歌は うれしや物の音[ね]を弾[ひ]きて 野末をかよふ人の子よ 声調[しらべ]ひく手も凍りはて なに門[かど]づけの身の果ぞ やさしや年もうら若く まだ初恋のまじりなく 手に手をとりて行く人よ なにを隠るゝその姿 野のさみしさに堪へかねて 霜と霜との枯草の 道なき道をふみわけて きたれば寒し冬の海 朝は海辺[うみべ]の石の上[へ]に こしうちかけてふるさとの 都のかたを望めども おとなふものは濤[なみ]ばかり 暮はさみしき荒磯[あらいそ]の 潮[うしほ]を染めし砂に伏し 日の入るかたをながむれど 湧[わ]きくるものは涙のみ さみしいかなや荒波の 岩に砕[くだ]けて散れるとき かなしいかなや冬の日の 潮[うしほ]とゝもに帰るとき 誰か波路を望み見て そのふるさとを慕はざる 誰か潮の行くを見て この人の世を惜まざる 暦[こよみ]もあらぬ荒磯の 砂路にひとりさまよへば みぞれまじりの雨雲の 落ちて汐[うしほ]となりにけり 遠く湧きくる海の音[おと] 慣れてさみしき吾耳に 怪しやもるゝものゝ音[ね]は まだうらわかき野路の鳥 嗚呼めづらしのしらべぞと 声のゆくへをたづぬれば 緑の羽[はね]もまだ弱き それも初音か鶯の 春きにけらし春よ春 まだ白雪の積れども 若菜の萌えて色青き こゝちこそすれ砂の上[へ]に 春きにけらし春よ春 うれしや風に送られて きたるらしとや思へばか 梅が香ぞする海の辺[べ]に 磯辺に高き大巌[おほいは]の うへにのぼりてながむれば 春やきぬらん東雲[しのゝめ]の 潮[しほ]の音[ね]遠き朝ぼらけ   潮 音 わきてながるゝ やほじほの そこにいざよふ うみの琴 志(し)らべもふかし もゝかはの よろづのなみを よびあつめ ときみちくれば うらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね   春の歌 たれかおもはん鶯の 涙もこほる冬の日に 若き命は春の夜の 花にうつろふ夢の間[ま]と あゝよしさらば美酒[うまざけ]に うたひあかさん春の夜を 梅のにほひにめぐりあふ 春を思へばひと志(し)れず からくれなゐのかほばせに 流れてあつきなみだかな あゝよしさらば花影に うたひあかさん春の夜を わがみひとつもわすられて おもひわづらふこゝろだに 春のすがたをとめくれば たもとにゝほふ梅の花 あゝよしさらば琴の音に うたひあかさん春の夜を   新 暁 紅[くれなゐ]細くたなびけたる 雲とならばやあけぼのゝ        雲とならばや やみを出でゝは光ある 空とならばやあけぼのゝ        空とならばや 春の光を彩[いろど]れる 水とならばやあけぼのゝ        水とならばや 鳩に履まれてやはらかき 草とならばやあけぼのゝ        草とならばや   若 水 くめどつきせぬ わかみづを きみとくまゝし かのいづみ かわきも志(し)らぬ わかみづを きみとのまゝし かのいづみ かのわかみづと みをなして はるのこゝろに わきいでん かのわかみづと みをなして きみとながれん 花のかげ   春の歌 春はきぬ   春はきぬ 初音やさしきうぐひすよ こぞに別離[わかれ]を告げよかし 谷間に残る白雪よ 葬りかくせ去歳[こぞ]の冬 春はきぬ   春はきぬ さみしくさむくことばなく まづしくくらくひかりなく みにくゝおもくちからなく かなしき冬よ行きねかし 春はきぬ   春はきぬ 浅みどりなる新草[にひぐさ]よ とほき野面[のもせ]を画[ゑが]けかし さきては紅[あか]き春花[はるばな]よ 樹々[きゞ]の梢を染めよかし 春はきぬ   春はきぬ 霞よ雲よ動[ゆる]ぎいで 氷れる空をあたゝめよ 花の香[か]おくる春風よ 眠れる山を吹きさませ 春はきぬ   春はきぬ 春をよせくる朝汐[あさじほ]よ 蘆の枯葉[かれは]を洗ひ去れ 霞に酔へる雛鶴よ 若きあしたの空に飛べ 春はきぬ   春はきぬ うれひの芹の根を絶えて 永れるなみだ今いづこ つもれる雪の消えうせて けふの若菜と萌えよかし   佐保姫 ねむれる春ようらわかき かたちをかくすことなかれ たれこめてのみけふの日を なべてのひとのすぐすうち さめての春のすがたこそ また夢のまの風情なれ ねむげの春よさめよ春 さかしきひとのみざるまに 若紫の朝霞 かすみの袖をみにまとへ はつねうれしきうぐひすの 鳥の志(し)らべをうたへかし ねむげの春よさめよ春 ふゆのこほりにむすぼれし ふるきゆめぢをさめいでゝ やなぎのいとのみだれがみ うめのはなぐしさしそへて びんのみだれをかきあげよ ねむげの春よさめよ春 あゆめはたにの早[さ]わらびの 志(し)たもえいそぐ汝[な]があしを かたくもあげよあゆめ春 たえなるはるのいきを吹き こぞめの梅の香[か]にゝほへ   春の曲 うてや鼓の春の音 雪にうもるゝ冬の日の かなしき夢はとざされて 世は春の日とかはりけり ひけばこぞめの春霞 かすみの幕をひきとぢて 花と花とをぬふ糸は けさもえいでしあをやなぎ 霞のまくをひきあけて 春をうかゞふことなかれ はなさきにほふ蔭をこそ 春の台[うてな]といふべけれ 小蝶よ花にたはぶれて 優しき夢をみては舞ひ 酔ふて羽袖もひらひらと はるの姿をまひねかし 緑のはねのうくひすよ 梅の花笠ぬひそへて ゆめ静なるはるの日の 志(し)らべを高く歌へかし   酔 歌 旅と旅との君や我 君と我とのなかなれば 酔ふて袂[たもと]の歌草[うたぐさ]を 醒めての君に見せばやな 若き命も過ぎぬ間[ま]に 楽しき春は老いやすし 誰[た]が身にもてる宝[たから]ぞや 君くれなゐのかほばせは 君がまなこに涙あり 君が眉には憂愁[うれひ]あり 堅[かた]く結べるその口に それ声も無きなげきあり 名もなき道を説くなかれ 名もなき旅を行くなかれ 甲斐なきことをなげくより 来りて美[うま]き酒に泣け 光もあらぬ春の日の 独りさみしきものぐるひ 悲しき味の世の智恵に 老いにけらしな旅人よ 心の春の燭火[ともしび]に 若き命を照らし見よ さくまを待たで花散らば 哀[かな]しからずや君が身は わきめもふらで急[いそ]ぎ行く 君の行衛はいづこぞや 琴花酒[ことはなさけ]のあるものを とゞまりたまへ旅人よ   二つの声    朝 たれか聞くらん朝の声 眠[ねむり]と夢を破りいで 彩[あや]なす雲にうちのりて よろづの鳥に歌はれつ 天のかなたにあらはれて 東の空に光[ひかり]あり そこに時[とき]あり始[はじめ]あり そこに道[みち]あり力[ちから]あり そこに色あり詞[ことば]あり そこに声あり命[いのち]あり そこに名ありとうたひつゝ みそらにあがり地にかけり のこんの星ともろともに 光[ひかり]のうちに朝ぞ隠るゝ    暮 たれか聞くらん暮の声 霞の翼[つばさ]雲の帯 煙の衣[ころも]露の袖 つかれてなやむあらそひを 闇のかなたに投[な]げ入れて 夜[よる]の使[つかひ]の蝙蝠の 飛ぶ間[ま]も声のをやみなく こゝに影あり迷[まよひ]あり こゝに夢あり眠[ねむり]あり こゝに闇あり休息[やすみ]あり こゝに永[なが]きあり遠きあり こゝに死[し]ありとうたひつゝ 草木[くさき]にいこひ野にあゆみ かなたに落つる日とゝもに 色なき闇[やみ]に暮ぞ隠るゝ   白 壁 たれかしるらん花ちかき 高楼[たかどの]われはのぼりゆき みだれて熱[あつ]きくるしみを うつしいでけり白壁[しらかべ]に 唾[つば]に志(し)るせし文字[もじ]なれば ひと志(し)れずこそ乾きけれ あゝあゝ白[しろ]き白壁[しらかべ]に わがうれひありなみだあり   四つの袖 をとこの気息[いき]のやはらかき お夏の髪にかゝるとき をとこの早きためいきの 霰[あられ]のごとくはしるとき をとこの熱[あつ]き手の掌[ひら]の お夏の手にも触るゝとき をとこの涙ながれいで お夏の袖にかゝるとき をとこの黒き目のいろの お夏の胸に映[うつ]るとき をとこの紅[あか]き口唇[くちびる]の お夏の口にもゆるとき 人こそ志(し)らね嗚呼恋の ふたりの身より流れいで げにこがるれど慕へども やむときもなき清十郎   暗 香     はるのよはひかりはかりとおもひしを           志(し)ろきやうめのさかりなるらむ   姉 わかきいのちの     をしければ やみにも春の     かに酔はん せめてこよひは     さほひめよ はなさくかげに     うたへかし   妹 そらもゑへりや     はるのよは ほしもかくれて     みえわかず よめにもそれと     ほの志(し)ろく みだれてにほふ     うめのはな   姉 はるのひかりの     こひしさに かたちをかくす     うぐひすよ はなさへしるき     はるのよの やみをおそるゝ     ことなかれ   妹 うめをめぐりて     ゆくみづの やみをながるゝ     せゝらぎや ゆめもさそはぬ     香[か]なりせば いづれかよるに     にほはまし   姉 こぞのこよひは     わがともの うすこうばいの     そめごろも ほかげにうつる     さかづきを こひのみゑへる     よなりけり   妹 こぞのこよひは     わがともの なみだをうつす     よのなごり かげもかなしや     木下川に うれひ志(し)づみし     よなりけり   姉 こぞのこよひは     わがともの おもひ八(は)はるの     よのゆめや よをうきものに     いでたまふ ひとめをつゝむ     よなりけり   妹 こぞのこよひは     わがともの そでのかすみの     はなむしろ ひくやことのね     たかじほを うつしあはせし     よなりけり   姉 わがみぎのてに     くらぶれば やさしきなれが     たなごゝろ ふるればいとゞ     やはらかに もゆるかあつく     おもほゆる   妹 もゆるやいかに     こよひはと とひたまふこそ     うれしけれ 志(し)りたまはずや     うめがかに わがうまれてし     はるのよを   蓮花舟    志(し)は志(し)はもこほるゝつゆははちすはの                うきはにのみもたまりけるかな   姉 あゝはすのはな     はすのはな かげはみえけり     いけみづに ひとつのふねに     さをさして うきはをわけて     こぎいでん   妹 かぜもすゞしや     はがくれに そこにも志(し)ろし     はすのはな こゝにもあかき     はすばなの みづ志(し)づかなる     いけのおも   姉 はすをやさしみ     はなをとり そでなひたしそ     いけみづに ひとめもはぢよ     はなかげに なれが乳房[ちぶさ]の     あらはるゝ   妹 ふかくもすめる     いけみづの はにすれてゆく     みなれざを なつぐもゆけば     かげみえて はなよりはなを     わたるらし   姉 荷葉にうたひ     ふねにのり はなつみのする     なつのゆめ はすのはなふね     さをとめて なにをながむる     そのすがた   妹 なみ志づかなる     はなかげに きみのかたちの     うつるかな きみのかたちと     なつばなと いづれうるはし     いづれやさしき   葡萄の樹のかげ    はるあきにおもひみたれてわきかねつ          ときにつけつゝうつるこゝろは   妹 たのしからずや     はなやかに あきはいりひの     てらすとき たのしからずや     ぶだうばの はごしにくもの     かよふとき   姉 やさしからずや     むらさきの ぶだうのふさの     かゝるとき やさしからずや     にいぼしの ぶだうのたまに     うつるとき   妹 かぜは志(し)づかに     そらすみて あきはたのしき     ゆふまぐれ いつまでわかき     をとめごの たのしきゆめの     われらぞや   姉 あきのぶだうの     きのかげの いかにやさしく     ふかくとも てにてをとりて     かげをふむ なれとわかれて     なにかせむ   妹 げにやかひなき     くりごとも ぶだうに志(し)かじ     ひとふさの われにあたへよ     ひとふさを そこにかゝれる     むらさきの   姉 われを志(し)れかし     えだたかみ とゞかじものを     かのふさは はかげのたまに     てはふれて わがさしぐしの     おちにけるかな   高 楼    わかれゆくひとををしむとこよひより          とほきゆめちにわれやまとはん   妹 とほきわかれに     たへかねて このたかどのに     のぼるかな かなしむなかれ     わがあねよ たびのころもを     とゝのへよ   姉 わかれといへば     むかしより このひとのよの     つねなるを ながるゝみづを     ながむれば ゆめはづかしき     なみだかな   妹 志(し)たへるひとの     もとにゆく きみのうへこそ     たのしけれ ふゆやまこえて     きみゆかば なにをひかりの     わがみぞや   姉 あゝはなとりの     いろにつけ ぬにつけわれを     おもへかし けふわかれては     いつかまた あひみるまでの     いのちかも   妹 きみがさやけき     めのいろも きみくれなゐの     くちびるも きみがみどりの     くろかみも またいつかみん     このわかれ   姉 なれがやさしき     なぐさめも なれがたのしき     うたごゑも なれがこゝろの     ことのねも またいつきかん     このわかれ   妹 きみのゆくべき     やまかはゝ おつるなみだに     みえわかず そでの志(し)ぐれの     ふゆのひに きみにおくらん     はなもがな   姉 そでにおほへる     うるはしき ながかほばせを     あげよかし ながくれなゐの     かほばせに ながるゝなみだ     われはぬぐはん   天 馬    序 老[おい]は若[わかき]は越[こ]しかたに 文[ふみ]に照らせどまれらなる 奇[く]しきためしは箱根山 弥生の末のゆふまぐれ 南の天[あま]の戸[と]をいでゝ よなよな北の宿に行く 血の深紅[くれなゐ]の星の影 かたくななりし男さへ 星の光を眼に見ては 身にふりかゝる凶禍[まがごと]の 天の兆[しるし]とうたがへり 総鳴[そうなき]に鳴く鶯の にほひいでたる声をあげ さへづり狂ふ音[ね]をきけば げにめづらしき春の歌 春を得知らぬ処女[をとめ]さへ かのうぐひすのひとこゑに 枕の紙のしめりきて 人なつかしきおもひあり まだ時ならぬ白百合の 籬[まがき]の陰にさける見て 九十九[つくも]の翁うつし世の こゝろの慾の夢を恋ひ 音[ね]をだにきかぬ雛鶴の 軒[のき]の榎樹[えのき]に来[き]て鳴けば 寝覚の老嫗[おうな]後の世の 花の台[うてな]に泣きまどふ 空にかゝれる星のいろ 春さきかへる夏花[なつはな]や 是わざはひにあらずして よしや兆[しるし]といへるあり なにを酔ひ鳴く春鳥[はるどり]よ なにを告げくる鶴の声 それ鳥の音[ね]に卜[うらな]ひて よろこびありと祝ふあり 高き聖[ひじり]のこの村に 声をあげさせたまふらん 世を傾けむ麗人[よきひと]の 茂れる賤の春草[はるぐさ]に いでたまふかとのゝしれど 誰か志(し)るらん新星[にひほし]の まことの北をさしゝめし さみしき蘆の湖[みづうみ]の 沈める水に映つるとき 名もなき賤の片びさし 春の夜風[よかぜ]の音[おと]を絶え 村の南のかたほとり その夜生れし牝[め]の馬は 流るゝ水の藍染[あゐぞめ]の 青毛[あをげ]やさしき姿なり 北に生れし雄[を]の馬の 栗毛にまじる紫は 色あけぼのゝ春霞 光をまとふ風情あり 星のひかりもをさまりて 噂に残る鶴の音や 啼く鶯に花ちれば 嗚呼この村に生れてし 馬のありとや問ふ人もなし   雄 馬 あな天雲[あまぐも]にともなはれ 緑の髪をうちふるひ 雄馬[をうま]は人に随ひて 箱根の嶺[みね]を下[くだ]りけり 胸は踴りて八百潮[やほじほ]の かの蒼溟[わたつみ]に湧くごとく 喉[のど]はよせくる春濤[はるなみ]を 飲めども渇く風情あり 目はひさかたの朝の星 睫毛[まつげ]は草の浅緑[あさみどり] うるほひ光る眼瞳[ひとみ]には 千里[ちさと]の外もほがらにて 東に照らし西に入る 天つみそらを渡る日の 朝日夕日の行衛さへ 雲の絶間に極むらん 二つの耳をたとふれば いと幽[かすか]なる朝風[あさかぜ]に そよげる草の葉のごとく 蹄の音[おと]をたとふれば 紫金[しこん]の色のやきがねを 高くも叩く響あり 狂へば長き鬣の うちふりうちふる乱れ髪 燃えてはめぐる血の汐[しほ]の 流れて踴[をど]る春の海 噴[は]く紅[くれなゐ]の光には 火炎[ほのほ]の気息[いき]もあらだちて 深くも遠き嘶声[いなゝき]は 大神[おほがみ]の住む梁[うつばり]の 塵[ちり]を動かす力あり あゝ朝鳥[あさとり]の音をきゝて 富士の高根の雪に鳴き 夕つげわたる鳥の音に 木曽の御嶽[みたけ]の巌[いは]を越え かの青雲[あをぐも]に嘶きて 天[そら]より天[そら]の電影[いなづま]の 光の末に隠るべき 雄馬の身にてありながら なさけもあつくなつかしき 主人[あるじ]のあとをとめくれば 箱根も遠し三井寺や 日も暖[あたゝか]に花深く さゝなみ青き湖[みづうみ]の 岸の此彼[こちごち]草を行く 天の雄馬のすがたをば 誰かは思ひ誰か知る 志らずや人の天雲[あまぐも]に 歩むためしはあるものを 天馬の下[お]りて大土[おほづち]に 歩むためしのなからめや 見よ藤の葉の影深く 岸の若草|香[か]にいでて 春花に酔ふ蝶の夢 そのかげを履む雄馬には 一つの紅[あか]き春花[はるはな]に 見えざる神の宿[やどり]あり 一つうつろふ野の色に つきせぬ天のうれひあり 嗚呼|鷲鷹[わしたか]の飛ぶ道に 高く懸れる大空[おほぞら]の 無限[むげん]の絃[つる]に触れて鳴り 男神[をがみ]女神[めがみ]に戯れて 照る日の影の雲に鳴き 空に流るゝ満潮[みちしほ]を 飲みつくすとも渇[かわ]くべき 天馬よ汝[なれ]が身を持ちて 鳥のきて啼く鳰[にほ]の海 花橘の蔭を履む その姿こそ雄々しけれ   牝 馬 青波[あをなみ]深きみづうみの 岸のほとりに生れてし 天の牝馬[めうま]は東[あづま]なる かの陸奥[みちのく]の野に住めり 霞に霑[うるほ]ひ風に擦[す]れ 音[おと]もわびしき枯くさの すゝき尾花にまねかれて 荒野[あれの]に嘆く牝馬かな 誰か燕の声を聞き たのしきうたを耳にして 日も暖かに花深き 西も空をば慕はざる 誰か秋鳴くかりがねの かなしき歌に耳たてゝ ふるさとさむき遠天[とほぞら]の 雲の行衛を慕はざる 白き羚羊[ひつじ]に見まほしく 透[す]きては深く柔軟[やはらか]き 眼[まなこ]の色のうるほひは 吾が古里を忍べばか 蹄も薄く肩痩せて 四つの脚[あし]さへ細りゆき その鬣の艶[つや]なきは 荒野[あれの]の空に嘆けばか 春は名取[なとり]の若草や 病める力に石を引き 夏は国分[こくぶ]の嶺[みね]を越え 牝馬にあまる塩を負ふ 秋は広瀬の川添の 紅葉の蔭にむちうたれ 冬は野末に日も暮れて みぞれの道の泥に饑ゆ 鶴よみそらの雲に飽き 朝の霞の香[か]に酔ひて 春の光の空を飛ぶ 羽翼[つばさ]の色の嫉[ねた]きかな 獅子よさみしき野に隠れ 道なき森に驚きて あけぼの露にふみ迷ふ 鋭き爪のこひしやな 鹿よ秋山[あきやま]妻恋[つまごひ]に 黄葉[もみぢ]のかげを踏みわけて 谷間の水に喘[あへ]ぎよる 眼睛[ひとみ]の色のやさしやな 人をつめたくあぢきなく 思ひとりしは幾歳[いくとせ]か 命を薄くあさましく 思ひ初[そ]めしは身を責むる 強き軛[くびき]に嘆き侘び 花に涙をそゝぐより 悲しいかなや春の野に 湧ける泉を飲み干すも 天の牝馬のかぎりなき 渇ける口をなにかせむ 悲しいかなや行く水の 岸の柳の樹の蔭の かの新草[にひぐさ]の多くとも 饑ゑたる喉[のど]をいかにせむ 身は塵埃[ちりひぢ]の八重葎 志(し)げれる宿にうまるれど かなしや地[つち]の青草[あをぐさ]は その慰藉[なぐさめ]にあらじかし あゝ天雲[あまぐも]や天雲や 塵[ちり]の是世[このよ]にこれやこの 轡も折れよ世も捨てよ 狂ひもいでよ軛[くびき]さへ 噛み砕けとぞ祈るなる 牝馬のこゝろ哀[あはれ]なり 尽きせぬ草のありといふ 天つみそらの慕はしや 渇かぬ水の湧くといふ 天の泉のなつかしや せまき厩を捨てはてゝ 空を行くべき馬の身の 心ばかりははやれども 病みては零[お]つる泪[なみだ]のみ 草に生れて草に泣く 姿やさしき天の馬 うき世のものにことならで 消ゆる命のもろきかな 散りてはかなき柳葉[やなぎば]の そのすがたにも似たりけり 波に消え行く淡雪[あはゆき]の そのすがたにも似たりけり げに世の常の馬ならば かくばかりなる悲嘆[かなしみ]に 身の苦悶[わづらひ]を恨み侘び 声ふりあげて嘶かん 乱れて長き鬣の この世かの世の別れにも 心ばかりは静和[しづか]なる 深く悲しき声きけば あゝ幽遠[かすか]なる気息[ためいき]に 天のうれひを紫の 野末の花に吹き残す 世の名残こそはかなけれ   哀 歌     中野逍遙をいたむ 秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜壚前柳、風流銷尽二千年、これ中野逍遙が秋怨十絶の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、豫州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年僅かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこころをとゞむ。      思君十首         逍  遙     思君我心傷    思君我容瘁     中夜坐松蔭    露華多似涙     思君我心悄    思君我腸裂     昨夜涕涙流    今朝尽成血     示君錦字詩    寄君鴻文冊     忽覚筆端香    窓外梅花白     為君調綺羅    為君築金屋     中有鴛鴦図    長春夢百禄     贈君名香篋    応記韓壽思     休将秋扇掩    明月照眉痕     贈君双臂環    宝玉価千金     一鐫不乖約    一題勿変心     訪君過台下    清宵琴響揺     佇門不敢入    恐乱月前調     千里囀金鶯    春風吹緑野     忽発頭屋桃    似君三両朶     嬌影三分月    芳花一朶梅     渾把花月秀    作君玉膚堆 かなしいかなや流れ行く 水になき名を志(し)るすとて 今はた残る歌反古[うたほご]の ながき愁[うれ]ひをいかにせむ かなしいかなやする墨の いろに染めてし花の木の 君がしらべの歌の音に 薄き命のひゞきあり かなしいかなや前の世は みそらにかゝる星の身の 人の命のあさぼらけ 光も見せでうせにしよ かなしいかなや同じ世に 生れいでたる身を持ちて 友の契りも結ばずに 君は早くもゆけるかな すゞしき眼[まなこ]つゆを帯び 葡萄のたまとまがふまで その面影をつたへては あまりに妬[ねた]き姿かな 同じ時世[ときよ]に生れきて 同じいのちのあさぼらけ 君からくれなゐの花は散り われ命[いのち]あり八重葎[やへむぐら] かなしいかなやうるはしく さきそめにける花を見よ いかなればかくとゞまらで 待たで散るらんさける間[ま]も かなしいかなやうるはしき なさけもこひの花を見よ いといと清きそのこひは 消ゆとこそ聞けいと早く 君し花とにあらねども いな花よりもさらに花 君しこひとにあらねども いなこひよりもさらにこひ かなしいかなや人の世に あまりに惜[を]しき才[ざえ]なれば 病[やまひ]に塵[ちり]に悲[かなしみ]に 死[し]にまでそしりねたまるゝ かなしいかなやはたとせの ことばの海のみなれ棹 磯にくだくる高潮[たかじほ]の うれひの花とちりにけり かなしいかなや人の世の きづなも捨てゝ嘶けば つきせぬ草に秋は来て 声も悲しき天の馬 かなしいかなや音[ね]を遠み 流るゝ水の岸にさく ひとつの花に照らされて 飄[ひるがへ]り行く一葉舟[ひとはふね]   母を葬るのうた     うき雲はありともわかぬ大空の         月のかげよりふる志(し)ぐれかな きみがはかばに     きゞくあり きみがはかばに     さかきあり くさはにつゆは     志(し)げくして おもからずやは     その志(し)るし いつかねむりを     さめいでゝ いつかへりこん     わがはゝよ 紅羅[あから]ひく子も     ますらをも みなちりひぢと     なるものを あゝさめたまふ     ことなかれ あゝかへりくる     ことなかれ はるは者(は)なさき     はなちりて きみがはかばに     かゝるとも なつはみだるゝ     ほたるびの きみがはかばに     とべるとも あきはさみしき     あきさめの きみがはかばに     そゝぐとも ふゆはましろに     ゆきじもの きみがはかばに     こほるとも とほきねむりの     ゆめまくら おそるゝなかれ     わがはゝよ   梭の音 梭の音[ね]を聞くべき人は今いづこ 心を糸により初[そ]めて 涙ににじむ木綿縞 やぶれし窓に身をなげて 暮れ行く空をながむれば ねぐらに急ぐ村鴉 連にはなれて飛ぶ一羽 あとを慕ふてかあかあと   かもめ 波に生れて波に死ぬ 情[なさけ]の海のかもめどり 恋の激浪[おほなみ]たちさわぎ 夢むすぶべきひまもなし 闇き潮[うしほ]の驚きて 流れて帰るわだつみの 鳥の行衛[ゆくへ]も見えわかぬ 波にうきねのかもめどり   流 星 門[かど]にたち出でたゞひとり 人待ち顔のさみしさに ゆふべの空をながむれば 雲の宿りも捨てはてゝ 何かこひしき人の世に 流れて落つる星一つ   夏の夜 君と遊ばん夏の夜の 青葉の影の下すゞみ 短かき夢は結ばずも せめてこよひは歌へかし 雲となりまた雨となる 昼の愁ひはたえずとも 星の光をかぞへ見よ 楽みのかず夜[よ]は尽きじ 夢かうつゝか天の川 星に仮寝の織姫の ひゞきもすみてこひわたる 梭の遠音を聞かめやも   昼の夢 花橘の袖の香の みめうるはしきをとめごは 真昼[まひる]に夢を見てしより さめて忘るゝ夜のならひ 白日[まひる]の夢のなぞもかく 忘れがたくはありけるものか ゆめと知りせばなまなかに さめざらましを世に出でゝ うらわかぐさのうらわかみ 何をか夢の名残ぞと 問はゞ答へん目さめては 熱き涙のかわく間もなし   東西南北 男ごゝろをたとふれば つよくもくさをふくかぜか もとよりかぜのみにしあれば きのふは東けふは西 女ごゝろをたとふれば かぜにふかるゝくさなれや もとよりくさのみにしあれば きのふは南けふは北   懐 古 天[あま]の河原[かはら]にやほよろづ ちよろづ神のかんつどひ つとひいませしあめつちの 始のときを誰[たれ]か知る それ大神[おほがみ]の天雲[あまぐも]の 八重かきわけて行くごとく 野の鳥ぞ啼く東路の 碓氷の山にのぼりゆき 日は照らせども影ぞなき 吾妻はやとこひなきて 熱き涙をそゝぎてし 尊の夢は跡も無し 大和の国の高市[たかいち]の 雷山[いかづちやま]に御幸[みゆき]して 天雲[あまぐも]のへにいほりせる 御輦[くるま]のひゞき今いづこ 目をめぐらせばさゞ波や 志賀の都は荒れにしと むかしを思ふ歌人[うたびと]の 澄[す]める怨[うらみ]をなにかせん 春は霞[かす]める高台[たかどの]に のぼりて見ればけふり立つ 民のかまどのながめさへ 消えてあとなき雲に入る 冬は志(し)ぐるゝ九重の 大宮内のともしびや さむさは雪に凍る夜の 龍[たつ]のころもはいろもなし むかしは遠き船いくさ 人の血汐の流るとも 今はむなしきわだつみの まんまんとしてきはみなし むかしはひろき関が原 つるぎに夢を争へど 今は寂しき草のみぞ ばうばうとしてはてもなき われ今[いま]秋の野にいでゝ 奥山[おくやま]高くのぼり行き 都のかたを眺むれば あゝあゝ熱きなみだかな   秋のうた 秋は来[き]ぬ   秋は来ぬ 一葉[ひとは]は花は露ありて 風の来て弾[ひ]く琴の音[ね]に 青き葡萄は紫の 自然の酒とかはりけり 秋は来ぬ   秋は来ぬ おくれさきだつ秋草[あきぐさ]も みな夕霜[ゆふじも]のおきどころ 笑ひの酒を悲みの 盃にこそつぐべけれ 秋は来ぬ   秋は来ぬ くさきも紅葉[もみぢ]するものを たれかは秋に酔はざらめ 智恵あり顔のさみしさに 君笛を吹けわれはうたはん   初 恋 まだあげ初[そ]めし前髪[まへがみ]の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛[はなぐし]の 花ある君と思ひけり やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅[うすくれなひ]の秋の実[み]に 人こひ初[そ]めしはじめなり わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃[さかづき]を 君が情[なさけ]に酌みしかな 林檎畑の樹[こ]の下[した]に おのづからなる細道[ほそみち]は 誰[た]が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ   狐のわざ 庭にかくるゝ小狐の 人なきときに夜[よる]いでゝ 秋の葡萄の樹の影に 志(し)のびてぬすむつゆのふさ 恋は狐にあらねども 君は葡萄にあらねども 人志(し)れずこそ忍びいで 君をぬすめる吾心   相 思 髪を洗へば紫の 小草[をぐさ]のまへに色みえて 足をあぐれば花鳥[はなとり]の われに随ふ風情[ふぜい]あり 目にながむれば彩雲[あやぐも]の まきてはひらく絵巻物[えまきもの] 手にとる酒は美酒[うまさけ]の 若き愁[うれひ]をたゝふめり 耳をたつれば歌神[うたがみ]の きたりて玉[たま]の簫[ふえ]を吹き 口をひらけばうたびとの 一ふしわれはこひうたふ あゝかくまでにあやしくも 熱きこゝろのわれなれど われをし君のこひしたふ その涙にはおよばじな   一得一失 君がこゝろは蟋蟀[こほろぎ]の 風にさそはれ鳴くごとく 朝影[あさかげ]清[きよ]き花草[はなぐさ]に 惜[を]しき涙をそゝぐらむ それかきならす玉琴の 一つの糸のさはりさへ 君がこゝろにかぎりなき 志(し)らべとこそはきこゆめれ あゝなどかくは触れやすき 君が優しき心から かくばかりなる吾こひに 触れたまはぬぞ恨みなる   傘のうち 二人[ふたり]してさす一張[ひとはり]の 傘[かさ]に姿をつゝむとも 情[なさけ]の雨のふりしきり かわく間[ま]もなきたもとかな 顔と顔とをうちよせて あゆむとすればなつかしや 梅花[ばいくわ]の油|黒髪[くろかみ]の 乱れて匂ふ傘[かさ]のうち 恋の一雨[ひとあめ]ぬれまさり ぬれてこひしき夢の間[ま]や 染めてぞ燃ゆる紅絹[もみ]うらの 雨になやめる足まとひ 歌ふをきけば梅川よ 志(し)ばし情[なさけ]を捨てよかし いづこも恋に戯[たはぶ]れて それ忠兵衛の夢がたり こひしき雨よふらばふれ 秋の入日の照りそひて 傘[かさ]の涙を乾[ほ]さぬ間[ま]に 手に手をとりて行きて帰[かへ]らじ   ゑにし わが手に植ゑし白菊の おのづからなる時くれば 一もと花の暮陰[ゆふぐれ]に 秋に隠[かく]れて窓にさくなり   知るや君 こゝろもあらぬ秋鳥[あきどり]の 声にもれくる一ふしを         知るや君 深くも澄[す]める朝潮[あさじほ]の 底にかくるゝ真珠[しらたま]を         知るや君 あやめも志(し)らぬやみの夜に 静[しづか]にうごく星ぐつを         知るや君 まだ弾[ひ]きも見ぬをとめごの 胸にひそめる琴の音[ね]を         知るや君   秋風の歌     さびしさはいつともわかぬ山里に         尾花みだれて秋かぜぞふく 志(し)づかにきたる秋風の 西の海より吹き起り 舞ひたちさわぐ白雲[しらくも]の 飛びて行くへも見ゆるかな 暮影[ゆふかげ]高く秋は黄の 桐[きり]の梢[こずゑ]の琴の音[ね]に そのおとなひを聞くときは 風のきたると知られけり ゆふべ西風[にしかぜ]吹き落ちて あさ秋の葉の窓に入り あさ秋風の吹きよせて ゆふべの鶉|巣[す]に隠[かく]る ふりさけ見れば青山[あをやま]も 色はもみぢに染めかへて 霜葉[しもば]をかへす秋風の 空[そら]の明鏡[かがみ]にあらはれぬ 清[すゞ]しいかなや西風の まづ秋の葉を吹けるとき さびしいかなや秋風の かのもみぢ葉[ば]にきたるとき 道[みち]を伝ふる婆羅門[ばらもん]の 西に東に散[ち]るごとく 吹き漂蕩[たゞよは]す秋風に 飄[ひるがへ]り行く木[こ]の葉[は]かな 朝羽[あさば]うちふる鷲鷹[わしたか]の 明闇[あけぐれ]天[そら]をゆくごとく いたくも吹ける秋風の 羽[はね]に声[こゑ]あり力[ちから]あり 見ればかしこし西風の 山の木[こ]の葉[は]をはらふとき 悲しいかなや秋風の 秋の百葉[もゝは]を落すとき 人は利劔[つるぎ]を振[ふる]へども げにかぞふればかぎりあり 舌は時世[ときよ]をのゝしるも 声はたちまち滅[ほろ]ぶめり 高くも烈[はげ]し野も山も 息吹[いぶき]まどはす秋風よ 世をかれがれとなすまでは 吹きも休[や]むべきけはひなし あゝうらさびし天地[あめつち]の 壺[つぼ]の中[うち]なる秋の日や 落葉と共に飄[ひるがへ]る 風の行衛[ゆくへ]を誰[たれ]か知る   雲のゆくへ 庭にたちいでたゞひとり 秋海棠の花を分け 空ながむれば行く雲の 更[さら]に秘密[ひみつ]を闡[ひら]くかな   逃げ水 ゆふぐれ志(し)づかに      ゆめみんとて よのわづらひより      志(し)ばしのがる きみよりほかには      志(し)るものなき 花かけにゆきて      こひを泣きぬ すぎこしゆめぢを      おもひみるに こひこそつみなれ      つみこそこひ いのりもつとめも      このつみゆゑ たのしきそのへと      われはゆかじ なつかしき君と      てをたづさへ くらき冥府[よみ]までも      かけりゆかん   月 光 志(し)づかにてらせる      月のひかりの などか絶間なく      ものおもはする さやけきそのかげ      こゑはなくとも みるひとの胸に      忍び入るなり なさけは説[と]くとも      なさけを志(し)らぬ うきよのほかにも      朽ちゆくわがみ あかさぬおもひと      この月かげと いづれか声なき      いづれかなしき   強 敵 一つの花に蝶と蜘蛛 小蜘蛛は花を守[まも]り顔 小蝶は花に酔ひ顔に 舞へども舞へどもすべぞなき 花は小蜘蛛のためならば 小蝶の舞[まひ]をいかにせむ 花は小蝶のためならば 小蜘蛛の糸をいかにせむ やがて一つの花散りて 小蜘蛛はそこに眠れども 羽翼[つばさ]も軽き小蝶こそ いづこともなくうせにけれ   別 離    人妻を志(し)たへる男の山に登り其    女の家を望み見てうたへるうた 誰[たれ]かとゞめん旅人[たびびと]の あすは雲間[くもま]に隠るゝを 誰か聞くらん旅人の あすは別れと告げましを 清[きよ]き恋とや片[かた]し貝[がひ] われのみものを思ふより 恋はあふれて濁[にご]るとも 君に涙をかけましを 人妻[ひとづま]恋ふる悲しさを 君がなさけに知りもせば せめてはわれを罪人[つみびと]と 呼びたまふこそうれしけれ あやめも志(し)らぬ憂[う]しや身は くるしきこひの牢獄[ひとや]より 罪の鞭責[しもと]をのがれいで こひて死なんと思ふなり 誰[たれ]かは花をたづねざる 誰かはいろに迷はざる 誰かは前にさける見て 花を摘[つ]まんと思はざる 恋の花にも戯るゝ 嫉妬[ねたみ]の蝶の身ぞつらき 二つの羽[はね]もをれをれて 翼[つばさ]の色はあせにけり 人の命を春の夜の 夢といふこそうれしけれ 夢よりもいやいや深き われに思ひのあるものを 梅の花さくころほひは 蓮さかばやと思ひわび 蓮の花さくころほひは 萩さかばやと思ふかな 待つまも早く秋は来て わが踏む道に萩さけど 濁りて持てる吾恋は 清き怨[うらみ]となりにけり   望 郷    寺をのがれいでたる僧のうたひし    そのうた いざさらば これをこの世のわかれぞと のがれいでゝは住みなれし 御寺[みてら]の蔵裏[くり]の白壁[しらかべ]の 眼[め]にもふたゝび見ゆるかな いざさらば 住めば仏のやどりさへ 火炎[ほのほ]の宅[いへ]となるものを なぐさめもなき心より 流れて落つる涙かな いざゝらば 心の油濁るとも ともしびたかくかきおこし なさけは熱くもゆる火の こひしき塵[ちり]にわれは焼けなむ   松島瑞巌寺に遊び葡萄   栗鼠の木彫を観て 舟路[ふなぢ]も遠し瑞巌寺 冬[ふゆ]逍遙[じやうやう]のこゝろなく 古き扉に身をよせて 飛騨の名匠[たくみ]の浮彫[うきぼり]の 葡萄のかげにきて見れば 菩提の寺の冬の日に 刀[かたな]悲[かな]しみ鑿[のみ]愁[うれ]ふ ほられて薄き葡萄葉の 影にかくるゝ栗鼠[きねづみ]よ 姿ばかりは隠すとも かくすよしなし鑿[のみ]の香[か]は うしほにひゞく磯寺の かねにこの日の暮るゝとも 夕闇[ゆふやみ]かけてたゝずめば こひしきやなぞ甚五郎   鶏 花によりそふ鶏[にはとり]の 夫[つま]よ妻鳥[めとり]よ燕子花 いづれあやめとわきがたく さも似つかしき風情[ふぜい]あり 姿やさしき牝鶏[めんとり]の かたちを耻づるこゝろして 花に隠るゝありさまに 品かはりたる夫鳥[つまとり]や 雄々しくたけき雄鶏[おんとり]の とさかの色も艶[つや]にして 黄なる口觜[くちばし]脚蹴爪[あしけづめ] 尾は志(し)だり尾のながながし 問ふても見まし誰[た]がために よそほひありく夫鳥[つまとり]よ 妻[つま]守[も]るためのかざりにと いひたげなるぞいぢらしき 画にこそかけれ花鳥[はなとり]の それにも通ふ一つがひ 霜に侘寝の朝ぼらけ 雨に入日の夕まぐれ 空に一つの明星の 闇行く水に動くとき 日を迎へんと鶏[にはとり]の 夜[よる]の使を音[ね]にぞ鳴く 露けき朝の明けて行く 空のながめを誰[たれ]か知る 燃ゆるがごとき紅[くれなゐ]の 雲のゆくへを誰[たれ]か知る 闇もこれより隣なる 声ふりあげて鳴くときは ひとの長眠[ねむり]のみなめざめ 夜[よ]は日に通ふ夢まくら 明けはなれたり夜[よ]はすでに いざ妻鳥[つまとり]と巣を出でゝ 餌[ゑ]をあさらんと野に行けば あなあやにくのものを見き 見しらぬ鶏[とり]の音[ね]も高[たか]に あしたの空に鳴き渡り 草かき分けて来[く]るはなぞ 妻恋ふらしや妻鳥[つまとり]を ねたしや露に羽[はね]ぬれて 朝日にうつる影見れば 雄鶏[をとり]に惜しき白妙の 雲をあざむくばかりなり 力[ちから]あるらし声たけき 敵[かたき]のさまを懼れてか 声色[いろ]あるさまに羞[は]ぢてかや 妻鳥[めとり]は花に隠れけり かくと見るより堪へかねて 背をや高めし夫鳥[つまとり]は 羽[は]がきも荒く飛び走り 蹴爪に土をかき狂ふ 筆毛のさきも逆立[さかだ]ちて 血潮[ちしほ]にまじる眼[め]のひかり 二つの鶏[とり]のすがたこそ 是[これ]おそろしき風情[ふぜい]なれ 妻鳥[めとり]は花を馳け出でて 争闘[あらそひ]分くるひまもなみ たがひに蹴合ふ蹴爪[けづめ]には 火焔[ほのほ]もちるとうたがはる 蹴るや左眼[さがん]の的[まと]それて 羽[はね]に血しほの夫鳥[つまとり]は 敵[てき]の右眼[うがん]をめざしつゝ 爪も折れよと蹴返しぬ 蹴られて落つるくれなゐの 血汐の花も地に染みて 二つの鶏[とり]の目もくるひ たがひにひるむ風情なし そこに声あり涙あり 争ひ狂ふ四つの羽[はね] 血潮[のり]に滑りし夫鳥[つまとり]の あな仆れけん声高し 一声長く悲鳴して あとに仆るゝ夫鳥[つまとり]の 羽[はね]に血潮の朱[あけ]に染[そ]み あたりにさける花紅し あゝあゝ熱き涙かな あるに甲斐なき妻鳥は せめて一声鳴けかしと 屍[かばね]に嘆くさまあはれ なにとは知らぬかなしみの いつか恐怖[おそれ]と変りきて 思ひ乱れて音[ね]をのみぞ 鳴くや妻鳥[めとり]の心なく 我を恋ふらし音[ね]にたてゝ 姿も色もなつかしき 花のかたちと思ひきや かなしき敵[てき]とならんとは 花にもつるゝ蝶あるを 鳥に縁[えにし]のなからめや おそろしきかな其の心 なつかしきかな其の情[なさけ] 紅[あけ]に染[そ]みける草見れば 鳥の命のもろきかな 火よりも燃ゆる恋見れば 敵[てき]のこゝろのうれしやな 見よ動きゆく大空の 照る日も雲に薄らぎて 花に色なく風吹けば 野はさびしくも変りけり かなしこひしの夫鳥[つまとり]の 冷えまさりゆく其姿 たよりと思ふ一ふしの いづれ妻鳥[めとり]の身の末ぞ 恐怖[おそれ]を抱く母と子が よりそふごとくかの敵[てき]に なにとはなしに身をよする 妻鳥[めとり]のこゝろあはれなれ あないたましのながめかな さきの楽しき花ちりて 空色暗く一彩毛[ひとはけ]の 雲にかなしき野のけしき 生きてかへらぬ鳥はいざ 夫[つま]か妻鳥[めとり]か燕子花 いづれあやめを踏み分けて 野末を帰る二羽の鶏[とり]   深林の逍遙 力を刻[きざ]む木匠[こだくみ]の うちふる斧のあとを絶え 春の草花[くさばな]彫刻[ほりもの]の 鑿[のみ]の韻[にほひ]もとゞめじな いろさまざまの春の葉に 青一筆[あをひとふで]の痕[あと]もなく 千枝[ちえ]にわかるゝ赤樟[あかくす]も おのづからなるすがたのみ 檜[ひのき]は荒し杉直し 五葉は黒し椎の木の 枝をまじゆる白樫や 樗[あふち]は茎をよこたえて 枝と枝とにもゆる火の なかにやさしき若楓    山 精   ひとにしられぬ   たのしみの   ふかきはやしを   たれかしる   ひとにしられぬ   はるのひの   かすみのおくを   たれかしる    木 精   はなのむらさき   はのみどり   うらわかぐさの   のべのいと   たくみをつくす   大機[おほはた]の   梭[をさ]のはやしに   きたれかし    山 精   かのもえいづる   くさをふみ   かのわきいづる   みづをのみ   かのあたらしき   はなにゑひ   はるのおもひの   なからずや    木 精   ふるきころもを   ぬぎすてゝ   はるのかすみを   まとへかし   なくうぐひすの   ねにいでて   ふかきはやしに   うたへかし あゆめば蘭の花を踏み ゆけば楊梅[やまもゝ]袖に散り 袂[たもと]にまとふ山葛の 葛のうら葉をかへしては 女蘿[ひかげ]の蔭のやまいちご 色よき実こそ落ちにけれ 岡やまつゞき隈々[くまぐま]も いとなだらかに行き延びて ふかきはやしの谷あひに 乱れてにほふふぢばかま 谷に花さき谷にちり 人にしられず朽つるめり せまりて暗き峡[はざま]より やゝひらけたる深山木の 春は小枝[こえだ]のたゝずまひ 志(し)げりて広き熊笹の 葉末をふかくかきわけて 谷のかなたにきて見れば いづくに行くか瀧川よ 声もさびしや白糸の 青き巌[いはほ]に流れ落ち 若き猿[ましら]のためにだに 音[おと]をとゞむる時ぞなき    山 精   ゆふぐれかよふ   たびゞとの   むねのおもひを   たれかしる   友にもあらぬ   やまかはの   はるのこゝろを   たれかしる    木 精   夜[よ]をなきあかす   かなしみの   まくらにつたふ   なみだこそ   ふかきはやしの   たにかげの   そこにながるゝ   志(し)づくなれ    山 精   鹿はたほるゝ   たびごとに   妻こふこひに   かへるなり   のやまは枯るゝ   たびごとに   ちとせのはるに   かへるなり    木 精   ふるきおちばを   やはらかき   青葉のかげに   葬れよ   ふゆのゆめぢを   さめいでゝ   はるのはやしに   きたれかし 今しもわたる深山かぜ 春はしづかに吹きかよふ 林の簫[せう]の音[ね]をきけば 風のしらべにさそはれて みれどもあかぬ白妙の 雲の羽袖の深山木の 千枝[ちえだ]にかゝりたちはなれ わかれ舞ひゆくすがたかな 樹々[きゞ]をわたりて行く雲の 志(し)ばしと見ればあともなき 高き行衛にいざなはれ 千々にめぐれる巌影[いはかげ]の 花にも迷ひ石に倚り 流るゝ水の音[ね]をきけば 山は危ふく石わかれ 削[けづ]りてなせる青巌[あをいは]に 砕けて落つる飛潭[たきみづ]の 湧きくる波の瀬を早み 花やかにさす春の日の 光烱[ひかり]てりそふ水けふり 独り苔むす岩を攀ぢ ふるふあゆみをふみしめて 浮べる雲をうかゞへば 下にとゞろく飛潭[たきみづ]の 澄むいとまなき岩波は 落ちていづくに下るらん    山 精   なにをいざよふ   むらさきの   ふかきはやしの   はるがすみ   なにかこひしき   いはかげを   ながれていづる   いづみがは    木 精   かくれてうたふ   野の山の   こゑなきこゑを   きくやきみ   つゝむにあまる   はなかげの   水のしらべを   しるやきみ    山 精   あゝながれつゝ   こがれつゝ   うつりゆきつゝ   うごきつゝ   あゝめぐりつゝ   かへりつゝ   うちわらひつゝ   むせびつゝ    木 精   いまひのひかり   はるがすみ   いまはなぐもり   はるのあめ   あゝあゝはなの   つゆに酔ひ   ふかきはやしに   うたへかし ゆびをりくればいつたびも かはれる雲をながむるに 白きは黄なりなにをかも もつ筆にせむ色彩[いろあや]の いつしか淡く茶を帯びて 雲くれなゐとかはりけり あゝゆふまぐれわれひとり たどる林もひらけきて いと静かなる湖の 岸辺にさける花躑躅 うき雲ゆけばかげ見えて 水に沈める春の日や それ紅[くれなゐ]の色染めて 雲紫となりぬれば かげさへあかき水鳥の 春のみづうみ岸の草 深き林や花つゝじ 迷ふひとりのわがみだに 深紫[ふかむらさき]の紅[くれなゐ]の 彩[あや]にうつろふ夕まぐれ 若 菜 集 畢 ■このファイルについて 標 題:若菜集 著 者:島崎春樹 発行所:春陽堂     明治三十年八月廿九発行 本 文:新選 名著復刻全集 近代文学館     昭和47年4月10日 発行(第5刷) 表記:以下のように扱いました。 ●誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。 ●本文のかなづかいは、底本通りとしました。 ●旧字体は、現行の新字体に替えました。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。だだし、新字体に替えなかった漢字もあります。 ●「|」は、ルビをふる最初の文字を示します。 ●繰り返し記号の「/\」は用いず、同語反復としました。 ●いわゆる「変体がな」は、元の漢字を示し( )内に現行の「かな」を示しました。 なお作品中で用いられている「変体がな」は、以下の通りです。  志(し)  八(は)  者(は)  春(す) 入力:今井安貴夫 ファイル作成:里実工房 公開:2005年8月11日 里実文庫