若 菜 集

島崎藤村




こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ

ぶだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ

そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと

明治二十九年の秋より三十年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は青葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌はまだ萌出しまゝの若菜なるをや。



     目 次
おえふ…………………一
おきぬ…………………六
おさよ…………………九
おくめ………………一六
おつた………………二〇
おきく ………………二五
明星…………………三二

 

草枕…………………三五
潮音…………………四七
春の歌………………四八
新暁…………………五〇
若水…………………五一
春の歌………………五三
佐保姫………………五六
春の曲………………五九
酔歌…………………六一

 

二つの声……………六四
白壁…………………六七
四つの袖……………六八
暗香…………………七〇
蓮花舟………………七九
葡萄の樹のかげ……八四
高楼…………………九〇
天馬…………………九七
哀歌………………一〇六

 

母を葬るのうた … 一二四
梭の音……………一二八
かもめ……………一二九
流星………………一三〇
夏の夜……………一三〇
昼の夢……………一三二
東西南北…………一三三
懐古………………一三四
秋の歌……………一三八

 

初恋………………一四〇
狐のわざ…………一四二
相思………………一四三
一得一失…………一四四
傘のうち…………一四六
ゑにし……………一四八
知るや君…………一四八
秋風の歌…………一五〇
雲のゆくへ………一五四

 

逃げ水……………一五五
月光………………一五七
強敵………………一五八
別離………………一六〇
望郷………………一六四
葡萄栗鼠の木彫を観て
……………………一六六
…………………一六八
深林の逍遙………一七九




若 菜 集

             島崎藤村著


  おえふ
処女をとめぬるおほかたの
われは夢路ゆめぢを越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河やまかはをながむれば

みづしづかなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影はなかげ
われは処女をとめとなりにけり

都鳥みやこどり大川おほかわ
流れてそゝぐ川添かはぞひ
白菫しろすみれさく若草わかぐさ
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重こゝのへ
大宮内につかへして
清涼殿の春の
月の光に照らされつ

雲をちりばなみ
かすみをうかべ日をまねく
玉のうてなの欄干に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀かがやくさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとりのころものをかげり

きらめきむる暁星あかぼし
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

あまつみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
夕暮ゆふぐれに消えて行く
ひいでし人の末路はても見き

春志(し)づかなる御園生みそのふ
花に隠れて人を
秋のひかりの窓に倚り
夕雲ゆふぐもとほき友を

ひとりの姉をうしなひて
大宮内のかどを出で
けふ江戸川にて見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉しもはに落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水しづかにて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世をれば
若きいのちに絶えかねて
岸のほとりの草を
微笑ほゝえみて泣く吾身かな

  おきぬ
みそらをかける猛鷲あらわし
人の処女をとめの身に落ちて
花の姿に宿やどかれば
風雨あらしかわき雲に
天翅あまかけるべきすべをのみ
願ふ心のなかれとて
黒髪くろかみ長き吾身こそ
うまれながらの盲目めしひなれ

芙蓉をさきの身とすれば
なみだは秋の花の露
小琴をごとさきの身とすれば
うれひは細きいとおと
いまさきの世は鷲の身の
処女をとめにあまる羽翼つばさかな

あゝあるときは吾心
あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき浅茅生あさぢふ
茂れる宿やどと思ひなし
身はすべもなき蟋蟀こほろぎ
よる野草のぐさにはひめぐり
たゞいたづらにをたてゝ
うたをうたふと思ふかな

いろにわが身をあたふれば
処女をとめのこゝろ鳥となり
恋に心をあたふれば
鳥の姿は処女をとめにて
処女ながらもそらの鳥
猛鷲あらわしながら人の身の
あめつちとに迷ひゐる
身の定めこそ悲しけれ

  おさよ
うしほさみしき荒磯あらいそ
巌陰いはかげわれは生れけり

あしたゆふべの白駒しろごま
故郷ふるさと遠きものおもひ

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女をとめとは

うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわがおもひ

流れてあつきわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

みだれてものに狂ひよる
心を笛のに吹かん

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけりとをゆび

にこそかわ口唇くちびる
笛を尋ぬる風情ふぜいあり

はげしく深きためいきに
笛の小竹をだけや曇るらん

髪は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息いき

ちからをこめし一ふしに
黄楊つげのさしぐし落ちてけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

短き笛のふし
長きおもひのなからずや

七つのこゝろ声を得て
をこそきかめ歌神うたがみ

われよろこびを吹くときは
鳥もこずゑをとゞめ

いかりをわれの吹くときは
を行く魚もふちにあり

われかなしみを吹くときは
獅子しゝも涙をそゝぐらむ

われたのしみを吹くときは
虫も鳴くをやめつらむ

あいのこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り

にくみをわれの吹くときは
散り行く花もとどまりて

よくおもひを吹くときは
心のやみひびきあり

うたへ浮世うきよの一ふしは
笛の夢路ゆめぢのものぐるひ

くるしむなかれ吾友わがとも
志(し)ばしは笛のに帰れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を

  おくめ
こひしきまゝに家を
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものとて見れば
千鳥鳴くなりゆふまぐれ

こひには親も捨てはてゝ
やむよしもなき胸の火や
びんを吹く河風よ
せめてあはれと思へかし

河波かはなみくらはや
流れていはくだくるも
君を思へば絶間なき
恋の火炎ほのほかわくべし

きのふの雨の小休をやみなく
水嵩みかさや高くまさるとも
よひよひになくわがこひの
涙の滝におよばじな

志(し)りたまはずやわがこひは
花鳥はなとりの絵にあらじかし
空鏡かゞみ印象かたちすな文字もじ
梢のかぜの音にあらじ

志(し)りたまはずやわがこひは
雄々をゝしき君の手に触れて
嗚呼口紅くちべにをその口に
君にうつさでやむべきや

恋は吾身のやしろにて
君は社の神なれば
君の祭壇つくへの上ならで
なにゝいのちをさゝげまし

くだかば砕け河波かはなみ
われにいのちはあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなむ

心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎ほのほなり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千筋ちすぢの髪の波に流るゝ

  おつた
ほのゆる春の夜の
すがたに似たる吾命わがいのち
朧々おぼろおぼろ父母ちゝはゝ
二つの影と消えうせて
世に孤児みなしごの吾身こそ
影より出でし影なれや
たすけもあらぬ今は身は
若きひじりに救はれて
人なつかしき前髪まへがみ
処女をとめとこそはなりにけれ

若きひじりののたまはく
時をし待たむ君ならば
かの柿のをとるなかれ
かくいひたまふうれしさに
ことしの秋もはや深し
まづその秋を見よやとて
ひじりに柿をすゝむれば
その口唇くちびるにふれたまひ
かくも色よき柿ならば
などかは早くわれに告げこぬ

わかひじりのゝたまはく
人の命のしからば
嗚呼かの酒を飲むなかれ
かくいひたまふうれしさに
酒なぐさめの一つなり
まづその春を見よやとて
ひじりに酒をすゝむれば
夢の心地に酔ひたまひ
かくも楽しき酒ならば
などかは早くわれに告げこぬ

わかひじりのゝたまはく
道行きいそぐ君ならば
迷ひの歌をきくなかれ
かくいひたまふうれしさに
歌も心の姿すがたなり
まづその声をきけやとて
一ふしうたひいでければ
ひじりたまも酔ひたまひ
かくも楽しき歌ならば
などかは早くわれに告げこぬ

わかひじりのゝたまはく
まことをさぐる吾身なり
道の迷となるなかれ
かくいひたまふうれしさに
なさけも道の一つなり
かゝるおもひを見よやとて
わがこの胸に指ざせば
聖は早く恋ひわたり
かくも楽しき恋ならば
などかは早くわれに告げこぬ

それ秋の日の夕まぐれ
そゞろあるきのこゝろなく
ふと目に入るを手にとれば
ゆきより白き小石こいしなり
わかひじりのゝたまはく
智恵の石とやこれぞこの
あまりに惜しき色なれば
人にかくして今もなたじ

  おきく
くろかみながく
    やはらかき
をんなごゝろを
    たれか志(し)る

をとこのかたる
    ことのはを
まことゝおもふ
    ことなかれ

をとめごゝろの
    あさくのみ
いひもつたふる
    をかしさや

みだれてながき
    びん
黄楊つげ小櫛をぐし
    かきあげよ

あゝつきぐさの
    きえぬべき
こひもするとは
    たがことば

こひて死なんと
    よみいでし
あつきなさけは
    たがうたぞ

みちのためには
    ちをながし
くにゝは死ぬる
    をとこあり

治兵衛はいづれ
    こひ
忠兵衛も名の
    ために

あゝむかしより
    こひ死にし
をとこのありと
    志(し)るや君

をんなごゝろは
    いやさらに
ふかきなさけの
    こもるかな

小春はこひに
    ちをながし
梅川こひの
    ために死ぬ

お七はこひの
    ために焼け
高尾はこひの
    ために

かなしからずや
    清姫は
へびとなれるも
    こひゆゑに

やさしからずや
    佐容姫は
石となれるも
    こひゆゑに

をとこのこひの
    たはふれは
たびにすてゆく
    なさけのみ

こひするなかれ
    をとめごよ
かなしむなかれ
    わがともよ

こひするときと
    かなしみと
いづれかながき
    いづれみじかき

  明 星
浮べる雲と身をなして
あしたの空に出でざれば
などしるらめや明星の
光の色のくれなゐを

朝のうしほと身をなして
流れて海に出でざれば
など志(し)るらめや明星の
みてかなしききらめきを

なにかこひしき暁星あかぼし
むなしきあまの戸を出でゝ
深くも遠きほとりより
人の世近くきたるとは

うしほの朝のあさみどり
水底みなそこ深き白石を
星の光にかし見て
あさよはひを数ふべし

野の鳥ぞ啼く山河やまかは
ゆふべの夢をさめいでゝ
細く棚引く志(し)のゝめの
姿をうつす朝ぼらけ

小夜さよには小夜の志(し)らべあり
朝には朝のもあれど
星の光のいと
あしたの琴はしづかなり

まだうら若き朝の空
きらめきわたる星のうち
いといと若き光をば
なづけましかば明星と

  草 枕
夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心のはねをうちふりて
さみしきかたに飛べるかな

若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり

蘆葉あしはを洗ふ白波の
流れていはを出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ

かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん

われもそれかやうれひかや
野末に山に谷蔭たにかげ
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ

おもひも薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行へもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな

身を朝雲あさぐもにたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨ゆふあめにたとふれば
あしたの雨の風となる

されば落葉おちばと身をなして
風に吹かれてひるがへ
あさ黄雲きぐもにともなはれ
よる白河を越えてけり

道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ

心の宿やどの宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲み深き吾目には
色彩いろなき石も花と見き

あゝ孤独ひとりみ悲痛かなしさ
味ひ知れる人ならで
誰にかたらん冬の日の
かくもわびしき野のけしき

都のかたをながむれば
空冬雲そらふゆぐもに覆はれて
身にふりかゝる玉霰たまあられ
袖の氷と閉ぢあへり

みぞれまじりの風つよ
小川の水の薄氷
氷のしたにおとするは
流れて海に行く水か

いて羽風はかぜもたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空さむぞら
なれも荒れたる野にむせぶ

涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな

かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び
声もあはれのその歌は

うれしや物のきて
野末をかよふ人の子よ
声調しらべひく手も凍りはて
なにかどづけの身の果ぞ

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿

野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海

朝は海辺うみべの石の
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものはなみばかり

暮はさみしき荒磯あらいそ
うしほを染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
きくるものは涙のみ

さみしいかなや荒波の
岩にくだけて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
うしほとゝもに帰るとき

誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる

こよみもあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちてうしほとなりにけり

遠く湧きくる海のおと
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものゝ
まだうらわかき野路の鳥

嗚呼めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑のはねもまだ弱き
それも初音か鶯の

春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の

春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の

磯辺に高き大巌おほいは
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらん東雲しのゝめ
しほ遠き朝ぼらけ

  潮 音
わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
志(し)らべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

  春の歌
たれかおもはん鶯の
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の
あゝよしさらば美酒うまざけ
うたひあかさん春の夜を

梅のにほひにめぐりあふ
春を思へばひと志(し)れず
からくれなゐのかほばせに
流れてあつきなみだかな
あゝよしさらば花影に
うたひあかさん春の夜を

わがみひとつもわすられて
おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば
たもとにゝほふ梅の花
あゝよしさらば琴の音に
うたひあかさん春の夜を

  新 暁
くれなゐ細くたなびけたる
雲とならばやあけぼのゝ
       雲とならばや

やみを出でゝは光ある
空とならばやあけぼのゝ
       空とならばや

春の光をいろどれる
水とならばやあけぼのゝ
       水とならばや

鳩に履まれてやはらかき
草とならばやあけぼのゝ
       草とならばや

  若 水
くめどつきせぬ
わかみづを
きみとくまゝし
かのいづみ

かわきも志(し)らぬ
わかみづを
きみとのまゝし
かのいづみ

かのわかみづと
みをなして
はるのこゝろに
わきいでん

かのわかみづと
みをなして
きみとながれん
花のかげ


  春の歌

春はきぬ
  春はきぬ
初音やさしきうぐひすよ
こぞに別離わかれを告げよかし
谷間に残る白雪よ
葬りかくせ去歳こぞの冬

春はきぬ
  春はきぬ
さみしくさむくことばなく
まづしくくらくひかりなく
みにくゝおもくちからなく
かなしき冬よ行きねかし

春はきぬ
  春はきぬ
浅みどりなる新草にひぐさ
とほき野面のもせゑがけかし
さきてはあか春花はるばな
樹々きゞの梢を染めよかし

春はきぬ
  春はきぬ
霞よ雲よゆるぎいで
氷れる空をあたゝめよ
花のおくる春風よ
眠れる山を吹きさませ

春はきぬ
  春はきぬ
春をよせくる朝汐あさじほ
蘆の枯葉かれはを洗ひ去れ
霞に酔へる雛鶴よ
若きあしたの空に飛べ

春はきぬ
  春はきぬ
うれひの芹の根を絶えて
永れるなみだ今いづこ
つもれる雪の消えうせて
けふの若菜と萌えよかし


  佐保姫

ねむれる春ようらわかき
かたちをかくすことなかれ
たれこめてのみけふの日を
なべてのひとのすぐすうち
さめての春のすがたこそ
また夢のまの風情なれ

ねむげの春よさめよ春
さかしきひとのみざるまに
若紫の朝霞
かすみの袖をみにまとへ
はつねうれしきうぐひすの
鳥の志(し)らべをうたへかし

ねむげの春よさめよ春
ふゆのこほりにむすぼれし
ふるきゆめぢをさめいでゝ
やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ

ねむげの春よさめよ春
あゆめはたにのわらびの
志(し)たもえいそぐがあしを
かたくもあげよあゆめ春
たえなるはるのいきを吹き
こぞめの梅のにゝほへ


  春の曲

うてや鼓の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて
世は春の日とかはりけり

ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとぢて
花と花とをぬふ糸は
けさもえいでしあをやなぎ

霞のまくをひきあけて
春をうかゞふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春のうてなといふべけれ

小蝶よ花にたはぶれて
優しき夢をみては舞ひ
酔ふて羽袖もひらひらと
はるの姿をまひねかし

緑のはねのうくひすよ
梅の花笠ぬひそへて
ゆめ静なるはるの日の
志(し)らべを高く歌へかし


  酔 歌

旅と旅との君や我
君と我とのなかなれば
酔ふてたもと歌草うたぐさ
醒めての君に見せばやな

若き命も過ぎぬ
楽しき春は老いやすし
が身にもてるたからぞや
君くれなゐのかほばせは

君がまなこに涙あり
君が眉には憂愁うれひあり
かたく結べるその口に
それ声も無きなげきあり

名もなき道を説くなかれ
名もなき旅を行くなかれ
甲斐なきことをなげくより
来りてうまき酒に泣け

光もあらぬ春の日の
独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に
老いにけらしな旅人よ

心の春の燭火ともしび
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
かなしからずや君が身は

わきめもふらでいそぎ行く
君の行衛はいづこぞや
琴花酒ことはなさけのあるものを
とゞまりたまへ旅人よ


  二つの声


   朝

たれか聞くらん朝の声
ねむりと夢を破りいで
あやなす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空にひかりあり
そこにときありはじめあり
そこにみちありちからあり
そこに色ありことばあり
そこに声ありいのちあり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
ひかりのうちに朝ぞ隠るゝ


   暮

たれか聞くらん暮の声
霞のつばさ雲の帯
煙のころも露の袖
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたにげ入れて
よる使つかひの蝙蝠の
飛ぶも声のをやみなく
こゝに影ありまよひあり
こゝに夢ありねむりあり
こゝに闇あり休息やすみあり
こゝにながきあり遠きあり
こゝにありとうたひつゝ
草木くさきにいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とゝもに
色なきやみに暮ぞ隠るゝ

  白 壁

たれかしるらん花ちかき
高楼たかどのわれはのぼりゆき
みだれてあつきくるしみを
うつしいでけり白壁しらかべ

つばに志(し)るせし文字もじなれば
ひと志(し)れずこそ乾きけれ
あゝあゝしろ白壁しらかべ
わがうれひありなみだあり


  四つの袖

をとこの気息いきのやはらかき
お夏の髪にかゝるとき
をとこの早きためいきの
あられのごとくはしるとき

をとこのあつき手のひら
お夏の手にも触るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき

をとこの黒き目のいろの
お夏の胸にうつるとき
をとこのあか口唇くちびる
お夏の口にもゆるとき

人こそ志(し)らね嗚呼恋の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎


  暗 香


    はるのよはひかりはかりとおもひしを
          志(し)ろきやうめのさかりなるらむ

  姉
わかきいのちの
    をしければ
やみにも春の
    かに酔はん

せめてこよひは
    さほひめよ
はなさくかげに
    うたへかし

  妹
そらもゑへりや
    はるのよは
ほしもかくれて
    みえわかず

よめにもそれと
    ほの志(し)ろく
みだれてにほふ
    うめのはな

  姉
はるのひかりの
    こひしさに
かたちをかくす
    うぐひすよ

はなさへしるき
    はるのよの
やみをおそるゝ
    ことなかれ

  妹
うめをめぐりて
    ゆくみづの
やみをながるゝ
    せゝらぎや

ゆめもさそはぬ
    なりせば
いづれかよるに
    にほはまし

  姉
こぞのこよひは
    わがともの
うすこうばいの
    そめごろも

ほかげにうつる
    さかづきを
こひのみゑへる
    よなりけり

  妹
こぞのこよひは
    わがともの
なみだをうつす
    よのなごり

かげもかなしや
    木下川に
うれひ志(し)づみし
    よなりけり

  姉
こぞのこよひは
    わがともの
おもひ八(は)はるの
    よのゆめや

よをうきものに
    いでたまふ
ひとめをつゝむ
    よなりけり

  妹
こぞのこよひは
    わがともの
そでのかすみの
    はなむしろ

ひくやことのね
    たかじほを
うつしあはせし
    よなりけり

  姉
わがみぎのてに
    くらぶれば
やさしきなれが
    たなごゝころ

ふるればいとゞ
    やはらかに
もゆるかあつく
    おもほゆる

  妹
もゆるやいかに
    こよひはと
とひたまふこそ
    うれしけれ

志(し)りたまはずや
    うめがかに
わがうまれてし
    はるのよを

  蓮花舟
   志(し)は志(し)はもこほるゝつゆははちすはの
               うきはにのみもたまりけるかな

  姉
あゝはすのはな
    はすのはな
かげはみえけり
    いけみづに

ひとつのふねに
    さをさして
うきはをわけて
    こぎいでん

  妹
かぜもすゞしや
    はがくれに
そこにも志(し)ろし
    はすのはな

こゝにもあかき
    はすばなの
みづ志(し)づかなる
    いけのおも

  姉
はすをやさしみ
    はなをとり
そでなひたしそ
    いけみづに

ひとめもはぢよ
    はなかげに
なれが乳房ちぶさ
    あらはるゝ

  妹
ふかくもすめる
    いけみづの
はにすれてゆく
    みなれざを

なつぐもゆけば
    かげみえて
はなよりはなを
    わたるらし

  姉
荷葉にうたひ
    ふねにのり
はなつみのする
    なつのゆめ

はすのはなふね
    さをとめて
なにをながむる
    そのすがた

  妹
なみ志づかなる
    はなかげに
きみのかたちの
    うつるかな

きみのかたちと
    なつばなと
いづれうるはし
    いづれやさしき

  葡萄の樹のかげ
   はるあきにおもひみたれてわきかねつ
         ときにつけつゝうつるこゝろは

  妹
たのしからずや
    はなやかに
あきはいりひの
    てらすとき

たのしからずや
    ぶだうばの
はごしにくもの
    かよふとき

  姉
やさしからずや
    むらさきの
ぶだうのふさの
    かゝるとき

やさしからずや
    にいぼしの
ぶだうのたまに
    うつるとき

  妹
かぜは志(し)づかに
    そらすみて
あきはたのしき
    ゆふまぐれ

いつまでわかき
    をとめごの
たのしきゆめの
    われらぞや

  姉
あきのぶだうの
    きのかげの
いかにやさしく
    ふかくとも

てにてをとりて
    かげをふむ
なれとわかれて
    なにかせむ

  妹
げにやかひなき
    くりごとも
ぶだうに志(し)かじ
    ひとふさの

われにあたへよ
    ひとふさを
そこにかゝれる
    むらさきの

  姉
われを志(し)れかし
    えだたかみ
とゞかじものを
    かのふさは

はかげのたまに
    てはふれて
わがさしぐしの
    おちにけるかな

  高 楼
   わかれゆくひとををしむとこよひより
         とほきゆめちにわれやまとはん

  妹
とほきわかれに
    たへかねて
このたかどのに
    のぼるかな

かなしむなかれ
    わがあねよ
たびのころもを
    とゝのへよ

  姉
わかれといへば
    むかしより
このひとのよの
    つねなるを

ながるゝみづを
    ながむれば
ゆめはづかしき
    なみだかな

  妹
志(し)たへるひとの
    もとにゆく
きみのうへこそ
    たのしけれ

ふゆやまこえて
    きみゆかば
なにをひかりの
    わがみぞや

  姉
あゝはなとりの
    いろにつけ
ぬにつけわれを
    おもへかし

けふわかれては
    いつかまた
あひみるまでの
    いのちかも

  妹
きみがさやけき
    めのいろも
きみくれなゐの
    くちびるも

きみがみどりの
    くろかみも
またいつかみん
    このわかれ

  姉
なれがやさしき
    なぐさめも
なれがたのしき
    うたごゑも

なれがこゝろの
    ことのねも
またいつきかん
    このわかれ

  妹
きみのゆくべき
    やまかはゝ
おつるなみだに
    みえわかず

そでの志(し)ぐれの
    ふゆのひに
きみにおくらん
    はなもがな

  姉
そでにおほへる
    うるはしき
ながかほばせを
    あげよかし

ながくれなゐの
    かほばせに
ながるゝなみだ
    われはぬぐはん

  天 馬

   序

おいわかきしかたに
ふみに照らせどまれらなる
しきためしは箱根山
弥生の末のゆふまぐれ
南のあまをいでゝ
よなよな北の宿に行く
血の深紅くれなゐの星の影
かたくななりし男さへ
星の光を眼に見ては
身にふりかゝる凶禍まがごと
天のしるしとうたがへり
総鳴そうなきに鳴く鶯の
にほひいでたる声をあげ
さへづり狂ふをきけば
げにめづらしき春の歌
春を得知らぬ処女をとめさへ
かのうぐひすのひとこゑに
枕の紙のしめりきて
人なつかしきおもひあり
まだ時ならぬ白百合の
まがきの陰にさける見て
九十九つくもの翁うつし世の
こゝろの慾の夢を恋ひ
をだにきかぬ雛鶴の
のき榎樹えのきて鳴けば
寝覚の老嫗おうな後の世の
花のうてなに泣きまどふ
空にかゝれる星のいろ
春さきかへる夏花なつはな
是わざはひにあらずして
よしやしるしといへるあり
なにを酔ひ鳴く春鳥はるどり
なにを告げくる鶴の声
それ鳥のうらなひて
よろこびありと祝ふあり
高きひじりのこの村に
声をあげさせたまふらん
世を傾けむ麗人よきひと
茂れる賤の春草はるぐさ
いでたまふかとのゝしれど
誰か志(し)るらん新星にひほし
まことの北をさしゝめし
さみしき蘆のみづうみ
沈める水に映つるとき
名もなき賤の片びさし
春の夜風よかぜおとを絶え
村の南のかたほとり
その夜生れしの馬は
流るゝ水の藍染あゐぞめ
青毛あをげやさしき姿なり
北に生れしの馬の
栗毛にまじる紫は
色あけぼのゝ春霞
光をまとふ風情あり
星のひかりもをさまりて
噂に残る鶴の音や
啼く鶯に花ちれば
嗚呼この村に生れてし
馬のありとや問ふ人もなし

  雄 馬

あな天雲あまぐもにともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬をうまは人に随ひて
箱根のみねくだりけり
胸は踴りて八百潮やほじほ
かの蒼溟わたつみに湧くごとく
のどはよせくる春濤はるなみ
飲めども渇く風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛まつげは草の浅緑あさみどり
うるほひ光る眼瞳ひとみには
千里ちさとの外もほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛さへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いとかすかなる朝風あさかぜ
そよげる草の葉のごとく
蹄のおとをたとふれば
紫金しこんの色のやきがねを
高くも叩く響あり
狂へば長き鬣の
うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血のしほ
流れてをどる春の海
くれなゐの光には
火炎ほのほ気息いきもあらだちて
深くも遠き嘶声いなゝき
大神おほがみの住むうつばり
ちりを動かす力あり
あゝ朝鳥あさとりをきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つげわたる鳥の音に
木曽の御嶽みたけいはを越え
かの青雲あをぐもに嘶きて
そらよりそら電影いなづま
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき
主人あるじのあとをとめくれば
箱根も遠し三井寺や
日もあたゝかに花深く
さゝなみ青きみづうみ
岸の此彼こちごち草を行く
天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る
志(し)らずや人の天雲あまぐも
歩むためしはあるものを
天馬のりて大土おほづち
歩むためしのなからめや
見よ藤の葉の影深く
岸の若草にいでて
春花に酔ふ蝶の夢
そのかげを履む雄馬には
一つのあか春花はるはな
見えざる神の宿やどりあり
一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり
嗚呼鷲鷹わしたかの飛ぶ道に
高く懸れる大空おほぞら
無限むげんつるに触れて鳴り
男神をがみ女神めがみに戯れて
照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮みちしほ
飲みつくすともかわくべき
天馬よなれが身を持ちて
鳥のきて啼くにほの海
花橘の蔭を履む
その姿こそ雄々しけれ

  牝 馬
青波あをなみ深きみづうみの
岸のほとりに生れてし
天の牝馬めうまあづまなる
かの陸奥みちのくの野に住めり
霞にうるほひ風に
おともわびしき枯くさの
すゝき尾花にまねかれて
荒野あれのに嘆く牝馬かな
誰か燕の声を聞き
たのしきうたを耳にして
日も暖かに花深き
西も空をば慕はざる
誰か秋鳴くかりがねの
かなしき歌に耳たてゝ
ふるさとさむき遠天とほぞら
雲の行衛を慕はざる
白き羚羊ひつじに見まほしく
きては深く柔軟やはらか
まなこの色のうるほひは
吾が古里を忍べばか
蹄も薄く肩痩せて
四つのあしさへ細りゆき
その鬣のつやなきは
荒野あれのの空に嘆けばか
春は名取なとりの若草や
病める力に石を引き
夏は国分こくぶみねを越え
牝馬にあまる塩を負ふ
秋は広瀬の川添の
紅葉の蔭にむちうたれ
冬は野末に日も暮れて
みぞれの道の泥に饑ゆ
鶴よみそらの雲に飽き
朝の霞のに酔ひて
春の光の空を飛ぶ
羽翼つばさの色のねたきかな
獅子よさみしき野に隠れ
道なき森に驚きて
あけぼの露にふみ迷ふ
鋭き爪のこひしやな
鹿よ秋山あきやま妻恋つまごひ
黄葉もみぢのかげを踏みわけて
谷間の水にあへぎよる
眼睛ひとみの色のやさしやな
人をつめたくあぢきなく
思ひとりしは幾歳いくとせ
命を薄くあさましく
思ひめしは身を責むる
強きくびきに嘆き侘び
花に涙をそゝぐより
悲しいかなや春の野に
湧ける泉を飲み干すも
天の牝馬のかぎりなき
渇ける口をなにかせむ
悲しいかなや行く水の
岸の柳の樹の蔭の
かの新草にひぐさの多くとも
饑ゑたるのどをいかにせむ
身は塵埃ちりひぢの八重葎
志(し)げれる宿にうまるれど
かなしやつち青草あをぐさ
その慰藉なぐさめにあらじかし
あゝ天雲あまぐもや天雲や
ちり是世このよにこれやこの
轡も折れよ世も捨てよ
狂ひもいでよくびきさへ
噛み砕けとぞ祈るなる
牝馬のこゝろあはれなり
尽きせぬ草のありといふ
天つみそらの慕はしや
渇かぬ水の湧くといふ
天の泉のなつかしや
せまき厩を捨てはてゝ
空を行くべき馬の身の
心ばかりははやれども
病みてはつるなみだのみ
草に生れて草に泣く
姿やさしき天の馬
うき世のものにことならで
消ゆる命のもろきかな
散りてはかなき柳葉やなぎば
そのすがたにも似たりけり
波に消え行く淡雪あはゆき
そのすがたにも似たりけり
げに世の常の馬ならば
かくばかりなる悲嘆かなしみ
身の苦悶わづらひを恨み侘び
声ふりあげて嘶かん
乱れて長き鬣の
この世かの世の別れにも
心ばかりは静和しづかなる
深く悲しき声きけば
あゝ幽遠かすかなる気息ためいき
天のうれひを紫の
野末の花に吹き残す
世の名残こそはかなけれ

  哀 歌

    中野逍遙をいたむ
秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜壚前柳、風流銷尽二千年、これ中野逍遙が秋怨十絶の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、豫州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年僅かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこころをとゞむ。

     思君十首         逍  遙
    思君我心傷    思君我容瘁
    中夜坐松蔭    露華多似涙

    思君我心悄    思君我腸裂
    昨夜涕涙流    今朝尽成血

    示君錦字詩    寄君鴻文冊
    忽覚筆端香    窓外梅花白

    為君調綺羅    為君築金屋
    中有鴛鴦図    長春夢百禄

    贈君名香篋    応記韓壽思
    休将秋扇掩    明月照眉痕

    贈君双臂環    宝玉価千金
    一鐫不乖約    一題勿変心

    訪君過台下    清宵琴響揺
    佇門不敢入    恐乱月前調

    千里囀金鶯    春風吹緑野
    忽発頭屋桃    似君三両朶

    嬌影三分月    芳花一朶梅
    渾把花月秀    作君玉膚堆

かなしいかなや流れ行く
水になき名を志(し)るすとて
今はた残る歌反古うたほご
ながきうれひをいかにせむ

かなしいかなやする墨の
いろに染めてし花の木の
君がしらべの歌の音に
薄き命のひゞきあり

かなしいかなや前の世は
みそらにかゝる星の身の
人の命のあさぼらけ
光も見せでうせにしよ

かなしいかなや同じ世に
生れいでたる身を持ちて
友の契りも結ばずに
君は早くもゆけるかな

すゞしきまなこつゆを帯び
葡萄のたまとまがふまで
その面影をつたへては
あまりにねたき姿かな

同じ時世ときよに生れきて
同じいのちのあさぼらけ
君からくれなゐの花は散り
われいのちあり八重葎やへむぐら

かなしいかなやうるはしく
さきそめにける花を見よ
いかなればかくとゞまらで
待たで散るらんさける

かなしいかなやうるはしき
なさけもこひの花を見よ
いといと清きそのこひは
消ゆとこそ聞けいと早く

君し花とにあらねども
いな花よりもさらに花
君しこひとにあらねども
いなこひよりもさらにこひ

かなしいかなや人の世に
あまりにしきざえなれば
やまひちりかなしみ
にまでそしりねたまるゝ

かなしいかなやはたとせの
ことばの海のみなれ棹
磯にくだくる高潮たかじほ
うれひの花とちりにけり

かなしいかなや人の世の
きづなも捨てゝ嘶けば
つきせぬ草に秋は来て
声も悲しき天の馬

かなしいかなやを遠み
流るゝ水の岸にさく
ひとつの花に照らされて
ひるがへり行く一葉舟ひとはふね

  母を葬るのうた
    うき雲はありともわかぬ大空の
        月のかげよりふる志(し)ぐれかな

きみがはかばに
    きゞくあり
きみがはかばに
    さかきあり

くさはにつゆは
    志(し)げくして
おもからずやは
    その志(し)るし

いつかねむりを
    さめいでゝ
いつかへりこん
    わがはゝよ

紅羅あからひく子も
    ますらをも
みなちりひぢと
    なるものを

あゝさめたまふ
    ことなかれ
あゝかへりくる
    ことなかれ

はるは者(は)なさき
    はなちりて
きみがはかばに
    かゝるとも

なつはみだるゝ
    ほたるびの
きみがはかばに
    とべるとも

あきはさみしき
    あきさめの
きみがはかばに
    そゝぐとも

ふゆはましろに
    ゆきじもの
きみがはかばに
    こほるとも

とほきねむりの
    ゆめまくら
おそるゝなかれ
    わがはゝよ


  梭の音

梭のを聞くべき人は今いづこ
心を糸によりめて
涙ににじむ木綿縞
やぶれし窓に身をなげて
暮れ行く空をながむれば
ねぐらに急ぐ村鴉
連にはなれて飛ぶ一羽
あとを慕ふてかあかあと


  かもめ

波に生れて波に死ぬ
なさけの海のかもめどり
恋の激浪おほなみたちさわぎ
夢むすぶべきひまもなし

闇きうしほの驚きて
流れて帰るわだつみの
鳥の行衛ゆくへも見えわかぬ
波にうきねのかもめどり


  流 星

かどにたち出でたゞひとり
人待ち顔のさみしさに
ゆふべの空をながむれば
雲の宿りも捨てはてゝ
何かこひしき人の世に
流れて落つる星一つ


  夏の夜

君と遊ばん夏の夜の
青葉の影の下すゞみ
短かき夢は結ばずも
せめてこよひは歌へかし

雲となりまた雨となる
昼の愁ひはたえずとも
星の光をかぞへ見よ
楽みのかずは尽きじ

夢かうつゝか天の川
星に仮寝の織姫の
ひゞきもすみてこひわたる
梭の遠音を聞かめやも


  昼の夢

花橘の袖の香の
みめうるはしきをとめごは
真昼まひるに夢を見てしより
さめて忘るゝ夜のならひ
白日まひるの夢のなぞもかく
忘れがたくはありけるものか

ゆめと知りせばなまなかに
さめざらましを世に出でゝ
うらわかぐさのうらわかみ
何をか夢の名残ぞと
問はゞ答へん目さめては
熱き涙のかわく間もなし


  東西南北

男ごゝろをたとふれば
つよくもくさをふくかぜか
もとよりかぜのみにしあれば
きのふは東けふは西

女ごゝろをたとふれば
かぜにふかるゝくさなれや
もとよりくさのみにしあれば
きのふは南けふは北


  懐 古

あま河原かはらにやほよろづ
ちよろづ神のかんつどひ
つとひいませしあめつちの
始のときをたれか知る

それ大神おほがみ天雲あまぐも
八重かきわけて行くごとく
野の鳥ぞ啼く東路の
碓氷の山にのぼりゆき

日は照らせども影ぞなき
吾妻はやとこひなきて
熱き涙をそゝぎてし
尊の夢は跡も無し

大和の国の高市たかいち
雷山いかづちやま御幸みゆきして
天雲あまぐものへにいほりせる
御輦くるまのひゞき今いづこ

目をめぐらせばさゞ波や
志賀の都は荒れにしと
むかしを思ふ歌人うたびと
めるうらみをなにかせん

春はかすめる高台たかどの
のぼりて見ればけふり立つ
民のかまどのながめさへ
消えてあとなき雲に入る

冬は志(し)ぐるゝ九重の
大宮内のともしびや
さむさは雪に凍る夜の
たつのころもはいろもなし

むかしは遠き船いくさ
人の血汐の流るとも
今はむなしきわだつみの
まんまんとしてきはみなし

むかしはひろき関が原
つるぎに夢を争へど
今は寂しき草のみぞ
ばうばうとしてはてもなき

われいま秋の野にいでゝ
奥山おくやま高くのぼり行き
都のかたを眺むれば
あゝあゝ熱きなみだかな


  秋のうた

秋は
  秋は来ぬ
一葉ひとはは花は露ありて
風の来てく琴の
青き葡萄は紫の
自然の酒とかはりけり

秋は来ぬ
  秋は来ぬ
おくれさきだつ秋草あきぐさ
みな夕霜ゆふじものおきどころ
笑ひの酒を悲みの
盃にこそつぐべけれ

秋は来ぬ
  秋は来ぬ
くさきも紅葉もみぢするものを
たれかは秋に酔はざらめ
智恵あり顔のさみしさに
君笛を吹けわれはうたはん

  初 恋
まだあげめし前髪まへがみ
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛はなぐし
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅うすくれなひの秋の
人こひめしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋のさかづき
君がなさけに酌みしかな

林檎畑のした
おのづからなる細道ほそみち
が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

  狐のわざ
庭にかくるゝ小狐の
人なきときによるいでゝ
秋の葡萄の樹の影に
志(し)のびてぬすむつゆのふさ

恋は狐にあらねども
君は葡萄にあらねども
人志(し)れずこそ忍びいで
君をぬすめる吾心

  相 思
髪を洗へば紫の
小草をぐさのまへに色みえて
足をあぐれば花鳥はなとり
われに随ふ風情ふぜいあり

目にながむれば彩雲あやぐも
まきてはひらく絵巻物えまきもの
手にとる酒は美酒うまさけ
若きうれひをたゝふめり

耳をたつれば歌神うたがみ
きたりてたまふえを吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ

あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな


  一得一失

君がこゝろは蟋蟀こほろぎ
風にさそはれ鳴くごとく
朝影あさかげきよ花草はなぐさ
しき涙をそゝぐらむ

それかきならす玉琴の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
志(し)らべとこそはきこゆめれ

あゝなどかくは触れやすき
君が優しき心から
かくばかりなる吾こひに
触れたまはぬぞ恨みなる


  傘のうち

二人ふたりしてさす一張ひとはり
かさに姿をつゝむとも
なさけの雨のふりしきり
かわくもなきたもとかな

顔と顔とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅花ばいくわの油黒髪くろかみ
乱れて匂ふかさのうち

恋の一雨ひとあめぬれまさり
ぬれてこひしき夢の
染めてぞ燃ゆる紅絹もみうらの
雨になやめる足まとひ

歌ふをきけば梅川よ
志(し)ばしなさけを捨てよかし
いづこも恋にたはぶれて
それ忠兵衛の夢がたり

こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
かさの涙をさぬ
手に手をとりて行きてかへらじ


  ゑにし

わが手に植ゑし白菊の
おのづからなる時くれば
一もと花の暮陰ゆふぐれ
秋にかくれて窓にさくなり


  知るや君

こゝろもあらぬ秋鳥あきどり
声にもれくる一ふしを
        知るや君

深くもめる朝潮あさじほ
底にかくるゝ真珠しらたま
        知るや君

あやめも志(し)らぬやみの夜に
しづかにうごく星ぐつを
        知るや君

まだきも見ぬをとめごの
胸にひそめる琴の
        知るや君

  秋風の歌
    さびしさはいつともわかぬ山里に
        尾花みだれて秋かぜぞふく

志(し)づかにきたる秋風の
西の海より吹き起り
舞ひたちさわぐ白雲しらくも
飛びて行くへも見ゆるかな

暮影ゆふかげ高く秋は黄の
きりこずゑの琴の
そのおとなひを聞くときは
風のきたると知られけり

ゆふべ西風にしかぜ吹き落ちて
あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて
ゆふべの鶉かく

ふりさけ見れば青山あをやま
色はもみぢに染めかへて
霜葉しもばをかへす秋風の
そら明鏡かがみにあらはれぬ

すゞしいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢにきたるとき

みちを伝ふる婆羅門ばらもん
西に東にるごとく
吹き漂蕩たゞよはす秋風に
ひるがへり行くかな

朝羽あさばうちふる鷲鷹わしたか
明闇あけぐれそらをゆくごとく
いたくも吹ける秋風の
はねこゑありちからあり

見ればかしこし西風の
山のをはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百葉もゝはを落すとき

人は利劔つるぎふるへども
げにかぞふればかぎりあり
舌は時世ときよをのゝしるも
声はたちまちほろぶめり

高くもはげし野も山も
息吹いぶきまどはす秋風よ
世をかれがれとなすまでは
吹きもむべきけはひなし

あゝうらさびし天地あめつち
つぼうちなる秋の日や
落葉と共にひるがへ
風の行衛ゆくへたれか知る


  雲のゆくへ

庭にたちいでたゞひとり
秋海棠の花を分け
空ながむれば行く雲の
さら秘密ひみつひらくかな


  逃げ水

ゆふぐれ志(し)づかに
     ゆめみんとて
よのわづらひより
     志(し)ばしのがる

きみよりほかには
     志(し)るものなき
花かけにゆきて
     こひを泣きぬ

すぎこしゆめぢを
     おもひみるに
こひこそつみなれ
     つみこそこひ

いのりもつとめも
     このつみゆゑ
たのしきそのへと
     われはゆかじ

なつかしき君と
     てをたづさへ
くらき冥府よみまでも
     かけりゆかん


  月 光

志(し)づかにてらせる
     月のひかりの
などか絶間なく
     ものおもはする
さやけきそのかげ
     こゑはなくとも
みるひとの胸に
     忍び入るなり

なさけはくとも
     なさけを志(し)らぬ
うきよのほかにも
     朽ちゆくわがみ
あかさぬおもひと
     この月かげと
いづれか声なき
     いづれかなしき


  強 敵

一つの花に蝶と蜘蛛
小蜘蛛は花をまもり顔
小蝶は花に酔ひ顔に
舞へども舞へどもすべぞなき

花は小蜘蛛のためならば
小蝶のまひをいかにせむ
花は小蝶のためならば
小蜘蛛の糸をいかにせむ

やがて一つの花散りて
小蜘蛛はそこに眠れども
羽翼つばさも軽き小蝶こそ
いづこともなくうせにけれ


  別 離

   人妻を志(し)たへる男の山に登り其
   女の家を望み見てうたへるうた
たれかとゞめん旅人たびびと
あすは雲間くもまに隠るゝを
誰か聞くらん旅人の
あすは別れと告げましを

きよき恋とやかたがひ
われのみものを思ふより
恋はあふれてにごるとも
君に涙をかけましを

人妻ひとづま恋ふる悲しさを
君がなさけに知りもせば
せめてはわれを罪人つみびと
呼びたまふこそうれしけれ

あやめも志(し)らぬしや身は
くるしきこひの牢獄ひとやより
罪の鞭責しもとをのがれいで
こひて死なんと思ふなり

たれかは花をたづねざる
誰かはいろに迷はざる
誰かは前にさける見て
花をまんと思はざる

恋の花にも戯るゝ
嫉妬ねたみの蝶の身ぞつらき
二つのはねもをれをれて
つばさの色はあせにけり

人の命を春の夜の
夢といふこそうれしけれ
夢よりもいやいや深き
われに思ひのあるものを

梅の花さくころほひは
蓮さかばやと思ひわび
蓮の花さくころほひは
萩さかばやと思ふかな

待つまも早く秋は来て
わが踏む道に萩さけど
濁りて持てる吾恋は
清きうらみとなりにけり


  望 郷

   寺をのがれいでたる僧のうたひし
   そのうた

いざさらば
これをこの世のわかれぞと
のがれいでゝは住みなれし
御寺みてら蔵裏くり白壁しらかべ
にもふたゝび見ゆるかな

いざさらば
住めば仏のやどりさへ
火炎ほのほいへとなるものを
なぐさめもなき心より
流れて落つる涙かな

いざゝらば
心の油濁るとも
ともしびたかくかきおこし
なさけは熱くもゆる火の
こひしきちりにわれは焼けなむ


  松島瑞巌寺に遊び葡萄
  栗鼠の木彫を観て


舟路ふなぢも遠し瑞巌寺春゛(ず)いがんじ
ふゆ逍遙じやうやうのこゝろなく
古き扉に身をよせて
飛騨の名匠たくみ浮彫うきぼり
葡萄のかげにきて見れば
菩提の寺の冬の日に
かたなかなしみのみうれ
ほられて薄き葡萄葉の
影にかくるゝ栗鼠きねづみ
姿ばかりは隠すとも
かくすよしなしのみ
うしほにひゞく磯寺の
かねにこの日の暮るゝとも
夕闇ゆふやみかけてたゝずめば
こひしきやなぞ甚五郎


  

花によりそふにはとり
つま妻鳥めとりよ燕子花
いづれあやめとわきがたく
さも似つかしき風情ふぜいあり

姿やさしき牝鶏めんとり
かたちを耻づるこゝろして
花に隠るゝありさまに
品かはりたる夫鳥つまとり

雄々しくたけき雄鶏おんとり
とさかの色もつやにして
黄なる口觜くちばし脚蹴爪あしけづめ
尾は志(し)だり尾のながながし

問ふても見ましがために
よそほひありく夫鳥つまとり
つまるためのかざりにと
いひたげなるぞいぢらしき

画にこそかけれ花鳥はなとり
それにも通ふ一つがひ
霜に侘寝の朝ぼらけ
雨に入日の夕まぐれ

空に一つの明星の
闇行く水に動くとき
日を迎へんとにはとり
よるの使をにぞ鳴く

露けき朝の明けて行く
空のながめをたれか知る
燃ゆるがごときくれなゐ
雲のゆくへをたれか知る

闇もこれより隣なる
声ふりあげて鳴くときは
ひとの長眠ねむりのみなめざめ
は日に通ふ夢まくら

明けはなれたりはすでに
いざ妻鳥つまとりと巣を出でゝ
をあさらんと野に行けば
あなあやにくのものを見き

見しらぬとりたか
あしたの空に鳴き渡り
草かき分けてるはなぞ
妻恋ふらしや妻鳥つまとり

ねたしや露にはねぬれて
朝日にうつる影見れば
雄鶏をとりに惜しき白妙の
雲をあざむくばかりなり

ちからあるらし声たけき
かたきのさまを懼れてか
声色いろあるさまにぢてかや
妻鳥めとりは花に隠れけり

かくと見るより堪へかねて
背をや高めし夫鳥つまとり
がきも荒く飛び走り
蹴爪に土をかき狂ふ

筆毛のさきも逆立さかだちて
血潮ちしほにまじるのひかり
二つのとりのすがたこそ
これおそろしき風情ふぜいなれ

妻鳥めとりは花を馳け出でて
争闘あらそひ分くるひまもなみ
たがひに蹴合ふ蹴爪けづめには
火焔ほのほもちるとうたがはる

蹴るや左眼さがんまとそれて
はねに血しほの夫鳥つまとり
てき右眼うがんをめざしつゝ
爪も折れよと蹴返しぬ

蹴られて落つるくれなゐの
血汐の花も地に染みて
二つのとりの目もくるひ
たがひにひるむ風情なし

そこに声あり涙あり
争ひ狂ふ四つのはね
血潮のりに滑りし夫鳥つまとり
あな仆れけん声高し

一声長く悲鳴して
あとに仆るゝ夫鳥つまとり
はねに血潮のあけ
あたりにさける花紅し

あゝあゝ熱き涙かな
あるに甲斐なき妻鳥は
せめて一声鳴けかしと
かばねに嘆くさまあはれ

なにとは知らぬかなしみの
いつか恐怖おそれと変りきて
思ひ乱れてをのみぞ
鳴くや妻鳥めとりの心なく

我を恋ふらしにたてゝ
姿も色もなつかしき
花のかたちと思ひきや
かなしきてきとならんとは

花にもつるゝ蝶あるを
鳥にえにしのなからめや
おそろしきかな其の心
なつかしきかな其のなさけ

あけみける草見れば
鳥の命のもろきかな
火よりも燃ゆる恋見れば
てきのこゝろのうれしやな

見よ動きゆく大空の
照る日も雲に薄らぎて
花に色なく風吹けば
野はさびしくも変りけり

かなしこひしの夫鳥つまとり
冷えまさりゆく其姿
たよりと思ふ一ふしの
いづれ妻鳥めとりの身の末ぞ

恐怖おそれを抱く母と子が
よりそふごとくかのてき
なにとはなしに身をよする
妻鳥めとりのこゝろあはれなれ

あないたましのながめかな
さきの楽しき花ちりて
空色暗く一彩毛ひとはけ
雲にかなしき野のけしき

生きてかへらぬ鳥はいざ
つま妻鳥めとりか燕子花
いづれあやめを踏み分けて
野末を帰る二羽のとり


  深林の逍遙

力をきざ木匠こだくみ
うちふる斧のあとを絶え
春の草花くさばな彫刻ほりもの
のみにほひもとゞめじな
いろさまざまの春の葉に
青一筆あをひとふであともなく
千枝ちえにわかるゝ赤樟あかくす
おのづからなるすがたのみ
ひのきは荒し杉直し
五葉は黒し椎の木の
枝をまじゆる白樫や
あふちは茎をよこたえて
枝と枝とにもゆる火の
なかにやさしき若楓

   山 精
  ひとにしられぬ
  たのしみの
  ふかきはやしを
  たれかしる

  ひとにしられぬ
  はるのひの
  かすみのおくを
  たれかしる

   木 精
  はなのむらさき
  はのみどり
  うらわかぐさの
  のべのいと

  たくみをつくす
  大機おほはた
  をさのはやしに
  きたれかし

   山 精
  かのもえいづる
  くさをふみ
  かのわきいづる
  みづをのみ

  かのあたらしき
  はなにゑひ
  はるのおもひの
  なからずや

   木 精
  ふるきころもを
  ぬぎすてゝ
  はるのかすみを
  まとへかし

  なくうぐひすの
  ねにいでて
  ふかきはやしに
  うたへかし

あゆめば蘭の花を踏み
ゆけば楊梅やまもゝ袖に散り
たもとにまとふ山葛の
葛のうら葉をかへしては
女蘿ひかげの蔭のやまいちご
色よき実こそ落ちにけれ
岡やまつゞき隈々くまぐま
いとなだらかに行き延びて
ふかきはやしの谷あひに
乱れてにほふふぢばかま
谷に花さき谷にちり
人にしられず朽つるめり
せまりて暗きはざまより
やゝひらけたる深山木の
春は小枝こえだのたゝずまひ
志(し)げりて広き熊笹の
葉末をふかくかきわけて
谷のかなたにきて見れば
いづくに行くか瀧川よ
声もさびしや白糸の
青きいはほに流れ落ち
若きましらのためにだに
おとをとゞむる時ぞなき

   山 精
  ゆふぐれかよふ
  たびゞとの
  むねのおもひを
  たれかしる

  友にもあらぬ
  やまかはの
  はるのこゝろを
  たれかしる

   木 精
  をなきあかす
  かなしみの
  まくらにつたふ
  なみだこそ

  ふかきはやしの
  たにかげの
  そこにながるゝ
  志(し)づくなれ

   山 精
  鹿はたほるゝ
  たびごとに
  妻こふこひに
  かへるなり

  のやまは枯るゝ
  たびごとに
  ちとせのはるに
  かへるなり

   木 精
  ふるきおちばを
  やはらかき
  青葉のかげに
  葬れよ

  ふゆのゆめぢを
  さめいでゝ
  はるのはやしに
  きたれかし

今しもわたる深山かぜ
春はしづかに吹きかよふ
林のせうをきけば
風のしらべにさそはれて
みれどもあかぬ白妙の
雲の羽袖の深山木の
千枝ちえだにかゝりたちはなれ
わかれ舞ひゆくすがたかな
樹々きゞをわたりて行く雲の
志(し)ばしと見ればあともなき
高き行衛にいざなはれ
千々にめぐれる巌影いはかげ
花にも迷ひ石に倚り
流るゝ水のをきけば
山は危ふく石わかれ
けづりてなせる青巌あをいは
砕けて落つる飛潭たきみづ
湧きくる波の瀬を早み
花やかにさす春の日の
光烱ひかりてりそふ水けふり
独り苔むす岩を攀ぢ
ふるふあゆみをふみしめて
浮べる雲をうかゞへば
下にとゞろく飛潭たきみづ
澄むいとまなき岩波は
落ちていづくに下るらん

   山 精
  なにをいざよふ
  むらさきの
  ふかきはやしの
  はるがすみ

  なにかこひしき
  いはかげを
  ながれていづる
  いづみがは

   木 精
  かくれてうたふ
  野の山の
  こゑなきこゑを
  きくやきみ

  つゝむにあまる
  はなかげの
  水のしらべを
  しるやきみ

   山 精
  あゝながれつゝ
  こがれつゝ
  うつりゆきつゝ
  うごきつゝ

  あゝめぐりつゝ
  かへりつゝ
  うちわらひつゝ
  むせびつゝ

   木 精
  いまひのひかり
  はるがすみ
  いまはなぐもり
  はるのあめ

  あゝあゝはなの
  つゆに酔ひ
  ふかきはやしに
  うたへかし

ゆびをりくればいつたびも
かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも
もつ筆にせむ色彩いろあや
いつしか淡く茶を帯びて
雲くれなゐとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり
たどる林もひらけきて
いと静かなる湖の
岸辺にさける花躑躅
うき雲ゆけばかげ見えて
水に沈める春の日や
それくれなゐの色染めて
雲紫となりぬれば
かげさへあかき水鳥の
春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ
迷ふひとりのわがみだに
深紫ふかむらさきくれなゐ
あやにうつろふ夕まぐれ


若 菜 集 畢









■このファイルについて
標 題:若菜集
著 者:島崎春樹
発行所:春陽堂
     明治三十年八月廿九発行
本 文:精選 名著復刻全集 近代文学館
     昭和47年4月10日 発行(第5刷)

表記:原文の表記を尊重しつつ、Webでの読みやすさを考慮して、以下のように扱います。

○誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。
○本文のかなづかいは、底本通りとしました。
○旧字体は、現行の新字体に替えました。だだし、新字体に替えなかった漢字もあります。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。
○繰り返し記号の「/\」は用いず、同語反復としました。
○行間処理(行間200%)を行いました。
○いわゆる「変体がな」は、元の漢字を示し( )内に現行の「かな」を示しました。
なお作品中で用いられている「変体がな」は、以下の通りです。
 志(し)
 八(は)
 者(は)
 春(す)

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2005年8月11日 里実文庫