明治32年4月20日  正岡子規


○空はうらゝかに風はあたゝかで、今日は天上に神様だちの舞踏會〔会〕のあるといふ日の晝〔昼〕過、白い蝶と黄な蝶との二つが餘〔余〕念無く野邊〔辺〕に隱〔隠〕れんぼをして遊んで居る。今度は白い蝶の隱れる番で、白い蝶は百姓家の裏の卯の花垣根に干してある白布の上にちよいととまつて靜〔静〕まつて居ると、黄な蝶はそこらの隅々を探して、釣瓶の中や井の中を見たが何處〔処〕にも居らんので稍失望した様子であつた。忽ち思ひついたかして彼方の垣の隅へ往て葵の花を上から下へ一々に覗いても矢張こゝにも居らんので、仕方無しにもとの井戸端に歸〔帰〕らうとして、ふと干し布の上の白い蝶を見つけた。「オヤいやだよ。こんな處に居たのだよト變〔変〕な調子でいふたので、白い蝶は思はず笑ひ出した。「ほんとに可笑しいよ、お日様の照る處に居るのがきイちやんには見えないのだもの。さア早くお隱〔隱〕れよ。直に見ツけてあげるからト白い蝶はいふたので、黄な蝶も笑ひながら、あちらの木立を指して飛んで往た。暫くして白い蝶は後を追ふて産土神の鳥居迄來〔来〕て、あたりを見廻して居ると向ふの木の間に、ちらと物影が見えたやうであつた。「屹度あの榎のうろの中へ隱れたんだよト獨〔独〕りつぶやきながら、榎の蔭〔陰〕迄來ると、羽音を靜めて、あべこべにおどかしてやらうと思ふて、うろへはいるや否や、大きな聲〔声〕で、「と−トいふた。すると、神鳴のやうな聲で、「誰だよ、出し抜けに大きな聲をしやアがるのはトいふのを見ると目に餘〔余〕るやうな山女郎であつた。白い蝶は肝を潰して眞〔真〕青になつて後も見ずに逃げ出したが、空を飛んでは追ひつかれると思ふて、成るたけ刺の多い草むらの間をくゝりくゝり逃げた。黄な蝶《蚊》は薊【あざみ】の葉裏に隱れて居たが、白い蝶の事ありげにあわてゝ飛んで往くのを見て、後から迫ひかけた。「オーイオーイトいふて呼ぶといよいよあわてゝ逃げるやうなので、「あたいだよあたいだよト續〔続〕け様に呼んだら、やうやう聞えたか後ふり向いて息をはづませて居る。「どうしたのだよトいふと、「なに、山女郎が迫つかけると思ふて前の一伍一什を話した。「それではあの化物榎なの。あんな處へあたいが隱れて居ると思ふたの。化物榎と聞いたばかりでも身の毛がよだつぢヤないかト黄な蝶は羽を震はしていふた。「だけれど、若しあんな處へ隱れて居ておどかす積りかも知れないと思ふてト少し落ちついた様子だ。やゝ暫し二つで何事か相談して居たが、終につれだちて、野中にある何がし様のお下屋敷の塀の内へ飛んではいつた。お下屋敷の牡丹畠にはおくれ咲の牡丹がところところに植ゑてある。向ふの方には舶來の草花らしいのが毒々しい色に咲いて、鉢栽のまゝいくつも片よせられて居る。今年はひイ様が御病気で、牡丹の盛りにもこちらへおいでが無いので、園は少し荒れたまゝ手入せずにある。留守居の人一人と門番の爺さん夫婦としか居らんのでお邸の内はしんと靜まつて、丸で明家のやうだ。二つの蝶はこゝへ來ると案内知り顔にあちらの花こちらの花とうれしさうにうかれて居たが、やがて二つは一處に、くれなゐの大輪の牡丹の蘂【しべ】に、羽をかはしてとまつた。「くたびれて眠くなつたト白い蝶は僅に羽を動かしながらいふた聲は眠さうであつた。「もう寐〔寝〕るのト黄な蝶もはや眠りかけて居る。夕日の影は斜に権現の森を掠めて遠くに聞ゆる入相の鐘はあくびするやうに響いて來る。牡丹の花びらは少しづ《つ》ゝ少しづ《つ》ゝつぼまつて、とうとう二つの蝶《蚊》を包んでしまふた。遠くも近くも霞みながらに暮れて、かづきかけたやうな月がぼんやりと上つた時、空遙かに愉快さうな音樂〔楽〕が聞えた。丁度今は六番目の舞踏で、美の紳が胡蝶の舞を始めた處であつた。(のぼる)

○哲學〔学〕書を入れた本箱の上に、「女王」と上書した小さい函がある。これが僕の蓄えている蝶の宮殿だ。蓋の裏に列記せられたる女王の名は「花せゝり」「黄まだら」「日陰蝶」「日陰燥」「蛇の目」「豹文」「緋威」「貴べり立て羽」「揚羽」「一文字」「山黄蝶」「日光白蝶」「大紫」「山女郎」などで、其中で價〔価〕の貴いのは大紫、可愛らしいのは山黄蝶であらう。(子規)

○獨〔独〕り病牀にちゞかまりて四十度以下の寒さに苦しむ時、外に遊び居たる隣の子が、あれ蝶々が蝶々がといふ聲を聽〔聴〕いて一道の春は我が心の中に生じた。それはたしか二月の九日であつた。(子規)



■このファイルについて
標題:蝶
著者:正岡子規
本文:「ほととぎす」 第二巻第七号 明治32・4・20

○漢字は現行の字体にかえた。
○本文・ふりがなの仮名づかいは、原文通りとした。ただしファイル作成時に補ったふりがなは、【  】の中に入れ現代仮名づかいで示した。
○「子規全集(講談社)」では、段落の頭は一字分空けているが、「ほととぎす」掲載時は、一字分空けていない。その当時はこのような表記の仕方であったのであろう。里実文庫の表記法と一致していることでもあるので、「ほととぎす」の表記法をそのまま採用する。
○改段は、1行空けることで示した。
○繰り返し記号は、ひらがな一字の場合は「ゝ」、漢字一字の場合は「々」をそのまま用いた。ただし二字以上の場合は、反復記号は用いず同語反復で表記した。

入力:里実福太朗
ファイル作成:里実工房
公開:2002年8月23日


以下の通り訂正・修正しました。
訂正:誤字は《 》の中に示しました。
修正:可能な限り、原文で用いている漢字に直しました。新字体は〔 〕の中に示しました。
訂正・修正版公開:2004年8月23日(今井安貴夫)