小園の記

明治31年10月10日  正岡子規


小園の記 (小園の図入)      子規子

我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に広がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。始めてこゝに移りし頃は僅に竹藪を開きたる跡とおぼしく草も木も無き裸の庭なりしを、やがて家主なる人の小松三本を栽ゑて稍物めかしたるに、隣の老媼の与へたる薔薇の苗さへ植ゑ添へて四五輪の花に吟興を鼓せらるゝことも多かりき。一年軍に従ひて金州に渡りしが其帰途病を得て須磨に故郷に思はぬ日を費し半年を経て家に帰り着きし時は秋まさに暮れんとする頃なり。庭の面去年よりは遙かにさびまさりて白菊の一もと二もとねぢくれて咲き乱れたる、此景に封して静かにきのふを思へば萬感そゞろに胸に塞がり、からき命を助かりて帰りし身の衰へは只此うれしさに勝たれて思はず三径就荒と口ずさむも涙がちなり。ありふれたる此花、狭くるしき此庭が斯く迄人を感ぜしめんとは曾て思ひよらざりき。況【ま】して此より後病いよいよつのりて足立たず門を出づる能はざるに至りし今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。余をして幾何か獄窓に坤吟するにまさると思はしむる者は此十歩の地と数種の芳葩【ほうは】とあるがために外ならず。つぐの年、春暖漸く催うして烏の声いとうらゝかに聞えしある日病の窓を開きて端近くにじり出で読書に労れたる目を遊ばすに、いきいきたる草木の生気は手のひら程の中にも動きて、まだ薄寒き風のひやひやと病衣の隙を侵すもいと心地よく覚ゆ。これも隣の嫗よりもらひしといふ萩の刈株寸ばかりの緑をふいてたくましき勢は秋の色も思はる。真昼過より夕影椎の樹に落つる迄何を見るともなく酔ふたるが如く労れたるが如くうつとりとして日を暮らすことさへ多かり。

今迄病と寒気とに悩まされて弱り尽したる余は此時新たに生命を与へられたる小児の如く此より萩の芽と共に健全に育つべしと思へり。折ふし黄なる蝶の飛び来りて垣根に花をあさるを見てはそゞろ我が魂の自ら動き出でゝ共に花を尋ね香を探り物の芽にとまりてしばし羽を休むるかと思へば低き杉垣を越えて隣りの庭をうちめぐり再び舞ひもどりて松の梢にひらひら水鉢の上にひらひら一吹き風に吹きつれて高く吹かれながら向ふの屋根に隠れたる時我にもあらず惘然【ぼうぜん】として自失す。忽ち心づけば身に熱気を感じて心地なやましく内に入り障子たつると共に蒲団引きかぶれば夢にもあらず幻にもあらず身は広く限り無き原野の中に在りて今飛び去りし蝶と共に狂ひまはる。狂ふにつけて何処と


(小園の図  省略)

もなく数百の蝶は群れ来りて遊ぶをつらつら見れば蝶と見しは皆小さき神の子なり。空に響く楽の音につれて彼等は躍りつゝ舞ひ上り飛び行くに我もおくれじと茨葎のきらひ無く踏みしだき躍り越え思はず野川に落ちしよと見て夢さむれば寝汗したゝかに襦袢を濡して熱は三十九度にや上りけん。

げんげんの花盛り過ぎて時鳥の空におとづるゝ頃は赤き薔薇白き薔薇咲き満ちてかんばしき色は見るべき趣無きにはあらねど我小国の見所はまこと萩芒のさかりにぞあるべき。今年は去年に比ぶるに萩の勢ひ強く夏の初の枝ぶりさへいたくはびこりて末頼もしく見えぬ。実の色さへ去年の黄ばみたるには似ず緑いと濃し。空晴れたる日は椅子を其ほとりに据ゑさせ人に扶けられてやうやく其椅子にたどりつき、気晴しがてら萩の芽につきたるちいさき虫を取りしことも一度二度にはあらず。桔梗撫子は実となり朝顔は花の稍少くなりし八月の末より待ちに待ちし萩は一つ二つ綻び初たり。飛ひ立つばかりの嬉しさに指を折りて翌は四、あさつては八、十日目には千にやなるらんと思ひ設けし程こそあれある夜野分の風はげしく吹き出でぬ。安からぬ夢を結びてあくる朝、日たけて眠より覚むれば庭になにやらのゝしる馨す。心もとなく這ひ出でゝ何ぞと問ふ。今迄さしもに茂りたる萩の枝大方折れしをれたるなりけり。ひたと胸つぶれていかにせばやと思へどせん無し。斯くと知りせば枝毎に杖立てゝ置かましをなど悔ゆるもおろかなりや。瓦吹き飛ばしたる去年の野分だに斯うはならざりしを今年の風は萩のために方角や悪かりけん。此日は晴れわたりてやゝ秋気を覚え初めしが余は例の椅子を庭に据ゑさせ、バケツとかな盥に水を湛へて折れ残りたる萩の泥を洗へりしかど、空しく足の痛みを増したるばかりにて、泥つきし枝のさきは蕾腐りて終に花咲くことなかりき。園中何事も無きは只松と芒とのみ。

去年の春彼岸やゝ過ぎし頃と覚ゆ、鴎外漁史より草花の種幾袋贈られしを直に播きつけしが百日草の外は何も生えずしてやみぬ。中にも葉鶏頭をほしかりしをいと口をしく思ひしが何とかしけん今年夏の頃、怪しき芽をあらはしゝ者あり。去年葉鶏頭の種を埋めしあたりなれば必定それなめりと竹を立てゝ大事に育てしに果して二葉より赤き色を見せぬ。嬉しくてあたりの昼照草など引きのけやうやう尺余りになりし頃野分荒れしかばこればかり気遣ひしに、思ひの外に萩は折れて葉鶏頭は少し傾きしばかりなり。扶け起して竹杖にしばりなどせしかば恙なくて今は二尺ばかりになりぬ。痩せてよろよろとしながら猶燃ゆるが如き紅、しだれていとうつくし。二三日ありて向ひの家より貰ひ来たりとて肥え太りたる鶏頭四本ばかり植ゑ添へたり。そのつぐの日なりけん。朝まだきに裏戸を叩く声あり。戸を開けば不折子が大きなる葉鶏頭一本引きさげて来りしなりけり。朝霧に濡れつつ手づから植ゑて去りぬ。鶏頭、葉難頭、かゝやくばかりはなやかなる秋に押されて萩ははや散りがちなるもあはれ深し。薔薇、萩、芒、桔梗などをうちくれて余が小楽地の創造に力ありし隣の老嫗は其後移りて他にありしか今年秋風にさきだちてみまかりしとぞ聞えし。
    ごてごてと草花植ゑし小庭かな




■このファイルについて
標題:小園の記
著者:正岡子規
本文:「ほととぎす」 第二巻第一号 明治31・10・10

○漢字は現行の字体にかえた。
○本文の仮名づかいは、原文通りとした。ただしファイル作成時に補ったふりがなは、【  】の中に入れ現代仮名づかいで示した。
○「子規全集(講談社)」では、段落の頭は一字分空けているが、「ほととぎす」掲載時は、一字分空けていない。その当時はこのような表記の仕方であったのであろう。里実文庫の表記法と一致していることでもあるので、「ほととぎす」の表記法をそのまま採用する。
○改段は、1行空けることで示した。
○繰り返し記号は、ひらがな一字の場合は「ゝ」をそのまま用いた。ただし二字以上の場合は、反復記号は用いず同語反復で表記した。

入力:里実福太朗
ファイル作成:里実工房
公開:2002年8月23日