赤 光

齋藤茂吉






  齋 藤 茂 吉著     (アララギ叢書第二編)





赤  光





           東京  東 雲 堂 発 行












  大 正 二 年    (七月迄)


  1 悲 報 来

1

ひた走るわがみち暗ししんしんとこらへかねたるわが道くらし




2

ほのぼのとおのれ光りてながれたるほたるを殺すわが道くらし




3

すべなきかほたるをころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし




4

氷室ひむろよりこほりをいだす幾人いくにんはわが走る時ものを云はざりしかも




5

こほりきるをとこのくちのたばこの火あかかりければ見て走りたり




6

死にせれば人はぬかなとなげかひて眠り薬をのみて寝んとす




7

赤彦あかひこと赤彦が妻に寝よと蚤とりこなを呉れにけらずや




8

罌粟けしはたのむかうにうみの光りたる信濃しなののくにに目ざめけるかも




9

諏訪のうみに遠白とほじろく立つ流波ながれなみつばらつばらに見んとおもへや




10

あかあかと朝焼あさやけにけりひんがしの山並やまなみあめ朝焼けにけり

七月三十日信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壷に浸ってゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取った。予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。



  



   2 屋 上 の 石

11

あしびきの山のはぎまをゆくみづのをりをり白くたぎちけるかも




12

しら玉のうれひのをんな恋ひたづね幾やま越えてきたりけらしも




13

鳳仙花しろあとに散り散りたまるゆふかたまけて忍び逢ひたれ




14

天そそる山のまほらにゆふよどむ光りのなかにいだきけるかも




15

屋上をくじやうの石はめたしみすずかる信濃のくにに我は来にけり




16

屋根の上に尻尾動かす鳥来りしばらく居つつ去りにけるかも




17

屋根踏みて居ればかなしもすぐしたみせに卵を数へゐる見ゆ




18

屋根にゐてかそけきうれひ湧きにけりしたのまちのなりはひの見ゆ  (七月作)







   3 七月二十三日

19

めんどりら砂あびたれひつそりと剃刀研人かみそりとぎは過ぎ行きにけり




20

夏休日なつやすみわれももらひて十日とをかまり汗をながしてなまけてゐたり




21

たたかひは上海しやんはいに起りたりけり鳳仙花あかく散りゐたりけり




22

十日なまけけふ来て見れば受持の狂人きやうじんひとり死に行きて




23

鳳仙花かたまりて散るひるさがりつくづくとわれ帰りけるかも (七月作)







   4 麦  奴

24

しみじみと汗ふきにけり監獄のあかき煉瓦にさみだれは降り




25

雨空あめぞらに煙のぼりて久しかりこれやこの日の午時ちかみかも




26

いひかしぐけむりならむと鉛筆のを研ぎてけむりを見るも




27

病監の窓の下びに紫陽花あじさゐが咲き、折をり風は吹き行きにけり




28

ひた赤し煉瓦の塀はひた赤しをんな刺しし男にものいひ居れば




29

監房より今しがたし囚人はわがまへにゐてややめるかも




30

巻尺まきじやくを囚人のあたまに当て居りて風吹き来しに外面そともを見たり




31

ほほけたる囚人の眼のやや光り女を云ふかも刺しし女を




32

相群れてべにがら色の囚人しうじんきにけるかも入り日赤あかけば




33

まはりみち畑にのぼればくろぐろと麦奴むぎのくろみは棄てられにけり




34

光もて囚人のひとみてらしたりこの囚人をざるべからず




35

けふの日ほ何もいらへず板の上にひとみを落すこの男はや




36

紺いろの囚人のむれ笠かむり草苅るゆゑに光るその鎌




37

監獄に通ひ来しより幾日いくひ経しかなかな啼きたり二つ啼きたり




38

よごれたる門札おきて急ぎたれ八尺やさか入りつ日ゆららに紅し




39

黴毒ひそみ流るる血液を彼の男より採りて持ちたり (七月作)


殺人未遂被告其の精神状態鑑定を命ぜられて某監獄に通ひ居たる時、折にふれて詠みすてたるものなり。



  



   5 みなづき嵐

40

どんよりと空は曇りてりたれば二たび空を見ざりけるかも




41

わがたいにうつうつと汗にじみゐて今みな月の嵐ふきたれ




42

わがいのち芝居しばゐに似ると云はれたり云ひたるをとこ肥りゐるかも




43

みなづきの嵐のなかにふるひつつ散るぬば玉の黒き花みゆ




44

狂院の煉瓦のかどを見ゐしかばみなづきの嵐ふきゆきにけり




45

狂じや一人ひとり蚊帳よりいでてまぼしげに覆盆子いちご食べたしといひにけらずや




46

ながながと廊下を来つついそがしき心湧きたりわれの心に




47

蚊帳のなかに蚊が二三疋にさんびきゐるらしき此寂しさを告げやらましを




48

ひもじさに百日ももかを経たりこの心よるの女人を見るよりも悲し




49

日を吸ひてくろぐろと咲くダアリヤはわが目のもとに散らざりしかも




50

かなしさは日光のもとダアリヤの紅色くれなゐふかくくろぐろと咲く




51

うつうつと湿り重たくひさかたのあめ低くして動かざるかも




52

たたなはる曇りの下を狂人きやうじんはわらひて行けり吾を離れて




53

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人はついにかへり見ずけり (六月作)







   6 死にたまふ母 其の一

54

ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ




55

白ふぢの垂花たりはなちればしみじみと今はそのの見えそめしかも




56

みちのくの母のいのちを一目ひとめ見ん一目みんとぞいそぐなりけれ




57

うち日さす都のよるはともりあかかりければいそぐなりけり




58

ははが目を一目を見んと急ぎたるわがぬかのへに汗いでにけり




59

ともしあかき都をいでてゆく姿すがたかりそめ旅とひと見るらんか




60

たまゆらにねむりしかなや走りたる汽車ぬちにして眠りしかなや




61

吾妻あづまやまに雪かがやけばみちのくのが母の国に汽車入りにけり




62

朝さむみ桑の木の葉に霜ふれど母にちかづく汽車走るなり




63

沼の上にかぎろふ青き光よりわれのうれへの来むとふかや




64

かみやまの停車場に下りわかくしていまは鰥夫やもをのおとうと見たり







     其 の 二

65

はるばるとくすりをもちてしわれを目守まもりたまへりわれはなれば




66

寄り添へる吾を目守まもりて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば




67

長押なげしなるぬりの槍に塵は見ゆ母の朝目あさめには見ゆ




68

山いづる太陽光たいやうくわうを拝みたりをだまきの花咲きつづきたり




69

死に近き母に添寝そひねのしんしんと遠田とほたのかはづてんきこゆる




70

桑の香の青くただよふ朝明あさあけへがたければ母呼びにけり




71

死に近き母がりをだまきの花咲きたりといひにけるかな




72

春なればひかり流れてうらがなし今はのべに蟆子ぶとれしか




73

死に近き母がひたいさすりつつ涙ながれて居たりけるかな




74

母が目をしましれ来て目守まもりたりあな悲しもよかふこのねむり




75

が母よ死にたまひゆくが母よまし乳足ちたらひし母よ




76

のど赤き玄鳥つばくらめふたつ屋梁はりにゐて足乳たらちねの母は死にたまふなり




77

いのちある人あつまりて我が母のいのち死行しゆくを見たり死ゆくを




78

ひとり来てかふこのへやに立ちたればが寂しさは極まりにけり







     其 の 三

79

ならわか葉照りひるがへるうつつなに山蚕やまこあをれぬ山蚕は




80

日のひかりはだらに漏りてうらがなし山蚕はいまだ小さかりけり




81

はふみちすかんぼのはなほほけつつ葬り道べに散りにけらずや




82

おきな草くちあかく咲く野の道に光ながれてわれら行きつも




83

わが母をかねばならぬ火を持てりあまそらには見るものもなし




84

星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり




85

さ夜ふかく母をはふりの火を見ればただ赤くもぞ燃えにけるかも




86

はふり火をまもりこよひは更けにけり今夜こよいてんのいつくしきかも




87

火をりてさ夜ふけぬれば弟は現身うつしみのうた歌ふかなしく




88

ひた心目守まもらんものかほの赤くのぼるけむりのそのけむりはや




89

灰のなかに母をひろへり朝日あさひののぼるがなかに母をひろへり




90

蕗の葉に丁寧に集めし骨くづもみな骨瓶こつがめに入れ仕舞ひけり




91

うらうらとてんに雲雀は啼きのぼり雪はだらなる山に雲ゐず




92

どくだみもあざみの花も焼けゐたり人葬所ひとはふりど天明あめあけぬれば







     其 の 四

93

かぎろひの春なりければ木の芽みな吹きいづる山べ行きゆくわれよ




94

ほのかにも通草あけびの花の散りぬれば山鳩のこゑうつつなるかな




95

山かげに雅子が啼きたり山かげのつぱき湯こそかなしかりけれ




96

さんの湯に身はすつぽりと浸りゐて空にかがやく光を見たり




97

ふるさとのわざへの里にかへり来て白ふぢの花ひでて食ひけり




98

山かげにのこる雪のかなしさに笹かき分けて急ぐなりけり




99

笹はらをただかき分けて行きゆけど母を尋ねんわれならなくに




100

火の山の麓にいづるさん温泉一夜ひとよひたりてかなしみにけり




101

ほのかなる花の散りにし山のべを霞ながれて行きにけるはも




102

はるけくもはぎまのやまに燃ゆる火のくれなゐとが母と悲しき




103

山腹やまはらに燃ゆる火なれば赤赤とけむりはうごくかなしかれども




104

たらの芽を摘みつつ行けり寂しさはわれよりほかのものとかはしる




105

寂しさに堪へて分け入る我が目には黒ぐろと通草の花ちりにけり




106

見はるかす山腹なだり咲きてゐる辛夷こぶしの花はほのかなるかも




107

蔵王山ざわうさんはだら雪かもかがやくと夕さりくればそはゆきにけり




108

しみじみと雨降りゐたり山のべの土赤くしてあはれなるかも




109

遠天をんてんを流らふ雲にたまきはるいのちは無しと云へばかなしき




110

やまかひに日はとつぷりと暮れたれば今は湯のの深かりしかも




111

湯どころに二夜ふたよねぶりて蓴菜じゆんさいを食へばさらさらに悲しみにけれ




112

山ゆゑに笹竹の子をひにけりははそはの母よははそはの母よ (五月作)







   7 お ひ ろ 其 の一

113

なげかへばものみなくらしひんがしに出づる星さへ赤からなくに




114

とほくとほく行きたるならむ電燈を消せばぬば玉のよるもふけぬる




115

よるくればさ夜床よどこに寝しかなしかるおもわも今は無しも小床おどこ




116

ふらふらとたどきも知らず浅草のぬりの堂にわれは来にけり




117

あな悲し観音堂に癩者らいしやゐてただひたすらに銭欲ぜにほりにけり




118

浅草に来てうで卵買ひにけりひたさびしくてわが帰るなる




119

はつはつに触れし子なればわがこころ今ははだらに嘆きたるなれ




120

代々木よよぎ野をひた走りたりさびしさに生きのいのちのこのさびしさに




121

さびしさびしいま西方さいはうにくるくるとあかく入る日もこよなく寂し




122

紙くづをさ庭に焚けばけむり立つこほしきひとははるかなるかも




123

ほろほろとのぼるけむりのてんにのぼり消え果つるかに我も消ぬかに




124

ひさかたの悲天ひてんのもとに泣きながらひと恋ひにけりいのちも細く




125

はうり投げし風呂敷包ひろひ持ちいだきてゐたりさびしくてならぬ




126

ひつたりときて悲しもひとならぬ瘋癲学のふみのかなしも




127

うづ高く積みし書物しよもつに塵たまり見の悲しもよたどき知らねば




128

つとめなればけふも電車に乗りにけり悲しきひとは遥かなるかも




129

この朝け山椒の香のかよひ来てなげくこころに染みとほるなれ







     其 の 二

130

ほのぼのと目を細くしていだかれし子は去りしより幾夜いくよか経たる




131

うれひつつにし子ゆゑに藤のはなる光りさへ悲しきものを




132

しら玉のうれひのをんなきたり流るるがごと今は去りにし




133

かなしみの恋にひたりてゐたるとき白ふぢの花咲き垂りにけり




134

夕やみに風たちぬればほのぼのと躑躅つつじの花はちりにけるかも




135

おもひ出は霜ふるたにに流れたるうす雲のごとかなしきかなや




136

あさぼらけひと目見しゆゑしばだたくくろきまつげをあはれみにけり




137

わがれし星をしたひしくちびるのあかきをんなをあはれみにけり




138

しんしんと雪ふりし夜にそのゆびのあなつめたよと言ひて寄りしか




139

狂院の煉瓦のうへに朝日あさひのあかきを見つつくち触りにけり




140

たまきはるいのちひかりてりたればいなとは言ひてぬがにも寄る




141

のいのち死去しいねと云はばなぐさまめわれの心は云ひがてぬかも




142

すりおろ山葵わさびおろしゆみいでて垂るあをみづのかなしかりけり




143

啼くこゑは悲しけれども夕鳥ゆふどりは木に眠るなりわれはなくに







     其 の 三

144

うれへつつ去にし子のゆゑ遠山とほやまにもゆる火ほどのがこころかな




145

あはれなるおみなまぶた恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり




146

このこころはふらんとしてきたりぬれはたには麦は赤らみにけり




147

夏されば農園に来て心ぐし水すましをばつかまへにけり




148

麦の穂にひかりながれてたゆたへばむかうに山羊は啼きそめにけれ




149

藻のなかにひそむゐもりの赤き腹はつか見そめてうつつともなし




150

この心はふり果てんとの光るきりを畳にさしにけるかも




151

わらぢ虫たたみの上に出でしに烟草のけむりかけて我居り




152

念々にをんなを思ふわれなれど今夜こよひもおそく朱の墨するも




153

この雨はさみだれならむ昨日きのふよりわがさ庭べにりてゐるかも




154

つつましく一人し居れば狂院きやうゐんのあかき煉瓦に雨のふる見ゆ




155

瑠璃いろにこもりてまろき草の実はわが恋人のまなこなりけり




156

ひんがしに星いづる時が見なばその眼ほのぼのとかなしくあれよ (五月六月作)







   8 きさらぎの日

157

きやう院を早くまかりてひさびさにまちあゆめばひかり目に




158

平凡に涙をおとす耶蘇兵士やそへいしあかき下衣ちよつきを着たりけるかも




159

きさらざのあめのひかりに飛行船ニコライでらの上を走れり




160

きねあまたならべばかなし一様いちやうにつぼの白米しろこめに落ち居たりけり




161

杵あまた馬のかうべのかたちせりつぼの白米しろこめに落ちにけるかも




162

もろともにてんを見上げし耶蘇士官あかき下衣ちよつきを着たりけるかも




163

きさらざの市路いちぢを来つつほのぼのと紅き下衣ちよつきの悲しかるかも




164

救世軍のをとこ兵士はくれなゐの下衣ちよつき着たればなにとすべけむ




165

まぼしげに空に見入りしをんなあり黄色わうしよくのふね天馳あまはせゆけば




166

二月にぐわつぞら黄いろき船が飛びたればしみじみとをんなに口触くちふるかなや




167

この身はもなにか知らねどいとほしくよるおそくゐて爪きりにけり (二月作)







   9 口 ぶ え

168

このやうになに頬骨ほほぼねたかきかやさやりて見ればをんななれども




169

このよるをわれとる子のいやしさのゆゑ知らねども何か悲しき




170

目をあけてしぬのめごろと思ほえばのびのびと足をのばすなりけり




171

ひんがしはあけぼのならむほそほそと口笛ふきて行く童子どうじあり




172

あかねさす朝明けゆゑにひなげしを積みし車に会ひたるならむ (五月作)







   10 神田の火事

173

これやこの昨日きぞの火に赤かりし跡どころなれけむり立ち見ゆ




174

天明あめあけし焼跡どころ焼えかへる火中ほなかに音のきこえけるかも




175

亡ぶるものは悲しけれども目の前にかかれとてしも赤き火にほろぶ




176

たちのぼる灰燼くわいじんのなかにくろ眼鏡めがね白き眼鏡を売れりけるかも




177

のどあゆみ眼鏡よろしとことあげてみづからのに眼鏡かけたり (三月作)







   11 女学院門前

178

売薬商人くすりうりしろき帽子をかかぶりて歌ひしかもよくすりのうたを




179

売薬商人くすりうりくすりを売ると足並をそろへて歌をうたひけるかも




180

驢馬にのる少年の眼はかがやけり薬のうたは向うにきこゆ




181

芝生しばふには小松きよらにひたれば人間道にんげんどうの薬かなしも




182

あかねさすひるなりしかば少女をとめらのふりはへ袖はながかりしかも (三月作)







   12 呉竹の根岸の里

183

にんげんの赤子あかごを負へる子守こもり居りこの子守はも笑はざりけり




184

日あたれば根岸の里の川べりの青蕗のたうりたつらんか




185

くれたけの根岸里べの春浅み屋上おくじようの雪りてうごかず




186

あめのなか光りは出でて今はいま雪さんらんとかがやきにけり




187

角兵衛のをさなわらべのをさなさに涙ながれてわれは見んとす




188

笛の音のとろりほろろと鳴りたれば紅色こうしよくの獅子あらはれにけり




189

いとけなきひたいのうへにくれなゐの獅子のあたまを見そめしかもよ




190

春のかぜ吹きたるならむ目のもとのひかりのなかに塵うごく見ゆ




191

ながらふる日光のなか一いろに我のいのちのめぐるなりけり




192

あかあかと日輪てんにまはりしが猫やなぎこそひかりそめぬれ




193

くれなゐの獅子のあたまはあめなるや廻転光くわいてんくわうにぬれゐたりけり (一月作)







   13 さんげの心

194

雪のなかに日の落つる見ゆほのぼのと懺悔さんげの心かなしかれども




195

こよひはや学問したき心起りたりしかすがにわれは床にねむりぬ




196

風引きて寝てゐたりけり窓の戸に雪ふるきこゆさらさらといひて




197

あわ雪はなば消ぬがにふりたればまなこ悲しくぬらくを見む




198

腹ばひになりて朱の墨すりしころ七面鳥に泡雪はふりし




199

ひる日中ひなか床のなかより目をひらき何か見つめんと思ほえにけり




200

雪のうへ照る日光のかなしみに我がつく息はながかりしかも




201

赤電車にまなこ閉づれば遠国をんごくへ流れてなむこころ湧きたり




202

家ゆりてとどろと雪はなだれたり今夜こよい最早幾時もはやいくときならむ




203

しんしんと雪ふる最上もがみかみやま弟は無常を感じたるなり




204

ひさかたのひかりに濡れてしゑやし弟は無常を感じたるなり




205

電燈の球にたまりしほこり見ゆすなはち雪はなだれ果てたり




206

天霧らし雪ふりてなんぢが妻は細りつついきをつかんとすらし




207

あまつ日に屋上の雪かがやけりしづごころ無きいまのたまゆら




208

しろがねのかがよふ雪に見入りつつ何を求めむとする心ぞも




209

いまわれはひとり言いひたれどもあはれ哀れかかはりはなし




210

家にゐて心せはしく街ゆけば街には女おほくゆくなり (一月作)







   14 墓  前

211

ひつそりと心なやみて水かける松葉ぼたんはきのふ植ゑにし




212

しらじらと水のなかよりふふみたる水ぐさの花小さかりけり (八月作)







      明治四十五年
      大 正 元 年



   1 雪ふる日

213

かりそめに病みつつ居ゐればうらがなし墓はらとほく雪つもる見ゆ




214

現身うつしみのわが血脈けちみやくのやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ




215

あまきらし雪ふる見ればいひをくふ囚人しうじんのこころわれに湧きたり




216

わが庭にあひるら啼きてゐたれども雪こそつもれ庭もほどろに




217

ひさかたのあめの白雪ふりきたり幾とき経ねばつもりけるかも




218

枇杷の木の木ぬれに雪のふりつもる心愛憐あわれみしまらくも見し




219

さにはべの百日紅のほそり木に雪のうれひのしらじらと降る




220

天つ雪はだらに降れどさにづらふ心にあらぬ心にはあらぬ (十二月作)







   2 宮益坂

221

荘厳しやうごんのをんなほつして走りたるわれのまなこに高山たかやまの見ゆ




222

風を引き鼻汁はなながれたる一人男ひとりをは駈足をせず富士の山見けり




223

これやこの行くもかへるもおも黄なる電車終点の朝ぼらけかも




224

狂者きやうじやもり眼鏡めがねをかけて朝ぼらけ狂院へゆかず富士の山見居り




225

馬に乗りりくぐん将校きたるなり女難の相かしかにあらずか




226

向ひには女は居たり青き甕もち童子どうじになにかいひつけしかも




227

天竺のほとけの世より女人おんな居りこの朝ぼらけをんな行くなり




228

雪ひかる三国一の富士山ふじさんをくちびる紅き女も見たり (十二月作)







   3 折に触れて

229

くろぐろとつぶらにるる豆柿に小鳥はゆきぬつゆじもはふり




230

蔵王山に雪かもふるといひしときはやはだらなりといらへけらずや




231

狂者らはPaederastieをなせりけり夜しんしんと更けがたきかも




232

ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕やまこ殺ししその日おもほゆ




233

をりをりは脳解剖書読むことありゆゑ知らに心つつましくなり




234

水のうへにしらじらと雪ふりきたり降りきたりつつ消えにけるかも




235

身ぬちに重大を感ぜざれども宿直とのゐのよるにうなじ垂れゐし




236

このさとに大山大将住むゆゑにわれの心の嬉しかりけり (十二月作)







   4 青山の鉄砲山

237

赤き旗けふはのぼらずどんたくの鉄砲山に小供らが見ゆ




238

日だまりのなかに同様のうなゐらは皆走りつつ居たりけるかも




239

銃丸を土より掘りてよろこべるわらべのそばを行きぎりけり




240

青竹を手に振りながら童子どうじ来て何か落ちゐぬおももちをせり




241

ゆふ日とほくきんにひかれば群童はつむりて斜面をころがりにけり




242

群童が皆ころがれば丘のへの童女どうぢよかなしく笑ひけるかも




243

いちにんの童子ころがり極まりて空見たるかな太陽が紅し




244

射的場に細みづ湧きて流れければわらべふたりが水のべに来し (十月作)







   5 ひとりの道

245

霜ふればほろほろと胡麻ごまの黒き実のつちにつくなし今わかれなむ




246

夕凝ゆうこりし露霜ふみて火を恋ひむ一人ひとりのゆゑにこころ安けし




247

ながらふるさ霧のなかに秋花をわれ摘まんとす人に知らゆな




248

白雲は湧きたつらむかわれひとり行かむと思ふ山のはぎまに




249

神無月空の果てよりきたるときひらく花はあはれなるかも




250

ひとりなれば心安けし谿ゆきてくちびる触れむ木の実ありけり




251

ひかりつつあめを流るる星あれど悲しきかもよわれに向はず




252

行くかたのうら枯るる野に鳥落ちて啼かざりしかも入日いりひ赤きに




253

いのち死にてかくろひ果つるけだものを悲しみにつつかひに入りけり




254

みなし児に似たるこころは立ちのぼる白雲に入りて帰らんとせず




255

もみぢ斑に照りとほりたる日の光りはざまにわれを動かざらしむ




256

わが歩みここに極まれ雲くだるもみぢ斑のなかに水のみにけり




257

はるばるも山峡やまかひに来て白樺にさやりて居たりひとりなりけれ




258

ひさかたのあめのつゆじもしとしとと独り歩まむ道ほそりたり (十一月作)







   6 葬り火  黄涙余録の一

259

あらはなるひつぎはひとつかつがれて穏田ばしを今わたりたり




260

自殺せし狂者きやうじやくわんのうしろより眩暈めまひして行けり道に入日いりひあかく




261

陸橋にさしかかるときへい来ればひつぎはしましつちに置かれぬ




262

泣きながすわれのなみだなりとも人に知らゆな悲しきなれば




263

からすらはわれはねむりて居たるらむ狂人きやうじん自殺じさつ果てにけるはや




264

死なねばならぬいのちまもりて看護婦はしろき火かかぐ狂院のよるに




265

みづからのいのち死なんとひたいそぐ狂人をりて火も恋ひねども




266

土のうへに赤棟蛇やまかがし(棟:ママ)遊ばずなりにけり入る日あかあかと草はらに見ゆ




267

歩兵隊代々木よよぎのはらに群れゐしが狂人きやうじんのひつぎひとつ行くなり




268

赤光しやくくわうのなかに浮びてくわんひとつ行きはるけかり野ははてならん




269

わが足より汗いでてやや痛みあり靴にたまりし土ほこりかも




270

火葬場に細みづ白くにごりむこうにひとが米を磨ぎたれば




271

死はも死はも悲しきものならざらむ目のもとに木の実落つたはやすきかも




272

両手をばズボンの隠しに入れ居たりおのが身をしと思はねどさびし




273

はふり火は赤々と立ち燃ゆらんか我がかたはらに男りけり




274

うそ寒きゆふべなるかも葬り火をまもるをとこが欠伸をしたり




275

骨瓶こつがめのひとつを持ちてを問へりわがくちは乾くゆふさりきた




276

納骨の箱は杉の箱にしてこつがめは黒くならびたりけり




277

上野うえのなる動物園にかささぎは肉食ひゐたりくれなゐの肉を




278

おのが身しいとほしきかなゆふぐれて眼鏡めがねのほこり拭ふなりけり







   7 冬  来  黄涙余録の二

279

自殺せる狂者きやうじやをあかき火にはふりにんげんの世におののきにけり




280

けだものはたべもの恋ひて啼き居たりなにといふやさしさぞこれは




281

ペリガンのくちはしうすら赤くしてねむりけりかたはらの水光みづひかりかも




282

ひたいそぎ動物園にわれはたり人のいのちをおそれてたり




283

わが目より涙ながれて居たりけりつるのあたまは悲しきものを




284

けだもののにほひをかげば悲しくもいのちはあかく息づきにけり




285

支那国しなこくのほそき少女をとめの行きなづみ思ひそめにしわれならなくに




286

さけび啼くけだもののひそみゐて赤きはふりの火こそ思へれ




287

鰐の子も居たりけりみづからの命死なんとせずこの鰐の子は




288

くれなゐの鶴のあたまを見るゆゑに狂人守きやうじんもりをかなしみにけり




289

はしきやし暁星学校の少年のはほは赤羅ひきて冬さりにけり




290

泥いろの山椒魚は生きんとし見つつしをればしづかなるかも




291

除隊兵写真をもちて電車に乗りひんがしのあめ明けて寒しも




292

はるかなる南のみづに生れたる鳥ここにゐてなにしみ啼く







   8 柿乃村人へ 黄涙余録の三

293

この夜ごろ眠られなくに心すら細らんとして告げやらましを




294

たのまれし狂者きやうじやはつひに自殺せりわれうつつなく走りけるかも




295

友のかほ青ざめてわれにもの云はず今は如何なる世のすがたかや




296

おのが身はいとほしければ赤棟蛇(棟:ママ)も潜みたるなり土のなかふかく




297

世の色相いろのかたはらにゐて狂者もり黄なる涙は湧きいて(ママ)にけり




298

やはらかに弱きいのちもくろぐろとよろはんとしてうつつともなし




299

寒ぞらに星ゐたりけりうらがなしわが狂院をここに立ち見つ




300

かの岡に瘋癲院のたちたるは邪宗来じやしゆうらいより悲しかるらむ




301

みやこにも冬さりにけりあかねさす日向ひなたのなかに髭剃りて居る




302

遠国をんごくへ行かば剃刀かみそりのひかりさへ馴れてしたしといへばなげかゆ (十一月作)







   9 郊外の半日

303

今しがた赤くなりて女中を叱りしが郊外に来てさむけをおぼゆ




304

郊外はちらりほらりと人行きてわが息づきはなごむとすらん




305

郊外にいまだ落ちゐぬこころもて螇蚸ばつたにぎればつめたきものを




306

秋のかぜ吹きてゐたればをちかたのすすきのなかに曼珠沙華赤し




307

ふた本の松立てりけり下かげに曼珠沙華赤し秋かぜが吹き




308

いちめんの唐辛子畑に秋のかぜあめより吹きてからすおりたつ




309

いちめんに唐辛子あかき畑みちに立てるわらべのまなこ小さし




310

曼珠沙華咲けるところゆ相むれて現身うつしみに似ぬ囚人は出づ




311

草の実はこぼれんとして居たりけりわが足元あしもとの日の光かも




312

赭土はにはこぶ囚人しうじんの光るころ茜さす日は傾きにけり




313

トロッコを押す一人いちにんの囚人はくちびる赤しわれをば見たり




314

片方かたはうに松二もとは立てりしが囚はれびと其処そこを通りぬ




315

秋づきて小さくりし茄子の果をに盛る家の日向に蝿居り




316

女のわらは入日のなかに両手もろてもてに盛る茄子のか黒きひかり




317

天伝あまつたふ日は傾きてかくろへば栗煮る家にわれいそぐなり




318

いとまなきわれ郊外にゆふぐれて栗飯せば悲しこよなし




319

コスモスの闇にゆらげばわが少女をとめ天の戸に残る光を見つつ (十月作)







   10 海辺にて

320

真夏の日てりかがよへり渚にはくれなゐの玉ぬれてゐるかな




321

海の香は山の彼方にうまれたるわれのこころにこよなしかしも




322

七夜ななよ寝て珠ゐる海の香をかげば哀れなるかもこの香いとほし




323

白なみの寄するなぎさに林檎む異国をみなはやや老いにけり




324

あぶらなす真夏のうみに落つる日の八尺やさかあけのゆらゆらに見ゆ




325

きこゆるは悲しきさざれうちひた潮波うしほなみとどろ湧きたるならむ




326

うしほ波鳴りこそきたれ海恋ひてここにわれに鳴りてこそ




327

もも鳥はいまだは啼かねわたのなか黒光りして明けくるらむか




328

岩かげに海ぐさふみて玉ひろふくれなゐの玉むらさきのたま




329

海の香はこよなく悲し珠ひろふわれのこころにみてこそ寄れ




330

桜実さくらごの落ちてありやと見るまでに赤き珠住む岩かげを来し




331

ながれ寄る沖つ藻見ればみちのくの春野小草に似てを悲しも




332

荒磯ありそべに歎くともなき蟹の子のとこくれなゐに見ゆらむあはれ




333

かすかなるいのちをもちて海つものうつくしくゐる荒磯ありそなるかな




334

いささかの潮のたまりに赤きもの生きて居たれば嬉しむかな




335

荒磯べに波見てをればわが血なしまたたきのひまもかなしかりけり




336

海のべに紅毛こうもうの子の走りたるこのやさしさにわれかへるなり




337

かぎろひの夕なぎ海に小舟入れ西方さいはうのひとはゆきにけるはも




338

くれなゐの三角の帆がゆふ海に遠ざかりゆくゆらぎ見えずも




339

月ほそく入りなんとする海の上ここよ遥けく舟なかりけり




340

ぬば玉のさ夜ふけにして波の穂の青く光れば恋しきものを




341

けふもまた岩かげに来つ靡き藻に虎斑とらふ魚の子かくろへる見ゆ




342

しほなりのゆくへ悲しと海のべに幾夜か寝つるこの海のべに







   狂人守

343

うけもちの狂人きやうじんも幾たりか死にゆきてをりをりあはれを感ずるかな




344

かすかなるあはれなるすがたありこれのすがたに親しみにけり




345

くれなゐの百日紅は咲きぬれどこのきやうじんはもの云はずけり




346

としわかき狂人守きやうじんもりのかなしみは通草の花の散らふかなしみ




347

気のふれし支那のをみなに寄り添ひて花は紅しと云ひにけるかな




348

このゆふべ脳病院の二階より墓地ぼち見れば花も見えにけるかな




349

ゆふされば青くたまりし墓みづに食血餓鬼じきけつがきは鳴きかゐるらむ




350

あはれなる百日紅の下かげに人力車じんりきひとつ見えにけるかな (九月作)







   12 土屋文明へ

351

おのが身をあはれとおもひ山みづに涙を落す人居たりけり




352

ものみなのゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑきこ




353

もの書かむと考へゐたれ耳ちかく蜩なけばあはれにきこゆ




354

夕さればむらがりて来る油むし汗あえにつつ殺すなりけり




355

かかる時菴羅あんらの果をも恋ひたらば心落居むとおもふ悲しみ




356

むらさきの桔梗のつぼみ割りたればしべあらはれてにくからなくに




357

秋ぐさの花さきにけり幾朝をみづ遣りしかとおもほゆるかも




358

ひむがしのみやこの市路ひとつのみ朝草ぐるま行けるさびしも (七月作)







   13 夏の夜空

359

墓原に来て夜空よぞら見つ目のきはみ澄み透りたるこの夜空かな




360

なやましき真夏なれどもあめなれば夜空よぞらは悲しうつくしく見ゆ




361

きやうじんりつつ住めば星のゐる夜ぞらもひさに見ずて経にけり




362

目をあげてきよきあまはら見しかどもとほめずらのここちこそすれ




363

ひさびさに夜空を見ればあはれなるかな星群れてかがやきにけり




364

空見ればあまた星居りしかれども弥々いよいよとほくひかりつつ見ゆ




365

汗ながれてちまたの長路ながぢゆくゆゑにかうべ垂れつつ行けるなりけり




366

久ひさに星ぞらを見てりしかばおのれ親しくなりてくるかも (七月作)







   14 折々の歌

367

とろとろとあかき落葉火もえしかばわらはをどりけるかも




368

雨ひと夜さむき朝けを目のもとの死なねばならぬ鳥見て立てり




369

をんなる街の悲しきひそみ土ここに白霜は消えそめにけり




370

猫の舌のうすらに紅き手のりのこの悲しさに目ざめけるかも




371

ほのかなる茗荷の花を見守みもる時わが思ふ子ははるかなるかも




372

をさな児の遊びにも似しがけふも夕かたまけてひもじかりけり (研究室二首)




373

かがまりて脳の切片せつぺんめながら通草あけびのはなをおもふなりけり




374

みちのくの我家わぎへの里に黒きが二たびねぶり目ざめけらしも (故郷三首)




375

みちのくに病む母上にいささかの胡瓜きうりを送るさわりあらすな




376

おきなぐさにくちびるふれて帰りしがあはれあはれいま思ひ出でつも




377

曼珠沙華ここにも咲きてきぞの夜のひと夜のすがたあらはれにけり




378

秋に入る練兵場のみづたまりに小蜻蛉こあきつが卵を生みて居りけり




379

現身うつしみのわれをめぐりてつるみたる赤き蜻蛉とんぼが幾つも飛べり




380

酒の糟あぶりてむろむこころ腎虚じんきよのくすり尋ねゆくこころ




381

けふもまた向ひの岡に人あまた群れゐて人をはふりたるかな




382

何ぞもとのぞき見しかば弟妹いろとらは亀に酒をば飲ませてゐたり




383

太陽はかくろひしより海のうへあめ血垂ちたりのこころよろしき




384

狂院に寝てをれば夜はるしに触るるなし蟾蜍ひきは啼きたり




385

伽羅ぼくに伽羅の果こもりくろき猫ほそりてあゆむ夏のいぶきに




386

蛇の子はぬば玉いろにれたれば石のひまにもかくろひぬらむ




387

ほそき雨墓原に降りぬれてゆく黒土に烟草の吸殻を投ぐ




388

墓はらを白足袋はきて行けるひと遠く小さく悲しかりけり




389

萱草くわんざうをかなしと見つる眼にいまは雨にぬれて行く兵隊が見ゆ




390

墓はらを歩み来にけり蛇の子を見むと来つれど春あさみかな




391

病院をいでて墓原かげの土踏めばなにになごみ来しあが心ぞも




392

松風の吹き居るところくれなゐの提灯つけて分け入りにけり







   15 さみだれ

393

さみだれはなにに降りくる梅の実はみて落つらむこのさみだれに




394

にはとりの卵の黄味の乱れゆくさみだれごろのあぢきなきかな




395

胡頽子ぐみの果のあかき色ほに出づるゆゑに出づるゆゑに歎かひにけり (おくにを憶ふ)




396

ぬば玉のさ夜の小床にねむりたるこの現身うつしみはいとほしきかな




397

しづかなる女おもひてねむりたるこの現身はいとほしきかな




398

鳥の子のすもりに果てむこの心もののあはれと云はまくは憂し




399

あが友の古泉千樫は貧しけれさみだれの中をあゆみゐたりき




400

けふもまた雨かとひとりごちながら三州味噌をあぶりてむも (六月作)







   16 両  国

401

肉太ししぶと相撲すもうとりこそかなしけれ赤き入り日にかげをしたり




402

川向かはむこうの金の入日をいまさらに今さらさらにわれも見入りつ




403

猿の肉ひさげる家にがつきてわが寂しさは極まりにけり




404

猿のおもいと赤くして殺されにけり両国ばしを渡り来て見つ




405

きなくさき火縄おもほゆ薬種屋に亀の甲羅のぶらさがり見ゆ




406

笛鳴ればかかれとてしもぬば玉のともりて舟ゆきにけり




407

冬河の波にさやりてのぼる舟橋のべに来て帆を下ろしつつ




408

あかき面安らかに垂れおさな猿死にてし居ればがあたりたり (一月作)







   17 犬の長鳴

409

よる深くふと握飯にぎりめし食ひたくなりにぎりめし食ひぬ寒がりにつつ




410

わがからだねむらむとしてゐたるときそとはこがらしの行くおときこゆ




411

遠く遠く流るるならむをゆりて冬の疾風はやちは行きにけるかも




412

長鳴くはかの犬族けんぞくのなが鳴くは遠街おんがいにして火は燃えにけり




413

さ夜ふけと夜の更けにける暗黒あんこくにびようびようと犬は鳴くにあらずや




414

たちのぼるほのほのにほひ一天ひとあめさかりて犬は感じけるはや




415

の底をからくれなゐに燃ゆる火のあめりたれ長嶋ながなききこゆ




416

生けるものうつつに生けるけだものはくれなゐの火に長鳴きにけり (二月作)







   18 木 こ り 羽前国高湯村

417

常赤とこあかく火をしかんとうつ木原きはらへのぼるこころのひかり




418

山腹やまはらの木はらのなかへ堅凝かたこりのかがよふ雪を踏みのぼるなり




419

てんのもと光にむかふ楢木ならきはららんとぞする男とをんな




420

をとこれをんなはれてひさかたのてんの下びに木をりにけり




421

さんらんとひかりのなかに木伐きこりつつにんげんの歌うたひけるかも




422

ゆらゆらと空気をりてられたりけり斧のひかれば大木おほきひともと




423

山上さんじやうに雲こそ居たれおのふりてやまがつの目はかがやきにけり




424

うつそみの人のもろもろは生きんとし天然てんねんのなかに斧ふり行くも




425

斧ふりてるそばに小夜床さよどこほとのかなしさ歌ひてゐたり




426

もろともに男のおもの赤赤と小雀こがらもゐつつ山みづの鳴る




427

雪のうへ行けるをんなは堅飯かたいひ赤子あかごを背負ひうたひて行けり




428

雪のべに火がとろとろと燃えぬれば赤子あかごちちをのみそめにけり




429

うち日さすみやこをいでてほそりたるわれのこころを見んとおもへや




430

杉の樹のはだへに寄ればあなかなし くれなゐのあぶら滲みいづるかなや




431

はるばるも来つれこころは杉の樹のあけの油に寄りてなげかふ




432

遠天をんてんに雪かがやけば木原なる大鋸おがくづ越えて小便をせり




433

みちのくの蔵王ぎわうの山のやま腹にけだものと人と生きにけるかも (二月作)







   19 木 の 実

434

しろがねの雪ふる山に人かよふ細ほそとして路見ゆるかな




435

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程いくほどもなき歩みなりけり




436

満ち足らふ心にあらぬ 谷つべにをふける木の実をむこころかな




437

山とほく入りても見なむうら悲しうら悲しとぞ人いふらむか




438

紅蕈べにたけの雨にぬれゆくあはれさを人に知らえず見つつ来にけり




439

山ふかく谿の石原いしはらしらじらと見え来るほどのいとほしみかな




440

かうべ垂れがゆく道にぽたりぽたりとちの木の実は落ちにけらずや




441

ひとりて朝のいひ食むが命は短かからむとひて飯はむ (一月作)







   20 睦岡山中

442

さむざむとゆふぐれて来る山のみち歩めば路は湿れてゐるかな




443

山ふかき落葉のなかにゆうのみづてんよりりてひかり居りけり




444

何もののまなこのごときひかりみづ山の木はらに動かざるかも




445

現し身のひとみかなしく見入りぬる水はするどく寒くひかれり




446

都会のどよみをとほくこの水に口触れまくは悲しかるらむ




447

天さかるひなの山路にけだものの足跡ああとを見ればこころよろしき




448

なげきよりめて歩める山峡やまかひに黒き木の実はこぼれ腐りぬ




449

寂しさに堪へて空しきが肌になにか触れて悲しかるもの




450

ふゆ山にひそみて玉のあかき実をついばみてゐる鳥見つ今は




451

風おこる木原きはらをとほく入りつ日の赤き光りはふるひ流るも




452

赤光しやくくわうのなかの歩みはひそか夜の細きかほそきゆめごころかな (一月作)







  21 或る夜

453

くれなゐの鉛筆きりてたまゆらはつつましきかなわれのこころの




454

をさな妻をとめとなりて幾百日いくももかこよひも最早もはや眠りゐるらむ




455

ねがてにわれ烟草すふ烟草すふ少女をとめ最早もはや眠りゐるらむ




456

いま吾は鉛筆をきるその少女安心あんしんをして眠りゐるらむ




457

わが友は蜜柑むきつつしみじみとはやいだきねといひにけらずや




458

けだものの暖かさうないねすがた思ひうかべて独りねにけり




459

寒床さむとこにまろく締まりうつらうつら何時のまにかも眠りゐるかな




460

水のべの花の小花の散りどころ盲目めしいになりていだかれて呉れよ (一月作)







   



   明治四十四年



   



  1 此の日頃

461

よるさむく火を警むるひようしぎの聞え来る頃はひもじかりけり




462

この宵はいまだ浅けれ床ぬちにのびつつ何か考へむとおもふ




463

尺八のほろほろと行く悲しはこの世のはてに遠ざかりなむ




464

入りつ日の赤き光のみなぎらふ花野はとほくくるなり




465

さだめなきもののおそひの来る如くむなゆらぎして街をいそげり




466

うらがなしいかなる色のひかりはやわれのゆくへにかがよふらむか




467

生くるもの我のみならずうつし身の死にゆくを聞きつつ飯食いいをしにけり




468

をさな児のひとり遊ぶを見守みもりつつ心よろしくなりてくるかも (一月作)







   2 お く に

469

なにか言ひたかりつらむそのことへなくなりてなれは死にしか




470

はや死にてゆきしかいましいとほしといのちのうちにはいひしかな




471

とほ世べになむ今際いまわの目にあはずなみだながらに嬉しむものを




472

なにゆゑに泣くとぬかなで虚言いつわりも死に近き子には言へりしか




473

これの世にきななんぢに死にゆかれ生きのいのちの力なしあれ




474

あのやうにかい細りつつ死にしがあはれになりてりがてぬかも




475

ひとたびはなおりて呉れよとうら泣きて千重にいひたる空しかるかな




476

この世にも生きたかりしか一念いちねんまうさずきしよあはれなるかも




477

なにもあはれになりて思ひづるお国のひと世はみじかかりしか




478

にんげんの現実うつつは悲ししまらくもただよふごときねむりにゆかむ




479

やすらかなねむりもがもと此の日ごろねむりぐすりに親しみにけり




480

なげかひも人に知らえず極まればなにに縋りて吾は行きなむか




481

しみいたるゆふべのいろに赤くゐる火鉢のおきのなつかしきかも




482

現身うつしみのわれなるかなとなげかひて火鉢をちかく身に寄せにけり




483

ちから無く鉛筆きればほろほろとくれないの粉が落ちてたまるも




484

灰のへにくれなゐの粉の落ちゆくを涙ながしていとほしむかも




485

生きてゐるなれがすがたのありありとなにに今頃見えきたるかや (一月作)







   3 うつし身

486

雨にぬるる広葉細葉のわか葉森あが言ふ声のやさしくきこゆ




487

いとまなき吾なればいま時の間の青葉のゆれも見むとしおもふ




488

しみじみとおのに親しきわがあゆみ墓はらの蔭に道ほそるかな




489

やはらかに濡れゆく森のゆきずりにいきつかれの吾をこそ思へ




490

よにも弱き吾なれば忍ばざるべからず雨ふるよ若葉かへるで




491

にんげんは死にぬかくのごとは生きてゆふいひしに帰へらなむいま




492

黒土に足駄の跡の弱けれどおのが力とかへり見にけり




493

うちどよむちまたのあひの森かげに残るみづ田をいとしくおもふ




494

青山の町蔭の田のさび田にしみじみとして雨ふりにけり




495

森かげの夕ぐるる田に白きとりうみとりに似しひるがへり飛ぶ




496

寂し田に遠来とほこ白鳥しらとり見しゆゑに弱ければはうれしくて泣かゆ




497

くわん草はたけややのびて湿しめりある土にそよげりこのいのちはや




498

はるの日のながらふ光に青き色ふるへる麦のねたくてならぬ




499

春浅き麦のはたけにうごく虫ぐさにはすれ悲しみわくも




500

うごき行く虫を殺してうそ寒く麦のはたけを横ぎりにけり




501

いとけなき心はふりのかなしさに蒲公英たんぽぽを掘るせとの岡べに




502

仄かにも吾に親しき予言かねごとをいはまくすらしき黄いろ玉はな (四月五月作)







   4 うめの雨

503

おのが身をいとほしみつつ帰り来る夕細道ゆふほそみちに柿の花落つも




504

はかなき身も死にがてぬこの心君し知れらば共に行きなむ




505

さみだれのけならべ降れば梅の実のつぶら大きくここよりも見ゆ




506

あめそよぐほそ葉わか葉に群ぎもの心寄りつつなげかひにけり




507

かぎろひのゆふさりくれど草のみづかくれ水なれば夕光ゆふひかりなしや




508

ゆふ原の草かげ水にいのちいくるかへるはあはれ啼きたるかなや




509

うつそみの命はしとなげき立つ雨の夕原ゆうはらするものあり




510

くろく散る通草あけびの花のかなしさをおさなくてこそおもひそめしか




511

おもひ出も遠き通草の悲し花きみに知らえず散りか過ぎなむ




512

道のべの細川もいま濁りみづいきほひながるよるの雨ふり




513

汝兄なえ汝兄なえたまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも




514

あぶなくも覚束おぼつかなけれ黄いろなる円きうぶ毛が歩みてゐたり




515

見てを居り心よろしも鶏の子はついばみながらゐねむりにけり




516

庭つとりかけのひよこもうらがなし生れて鳴けば母にし似るも




517

乳のまぬ庭とりの子はおのづからあわれなるかもよものみにけり




518

常のごと心足らはぬ吾にあれひもじくなりて今かへるなり




519

たまたまに手など触れつつ添ひ歩む枳殻からたち垣にほこりたまれり




520

ものがくれひそかに煙草すふ時の心よろしさのうらがなしかり




521

青葉空雨になりたれ吾はいまこころ細ほそと別れゆくかも




522

天さかり行くらむ友に口寄せてひそかに何かいひたきものを (五月六月作)







   5 蔵王山

523

蔵王をのぼりてゆけばみんなみの吾妻あづまの山に雲のゐる見ゆ




524

たちのぼる白雲のなかにあはれなる山鳩啼けり白くものなかに




525

ま夏日の日のかがやきに桜の実みて黒しもわれはみたり




526

あまつ日に目蔭まかげをすれば乳いろのたたへかなしきみづうみの見ゆ




527

死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁ちしるの色のみづ見ゆるかな




528

秋づけばはらみてあゆむけだものもさんのみづなれば舌触りかねつ




529

蜻蛉あきつむらがり飛べどこのみづに卵うまねばかなしかりけり




530

ひんがしの遠空とほぞらにして絹いとのひかりは悲し海つ波なれば (八月作)







   6 秋の夜ごろ

531

玉きはるいのちをさなく女童めわらはをいだき遊びき夜半よはのこほろぎ




532

こよひも生きてねむるとうつらうつら悲しき虫を聞きほくるなり




533

ことわりもなき物怨ものうらみ我身にもあるがいとしく虫ききにけり




534

少年の流されびとのいとほしと思ひにければこほろぎが鳴く




535

秋なればこほろぎの子の生れ鳴く冷たき土をかなしみにけり




536

少年の流され人はさ夜の小床に虫なくよ何の虫よといひけむ




537

かすかなるうれひにゆるるわが心蟋蟀聞くに堪へにけるかな




538

蟋蟀の音にいづる夜の静けさにしろがねの銭かぞへてゐたり




539

紅き日の落つる野末の石の間のかそけき虫にあひにけるかも




540

足もとの石のひまより静けさに顫ひて出づる音にりにけり




541

入りつ日の入りかくろへば露満つる秋野の末にこほろぎ鳴くも




542

うちどよむちまたを過ぎてしら露のゆふ凝る原にわれは来にけり




543

星おほき花原くれば露は凝りみぎりひだりにこほろぎ鳴くも




544

こほろぎのかそけき原も家ちかみ今ほほ笑ふわらはきこゆ




545

はるばると星落つる夜の恋がたり悲しみの世にわれ入りにけり




546

濠のみづゆけばここに細き水流れ会ふかな夕ひかりつつ




547

わらはをとめとなりて泣きし時かなしく吾はおもひたりしか




548

さにづらふ少女ごころに酸漿ほおずきこもらふほどの悲しみを見し




549

ひとり歩む玉ひや冷とうら悲し月より降りし草の上の露




550

こほろぎはこほろぎゆゑに露原に音をのみぞ鳴く音をのみぞ鳴く (九月作)







   7 折に触れて

551

なみだ落ちてなつかしむかもこのへやにいにしへ人は死に給ひにし (子規十周忌三首)




552

みづからをさげすみ果てし心すら此夜はあはれなごみてを居ぬ




553

しづかにをつむり給ひけむおのづからすべてはつめたくなり給ひけむ




554

涙ながししひそか事も、消ゆるかや、より秋なれば桔梗きちかうは咲きぬ (録三首)




555

きちかうのむらさきの花萎む時わが身はしとおもふかなしみ




556

さげすみ果てしこの身も堪へ難くなつかしきことありあはれあはれわが少女をとめ




557

栗の実のみそむるころ谿越えてかすかなる灯に向ふひとあり (録三首)




558

かどはかしに逢へるをとめのうつくしと思ひ通ひて谿越えにけり




559

うつくしき時代ときよなるかな山賊はもみづる谿にいのち落せし




560

おのづからうら枯るるらむ秋ぐさに悲しかるかも実籠みこもりにけり




561

ひさかたの霜ふる国にうま群れてながながし路くだるさみしみ




562

死に近き狂人をるはかなさにおのが身すらをしとなげけり




563

照り透るひかりのなかに消ぬべくも蟋蟀ととなげかひにけり




564

つかれつつ目ざめがちなるこの夜ごろよりさめ聞くながれ水かな




565

朝さざれ踏みの冷めたくあなあはれ人のおも(ママ)の湧ききたるかも




566

秋川のさざれ踏み往き踏み来とも落ちゐぬ心君知るらむか




567

土のうへの生けるものらのひそむべくあな慌し秋の夜の雨




568

秋のあめ煙りて降ればさ庭べに七面鳥は羽もひろげず




569

寒ざむとひと夜の雨のふりしかば病める庭鳥をいたはり兼ねつ




570

ほそほそとこほろぎの音はみちのくの霜ふる国へとほ去りぬらむ



  遠き世のガレーヌスは春のあけぼの
8 Ornamentum をかなしみぬ。われは
  東海の国の伽羅の木かげPluma loci と
  いひてなげかふ。




571

伽羅ぼくのこのみのごとく仄かなるはかなきものかpluma lociよ




572

ほのかなるものなりければをとめごはほほと笑ひてねむりたるらむ







   明治四十三年



   1 田螺と彗星

573

とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり




574

田螺はも背戸の円田まろたにゐると鳴かねどころりころりと幾つもゐるも




575

わらくづのよごれて散れる水無田みなしだに田螺の殻は白くなりけり




576

気ちがひのおもてまもりてたまさかは田螺もべてよるいねにけり




577

赤いろのはちすまろ葉の浮けるとき田螺はのどにみごもりぬらし




578

味噌うづの田螺たうべて酒のめば我が咽喉仏のどぼとけうれしがり鳴る




579

南蛮の男かなしと恋ひ生みし田螺にほとけの性ともしかり




580

ためらはず遠天に入れと彗星の白きひかりに酒たてまつる




581

うつくしく瞬きてゐる星ぞらに三尺みさかほどなるははき星をり




582

きさらざのあめたかくして彗星ほうきぼしありまなこ光りてもろもろは見る




583

入り日ぞら暮れゆきたれば尾を引ける星にむかひて子等走りたり







   2 南蛮男

584

くれなゐの千しほのころも肌につけゆららゆららに寄りもこそ寄れ (録八首)




585

南蛮なんばんのをとこかなしといだかれしをだまきの花むらさきのよる




586

なんばんの男いだけば血のこゑすその時のまの血のこゑかなし




587

南より笛吹きて来る黒ふねはつばくらめよりかなしかりけり




588

夕がらすそらに啼ければにつぽんのをんなのくちもあかく触りぬれ




589

入り日ぞら見たる女はうらぐはし乳房ちぶさおさへて居たりけるかな




590

ひとみ青きをとこ悲しと島をとめほのぼのとしてみごもりにけり




591

なんばんの黒ふねゆれてはてし頃みごもりし人いまは死にせり




592

にほひたる畳のうへに白たまの静まりたるを見すぐしがてぬ (録三首)




593

しらたまの色のにほひをあはれとぞ見し玉ゆらのわれやつみびと




594

罪ひとの触れんとおもふしら玉のおののきたらばすべなからまし







   3 をさな妻

595

墓はらのとほき森よりほろほろとのぼるけむりに行かむとおもふ




596

木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり




597

をさな妻こころに持ちてありれば赤き蜻蛉とんぼの飛ぶもかなしも




598

目を閉づれすなはち見ゆる淡々し光に恋ふるもさみしかるかな




599

ほこり風立ちてしづまるさみしみを市路ゆきつつかへりみるかも




600

このゆふべ塀にかわけるさびあけのべにがらの垂りをうれしみにけり




601

公園に支那のをとめを見るゆゑに幼な妻もつこの身しけれ




602

はしあかき小鳥さへこそ飛ぶならめはるばる飛ばば悲しきろかも




603

細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり




604

水さびゐる細江の面に浮きふふむこの水草はうごかざるかな




605

汗ばみしかうべを垂れて抜け過ぐる公園に今しづけさに会ひぬ




606

をさな妻をさなきままにその目より涙ながれて行きにけるかも




607

をだまきの咲きし頃よりくれなゐにゆららに落つる太陽こそ見にけれ




608

をさな妻ほのかにまもる心さへ熱病みしより細りたるなれ (折々の作)







   4 悼堀内卓

609

堀内はまこと死にたるかありの世かいめ世かくやしいたましきかも




610

信濃路のゆく秋の夜のふかき夜をなにをひつつ死にてゆきしか




611

うつそみの人の国をば君去りて何辺いづべにゆかむちちははをおきて




612

はやはやもなほりて来よとむわれになにゆゑに逝きし一言ひとこともなく




613

いまよりはまことこの世に君なきかありと思へどうつつにはなきか




614

深き夜のとづるまなこにおもかげに見えくる友をなげきわたるも




615

霜ちかき虫のあはれを君と居て泣きつつ聞かむとおもひたりしか (十月作)








    自明治三十八年
    至明治四十二年




   1 折に触れ 明治三十八年作

616

黒き実のつぶらつぶらとひかる実の柿は一本いつぽんたちにけるかも




617

浅草の仏つくりの前来れば少女おとめまぼしく落日いりひを見るも




618

ほんよみて賢くなれと戦場のわがは銭を呉れたまひたり




619

戦場のわがより来し銭もちて泣きゐたりけり涙が落ちて




620

桑畑の畑のめぐりに紫蘇ひてちぎりて居ればにほひするかも




621

はるばると母はいくさひたまふ桑の木の実は熟みゐたりけり




622

けふの日は母の辺にゐてくろぐろとめる桑の実食みにけるかも




623

かがやける真夏日のもとたらちねはいくさを思ふ桑の実くろし




624

馬屋まやのべにをだまきの花とぼしらにをりをり馬が尾を振りにけり




625

数学のつもりになりて考へしに五目並べに勝ちにけるかも




626

熱いでて一夜ひとよ寝しかばこの朝け梅のつぼみをつばらかに見つ




627

春かぜの吹くことはげし朝ぼらけ梅のつぼみは大きかりけり




628

入りかかる日の赤きころニコライのそばの坂をばりて来にけり




629

寝て思へばいめごとかり山焼けて南の空はほの赤かりし




630

さ庭べの八重山吹の一枝ちりしばらく見ねばみな散りにけり




631

日輪がすでに真赤になりたれば物干ものほしにいでて欠伸せりけり




632

ゆふさりてランプともせばひと時は心静まりて何もせず居り







   2 地獄極楽図 明治三十九年

633

浄玻瓈じやうはりにあらはれにけり脇差わきざしを差しておんなをいぢめるところ




634

いひなかゆとろとろとのぼほのほ見てほそき炎口ゑんくのおどろくところ




635

赤きいけにひとりぽつちの真裸まはだかのをんな亡者もうじやの泣きゐるところ




636

いろいろの色の鬼ども集りてはちすはなにゆびさすところ




637

人の世にうそをつきけるもろもろの亡者もうじやの舌を抜きるところ




638

罪計つみはかりに涙ながしてゐる亡者もうじやつみを計ればいはほより重き




639

にんげんは馬牛うまうしとなり岩負ひて牛頭馬頭ごづめづどもの追ひ行くところ




640

をさな児の積みし小石を打くづしこんいろの鬼見てゐるところ




641

もろもろははだかになれところも剥ぐひとりの婆の口赤きところ




642

白きはなしろくかがやき赤き華赤き光りを放ちゐるところ




643

ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらとり来るところ








   3 蛍   昼見れば首筋

  あかき蛍かな  芭 蕉



644

へやに放ちしほたるあかねさす昼なりければ首は赤しも




645

蚊帳のなかに放ちし蛍夕さればおのれ光りて飛びて居りけり




646

あかときの草の露たま七いろにかがやきわたり蜻蛉とんぼれけり




647

あかときの草に生れて蜻蛉あきつはも未だやはらかみ飛びがてぬかも




648

小田のみち赤羅ひく日はのぼりつつれし蜻蛉とんぼもかがやきにけり (明治三十九年作)







   4 折に触れて 明治三十九年作

649

来て見れば雪げの川べ白がねの柳ふふめり蕗の薹も咲けり (二首)




650

あづさ弓春は寒けど日あたりのよろしき処つくづくし萌ゆ




651

生きて丈夫ますらをがおも赤くなりをどるを見れば嬉しくて泣かゆ (二首)




652

凱旋かへり来て今日のうたげに酒をのむ海のますらをに髯あらずけり




653

み仏のれましの日と玉蓮たまはちすをさなあけの葉池に浮くらし (二首)




654

み仏のみ堂に垂るる藤なみの花の紫いまだともしも




655

青玉のから松の芽はひさかたのあめにむかひて並びてを萌ゆ (二首)




656

春さめは天の乳かも落葉松の玉芽あまねくふくらみにけり




657

みちのくのほとけの山のこごしこごし岩秀いわほに立ちて汗ふきにけり (立石寺)




658

天の露落ちくるなべに現し世の野べに山べに秋花咲けり




659

涅槃会をまかりて来れば雪つめる山の彼方は夕焼のすも




660

小滝まで行かむは未だくたびれの息つく坂よ山鳩のこゑ




661

夕ひかる里つ川水夏くさにかくるる処まろき山見ゆ




662

淡青たんじやうとほのむら山たびごろもわが目によしと寝てを見にけり




663

火の山をめぐる秋雲の八百雲をゆらに吹きまく天つ風かも (蔵王山五首)




664

岩の秀に立てばひさかたの天の川南に垂れてかがやきにけり




665

天なるや群がりめぐる高ぼしのいよいよ清く山高みかも




666

雲の中の蔵王ざわうの山は今もかもけだもの住まず石あかき山




667

あめなるや月読の山はだら牛うち臥すなして目に入りにけり




668

病癒えし君がにぎおもの髯あたり目にし浮びてうれしくてならず (蕨真氏病癒ゆ)







   5 虫 明治四十年作

669

花につく朱の小蜻蛉あきつゆふさればねむりけらしもこほろぎが鳴く




670

とほ世べの恋のあはれをこほろぎのかたが夜々つぎかたりけり




671

月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒みろくは出でず虫鳴けるかも




672

ヨルダンの河のほとりに虫なくとふみに残りて年ふりにけり




673

なが月の清きよひよひ蟋蟀やねもころころに率寝ゐねて鳴くらむ




674

きのふ見し千草もあらず虫の音も空に消入りうらさびにけり




675

あきの夜のさ庭に立てばつちの虫音は細細と悲しらに鳴く




676

なが月の秋ゑらぎ鳴くこほろぎに螻蛄けらも交りてよき月夜かも







   6 雲 明治四十年作

677

かぎろひの夕べの空に八重なびく朱の雲旗とほにいざよふ




678

岩根ふみ天路をのぼる脚底ゆいかづちぐもの湧き巻きのぼる




679

蔵王の山はらにして目を放つ磐城の諸嶺もろねくも湧ける見ゆ




680

底知らに瑠璃のただよふあめに凝れる白雲誰まつ白雲




681

岩ふみて吾立つやまの火の山に雲せまりくる五百つ白雲




682

遠ひとに吾恋ひ居れば久かたの天のたな雲に鶴飛びにけり




683

あめつちの寄り合ふきはみ晴れとほる高山の背に雲ひそむ見ゆ




684

八重山の八谷かぜ起りひさかたの天に白雲のゆらゆらと立っ




685

たくひれのかけのよろしき妹が名の豊旗雲と誰がいひそめし




686

小旗ぐも大旗雲のなびかひに今し八尺やさかの日は入らむとす




687

いなびかりふくめる雲のたたずまひ物ほしにのりてつくづくと見つ




688

ひと国をはるかに遠き天ぐもの氷雲ひぐものほとり行くは何ぞも




689

雲に入る薬もがもと雲恋ひしもろこしの君は昔死にけり




690

ひむがしの天の八重垣しろがねと笹べり赤く渡津見の雲







   7 苅しほ 明治四十年作

691

秋のひかり土にしみ照り苅しほに黄ばめる小田を馬が来る見ゆ




692

竹おほき山べの村の冬しづみ雪降らなくにかんに入りけり




693

ふゆの日のうすらに照れば並み竹は寒ざむとして霜しづくすも




694

窓のに月照りしかば竹の葉のさやのふるまひあらはれにけり




695

しもの夜のさ夜のくだちに戸を押すや竹群が奥にあけの月みゆ




696

竹むらの影にむかひて琴ひかば清掻すががきにしも引くべかりけり




697

月あかきもみづる山に小猿ども天つ領巾ひれなどりしてをらむ




698

猿の子の目のくりくりを面白み日の入りがたをわがかへるなり







   8 留守居 明治四十年作

699

まもりゐの縁の入り日に飛びきたり蝿が手をもむに笑ひけるかも




700

一人して留守居さみしら青光る蝿のあゆみをおもひに見し




701

留守をもるわれの机にえ少女をとめのえ少男をとこの蝿がゑらぎ舞ふかも




702

秋の日の畳の上に飛びあよむ蝿の行ひ見つつ留守すも




703

入り日さすあかり障子はばら色にうすら匂ひて蝿一つとぶ




704

事なくて見ゐる障子に赤とんぼかうべ動かす羽さへふるひ




705

まもりゐのあかり障子にうつりたる蜻蛉は行きて何も来ぬかも




706

留守もりて入り日紅けれ紙ふくろ猫に冠せんとおもほえなくに







   9 新年の歌 明治四十一年作

707

今しいま年のきたるとひむがしの八百やをうづ潮に茜かがよふ




708

高ひかる日の母を恋ひめぐり廻り極まりてあめ新たなり




709

東海に礉馭盧おのころれていく継ぎの真日うるはしく天明あめあけにけり




710

ひむがしのあけの八重ぐもゆ斑駒ふちごまに乗りてらしも年の若子わくご




711

年のはの真日のうるはしくれなゐを高きに上り目蔭まかげして見つ




712

新装にひよそふ日の大神の清明目あかしめを見まくと集ふうつしもろもろ




713

天明あめあかり年のきたるとくだかけの長嶋鳥ながなきどりがみな鳴けるかも




714

しだり尾のかけの雄鳥が鳴く声の野に遠音とほねして年明けにけり




715

ひむがしの空押し晴るしまもらへる大和島根に春立てるかも




716

うるはしと思ふ子ゆゑに命欲り夢のうつらと年明けにけり




717

沖つとりかもかもせむと初春にこころ問して見まくたぬしも




718

打日さす大城の森のこ緑のいや時じくに年ほぐらしも




719

豊酒の屠蘇に吾ゑへば鬼子ども皆死ににけり赤き青きも




720

くれなゐの梅はよろしもあらたまの年の端に見れば特によろしも







   10 雑  歌 明治四十一年作

721

あかときの畑の土のうるほひに散れる桐の花ふみて来にけり




722

青桐のしみの広葉の葉かげよりゆふべの色はひろごりにけり




723

ひむがしのともしび二つこの宵も相寄らなくてふけわたるかな




724

うつそみのこの世のくにに春はさり山焼くるかも天の足り夜を




725

ひさ方の天の赤瓊あかぬのにほひなし遥けかもよ山焼くる火は




726

うつし世は一夏いちげに入りて吾がこもる室の畳に蟻を見しかな




727

真夏日の雲の峯あめのひと方に夕退ゆうそきにつつかがやきにけり




728

荒磯ありそねに八重やえ寄る波のみだれたちいたぶる中の寂しさ思ふ




729

秋の夜をともししづかに揺るる時しみじみわれは耳かきにけり




730

ほそほそと虫啼きたれば壁にもたれ膝に手を組む秋のよるかも




731

旅ゆくとに下り立ちて冷々ひやひやに口そそぐべの月見ぐさのはな







   塩原行 明治四十一年作

732

晴れとおるあめの果てに赤城根あかぎねの秋の色はも更け渡りけり




733

小筑波をつくばを朝を見しかば白雲の凝れるかかむり動くともせず




734

関屋せきやいでて坂路さかぢになればちらりほらり染めたる木々が見えきたるかも




735

おり上り通り過がひしうま二つ遥かになりて尾を振るが見ゆ




736

山角やまかどにかへり見すれば歩み来し街道筋かいだうすぢは細りてはるけし




737

馬車とどろくだを吹き吹き塩はらのもみづる山に分け入りにけり




738

山路わだ紅葉はふかく山たかくいよよせまわがまなかひに




739

とうとうと喇叭を吹けば塩はらの深染こぞめの山に馬車入りにけり




740

つぬさはふ岩間を垂るるいは水のさむざむとして土わけ行くも




741

湯のやどのよるのねむりはもみぢ葉の夢など見つつねむりけるかも




742

夕ぐれの川べに立ちて落ちたぎつ流るる水におもひ入りたり




743

あかときを目ざめて居ればくだの音の近くに止みぬ馬車着けるらし




744

床ぬちにぬくまり居れば宿のが起きねといへど起きがてぬかも




745

世のしほと言のたふとき名に負へる塩はらの山色づきにけり




746

谷川の音をききつつ分け入れば一あしごとに山あざやけし




747

山深くひた入り見むと露じもに染みし紅葉を踏みつつぞ行く




748

三千尺みちさか目下ましたの極みかがよへる紅葉のそこに水たぎち見ゆ




749

かへりみる谷の紅葉の明らけく天に響かふ山がはの鳴り




750

現し我が恋心なす水の鳴りもみぢの中に寵りて鳴るも




751

山川のたぎちのどよみ耳底にかそけくなりて峯を越えつも




752

ふみて入るもみぢが奥は横はる朽ち木の下を水ゆく音す




753

山がはの水のいきほひ大岩にせまりきはまり音とどろくも




754

うつそみは常なけれども山川に映ゆる紅葉をうれしみにけり




755

うつし身の稀らにかよふ秋やまに親しみて鳴く蟋蟀のこゑ




756

打ちわたす山の雑木の黄にもみぢ明るき峡に道入りにけり




757

もみぢ原ゆふぐれしづむ蟋蟀はこのさみしみに堪へて鳴くなり




758

つかれより美くしいめに入る如き思ひぞ吾がする蟋蟀のこゑ




759

もみぢ照りあかるき中に我が心空しくなりてしまし居りけり




760

しほ原の湯の出でどころとめ来ればもみぢの赤き処なりけり




761

山の湯のみなもとどころ鉄色かねいろにさびさびにけり草もおひなく




762

かねさびし湯の源のさ流れに蟹が幾つも死にてゐたりも




763

親馬にあまえつつ来る子馬にし心動きて過ぎがてにせり




764

あしびきの山のはざまの西開き遠くれなゐに夕焼くる見ゆ




765

橋のべのちひさかへるでかへり路になかくれなゐと染めて居りけり




766

天地のなしのまにまに寄り合へる貝の石あはれとことはにして




767

ほり出すいはほのひまの貝の石ただ珍らしみありがてぬかも




768

玉ゆらのうれしごころもとはの世へ消えなく行かむはかなむ勿れ




769

おくやまの深き岩間ゆ海つもの石と成り出づ君に恋ふるとき




770

もみぢ葉の過ぎしを思ひ繁き世に触りつるなべに悲しみにけり




771

山峡のもみぢに深く相こもりほれ果てなむか峡のもみぢに




772

もみぢ斑の山の真洞に雲おり来雲はをとめの領巾ひれ漏らし来も




773

火に見ゆる玉手の動き少女らはなに天降あもりてもみぢをか焚く




774

天そそる白くもが上のいかし山夜見よみの国さび月かたむきぬ




775

まぼろしにもの恋ひ来れば山川の鳴る谷際たにあひに月満てりけり







   12 折に触れて 明治四十二年作

776

潮沫しほなわのはかなくあらばもろ共にいづべの方にほろびてゆかむ




777

やうらくの珠はかなしとなげかひしおみなのこころうつらさびしも




778

よいあさくひとり居りけりみづひかりかはずひとつかいかいと鳴くも




779

をさな妻こころにまもり更けしづむ灯火ともしびの虫を殺してゐたり




780

かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂うごくかな




781

夏晴れのさ庭の木かげ梅の実のつぶらの影もさゆらぎて居り




782

春闌けし山峡の湯にしづ籠りたらの芽しつつひとを思はず




783

馬に乗り湯どころ来つつ白梅のととのふ春にあひにけるかも




784

ひとり居てたまごうでつつたぎる湯にうごく卵を見つつうれしも




785

干柿を弟の子に呉れ居れば淡々と思ひいづることあり




786

ゆふぐれのほどろ雪路をかうべ垂れ湿れたる靴をはきて行くかも




787

世のなかの憂苦うけくも知らぬわらはの泣くことはあり涙ながして




788

春の風ほがらに吹けばひさかたのあめ高低たかひくに凧が浮べり




789

くわんざうの小さきもえを見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ




790

青山の町かげの田の畔みちをそぞろに来つれ春あさみかも




791

春あさき小田の朝道あかあかと金気かなけ浮く水にかぎろひのたつ




792

明けがたに近き夜さまのおのづから我心にし触るらく思ほゆ




793

天竺のほとけの世より子らがゑみにくからなくて君も笑むかな




794

さみだれはきのふより降り行々子よしきりをほのぼのやさしく聞く今宵かも




795

八百会やほあひのうしほ遠鳴るひむがしのわたつ天明あまあけ雲くだるなり







   13 細り身 明治四十二年作

796

重かりし熱の病のかくのごと癒えにけるかとかひなさするも




797

ひぐらしのかなかなかなと鳴きゆけばわれのこころのほそりたりけれ




798

あなうま粥強飯かゆかたいいすなべに細りし息の太りゆくかも




799

まことわれ癒えぬともへば群ぎものこころの奥がに悲しみ湧くも




800

やまひ去り嬉しみ居ればほのぼのに心ぐけくもなりて来るかも




801

たまたまのうつしき時はわがいのち生きたかりしかこのうつし世に




802

病みぬればほのぼのとしてありたる和世にごよのすがた悲しみにけり




803

いはれに涙がちなるこのごろを事更ことさらぶともひと云ふらむか




804

しまし間も今の悶えの酒狂さかがりになるを得ばかも嬉しかるべし




805

閉づる目ゆ熱き涙のはふり落ちはふり落ちつつあきらめ兼ねつ




806

やみほほけおとろへにたれさ庭べに夕雨ふれば嬉しくきこゆ




807

みちのくに我稚くて熱を病みしその日仄かにあらはれにけり




808

おとろへし胸に真手までおく若き子にあはれなるかも蜩きこゆ




809

熱落ちておとろへ出で来もこのごろの日八日夜八夜ひやかよやよは現しからなく




810

恣にやせ頬にのびしこわひげを手ぐさにしつつさ夜ふけにけり




811

うそ寒くおぼえ目ざめしへやは月清く照りかけなくきこゆ




812

ぬば玉のふくる夜床に目ざむればをなごきちがひの歌ふがきこゆ




813

かうべ上げ見ればさ庭の椎の木の間おほき月入るよるは静かに




814

日を継ぎて現身さぶれ蝉の声もすがしくなりて人うつくしも




815

現身ははかなけれども現し身になるが嬉しく嬉しかりけり




816

おのが身しいとほしければかほそ身をあはれがりつゝ飯食いひをしにけり




817

火鉢べにほほわらひつつ花火する子供と居ればわれもうれしも




818

病みて臥すわが枕べに弟妹いろとらがこより花火をして呉れにけり




819

わらは等は汝兄なえおもてのひげ振りのをかしなどいひ花火して居り




820

平凡に堪へがたきさが童幼わらはども花火に飽きてみな去りにけり




821

なに故に花は散りぬる理法ことわりと人はいふとも悲しくおもほゆ




822

とめどなく物思ひ居ればさ庭べに未だいはけなく蟋蟀鳴くも




823

宵浅き庭を歩めばあゆみ路のみぎりひだりに蟋蟀なくも




824

宵毎に土にうまれし蟋蟀のまだいとけなく啼きて悲しも




825

さ庭べに何の虫ぞも鉦うちて乞ひのむがごとほそほそと鳴くも




826

玉ゆらにほの触れにけれふ蔦の別れて遠しかなし子等はも




827

いつくしく瞬きひかる七星ななほし高天たかあめの戸にちかづきにけり




828

神無月かみなづきの土の小床をどこにほそほそと亡びのうたを虫鳴きにけり




829

うらがれにしづむ花野の際涯はたてよりとほくゆくらむ霜夜こほろぎ




830

よひよひの露冷えまさる遠空をこほろぎの子らは死にて行くらむ







   14 分病室 明治四十二年作

831

このたびは死ぬかも知れずとひし玉ゆら氷枕へうちんは解け居たりけり




832

隣室りんしつに人は死ねどもひたぶるにははきぐさの食ひたかりけり




833

熱落ちてわれは日ねもす夜もすがら椎な児のごと物を思へり




834

のび上り見れば霜月しもつきの月照りて一本松いつぽんまつのあたまのみ見ゆ

赤光 をはり





  赤光目次
  (略)



  挿画

 蜜柑の収穫………木下杢太郎氏
    彫 刻………伊上凡骨氏
 通草のはな…………平福百穂氏
    三色版………田中製版所
 仏頭………………木下杢太郎氏



   巻末に

○明治三十八年より大正二年に至る足かけ九年間の作八百三十三首を以てこの一巻を編んだ。たまたま伊藤左千夫先生から初めて教をうけた頃より先生に死なれた時までの作になつてゐる。アララギ叢書第二編が予の歌集の割番に当った時、予は先ずこの一巻を左千夫先生の前に捧呈しようと思つた。而して、今から見ると全然棄てなければならぬ様なひどい作までも輯録して往年の記念にしようとした。特に近ごろの予の作が先生から賞められるような事は殆ど無かったゆゑに、大正二年二月以降の作は雑誌に発表せずにこの歌集に収めてから是非先生の批評をあふがうと思って居た。ところか七月三十日の、この歌集編輯かやうやく大正二年度か終ったばかりの頃に、突如として先生に死なれて仕舞った。それ以来気が落つかず、清書するさへ臆劫になった。後半の順序の統一しないのは其為めである。最初の心と今の心と何という相違であろう。それでもどうにか歌集は出来上がつた。悲しくも予はこの一巻を先生の霊前にささげねばならぬ。

○平福百穂、木下杢太郎の二氏が特に本書のために絵を賜わった事は予のこよなき光栄である。そのうち木下杢太郎氏の仏頭図は明治四十三年十月三田文学に出た時分から密かに心に思って居たものである。このたび予の心願かなつて到々予のものになったのである。また、本書発行に就いて予を励まし便利を賜はつた長塚節、島木赤彦、中村憲吉、蕨桐軒、古泉千樫の諸氏並びに信濃諸同人に対し、又「とうとうと喇叭を吹けば」の句を賜はつた清水謙一郎氏に対し深く感謝の念をささぐ。 ○文法の誤の数ケ所あること。送仮名法の一定せざること。漢字使用法の曖昧なること等は、臆劫な為めにその儘にして置いた。本書の作物は今ごろ発行して読んでもらうのには、工合の悪いのが多い。しかし同じく読んで頂く以上は自分に比較的親しいのを読んで頂こうと思って、新しい方を先にした。初まりの方を一寸読んで頂くという心持である。本書は予のはじめての歌集である。世の先輩諸氏からいろいろ教えて頂いて、もっと勉強したい。

○本書の「赤光」という名は仏説阿弥陀経から採ったのである、書く迄もなく彼経には「池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔」という甚だ音調の佳いところがある。予が未だ童子の時分に遊び仲間に魔法師が居て切りに御経を暗誦して居た。梅の実をひろうにも水を浴びるにも「しやくしき、しやくくわう、びやくしき、びやくくわう」と誦して居た。「しやくくわう」とは「赤い光」の事であると知ったのは東京に来てから、多分開成中学の二年ぐらゐの時、浅草に行って新刻訓点浄土三部妙典という赤い表紙の本を買った時分のころである。そのとき非常に嬉しかつたと記憶してゐる。本書に赤い衣を着せたのも其が関係がある。その頃は丁度露伴の「日輪すでに赤し」の句を発見した時分である。考へて見る春機発動期に入つたころである。それから繰つて見ると明治三十八年は予の二十五歳のときである。
   大正二年九月二十四日よるしるす。






■このファイルについて
標題:赤光
著者:齋藤茂吉
本文:大正二年十月十五日発行(初版)
   (アララギ叢書第二編)
   発行所 東雲堂書店
表記:原文の表記を尊重しますが、Webでの読みやすさ等に配慮して以下のように扱いました。

○原文で用いられている旧字体は、現行の新字体に変更しました。
○本文のかなづかいは、原文通りとしました。
○歌番号を追加しました。
○67首目「朝日」のふりがなは「あさめ」となっています。「改選初版」では、「日→目」に訂正していますので、それに従い「目」に直しました。
○330首目「桜実」のふりがなは、「さ らご」となっています。「再版」では「さくらご」となっていますので、「く」を補いました。

歌数:茂吉自身は、「巻末に」で833首と書いていますが、実際には834首です。
参照:以下の諸本を参照しました。

○「赤光」…再版(大正4年7月1日発行)
○「赤光」…五版(大正8年11月10日発行)
○「赤光」…改選初版(大正10年11月1日発行)
○「赤光」…復刻版(新選 名著復刻全集 近代文学館、昭和47年4月10日発行 第5刷))
○「赤光」…岩波文庫(昭和28年10月5日発行 第6刷)
○「赤光」…岩波文庫(1999年2月16日発行改版 第4刷)

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2004年12月28日 里実文庫
修正版公開:2011年8月19日