鹿踊りのはじまり  そのとき西[にし]のぎらぎらのちぢれた雲[くも]のあひだから、夕陽[ゆふひ]は赤[あか]くなゝめに苔[こけ]の野原[のはら]に注[そゝ]ぎ、すすきはみんな白[しろ]い火[ひ]のやうにゆれて光[ひか]りました。わたくしが疲[つか]れてそこに睡[ねむ]りますと、ざあざあ吹[ふ]いてゐた風[かぜ]が、だんだん人[ひと]のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上[きたかみ]の山[やま]の方[はう]や、野原[のはら]に行[おこな]はれてゐた鹿踊[しゝおどり]りの、ほんたうの精神[せいしん]を語[かた]りました  そこらがまだまるつきり、丈高[たけたか]い草[くさ]や黒[くろ]い林[はやし]のままだつたとき、嘉十[かじふ]はおぢいさんたちと北上川[きたかみがは]の東[ひがし]から移[うつ]つてきて、小[ちい]さな畑[はたけ]を開[ひら]いて、粟[あは]や稗[ひえ]をつくつてゐました。  あるとき嘉十[かじふ]は、栗[くり]の木[き]から落[お]ちて、少[すこ]し左[ひだり]の膝[ひざ]を悪[わる]くしました。そんなときみんなはいつでも、西[にし]の山[やま]の中[なか]の湯[ゆ]の湧[わ]くとこへ行[い]つて、小屋[こや]をかけて泊[とま]つて療[なほ]すのでした。  天気[てんき]のいゝ日[ひ]に、嘉十[かじふ]も出[で]かけて行[い]きました。糧[かて]と味増[みそ]と鍋[なべ]とをしよつて、もう銀[ぎん]いろの穂[ほ]を出[だ]したすすきの野原[のはら]をすこしびつこをひきながら、ゆつくりゆつくり歩[ある]いて行[い]つたのです。  いくつもの小流[こなが]れや石原[いしはら]を越[こ]えて、山脈[さんみやく]のかたちも大[おほ]きくはつきりなり、山[やま]の木[き]も一本一本[いつぽんいつぽん]、すぎごけのやうに見[み]わけられるところまで来[き]たときは、太陽[たいやう]はもうよほど西[にし]に外[そ]れて、十本[じつぽん]ばかりの青[あを]いはんのきの木立[こだち]の上[うへ]に、 少[すこ]し青[あを]ざめてぎらぎら光[ひか]つてかかりました。  嘉十[かじふ]は芝草[しばくさ]の上[うへ]に、せなかの荷物[にもつ]をどつかりおろして、栃[とち]と栗[あわ]とのだんごを出[だ]して喰[た]べはじめました。すすきは幾[いく]むらも幾[いく]むらも、はては野原[のはら]いつぱいのやうに、まつ白[しろ]に光[ひか]つて波[なみ]をたてました。嘉十[かじふ]はだんごをたべながら、すすきの中[なか]から黒[くろ]くまつすぐに立[た]つてゐる、はんのきの幹[みき]をじつにりつぱだとおもひました。  ところがあんまり一生[いつしやう]けん命[めい]あるいたあとは、どうもなんだかお腹[なか]がいつぱいのやうな気[き]がするのです。そこで嘉十[かじふ]も、おしまひに栃[とち]の団子[だんご]をとちの実[み]のくらゐ残[のこ]しました。 「こいづば鹿[しか]さ呉[け]でやべか。それ、鹿[しか]、来[き]て喰[け]」と嘉十[かじふ]はひとりごとのやうに言[い]つて、それをうめぱちさうの白[しろ]い花[はな]の下[した]に置[お]きました。それから荷物[にもつ]をまたしよつて、ゆつくりゆつくり歩[ある]きだしました。  ところが少[すこ]し行[い]つたとき、嘉十[かじふ]はさつきのやすんだところに、手拭[てぬぐひ]を忘[わす]れて来[き]たのに気[き]がつきましたので、急[いそ]いでまた引[ひ]つ返[かへ]しました。あのはんのきの黒[くろ]い木立[こだち]がぢき近[ちか]くに見[み]えてゐて、そこまで戻[もど]るぐらゐ、なんの事[こと]でもないやうでした。  けれども嘉十[かじふ]はぴたりとたちどまつてしまひました。  それはたしかに鹿[しか]のけはひがしたのです。  鹿[しか]が少[すくな]くても五六|疋[ぴき]、湿[しめ]つぽいはなづらをずうつと延[の]ばして、しづかに歩[ある]いてゐるらしいのでした。  嘉十[かじふ]はすすきに触[ふ]れないやうに気[き]を付[つ]けながら、爪立[つまだ]てをして、そつと苔[こけ]を踏[ふ]んでそつちの方[はう]へ行[い]きました。  たしかに鹿[しか]はさつきの栃[とち]の団子[だんご]にやつてきたのでした。 「はあ、鹿等[しかだ]あ、すぐに来[き]たもな。」と嘉十[かじふ]は咽喉[のど]の中[なか]で、笑[わら]ひながらつぶやきました。そしてからだをかゞめて、そろりそろりと、そつちに近[ちか]よつて行[ゆ]きました。  一むらのすすきの陰[かげ]から、嘉十[かじふ]はちよつと顔[かほ]をだして、びつくりしてまたひつ込[こ]めました。六|疋[ぴき]ばかりの鹿[しか]がさつきの芝原[しばはら]を、ぐるぐるぐるぐる環[わ]になつて廻[まは]つてゐるのでした。嘉十[かじふ]はすすきの隙間[すきま]から、息[いき]をこらしてのぞきました。  太陽[たいやう]が、ぢやうど一本[いつぽん]のはんのさの頂[いたゞき]にかかつてゐましたので、その梢[こずゑ]はあやしく青[あを]くひかり、まるで鹿[しか]の群[むれ]を見[み]おろしてぢつと立[た]つてゐる青[あを]いいきものやうにおもはれました。すすきの穂[ほ]も、一本[いつぽん]づつ銀[ぎん]いろにかがやき、鹿[しか]の毛並[けなみ]がことにその日[ひ]はりつぱでした。  嘉十[かじふ]はよろこんで、そつと片膝[かたひざ]をついてそれに見[み]とれました。  鹿[しか]は大[おほ]きな環[わ]をつくつて、ぐるくるぐるくる廻[まは]つてゐましたが、よく見[み]るとどの鹿[しか]も環[わ]のまんなかの方[はう]に気[き]がとられてゐるやうでした。その証拠[しとうこ]には、頭[あたま]も耳[みゝ]も眼[め]もみんなそつちへ向[む]いて、おまけにたびたび、いかにも引[ひ]つぱられるやうに、よろよろと二足三足[ふたあしみあし]、環[わ]からはなれてそつちへ寄[よ]つて行[ゆ]きさうにするのでした。  もちろん、その環[わ]のまんなかには、さつきの嘉十[かじふ]の栃[とち]の団子[だんご]がひとかけ置[お]いてあつたのでしたが、鹿[しか]どものしきりに気[き]にかけてゐるのは決[けつ]して団子[だんご]ではなくて、そのとなりの草[くさ]の上[うへ]にくの字[じ]になつて落[お]ちてゐる、嘉十[かじふ]の白[しろ]い手拭[てぬぐひ]らしいのでした。嘉十[かじふ]は痛[いた]い足[あし]をそつと手[て]で曲[ま]げて、苔[こけ]の上[うへ]にきちんと座[すは]りました  鹿[しか]のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交[かは]る交[がは]る、前肢[まへあし]を一本[いつぽん]環[わ]の中[なか]の方[はう]へ出[だ]して、今[いま]にもかけ出[だ]して行[い]きさうにしては、びつくりしたやうにまた引[ひ]つ込[こ]めて、とつとつとつとつしづかに走[はし]るのでした。その足音[あしおと]は気[き]もちよく野原[のはら]の黒土[くろつち]の底[そこ]の方[はう]までひゞきました。それから鹿[しか]どもはまはるのをやめてみんな手拭[てぬぐひ]のこちらの方[はう]に来[き]て立[た]ちました。  嘉十[かじふ]はにはかに耳[みゝ]がきいんと鳴[な]りました。そしてがたがたふるえました。鹿[しか]どもの風[かぜ]にゆれる草穂[くさぼ]のやうな気[き]もちが、波[なみ]になつて伝[つた]はつて来[き]たのでした。  嘉十[かじふ]はほんたうにじぶんの耳[みゝ]を疑[うたが]ひました。それは鹿[しか]のことばがきこえてきたからです。 「ぢや、おれ行[い]つて見[み]で来[こ]べが。」 「うんにや、危[あぶ]ないじや。も少[すこ]し見[み]でべ。」 こんなことばもきこえました。 「何時[いつ]だがの狐[きつね]みだいに口発破[くちはつぱ]などさ罹[かゝ]つてあ、つまらないもな、高[たか]で栃[とち]の団子[だんご]などでよ。」 「そだそだ、全[まつた]ぐだ。」 こんなことばも聞[き]きました。 「生[い]ぎものだがも知[し]れないじやい。」 「うん。生[い]ぎものらしどごもあるな。」 こんなことばも聞[きこ]えました。そのうちにたうたう一|疋[ぴき]が、いかにも決心[けつしん]したらしく、せなかをまつすぐにして環[わ]からはなれて、まんなかの方[はう]に進[すゝ]み出[で]ました  みんなは停[とま]つてそれを見[み]てゐます。  進[すゝ]んで行[い]つた鹿[しか]は、首[くび]をあらんかぎり延[の]ばし、四本[しほん]の脚[あし]を引[ひ]きしめ引[ひ]きしめそろりそろりと手拭[てぬぐひ]に近[ちか]づいて行[い]きましたが、俄[には]かにひどく飛[と]びあがつて、一|目散[もくさん]に遁[に]げ戻[もど]つてきました。廻[まは]りの五|疋[ひき]も一ぺんにぱつと四方[しはう]へちらけやうとしましたが、はじめの鹿[しか]が、ぴたりととまりましたのでやつと安心[あんしん]して、のそのそ戻[もど]つてその鹿[しか]の前[まへ]に集[あつ]まりました。 「なぢよだた。なにだた、あの白[しろ]い長[なが]いやづあ。」 「縦[たて]に皺[しは]の寄[よ]つたもんだけあな。」 「そだら生[い]ぎものだないがべ、やつぱり蕈[きのこ]などだべが。毒蕈[ぶすきのこ]だべ。」 「うんにや。きのごだない。やつぱり生[い]ぎものらし。」 「さうが。生[い]ぎもので皺[しわ]うんと寄[よ]つてらば、年老[としよ]りだな。」 「うん年老[としよ]りの番兵[ばんペい]だ。ううはははは。」 「ふふふ青白[あをじろ]の番兵[ばんペい]だ。」 「ううははは、青[あを]じろ番兵[ばんべい]だ。」 「こんどおれ行[い]つて見[み]べが。」 「行[い]つてみろ、大丈夫[だいじやうぶ]だ。」 「喰[く]つつがないが。」 「うんにや、大丈夫[だいじやうぶ]だ。」 そこでまた一|疋[ぴき]が、そろりそろりと進[すゝ]んで行きました。五|疋[ひき]はこちらで、ことりことりとあたまを振[ふ]つてそれを見[み]てゐました。  進[すゝ]んで行[い]つた一|疋[ぴき]は、たびたびもうこわくて、たまらないといふやうに、四|本[ほん]の脚[あし]を集[あつ]めてせなかを円[まろ]くしたりそつとまたのばしたりして、そろりそろりと進[すゝ]みました。  そしてたうたう手拭[てぬぐひ]のひと足[あし]こつちまで行[い]つて、あらんかぎり首[くび]を延[の]ばしてふんふん嚊[か]いでゐましたが、俄[には]かにはねあがつて遁[に]げてきました。みんなもびくつとして一ペんに遁[に]げださうとしましたが、その一ぴきがぴたりと停[と]まりましたのでやつと安心[あんしん]して五つの頭[あたま]をその一つの頭[あたま]に集[あつ]めました。 「なぢよだた、なして逃[に]げで来[き]た。」 「噛[か]ぢるべとしたやうだたもさ。」 「ぜんたいなにだけあ。」 「わがらないな。とにかぐ白[しろ]どそれがら青[あを]ど、両方[りやうはう]のぶぢだ。」 「匂[にほひ]あなぢよだ、匂[にほひ]あ。」 「柳[やなぎ]の葉[は]みだいな匂[にほひ]だな。」 「はでな、息吐[いぎつ]でるが、息[いぎ]。」 「さあ、そでば、気付[きつ]けないがた。」 「こんどあ、おれあ行[い]つて見[み]べが。」 「行[い]つてみろ」 三|番目[ばんめ]の鹿[しか]がまたそろりそろりと進[すす]みました。そのときちよつと風[かぜ]が吹[ふ]いて手拭[てぬぐひ]がちらつと動[うご]きましたので、その進[すゝ]んで行[い]つた鹿[しか]はびつくりして立[た]ちどまつてしまひ、こつちのみんなもびくつとしました。けれども鹿[しか]はやつとまた気[き]を落[お]ちつけたらしく、またそろりそろりと進[すゝ]んで、たうたう手拭[てぬぐひ]まで鼻[はな]さきを延[の]ばした。  こつちでは五|疋[ひき]がみんなことりことりとお互[たがひ]にうなづき合[あ]つて居[を]りました。そのとき俄[には]かに進[すゝ]んで行[い]つた鹿[しか]が竿立[さをだ]ちになつて躍[をど]りあがつて遁[に]げてきました 「何[な]して遁[に]げできた。」 「気味悪[きびわり]ぐなてよ。」 「息吐[いぎつ]でるが。」 「さあ、息[いぎ]の音[おど]あ為[さ]ないがけあな。口[くぢ]も無[な]いやうだけあな。」 「あだまあるが。」 「あだまもゆぐわがらないがつたな。」 「そだらこんだおれ行[い]つて見[み]べが。」 四番目[よばんめ]の鹿[しか]が出[で]て行[い]きました。これもやつぱりびくびくものです。それでもすつかり手拭[てめぐひ]の前[まへ]まで行[い]つて、いかにも思[おも]ひ切[き]つたらしく、ちよつと鼻[はな]を手拭[てぬぐひ]に押[お]しつけて、それから急[いそ]いで引[ひ]つ込[こ]めて、一目[いちもん]さんに帰[かへ]つてきました。 「おう、柔[や]つけもんだぞ。」 「泥[どろ]のやうにが。」 「うんにや。」 「草[くさ]のやうにが。」 「うんにや。」 「ごさざい[ヽヽヽヽ]の毛[け]のやうにが。」 「うん、あれよりあ、も少[すこ]し硬[こわ]ばしな。」 「なにだべ。」 「とにかぐ生[い]ぎもんだ。」 「やつばりさうだが。」 「うん、汗臭[あせくさ]いも。」 「おれも一遍行[ひとがへりい]つてみべが。」  五|番目[ばんめ]の鹿[しか]がまたそろりそろりと進[すゝ]んで行[い]きました。この鹿[しか]はよほどおどけもののやうでした。手拭[てぬぐひ]の上[うへ]にすつかり頭[あたま]をさげて、それからいかにも不審[ふしん]だといふやうに、頭[あたま]をかくつと動[うご]かしましたので、こつちの五|疋[ひき]がはねあがつて笑[わら]ひました。  向[むか]ふの一|疋[ぴき]はそこで得意[とくい]になつて、舌[した]を出[だ]して手拭[てぬぐひ]を一つべろりと嘗[な]めましたが、にはかに怖[こは]くなつたとみえて、大[おほ]きく口[くち]をあけて舌[した]をぶらさげて、まるで風[かせ]のやうに飛[と]んで帰[かへ]つてきました。みんなもひどく愕[おど]ろきました。 「ぢや、ぢや、噛[か]ぢらへだが、痛[いた]ぐしたが。」 「プルルルルルル。」 「舌抜[したぬ]がれだが。」 「プルルルルルル。」 「なにした、なにした。なにした。ぢや。」 「ふう、あゝ、舌縮[したちゞ]まつてしまつたたよ。」 「なじよな味[あじ]だた。」 「味無[あじな]いがたな。」 「生[い]ぎもんだべが。」 「なじよだが判[わか]らない。こんどあ汝[うな]あ行[い]つてみろ。」 「お。」  おしまひの一|疋[ぴき]がまたそろそろ出[で]て行[い]きました。みんながおもしろさうに、ことこと頭[あたま]を振[ふ]つて見[み]てゐますと、進[すゝ]んで行[い]つた一|疋[ぴき]は、しばらく首[くび]をさげて手拭[てぬぐひ]を嗅[か]いでゐましたが、もう心配[しんぱい]もなにもないといふ風[ふう]で、いきなりそれをくわいて戻[もど]つてきました。そこで鹿[しか]はみなぴよんぴよん跳[と]びあがりました。 「おう、うまい、うまい、そいづさい取[と]つてしめば、あどは何[なん]つても怖[お]つかなぐない。 「きつともて、こいづあ大きな蜩牛[なめくづら]の旱[ひ]からびだのだな。」 「さあ、いゞが、おれ歌[うだ]うだらはんてみんな廻[ま]れ。」 その鹿[しか]はみんなのなかにはいつてうたひだし、みんなはぐるぐるぐるぐる手拭[てぬぐひ]をまはりはじめました。 「のはらのまん中[なか]の    めつけもの  すつこんすつこの        栃[とち]だんご  栃[とち]のだんごは      結構[けつこう]だが  となりにいからだ        ふんながす  青あをじろ番兵[ばんペ]は   気[き]にかがる。   青あをじろ番兵[ばんペ]は  ふんにやふにや  吠[ほ]えるもさないば     泣[な]ぐもさない  瘠[や]せで長[なが]くて   ぶぢぶぢで  どごが口[くぢ]だが      あだまだが  ひでりあがりの         なめぐぢら。」  走[はし]りながら廻[まは]りながら踊[おど]りながら、鹿[しか]はたびたび風[かぜ]のやうに進[すゝ]んで、手拭[てぬぐひ]を角[つの]でついたり足[あし]でふんだりしました。嘉十[かじふ]の手拭[てぬぐひ]はかあいさうに泥[どろ]がついてところどころ穴[あな]さへあきました。  そこで鹿[しか]のめぐりはだんだんゆるやかになりました。 「おう、こんだ団子[だんご]お食[く]ばがりだぢよ。」 「おう、煮[に]だ団子だぢよ。」 「おう、まん円[まる]けぢよ。」 「おう、はんぐはぐ。」 「おう、すつこんすつこ。」 「おう、けつこ。」  鹿[しか]はそれからみんなばらばらになつて、四方[しはう]から栃[とち]のだんでを囲[かこ]んで集[あつ]まりました。  そしていちばんはじめに手拭[てぬぐひ]に進[すゝ]んだ鹿[しか]から、一口[ひとくち]づつ団子[だんご]をたべました。六|疋[ぴき]めの鹿[しか]は、やつと豆粒[まめつぶ]くらゐをたべただけです。  鹿[しか]はそれからまた環[わ]になつて、ぐるぐるぐるぐるめぐりあるきました。  嘉十[かじふ]はもうあんまりよく鹿[しか]を見[み]ましたので、じぶんまでが鹿[しか]のやうな気[き]がして、いまにもとび出[だ]さうとしましたが、じぶんの大[おほ]きな手[て]がすぐ眼[め]にはいりましたので、やつぱりだめだとおもひながらまた息[いき]をこらしました。  太陽[たいやう]はこのとき、ちやうどはんのきの梢[こずゑ]の中[なか]ほどにかかつて、少[すこ]し黄[き]いろにかゞやいて居[を]りました。鹿[しか]のめぐりはまただんだんゆるやかになつて、たがひにせわしくうなづき合[あ]ひ、やがて一|列[れつ]に太陽[たいやう]に向[む]いて、それを拝[おが]むやうにしてまつすぐに立[た]つたのでした。嘉十[かじふ]はもうほんたうに夢[ゆめ]のやうにそれに見[み]とれてゐたのです。  一ばん右[みぎ]はじにたつた鹿[しか]が細[ほそ]い声[こゑ]でうたひました。  「はんの木[ぎ]の   みどりみぢんの葉[は]の向[もご]さ   ぢやらんぢやららんの   お日[ひ]さん懸[か]がる。」  その水晶[すゐしやう]の笛[ふえ]のやうな声[こゑ]に、嘉十[かじふ]は目[め]をつぶつてふるえあがりました。右[みぎ]から二ばん目[め]の鹿[しか]が、俄[には]かにとびあがつて、それからからだを波[なみ]のやうにうねらせながら、みんなの間[あひだ]を縫[ぬ]つてはせまはり、たびたび太陽[たいやう]の方[はう]にあたまをさげました。それからじぶんのところに戻[もど]るやぴたりととまつてうたひました。  「お日[ひ]さんを   せながさしよへば、はんの木[ぎ]も   くだげで光[ひか]る   鉄[てつ]のかんがみ。」  はあと嘉十[かじふ]もこつちでその立派[りつぱ]な太陽[たいやう]とはんのきを拝[おが]みました。右[みぎ]から三ばん目[め]の鹿[しか]は首[くび]をせはしくあげたり下[さ]げたりしてうたひました。  「お日[ひ]さんは   はんの木[ぎ]の向[もご]き、降[お]りでても   すすぎ、ぎんがぎが   まぶしまんぶし。」  ほんたうにすすきはみんな、まつ白[しろ]な火[ひ]のやうに燃[も]えたのです。  「ぎんがぎがの   すすぎの中[なが]さ立[た]ぢあがる   はんの木[ぎ]のすねの   長[な]んがい、かげばうし。」  五|番目[ばんめ]の鹿[しか]がひくく首[くび]を垂[た]れて、もうつぶやくやうにうたひだしてゐました   「ぎんがぎがの   すすぎの底[そこ]の日暮[ひぐ]れかだ   苔[こけ]の野[の]はらを   蟻[あり]ても行[い]がず。」  このとき鹿[しか]はみな首[くび]を垂[た]れてゐましたが、六|番目[ばんめ]がにはかに首[くび]をりんとあげてうたひました。  「ぎんがぎがの   すすぎの底[そご]でそつこりと   咲[さ]ぐうめばぢの   愛[え]どしおえどし。」  鹿[しか]はそれからみんな、みぢかく笛[ふゑ]のやうに鳴[な]いてはねあがり、はげしくはげしくまはりました。  北[きた]から冷[つめ]たい風[かぜ]が来[き]て、ひゆうと鳴[な]り、はんの木[き]はほんたうに砕[くだ]けた鉄[てつ]の鏡[かゞみ]のやうにかゞやき、かちんかちんと葉[は]と葉[は]がすれあつて音[おと]をたてたやうにさへおもはれ、すすきの穂[ほ]までが鹿[しか]にまぢつて一しよにぐるぐるめぐつてゐるやうに見[み]えました。  嘉十[かじふ]はもうまつたくじぶんと鹿[しか]とのちがひを忘[わす]れて、 「ホウ、やれ、やれい。」と叫[さけ]びながらすすきのかげから飛[と]び出[ば]しました。  鹿[しか]はおどろいて一度[いちど]に竿[さを]のやうに立[た]ちあがり、それからはやてに吹[ふ]かれた木[き]の葉[は]のやうに、からだを斜[なゝ]めにして逃[に]げ出[だ]しました。銀[ぎん]のすすきの波[なみ]をわけ、かゞやく夕陽[ゆふひ]の流[なが]れをみだしてはるかにはるかに遁[に]げて行[い]き、そのとほつたあとのすすきは静[しづ]かな湖[みづうみ]の水脈[みを]のやうにいつまでもぎらぎら光[ひか]つて居[を]りました  そこで嘉十[かじふ]はちよつとにが笑[わら]ひをしながら、泥[どろ]のついて穴[あな]のあいた手拭[てぬぐひ]をひろつてじぶんもまた西[にし]の方[はう]へ歩[ある]きはじめたのです。  それから、さうさう、苔[こけ]の野原[のはら]の夕陽[ゆふひ]の中[なか]で、わたくしはこのはなしをすきとほつた秋[あき]の風[かぜ]から聞[き]いたのです。 ■このファイルについて 標題:鹿踊りのはじまり 著者:宮澤賢治 本文:「注文の多い料理店」 発行:大正十三年十二月一日 販売元:杜陵出版部/東京光原社  新選 名著復刻全集 近代文学館   昭和51年4月1日 発行                           (第14刷) 表記:原文の表記を尊重しつつ、以下のように扱います。 ○誤字・脱字等は、訂正せず底本通りとしました。 ○本文のかなづかいは、底本通りとしました。 ○旧字体は、現行の新字体に替えました。だだし、新字体に替えなかった漢字もあります。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。 ○繰り返し記号/\は用いず、同語反復としました。 入力:今井安貴夫 ファイル作成:里実工房 公開:里実文庫  2006年1月2日