山男の四月  山男[やまをとこ]は、金[きん]いろの眼[め]を皿[さら]のやうにし、せなかをかがめて、にしね山[やま]のひのき林[ばやし]のなかを、兎[うさぎ]をねらつてあるいてゐました。  ところが、兎[うさぎ]はとれないで、山鳥[やまどり]がとれたのです。  それは山鳥[やまどり]が、びつくりして飛[と]びあがるとこへ、山男[やまをとこが両手[りやうて]をちぢめて、鉄砲[てつぱう]だまのやうにからだを投[な]げつけたものですから、山鳥[やまどり]ははんぶん潰[つぶ]れてしまひました。  山男[やまをとこ]は顔[かほ]をまつ赤[か]にし、大[おほ]きな口[くち]をにやにやまげてよろこんで、そのぐつたり首[くび]を垂[た]れた山鳥[やまどり]を、ぶらぶら振[ふ]りまはしながら森[もり]から出[で]てきました。  そして日[ひ]あたりのいゝ南向[みなみむ]きのかれ芝[しば]の上[うへ]に、いきなり獲物[えもの]を投[な]げだして、ばさばさの赤[あか]い髪毛[かみけ]を指[ゆび]でかきまはしながら、肩[かた]を円[まる]くしてごろりと寝[ね]ころびました。  どこかで小鳥[ことり]もチツチツと啼[な]き、かれ草[くさ]のところどころにやさしく咲[さ]いたむらさきいろのかたくりの花[はな]もゆれました。  山男[やまをとこ]は仰向[あふむ]けになつて、碧[あを]いああをい空[そら]をながめました。お日[ひ]さまは赤[あか]と黄金[きん]でぷちぷちのやまなしのやう、かれくさのいゝにほひがそこらを流[なが]れ、すぐうしろの山脈[さんみやく]では、雪[ゆき]がこんこんと白[しろ]い後光[ごくわう]をだしてゐるのでした。 (飴[あめ]といふものはうまいものだ。天道[てんと]は飴[あめ]をうんとこさえてゐるが、なかなかおれにはくれない。)  山男[やまをとこ]がこんなことをぼんやり考[かんが]へてゐますと、その澄[す]み切[き]つた碧[あを]いそらをふわふわうるんだ雲[くも]が、あてもなく東[ひがし]の方[はう]へ飛[と]んで行[い]きました。そこで山男[やまをとこ]は、のどの遠[とほ]くの方[はう]を、ごろごろならしながら、また考[かんが]へました。 (ぜんたい雲[くも]といふものは、風[かぜ]のぐあひで、行[い]つたり来[き]たりぽかつと無[な]くなつてみたり、俄[には]かにまたでてきたりするもんだ。そこで雲助[くもすけ]とかういふのだ。)  そのとき山男[やまをとこ]は、なんだかむやみに足[あし]とあたまが軽[かる]くなつて、逆[さか]さまに空気[くうき]のなかにうかぶやうな、へんな気[き]もちになりました。もう山男[やまをとこ]こそ雲助[くもすけ]のやうに、風[かぜ]にながされるのか、ひとりでに飛[と]ぶのか、どこといふあてもなく、ふらふらあるいてゐたのです。 (ところがここは七[なな]つ森[もり]だ。ちやんと七[なな]つつ、森[もり]がある。松[まつ]のいつぱい生[は]えてるのもある、坊主[ばうず]で黄[き]いろなのもある。そしてここまで来[き]てみると、おれはまもなく町[まち]へ行[い]く。町[まち]へはいつて行くとすれば、化[ば]けないとなぐり殺[ころ]される。)  山男[やまをとこ]はひとりでこんなことを言[い]ひながら、どうやら一人[ひとり]まへの木樵[きこり]のかたちに化[ば]けました。そしたらもうすぐ、そこが町[まち]の入口[いりくち]だつたのです。山男[やまをとこ]は、まだどうも頭[あたま]があんまり軽[かる]くて、からだのつりあひがよくないとおもひながら、のそのそ町[まち]にはいりました。  入口[いりぐち]にはいつもの魚屋[さかなや]があつて、塩鮭[しほざけ]のきたない俵[たわら]だの、くしやくしやになつた鰯[いわし]のつらだのが台[だい]にのり、軒[のき]には赤[あか]ぐろいゆで章魚[だこ]が、五[いつ]つつるしてありました。その章魚[たこ]を、もうつくづくと山男[やまをとこ]はながめたのです。 (あのいぼのある赤[あか]い脚[あし]のまがりぐあひは、ほんたうにりつぱだ。郡役所[ぐんやくしよ]の技手[ぎて]の、乗馬[じやうば]ずぼんをはいた足[あし]よりまだりつぱだ。かういふものが、海[うみ]の底[そこ]の青[あを]いくらいところを、大[おほ]きく眼[め]をあいてはつてゐるのはじつさいえらい。)  山男[やまをとこ]はおもはず指[ゆび]をくわいて立[た]ちました。するとちやうどそこを、大[おほ]きな荷物[にもつ]をしよつた、汚[きた]ない浅黄服[あさぎふく]の支那人[しなじん]が、きよろきよろあたりを見[み]まはしながら、通[とほ]りかゝつて、いきなり山男[やまをとこ]の肩[かた]をたゝいて言[い]ひました。 「あなた、支那[しな]反物[たんもの]よろしいか。六神丸[ろくしんぐわん]たいさんやすい。」 山男[やまをとこ]はびつくりしてふりむいて、 「よろしい。」とどなりましたが、あんまりじぶんの声[こゑ]がたかゝつたために、円[まる]い鈎[かき]をもち、髪[かみ]をわけ下駄[げた]をはいた魚屋[ かなや]の主人[しゆじん]や、けらを着[き]た村[むら]の人[ひと]たちが、みんなこつちを見[み]てゐるのに気[き]がついて、すつかりあわてゝ急[いそ]いで手[て]をふりながら、小声[こごゑ]で言[い]ひ直[なほ]しました。 「いや、さうだない。買[か]ふ、買[か]ふ。」  すると支那人[しなじん]は 「買[か]はない、それ構[かま]はない、ちよつと見[み]るだけよろしい。」  と言[い]ひながら、背中[せなか]の荷物[にもつ]をみちのまんなかにおろしました。山男やまをとこはどうもその支那人[しなじん]のぐちやぐちやした赤[あか]い眼[め]が、とかげのやうでへんに怖[こわ]くてしかたありませんでした。  そのうちに支那人[しなじん]は、手[て]ばやく荷物[にもつ]へかけた黄[き]いろの真田紐[さなだひも]をといてふろしきをひらき、行李[かうり]の蓋[ふた]をとつて反[たん]物[もの]のいちばん上[うへ]にたくさんならんだ紙箱[かみばこ]の間[あひだ]から、小[ちひ]さな赤[あか]い薬瓶[くすりびん]のやうなものをつかみだしました。 (おやおや、あの手[て]の指[ゆび]はずゐぶん細[ほそ]いぞ。瓜[つめ]もあんまり尖[とが]つてゐるしいよいよこわい。)山男[やまをとこ]はそつとかうおもひました。  支那人[しなじん]はそのうちに、まるで小指[こゆび]ぐらゐあるガラスのコツプを二[ふた]つ出[だ]して、ひとつを山男[やまをとこ]に渡[わた]しました。 「あなた、この薬[くすり]のむよろしい。毒[どく]ない。決[けつ]して毒[どく]ない。のむよろしい。わたしさきのむ。心配[しんぱい]ない。わたしビールのむ、お茶[ちや]のむ。毒[どく]のまない。これながいきの薬[くすり]ある。のむよろしい。」支那人[しなじん]はもうひとりでかぷつと呑[の]んでしまひました。  山男[やまをとこ]はほんとうに呑[の]んでいゝだらうかとあたりを見[み]ますと、じぶんはいつか町[まち]の中[なか]でなく、空[そら]のやうに碧[あを]いひろい野原[のはら]のまんなかに、眼[め]のふちの赤[あか]い支那人[しなじん]とたつた二人[ふたり]、荷物[にもつ]を間[あひだ]に置[お]いて向[むか]ひあつて立[た]つてゐるのでした。二人[ふたり]のかげがまつ黒[くろ]に草[くさ]に落[お]ちました。 「さあ、のむよろしい。ながいきのくすりある。のむよろしい。」支那人[しなじん]は尖[とが]つた指[ゆび]をつき出[だ]して、しきりにすすめるのでした。山男[やまをとこ]はあんまり困[こま]つてしまつて、もう呑[の]んで遁[に]げてしまはうとおもつて、いきなりぷいつとその薬[くすり]をのみました。するとふしぎなことには、山男[やまをとこ]はだんだんからだのでこぼこがなくなつて、ちぢまつて平[たひ]らになつてちいさくなつて、よくしらべてみると、どうもいつかちいさな箱[はこ]のやうなものに変[かは]つて草[くさ]の上[うへ]に落[お]ちてゐるらしいのでした。 (やられた、畜生[ちくしやう]、たうたうやられた、さつきからあんまり爪[つめ]が尖[とが]つてあやしいとおもつてゐた。畜生[ちくしやう]、すつかりうまくだまされた。)山男[やまをとこ]は口惜[くや]しがつてばたばたしやうとしましたが、もうたゞ一箱[ひとはこ]の小[ちい]さな六神丸[ろくしんぐわん]ですからどうにもしかたありませんでした。  ところが支那人[しなじん]のはうは大[おほ]よろこびです。ひよいひよいと両脚[りやうあし]をかはるがはるあげてとびあがり、ばんばんと手[て]で足[あし]のうらをたたきました。その昔[おと]はつづみのやうに、野原[のはら]の遠[とほ]くのはうまでひびきました。  それから支那人[しなじん]の大[おほ]きな手[て]が、いきなり山男[やまをとこ]の眼[め]の前[まへ]にでてきたとおもふと、山男[やまをとこ]はふらふらと高[たか]いところにのぼり、まもなく荷物[にもつ]のあの紙箱[かみばこ]の間[あひだ]におろされました。  おやおやとおもつてゐるうちに上[うへ]からばたつと行李[かうり]の蓋[ふた]が落[お]ちてきました。それでも日光[につくわう]は行李[かうり]の目[め]からうつくしくすきとほつて見[み]えました。 (たうたう牢[らう]におれははいつた。それでもやつぱり、お日[ひ]さまは外[そと]で照[て]つてゐる。)山男[やまをとこ]はひとりでこんなことを呟[つぶ]やいて無理[むり]にかなしいのをごまかさうとしました。するとこんどは、急[きふ]にもつとくらくなりました。 (ははあ、風呂敷[ふろしき]をかけたな。いよいよ情[なさ]けないことになつた。これから暗[くら]い旅[たび]になる。)山男[やまをとこ]はなるべく落[お]ち着[つ]いてかう言[い]ひました。  すると愕[おど]ろいたことは山男[やまをとこ]のすぐ横[よこ]でものを言ふやつがあるのです。 「おまへさんはどこから来[き]なすつたね。」  山男[やまをとこ]ははじめぎくつとしましたが、すぐ、 (ははあ、六神丸[ろくしんぐわ]といふものは、みんなおれのやうなぐあひに人間[にんげん]が薬[くすり]で改良[かいりやう]されたもんだな。よしよし、)と考[かんが]へて、 「おれは魚屋[さかなや]の前[まへ]から来[き]た。」と腹[はら]に力[ちから]を入[い]れて答[こた]へました。すると外[そと]から支那人[しなじん]が噛[か]みつくやうにどなりました。 「声[こゑ]あまり高[たか]い。しづかにするよろしい。」  山男[やまをとこ]はさつきから、支那人[しなじん]がむやみにしやくにさわつてゐましたので、このときはもう一[いつ]ぺんにかつとしてしまひました。 「何[なん]だと。何[なに]をぬかしやがるんだ。どろぼうめ。きさまが町[まち]へはいつたら、おれはすぐ、この支那人[しなじん]はあやしいやつだとどなつてやる。さあどうだ。」  支那人[しなじん]は、外[そと]でしんとしてしまひました。じつにしばらくの間[あひだ]、しいんとしてゐました。山男[やまをとこ]はこれは支那人[しなじん]が、両手[りやうて]を胸[むね]で重[かさ]ねて泣[な]いてゐるのかなともおもひました。さうしてみると、いままで峠[たうげ]や林[はやし]のなかで、荷物[にもつ]をおろしてなにかひどく考[ほんが]へ込[こ]んでゐたやうな支那人[しなじん]は、みんなこんなことを誰[たれ]かに云[い]はれたのだなと考[かんが]へました。山男[やまをとこ]はもうすつかりかあいさうになつて、いまのはうそだよと云[い]はうとしてゐましたら、外[そと]の支那人[しなじん]があわれなしわがれた声[こゑ]で言[い]ひました。 「それ、あまり同情[どうじやう]ない。わたし商売[しやうばい]たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生[わうじやう]する、それ、あまり同情[どうじやう]ない。」山男[やまをとこ]はもう支那人[しなじん]が、あんまり気[き]の毒[どく]になつてしまつて、おれのからだなどは、支那人[しなじん]が六十銭[せん]もうけて宿屋[やどや]に行[い]つて、鰯[いわし]の頭[あたま]や菜[な]つ葉汁[ぱじる]をたべるかはりにくれてやらうとおもひながら答[こた]へました。 「支那人[しなじん]さん、もういゝよ。そんなに泣[な]かなくてもいゝよ。おれは町[まち]にはいつたら、あまり声[こゑ]を出[だ]さないやうにしやう。安心[あんしん]しな。」すると外[そと]の支那人[しなじん]は、やつと胸[むね]をなでおろしたらしく、ほおといふ息[いき]の声[こゑ]も、ばんばんと足[あし]を叩[たゝ]いてゐる音[おと]も聞[きこ]えました。それから支那人[しなじん]は、荷物[にもつ]をしよつたらしく、薬[くすり]の紙箱[かみばこ]は、互[たがひ]にがたがたぶつつかりました。 「おい、誰[たれ]だい。さつきおれにものを云ひかけたのは。」  山男[やまをとこ]が斯[か]う云[い]ひましたら、すぐとなりから返事[へんじ]がきました。 「わしだよ。そこでさつきの話[はなし]のつゞきだがね、おまへは魚[さかな]屋の前[まへ]からきたとすると、いま鱸[すゞき]が一匹[いつぴき]いくらするか、またほしたふかのひれが、十両[ジツテール]に何片[なんぎん]くるか知[し]つてるだらうな。」 「さあ、そんなものは、あの魚屋[さかなや]には居[ゐ]なかつたやうだぜ。もつとも章魚[たこ]はあつたがなあ。あの章魚[たこ]の脚[あし]つきは よかつたなあ。」 「へい。そんないい章魚[たこ]かい。わしも章魚[たこ]は大[だい]すきでな。」 「うん、誰[たれ]だつて章魚[たこ]のきらいな人[ひと]はない。あれを嫌[きら]ひなくらゐなら、どうせろくなやつぢやないぜ。」 「まつたくさうだ。章魚[たこ]ぐらゐりつぱなものは、まあ世界中[せかいぢう]にないな。」 「さうさ。お前[まへ]はいつたいどこからきた。」 「おれかい。上海[しやんはい]だよ。」 「おまへはするとやつぱり支那人[しなじん]だらう。支那人[しなじん]といふものは薬[くすり]にされたり、薬[くすり]にしてそれを売[う]つてあるいたり気[き]の毒[どく]なもんだな。」 「さうでない。ここらをあるいてるものは、みんな陳[ちん]のやうないやしいやつばかりだが、ほんたうの支那人[しなじん]なら、いくらでもえらいりつぱな人[ひと]がある。われわれはみな孔子聖人[こうしせいじん]の末[すゑ]なのだ。」 「なんだかわからないが、おもてにゐるやつは陳[ちん]といふのか。」 「さうだ。ああ暑[あつ]い、蓋[ふた]をとるといゝなあ。」 「うん。よし。おい、陳[ちん]さん。どうもむし暑[あつ]くていかんね。すこし風[かぜ]を入[い]れてもらひたいな。」 「もすこし待[ま]つよろしい。」陳[ちん]が外[そと]で言[い]ひました。 「早[はや]く風[かぜ]を入[い]れないと、おれたちはみんな蒸[む]れてしまふ。お前[まへ]の損[そん]になるよ。」  すると陳[ちん]が外[そと]でおろおろ声[ごゑ]を出[だ]しました。 「それ、もとも困[こま]る、がまんしてくれるよろしい。」 「がまんも何[なに]もないよ、おれたちがすきでむれるんぢやないんだ。ひとりでにむれてしまふさ。早[はや]く蓋[ふた]をあけろ。」 「も二十分[じつぷん]まつよろしい。」 「えい、仕方[しかた]ない。そんならも少[すこ]し急[いそ]いであるきな。仕方[しかた]ないな。ここに居[ゐ]るのはおまへだけかい。」 「いゝや、まだたくさんゐる。みんな泣[な]いてばかりゐる。」 「そいつはかあいさうだ。陳[ちん]はわるいやつだ。なんとかおれたちは、もいちどもとの形[かたち]にならないだらうか。」 「それはできる。おまへはまだ、骨[ほね]まで六神丸[ろくしんぐわん]になつてゐないから、丸薬[ぐわんやく]さへのめばもとへ戻[もど]る。おまへのすぐ横[よこ]に、その黒[くろ]い丸薬[ぐわんやく]の瓶[びん]がある。」 「さうか。そいつはいゝ、それではすぐ呑[の]まう。しかし、おまへさんたちはのんでもだめか。」 「だめだ。けれどもおまへが呑[の]んでもとの通[とほ]りになつてから、おれたちをみんな水[みづ]に漬[つ]けて、よくもんでもらひたい。それから丸薬[ぐわんやく]をのめばきつとみんなもとへ戻[もど]る。」 「さうか。よし、引[ひ]き受[う]けた。おれはきつとおまへたちをみんなもとのやうにしてやるからな。丸薬[ぐわんやく]といふのはこれだな。そしてこつちの瓶[びん]は人間[にんげん]が六神丸[ろくしんぐわん]になるはうか。陳[ちん]もさつきおれといつしよにこの水薬[みづぐすり]をのんだがね、どうして六神丸[ろくしんぐわん]にならなかつたらう。」 「それはいつしよに丸薬[ぐわんやく]を呑[の]んだからだ。」 「ああ、さうか。もし陳[ちん]がこの丸薬[ぐわんやく]だけ呑[の]んだらどうなるだらう。変[かは]らない人間[にんげん]がまたもとの人間[にんげん]に変[かは]るとどうも変[へん]だな。」  そのときおもてで陳[ちん]が、 「支那[しな]たものよろしいか。あなた、支那[しな]たもの買[か]ふよろしい。」 と云ふ声[こゑ]がしました。 「ははあ、はじめたね。」山男[やまをとこ]はそつとかう云[い]つておもしろがつてゐましたら、 俄[には]かに蓋[ふた]があいたので、もうまぶしくてたまりませんでした。それでもむりやりそつちを見[み]ますと、ひとりのおかつぱの子供[こども]が、ぽかんと陳[ちん]の前[まへ]に立[た]つてゐました。  陳[ちん]はもう丸薬[ぐわんやく]を一[ひと]つぶつまんで、口[くち]のそばへ持[も]つて行きながら、水薬[みづぐすり]とコツプを出[だ]して、 「さあ、呑[の]むよろしい。これながいきの薬[くすり]ある。さあ呑[の]むよろしい。」とやつてゐます。 「はじめた、はじめた。いよいよはじめた。」行李[かうり]のなかでたれかが言[い]ひました 「わたしビール呑[の]む、お茶[ちや]のむ、毒[どく]のまない。さあ、呑[の]むよろしい。わたしのむ。」  そのとき山男[やまをとこ]は、丸薬[ぐわんやく]を一つぶそつとのみました。すると、めりめりめりめりつ。  山男[やまをとこ]はすつかりもとのやうな、赤髪[あかがみ]の立派[りつぱ]なからだになりました。陳[ちん]はちゃうど丸薬[ぐわんやく]を水薬[みづぐすり]といつしょにのむところでしたが、あまりびつくりして、水薬[みづぐすり]はこぼして丸薬[ぐわんやく]だけのみました。さあ、たいへん、みるみる陳[ちん]のあたまがめらあつと延[の]びて、いままでの倍[ばい]になり、せいがめきめき高[たか]くなりました。そして「わあ。」と云ひなが ら山男[やまをとこ]につかみかかりました。山男[やまをとこ]はまんまるになつて一生[しやう]けん命[めい]遁[に]げました。ところがいくら走[はし]らうとしても、足[あし]がから走[はし]りといふことをしてゐるらしいのです。たうたうせなかをつかまれてしまひました。 「助[たす]けてくれ、わあ、」と山男[やまをとこ]が叫[さけ]びました。そして眼[め]をひらきました。みんな夢[ゆめ]だつたのです。  雲[くも]はひかつてそらをかけ、かれ草[くさ]はかんばしくあたたかです。  山男[やまをとこ]はしばらくぼんやりして、投[な]げ出[だ]してある山鳥[やまどり]のきらきらする羽[はね]をみたり、六神丸[ろくしんぐわん]の紙箱[かみばこ]を水[みづ]につけてもむことなどを考[かんが]へてゐましたがいきなり大[おほ]きなあくびをひとつして言[い]ひました。  「えゝ、畜生[ちくしやう]、夢[ゆめ]のなかのこつた。陳[ちん]も六神丸[ろくしんぐわん]もどうにでもなれ。」  それからあくびをもひとつしました。 ■このファイルについて 標題:山男の四月 著者:宮澤賢治 本文:「注文の多い料理店」 発行:大正十三年十二月一日 販売元:杜陵出版部/東京光原社  新選 名著復刻全集 近代文学館   昭和51年4月1日 発行                           (第14刷) 表記:原文の表記を尊重しつつ、以下のように扱います。 ○誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。 ○本文のかなづかいは、底本通りとしました。 ○旧字体は、現行の新字体に替えました。だだし、新字体に替えなかった漢字もあります。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。 ○繰り返し記号/\は用いず、同語反復としました。 入力:今井安貴夫 ファイル作成:里実工房 公開:里実文庫  2005年11月6日