1 「高いとこの眺めは、アアツ(と咳をして)また格段でごわすな」
2 片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持ってゐる。頭が奇麗に禿げてゐて、カンカン帽子を冠つてゐるのが、まるで栓をはめたやうに見える。−−そんな老人が朗らかにさう云ひ捨てたまま峻の脇を歩いて行った。云つておいて此方を振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといった風に石垣のはなのベンチへ腰をかけた。−−
3 町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。T湾の濃い藍がそれの彼方に拡つてゐる。裾のぼやけた、そして全体もあまりかつきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠つてゐる。−−
4 「ああ、さうですなあ」少し間誤つきながらさう答へた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残ってゐるやうな気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐはなかった。なんの拘りもしらないやうなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先程の静かな展望のなかへ吸ひ込まれて行つた。−−風がすこし吹いて、午後であつた。
5 一つには、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考へて見たいといふ若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出て此の地の姉の家へやつて来た。
6 ぼんやりしてゐて、それが他所の子の泣声だと気がつくまで、死んだ妹の声の気持がしてゐた。
7 「誰れだ。暑いのに泣かせたりなんぞして」
8 そんなことまで思つてゐる。
9 彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変つた土地へ来てするこんな経験の方に「失つた」といふ思ひは強く刻まれた。
10 「たくさんの虫が、一匹の死にかけてゐる虫の周囲に集つて、悲しんだり泣いたりしてゐる」と友人に書いたやうな、彼女の死の前後の苦しい経験がやつと薄い面紗のあちらに感ぜられるやうになつたのも此の土地へ来てからであつた。そしてその思ひにも落ちつき、新らしい周囲にも心が馴染んで来るに随つて、峻には珍らしく静かな心持がやつて来るやうになつた。いつも都会に住み慣れ、殊に最近は心の休む隙もなかつた後で、彼はなほさらこの静けさの中で恭々しくなつた。道を歩くのにも出来るだけ疲れないやうに心懸ける。棘一つ立てないやうにしよう。指一本詰めないやうにしよう。ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。−−迷信に近いほどそんなことが思はれた。そして旱の多かつた夏にも雨が一度来、二度来、それがあがる度毎に稍々秋めいたものが肌に触れるやうに気候もなつて来た。
11 さうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかつた。草や虫や雲や風景を眼の前へ据ゑて、秘かに抑へて来た心を燃えさせる、−−ただそのことだけが仕甲斐のあることのやうに峻には思へた。
12 「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩には丁度良いと思ひます」姉が彼の母の許へ寄来した手紙にこんなことが書いてあつた。着いた翌日の夜、義兄と姉とその娘と四人で初めて此の城跡へ登つた。旱の為うんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺してゐる。それがもうあと二三日だからといふので、それを見にあがつたのだつた。平野は見渡す限り除虫燈の海だつた。遠くになると星のやうに瞬いてゐる。山の峡間がぼうと照されて、そこから大河のやうに流れ出てゐる所もあつた。彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。風のない夜で涼み方がた見物に来る町の人びと−−で城跡は賑はつてゐた。闇のなかから白粉を厚く塗つた町の娘達がはしやいだ眼を光らせた。
13 今、空は悲しいまで晴れてゐた。そしてその下に町は甍を並べてゐた。
14 白亜の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そして其所此所、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出てゐる。或る家の裏には芭蕉の葉が垂れてゐる。糸杉の巻きあがつた葉も見える。重ね綿のやうな恰好に刈られた松も見える。みな黒んだ下葉と新らしい若葉で、いい風な緑色の容積を造つてゐる。
15 遠くに赤いポストが見える。
16 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。
17 日をうけて赤い切地を張つた張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。−−
18 夜になると火の点いた町の大通りを、自転車でやつて来た村の青年達が、大勢達れで遊廓の方へ乗つてゆく。店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異つた風に身体をくねらせながら白粉を塗つた女をからかつてゆく。−−さうした町も今は屋根瓦の間へ挟まれてしまつて、そのあたりに幟をたくさんたてて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。
19 西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すつかり日覆をした旅館が稍々近くに見えた。何処からか材木を叩く音が−−もともと高くもない音らしかつたが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。
20
次つぎと止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。「文法の語尾の変化をやつてゐるやうだな」ふとそんなに思つて見て、聞いてゐると不思議に興が乗つて来た。「チユクチユクチユク」と始めて「オーシ、チユクチユク」を繰返へす、そのうちにそれが「チユクチエク、オーシ」になつたり「オーシ、チユクチユク」にもどつたりして、しまひに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になつて「ヂー」と鳴きやんでしまふ。中途に横から「チユクチユク」と始めるのが出て来る。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終つて「ヂー」に移りかけてゐる。三重四重、五重にも六重にも重なつて鳴いてゐる。
21
峻は此の間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車な骨に石鹸玉のやうな薄い羽板を張つた、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見てゐた。その高い音と関係があると云へば、ただその腹から尻尾へかけての伸縮であつた。柔毛の密生してゐる、筋を持つた、その部分は、まるでエンヂンの或る部分のやうな正確さで動いてゐた。−−その時の恰好が思ひ出せた。腹から尻尾へかけてのブリツとした膨らみ。隅々まで力ではち切つたやうな伸び縮み。−−そしてふと蝉一匹の生物が無上に勿体ないものだといふ気持に打たれた。
22
時どき、先程の老人のやうにやつて来ては涼をいれ、景色を眺めてはまた立つてゆく人があつた。
23
峻が此所へ来る時によく見る、亭の中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来てゐて、今日は子守娘と親しさうに話をしてゐる。
24
蝉取竿を持つた子供があちこちする。虫籠を持たされた兄は、時どき立ち留つては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りに随いてゆく。物を云はないでゐて変に芝居のやうな面白さが感じられる。
25
またあちらでは女の子達が米つきばつたを捕へては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と云ひながら米をつかせてゐる。ねぎさんといふのは此の土地の言葉で神主のことを云ふのである。峻は善良な長い顔の先に短い二本の触角を持つた、さう思へばいかにも神主めいたばつたが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気なものに思ひ浮んだ。
26
女の子が追ひかける草のなかを、ばつたは二本の脚を伸し、日の光を羽根一ぱいに負ひながら、何匹も飛び出した。
27
時どき煙を吐く煙突があつて、田野はその辺から展けてゐた。レムブラントの素描めいた風景が散ぼつてゐる。
28
黒い木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭の煉瓦の煙突。
29
小さい軽便が海の方からやつて来る。
30
海からあがつて来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。
31
見てゐると煙のやうではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走つてゐるやうである。
32
サヽヽヽと日が翳る。風景の顔色が見る見る変つてゆく。
33
遠く海岸に沿つて斜に入り込んだ入江が見えた。−−峻は此の城跡へ登る度、幾度となくその入江を見るのが癖になつてゐた。
34
海岸にしては大きい立木が所どころ繁つてゐる。その陰にちよつぴり人家の屋根が覗いてゐる。そして入江には舟が舫つてゐる気持。
35
それはただそれだけの眺めであつた。何処を取り立てて特別心を惹くやうなところはなかつた。それでゐて変に心が惹かれた。
36
なにかある。本当になにかがそこにある。といつてその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになつてしまふ。
37
例へばそれを故のない淡い憧憬といつた風の気持、と名づけて見ようか。誰れかが「さうぢやないか」と尋ねて呉れたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかも知れない。然し自分では「まだなにか」といふ気持がする。
38
人種の異つたやうな人びとが住んでゐて、此の世と離れた生活を営んでゐる。−−そんなやうな所にも思へる。とはいへそれはあまりお伽話めかした、ぴつたりしないところがある。
39
なにか外国の画で、彼処に似た所が画いてあつたのが思ひ出せない為ではないかとも思つて見る。それにはコンステイブルの画を一枚思ひ出してゐる。やはりそれでもない。
40
では一体何だらうか。このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美しさを添へるものである。然し入江の眺めはそれに過ぎてゐた。そこに限つて気韻が生動してゐる。そんな風に思へた。−−
41
空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青より稍々温い深青に映つた。白い雲がある時は海も白く光つて見えた。今日は先程の入道雲が水平線の上へ拡つてザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映つてゐた。今日も入江はいつものやうに謎をかくして静まつてゐた。
42
見てゐると、獣のやうにこの城のはなから悲しい唸声を出して見たいやうな気になるのも同じであつた。息苦しいほど妙なものに思へた。
43
夢で不思議な所へ行つてゐて、此処は来た覚えがあると思つてゐる。−−丁度それに似た気持で、えたいの知れない想出が湧いて来る。
44
何時用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。−−
45
先程の女の児らしい声が峻の足の下で次々に高く響いた。丸の内の街道を通つてゆくらしい自働自転車の爆音がきこえてゐた。
46
この町のある医者がそれに乗つて帰つて来る時刻であつた。その爆音を聞くと峻の家の近所にゐる女の子は我勝ちに「ハリケンハツチのオートバイ」と叫ぶ。「オートバ」と云つてゐる児もある。
47
三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。
48
遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなつた。
49
町の屋根からは煙。遠い山からは蜩。
50
これはまた別の日。
51
夕飯と風呂を済ませて峻は城へ登つた。
52
薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあげるのが見えた。気がつくと綿で包んだやうな音がかすかにしてゐる。それが遠いので間の抜けた時に鳴つた。いいものを見る、と彼は思つてゐた。
53
ところへ十七ほどを頭に三人連れの男の児が来た。これも食後の涼みらしかつた。峻に気を兼ねてか静かに話をしてゐる。
54
口で教へるのにも気がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心なふりをして見てゐた。
55
末遠いパノラマのなかで、花火は星水母ほどのさやけさに光つては消えた。海は暮れかけてゐたが、その方はまだ明るみが残つてゐた。
56
暫くすると少年達もそれに気がついた。彼は心の中で喜んだ。
57
そんなことを云ひあひながら、一度あがつて次あがるまでの時間を数へてゐる。彼はそれらの会話をきくともなしに聞いてゐた。
58
城でのそれを憶ひ出しながら、彼は家へ帰つて来た。家の近くまで来ると、隣家のひとが峻の顔を見た。そして慌てたやうに、
59
奇術が何とか座にかかつてゐるのを見にゆかうかと云つてゐたのを、峻がぽつと出てしまつたので騒いでゐたのである。
60
姉が義兄に
61
姉が合点合点などしてゆつくり捜しかけるのを、じゆうじゆうと音をさせて煙草を喫んでゐた兄は、
62
奥の間で信子の仕度を手伝つてやつてゐた義母が、
63
姉が種々と衣服を着こなしてゐるのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんな風で着付けをしてゐるだらうなど、奥の間の気配に心をやつたりした。
64
やがて仕度が出来たので峻はさきへ下りて下駄を穿いた。
65
袖の長い衣服を着て、近所の子等のなかに雑つてゐる勝子は、呼ばれたまま、まだなにか云ひあつてゐる。
66
義兄が出て来た。
67
姉と信子が出て来た。白粉を濃くはいた顔が夕暗に浮んで見えた。さつきの団扇を一つづつ持つてゐる。
68
勝子は小さい扇をちらと見せて姉に纏ひつきかけた。
69
姉がさう云ふと、
70
往来に涼み台を出してゐる近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。
71
暫くして勝子から、
72
牴牾しいのは此方だ、と云つた風に寸分違はないやうに似せてゆく。それが遊戯になつてしまつた。しまひには彼が「松仙閣」といつてゐるのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」と云つてゐる。信子がそれに気がついて笑ひ出した。笑はれると勝子は冠を曲げてしまつた。
73
泣きさうに鼻をならし出したので信子が手をひいてやりながら歩き出した。
74
城の石垣に大きな電燈がついてゐて、後ろの木々に皎々と照つてゐる。その前の木々は反対に黒ぐろとした陰になつてゐる。その方で蝉がヂツヂヂツヂと鳴いた。
75
彼は一人後ろになつて歩いてゐた。
76
彼が此の土地へ来てから、かうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであつた。若い女達と出歩く。そのことも彼の経験では、極めて稀であつた。彼はなんとなしに幸福であつた。
77
少し我儘な所のある彼の姉と触れ合つてゐる態度に、少しも無理がなく、−−それを器用にやつてゐるのではなく、生地からの平和な生れつきでやつてゐる。信子はそんな娘であつた。
78
義母などの信心から、天理教様に拝んで貰へと云はれると、素直に拝んで貰つてゐる。それは指の傷だつたが、そのため評判の琴も弾かないでゐた。
79
学校の植物の標本を造つてゐる。用事に町へ行つたついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰つて来る。勝子が欲しがるので勝子にも頒けてやつたりなどして、独りせつせとおしをかけてゐる。
80
勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持つて来た。それを極り悪さうにもしないで、彼の聞くことを穏かにはきはきと受け答へする。−−信子はそんな好もしいところを持つてゐた。
81
今彼の前を、勝子の手を曳いて歩いてゐる信子は、家の中で肩縫揚げのしてある衣服を着て足をによきによき出してゐる彼女とまるで違つておとなに見えた。その隣に姉が歩いてゐる。彼は姉が以前より少し痩せて、いくらかでも歩き振りがよくなつたと思つた。
82
姉が突然後ろを向いて彼に云つた。
83
芝居小屋のなかは思つたやうに蒸し暑かつた。
84
水番といふのか、銀杏返しに結つた、年の老けた婦が、座布団を数だけ持つて、先に立つてばたばた敷いてしまつた。平場の一番後ろで、峻が左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が坐つた。丁度幕間で、階下は七分通詰つてゐた。
85
先刻の婦が煙草盆を持つて来た。火が埋んであつて、暑いのに気が利かなかつた。立ち去らずに愚図愚図してゐる。何と云つたらいいか、この手の婦特有な狡猾い顔附で、眼をきよろきよろさせてゐる。眼顔で火鉢を指したり、そらしたり、義兄の顔を盗み見たりする。此方が見てよくわかつてゐるのにと思ひ、財布の銀貨を袂の中で出し悩みながら、彼はその無躾に腹が立つた。
86
義兄は落ちついてしまつて、まるで無感覚である。
87
やがて幕があがつた。
88
日本人のやうでない皮膚の色が少し黒みがかつた男が不熱心に道具を運んで来て、時どきぢろぢろと観客の方を見た。ぞんざいで、面白く思へなかつた。それが済むと怪しげな名前の印度人が不作法なフロツクコートを着て出て来た。何かわからない言葉で喋つた。唾をとばしてゐる様子で、褪めた唇の両端に白く唾がたまつてゐた。
89
印度人は席へ下りて立会人を物色してゐる。一人の男が腕をつかまれたまま、危ふ気な羞笑をしてゐた。その男はたうとう舞台へ連れてゆかれた。
90
髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿いてゐた。にこにこして立つてゐるのを、先程の男が椅子を持つて来て坐らせた。
91
印度人は非道い奴であつた。
92
握手をしようと云つて男の前へ手を出す。男はためらつてゐたが思ひ切つて手を出した。すると印度人は自分の手を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振を醜く真似て見せ、首板つ子を縮めて嘲笑つて見せた。毒々しいものだつた。男は印度人の方を見、自分の元ゐた席の方を見て、危な気に笑つてゐる。なにか訳のありさうな笑ひ方だつた。子供か女房かがゐるのぢやないか。堪らない、と峻は思つた。
93
握手が失敬になり、印度人の悪ふざけは益々性がわるくなつた。見物はその度に笑つた。そして手品がはじまつた。
94
紐があつたのは、切つてもつながつてゐるといふ手品。金属の瓶があつたのは、いくらでも水が出るといふ手品。−−極く詰らない手品で、硝子の卓子の上のものは減つて行つた。まだ林檎が残つてゐた。これは林檎を食つて、食つた林檎の切が今度は火を吹いて口から出て来るといふので、試しに例の男が食はされた。皮ごと食つたといふので、これも笑はれた。
95
峻はその箸にも棒にもかからないやうな笑ひ方を印度人がする度に、何故あの男は何とかしないのだらうと思つてゐた。そして彼自身かなり不愉快になつてゐた。
96
そのうちに不図、先程の花火が思ひ出されて来た。
97
薄明りの平野のなかへ、星水母ほどに光つては消える遠い市の花火。海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思へた。
98
たしかに「Flower」とは云はなかつた。
99
その子供といひ、そのパノラマといひ、どんな手品師も敵はないやうな立派な手品だつたやうな気がした。
100
そんなことが彼の不愉快を段々と洗つて行つた。いつもの癖で、不愉快な場面を非人情に見る、−−さうすると反対に面白く見えて来る−−その気持がものになりかけて来た。
101
下等な道化に独りで腹を立ててゐる先程の自分が、ちよつと滑稽だつたと彼は思つた。
102
舞台の上では印度人が、看板画そつくりの雰囲気のなかで、口から盛に火を吹いてゐた。それには怪しげな美しささへ見えた。
103
やつと済むと幕が下りた。
104
美人の宙釣り。
105
力業。
106
オペレット。浅草気分。
107
美人胴切。
そんなプログラムで、晩く家へ帰つた。
108
姉が病気になつた。脾腹が痛む、そして高い熱が出る。峻は腸チブスではないかと思つた。枕元で兄が、
109
その前の日の午後、少し浮かぬ顔で遠くから帰つて来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながら囃し立てた。
110
その時の顔を峻は思ひ出した。少し変だつたことは少し変だつた。家のなかばかりで見馴れてゐる家族を、不図往来で他所目に見る−−そんな珍らしい気持で見た故と峻は思つてゐたが少し力がないやうでもあつた。
111
医者が来て、矢張りチブスの疑ひがあると云つて帰つた。峻は階下で困つた顔を兄とつき合せた。兄の顔には苦しい微笑が凝つてゐた。
112
腎臓の故障だつたことがわかつた。舌の苔がなんとかで、と云つて明瞭にチブスとも云ひ兼ねてゐた由を云つて、医者も元気に帰つて行つた。
113
此の家へ嫁いで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が云つた。
114
義兄はその手つきをして見せた。姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを造らうとする兄だけあつて、その話には兄らしい味が出てゐて峻も笑はされた。
115
−−一つには峻自身の不検束な生活から、彼は一度肺を悪くしたことがあつた。その時義兄は北ムロでその病気が癒るやうにと神詣でをして呉れた。病気が稍ゝよくなつて、峻は一度その北ムロの家へ行つたことがあつた。其所は山のなかの寒村で、村は百姓と木樵で、養蚕などもしてゐた。冬になると家の近くの畑まで猪が芋を掘りに来たりする。芋は百姓の半分常食になつてゐた。その時はまだ勝子も小さかつた。近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈してゐるのに、象のことを鼻捲き象、猿のことを山の若い衆とかやゑんとか呼んでゐた。苗字のないといふ児がゐるので聞いて見ると木樵の子だからと云つて村の人は当然な顔をしてゐる。小学校には生徒から名前の呼び棄てにされてゐる、薫といふ村長の娘が教師をしてゐた。まだそれが十六七の年頃だつた。
116
北ムロはそんな処であつた。峻は北ムロでの兄の話には興味が持てた。
117
北ムロにゐた時、勝子が川へ陥つたことがある。その話が兄の口から出て来た。
118
−−兄が心臓脚気で寝てゐた時のことである。七十を越した、兄の祖母で、勝子の曾祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行つた。その川といふのが急な川で、狭かつたが底はかなり深かつた。お祖母さんは、何時でも兄達が捨てておけといふのに、姉が留守だつたりすると、勝子などを抱きたがつた。その時も姉は外出してゐた。
119
はあ、出て行つたな。と寝床の中で思つてゐると、暫くして変な声がしたので、あつと思つたまま、ひかれるやうに大病人が起きて出た。川は直ぐ近くだつた。見ると、お祖母さんが変な顔をして、
120
勝子が川を流れてゆくのが見えてゐるのだ!
川は丁度雨のあとで水かさが増してゐた。先に石の橋があつて、水が板石とすれすれになつてゐる。その先には川の曲るところがあつて、そこは何時も渦が巻いてゐる所だ。川はそこを曲つて深い沼のやうな所へ入る。橋か曲り角で頭を打ちつけるか、流れて行つて沼へ沈みでもしようものなら助からないところだつた。
121
兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追つた。橋までに捕へるつもりだつた。
122
病気の身だつた。それでもやつと橋の手前で捕へることは出来た。然し流れがきつくて橋を力に上らうと思つても到底駄目だつた。板石と水の隙間は、やつと勝子の頭位は通せるほどだつたので、兄は勝子を差し上げながら水を潜り、下手でやうやくあがれたのだつた。勝子はぐつたりとなつてゐた。逆にしても水を吐かない。兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びながら背中を叩いた。
123
勝子はけろりと気がついた。気がついたが早いか、立つと直ぐ踊り出したりするのだ。兄はばかされたやうで何だか変だつた。
124
そして、何とまあ、何時もの顔で踊つてゐるのだ。−−
125
兄の話のあらましはこんなものだつた。丁度近所の百姓家が昼寝の時だつたので、自分がその時起きてゆかなければどんなに危険だつたかとも云つた。
126
話してゐる方も聞いてゐる方も惹き入れられて、兄が口をつぐむと、静かになつた。
127
それからのお祖母さんは目に見えてぼけて行つて一年ほど経つてから死んだ。
128
峻にはそのお祖母さんの運命がなにか惨酷な気がした。それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行つた北ムロの山の中だつただけに、もう一つその感じは深かつた。
129
峻が北ムロへ行つたのは、その事件の以前であつた。お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上つてゐた筈の信子の名と、よく呼び違へた。信子はその当時母などと此方にゐた。まだ信子を知らなかつた峻には、お祖母さんが呼び違へる度毎に、信子といふ名を持つた十四五の娘が頭に親しく想像された。
130
峻は原つぱに面した窓に寄りかかつて外を眺めてゐた。
131
灰色の雲が空一帯を罩めてゐた。それはずつと奥深くも見え、また地上低く垂れ下つてゐるやうにも思へた。あたりのものはみな光を失つて静まつてゐた。ただ遠い病院の避雷針だけが、どうしたはづみか白く光つて見える。
132
原つぱのなかで子供が遊んでゐた。見てゐると勝子もまじつてゐた。男の子が一人ゐて、なにか荒い遊びをしてゐるらしかつた。
133
勝子が男の子に倒された。起きたところをまた倒された。今度はぎうぎう押へつけられてゐる。
134
一体なにをしてゐるのだらう。なんだかひどいことをする。さう思つて峻は目をとめた。
135
それが済むと今度は女の子連中が−−それは三人だつたが、改札口へ並ぶやうに男の子の前へ立つた。変な切符切りがはじまつた。女の子の差し出した手を、その男の子がやけに引つ張る。その女の子は地面へ叩きつけられる。次の子も手を出す。その手も引つ張られる。倒された子は起きあがつて、また列の後ろへつく。
136
見てゐるとかうであつた。男の子が手を引つ張る力加減に変化がつく。女の子の方ではその強弱をおつかなびつくりに期待するのが面白いのらしかつた。
137
強く引くのかと思ふと、身体つきだけ強さうにして軽く引張る。すると次はいきなり叩きつけられる。次はまた、手を持つたといふ位の軽さで通す。
138
男の子は小さい癖にどうかすると大人の−−それも木挽きとか石工とかの恰好そつくりに見えることのある子で、今もなにか鼻唄でも歌ひながらやつてゐるやうに見える。そしていかにも得意気であつた。
139
見てゐるとやはり勝子だけが一番余計強くされてゐるやうに思へた。彼にはそれが悪くとれた。勝子は婉曲に意地悪されてゐるのだな。−−さう思ふのには、一つは勝子が我儘で、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないからでもあつた。
140
それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。いや、あれがわからない筈はない。寧ろ勝子にとつては、わかつてはゐながら痩我慢を張つてゐるのが本当らしい。
141
そんなに思つてゐるうちにも、勝子はまたこつぴどく叩きつけられた。痩我慢を張つてゐるとすれば、倒された拍子に地面と眺めつこをしてゐる時の顔付きは、一体どんなだらう。−−立ちあがる時にはもうほかの子と同じやうな顔をしてゐるが。
142
よく泣き出さないものだ。
143
男の子が不図した拍子にこの窓を見るかもしれないからと思つて彼は窓のそばを離れなかつた。
144
奥の知れないやうな曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過つてゆくものがあつた。
145
鳩?
146
雲の色にぼやけてしまつて、姿は見えなかつたが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩一流の何処にあてがあるともない飛び方で舞つてゐる。
147
夜、夕飯が済んで暫くしてから、勝子が泣きはじめた。峻は二階でそれを聞いてゐた。しまひにはそれを鎮める姉の声が高くなつて来て、勝子もあたりかまはず泣き立てた。あまり声が大きいので峻は下へおりて行つた。信子が勝子を抱いてゐる。勝子は片手を電燈の真下へ引き寄せられて、針を持つた姉が、掌へ針を持つてゆかうとする。
「あゝかゝる日のかゝるひととき」
「あゝかゝる日のかゝるひととき」
「ハリケンハツチのオートバイ」
「ハリケンハツチのオートバイ」
手品と花火
「四十九」
「ああ四十九」
「××ちやん花は」
「フロラ」一番年のいつたのがそんなに答へてゐる。−−
「帰つておいでなしたぞな」と家へ云ひ入れた。
「あ。どうも」と云ふと、義兄は笑ひながら、
「はつきり云ふとかんのがいかんのやさ」と姉に背負はせた。姉も笑ひながら衣服を出しかけた。彼が城へ行つてゐる間に姉も信子(義兄の妹)もこつてり化粧をしてゐた。
「あんた、扇子は?」
「衣嚢にあるけど……」
「さうやな。あれも汚れてますで……」
「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度しやんし」と云つて煙管の詰つたのを気にしてゐた。
「さあこんなは奈何やな」と云つて団扇を二三本寄せて持つて来た。砂糖屋などが配つて行つた団扇である。
「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにゐますで、よぼつてやつとくなさい」と義母が云つた。
「『カ』ちうとこへ行くの」
「かつどうや」
「活動や活動やあ」と二三人の女の児がはやした。
「ううん」と勝子は首をふつて、
「『ヨ』ちつとこへ行くの」とまたやつてゐる。
「ようちえん?」
「いやらし、幼稚園、晩にはあれへんわ」
「早うお出でな。放つといてゆくぞな」
「お待ち遠さま。勝子は。勝子、扇持つてるか」
「そんならお母さん、行つて来ますで……」
「勝子、帰ろ帰ろ云はんのやんな」と義母は勝子に云つた。
「云はんのやんな」勝子は返事のかはりに口真似をして峻の手のなかへ入つて来た。そして峻は手をひいて歩き出した。
「勝ちやん此所何てとこ?」彼はそんなことを訊いて見た。
「しやうせんかく」
「朝鮮閣?」
「ううん、しやうせんかく」
「朝鮮閣」
「しやうーせんーかく」
「朝ー鮮ー関?」
「うん」と云つて彼の手をぴしやと叩いた。
「しやうせんかく」といひ出した。
「朝鮮閣」
「勝子」今度は義兄の番だ。
「ちがひますともわらびます」
「ううん」鼻ごゑをして、勝子は義兄を打つ真似をした。義兄は知らん顔で、
「ちがひますともわらびます。あれ何やつたな。勝子。一遍峻さんに聞かしたげなさい」
「これ……それから何といふ積りやつたんや?」
「これ、蕨とは違ひますつて云ふ積りやつたんやなあ」信子がそんなに云つて庇護つてやつた。
「一体何処のひとにそんなことを云ふたんやな?」今度は半分信子に訊いてゐる。
「吉峯さんのをぢさんにやなあ」信子は笑ひながら勝子の顔を覗いた。
「まだあつたぞ。もう一つどえらいのがあつたぞ」義兄がおどかすやうにさう云ふと、姉も信子も笑ひ出した。勝子は本式に泣きかけた。
「さあ。あんた。先へ歩いて……」
「どうして」今までの気持で訊かなくともわかつてゐたがわざと彼はとぼけて見せた。そして自分から笑つてしまつた。こんな笑ひ方をしたからにはもう後ろから歩いてゆく訳にはゆかなくなつた。
「早う。気持が悪いわ。なあ。信ちやん」
「……」笑ひながら信子も点頭いた。
「へ、お火鉢」婦はこんなことをそわそわ云つてのけて、忙しさうに揉手をしながらまた眼をそらす。やつと銀貨が出て婦は帰つて行つた。
「なんて云つたの」姉がこんなに訊いた。すると隣の他所のひとも彼の顔を見た。彼は閉口してしまつた。
「先程の花火はまだあがつてゐるだらうか」そんなことを思つた。
「花は」
「Frola」
「ああ面白かつた」ちよつと嘘のやうな、とつてつけたやうに勝子が云つた。云ひ方が面白かつたので皆笑つた。
病気
「医者さんを呼びに遣らうかな」と云つてゐる。
「まあよろしいわな。かい虫かも知れませんで」そして峻にともつかず義兄にともつかず、
「昨日あないに暑かつたのに、歩いて帰る道で汗がちつとも出なんだの」と弱々しく云つてゐる。
「勝子、あれ何処のひと?」
「あら。お母さんや。お母さんや」
「嘘いへ。他所のをばさんだよ。見ておいで。家へは入らないから」
「一度は北ムロで」
「あの時は弱つたな。近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走つて、叩き起して買ふたのはまあよかつたやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結へつけて戻つて来たら、擦れとりましてな、これだけほどになつとつた」
「その時は?」
「かい虫をわかしとりましたんぢや」
「勝子が」と云つたのだが、そして−−所懸命に云はうとしてゐるのだが、そのあとが云へない。
「お祖母さん。勝子が何とした!」
「………」手の先だけが激しくそれを云つてゐる。
「このべべ何としたんや」と云つて濡れた衣服をひつぱつて見ても「知らん」と云つておる。足が滑つた拍子に気絶してをつたので、全く溺れたのではなかつたと見える。
「わたしが帰つて行つたらお祖母さんと三人で門で待つてはるの」姉がそんなことを云つた。
「何やら家にゐてられなんだわさ。着物を着かへてお母ちやんを待つとろと云ふたりしてなあ」
「お祖母さんがぼけはつたのはあれからでしたな」姉は声を少しひそませて意味の籠つた眼を兄に向けた。
「それがあつてからお祖母さんが一寸ぼけみたいになりましてなあ。何時まで経つてもこれに(と云つて姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんて云ひましてな」
「なんのお祖母さん、そんなことがあらうかさ、と云つてゐるのに……」
勝子
「あゝあ、勝子のやつ奴、勝手に注文して強くして貰つてゐるのぢやないかな」そんなことがふつと思へた。何時か峻が抱きすくめてやつた時、「もつとぎうつと」と何度も抱きすくめさせた。その時のことが思ひ出せたのだつた。さう思へばそれもいかにも勝子のしさうなことだつた。峻は窓を離れて部屋のなかへ入つた。
「そとへ行つて棘を立てて来ましたんや。知らんとをつたのが御飯を食べるとき醤油が染みてな」義母が峻にさう云つた。
「もつとぎうとお出し」姉は怒つてしまつて、邪慳に掌を引つ張つてゐる。その度に勝子は火の付くやうに泣声
「もう知らん、放つといてやる」しまひに姉は掌を振り離してしまつた。
「今は仕様ないで、××膏をつけてくくつとかうよ」母が取りなすやうに云つてゐる。信子が薬を出しに行つた。峻は勝子の泣き声に閉口してまた二階へあがつた。
148
薬をつけるのに勝子の泣き声はまだ鎮まらなかつた。
「棘はどうせあのとき立てたに違ひない」峻は昼間のことを思ひ出してゐた。ぴしやつと地面へうつぶせになつた時の勝子の顔はどんなだつたらう、といふ考へがまた蘇つて来た。
「ひよつとしてあのときの痩我慢を破裂させてゐるのかも知れない」そんなことを思つて聞いてゐると、その火がつくやうな泣き声が、なにか悲しいもののやうに峻には思へた。
昼と夜
149 彼は或る日城の傍の崖の陰に立派な井戸があるのを見つけた。
150 そこは昔の士の屋敷跡のやうに思へた。畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があつたり南瓜が植ゑてあつたり紫蘇があつたりした。城の崖からは太い逞しい喬木や古い椿が緑の衝立を作つてゐて、井戸はその陰に坐つてゐた。
151 大きな井桁、堂々とした石の組み様、がつしりしてゐて立派であつた。
152 若い女のひとが二人、洗濯物を大盥で濯いでゐた。
153 彼のゐた所からは見えなかつたが、その仕掛ははね釣瓶になつてゐるらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶桶に溢れ、樹々の緑が瑞々しく映つてゐる。盥の方の女のひとが待つふりをすると、釣瓶の方の女のひとは水を空けた。盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。そこへも緑は影を映して、美しく洗はれた花崗岩の畳石の上を、また女のひとの素足の上を水は豊かに流れる。
154
羨ましい、素晴らしく幸福さうな眺めだつた。涼しさうな緑の衝立の陰。確かに清冽で豊かな水。なんとなく魅せられた感じであつた。
けふは青空よい天気。
まへの家でも隣でも
水汲む洗ふ掛ける干す。
155
国定教科書にあつたのか小学唱歌にあつたのか、少年の時に歌つた歌の文句が憶ひ出された。その言葉には何のたくみも感ぜられなかつたけれど、彼が少年だつた時代、その歌によつて抱いたしんに朗らかな新鮮な想像が、思ひがけず彼の胸におし寄せた。
かあかあ烏が鳴いてゆく、
お寺の屋根へ、お宮の森へ、
かあかあ烏が鳴いてゆく。
156 それには画がついてゐた。
157 また「四方」とかいふ題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げてゐる図などの記憶が、次つぎ憶ひ出されて来た。
158
国定教科書の肉筆めいた楷書の活字。また何といふ画家の手に成つたものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といへば円顔の優等生のやうな顔をしてゐるといつた風の、挿絵のこと。
「何とか権所有」それがゴンシヨユウと、人の前では読まなかつたが、心の中で仮に極めて読んでいたこと。そのなんとか権所有の、これもさう思へば国定教科書に似つかはしい、手紙の文例の宛名のやうな、人の名。そんな奥付の有様までが憶ひ出された。
159 −−少年の時にはその画の通りの処が何処かにあるやうな気がしてゐた。さうした単純に正直な児が何処かにゐるやうな気がしてゐた。彼にはそんなことが思はれた。
160 それ等はなにかその頃の憧憬の対象でもあつた。単純で、平明で、健康な世界。−−今その世界が彼の前にある。思ひもかけず、こんな田舎の緑樹の陰に、その世界はもつと新鮮な形を具へて存在してゐる。
161 そんな固定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が指唆されたやうな気がした。
162 −−食つてしまひ度くなるやうな風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。また時どき寝られない夜が来た。
163 寝られない夜のあとでは、一寸したことに直ぐ底熱い昂奮が起きる、その昂奮がやむと道傍でもかまはない直ぐ横になり度いやうな疲労が来る。そんな昂奮は楓の肌を見てさへ起つた。−−
164 楓樹の肌が冷えてゐた。城の本丸の彼が何時も坐るベンチの後ろでであつた。
165 根方に松葉が落ちてゐた。その上を蟻が清らに匍つてゐた。
166 冷い楓の肌を見てゐると、ひぜんのやうについてゐる蘚の模様が美しく見えた。
167 子供の時の茣蓙遊びの記憶−−殊にその触感が蘇つた。
168
やはり楓の樹の下である。松葉が散つてゐて蟻が匍つてゐる。地面にはでこぼこがある。そんな上へ茣蓙を敷いた。
「子供といふものは確かにあの土地のでこぼこを冷い茣蓙の下に感じる蹠の感覚の快さを知つてゐるものだ。そして茣蓙を敷くや否や直ぐその上へ跳び込んで、着物ぐるみぢかに地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」そんなことを思ひながら彼は直ぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷して見たいやうな衝動を感じた。
「やはり疲れてゐるのだな」彼は手足が軽く熱を持つてゐるのを知つた。
169
「私はお前にこんなものをやらうと思ふ。
一つはゼリーだ。ちよつとした人の足音にさへいくつもの波紋が起り、風が吹いて来ると漣をたてる。色は海の青色で−−御覧そのなかをいくつも魚が泳いでゐる。
もう一つは窓掛けだ。織物ではあるが秋草が茂つてゐる叢になつてゐる。またそこには見えないが、色づきかけた銀杏の木がその上には生えてゐる気持。風が来ると草がさわぐ。そして、御覧。尺取虫が枝から枝を匍つてゐる。
この二つをお前にあげる。まだ出来あがらないから待つてゐるがいい、そして詰らない時には、ふつと思ひ出して見るがいい。きつと愉快になるから。」
170
彼は或る日葉書へそんなことを書いてしまつた、勿論遊戯ではあつたが。そして此の日頃の昼となし夜となしに、時どきふと感じる気持のむづ痒さを幾分はかせたやうな気がした。夜、静かに寝られないでゐると、空を五位が啼いて通つた。ふとするとその声が自分の身体の何処かでしてゐるやうに思はれることがある。虫の啼く声などもへんに部屋の中でのやうに聞える。「はあ、来るな」と思つてゐるとえたいの知れない気特が起つて来る。−−これは此頃眠れない夜のお極まりのコースであつた。
171
変な気持は、電燈を消し眼をつぶつてゐる彼の眼の前へ、物が盛に運動する気配を感じさせた。尨大なものの気配が見るうちに裏返つて微塵ほどになる。確かどこかで触つたことのあるやうな、口へ含んだことのあるやうな運動である、廻転機のやうに絶えず廻つてゐるやうで、寝てゐる自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるやうな気持に直ぐそれが捲き込まれてしまふ。本などを読んでゐると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似てゐる。ひどくなると一種の恐怖さへ伴つて来て眼を閉いではゐられなくなる。
172
彼は此頃それが妖術が使へさうになる気特だと思ふことがあつた。それはこんな妖術であつた。
173
子供の時、弟と一緒に寝たりなどすると、彼はよくうつ伏せになつて両手で墻を作りながら(それが牧場の積りであつた)、
174
田園、平野、市街、市場、劇場。船著場や海。さういつた広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現はれて呉れるといい。そしてそれが今にも見えて来さうだつた。耳にもその騒音が伝はつて来るやうに思へた。
175
葉書へいたづら書をした彼の気持も、その変てこなむづ痒さから来てゐるのだつた。
176
八月も終りになつた。
177
信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかつた。指の傷が癒つたので、天理様へお陰に行つて来いと母に云はれ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。その人がこの近所では最も熱心な信者だつた。
178
晩には母が豆を煎つてゐた。
179
峻が話を聴きながら豆を皎んでゐると、裏口で音がして信子が帰つて来た。
180
吉峯さんの小母さんに「何時お帰りです。あしたお帰りですか」と訊かれて、信子が間誤ついて「ええ、あしたお帰りです」と云つたといふ話だつた。母や彼が笑ふと、信子は少し顔を赦くした。
181
借りて来たのは乳母車だつた。
182
大変だな、と彼は思つてゐた。
183
彼は、朝が早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買つて、先へ手荷物で送つてしまつたらいいと思つて、
184
母と娘と姪が、夏の朝の明方を三人で、一人は乳母車をおし、一人はいでたちをした一人に手を曳かれ、停車場へ向つてゆく、その出発を彼は心に浮べて見た。美しかつた。
185
夜はその夜も眠りにくかつた。
186
十二時頃夕立がした。その続きを彼は心待ちに寝てゐた。
187
暫くするとそれが遠くからまた歩み寄つて来る音がした。
188
虫の声が雨の音に変つた。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行つた。
189
蚊帳をまくつて起きて出、雨戸を一枚繰つた。
190
城の本丸に電燈が輝いてゐた。雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗のやうな光を放つてゐた。
191
また夕立が来た。彼は閾の上へ腰をかけ、雨で足を冷した。
192
眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒へ水を汲みに来た。
193
雨の脚が強くなつて、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。
194
気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたつて行つた。
195
信子の着物が物干竿にかかつたまま雨の中にあつた。筒袖の、平常着てゐたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だつた。その故か、見てゐると不思議な位信子の身体つきが髣髴とした。
196
夕立はまた町の方へ行つてしまつた。遠くでその音がしてゐる。
197
鳴きだしたこほろぎの声にまじつて、質の緻密な玉を硬度の高い金属ではじくやうな虫もなき出した。
198
彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待つてゐた。
■このファイルについて
(武蔵野書院版/筑摩書房版全集)
*1…入道雲[にゆうだうぐも]/[にふだうぐも]
表記:原文の表記を尊重しつつ、Webでの読みやすさを考慮して、以下のように扱います。
○誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。
入力:今井安貴夫
「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と云ひながら弟をだました。両手にかこまれて、顔で蓋をされた、敷布の上の暗黒のなかに、さう云へばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだつた。−−彼は今そんなことは本当に可能だといふ気がした。
雨
「荷札は?」信子の大きな行李を縛つてやつてゐた兄がさう云つた。
「何を立つて見とるのや」兄が怒つたやうにからかふと、信子は笑ひながら捜しに行つた。
「ないわ」信子がそんなに云つて帰つて来た。
「カフスの古いので作つたら………」と彼が云ふと、兄は、
「いや、まだたくさんあつた筈や。あの抽出し見たか」信子は見たと云つた。
「勝子がまた蔵ひ込んどるんやないかいな。一遍見てみ」兄がそんなに云つて笑つた。勝子は自分の抽出しへ極く下らないものまで拾つて来ては蔵ひ込んでゐた。
「荷札ならここや」母がさう云つて、それ見たかといふやうな軽い笑顔をしながら持つて来た。
「やつぱり年寄がをらんとあかんて」兄はそんな情愛の籠つたことを云つた。
「峻さん。あんたにこんなのはどうですな」そんなに云つて煎りあげたのを彼の方へ寄せた。
「信子が寄宿舎へ持つて帰るお土産です。一升ほども持つて帰つても、ぢきにぺろつと失くなるのやさうで………」
「貸して呉れはつたか」
「はあ裏へおいといた」
「雨が降るかも知れんでづつとなかへ引き込んでおいで」
「はあ。引き込んである」
「吉峯さんのをばさんがあしたお帰りですかて………」信子は何かをかしさうに言葉を杜断らせた。
「あしたお帰りですかて?」母が聞きかへした。
「明日一番で立つのを、行李乗せて停車場まで送つて行てやります」母がそんなに云つて訳を話した。
「勝子も行くて?」信子が訊くと、
「行くのやと云ふて、今夜は早うからおやすみや」と母が云つた。
「僕、今から持つて行つて来ませうか」と云つて見た。一つには、彼自身体裁屋なので、年頃の信子の気持を先廻りした積りであつた。然し母と信子があまり「かまはない、かまはない」と云ふのであちらまかせにしてしまつた。
「お互の心の中でさうした出発の楽しさをあてにしてゐるのぢやなからうか」そして彼は心が清く洗はれるのを感じた。
「チン、チン」
「チン、チン」
(大正十四年二月)
標題:城のある町にて
著者:梶井基次郎
本文:「檸檬」(武蔵野書院版)
精選 名著復刻全集 近代文学館 昭和48年5月20日 発行
参照:「梶井基次郎全集」 第一巻
1999年11月10日 初版第一刷発行
発行所 筑摩書房
異同:「梶井基次郎全集」との異同
*2…展望[てんぼう]/[てんばう]
*3…北ムロ/北牟婁
*4…瑞々/瑞みづ
*5…教科書/教教書
*6…づつとなかへ/ずつとなかへ
*7…褪赭/代赭
*8…興味[きやうみ]/[きようみ]
*9…入[はい]つた/入[はひ]つた
*10…醤油[しようゆう]/醤油[しやうゆう]
*11…自由[じゆう]/自由[じいう]
*12…銀杏[いてふ]/銀杏[いちやう]
*13…厖大[ぼうだい]/厖大[ばうだい]
*14…情愛[じようあい]/情愛[じやうあい]
*15…閾[しきい]/閾[しきゐ]
○本文のかなづかいは、底本通りとしました。
○旧字体は、現行の新字体に変えました。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。
○段落番号を追加しました。
○行間処理(行間180%)を行いました。
ファイル作成:里実工房
公開:2005年6月20日