城のある町にて

梶井基次郎




  ある午後

1

「高いとこの眺めは、アアツ(とせきをして)また格段かくだんでごわすな」

2

片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持ってゐる。頭が奇麗きれいに禿げてゐて、カンカン帽子を冠つてゐるのが、まるでせんをはめたやうに見える。−−そんな老人が朗らかにさう云ひ捨てたままたかしの脇を歩いて行った。云つておいて此方を振り向くでもなく、眼はやはりとほい眺望へ向けたままで、さもやれやれヽヽヽヽといったふうに石垣のはなのベンチへこしをかけた。−−

3

町をはづれてまだ二里ほどの間は平坦な緑。T湾の濃いあゐがそれの彼方にひろがつてゐる。すそのぼやけた、そして全体ぜんたいもあまりかつきりしない入道雲にゆうだうぐもが水平線の上に静かにわだかまつてゐる。−−

4

「ああ、さうですなあ」少し間誤まごつきながらさう答へた時の自分の声の後味あとあぢがまだ喉や耳のあたりに残ってゐるやうな気がされて、その時の自分と今の自分とがへんにそぐはなかった。なんのこだはりもしらないやうなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先程の静かな展望てんぼうのなかへ吸ひ込まれて行つた。−−風がすこし吹いて、午後であつた。

5

一つには、可愛いざかりで死なせた妹のことを落ちついて考へて見たいといふ若者めいた感慨から、峻はまだ五七にちを出ない頃の家を出て此の地の姉の家へやつて来た。

6

ぼんやりしてゐて、それが他所よその子の泣声だと気がつくまで、死んだ妹の声の気持がしてゐた。

7

「誰れだ。暑いのに泣かせたりなんぞして」

8

そんなことまで思つてゐる。

9

彼女がことヽヽ切れた時よりも、火葬場での時よりも、かはつた土地へ来てするこんな経験の方に「失つた」といふ思ひは強く刻まれた。

10

「たくさんの虫が、一匹の死にかけてゐる虫の周囲に集つて、悲しんだり泣いたりしてゐる」と友人に書いたやうな、彼女の死の前後のくるしい経験がやつと薄い面紗ヴエイルのあちらに感ぜられるやうになつたのも此の土地へ来てからであつた。そしてその思ひにも落ちつき、新らしい周囲にも心が馴染なじんで来るに随つて、峻には珍らしく静かな心持がやつて来るやうになつた。いつも都会に住み慣れ、殊に最近は心の休むひまもなかつたあとで、彼はなほさらこの静けさの中でうや々しくなつた。道を歩くのにも出来るだけ疲れないやうに心懸こころがける。とげ一つ立てないやうにしよう。指一本めないやうにしよう。ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。−−迷信に近いほどそんなことが思はれた。そしてひでりの多かつた夏にも雨が一度、二度来、それがあがる度毎に稍々秋めいたものが肌に触れるやうに気候もなつて来た。

11

さうした心の静けさとかすかな秋の先駆さきがけは、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかつた。草や虫や雲や風景を眼の前へ据ゑて、ひそかに抑へて来た心を燃えさせる、−−ただそのことだけが仕甲斐のあることのやうに峻には思へた。

12

「家の近所にお城跡しろあとがありまして峻の散歩には丁度良いと思ひます」姉が彼の母のもと寄来よこした手紙にこんなことが書いてあつた。着いた翌日の夜、義兄と姉とその娘と四人で初めて此の城跡へ登つた。ひでりの為うんかヽヽヽがたくさん田にいたのを除虫燈で殺してゐる。それがもうあと二三日だからといふので、それを見にあがつたのだつた。平野は見渡す限り除虫燈の海だつた。遠くになると星のやうにまたたいてゐる。山の峡間はざまぼうヽヽてらされて、そこから大河のやうに流れ出てゐる所もあつた。彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。風のない夜で涼み方がた見物に来る町の人びと−−で城跡はにぎはつてゐた。闇のなかから白粉を厚く塗つた町の娘達がはしやいだ眼を光らせた。

13

今、空は悲しいまで晴れてゐた。そしてその下に町はいらかを並べてゐた。

14

白亜はくあの小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そして其所此所、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間からえ出てゐる。或る家の裏には芭蕉ばせうの葉がれてゐる。糸杉の巻きあがつた葉も見える。かさ綿わたのやうな恰好に刈られた松も見える。みなくろずんだ下葉と新らしい若葉で、いい風な緑色の容積を造つてゐる。

15

遠くに赤いポストが見える。

16

乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。

17

日をうけて赤い切地きれぢを張つた張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。−−

18

夜になると火のいた町の大通おほどほりを、自転車でやつて来た村の青年達が、大勢達れで遊廓の方へ乗つてゆく。みせの若い衆なども浴衣ゆかたがけで、ひる見る時とはまるで異つた風に身体からだをくねらせながら白粉を塗つた女をからかつてゆく。−−さうした町も今は屋根瓦の間へ挟まれてしまつて、そのあたりにのぼりをたくさんたてて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。

19

西日にしびけて、一階も二階も三階も、西の窓すつかり日覆をした旅館が稍々近くに見えた。何処からか材木を叩く音が−−もともと高くもない音らしかつたが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。

20

次つぎと止まるひまなしにつくつくヽヽヽヽ法師ほふしが鳴いた。「文法の語尾の変化をやつてゐるやうだな」ふとそんなに思つて見て、聞いてゐると不思議にきようが乗つて来た。「チユクチユクチユク」と始めて「オーシ、チユクチユク」を繰返くりかへす、そのうちにそれが「チユクチエク、オーシ」になつたり「オーシ、チユクチユク」にもどつたりして、しまひに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になつて「ヂー」と鳴きやんでしまふ。中途ちゆうとに横から「チユクチユク」と始めるのが出て来る。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終つて「ヂー」にうつりかけてゐる。ぢゆう四重、五重にも六重にも重なつて鳴いてゐる。

21

峻は此の間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉ほふしぜみが鳴くのを、一尺ほどの間近まぢかた。華車な骨に石鹸玉のやうな薄い羽板を張つた、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、おどろきながら見てゐた。その高い音と関係があると云へば、ただその腹から尻尾しつぽへかけての伸縮であつた。柔毛じうもうの密生してゐる、筋を持つた、その部分は、まるでエンヂンの或る部分のやうな正確さで動いてゐた。−−その時の恰好が思ひ出せた。腹から尻尾へかけてのブリツとした膨らみ。隅々まで力ではち切つたやうな伸び縮み。−−そしてふと蝉一匹の生物が無上に勿体ないものだといふ気持に打たれた。

22

時どき、先程の老人のやうにやつて来てはりやうをいれ、景色を眺めてはまた立つてゆく人があつた。

23

峻が此所へ来る時によく見る、ちんの中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来てゐて、今日は子守娘と親しさうに話をしてゐる。

24

蝉取竿を持つた子供があちこちする。虫籠むしかごを持たされた兄は、時どき立ち留つては籠の中を見、また竿の方を見ては小走こばしりにいてゆく。物を云はないでゐて変に芝居のやうな面白さが感じられる。

25

またあちらでは女の子達が米つきばつたヽヽヽヽヽとらへては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と云ひながら米をつかせてゐる。ねぎさんヽヽヽヽといふのは此の土地の言葉で神主のことを云ふのである。峻は善良な長い顔の先に短い二本の触角を持つた、さう思へばいかにも神主めいたばつたヽヽヽが、女の子に後脚あとあしを持たれて身動みうごきのならないままに米をつくその恰好が呑気のんきなものに思ひ浮んだ。

26

女の子が追ひかける草のなかを、ばつたは二本の脚を伸し、日の光を羽根はね一ぱいに負ひながら、何匹も飛び出した。

27

時どき煙を吐く煙突があつて、田野はその辺からひらけてゐた。レムブラントの素描めいた風景が散ぼつてゐる。

28

黒い木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭たいしやの煉瓦の煙突。

29

小さい軽便けいべんが海の方からやつて来る。

30

海からあがつて来た風は軽便の煙ををかの方へ、その走る方へ吹きなびける。

31

見てゐると煙のやうではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走つてゐるやうである。

32

サヽヽヽと日がかげる。風景の顔色が見る見る変つてゆく。

33

遠く海岸に沿つてななめに入り込んだ入江が見えた。−−峻は此の城跡へ登るたび幾度いくどとなくその入江を見るのが癖になつてゐた。

34

海岸にしては大きい立木が所どころ繁つてゐる。その陰にちよつぴり人家の屋根が覗いてゐる。そして入江には舟がもやつてゐる気持。

35

それはただそれだけの眺めであつた。何処を取り立てて特別とくべつ心を惹くやうなところはなかつた。それでゐてへんに心が惹かれた。

36

なにかある。本当になにかがそこにある。といつてその気持を口に出せば、もうそらぞらしいものになつてしまふ。

37

例へばそれを故のない淡い憧憬といつた風の気持、と名づけて見ようか。誰れかが「さうぢやないか」とたづねて呉れたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかも知れない。然し自分では「まだなにか」といふ気持がする。

38

人種の異つたやうな人びとが住んでゐて、此の世と離れた生活を営んでゐる。−−そんなやうな所にも思へる。とはいへそれはあまりお伽話とぎばなしめかした、ぴつたりしないところがある。

39

なにか外国の画で、彼処あすこに似た所がいてあつたのが思ひ出せない為ではないかとも思つて見る。それにはコンステイブルの画を一枚思ひ出してゐる。やはりそれでもない。

40

では一たい何だらうか。このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美しさを添へるものである。然し入江の眺めはそれに過ぎてゐた。そこに限つて気韻が生動してゐる。そんな風に思へた。−−

41

空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青より稍々温い深青にうつつた。白い雲がある時は海も白く光つて見えた。今日は先程の入道雲が水平線の上へひろがつてザボンの内皮の色がして、海も入江の真近まぢかまでその色に映つてゐた。今日も入江はいつものやうに謎をかくして静まつてゐた。

42

見てゐると、けもののやうにこの城のはなから悲しい唸声うなりごゑを出して見たいやうな気になるのも同じであつた。息苦しいほど妙なものに思へた。

43

夢で不思議な所へ行つてゐて、此処は来たおぼえがあると思つてゐる。−−丁度それに似た気持で、えたいの知れない想出おもひでが湧いて来る。
「あゝかゝる日のかゝるひととき」
「あゝかゝる日のかゝるひととき」

44

何時いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。−−
「ハリケンハツチのオートバイ」
「ハリケンハツチのオートバイ」

45

先程の女の児らしい声が峻の足の下で次々に高く響いた。丸の内の街道を通つてゆくらしい自働自転車の爆音がきこえてゐた。

46

この町のある医者がそれに乗つて帰つて来る時刻であつた。その爆音を聞くと峻の家の近所にゐる女の子は我勝われがちに「ハリケンハツチのオートバイ」とさけぶ。「オートバ」と云つてゐる児もある。

47

三階の旅館は日覆をいつの間にかはづした。

48

遠い物干台の赤い張物板はりものいたももう見つからなくなつた。

49

町の屋根からは煙。遠い山からはひぐらし




  手品と花火

50

これはまた別の日。

51

夕飯と風呂をませて峻は城へ登つた。

52

薄暮はくぼの空に、時どき、数里はなれた市で花火をあげるのが見えた。気がつくと綿で包んだやうな音がかすかにしてゐる。それがとほいので間の抜けた時に鳴つた。いいものを見る、と彼は思つてゐた。

53

ところへ十七ほどをかしらに三人連れの男の児が来た。これも食後の涼みらしかつた。峻に気を兼ねてかしづかに話をしてゐる。

54

口で教へるのにも気がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心なふりをして見てゐた。

55

末遠いパノラマのなかで、花火は星水母ほしくらげほどのさやけさに光つては消えた。海は暮れかけてゐたが、その方はまだあかるみが残つてゐた。

56

暫くすると少年達もそれに気がついた。彼は心の中で喜んだ。
「四十九」
「ああ四十九」

57

そんなことを云ひあひながら、一度あがつて次あがるまでの時間を数へてゐる。彼はそれらの会話をきくともなしに聞いてゐた。
「××ちやん花は」
「フロラ」一番としのいつたのがそんなに答へてゐる。−−

58

城でのそれをおもひ出しながら、彼は家へ帰つて来た。家の近くまで来ると、隣家のひとが峻の顔を見た。そしてあわてたやうに、
「帰つておいでなしたぞな」と家へ云ひ入れた。

59

奇術がなんとかにかかつてゐるのを見にゆかうかと云つてゐたのを、峻がぽつと出てしまつたので騒いでゐたのである。
「あ。どうも」と云ふと、義兄あには笑ひながら、
「はつきり云ふとかんのがいかんのやさ」と姉に背負はせた。姉も笑ひながら衣服を出しかけた。彼が城へ行つてゐる間に姉も信子(義兄の妹)もこつてり化粧をしてゐた。

60

姉が義兄に
「あんた、扇子は?」
衣嚢かくしにあるけど……」
「さうやな。あれもよごれてますで……」

61

姉が合点合点などしてゆつくりさがしかけるのを、じゆうじゆうと音をさせて煙草をんでゐた兄は、
「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度しやんし」と云つて煙管のつまつたのを気にしてゐた。

62

奥の間で信子の仕度を手伝つてやつてゐた義母が、
「さあこんなは奈何どうやな」と云つて団扇うちはを二三本せて持つて来た。砂糖屋などがくばつて行つた団扇である。

63

姉が種々と衣服を着こなしてゐるのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしてゐるだらうなど、奥の間の気配けはいに心をやつたりした。

64

やがて仕度が出来たので峻はさきへ下りて下駄を穿いた。
「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにゐますで、よぼつてやつとくなさい」と義母が云つた。

65

袖の長い衣服を着て、近所の子等のなかにまじつてゐる勝子は、呼ばれたまま、まだなにか云ひあつてゐる。
「『カ』ちうとこへ行くの」
「かつどうや」
「活動や活動やあ」と二三人の女の児がはやした。
「ううん」と勝子は首をふつて、
「『ヨ』ちつとこへ行くの」とまたやつてゐる。
「ようちえん?」
「いやらし、幼稚園、晩にはあれへんわ」

66

義兄あにが出て来た。
「早うお出でな。つといてゆくぞな」

67

姉と信子が出て来た。白粉を濃くはいた顔が夕暗ゆふやみに浮んで見えた。さつきの団扇を一つづつ持つてゐる。
「お待ち遠さま。勝子は。勝子、あふぎ持つてるか」

68

勝子は小さい扇をちらと見せて姉にまとひつきかけた。
「そんならお母さん、行つて来ますで……」

69

姉がさう云ふと、
「勝子、帰ろ帰ろ云はんのやんな」と義母は勝子に云つた。
「云はんのやんな」勝子は返事のかはりに口真似をして峻の手のなかへはひつて来た。そして峻は手をひいて歩き出した。

70

往来に涼み台を出してゐる近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。
「勝ちやん此所何てとこヽヽ?」彼はそんなことをいて見た。
「しやうせんかく」
「朝鮮閣?」
「ううん、しやうせんかく」
「朝鮮閣」
「しやうーせんーかく」
「朝ー鮮ー関?」
「うん」と云つて彼の手をぴしやと叩いた。

71

しばらくして勝子から、
「しやうせんかく」といひ出した。
「朝鮮閣」

72

牴牾もどかしいのは此方だ、と云つた風に寸分違すんぶんたがはないやうに似せてゆく。それが遊戯になつてしまつた。しまひには彼が「松仙閣」といつてゐるのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」と云つてゐる。信子がそれに気がついて笑ひ出した。笑はれると勝子はかんむりを曲げてしまつた。
「勝子」今度は義兄の番だ。
「ちがひますともわらびます」
「ううん」鼻ごゑをして、勝子は義兄を打つ真似をした。義兄は知らん顔で、
「ちがひますともわらびます。あれ何やつたな。勝子。一ぺん峻さんに聞かしたげなさい」

73

泣きさうに鼻をならし出したので信子が手をひいてやりながら歩き出した。
「これ……それからなんといふつもりやつたんや?」
「これ、わらびとは違ひますつて云ふ積りやつたんやなあ」信子がそんなに云つて庇護かばつてやつた。
「一体何処どこのひとにそんなことを云ふたんやな?」今度は半分信子に訊いてゐる。
吉峯よしみねさんのをぢさんにやなあ」信子は笑ひながら勝子の顔を覗いた。
「まだあつたぞ。もう一つどえらいヽヽヽヽのがあつたぞ」義兄あにがおどかすやうにさう云ふと、姉も信子も笑ひ出した。勝子は本式に泣きかけた。

74

城の石垣に大きな電燈がついてゐて、うしろの木々にかう々と照つてゐる。その前の木々は反対に黒ぐろとしたかげになつてゐる。その方で蝉がヂツヂヂツヂと鳴いた。

75

彼は一人後ろになつて歩いてゐた。

76

彼が此の土地へ来てから、かうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであつた。若い女達と出歩く。そのことも彼の経験では、極めてまれであつた。彼はなんとなしに幸福であつた。

77

少し我儘わがままな所のある彼の姉とれ合つてゐる態度に、少しも無理がなく、−−それを器用にやつてゐるのではなく、生地きぢからの平和な生れつきでやつてゐる。信子はそんな娘であつた。

78

義母などの信心から、天理教様に拝んで貰へと云はれると、素直すなほに拝んで貰つてゐる。それは指の傷だつたが、そのため評判の琴も弾かないでゐた。

79

学校の植物の標本を造つてゐる。用事に町へ行つたついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰つて来る。勝子が欲しがるので勝子にもけてやつたりなどして、ひとりせつせとおしヽヽをかけてゐる。

80

勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持つて来た。それをきまり悪さうにもしないで、彼の聞くことをおだやかにはきはきと受け答へする。−−信子はそんなこのもしいところを持つてゐた。

81

今彼の前を、勝子の手を曳いて歩いてゐる信子は、家の中で肩縫揚かたぬひあげのしてある衣服を着て足をによきによき出してゐる彼女とまるで違つておとなヽヽヽに見えた。その隣に姉が歩いてゐる。彼は姉が以前より少しせて、いくらかでも歩きりがよくなつたと思つた。
「さあ。あんた。先へ歩いて……」

82

姉が突然うしろを向いて彼に云つた。
「どうして」今までの気持でかなくともわかつてゐたがわざと彼はとぼけて見せた。そして自分から笑つてしまつた。こんな笑ひ方をしたからにはもう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなつた。
「早う。気持が悪いわ。なあ。信ちやん」
「……」笑ひながら信子も点頭うなづいた。

83

芝居小屋のなかは思つたやうにし暑かつた。

84

水番といふのか、銀杏返いちやうがへしにつた、年のけたをんなが、座布団をかずだけ持つて、さきに立つてばたばた敷いてしまつた。平場ひらばの一番うしろで、峻が左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が坐つた。丁度幕間まくあひで、階下したは七分通詰つてゐた。

85

先刻さつきをんなが煙草盆を持つて来た。火が埋んであつて、暑いのに気がかなかつた。立ち去らずに愚図愚図ぐづぐづしてゐる。何と云つたらいいか、この手の婦特有な狡猾ずる顔附かほつきで、眼をきよろきよろさせてゐる。眼顔で火鉢ひばちを指したり、そらしたり、義兄の顔を盗み見たりする。此方こつちが見てよくわかつてゐるのにと思ひ、財布の銀貨を袂の中で出しなやみながら、彼はその無躾ぶしつけに腹が立つた。

86

義兄は落ちついてしまつて、まるで無感覚むかんかくである。
「へ、お火鉢」をんなはこんなことをそわそわ云つてのけて、忙しさうに揉手もみでをしながらまた眼をそらす。やつと銀貨が出て婦は帰つて行つた。

87

やがて幕があがつた。

88

日本人のやうでない皮膚の色が少し黒みがかつた男が不熱心ふねつしんに道具をはこんで来て、時どきぢろぢろと観客の方を見た。ぞんざいで、面白く思へなかつた。それが済むと怪しげな名前の印度人が不作法なフロツクコートを着て出て来た。何かわからない言葉で喋つた。つばをとばしてゐる様子で、めた唇の両端りやうはしに白く唾がたまつてゐた。
「なんて云つたの」姉がこんなに訊いた。すると隣の他所よそのひとも彼の顔を見た。彼は閉口へいこうしてしまつた。

89

印度人は席へ下りて立会人を物色ぶつしよくしてゐる。一人の男が腕をつかまれたまま、あやな羞笑をしてゐた。その男はたうとう舞台へ連れてゆかれた。

90

髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣ゆかたを着、暑いのに黒足袋くろたびを穿いてゐた。にこにこして立つてゐるのを、先程の男が椅子を持つて来て坐らせた。

91

印度人は非道ひどやつであつた。

92

握手あくしゆをしようと云つて男の前へ手を出す。をとこはためらつてゐたが思ひ切つて手を出した。すると印度人は自分の手を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振てぶりを醜く真似て見せ、首板くびねつ子をちぢめて嘲笑あざわらつて見せた。どく々しいものだつた。男は印度人の方を見、自分のもとゐた席の方を見て、あぶな気に笑つてゐる。なにかわけのありさうな笑ひ方だつた。子供か女房かがゐるのぢやないか。たまらない、と峻は思つた。

93

握手が失敬しつけいになり、印度人の悪ふざけは益々たちがわるくなつた。見物はその度に笑つた。そして手品がはじまつた。

94

紐があつたのは、切つてもつながつてゐるといふ手品。金属のびんがあつたのは、いくらでも水が出るといふ手品。−−極くつまらない手品で、硝子の卓子の上のものはつて行つた。まだ林檎が残つてゐた。これは林檎を食つて、食つた林檎のきれ今度こんどは火を吹いて口から出て来るといふので、ためしに例の男が食はされた。皮ごと食つたといふので、これも笑はれた。

95

峻はそのはしにもぼうにもかからないやうな笑ひ方を印度人がする度に、何故なぜあの男は何とかしないのだらうと思つてゐた。そして彼自身かなり不愉快になつてゐた。

96

そのうちに不図、先程の花火が思ひ出されて来た。
「先程の花火はまだあがつてゐるだらうか」そんなことを思つた。

97

薄明りの平野のなかへ、星水母ほしくらげほどに光つては消えるとほい市の花火。海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思へた。
「花は」
「Frola」

98

たしかに「Flower」とは云はなかつた。

99

その子供といひ、そのパノラマといひ、どんな手品師もかなはないやうな立派な手品だつたやうな気がした。

100

そんなことが彼の不愉快を段々と洗つて行つた。いつもの癖で、不愉快な場面を非人情に見る、−−さうすると反対に面白く見えて来る−−その気持がものヽヽになりかけて来た。

101

下等な道化だうけに独りで腹を立ててゐる先程の自分が、ちよつと滑稽だつたと彼は思つた。

102

舞台の上では印度人が、看板画そつくりの雰囲気のなかで、口からさかんに火を吹いてゐた。それには怪しげな美しささへ見えた。

103

やつと済むとまくりた。
「ああ面白かつた」ちよつとうそのやうな、とつてつけたやうに勝子が云つた。云ひ方が面白かつたのでみな笑つた。

104

美人の宙釣ちうづり。

105

力業。

106

オペレット。浅草気分あさくさきぶん

107

美人胴切。 そんなプログラムで、おそく家へ帰つた。





  病気

108

姉が病気になつた。脾腹ひばらが痛む、そして高い熱が出る。峻は腸チブスではないかと思つた。枕元まくらもとで兄が、
「医者さんを呼びに遣らうかな」と云つてゐる。
「まあよろしいわな。かいヽヽちゆうかも知れませんで」そして峻にともつかず義兄にともつかず、
「昨日あないに暑かつたのに、歩いて帰る道で汗がちつとも出なんだの」とよわ々しく云つてゐる。

109

その前の日の午後、少し浮かぬ顔で遠くから帰つて来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながらはやし立てた。
「勝子、あれ何処どこのひと?」
「あら。お母さんや。お母さんや」
「嘘いへ。他所よそのをばさんだよ。見ておいで。家へははひらないから」

110

その時の顔を峻は思ひ出した。少し変だつたことは少し変だつた。家のなかばかりで見馴みなれてゐる家族を、不図往来で他所目よそめに見る−−そんなめづらしい気持で見たせゐと峻は思つてゐたが少し力がないやうでもあつた。

111

医者が来て、矢張りチブスのうたがひがあると云つて帰つた。峻は階下したで困つた顔を兄とつき合せた。兄の顔にはくるしい微笑が凝つてゐた。

112

腎臓の故障こしやうだつたことがわかつた。舌のこけがなんとかで、と云つて明瞭めいれうにチブスとも云ひ兼ねてゐた由を云つて、医者も元気に帰つて行つた。

113

此の家へとついで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が云つた。
「一度は北ムロで」
「あの時は弱つたな。近所に氷がありませいでなあ、夜中よなかの二時頃、四里ほどの道を自転車で走つて、叩き起して買ふたのはまあよかつたやさ。風呂敷へ包んでサドルのうしろへゆはへつけて戻つて来たら、れとりましてな、これだけほどになつとつた」

114

義兄はその手つきをして見せた。姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確せいかくなものを造らうとする兄だけあつて、その話には兄らしいあぢが出てゐて峻も笑はされた。
「その時は?」
かいヽヽちゆうをわかしとりましたんぢや」

115

−−一つには峻自身の不検束ふけんそくな生活から、彼は一肺を悪くしたことがあつた。その時義兄は北ムロでその病気が癒るやうにと神詣かみまうでをして呉れた。病気が稍ゝよくなつて、峻は一度その北ムロの家へ行つたことがあつた。其所そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木樵きこりで、養蚕などもしてゐた。冬になると家の近くの畑までゐのししいもを掘りに来たりする。芋は百姓の半分常食になつてゐた。その時はまだ勝子も小さかつた。近所のおばあさんが来て、勝子の絵本ゑほんを見ながら講釈かうしやくしてゐるのに、象のことを鼻捲はなまき象、猿のことを山の若い衆ヽヽヽヽヽとかやゑんヽヽヽとか呼んでゐた。苗字めうじのないといふがゐるので聞いて見ると木樵きこりの子だからと云つて村の人は当然たうぜんな顔をしてゐる。小学校には生徒から名前の呼びてにされてゐる、薫といふ村長の娘が教師をしてゐた。まだそれが十六七の年頃だつた。

116

北ムロはそんな処であつた。峻は北ムロでの兄の話には興味きやうみが持てた。

117

北ムロにゐた時、勝子が川へはまつたことがある。その話が兄の口から出て来た。

118

−−兄が心臓脚気しんざうがつけで寝てゐた時のことである。七十を越した、兄の祖母で、勝子の曾祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗ちやわんけに行つた。その川といふのが急な川で、狭かつたが底はかなりふかかつた。お祖母さんは、何時でも兄達が捨てておけといふのに、姉が留守るすだつたりすると、勝子などを抱きたがつた。その時も姉は外出してゐた。

119

はあ、て行つたな。と寝床の中で思つてゐると、暫くして変な声がしたので、あつと思つたまま、ひかれるやうに大病人たいびやうにんが起きて出た。川はぐ近くだつた。見ると、お祖母さんが変な顔をして、
「勝子が」と云つたのだが、そして−−所懸命に云はうとしてゐるのだが、そのあとが云へない。
「お祖母さん。勝子が何とした!」
「………」手の先だけがはげしくそれを云つてゐる。

120

勝子が川を流れてゆくのが見えてゐるのだ! 川は丁度雨のあとで水かさがしてゐた。さきに石の橋があつて、水が板石いたいしとすれすれになつてゐる。その先には川のまがるところがあつて、そこは何時もうづが巻いてゐる所だ。川はそこを曲つて深いぬまのやうな所へ入る。橋か曲り角で頭を打ちつけるか、流れて行つて沼へしづみでもしようものなら助からないところだつた。

121

兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追つた。橋までにとらへるつもりだつた。

122

病気の身だつた。それでもやつと橋の手前てまへで捕へることは出来た。然し流れがきつくて橋を力に上らうと思つても到底たうてい駄目だつた。板石と水の隙間すきまは、やつと勝子の頭位はとほせるほどだつたので、兄は勝子を差し上げながら水をくぐり、下手でやうやくあがれたのだつた。勝子はぐつたりとなつてゐた。さかさにしても水を吐かない。兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びながら背中を叩いた。

123

勝子はけろりと気がついた。気がついたが早いか、立つと直ぐ踊り出したりするのだ。兄はばかされたやうで何だか変だつた。
「このべべ何としたんや」と云つて濡れた衣服をひつぱつて見ても「知らん」と云つておる。足が滑つた拍子ひやうしに気絶してをつたので、全くおほれたのではなかつたと見える。

124

そして、何とまあ、何時いつもの顔で踊つてゐるのだ。−−

125

兄の話のあらましはこんなものだつた。丁度近所の百姓家が昼寝ひるねの時だつたので、自分がその時起きてゆかなければどんなに危険だつたかとも云つた。

126

話してゐる方も聞いてゐる方もき入れられて、兄が口をつぐむと、静かになつた。
「わたしが帰つて行つたらお祖母さんと三人でかどで待つてはるの」姉がそんなことを云つた。
「何やら家にゐてられなんだわさ。着物を着かへてお母ちやんをつとろと云ふたりしてなあ」
「お祖母さんがぼけヽヽはつたのはあれからでしたな」姉は声を少しひそませて意味のこもつた眼を兄に向けた。
「それがあつてからお祖母さんが一寸ぼけヽヽみたいになりましてなあ。何時までつてもこれに(と云つて姉を指し)よしやんヽヽヽヽまん、よしやんに済まんて云ひましてな」
「なんのお祖母さん、そんなことがあらうかさ、と云つてゐるのに……」

127

それからのお祖母さんは目に見えてぼけヽヽて行つて一年ほど経つてから死んだ。

128

峻にはそのお祖母さんの運命がなにか惨酷ざんこくな気がした。それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行つた北ムロの山の中だつただけに、もう一つその感じは深かつた。

129

峻が北ムロへ行つたのは、その事件の以前であつた。お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上つてゐた筈の信子の名と、よく呼び違へた。信子はその当時母などと此方にゐた。まだ信子を知らなかつた峻には、お祖母さんが呼び違へる度毎たびごとに、信子といふ名を持つた十四五の娘が頭に親しく想像された。


  勝子

130

峻は原つぱにめんした窓にりかかつて外を眺めてゐた。

131

灰色の雲が空一帯をめてゐた。それはずつと奥深おくぶかくも見え、また地上低くさがつてゐるやうにも思へた。あたりのものはみな光を失つて静まつてゐた。ただ遠い病院の避雷針ひらいしんだけが、どうしたはづみか白く光つて見える。

132

原つぱのなかで子供が遊んでゐた。見てゐると勝子もまじつてゐた。をとこの子が一人ゐて、なにか荒いあそびをしてゐるらしかつた。

133

勝子が男の子にたふされた。起きたところをまた倒された。今度こんどはぎうぎうおさへつけられてゐる。

134

一体なにをしてゐるのだらう。なんだかひどいことをする。さう思つて峻は目をとめた。

135

それが済むと今度は女の子連中れんぢゆうが−−それは三人だつたが、改札口かいさつぐちへ並ぶやうに男の子の前へ立つた。変な切符きつぷりがはじまつた。女の子の差し出した手を、その男の子がやけに引つ張る。その女の子は地面ぢめんへ叩きつけられる。次の子も手を出す。その手も引つ張られる。倒された子は起きあがつて、またれつの後ろへつく。

136

見てゐるとかうであつた。男の子が手を引つ張る力加減かげんに変化がつく。女の子の方ではその強弱をおつかなびつくりに期待きたいするのが面白いのらしかつた。

137

強く引くのかと思ふと、身体からだつきだけ強さうにしてかるく引張る。すると次はいきなり叩きつけられる。次はまた、手を持つたといふくらゐの軽さでとほす。

138

男の子は小さいくせにどうかすると大人おとなの−−それも木挽こびきとか石工とかの恰好そつくりに見えることのある子で、今もなにか鼻唄はなうたでも歌ひながらやつてゐるやうに見える。そしていかにも得意気とくいげであつた。

139

見てゐるとやはり勝子だけが一番余計よけい強くされてゐるやうに思へた。彼にはそれが悪くとれた。勝子は婉曲ゑんきよくに意地悪されてゐるのだな。−−さう思ふのには、一つは勝子が我儘で、よその子と遊ぶのにも決していい子ヽヽヽにならないからでもあつた。

140

それにしても勝子にはあの不公平ふこうへいがわからないのかな。いや、あれがわからない筈はない。寧ろ勝子にとつては、わかつてはゐながら痩我慢やせがまんを張つてゐるのが本当らしい。

141

そんなに思つてゐるうちにも、勝子はまたこつぴどく叩きつけられた。痩我慢を張つてゐるとすれば、倒された拍子ひやうしに地面と眺めつこをしてゐる時の顔付きは、一たいどんなだらう。−−立ちあがる時にはもうほかの子と同じやうな顔をしてゐるが。

142

よく泣き出さないものだ。

143

男の子が不図した拍子にこの窓を見るかもしれないからと思つて彼は窓のそばを離れなかつた。

144

奥の知れないやうなくもり空のなかを、きらりきらり光りながらよぎつてゆくものがあつた。

145

鳩?

146

雲の色にぼやけてしまつて、姿は見えなかつたが、光の反射はんしやだけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩一流の何処どこあてヽヽがあるともない飛び方でつてゐる。
「あゝあ、勝子のやつ奴、勝手かつて注文ちゆうもんして強くして貰つてゐるのぢやないかな」そんなことがふつと思へた。何時いつか峻が抱きすくめてやつた時、「もつとぎうつと」と何度も抱きすくめさせた。その時のことが思ひ出せたのだつた。さう思へばそれもいかにも勝子のしさうなことだつた。峻は窓を離れて部屋のなかへはひつた。

147

夜、夕飯ゆふはんが済んで暫くしてから、勝子が泣きはじめた。峻は二階でそれを聞いてゐた。しまひにはそれをしづめる姉の声が高くなつて来て、勝子もあたりかまはず泣き立てた。あまり声が大きいので峻は下へおりて行つた。信子が勝子を抱いてゐる。勝子は片手を電燈の真下ましたへ引き寄せられて、針を持つた姉が、てのひらへ針を持つてゆかうとする。
「そとへ行つてとげを立てて来ましたんや。知らんとをつたのが御飯ごはんを食べるとき醤油しやうゆうが染みてな」義母が峻にさう云つた。
「もつとぎうとお出し」姉はおこつてしまつて、邪慳じやけんに掌を引つ張つてゐる。その度に勝子は火の付くやうになきごゑ
を高くする。
「もう知らん、放つといてやる」しまひに姉は掌を振り離してしまつた。
「今は仕様しやうないで、××膏をつけてくくつとかうよ」母が取りなすやうに云つてゐる。信子が薬を出しに行つた。峻は勝子の泣き声に閉口へいこうしてまた二階へあがつた。

148

薬をつけるのに勝子の泣き声はまだしづまらなかつた。
とげはどうせあのとき立てたに違ひない」峻は昼間ひるまのことを思ひ出してゐた。ぴしやつと地面へうつぶせになつた時の勝子の顔はどんなだつたらう、といふ考へがまたよみがへつて来た。
「ひよつとしてあのときの痩我慢を破裂はれつさせてゐるのかも知れない」そんなことを思つて聞いてゐると、その火がつくやうな泣き声が、なにか悲しいもののやうに峻には思へた。




  昼と夜

149

彼は或る日城の傍のがけの陰に立派な井戸があるのを見つけた。

150

そこは昔の士の屋敷跡のやうに思へた。畑とも庭ともつかない地面ぢめんには、梅の老木があつたり南瓜かぼちやが植ゑてあつたり紫蘇しそがあつたりした。城の崖からは太い逞しい喬木や古い椿が緑の衝立ついたてを作つてゐて、井戸はその陰に坐つてゐた。

151

大きな井桁ゐげた、堂々とした石の組みやう、がつしりしてゐて立派であつた。

152

若い女のひとが二人、洗濯物を大盥ですすいでゐた。

153

彼のゐた所からは見えなかつたが、その仕掛しかけはねヽヽ釣瓶つるべになつてゐるらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製もくせいの釣瓶桶に溢れ、樹々の緑がみづ々しく映つてゐる。盥の方の女のひとが待つふりヽヽをすると、釣瓶の方の女のひとは水を空けた。盥の水がをどり出して水玉の虹がたつ。そこへも緑はかげを映して、美しく洗はれた花崗岩くわかうがんの畳石の上を、また女のひとの素足すあしの上を水は豊かに流れる。

154

羨ましい、素晴らしく幸福さうな眺めだつた。涼しさうな緑の衝立の陰。確かに清冽せいれつで豊かな水。なんとなくせられた感じであつた。
  けふは青空よい天気。
  まへの家でも隣でも
  水汲む洗ふ掛ける干す。

155

国定教科書にあつたのか小学唱歌にあつたのか、少年の時に歌つた歌の文句もんくおもひ出された。その言葉には何のたくみも感ぜられなかつたけれど、彼が少年だつた時代、その歌によつていだいたしんヽヽに朗らかな新鮮しんせんな想像が、思ひがけず彼の胸におし寄せた。
  かあかあ烏が鳴いてゆく、
  お寺の屋根へ、お宮の森へ、
  かあかあ烏が鳴いてゆく。

156

それには画がついてゐた。

157

また「四方」とかいふ題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げてゐる図などの記憶きおくが、次つぎ憶ひ出されて来た。

158

国定教科書の肉筆にくひつめいた楷書かいしよ活字くわつじ。また何といふ画家の手に成つたものか、かどのないその字体とかんじのまるで似た、子供といへば円顔の優等生のやうな顔をしてゐるといつたふうの、さし絵のこと。
「何とか権所有ヽヽヽ」それがゴンシヨユウと、人の前では読まなかつたが、心の中で仮に極めて読んでいたこと。そのなんとか権所有ヽヽヽの、これもさう思へば国定教科書に似つかはしい、手紙の文例ぶんれいの宛名のやうな、人の名。そんな奥付の有様ありさままでが憶ひ出された。

159

−−少年の時にはそのの通りのところが何処かにあるやうな気がしてゐた。さうした単純たんじゆんに正直な児が何処かにゐるやうな気がしてゐた。彼にはそんなことが思はれた。

160

それ等はなにかその頃の憧憬どうけいの対象でもあつた。単純で、平明で、健康な世界。−−今その世界が彼の前にある。思ひもかけず、こんな田舎ゐなかの緑樹のかげに、その世界はもつと新鮮な形を具へて存在そんざいしてゐる。

161

そんな固定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が指唆しさされたやうな気がした。

162

−−食つてしまひ度くなるやうな風景に対する愛着と、幼い時の回顧くわいこや新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。また時どき寝られない夜が来た。

163

寝られない夜のあとでは、一寸したことに直ぐ底熱そこあつい昂奮が起きる、その昂奮がやむと道傍でもかまはない直ぐ横になり度いやうな疲労が来る。そんな昂奮はかへでの肌を見てさへ起つた。−−

164

楓樹の肌が冷えてゐた。城の本丸ほんまるの彼が何時も坐るベンチのうしろでであつた。

165

根方に松葉が落ちてゐた。その上をありが清らにつてゐた。

166

冷い楓のはだを見てゐると、ひぜんのやうについてゐるこけ模様もやうが美しく見えた。

167

子供の時の茣蓙遊びの記憶−−殊にその触感が蘇つた。

168

やはり楓の樹の下である。松葉が散つてゐて蟻が匍つてゐる。地面にはでこぼこヽヽヽヽがある。そんな上へ茣蓙を敷いた。
「子供といふものは確かにあの土地のでこぼこヽヽヽヽつめたい茣蓙の下に感じるあしのうらの感覚の快さを知つてゐるものだ。そして茣蓙をくや否や直ぐその上へび込んで、着物ぐるみヽヽヽぢかに地面の上へ転がれる自由じゆうを楽しんだりする」そんなことを思ひながら彼は直ぐにも頬ぺたをかへでの肌につけて冷して見たいやうな衝動しようどうを感じた。
「やはり疲れてゐるのだな」彼は手足がかるく熱を持つてゐるのを知つた。

169

「私はお前にこんなものをやらうと思ふ。
一つはゼリーだ。ちよつとした人の足音あしおとにさへいくつもの波紋はもんが起り、風が吹いて来るとさざなみをたてる。色は海の青色で−−御覧そのなかをいくつも魚が泳いでゐる。
もう一つは窓掛けだ。織物ではあるが秋草あきぐさが茂つてゐるくさむらになつてゐる。またそこには見えないが、色づきかけた銀杏いてふの木がその上には生えてゐる気持。風が来ると草がさわぐ。そして、御覧。尺取虫しやくとりむしが枝から枝を匍つてゐる。
この二つをお前にあげる。まだ出来あがらないから待つてゐるがいい、そしてつまらない時には、ふつと思ひ出して見るがいい。きつと愉快になるから。」

170

彼は或る葉書はがきへそんなことを書いてしまつた、勿論もちろん遊戯ではあつたが。そして此の日頃の昼となし夜となしに、時どきふと感じる気持のむづがゆさを幾分はかせたやうな気がした。夜、静かに寝られないでゐると、空を五位がいて通つた。ふとするとその声が自分の身体からだの何処かでしてゐるやうに思はれることがある。虫の啼く声などもへんに部屋の中でのやうに聞える。「はあ、来るな」と思つてゐるとえたいの知れない気特が起つて来る。−−これは此頃ねむれない夜のおまりのコースであつた。

171

変な気持は、電燈を消し眼をつぶつてゐる彼の眼の前へ、物が盛に運動する気配を感じさせた。尨大ぼうだいなものの気配が見るうちに裏返うらがへつて微塵ほどになる。確かどこかでさはつたことのあるやうな、口へ含んだことのあるやうな運動である、廻転機くわいてんきのやうに絶えず廻つてゐるやうで、寝てゐる自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるやうな気持に直ぐそれが捲き込まれてしまふ。本などを読んでゐると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似てゐる。ひどくなるとしゆの恐怖さへともなつて来て眼をふさいではゐられなくなる。

172

彼は此頃それが妖術えうじゆつが使へさうになる気特だと思ふことがあつた。それはこんな妖術であつた。

173

子供の時、弟としよに寝たりなどすると、彼はよくうつ伏せになつて両手でかきを作りながら(それが牧場の積りであつた)、
「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と云ひながら弟をだました。両手にかこまれて、顔でふたをされた、敷布の上の暗黒あんこくのなかに、さう云へばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだつた。−−彼は今そんなことは本当に可能だといふ気がした。

174

田園、平野、市街、市場、劇場。船著場や海。さういつた広大くわうだいな、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現はれて呉れるといい。そしてそれが今にも見えて来さうだつた。耳にもその騒音さうおんが伝はつて来るやうに思へた。

175

葉書へいたづらがきをした彼の気持も、そのへんてこなむづ痒さから来てゐるのだつた。




  雨

176

八月も終りになつた。

177

信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかつた。指の傷がなほつたので、天理様へお陰に行つて来いと母に云はれ、近所きんじよの人に連れられて、そのおれいも済ませて来た。その人がこの近所では最も熱心ねつしんな信者だつた。
「荷札は?」信子の大きな行李かうりを縛つてやつてゐた兄がさう云つた。
「何を立つて見とるのや」兄がおこつたやうにからかふと、信子は笑ひながらさがしに行つた。
「ないわ」信子がそんなに云つて帰つて来た。
「カフスの古いのでつくつたら………」と彼がふと、兄は、
「いや、まだたくさんあつた筈や。あの抽出ひきだし見たか」信子は見たと云つた。
「勝子がまたしまひ込んどるんやないかいな。ぺん見てみ」兄がそんなに云つて笑つた。勝子は自分の抽出ひきだしへくだらないものまでひろつて来ては蔵ひ込んでゐた。
「荷札ならここや」母がさう云つて、それ見たかといふやうな軽い笑顔をしながら持つて来た。
「やつぱり年寄としよりがをらんとあかんて」兄はそんな情愛じようあいこもつたことを云つた。

178

晩には母が豆をつてゐた。
「峻さん。あんたにこんなのはどうですな」そんなに云つて煎りあげたのを彼の方へ寄せた。
「信子が寄宿舎へ持つて帰るお土産みやげです。一升ほども持つて帰つても、ぢきにぺろつと失くなるのやさうで………」

179

峻が話をきながら豆をんでゐると、裏口で音がして信子が帰つて来た。
「貸して呉れはつたか」
「はあ裏へおいといた」
「雨が降るかも知れんでづつとなかへ引き込んでおいで」
「はあ。引き込んである」
吉峯よしみねさんのをばさんがあしたお帰りですかて………」信子は何かをかしさうに言葉を杜断とぎらせた。
「あしたお帰りですかて?」母が聞きかへした。

180

吉峯さんの小母さんに「何時いつお帰りです。あしたお帰りですか」とかれて、信子が間誤まごついて「ええ、あしたお帰りです」と云つたといふ話だつた。母や彼が笑ふと、信子は少し顔をあかくした。

181

借りて来たのは乳母車だつた。
「明日一番で立つのを、行李かうりせて停車場までおくつててやります」母がそんなに云つてわけを話した。

182

大変だな、と彼は思つてゐた。
「勝子も行くて?」信子が訊くと、
「行くのやと云ふて、今夜は早うからおやすみや」と母が云つた。

183

彼は、朝が早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買つて、先へ手荷物で送つてしまつたらいいと思つて、
「僕、今から持つて行つて来ませうか」と云つて見た。一つには、彼自身体裁屋ヽヽヽなので、年頃としごろの信子の気持を先廻りしたつもりであつた。然し母と信子があまり「かまはない、かまはない」と云ふのであちらまかせにしてしまつた。

184

母と娘とめひが、夏の朝の明方あけがたを三人で、一人は乳母車をおし、一人はいでたちヽヽヽヽをした一人に手をかれ、停車場へ向つてゆく、その出発を彼は心に浮べて見た。美しかつた。
「お互の心の中でさうした出発のたのしさをあてヽヽにしてゐるのぢやなからうか」そして彼は心が清く洗はれるのを感じた。

185

夜はその夜も眠りにくかつた。

186

十二時頃夕立がした。その続きを彼は心待ちにてゐた。

187

暫くするとそれがとほくからまたあゆみ寄つて来る音がした。

188

虫の声が雨の音に変つた。ひとしきりするとそれはまたまちの方へ過ぎて行つた。

189

蚊帳かやをまくつて起きて出、雨戸を一枚つた。

190

城の本丸に電燈が輝いてゐた。雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗ぎよりんのやうな光を放つてゐた。

191

また夕立が来た。彼はしきいの上へ腰をかけ、雨で足を冷した。

192

眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿すがたの若い女が喞筒ぽんぷへ水を汲みに来た。

193

雨の脚が強くなつて、とゆヽヽがごくりごくりのどを鳴らし出した。

194

気がつくと、しろい猫が一匹、よその家の軒下のきしたをわたつて行つた。

195

信子の着物が物干竿にかかつたまま雨の中にあつた。筒袖つつそでの、平常ふだん着てゐたゆかたヽヽヽで彼の一番眼に慣れた着物だつた。そのせゐか、見てゐると不思議な位信子の身体つきが髣髴はうふつとした。

196

夕立はまた町の方へ行つてしまつた。遠くでその音がしてゐる。
「チン、チン」
「チン、チン」

197

鳴きだしたこほろぎの声にまじつて、しつ緻密ちみつな玉を硬度の高い金属ではじくやうな虫もなき出した。

198

彼はまだ熱い額をかんじながら、城をえてもう一つ夕立が来るのを待つてゐた。
(大正十四年二月)





■このファイルについて
標題:城のある町にて
著者:梶井基次郎
本文:「檸檬」(武蔵野書院版)
     精選 名著復刻全集 近代文学館   昭和48年5月20日 発行
参照:「梶井基次郎全集」 第一巻
     1999年11月10日 初版第一刷発行
     発行所 筑摩書房
異同:「梶井基次郎全集」との異同

(武蔵野書院版/筑摩書房版全集)

*1…入道雲[にゆうだうぐも]/[にふだうぐも]
*2…展望[てんぼう]/[てんばう]
*3…北ムロ/北牟婁
*4…瑞々/瑞みづ
*5…教科書/教教書
*6…づつとなかへ/ずつとなかへ
*7…褪赭/代赭
*8…興味[きやうみ]/[きようみ]
*9…入[はい]つた/入[はひ]つた
*10…醤油[しようゆう]/醤油[しやうゆう]
*11…自由[じゆう]/自由[じいう]
*12…銀杏[いてふ]/銀杏[いちやう]
*13…厖大[ぼうだい]/厖大[ばうだい]
*14…情愛[じようあい]/情愛[じやうあい]
*15…閾[しきい]/閾[しきゐ]

表記:原文の表記を尊重しつつ、Webでの読みやすさを考慮して、以下のように扱います。

○誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。
○本文のかなづかいは、底本通りとしました。
○旧字体は、現行の新字体に変えました。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。
○段落番号を追加しました。
○行間処理(行間180%)を行いました。

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2005年6月20日