1 自分が其の道を見つけたのは卯の花の咲く時分であつた。
2 Eの停留所からでも帰る事が出来る。然もM停留所からの距離とさして違はないといふ発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許へ行くのにMからだと大変大廻りになる電車が、Eからだと比較 にならないほど近かつたからだつた。或る日の帰途気まぐれに自分はEで電車を降り、あらましの見当と思ふ方角へ歩いて見た。暫く歩いてゐるうちに、なんだか知つてゐるやうな道へ出て来たわいと思つた気。がついて見ると、それは何時も自分がMの停留所へ歩いてゆく道へつながつて行くところなのであつた。小心翼々と云つたやうなその瞬間までの自分の歩き振りが非道く滑稽に思へた。そして自分は三度に二度と云ふ風にその道を通るやうになつた。
3 Mも終点であつたがこのEも終点であつた。Eから乗るとTで乗換へをする。そのTへゆくまでがMからだとEからの二倍も三倍もの時間がかかるのであつた。電車はEとTとの間を単線で往復してゐる。閑かな線で、発車するまでの間を、車掌がその辺の子供と巫山戯けてゐたり、ポールの向きを変へるのに子供達が引張らせて貰つたりなどしてゐる。事故などは少いでせうと訊くと、いやこれで案外多いのです。往来を走つてゐるのは割合少いものですが、など車掌は云つてゐた。汽車のやうに枕木の上にレールが並べてあつて、踏切などをつけた電車だけの道なのであつた。
4 窓からは線路に沿つた家々の内部が見えた。破屋といふのではないが、とりわけて見ようといふやうな立派な家では勿論なかつた。然し人の家の内部といふものにはなにか心惹かれる風情といつたやうなものが感じられる。窓から外を眺め勝ちな自分は、或る日その沿道に二本のうつぎを見つけた。
5 自分は中学の時使つた粗末な検索表と首つ引で、その時分家の近くの原つぱや雑木林へ卯の花を捜しに行つてゐた。白い花の傍へ行つては検索表と照し合せて見る。箱根うつぎ、梅花うつぎ――似たやうなものはあつてもなかなか本物には打つからなかつた。それが或る日たうとう見つかつた。一度見つかつたとなるとあとからあとからと眼についた。そして花としての印象は寧ろ平凡であつた。――然しその沿道で見た二本のうつぎには、矢張、風情と云つたものが感ぜられた。
6
或る日曜、訪ねて来た友人と市中へ出るのでいつもの阪を登つた。
「此所を登りつめた空地ね、あすこから富士がよく見えたんだよ」と自分は云つた。
7
富士がよく見えたのも立春までであつた。午前は雪に覆はれ陽に輝いた姿が丹沢山の上に見えてゐた。夕方になつて陽が彼方へ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜の空に写すのであつた。
――吾々は「扉を倒にした形」だとか「摺鉢を伏せたやうな形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎてゐる。あの広い裾野を持ち、あの高さを持つた富士の容積、高まりが想像出来、その実感が持てるやうになつたら、――どうだらう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見度がつた、冬の頃の自分の、自然に対して持つた情熱の激しさを、今は振返るやうな気持であつた。
(春先からの徴候が非道くなり、自分は此の頃病的に不活発な気持を持てあましてゐたのだつた。)
「あの辺が競馬場だ。家はこの方角だ」
8
自分は友人と肩を並べて、起伏した丘や、その間に頭を出してゐる赤い屋根や、眼に立つてもくもくして来た緑の群落のパノラマに向き合つてゐた。
「此所から彼方へ廻つてこの方向だ」と自分はEの停留所の方を指して云つた。
「ぢやあの崖を登つて行つて見ないか」
「行けさうだな」
9
自分達は其所からまた一段上の丘へ向つた。草の間に細く赤土が踏みならされてあつて、道路では勿論なかつた。そこを登つて行つた。木立には遮られてはゐるが先程の処よりはもう少し高い眺望があつた。先程の処の地続きは平にならされてテニスコートになつてゐる。軟球を打ち合つてゐる人があつた。――路らしい路ではなかつたがやはり近道だつた。
「遠さうだね」
「彼処に木がこんもり茂つてゐるだらう。あの裏に隠れてゐるんだ」
10 停留所は殆ど近くへ出る間際まで隠されてゐて見えなかつた。またその辺りの地勢や人家の工合では、その近くに電車の終点があらうなどとはちょつと思へなくもあつた。どこか本当の田舎じみた道の感じであつた。
11 ――自分は変なところを歩いてゐるやうだ。何処か他国を歩いてゐる感じだ。――街を歩いてゐてふとそんな気持に捕へられることがある。これから何時もの市中へ出てゆく自分だとはちよつと思へないやうな気持を、自分はかなりその道に馴れたあとまでも、またしても味はふのであつた。
12
閑散な停留所。家々の内部の隙見える沿道。電車のなかで自分は友人に、
「旅情を感じないか」と云つて見た。殻斗科の花や青葉の匂ひに満された密度の濃い空気が、しばらく自分達を包んだ。――その日から自分はまた、その日の獲物だつた崖からの近道を通ふやうになつた。
13 それは或る雨あがりの日のことであつた。午後で、自分は学校の帰途であつた。
14 何時もの道から崖の近道へ入つた自分は、雨あがりで下の赤土が軟くなつてゐることに気がついた。ひとの足跡もついてゐないやうなその路は歩く度少しづつ滑つた。
15 高い方の見晴しへ出た。それからが傾斜である。自分は少し危いぞと思つた。
16 傾斜についてゐる路はもう一層軟かであつた。然し自分は引返さうとも、立留つて考へようともしなかつた。 危ぶみながら下りてゆく。一と足下りかけた瞬間から、既に、自分はきつと滑つて転ぶにちがひないと思つた。 ――途端自分は足を滑らした。片手を泥についてしまつた。然しまだ本気にはなつてゐなかつた。起きあがらうとすると、力を入れた足がまたずるずる滑つて行つた。今度は片肱をつき、尻餅をつき、背中まで地面につけて、やつとその姿勢で身体は止つた。止つた所はもう一つの傾斜へ続く、ちょつと階段の踊り場のやうになつた所であつた。自分は鞄を持つた片手を、鞄のまま泥について恐る恐る立ち上つた。――何時の間にか本気になつてゐた。
17 誰れかが何処かで見てゐやしなかつたかと、自分は眼の下の人家の方を見た。それらの人家から見れば、自分は高みの舞台で一人滑稽な芸当を一所懸命やつてゐるやうに見えるにちがひなかつた。 ――誰れも見てゐなかつた。変な気特であつた。
18 自分の立ち上つたところは稍々安全であつた。然し自分はまだ引返さうともしなかつたし、立留つて考へて見ようともしなかつた。泥に塗れたまゝまた危い一歩を踏出さうとした。とつさの思ひつきで、今度はスキーのやうにして滑下りて見ようと思つた。身体の重心さへ失はなかつたら滑り切れるだらうと思つた。鋲の打つてない靴の底はずるずる赤土の上を滑りはじめた。二間余りの間である。然しその二間余りが尽きてしまつた所は高い石崖の鼻であつた。その下がテニスコートの平地になつてゐる。崖は二間、それぐらゐであつた。若し止まる余裕がなからたら惰力で自分は石垣から飛下りなければならなかつた。然し飛下りるあたりに石があるか材木があるか、それはその石垣の出つ鼻まで行かねば知ることが出来なかつた。非常な速さでその危険が頭に映じた。
19 石垣の鼻のザラザラした肌で靴は自然に止つた。それはなにかが止めて呉れたといふ感じであつた。全く自力を施す術はどこにもなかつた。いくら危険を感じてゐても、滑るに任せ止まるに任せる外はなかつたのだつた。
20 飛下りる心構へをしてゐた脛はその緊張を弛めた。石垣の下にはコートのローラーが転がされてあつた。自分はきよとんとした。
21 何処かで見てゐたひとはなかつたかと、また自分は見廻して見た。垂れ下つた曇空の下に大きな邸の屋根が並んでゐた。然し廓寥として人影はなかつた。あつけない気がした。嘲笑つてゐてもいい、誰れかが自分の今為たことを見てゐて呉れたらと思つた。一瞬間前の鋭い心構へが悲しいものに思ひ返せるのであつた。
22 どうして引返さうとはしなかつたのか。魅せられたやうに滑つて来た自分が恐しかつた。――破滅といふものの一つの姿を見たやうな気がした。なるほどこんなにして滑つて来るのだと思つた。
23 下に降り立つて、草の葉で手や洋服の泥を落しながら、自分は自分がひとりでに亢奮してゐるのを感じた。
24 滑つたといふ今の出来事がなにか夢の中の出来事だつたやうな気がした。変に覚えてゐなかつた。傾斜へ出かかるまでの自分、不意に自分を引摺り込んだ危険、そして今の自分。それはなにか均衡のとれない不自然な連鎖であつた。そんなことは起りはしなかつたと否定するものがあれば自分も信じてしまひさうな気がした。
25 自分、自分の意識といふもの、そして世界といふものが、焦点を外れて泳ぎ出して行くやうな気持に自分は捕へられた。笑つてゐてもかまはない。誰れか見てはゐなかつたかしらと二度目にあたりを見廻したときの廓寥とした淋しさを自分は思ひ出した。
26 帰途、書かないではゐられないと、自分は何故か深く思つた。それが、滑つたことを書かねばゐられないといふ気持か、小説を書くことによつてこの自己を語らないではゐられないといふ気持か、自分には判然しなか つた。恐らくはその両方を思つてゐたのだつた。
27
帰つて鞄を開けて見たら、何処から入つたのか、入りさうにも思へない泥の固りが一つ入つてゐて、本を汚してゐた。
■このファイルについて
標題:路上
著者:梶井基次郎
本文:「檸檬」(武蔵野書院版)
精選 名著復刻全集 近代文学館 昭和48年5月20日 発行
参照:「梶井基次郎全集」 第一巻
1999年11月10日 初版第一刷発行
発行所 筑摩書房
異同:「梶井基次郎全集」との異同
武蔵野書院版/筑摩書房版全集
*1…思つた気。がついて/思つた。気がついて
*2…徴候[ちやうこう]/徴候[ちようこう]
*3…殻斗科[こくとくわ]/殻斗科[かくとくわ]
*4…入[はい]つたのか/入[はひ]つたのか
*5…入[はい]りさう/入[はひ]りさう
*6…入[はい]つてゐて/入[はひ]つてゐて
○誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。
○本文のかなづかいは、底本通りとしました。
○旧字体は、現行の新字体に変えました。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。だだし、新字体に替えなかった漢字もあります。
○段落番号を追加しました。
○行間処理(行間200%)を行いました。
入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2005年7月30日