1 母親がラムプを消して出て来るのを、子供達は父親や祖父と共に、戸外で待つてゐた。
2 誰れ一人の見送りとてない出発であつた。最後の夕餉をしたためた食器。最後の時間まで照してゐたラムプ。 それらは、それらを貰つた八百屋が取りに来る明日の朝まで、空家の中に残されてゐる。
3 灯が消えた。くらやみを背負つて母親が出て来た。五人の幼い子供達。父母。祖母。――賑かな、然し寂しい一行は歩み出した。その時から十余年経つた。
4 その五人の兄弟のなかの一人であつた彼は再びその大都会へ出て来た。其処で彼は学校へ通つた。知らない町ばかりであつた。碁会所。玉突屋。大弓所。珈琲店。下宿。彼はそのせせこましい展望を逃れて郊外へ移つた。其処は偶然にも以前住んだことのある町に近かつた。霜解け、夕凍み、その匂ひには憶えがあつた。
5 ひと月ふた月経つた。日光と散歩に恵まれた彼の生活は、何時の間にか怪しい不協和に陥つてゐた。遠くの父母や兄弟の顔が、これまでになく忌はしい陰を帯びて、彼の心を紊した。電報配達夫が恐ろしかつた。
6 或る朝、彼は日当のいい彼の部屋で座布団を干してゐた。その座布図は彼の幼時からの記憶につながれてゐた。同じ切れ地で夜具が出来てゐたのだつた。――日なたの匂ひを立てながら縞目の古りた座布団が膨れはじめた。彼は眼を瞠つた。如何したのだ。まるで覚えがない。何といふ縞目だ。――そして何といふ旅情……
7 以前住んだ町を歩いて見る日がたうとうやつて来た。彼は道々、町の名前が変つてはゐないかと心配しながら、ひとに道を尋ねた。町はあつた。近づくにつれて心が重くなつた。一軒二軒、昔と変らない家が、新らしい家に挟まれて残つてゐた。はつと胸を衝かれる瞬間があつた。然しその家は違つてゐた。確かに町はその町に違ひなかつた。幼な友達の家が一軒あつた。代が変つて友達の名前になつてゐた。台所から首を出してゐる母らしいひとの眼を彼は避けた。その家が見つかれば道は憶えてゐた。彼はその方へ歩き出した。
8 彼は往来に立ち疎んだ。十三年前の自分が往来を走つてゐる! ―― その子供は何も知らないで、町角を曲つて見えなくなつてしまつた。彼は泪ぐむだ。何といふ旅情だ! それはもう鳴咽に近かつた。
9 或る夜、彼は散歩に出た。そして何時の間にか知らない路を踏み迷つてゐた。それは道も灯もない大きな暗闇であつた。探りながら歩いてゆく足が時どき凹みへ踏み落ちた。それは泣き度くなる瞬間であつた。そして寒さは衣服に染み入つてしまつてゐた。
10 時刻は非常に晩くなつたやうであり、またそんなでもないやうに思へた。路を何処から間違つたのかもはつきりしなかつた。頭はまるで空虚であつた。ただ、寒さだけを覚えた。
11 彼は燐寸の箱を袂から取り出さうとした。腕組みしてゐる手をそのまま、右の手を左の袂へ左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあつた。手では掴んでゐた。然しどちらの手で掴んでゐるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかつた。
12 暗闇に点された火は、また彼の空虚な頭の中に点された火でもあつた。彼は人心地を知つた。 一本の燐寸の火が、焔が消えて炭火になつてからでも、闇に対してどれだけの照力を持つてゐたか、彼ははじめて知つた。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた――
13 突然烈しい音響が野の端から起つた。
14 華々しい光の列が彼の眼の前を過つて行つた。光の波は土を匍つて彼の足もとまで押し寄せた。
15 汽鑵車の烟は火になつてゐた。反射をうけた火夫が赤く動いてゐた。
16 客車。食堂車。寝台車。光と熱と歡語で充たされた列車。
17 激しい車輌の響きが彼の身体に戦慄を伝へた。それははじめ荒々しく彼をやつつけたが、遂には得体の知れない感情を呼び起した。涙が流れ出た。
18
響きは遂に消えてしまつた。そのままの普段着で両親の家へ、急行に乗つて、と彼は涙の中に決心してゐた。
■このファイルについて
標題:過去
著者:梶井基次郎
本文:「檸檬」(武蔵野書院版)
精選 名著復刻全集 近代文学館 昭和48年5月20日 発行
参照:「梶井基次郎全集」 第一巻
1999年11月10日 初版第一刷発行
発行所 筑摩書房
異同:「梶井基次郎全集」との異同
武蔵野書院版/筑摩書房版全集
*1…華々しい/華ばなしい
○誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。
○本文のかなづかいは、底本通りとしました。
○旧字体は、現行の新字体に替えました。だだし、新字体に替えなかった漢字もあります。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。
○段落番号を追加しました。
○行間処理(行間200%)を行いました。
○繰り返し記号の「\/」は用いず、同語反復としました。
入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2005年8月2日