桜に樹の下には

梶井基次郎




1

桜の樹の下には屍体がうづまつてゐる!

2

これは信じていいことなんだよ。何故なぜつて、桜の花があんなにも見事みごとに咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

3

どうして俺が毎晩まいばん家へ帰つて来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、りにつてつぽけなうすつぺらいもの、安全剃刀の刀なんぞが、千里眼のやうに思ひ浮んで来るのかーーーお前はそれがわからないと云つたがーーーそして俺にもやはりそれがわからないのだがーーーそれもこれもやつぱり同じやうなことにちがひない。

4

一体どんな樹の花でも、所謂いはゆる真つ盛りといふ状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気ふんゐきを撒き散らすものだ。それは、よく廻つた独楽こまが完全な静止に澄むやうに、また、音楽の上手な演奏がきまつてなにかの幻覚をともなふやうに、灼熱した生殖の幻覚させる後光のやうなものだ。それは人の心をたずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。

5

しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののやうな気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になつた。しかし、俺はいまやつとわかつた。

6

お前、この爛漫らんまんと咲き乱れてゐる桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まつてゐると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしてゐたかがお前には納得なつとくが行くだらう。

7

馬のやうな屍体、犬猫のやうな屍体、そして人間のやうな屍体、屍体はみな腐爛ふらんしてうじが湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪たんらんな蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちゃくの食絲のやうな毛根をあつめてその液体を吸つてゐる。

8

何があんな花弁を作り、何があんなしべを作つてゐるのか、俺は毛根の吸ひあげる水晶のやうな液が、静かな行列ぎやうれつを作つて、維管束ゐくわんそくのなかを夢のやうにあがつてゆくのが見えるやうだ。

9

ーーお前は何をさう苦しさうな顔をしてゐるのだ。美しい透視術ぢやないか。俺はいまやうやく瞳をゑて桜の花が見られるやうになつたのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になつたのだ。

10

二三日前、俺は、ここのたにへ下りて、石の上を伝ひ歩きしてゐた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽うすばかげらうヽヽヽヽがアフロデイツトのやうにうまれて来て、渓の空をめがけてひ上つてゆくのが見えた。お前も知つてゐるとほり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いてゐると、俺は変なものに出喰でくはした。それは渓の水が乾いたかはらへ、小さい水溜みづたまりを残してゐる、その水のなかだつた。思ひがけない石油を流したやうな光彩が、一面に浮いてゐるのだ。お前はそれを何だつたと思ふ。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげらうの屍体だつたのだ。隙間すきまなく水の面をおほつてゐる、彼等のかさなりあつた翅が、光にちぢれて油のやうな光彩を流してゐるのだ。そこが、産卵さんらんを終つた彼等の墓場だつたのだ。

11

俺はそれを見たとき、胸がかれるやうな気がした。墓場をあばいて屍体をこのむ変質者のやうな惨忍なよろこびを俺は味つた。

12

この渓間たにまではなにも俺をよろこばすものはない。鴬や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせてゐる木の若芽わかめも、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡へいかうがあつて、はじめて俺の心象は明確になつて来る。俺の心は悪鬼のやうに憂鬱に渇いてゐる。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心はなごんで来る。

13

ーーお前はわきの下を拭いてゐるね。冷汗ひやあせが出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のやうだと思つてごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。

14

ああ、桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!

15

一体どこから浮んで来た空想かさつぱり見当けんたうのつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになつて、どんなに頭を振つても離れてゆかうとはしない。

16

今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴しゆえんをひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな気がする。

(昭和二年十二月)






■このファイルについて
標題:桜の樹の下には
著者:梶井基次郎
本文:「檸檬」(武蔵野書院版)
     精選 名著復刻全集 近代文学館   昭和48年5月20日 発行
参照:「梶井基次郎全集」 第一巻
     1999年11月10日 初版第一刷発行
     発行所 筑摩書房
異同:「梶井基次郎全集」との異同

 武蔵野書院版/筑摩書房版全集
*1…かげらう/かげろふ
*2…へいこう/へいかう

表記:原文の表記を尊重しつつ、Webでの読みやすさを考慮して、以下のように扱います。

○誤字・脱字等は訂正せず、底本通りとしました。
○本文のかなづかいは、底本通りとしました。
○旧字体は、現行の新字体に替えました。だだし、新字体に替えなかった漢字もあります。新字体がない場合は、旧字体をそのまま用いました。
○段落番号を追加しました。
○行間処理(行間200%)を行いました。

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2006年4月1日