戸隠山紀行

美妙斎主人


去年の夏信濃国戸隠山に遊び、其日記を書くつもりで居て終に果たさず、思ひ至れば既に今日で殆ど一年、山に対しては紀行を誓つた、それ諸共其日を記臆するため心覚えの中から列ねて、この夏期漫遊を計る人にも人のまた余り行かぬ此山の名勝を知らせる所存、引きつづいて是から暫時此処へのせます。

1

耶馬渓の奇は実見せぬ事とて何とも云へず、妙義の勝は成る程勝、然し戸隠山に比べれば猶規摸の小さい処が恨です。戸隠の名は紅葉狩の故事から縁を引いて今日も人が聞く、聞いてそれで見た人は却て少ない、それには原因も有ること。何を言ふにも信越のほとんど境長野からさへ五里の険阻を越えなけれぼ行かれぬ、是が一つ、それに有名な険阻な山、一度遊んだものが懲懲して驚いて其危険を唱道する、是が一つ、つまりは第一の原因が都城の人足を隔てたわけで、第二が信濃人をさへ威した処です。信濃、而も長野の人で猶戸隠を見ぬ人が頗る有る、それで其険も分かります。長野へ着いた其夕ぐれ、福武氏に逢つて戸隠の話しを聞けば険阻は険阻ながら見る価値は充分あるとの事、福武氏は嘗て一度遊んだ事が有つて山蕎麦の味も忘れられぬとか同行しやうとの言葉、聞く身も勇さみ立ちました。之を人に話すと矢張り長野の柴田氏も賛成しました。けれど三四日間は大雨で出立も出来ず、空しく天を恨むばかり、それでなくとも戸隠は雨の多い山で、道の泥濘は無類との事、まづ白河法皇を極めて空しく日を暮らしてゐました。ときに七月十五日、午後から不思儀に雲切れを見付けた其嬉しさ、まだ晴雨何れとも決せぬものの早晴れた心持ち、前日来の雨で道は嘸かし損じた事と思つたものの夫を顧りみる処でなく、翌日は晴雨に拘はらず、無論濡れるは覚悟、泥布子を着るのは必定、夫ながら朝立ちして向はうと相談一決し、翌朝を契つて其夜は床に付いた物の、目を覚ませば山嵐も点滴とあやまたれて、田の蛙のなく声も雨を呼ぶかと胸はとつおいつ、いつか起されて見ればああ戸隠大明神! 東の嶺の端しらしらと晃めいて、朝霧の薄紗が朝日山の額を包み、風しづかに、空玉子色正に好天気の瑞はあらはれました。朝まだ四時、既に柴田氏に訪はれました。顔を洗つたか、洗はぬかは全く夢中、単衣にくくりつけた高袴、脚半と足袋とで足をしめてそして前夜用意した日和下駄を穿つた打扮は登山に似合はぬ打扮と人は転げて笑ふばかり、生来山越は靴で無ければ下駄、其外は不得手な私、よしや黒鉄の岩角でも踏み砕いて進まうものをと気ばかりは半ば抜けて山へ馳せました。柴田氏は単衣の着流しに脚半草鞋がけ、福武氏も単衣に高袴の脚半草鞋がけ、何も身軽な打扮であつだ。金剛杖にも象る蝙蝠つきたて用意整つていざと計りに出立しました。長野町の人家まだ起きず買ひ立ての樫歯音高く響いて、而も朝開の風もろとも涼しさう、往生寺山に差掛かる内爪先は次第に上つて其谷を経た頃は最早一起一伏すこしも定まらぬ峠となつた、此処を何と聞けば其処に聳えるのが大峯山との事であつました。

2

この大峯山は有名な松茸山で、如何さま見上げた処松といふ木の外には土ばかり、山はざらめいた土で松には適しさう、之を左右に送り迎へての一里ばかりはまことに唯の山、是と言ふ興もなければ是といふ不興もなく、同行三人無駄口を木だまに響かせて罪もない途傍の甘艸又は釣鐘草の花をつまんでむしるばかり、果は高笑ひに驚いて飛び立つ雲雀が二つ三つ。顧りみれば長野にあつて見上げた朝日山やまた今まで高いと思つた大峯山も山途の常、次第に低くなり果てて終には記標に見えた絶頂の松が地平線に噛まれて行く体、夜は充分に明け離れて山の端を隈取る旭日の色もほんのり紅く、此日の天気いよいよ頼もしくなりました。行き行く内に荒安といふ処にかかる、掛つたところで際立つたのは道が楽に為つた事でしました。むかし親鸞上人が大峯山からここまで来る時、道の険阻に弱り果てやうやく荒安まで来て「あら安」と其道の楽になつたのを喜んだと云ふ、それが故事で今日も其処を荒安と名付けたとか、今は−−婦人小供にはやや六かしいものの−−夫程の道でもなく、むかしこのやうで親鸞がさう言つた物ならば実に上人は飛んだ弱虫、三里の灸を勧告しても宜からうと一同が飛んだ空威張。

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道端に一軒ばかり淋しさうに設けた茶店に立ち寄つて見晴らしのいい橡鼻から遠くを望めば今までの山中に引き更へ天がまるで切り開けたやう、山は遠近にうねって思ひ思ひの色、中に一際遠く見える一脈は猶あまたの雪を載せて居る、あれは何山と尋ねれば飛騨の国境との答へ、ああ飛騨が見える処までもう来たかと思はず感じもしました。腰に帯びた望遠鏡を取り出した柴田氏は頻りに吾吾ともども見回はすのを村の小兒が見て羨ましがる、「飛騨の山に蠅が居る」と威して渡せば真面目で望遠鏡の鏡の面にとまつた蠅に欺かれて居るをかしさ。

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休息所を立ち出ていくらも行かぬ内次第次第に天気が悪くなり始め、遠山の根方は切れて居るものの頭の上には雲足が低くなりました。幸ひに涼しさは涼しさ、然し苦労も苦労、聞こえる難所にやがてさし掛つて降られたら何程の不都合でしやう。が、雲足の低れた割りには容易に雨も来ず、冲冲に送られてぽつぽつと足を運びました。路は一起一伏やはり定まらず、而もやうやく一間前後の上り下り、左右は或は林或は谷、人家も折り折り思ひ出したやうに一二軒あるばかり頗る気候は下界と変はつたと見えて時時見える麦畑の麦は猶青味を帯びて、脊も低く、而もそれで苅つてはありませんでした。見るからが変はつた心持ち、道を傍つて流れる渓流の透き徹るまで美しいのに立ち去りかね、はんけちを浸して汗などを拭つてゐる内に落ち合つた二人の男、是も旅よそほひでした。最早人界に遠ざかつて中中に人は恋しく、言葉をかければ先方も応答しました。これら二人は丹波島のものとか、鴬の雛を戸隠山に取りに行くとか、矢張り朝立ちして出て来たのでありました。何を携へるかと思ふと別にそれらしいものも無く、就いて鴬の事を話せばなる程黒人でありました。戸隠には以前鴬が中中沢山であつたところ近頃取り尽して大に少なくなり大によわるとの愚痴、誰が取り尽したと問ひかへせば「私等さ」と言つて呵呵とわらふ其質朴!

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小一里の道を之らと一途にして、一行すべて五人、面白をかしく思はず道を捗取りました。やがて其内林の中に突然と鴬が見えたとか、「それ居た」と言ふより早く二人は林に飛び入ると、さても草の深さ、身は早没して仕舞ひました。心よい田舎の人の道連れもここに無くなりました。人の鯛釣り、見て隙をつぶすのも詰らぬ噺し、其儘袂を分かつて彼是四五町、何と言ふか名は忘れたが山繭など道傍に多く居る、山中の一軒家を遥かに望んで右を迂回し、左をまはり、行き着いて見れば是は如何に、前の二人は既に其処に腰を掛けてゐました。

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最早一日の馴染互に言葉を掛け合つて吾吾も其処に腰を掛け、さて其家を見回すと、何が無し目に人つたのは猟銃でした。猟師かと問へば歯の技けた皺がれ声の老婆が「はい」と答へる、途端見れば見馴れぬ吾吾の姿に寄つて来たのは例の日本種の狐めいた、痩がれた狗、主に猟に用る類でありました。差し出す山茶は色ばかり、よく有る事、烟草盆に取り入れた火は炉の燃えさしで、取るや否や一服つけさせたのを御役済にして直さま消えて仕舞ひました。猟についての事を話かけても兎角老婆の話しも火同様、答へるだけで直ぐ消えるばかり、前の二人の鶯取りとは傍で聞いて更に分からぬ応答を高声で饒舌りました。要するに前の二人は常に鶯を取りに来て、ここの家とも既に入懇、われわれは一足さきに袂を分かちました。この間見るものは山、一つ越せばまた山、空も山で支へられ、地面も山で固めてありました。で、始めてやや珍らしい心持ちのしたのは是からが即ち信濃で有名の原、飯縄が原にかかるのでした。

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程無くも飯縄が原に出て見れば、何さま凄まじい大きな原、一望ただ茫漠と切り開かれて、今までに山中をもぐつた目が俄かに暗いやう、右を見れば例の名高い飯縄山が雪の中に入つて居ました。飯縄の不動と言つて音に聞えた山、即ち是かと見上げれば山も凛然と故さら威儀を正した風情、一面に何の木か隙間もなく、而も造化の手は過不及なく其梢を揃へさせて、評すれば豊富な山、山の形は西角に大襞を絞つて、それで目に立つ山脈も無い事とて屹然として而も三角形に恰好よく峙つて居ました。山の裾からの一回が即ち飯縄ケ原、われわれが過ぎた処は大抵山から一里ばかり離れたのみ、それで山の威厳は猶是程でした。携へたのは双眼鏡、力ても山の木は何か分からず、それが頗る遺憾でしたが、さて其遺憾に附け加へていやな話しと不快とを段段に感じました。いやな話しとはこの辺に山犬(狼の一種)の多いといふ事、及び原の景色がやがて千篇一律になつたことであります。

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近来汽車が開けたから猛獣の類は皆其響きに怯ぢ、深山へ逃げ込んで、其ため従来あまり猛獣に逢はなかつた山にも意外なものが現はれて、この飯縄が原にも折折山犬が出没するとのこと、われわれがここに差し掛かつだのは早や午前八時やや過ぎた頃で、昼間のことゆゑ真逆と思ふ気もありましたがしかし半ばは恐いもの見たさの心も交りました。

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原と言つても中中むかしの武蔵野などのやうではなく小さな岡が高低して居る平地で、二つばかり湖も有りました。原の土は墨のやうな黒土、木らしい木は一本も無く、下生の草は芝ばかり、其外は実のつかぬいちご、又は名も知れぬ濯木ぐらゐのもの、わるく言へば草さへ碌なのは少しも無かつました。土質の悪るさに物も生へず、唯荒蕪に帰して居るのは惜しいものと飛んだ実業家気取りで呟くのは吾ながらをかしな話し、いくら歩いても歩いても飯縄山はやはり右に元の形、原はやはり形も変はらず、もう山が鼻について八重十重に列なる体を見ても名を聞きたくもなく、また聞くものもなく、前後をふり返へれば一面円い天に限られた平たい土盤の上に人間はわれわれ只三人、肺が破ぶれる計に人の事を罵しつても空気の外には聞くものも無く、唯唯満足したのは其サブライムな事!

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此原が戸隠へ旅行する者の最も不快な処です。長野から出て足は早いくらか草臥て来た上に増して長い間変化もない処、同伴でも無ければ欠伸は請合であります。夏でも人の通行は一日何人と言ふ位、十月の初めからは全く雪で埋って、それに飯縄おろしの吹雪は馬をも埋める計り、人跡は全く絶えて、容易ならぬ所用の有る者の外僅に飢え(歴史的仮名遣い:ゑ)た獣類が雪を踏むのみとのことでした。いつとか長野から兇賊が脱走して戸隠山に逃げ込んだ時警官が其跡を追って此原を徒歩で越した事が有つたさうで、雪は三尺も積つて居る内になほどんどん降りしきつてやがて戸隠へ行き着いた頃には烈寒にこらえて足は血がにじんで脹れ上つたとの事です。

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やうやくにして原の果てに当ってささやかな鳥居を認めた時の嬉しさ、其鳥居が即ち戸隠神社のもので、すはや着いたかと躍り立って、さて又聞けば、驚く話し、はるか遠くの雲の中で糢糊として居るのが戸隠山との事、まだまだ里程は遠い事、評すれば鳥居はほんの小供だましの薬菓子、一寸気を賺すだけでした。が、流石に気は勇んだ。ことには天の憐れみか、泣き出しかかつた天気も亦直って雲も稍薄く、折り折りの破れ目から目的の山の中腹を見せた、そこに眸を凝らせば、さても妙絶佳絶鼠色の巉崖絶壁!

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やや催した足の疲れも忘れ果てる計り、既に原をば後に見て山道を左右に迂回し山の位置をここかしこに見かへて、とある人家二軒ばかり有る処に出て、それを見過ぐせば一軒の休息所、直に人って憩ふ間に、無残、乱雲が其処此処に湧いて日影も忽ちかくれ、ねばるやうな雨が降り出しました。

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亭主は世辞のいい、小利口らしい男、而もここは戸隠登山の者のために力餅を売る処とて頻りに之をすすめ、それでも感心に白砂糖をふりかけて出しました。今までの道の寂莫に引き更へて意外なのはここの茶店に糸莚連中が同しく旅よそほひで二十人余も居たことで、聞けば是れは飯山(信濃の北隅)雪の名所最寄の農家のもの、近頃の降り続きに晴れを山神に祈るための登山との趣むき、いづれも力餅の馳走に大口を開いて口中は丸で真白、がやがやわやわや目を眠れば繁華な土地へ出た心持ちもする程でした。

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われわれが腰をかけた処は向つて左の庭めいた処で、屹然と其前に当つて峙つのは全く石質の大磐石、千年の苔蒸して谷水のしたたりが膩を絶やさず、名も知れぬ異草が生へて居ました。はや空気の温度は冷やか、思へば今日は盆の十六日、都下の此頃の暑さと比較すれば猶冷やかと言ふ中に言ひ尽されぬ凄味が山の常とて身に染みました。この雨は霽れるかと亭主に聞けば、いつかは晴れるだらうとの言葉、戸隠は余処が降らぬ時でも降るゆゑ珍らしく無いとの澄した答へ、聞いても聞かぬでも同じ話しでした。

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雨は無論覚悟の事、いざとばかり立ち出ればさあ此度は飽き飽きする道、それから山までは一町毎に町数が記して一里半(?)と石杭の立つてゐましたが、その間は左右いづれも木立ばかり、山も見えなければ雨はびしよつく、道は漸く一間位、中に一筋おのづから石段を刻んだやうに牛の跡が蛇腹についてゐました。石はなし、道は赤土、うつかりすれば辷るあぶなさ、すでにわれわれ三人が実際之を経験しました。左右の林は何処まで奥があるのか、大木に小木、灌木に下草、土目になれて生ひ茂つて蛇がゐるやら蝮がゐるやら、ことに目につくのは樺の木とまた雷火に燃えた大木でした。伊香保から掛けて上州の山にも落雷した木が多いとほり、この辺にも落雷は凄まじい事と見えました。

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談笑の中に向ふにあたつて見える一族の樅の木立、其横にきらつくのは待ちに待つた戸隠の山里でした。折から雨も晴れて雲も少なく、漏れる戸隠山の絶頂を仰げば岩石の様もやや詳らか、谷間に一点見える白いもの、滝か何かと評したのも当推量、よく見定めれば矢張り雪でした。いつか樅の木立に入れば山はもう何処へ行つたか分からず、日影も洩らぬ木下闇、まづ異常なのは身に感ずる山気でした。樅は木立でこそあれ、猛然として雪を突くいかめしさ、山に入るに従がつて山だけの形容が段段ついて来ました。時計を見ればやや午前十一時。     (未完)
     (明治23年7月「以良都女」第62号)


     戸隠山紀行(二)    美妙齋主人

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右の鳥居は一の鳥居とて長野からの登路はここに限ることで、それから力餅を売つて居た処は大久保といふ村いざや山と言ふ処で追分路になり、其処に石が建つて居て「右、中社、左、宝光社」と彫つてありました。中社と言ふのは中院で奥の院へ行くものの経る処、宝光社は一つ山に別に設けた一宇の社でここからも中院へ行けますが、初めて登山するものはまづ中院へ行くのが順路であります。はじめ携さへた絵図によれば此追分から右の道を取つて程なく熊の塔といふ由緒の有るらしい物が有つた趣き、しかし残念な事、見損ないました。右に富士見山といふのを眺めて登る山路、さあ聞いた通り弱り果てました。何しろ途は柔かい赤土、それで果もない大のぼり、自然と足に力が入る、それ丈けに一足下せばぐっと潜りました。曾て碓氷峠を越した時、其道のわるさ馬さへ脛を没する勢には駭いたものの、此処は上信の境で通行も有る処ゆゑと諦めましたが、僻境の戸がくしが斯うあらうとは思ひも付かぬ話し。草桂がけなら辷らずには済まず下駄がけなら脱がずには終らず、私も二三度下駄を吸ひ取られました。唯掛け声ばかり、其くせ、我慢で成るたけよささうな道と撰ぶだけ些しも捗らず、儲けものだか、損耗だか泥染めの足袋が出来ました。やがて引き続く山里、いづれも旧の許多の神官の住ひで、今は何れも登山の人のための旅宿、見たのは其くらゐ、下を向いて足をとられぬ用心するばかり、中社まで行き着いた時は重荷を下したやうな気がしました。

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中社と言ふは思ったよりは大きな規模、而も登山の人が虚弱ででもあれば其上奥社迄猶遥か有る事とて多く此中社限りにして帰る、其為の拝殿ゆゑ其立派なのは山中第一です。社は白木づくりの宏壮な殿堂、他国にも中中珍らしい普請、別に案内者も持ずに見たのみか、而も寺と違って其処此処に塗抹彫刻の飾りが無いために深く目に留る物も無く、只宏壮と感じたのみでしたが、独り二間四方余ばかりの一枚板の天井に描いてあった墨絵の龍、筆者は誰か、兎に角非凡な出来、只夫が目について後で帰京して図らず思ひ出したのは即ち是が暁斎翁の筆であったので、曾て香亭氏の雅談で読みまた同氏からも其由緒を直接に聞いた事も有った、それをさっぱり忘れ果ててしまいました。早く気がついたらと後で悔るといふぬかりの至り。

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中社から直ぐ左にあたって有った社務所は社司久山義男氏の住ひでした。柴田氏は久山氏と懇意な中、柴田氏の案内によって先此社務所に着き、泥足の事とて裏へまはり、其処の下男と顔見合はせて柴田氏が愛嬌のある久し振の挨拶、洗足の水に足を清めて上れば俄かに出るくたびれ。広間二つばかりを過ぎて見晴らしのいい一間に案内されました。時計を見れば正に十二時。食膳を蕎麦と共に言ひ附けると、引き違へて出した菓子は例の越後へ行けば必ある翁飴でした。

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休息して煙草一服、袴を脱ぎ捨て今までの道の事を話しながらつらつら家の建築を見れば何さま昔ししたはれるやうな、一間の木目立った縁側がはるかに走って、小壁の高さは四尺ばかり。摺金の六角形臍附の釘かくしも処処取れては居たものの、ここに衣冠で坐を広く潰しても失策は無ささうな体、見るからが古代に生れた心持が為ました。戸隠山と言へば歴史に縁の深い山、神代記のそもそも始め、天照皇大神が素盞命の暴を憤ってこもられた岩窟は即ちこの戸隠山で、今でもそれゆゑ手力雄命を祀ってあるとの口伝もあり、維茂が此山に分け登って鬼女を退治した紅葉狩の故事もあり(今でも山中に紅葉狩といふ処があります)、また近くは武田信玄が河中島の戦争とかで埓の明かぬため早く勝たせてと此山に祈った事もあり、または佐久間象山翁が軍旗と兵書とを携へて此山に籠った事もあるなど、それや之やを思ひ出せば日本建国の昔しからの二千年間を一時に短め合せて其処に生れ出た心持ち、ことには身の前後左右すべて、古風な物で無いものはないーわが姿をさへ顧みなければ全で明治以前の世の中であっました。

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吾吾の部屋は奥書院で、其前には庭が広く造つてありました。左に当つて峙つ山、其切岸からしたたる滝の点滴が常に雨の音をなして、雨をうれへる吾吾の耳を幾度か欺きました。滝の下流から右へ折れて出来た池水は泥にごりで魚も見えず、流れを受ける事とて絶えず水面は動揺して雲紋を絞りました。水水として居るのは岸の草木ばかり、名の知れぬ草に名の知れぬ木、山蕨、木賊、さまざまな苔などが愛らしく雑生して、ことに驚いたのは菖蒲の茎は有つても莟がやうやく催ほしたと云ふ位な体であつた事です。七月の中旬に菖蒲が咲かぬとは。

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彼是する内持ち運ぶ杯盤、向つて箸を取れば空腹か中中うまい料理、魚は焼くにも煮るにも岩魚ばかり、其他は玉子ばかり、しかし岩魚の煮びたしから塩焼、また茶碗蒸しに至るまで中中深山で得られる物とは思はれぬ計り、特には戸隠固有といふ地瘤とか言ふ菌の一種、それが他国で迚も得られぬ物であつました。地瘤とは形ち土筆の大きなやう、蛇の脊に似た斑があつて其色は薄鼠、口へ入れればぬらついて一寸言へば蓴菜のやう、しかし美味でした。是は地から取つて数時間立つと腐敗して虫になるとか、其ために戸隠より外へ持出す事も出来ず、長野にも亦無い程です。

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地瘤の名は猶人が知りませんが、蕎麦に至つては信濃の人で戸隠の名を知らぬ者は無いくらゐ、東京で更科が其名所と聞いて、さて其の土地へ行つて見れば更科などさしたる方では無いとの事でありました。蕎麦は縦六寸横四寸ばかりの楕円形の竹笊に揃へてならべてあつた、決して東京などのやうに紊れさせては盛らず、奇麗にそろへて。山家の蕎麦には他でも間間この類があります。

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元よりいづれも盛蕎麦で、種物は無く、下地汁の蕎麦に比して劣等なのが殆んど玉に瑕の心持ち、薬味は葱に山葵に乾海苔の揉んだの、是等でしました。福武氏は常からの蕎麦党、柴田氏もゆづらぬ相手、やや冷淡なのが私でありました。やがてぞろぞろざらざら、余所目からは蕎麦の食べ方が一番をかしいものーー鼻息はあらくなる、目はすわつて、そして山葵の涙で一杯になる、一杯二杯と片付けて相手の両雄も頻りにひしめいて居ました。しかし何れも言葉ほどには行かず、強ひる、断はるでしばらくは椚擇、やがて食事も果ててそれから一先休息とて給仕の女が蒲団小夜着など持来たらしたのを幸ひ、しばらく横になりました。

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二時半といふ頃起きて顔を洗ひ、いささか養つた勇気を力にいよいよそれから奥の院まで登らうと決しました。社司の久山義男氏は旅行中で不在、細君が見えたを幸ひ其趣きを話せば眉をひそめて今日の道は御わるうございましやうとの言葉、しかし思ひ立つた矢竹心は中中之でしづまらず、笑つて決心の趣を答へるとそんならと言つて子息に案内させてくれました。また旧のとほりの打扮、裏山を伝はつて山路に就けば何さまこたへたと言はうか、何と言はうか、其路のわるさ、意地わるさ、道といふよりは泥でした。それもいいが山路の常とてすさまじい虻の攻撃、すこしでも油断すれば震るへるばかりに噛まれて跡には残る疼痛と痒み、ぬかつて扇も団扇も忘れて詮無く辛くもはんけちを振るばかり、襟をはらへば足につく、足を逐へば顔に来る、折角少しいい道を見付けても操り人形の真似するやうに手足ふればよろめいて深みへ飛び込むやら、まだまだ雨の無いのがせめても、是で雨に降られたらそれこそ大変、降らなくても虻の用心に安心して八四方を見られず、なる程厄介な山とつくづく思ひ知りました。山はますます登る斗り、いよいよ深く行けば行くほど何処が奥だかわからぬ程、道は左右に林と松ばかり何のながめも無く、やがて次第に行くに従つて山気が凛然と肌にしみて来ました。蓊鬱と茂つてほのぐらくなつたのはまた樅と松との森で、中を通して一条の道が有るばかり、森の奥には雑草や灌木が叢生して人跡はすこしも止めず、処処足を奪ふやうに狂ひ立つて飛び流れる渓流の清さ。道の向ふに当つて見える一構への門、近よつて見れば荒れさびた随神門で、見るから胸にとほる石の榜示杭に「下馬」とばかりに唯一句、将軍の肖像は雨露と時代に剥落してゐたが其剥落が却つて物凄くなつて居ました。空気は最早ひやついて来て、汗は出ても氷のやう、それに深山ほとんど晦冥、ロに言へぬ一種の臭がして、あはれその梢の上に大魔王でもゐるかの心持、少し咳でもすれば木霊の誤らず答へる、いよいよ凄味は加はつて、正にありあり神霊に撲たれるかの迷ひも出るばかりでした。

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戸隠は海面から五千尺の山。既に此下馬から絶頂までは遠くも無い事とて肌には異常な冷気を覚えて来ました。道の困難に津津と湧く汗、それも出るや否や冷汗と変つて、身の内が熱して外が冷え、言ふに言はれぬ心持、のみか山には天狗が棲むとの俗評、いはゆる天狗風が怒号して林立した梢を揉み立てる、橡などの枝葉は脆くも吹き折られて鳥の様に飛ぶ勢ひ、その凄じさ。草も次第に乏しくなり、艶〔欸〕冬、独活など厳寒を物ともせぬのが多く生じて、やがて奥院に近づくに従ひ数十段出来てゐる石段の上に我物顔に生じてゐるのは様様な苔でした。ただ木ばかりは密封して絶頂を示さず、わづかに泄れる処から仰ぎ眺むれば大盤石の屏風を建てたばかり、石段の尽きた処が即ち奥院でした。社殿物凄く寂莫として飾つてある一面の鏡の薄曇りしてゐるのが何やら霊気を帯びたやう、魔風が時を賺さず吹き掛けて注連縄の定まる折も無いくらゐ、之に並んで左にある社は九頭龍神社と呼ぶ建物、九頭の蛇を祀つたものとか、蛇は今でも生きてゐて日日供御する趣きで、見れば社殿は岩窟にさしかけて出来、其前に九枚の土器が有り、蛇が通ふといふ廻廊が些しばかり出来てゐました。素より人を禁じて窟には近づかせず人も此方から眺めるのみですが、窟は三尺余、隠隠と薄暗く為つてありました。
     (明治23年8月「以良都女」第66号)


   戸隠山紀行(三)       美妙齋主人

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両神社から左の手前、さし出た岩角に設けた一構への家は則ち奥社を護る男のゐる処で、すべて岩を土台としまた岩を楯にして、一方社に向つた方は壁が岩、岩の窪みが即ち寵、入口は天日も洩れず殆んど暗夜、音なひの声に立ち出て来たのはくくり袴をどつぷり穿いて惣髪に結つた男でした。やがて客座とも言ふところに案内されて今一人の主の山守が応接しました。

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客座は八畳ばかりの座敷、岩角へさしぬけた一間で欄干が古風についてゐました。岩角の事ゆゑ眺めもいい事、其処で体んで遠近を望めば何がなし、ただ千里両眼の中。

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裏口から絶頂を仰げば、さてもよく峙つた事、只岩石の塊でした。岩は妙義あたりの粘土の様に凝つたやうな物とは違つて全くの石、それで一面用捨なく屹立してゐました。苔が満ちて足はすべる、わづかにある岩間のひびが足の掛け処、手の入れ場所、道の無い処に道を認めるばかりの至り。絶頂は充分に見尽くすには一日かかるといふ広さ、而も我も我もと時つ岩石の種種さまざま。蟻のとわたりといふ道は幅僅に只の五寸。五寸の処が即ち峯の上、左右は底も知れぬ千尋の谷、一歩足をあやまてば身体は微塵です。わづかに有る鉄鋼が命の本、鉄鋼が切れたら身は忽ち谷底の蛇の食ひ物です。ここに至るまでは勇気も火と燃えて、ここで忽ち水と冷めるが常とは誰の心も同じものか?いざや幅五寸の、苔にぬらつく自然の危橋を踏まうといふ処で誰かふるへずに居られましやう。顫へを促がす寒気の残虐、七月の夏が猶冬でした。見なければいいに其処が人情、つひ谷底をすかし見れば乱雲白雪千年のままに残つて珍らしい人間の生物に腮を張つて待つてゐるやう、風さへ烈しく足をとられる、誰が立つて歩けましょう。馬琴が庚中山で現八が石橋をわたる処を叙し、やすやすそれを渡つて現八は全く柔術に長じてゐたよしを書いた、それも流石に思ひ当るこ事です。ここに至つて這はずに居られず、更に安全を索めて道を馬乗りに跨つて擦り行かずに居られず、ここまで攀ぢてくる人すら少ない処、更にここで勇気を挫かれて立帰る人が過半とか、思へば役行者が此処をも経て更に絶頂の最絶頂の剣ケ峯に高足駄の歯を鳴らした恐しさ。蟻のとわたりを渡つて気のむくまま、嶮岨に打ち勝ち打ち勝つてかけ回れば越後の海もはや目に入つて而も信州甲州二国をつらぬいて富士も珍らしく見えるとは!、近く見れば飯縄、黒姫、妙高の諸山、遠く眺めれば越中、飛騨の連山、木曾の山山、われを見ろと言はぬばかり、一剣直ちに天宮を衝くのは鋒先山、一脉急に空を支へるのは御岳山、あちこちに間断なく湧く乱雲の様も種種さまざま。つかれて山の腰にもたれ掛かるのもあり、怒つて大獣の牙を張つて走るのもあり、其間、さても奇絶、塵に染まず、白けた峯の岩角に肩を怒らせて止つてゐた鷲が獲物を見てか、ここの天地を我物がほ、縦横無尽に飛びまはる造化一個の大観! ひるがへつて山の岩を仔細に尋ねれば、白玉の山をなした水晶窟、形ち怒つた獣王に似た獅子窟、天帝窟、大多利窟、仙人窟、大岩殿、歓喜窟、金剛窟、三世窟、威徳窟、猿女窟、不動窟、西窟、長岩殿、三層窟、虚空窟、象が窟、五色窟、大隈窟、小隈窟、中窟、鷲窟、利軍窟、金窟、薬師窟、日中窟、大盤窟、智慧窟、醍醐窟、梯漸窟、そして醍醐窟と薬師窟との間にあるのが天岩屋、すべて岩がすなはち窟、外には仏掌窟などと言ふのも有つて窟の数が大抵三十ばかり、思へばよく斯う揃つた物です。

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ああ山の奇といひ、海の妙といひ、自然は無心で作つたものがよくもかうまで完全なもの、近づいてつらつら見れば岩の色は矢張り鼠、それながら夏の三伏囚人の着る肌着の色とは思はれぬ、さても天地秀霊の気の凝つたもの! 岩角にただずめば千里一瞬の風が耳を擦つて天は何所まで連なる事かまた何所まで高いことか、素晴らしく大きな夕陽が天神の毬を抛つて、余所に配かつ余光は永久不変の天火の彩色り、咽喉わづか三寸、つんざける斗り叫んでも裳を玩ぶ風の囁きには勝てず、目を閉ぢてぢつと観念、金輪を暗黒の皮裏に湧かせても終に消えかかる横雲の鍍金の色にさへ及ばぬーーさても偉人とは何のことか! 曾て太平洋に向つて立つた時、成る程海はこんな物かと坐ろに舌を巻いた、それと同じ心持ち、しかし今比較して考へれば海の大と山の大とは亦違つた所も有りました。思もふに日本の山は富士、富士でもない所で是程に考へるのはやや量の狭い至りながら思ひ切つて切り開けた天に向つた心持は要するに推せる事でしょう。で、比較すれば海の大は快活に近く山の大は威厳に傾いたやう、例すれば海は希臘の神らしく、山は印度の仏めいたやう、浪怒つて天を呑む所は壮なものの、一旦怒りが風と共に消えれば面は嬌羞をうつす鏡を拭つて平和優美、また愉快、之を山の千本の剣はげしく空を刺し、千秋の霊気を凝らして人を睨め下す所に比べて凄まじいのはそもそもどちら?

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さして深い考へが催さぬものの、立ち去るのは殆んど強面いやう、夕暮に促がされて割愛する事となつました。山守は愛嬌のある男、若い時には江戸にも居たとか、ただ吾吾を駭ろかしたのは前に記した飯縄原の鳥居、その建立は殆んど十年前、で、立つた以来まだ一度も其山守は見ぬとのこと、即ち山に起臥して些しも下界を踏まぬ訳、質朴で金銭をむさぼらず、敞衣一枚が千年の裘、床の間に吊したものを何かと言へば冬雪に山が煙つた時の用意に取つて置く独活との事でした。はや足は引ずるやう、やがて打ち連れて中社へ立ち帰る道、いづれも骨は中中折れたが、道で梢などから下る猿尾草など見れば飛び附いたり、下つたり、いよいよ草臥に掛けをしました。中社の久山氏方へは転げ込む、直ちに風呂にころげ込む、透きとほる湯に心気全く恢復して一同休浴を終つてやがて膳に向へば早燈光が点いました。夜は昼とかはつて料理、いづれも佳味でした。が、外に猶一つ珍らしいものが有りました。即ち給仕に出た処女、年は十七八、口重で容易に物を言はず、かざりも無く唐人髷を結んで飛白の単衣と赤勝の帯、質朴な、世にすれぬ気色正にたつぷり、他日清潔な鄙の少女を詩か小説に使ふ時には之に因つても宜ささうな、笑顔を出すのは惜しいと言ふ体、一寸洩らしたと思ふ間にすら見直せば何処へやら、燃焼の早い花火といふ風で、ことに其名はさてもさても、何かと言へば「紅葉」と一言。要するに是は紅葉狩の故事から縁で命じた名、御前が鬼女かと言つてさへ泣き出さうかと危まれる程、
   秋はまだ知らぬ深山の若もみぢ
        いかなる風の色に染むらむ。

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夜の寒さは骨に透つて、中宵目が覚めて廊下へ立ち出れば寝衣一枚なかなか凌ぎ切れず、渓流の音は山風に通ひ分つてーーその筈思へば身は五千尺も上の事。

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朝景色のうるはしさは言葉に尽くされず、久山氏が貸してくれた羽織を引掛けて、ふたたび近処を散歩して富士などをさぐり眺めて立ち帰へつて食事につき、それからはトランプ又花がるた、また第一に志した所蔵の宝物など見ました。宝物は久山氏の家に預る分が長特に三つばかり、故さらに許されて吾吾の自由自在、見張りも何もせず勝手に引き出して自由に見せてくれた久山氏の深切は深く感謝します。実は何処の名所旧跡でも案内が銭を貪つて早口に由緒を説いて人に隔靴の感をいだかせるのは普通の事、此日自由に品に近づいて写すことの出来だのは何よりも仕合はせでした。宝物は多数で数へ切れぬものの、其中での尤物を技けば即ち左の品品でした。
 一  持続天皇御所用犀角御笏(形は後世の笏より小形 切落しも少ない方)
 二  後醍醐天皇宸翰
 三  後陽成院懐紙(歌の題は重陽月詠菊有新花とあり、歌は「うへかへてなをいくあきと契らまし、けふをはじめの白きくの花」但しこの仮名は思ふ所ありて原文の儘にした)
 四  正親町天皇和歌(「みよしのの山の白雪つもるらし、ふる郷さむくなりまさるなり」例の有名の御歌である)
 五  後光厳院歌切
 六  定家郷式紙(たのみてし常盤の山も大空の霞にかすむ世にこそありけれ)
 七  頼政和歌二言(是は取り落として忘れました)
 八  武田信玄願状(上杉に対して勝軍を戸隠山に祈(原文は「所」)つた漢文の願状、年付は永禄元年戊午八月)
 九  西山公書翰
 十  徳川秀忠和歌(題は逢不逢恋「千鳥なく沢辺のちはら風絶えて逢はでぞ帰る有明の月」)
 十一 慈眼大師一行物(長生殿裡富春秋)
 十二 烏丸光広卿百人一首
 十三 兆典司羅漢図二幅
 十四 探幽雪中文珠図
 十五 同人丸像(題歌ほのぼのは守澄親王)
 十六 石川丈山賛堂堂武縒図(画は狩野安重)
 十七 戸隠山紅葉狩絵巻物二巻(画工筆者共に不分明)

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其他には佐久間象山の旗、家綱将軍にはとりの画など一寸珍らしい物が許多、外に刀剣類に至つては凄まじい物が無数でした。

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昼すこし過ぎてから名残をしい山を下りはじめ、宝光社に立寄つたそれからの帰り道はいづれも前日と同様でした。山には種ケ池、涌池などいふ池もある趣でしたが吾吾は見ませんでした。何にしろ、今思ひ出しても其凛然とした姿は目にも逼るああ秀霊の名山! (完)

     (明治23年9月「以良都女」第70号)


■このファイルについて
標題:戸隠山紀行
著者:美妙斎主人
本文:「以良都女」 明治23年7月第62号、8月第66号、9月第70号(復刻版)
表記:原文の表記を尊重しますが、コンピュータで扱える文字に限りがあること、また読みやすさを考慮して、以下のように扱います。

○いわゆる変体仮名は、現行の仮名にかえる。
○「白ごま点」は、現行の読点にかえる。
○漢字は可能な限り現行の字体にかえる。
○本文の仮名づかいは、原文通りとする。
○原文で使われている反復記号は用いず、同語反復で表記する。
○原文の段落冒頭の一字下げは、一行あけに変更する。
○段落ごとに段落番号をつける。
○行間を180%とする。

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2004年5月17日