花の茨、茨の花

美妙齊著



骨は獨逸
         花の茨、茨の花
肉は美妙


(欠落)

1

石も水には摧かれる。牧羊兒の涙の水では番卒の心の石も脆くなり。もがきあらそふ牧羊兒の有様を見ては番卒たちの眼と眼とを互に思はずむかひあった。處へ城の若君からも、思掛ない、その牧羊兒を赦してくれろと云ふ命が来たので番卒の心の石も十分にくだかれた。直に牧羊兒は若君の居間へ導かれたがあまりの嬉しさに身も戰へて、居間へ入つてもよくは口がきけなかった。若君もそれを見て笑掛けた。

2

「さぞ恐かつたらう。けれどもう安心をおしよ。もう何の事もないから。毎でも御前は原へ来て大層面白く笛を吹いて、ね、あたしはそれを此處で聞てどんなに嬉しかつたらう。今日はまア遊んでおいでよ。」

3

無量の愛嬌を笑靨から滴らせて牧羊兒の顔を横から覗込みながら輕くその肩を拍つて細い聲で挨拶した人品の秀れていたことは何ともかとも譬様が無かった。部屋の飾は無論うつくしく、殊に其處は城の三階なので窓からは方々景色がよく見えた。瓶に活けられた迷迭香の匂ひ、壁に掛けられた畫額の奇麗さ、主人の若君のうるわしさ、愛らしさ。右も美、左も美、牧羊兒の眼には何も辷り来なかつた美の外は

4

「本当に一度はあたしも肝をつぶして……危く暗い處へ入れられる處を……ありがたう。」
「あたしは、ね、淋しくて淋しくてならないから、今日は御前も此所で遊んで居ておくれ、種々な事をして遊ぶから。」
「なぜ、こんな奇麗な家にゐて、そして玩弄物やあの額のやうな、好い羊の画を持つてゐて、そしてなぜさみしいの。」
「でもあたしは……あの、ね……御聞きよ、悪い家来があたしの国を取つて、それから今でも、このとほり、此様な吾がまだ見た事もない國の城へあたしを閉籠めてしまつて、ああ故郷、故郷はどの邊だか。いつでも、ねエ、遠くに雲が見える時には「あゝあたしの故郷はあの邊にあるのかしらむ。あの雲をも故郷の人が見てゐるかしれない。あゝ故郷は實にどの方だらうなア。」とばかり思ふのだよ。それだもの子あたしの心が浮立たないのは當然さ。あゝ詰らない話をして……さア是から御前と一途に遊ばう。」

5

あどけないのは小兒の常、牧羊兒は先刻の恐ろしさを最早忘果ててただ珍らしい遊戯に鎔けるやうな顔をしてゐると、城の若君もそのとほり、心の中の愁を立追にして仕舞つた。時の過ぎたのは飛ぶやうで、はや正午が来る、四時が来る、倏忽の間に夕暮の黒幕。「おや日は暮れるのか。」「なアに雲が出たのだらう。」愉快のあまりは御天気の辯護人をもこしらへた。けれど是も目瞬をしはじめれば烏も塒歸の歌を歌つて、証憑不十分とはならなかった。若君は牧羊兒の歸途が淋しくなるだらうと思ふと、色々急立て、「ね、あたしも御前に別れたくはないが、御前の阿母さんや阿父さんが心配するといけないから……だから、明日屹度御出でよ」と百遍もくりかへした。暗誦する程にくりかへした。愛情の濃さは是程で、牧羊兒も其忠告を至當とは思つたが、中々思切れなかった。(入力者注:原文でもこの一文は繰り返されている)愛情の濃さは是程で、牧羊兒も其忠告を至當とは思つたが、中々思切れなかった。終にしかしながら一と先情慾の炎を鎮めて、否、すかして若君にわかれ、門を立出でやうとすると、骸いた、番卒にまた差止められた。「これから御前が死ねまでは決して外ヘは出さないぞ。」

6

つきかへされて牧羊兒も一度は骸いて途胸をついたが、まだ此處で遊んでゐたい心をば山々持つて居るので終にその心の刄がたやすく骸の根や葉を刈盡くして仕舞つた。小兒だけに心と心との戰爭の勝負は早かつた。「城の外へ出られないのならそれこそ願ふてもないことだ。「なア今日はどういふ好い日だらう。立派な城の中にゐて是……から夕飯には、ソレそれ、アノ、甘いものも付くだらう。あゝよだれが出るわ。」

7

元より若君とて牧羊兒と別れたくはなかったのだから、是も平気で遊んでいた。「それなら今夜は遊べるねエ。」「あゝ嬉しい、うれしいな。」やれ骨牌、それ唱歌、さア腕押、おい来た双六。笛をも吹かう、琴をも弾かう、おどりをも跳らう、謎をもかけやう。 「夜は更けた。「跡はあしたの御なぐさみ。」「さあ寐やう。」「おゝ、さ、寐るのも一途にねエ。」

8

此儘で一日二日過ぎた。其内に何やら名の知れぬ病が牧羊兒の心に蠶食して来て、眼の中には父母の姿が見えるやうに、耳の底には父母の聲が聞えるやうになり、または自分の衣物を見ればそれを縫つてくれた母の事も胸にうかみ、母の事も胸に浮かめば、思想の聯絡、父の事も後から直にうかんで来た。絹布の衾は襤褸の臥床を思出したね。銀の洋燈は松明を思出したね。そして番卒にいはれた言葉はいとど身をくるしめた種。

9

「夢ならばさめてくれ、現ならばやぶれてくれ、己の今のありさまが、此處は日外阿母さんが話してくれた魔物の住處ででもあるのかしらむ。どうして己はこんな否な處ヘは来たのだらう。是ぎり家へは帰られないが。大變だなァ。逃出す手段は有るまいか。ても阿母さん……今此はさぞ心配をしてゐて……お父さんも……よく探しに来てくれゝばいいが。何だ、この玩弄物め、たとひ銀で出来てゐやうが、鼈甲で出来てゐやうが、貴様までも憎いワ、此城の物のかたはれだから。此窓から見れば、なア、あんな方までも見える。あの邊がおれの家だらう飛んで行けるなら直に此處からとんで行くが。おゝ犬。犬はまだ向岸にゐて、可哀相に、あら、此方を見て尾を振つてゐるワ。えゝ、吼えてくれるのか。それでも己を見付けてよぶのか。己も其處へは行きたいが、けれど、どうも。えゝ、それ、そんなに孔えて、騒ぐと、堀に堀へはまるぞ。悲しい、なみだがこぼれる。えゝ、ま、身が千切れるやうだ。どうぞ神さま、ど……どうぞ神さま……御願でムいます、どうぞ御助けなさつて、この一疋の牧羊兒を……御願でムいます。あのたほり犬も啼いてをります。是ぎり私が家へ歸られませんければ、此間阿母さんがこしらつてくれると言つた、あの甘まい天麩羅をも私は食べられません。神さま、どうぞ神さま、えゝ、も、神さま。まア兔に角逃路を探して見やう。」

10

それから牧羊兒も此三階を窃と下りやうとしたが、折角なじんだ若君に其儘わかれるのも残惜しいと思つて、若君が今寝てゐる部屋ヘー寸行つて、見ると、さア、大變、若君は死んでゐた。死んでゐた、あの息は絶えて……さア、身体も冷えて……さうさ眽もなくなつて……か哀相に莟の花が開かぬ内、三五の月が昇らぬ前……嵐……雲……無殘、此世の人ではなかった。牧羊兒は腰を抜かすほどおどろいて、それと同時に、嫌疑が自分にかかるかもしれぬと思へばいよいよ恐くて怖ろしくて……片手に回向、片手になみだ……えゝ、も、胸は一層どきどき。大變、足は猶さらぶるぶる、悲しいやら、無残やら、いとをしいやら、こはいやら。「うまく逃路が見附かつてくれればいいが……逃損つたら命はなくなる。どうぞ神さま、私を番卒が見付けませんやうに御守りなさつて下さりませ。あの音は何だ。風か。番卒かと思つた。どうぞ神さま、私を御守りなさつて下さいませ。」

11

牧羊兒の胸には「恐い」、「かなしい」、「神さま」、「番卒」などの専門語がまはり燈籠をやつてゐた。門を閉ぢて色を蒼くした顔の毛細管。腋下と背とに押寄せた冷汗のぼる。切った、息が。かはいた、咽喉が。時はまだ晝中、番卒も寝てはゐず。城は堅固、逃路も容易には見附からず、それこそ馬琴がよくいつた「魯◆般の雲の梯」でもなくては誰が此處から迯出されやうか。それだのにまア牧羊兒は……

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12

「おとつさんと阿母さんもさぞ心配してゐたらうね。やうやく後門の隙をくぐって、さ、私は此處まで逃げて来たのさ。もうもう私はあれには懲々したよ。忘れても以来決してあんなこはい處へ行くまい。さう天麩羅、こしらつて、くれたの。おつと是が。あゝうまい。毒のある料理よりは此方がはるかに旨いわ。あい椅子、あゝ剛気だ。針がはえてゐる金銀の腕掛よりは此方が一層剛気だ。庭の内には牝羊牡羊、是が天然の画額だワ。野原の果には紅の露、是が錦の戸帳だわ。此所は元より陋屋さ。には金もない銀も無い、その代りには劔もない、また錠もない、牢もない。玳瑁の籠よりは楢の小枝を鳥は好く。あゝ花の中の茨。あゝ茨の中の花。        (をはり)。


■このファイルについて
標題:花の茨、茨の花
著者:山田美妙
本文:「我楽多文庫」<活版非売本> 明治21年2月 第十六号(復刻版)
表記:原文の表記を尊重して、可能な限り原文で使用している字体を用いました。表記できない漢字については、新字体になおしました。

○本文の仮名づかいは、原文通りとしました。
○原文で使われている二字の反復記号(/\)は用いず、同語反復で表記しました。
○漢字の反復記号は「々」、かなの反復記号は「ゝ」を用いました。
○段落冒頭の空白は、削除しました。
○本文中◆の箇所は、「夏木立」本文に基づいて変更しました。
○段落番号を追加しました。
○行間処理(行間180%)を行いました。

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2004年7月21日