花の茨、茨の花

                 山田美妙


(ルビなし)

     骨は独逸
     肉は美妙     花の茨、茨の花

1

日はやや水平線の領地を離れた身祝とて六尺ばかりの立木にも四五間の影を貸し、嫩草は春雨に喚出されたのを忘れぬためか、緑の袖に白玉の粧飾を沢山着けて居る、原は廣くてところどころの木立の外、人の目を遮る物を持たず、木立の蔭には島の声が長閑に、清く聞えて居る。原の片側は絶壁で淵の深さはどのくらゐあるか、水色が青く、凄く見える工合ではどうしても浅くは無いやうだ。對岸には苛めしい城が扣へて居て、その城の横顔をば日の光が睨めて居るので白壁の高加索色も此朝は薄い亜米利加印度色で、そして叉窓の眼の玉も眩しさぅに晃めいて居る。天はよく晴亘り、春の癖とて根方が葡萄の濃縹に、末が瓶覗の胡粉藍……すなはち縹の曙染。それを此城は着物として居る。それに此城は包まれて居る。薄紅と薄縹……どうも反映が好い。自然に城も際立つて見える。

2

四方には色々な花も咲いて居て、ただ「これはこれはとばかりうつくしい。花は些しも吝嗇でなく、芳香の分子を絶えず散らして居ると、散らされた分子は、吹くでもなく吹かぬでも無い風の汽車に乗って人の鼻の穴の隧道の中、鼻毛の木立の間を続続と旅行して居る。城の後面にあるのは山の屏風、それに懸かって居るのは瀧の白布。すべての景色の好さ、実物とは思はれねほど位置が整ひ、また画とは見えねほど真に迫つて居る。もし実物ならよほど造化が機嫌の好い時、それを作つたのでもあらう。もし絵なら、金岡か良_ふ_あ_え_るが腕に◆麻痹(しびれ)を切らしてそれを描いたのでもあらう。あア美しい、絵の様で。あア真に迫つて居る、実物の様で。

3

此原へ毎朝欠かさず五六疋の羊と一疋の犬とを連れて来る少年が有る。その平常の食物は酷く佳くも無からうが、顔色ははなはだ艶々しい。笑ふ顔には手で掬へる程な愛敬の露がこぼれて、実に、その人柄は牧羊児に似合はず愛らしい。此牧羊児が毎日原へ羊と犬とを連れて来る時には毎でも笛を吹くのを常習として居るので、一日もやはり例のとほり余念なくそれと吹いて居る。笛の音は十分に澄亘つて渋滞無く舵枕で月を眺めた人の俤までも目に浮かぶほどで、それを聞く人の胸には釘でも打たれるやうに哀が浸亘つた。朝開の風は熱くなく寒くなく、引回らされた霞の幕も有るやうで無いやうで、物の光景が何となく優にやさしく見えた其中で此音が玲朧と響くのだから、それを聞く者の心に起る感情は丁度温い衾の中で針の療治が施されるやうだ。羊は欣んで遠近を跳回り、犬は放心れて尾を振る。牧羊児はますます興に入つて絶壁の角に腰を掛け、なほなほ笛を吹澄ますその風情の麗しいこと画にも画尽くせるものではない。

4

笛の音が響始めるや否や、毎でもも對岸の城の窓が開いて其處から美しい、小さな顔が出る。是も年齢は牧羊児とおなじほどだらうけれど其顔形は猶麗しくて、姫君と見違へられるばかり。多分是は此城の若君ででもあらうが、ただ顔色は浮立つて居ず、さながら心に深い愁が有る様で、その有さまは這方の岸から現然と見える。それで笛の音が響亘つて段段佳境が出て来るときばかり微笑の痕が其眼口の辺に顕れるのは実に一日ばかりの事では無く、毎日毎日かならず左様てあつたから自然牧羊児も我知らす笛に骨を折るやうになると、城の人はまたいよいよ耳を澄まして聞くやうになり、終に此二人の間に早晩親愛の情が出て、はるかに二人が顔を見合はせる時には二人とも必笑を含み終にまた其量が多くなつて互に黙礼をするやうになつた。

5

今は牧羊児の心には不審が出て来た。

6

「どういふ身分の人だらう、あの人は。何でも人質か俘虜だらう。それ、でなければ此處へ出て来る筈だ、あのくらゐ楽しさうに聞いて居るのだものを」。是だけの考が起るや否や、牧羊児はまた何と無く域の人を慕はしく思初めて来たが、何故左様思初めたか、其辺は分解らない、自分ながら。けれど此分解らないのは即小児らしい、あどけない潔白な、可愛らしい處で、実は此牧羊児も「美を好む」の天性には十分に縛られて居るのだ。牧羊児はまだ小児、まだ経験にも乏しいから従つて判断の力も薄い、何が「美」やらよく知らない、それで居ながら「美」を見れば自然に愛する心を起す、すなはち「美」をば知らないで而して「美」に眩むのだ。此例は世に多くある。仝じ裁縫學校に居る女生徒たちの間にも「美」と「美」との引力は必起つて皮膚細の花子は先色白の雪子と交情をよく為始める、先方も側へ寄りたく思へば追方も隣へ行きたくなる。それも二人が二人ながら「美」といふ判断を付けた後、斯う思出すものでは無い。小町だらうが誰だらうが、総角の頃から定まつて是がたしかに美貌だと知つて居るものはない、だから自身の容色が玉を欺き、花を負かすといふ事を最初から知つて居るものではないが、段々年が長けるに従ひ、幾分か判断も出来て来る上に他人の評をも聞込むので、其處で始めて「扨は己は」の自惚神が宿つて来るのだ。是は殊に世間の美しい責婦人たちに経験が有ることだ。

7

牧羊児の胸には不審の子が殖えるばかり、終にこらへかねて、それから、自分の跡を追ふ羊や犬を叱付けて原へそれを残して置き、自分ひとり迂路して程無く対岸に行き、さて城の前へ来て見ると、さア、凄い物具で身を固めた番卒が厳しく其處を守つて居る。其等が這方を見て居る様は何に比へられたら十分だらうか、百鬼夜行の絵巻物が燐素の光に映つて居る様……それでもまだ悉くして居ない。地質学者が言ふ豸類時代に亡者が群集して居る様……それもまだ旨くない。失楽園の魔王たちが天宮を襲ふ会議を開いて居る様……どうもまだ面白くない。兎に角実に凄い。牧羊児は夢にもまだ此様な凄い絵巻物、こんな否な豸類時代、こんな怖い会議をばまだ一度も見なかつたので最酷しく駭いた。胸の動悸はあわて、跳出す。身体は後へ引返る。が、もはや遅かつた。番卒は追蒐けて来た。獅子は直さま羊を掴んだ。

8

「大膽者め、何に来た。大方敵の間諜者で貴様は此虚から若君を盗出しに来たのだらうが……何の其様なに虚啼しても……」

9

言はれた言葉は是ばかり。牧羊児の身体ははや引込まれた、門の中へ。其時の牧羊児の心、それは書かれる迄でも無い。涙の海を泳ぐ眼の玉。酸漿から利足を取る顔色。構はなかつた、それにも、番卒は。実に哀を知らね奴だ。直に此罪も無い牧羊児を入れやうとした、城の牢へ。牧羊児は一生懸命、泣きながら、踠きながら、食付きながら、引掻きながら……けれど舌は塞つて仕舞つて……

10

石も水には摧かれる。牧羊児の涙の来では番卒の心の石も脆くなり、踠争ふ牧羊児の有様を見ては番卒たちの眼と眼とは互に思はず向対つた。處へ城の若君から思掛ない、その牧羊児を赦してくれろと云ふ命が来たので番卒の心の石も十分に摧かれた。直に牧羊児は若君の便室へ導かれたが、あまりの嬉しさに身も戦へて、便室へ入つてもよくは口が利けない。若君もそれを見て笑掛けた、

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「さぞ恐かつたらう。けれど、もう安心を御為よ、もう何の事も無いから。毎でも御前は原へ来て大層面白く笛を吹いて、ね、吾はそれを此處で聞いて、どんなに嬉しかつたらう。今日はまあ遊んでおいでよ」。

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無量の愛嬌を笑靨から滴らぜて、愛らしいのさ、牧羊児の顔を横から覗込みながら軽くその肩を拍つて細い声で挨拶する人品の秀れて居ることは何とも角とも譬様が無い。室の粧飾は無論うつくしく、殊に其處は城の三階なので窓からは方々の景色がよく見え。瓶に活かつて居る迷迭香の薫香、壁に掛かつて居る画額の奇麗さ、主人の若君の麗しさ、愛らしさ、右も美、左も美、牧羊児の眼には何も辷来まなかつた美の外は。

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「本当に一度は余も肝をつぶして……危く暗い處へ入れられる處を……ありがたう」。
「吾は、ね、淋しくて淋しくてならないから、今日は御前も此處で遊んで居ておくれ、種種な事をして遊ぶから」。
「なぜ、こんな奇麗な家に居て、而して玩弄物やあの額のやうな好い羊の絵などを持つて居て、そしてなぜ御前さみしいの」。
「でも吾は……あの、ね……御聞きよ、悪い家来が吾の国を取つて、それから今でも、此通り、此様な、吾がまだ見たこともない国の城へ吾を閉籠めてしまつて……嗚呼故郷……故郷は何の辺だか。毎でも、ねえ、遠くに雲が見える時には『ああ吾の故郷はあの辺に在るのか知らん。あの雲をも故郷の人が見て居るか知れない。嗚呼故郷は実に何の方だらうなア』。とばかり吾は思ふのだよ。それだものを、吾の心が浮立たないのは当前さ。ああ詰らない話をして……さア是から御前と一途に遊ばう」。

14

あどけないのは小児の常、牧羊児は先刻の恐ろしさを最早忘果てて、ただ珍らしい遊戯に鎔けさうな顔をして居ると、城の若君も其とほり、心の中の愁憂を立追にしてしまつた。時の過ぎるのは飛ぶやうで、はや正午が来る四時が来る、倏忽の間に夕暮の黒幕。「おや日は暮れるのか」。「なあに雲が出たのだらう」。愉快のあまりは天気の弁護人をもこしらへる。けれど星も目瞬を為始めれば烏も塒帰の歌を歌つて、◆證凴(しょうひょう)不十分とはならない。若君は牧羊児の帰途が淋しくなるだらうと思つて、色々に牧羊児を急立て、「ね、吾も御前に別れたくはないが、御前の阿母さんや阿父さんが心配するといけないから……だから、また明日屹度御出でよ」百遍も繰返した、暗誦する程に幾度も繰返した。愛情の濃さは是ほどで、牧羊児も其忠告を至当とは思つたが、中々思切れない。終に併しながら一先情慾の炎を鎮めて、否、賺して若君に別れ、門を立出でやうとすると、骸いた、番卒にまた差止められた。「これから御前が死ねまでは決して外ヘは出さないぞ」。

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突返されて牧羊児も一度は骸いて途胸をついたが、まだ此處で遊んで居たい心をば山々持つて居るので、終にその心の刄が容易く「かどろき」の根や葉を刈尽くして仕舞つた。小児だけに心と心との戦争の勝負は早い。「城の外へ出られないなら其れこそ願つでも無いことだ。まあ今日は何ういふ好い日だらう。立派な城の中に居て……是から夕飯には、それ、あのな、甘い物も付くだらう。ああ津液が出るわ」。

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元より若君とて牧羊児と別かれたくは無いのだから、是も平気で遊んで居る」。それなら今夜は遊べるねえ」。「ああ嬉しい、うれしいな」。やれ骨牌、それ唱歌、さあ腕押、おい来た双六、笛をも吹かう、琴をも弾かう、踏舞をもおどらう、謎をも掛けやう。「夜は更けた。「跡は明日の御慰」。「さあ寝やう」。「いいさ、寝るのも一途にねエ」。

17

此儘で一日二日過ぎた。其内に何やら名の知れぬ病が牧羊児の心を蠶食して来て、眼の中には父母の姿が見えるやうに耳の底には父母の声が聞えるやうになり、または自分の衣物を見ればそれを縫つてくれた母の事も胸に浮かみ、母の事が胸に浮かめば、思想の聯絡、父の事も跡から直に浮かんで来てそれで顔色も浮々しなくなつた。絹布の衾は襤褸の臥床 を思出す種、銀のらんぷは松明を思出す種、そして番卒に言はれた言葉はいとど身をくるしめる種。

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「夢ならば覚めてくれ、現ならば破れてくれ、己の今の有様が。此處は阿母さんが日外話してくれた魔物の住處ででもあるか知らん。どうして己は此様な否な處ヘは来たのだらう。是限り家へは帰られないか。大変だなァ。逃出す手段は有るまいか。ても阿母さん……今頃は嘸心配をしてゐて……御父さんも……早く探しに来て呉れれば宜いが。何だ、この玩弄物のたとひ銀で出来て居やうが、鼈甲で出来て居やうが、貴様までも憎いわ、此城の物の一片だから。此窓から見ればなア那んな方までも見える。あの辺が己の家だらう……飛んで行けるなら直に此處から飛んで行くが。おお犬……犬……犬はまだ対岸に居て、可哀相に、あら、此方を見て尾を振つて居るわ。ええ、吼えてくれるのか。それでも己を見付けて呼ぶのか。己も其處へは行きたいが……けれど、どうも。ええ。それ、そんなに吼えて騒ぐと堀へ陥るぞ。悲しい。涙がこぼれる。ええ、ま、身が千切れるやうだ。何うぞ神さま……ど…ど…どうぞ神さま……御願でムいます、どうぞ御助けなさつて、この一疋の牧羊児を…御…御願でムいます。あの通り犬……犬も泣いて居ります。是ぎり私が家へ帰られませんければ、此間阿母さんが拵らへてくれると言つた、あの旨あい天麩羅をも私は食べられません。神さま、どうぞ神さま、ええ、も、神さま。まあ兎に角逃路を探して見やう」。

19

それから牧羊児も此三階を密と下りやうと為たが、折角馴染んだ若君に其儘別かれるのも遺憾と思つて、若君が今寝て居る部屋ヘー寸行つて、見ると、さあ、大変、若君は死んで居る。死んで居る、あの息は絶えて……さあ、身体も冷えて……然うさ、脈も無くなつて……可哀相に莟の花が開かぬ内、三五の月が昇らぬ前……嵐……雲……無残、此世の人ではない。牧羊児は腰を抜かすほど駭いて、それと仝時に、嫌疑が自分にかかるかも知れぬと思へばいよいよ恐くて、怖ろしくて……片手に回向、片手に涙……ええ、も、胸は一層どきどき、大変、兄は猶更ぶるぶる、悲しいやら、無残やら、最惜しいやら、怖いやら。「うまく逃路が見付かつてくれれば宜いが……逃損つたら命は無くなるぞ。どうぞ神さま、私を番卒が見付けませんやうに御護りなさつて下さいませ。あの音は何だ。風か。番卒かと思つた。どうぞ神さま、私を御守りなさつて下さいませ。どうぞ私、神さまを御守りなさつて下さいませ」。

20

牧羊児の胸には「恐い」、「悲しい」、「神さま」、「番卒」などの専門語が走馬燈をやつて居る。門を閉ぢて色を蒼くする顔の毛細管。腋下と背とに押寄せる冷汗の津浪。切れる、息が。乾く、咽喉が。時はまだ昼中、番卒も寝ては居ず、城は堅固、逃路も容易に見付からず、それこそ馬琴がよく言つた「魯般の雲の梯」でも無くては誰が此處から逃出されやうか。それだのにまあ牧羊児は……

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21

「御父さんも御母さんも嘸心配して居たらうね。漸後門の木立の隙を潜つて、さ、私は此處まで逃げて来たのさ。もうもう私は那には懲々したよ。忘れても以来決してあんな怖い處へ行くまい。左様天麩羅、こしらへてくれたの。おつと是か。ああ旨い。毒のある料理よりは此方が遥に旨いわ。あい椅子、ああ剛気だぞ。針が生えて居る金銀の腰掛よりは此方が一層剛気だ。庭の内には牝羊牡羊、是が天然の画額だわ。野原の果には紅の空色、是が錦の帳だわ。此處は素より陋屋さ。には金も無い、銀も無い、その代には剣も無い、また錠も無い、牢も無い。玳瑁の籠よりは楢の小枝を烏は好く。ああ花の中の茨。ああ茨の中の花」。


■このファイルについて
標題:花の茨、茨の花
著者:美妙斎主人
本文:「夏木立」 明治21年8月20日発行(復刻版)
表記:原文の表記を尊重しますが、コンピュータで扱える文字に限りがあること、また読みやすさを考慮して、以下のように扱います。


○漢字は可能な限り現行の字体にかえました。
○本文の仮名づかいは、原文通りとしました。
○原文で使われている反復記号は用いず同語反復で表記しました。
○段落番号を追加しました。
○行間処理(行間180%)を行いました。

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2004年6月25日