徒然草
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷の恐しげなるが、かたへにあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべきことなり。恩愛の道ならでは、かゝる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。
世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻こと なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべきことなり。されば、盗人を縛め、僻ことをのみ罪せんよりは、世の人の饑ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒 の産なき時は、恒の心なし。人、窮まりて盗みす。世治 らずして、凍餒の苦しみあらば、科の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはんこと、不便 のわざなり。
さて、いかゞして人を恵むべきとならば、上の奢り、費す所を止め、民を撫で、農を勧めば、下に利あらんこと、疑ひあるべからず。衣食尋常なる上に僻ことせん人をぞ、真の盗人とは言ふべき。
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変更終了:平成13年10月