徒然草
 

■第百四十二段

心なしと見ゆる者も、よき一言ひとことはいふものなり。ある荒夷あらえびすの恐しげなるが、かたへにあひて、「御子おこはおはすや」と問ひしに、「一人ひとりも持ち侍らず」と答へしかば、「さては、もののあはれは知り給はじ。情なさけなき御心みこころにぞものし給ふらんと、いと恐し。子故ゆヱにこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべきことなり。恩愛おんないの道ならでは、かゝる者の心に、慈悲じひありなんや。孝養けうやうの心なき者も、子持ちてこそ、親のこころざしは思ひ知るなれ。

世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万にへつらひ、望み深きを見て、無下むげに思ひくたすは、僻ことひがこと なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子 さいしのためには、はぢをも忘れ、ぬすみもしつべきことなり。されば、盗人ぬすびといましめ、僻ことをのみ罪せんよりは、世の人のゑず、寒からぬやうに、世をばおこなはまほしきなり。人、つねさんなき時は、恒の心なし。人、きはまりて盗みす。世治をさま らずして、凍餒とうたいの苦しみあらば、とが者絶ゆべからず。人を苦しめ、ほふを犯さしめて、それをつみなはんこと、不便ふびん のわざなり。

さて、いかゞして人をめぐむべきとならば、かみおごり、 つひやす所をめ、民をで、農を勧めば、しもに利あらんこと、疑ひあるべからず。衣食尋常いしよくよのつねなるうへに僻ことせん人をぞ、まことの盗人とは言ふべき。










松田史生氏が作成したテキストファイルを、岡島昭浩氏が手を加え、さらに江口聡氏がHTML化したファイルを以下のように変更しました。

変更箇所
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変更作業:里実福太朗
変更終了:平成13年10月