1
海辺の方ではもう地車の太鼓が鳴つて居る。横町を通る人の足音が常の十倍程もする。子供の声、甲高な女の声などがそれに交つて、朝湯に入つて居る私を早く早くと急き立てるやうに聞えた。此処に近い土蔵の入口に大番頭が立つて、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『真鍮の大の燭台を三組、中を五組、銅の燭台を三組、大大のおらんだの皿を三枚、錦手の皿を三十枚、ぎやまんの皿を百人前、青磁の茶碗を百人前、煙草盆を十個。』
[#ここで字下げ終わり]
と中に入つて居る手代に手びかへを読み聞かせて居る。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『畳二畳敷程の蛸がな、砂の上を這ふてましたのやらう。そうしたら傍に居た娘はんがびつくりしやはつてきやつと云やはりましたで。』
[#ここで字下げ終わり]
『ほんまだすか。』
『真実だすとも、うはばみのやうな鱧もおましたで。』
『まあ、さうだすか。』
井戸端で、昨夜の夜市を見て来た女中が外の女中とこんなことを話して居る。時々思ひ出した様に何処かでこほろぎが鳴く。湯から上ると縁側の蒲筵の上に鏡台が出してあつて、化粧役の別家の娘が眉刷毛を水で絞つて待つて居た。青い楓の枝に構まれた泉水の金魚を見ながら、頸のおしろいを附けて貰つて居ると、近く迄来た地車のきしむ音がした。
2
牡丹に唐獅子竹に虎虎追ふて走しるは和藤内。
こんな歌も聞えて来た、さうすると三つの井戸の金滑車がけたたましい音を立てて、地車の若衆に接待する砂糖水を造るので家の中が忙しくなる。
『旦那様、ありがたう。御寮人様、ありがたう。』[#改行を挿入]
その世話人が四五人家の中へ入つて来て父母に挨拶をした。揃の浴衣に白い縮の股引を穿いて、何々浜と書いた大きい渋団扇で身体をはたはたと叩いて居る姿が目に見える様である。白地の明石縮に着更へると、別家の娘が紅の絽繻珍の帯を矢の字に結んでくれた。塗骨の扇を差した外に桐の箱から糸房の附いた絹団扇を出して手に持たせてくれた。店へ行く廊下を通る時大きい銀の薄のかんざしの鈴が鳴つた。菊菱の紋を白く抜いた水色の麻の幕から日が通つて、金の屏風にきらきらと光つて居た。従兄と兄はその前へ置いた碁盤で五目並べをして居る。将棋盤の廻りには十人程の丁稚が皆集つて居た。花毛氈の上であるから並んだその白足袋が美くしく見える。九谷焼の花瓶に射干と白い夏菊の花を投込に差した。中から大きい虻が飛び出した。紅の毛氈を掛けた欄干の傍へ座ると、青い紐を持つて来て手代が前の幕をかかげてくれた。向ひのおてるさんが待つて居たやうににこやかに目礼した。道の人通りが多いので常のやうに物を云つても聞えさうではない。水色の透矢の長い袂と黒い髪が海から来る風で時々動くのが見えるだけであつた。氷屋が彼方此方で大きい声を出して客を呼んで居る中へ、屋台に吊つて太鼓を叩いて菓子売が来た辻に留つて背の高い男と、それよりも少し年の上のやうな色の黒い女房とが、声を揃へて流行歌を一くさり歌つた。どんどんとその後でまた太鼓を打つた。欄干の前に置いた大きい床机の上で弁当を開く近在の人もある。和歌山の親類の客を迎へに停車場へ行つて居た番頭が真先になつて七八台の車が着いた。絽の紋附の着物を着た裏町の琴の師匠が来た。[#「。」は底本では脱落]和歌山の客は皆奥で湯に入つて居るらしい。杯盤や切ずしを盛つた皿が持つて来られて、父も母も客も丁稚も皆同じやうに店で食事をした。通る地車の数が多くなつて、砂糖水はもう間に合はないで、奉書包みを扇に載せてその世話人達に番頭は配つて、橋の上に立つて大きい目をした張飛だの、加藤清正だのの地車の彫物を和歌山の客は珍しさうに見た。
『とても和歌祭にはかなひまへん。』
と父はその人等に云つて居る。街々の祭提灯に火が入るまでに私は三度程着物を着更へさせられた。行列の太鼓の音がほのかにすると家中の人が皆欄干の処に集る。この家が船であつたなら一方の重味で覆るであらう。猿田彦が通り、美くしく化粧したお稚児が通り、馬に乗つた禰宜が通り、神馬が通り、宮司の馬車が通り、勅使が通り、行列は終になつたが、神輿はまだ大和橋を渡つたとか渡らぬとか群衆が云て居る。黒い波のやうになつて道を通る人は皆南の方を向いて神輿のお旅所の方ヘ行くのである。浜の方からは神輿の迎へに開運丸、住吉丸などと船の名を書いた旗を持つた若者が幾人も幾人も走[#ルビの「はし」はママ]しつて行く、四五町先へ神輿が来た頃から危ながつて道端に居る人が皆店の上へ上つて来る。幾千の弓張提灯の上を神輿が自然で動くやうに見えて四方に懸けた神鏡がきら/\として通つた後二三十分で祭の街は死んだやうに静かになつて、海の風が藻の香を送る。
底本:「精神修養」
1911(明治44)年8月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
※脱落が疑われる、『旦那様、ありがたう。御寮人様、ありがたう。』の後の改行を補いました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
2003年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
■上記ファイルを、里実工房が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
公開:平成16年8月8日