私娼の撲滅について

與謝野晶子




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一木いちき博士を主務大臣とする内務省が突如として私娼絶滅の実行に取掛ったことは最近の奇異な現象である。私はこれについていろいろのことを考えて見た。

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娼婦とは奴隷の一種である。経済上の独立精神と独立能力との麻痺した女が、良心と肉体とを男子に捧げて財物と換えることが娼婦の職業である。

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こういう不徳な職業の起源を尋ねることはむずかしい。それは渺茫びょうぼうとして歴史以前の雲の中に隠れている。だ人類がなにがしかの文明を持つ時代に入って後に発生した現象であることだけは、現に最も素朴な男女関係を保存しているらしく見受けられる或種の土人間に売淫を職業とする女の絶無なのに考えて仮定せられる。

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男には強健な体質を持っている限り、そうして克己的の節制を加えるだけの理性と意志の微弱である限り、一婦との接触に甘心しておられないような性欲の過剰がある。また体質の如何いかんにかかわらず他の新しい婦人との触接に由って享楽しようとする欲望、或学者のいわゆる性欲上の好新欲が男にある。

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女の性欲は概して消極的、受動的である。少くも男のようにやむにやまれないような強烈な自発がない(かようなことは在来の習慣として女の口から述べることをはばかる所であるけれど、私は人間の真実を研究する必要から押切って言おう)。殊に純潔な処女にあっては性欲の肉体的自覚は全く眠っている。異性に誘導されない若い女が性欲に対する好奇心は感じていても、徴兵適齢前の男が早くもその肉体的自覚に悩むような性欲の自燃自爆を見ることは全くない。病的としての特例はあるであろうが、一般の女についてこの性欲の消極性は真実であると私は思う。太抵の若い女は男に比例するだけの性欲を知らずに母となってしまう。そうして妊娠時や産後やにおいてかえって著しく性欲の減退を余儀なくされる。それがためにもまた男は一婦との触接に不足を感じる理由がある。

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この性欲の不平等が概して男を反貞操的たらしめ、女を貞操的たらしめる重要な原因となる。男が一人の愛する女を守るには概して肉体上の苦痛が伴う。少くも理性と意志を以て肉体を制御して性欲を転化するだけの克己的努力を要する。女が一人の愛する男を守るには、精神的にも肉体的にもそれが自然の経過である如く極めて容易である。若い男は性欲に由って自動的に堕落する。若い女は直接自らの性欲に由って堕落することはない。性欲に対する好奇心からも堕落するには到らない。若い女が性的に堕落するのは男の脅迫もしくは誘惑と、女自身の無力、無智、無財産、依頼心、遊惰性ゆうだせいと、女を今日のような弱者の位地に置く社会的事情とがその原因を成すのである。

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男女問題を論ずる多数の識者が、この男女の性欲の不平等を重要な一つの資料として商量しないのは迂濶うかつの甚しいものである。娼婦の問題については特に重点をこれに置いて考えるのでなければ批評の正確を期しがたいであろう。

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娼婦がまだ発生しなかった蒙昧もうまい時代の男は、腕力で多数の女を脅迫して、その強烈な性欲と性欲の好新欲とを満足させていた。それは現に動物界で見るような状態であった。一夫多妻も、一婦多夫も、その様式こそ違え、共に女の性欲的欲求からでなくて、男の性欲的欲求から脅迫的にしからしめた現象であった。この時代の女は性交の一事においてのみ男の暴力に身を任さねばならなかったが、経済的には確かに一個の人として独立していた。女もまた自己の労働に由って自己を生かせて行く人間であった。男と対等に生産的職業を持っていた。男から経済的に扶養せられることがなかった。かえって男との間に生れた子供を男の保護を借らずに養育して行くだけの実力を、女自身の労作に由って備えていた。丁度現に動物の雌が雄の扶養を求めずに自活しているのと同じ状態であった。おのずから一家の戸主は女(母)であった。男は性欲遂行の後に女を見捨てて去り、もしくは女と関係を続けているにしても一人の女の所に留らずに多くの情婦の家を寄食して廻った。

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次の時代に入ると男は暴力を以て女の経済的独立の位地をも奪っていた。もう概して男(父)が家長であった。女は奴隷として男の性欲遂行に奉仕するばかりでなく、奴隷として男のために耕作、紡織、家事、育児等に役立たねばならなかった。女の労働から得る財貨は当然男の所有に帰するのであった。

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そこで良心と肉体とを男に対して売ることを余儀なくせられる二種の女が生じた。第一種は長期の生活の保障を得るために一生を男に託する女、即ちその当時の妻たり妾たる者がそれである。第二種は短期の生活の保障を得るために一夜を男に託して遊楽の器械となる女、即ち娼婦のともがらである。この第二種の女には労働を避けて物質的の奢侈しゃしを得ようとする遊惰性と虚栄心に富んだ女が多く当った。

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その二種の女が後世になって、一は妻及び妾たるその位地を倫理的に――仏教、儒教、神道、武士道が妾を是認した如く――正しいものとして認められ、一は醜業婦として倫理的に排斥せられるに至ったのは、男に便利な妻妾の制度を男が維持する必要からの便宜手段であって、男の倫理的観念が妻及び妾に対等の人権を認めるまでに進歩したからではなかった。男はその独占欲から妻妾の貞操を厳しく監視するにかかわらず、男自身の貞操を尊重しようとはしなかった。妻妾の貞操は偏務的のものであった。そうして男は妻妾以外に娼婦との触接によってその性欲の好新欲を満足させるのであった。

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妻の意義は近代に至って大に変化している。しかし現代の妻たる婦人の中にも、愛情と権利との平等を夫婦の間に必要としないで、なお昔の第一種の売淫婦型に甘んじている者がすくなくない。それらの婦人が自己の醜を忘れて、第二種の売淫婦ばかりを良心の麻痺した堕落婦人であるように侮蔑するのは笑うべきことである。私はそれらの婦人が醜業婦を憎むのを見るたびに、彼らは無意識に商売がたきを憎んでいるのであるという感を禁じ得ない。

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私は娼婦の発生したおもな原因を以上のように推定する。即ち男子の性欲の過剰と好新欲とが第一因となり、女の経済的無力が第二因となって発生したのである。しかし昔から現代に到るまでの間にはこの外いろいろの原因がくわわっている。その重なものをいえば、娼婦の需要者たる男の側に、経済的事情と、年齢の関係と、その他の事情から来る結婚不能者もしくは結婚未能者が多数にある。ここにいう結婚とは妻を迎えて家庭を作ることである。即ち或男は妻を養う財力のないために結婚を避けねばならない。薄給と薄利の職業に従事している男及び無産無職の男はことごとく結婚不能者である。また或男は年齢が若いのと成年の教育を受けていないのとで社会の習慣が結婚を許さない。この意味で多数の学生や兵士の類は結婚未能者である。また経済事情からも年齢関係その他からも結婚は可能でありながら、男女交際の自由が許されない現代において媒妁結婚の不安を感じて結婚を躊躇ちゅうちょしている男があり、媒妁結婚に甘んじるにしてもまだその意味の良縁を得ないで模索している男がある。それらの男も結婚未能者である。こういう結婚不能者と結婚未能者はあながち有妻の男におけるような性欲の過剰と好新欲とからばかりではなく、男の体質として或程度以上に抑制することの困難である性欲の自発から娼婦を必要とするのである。

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また供給者たる女の側にも、女自身の経済的無力もしくは労働を嫌う遊惰心や物質的虚栄心から以外に父兄及び良人の経済的不幸や利欲やの犠牲となり、または悪辣あくらつな売淫周旋業者と売淫業者との巧弁悪計にあざむかれて身を売るというような原因も加っている。

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それから娼婦には更に公娼と私娼の二種がある。そうして一定の場所に集って売淫するものを集娼といい、個々に諸処へ散在して売淫するものを散娼というのであるが、公娼にも巴里パリイのそれのように散娼と集娼とがあり、私娼にも散娼と集娼とがある。

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これらの娼婦が倫理的及び衛生的にその女自身を腐敗させるばかりでなく、倫理的及び衛生的に人類を毒するものであることはいうまでもない。この意味において主張せられる廃娼説の正しいことは何人なんぴとも認める所である。しかし廃娼説を実行に移そうとすると、娼婦の発生するいろいろの原因から先ず絶滅して掛らねばならないことに何人も気が附く。そうしてそれらの原因が現在の文明程度において一朝一夕に絶滅し得られるものでないことを実証的に知る時は、何人も甚だ遺憾ながら娼婦の存在を或程度まで寛仮かんかせねばならないことに一致するのである。

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そこで廃娼説は一転して存娼説となり、存娼説は公娼を存して置くか、私娼を存して置くかの二つに分れる。同時に娼婦の発生するような根本原因を出来るだけ刈除かいじょするために社会組織の改善がますます必要になる。社会組織の改善を眼中に置かない存娼説は在来の素朴な廃娼説と共に最早迂濶うかつの論議たるを免れないように私は思う。

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私は有妻者にして公私の娼婦を買う男の尠くないことを知っている。それらの男の性欲の過剰と好新欲とは、男自身に反省して克己と節制の習慣を作ると共に、その旺盛おうせいな性欲的能力を他の労働もしくは精神的作業に転換するように努力すればその放恣ほうしを防ぎ得るものであろうと私は想像する。一婦を守らずに娼婦に戯れることは男の理性の不明、意志の弛緩しかんとして男みずから恥ずべきことであるのみならず、その妻の愛と貞操を凌辱りょうじょくするものであり、子孫の徳性と健康とを破壊するものである。男にこの事の反省を促すことは学者、教育者、社会改良家の責任であるが、国家もまた法規を設けて或程度までその責任を分って好かろうと思う。この意味から私は近く政府が学生の売淫を取締ろうとする以上に、有妻の男の買淫をも厳しく取締って欲しい。在来は私娼の現行犯を発見した場合に政府はその娼婦を罰して需要者たる男を寛仮した。もし有妻の男の買淫者に限ってその氏名を公示するようにしたなら、それらの男子に対する一種の有効な制裁となるであろう。有妻の男の買淫を制裁することは、娼婦発生の根本原因の一つを刈除することであり、それだけ娼婦の需要者を減じて、娼婦の営業の過半を衰退せしめる所以ゆえんである。内務省が官人と政党との内務省でなくて、現代日本人中の進歩した文明思想を代表しようとする意気のある内務省であるなら、これくらいの英断を行って欲しいものである。

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前述の方法で有妻者の買淫を或程度まで減退させることが出来れば、あとは概して独身男子が娼婦の需要者となる訳である。それらの独身男子の性欲が或程度以上に自制しがたいものであり、また人生に享楽の自由が或程度まで許さるべきものでありとすれば、主としてそれらの男子が娼婦を要求することはやむをえない。不徳であるが寛仮さるべき不徳である。但し人間が人間の肉体を買うという事実が、文明生活の理想にそむいた不徳であり、公衆の間に多大の羞恥を感ずべき行為であることをあくまでもそれらの独身男子と娼婦とに自覚させることは、併せて衛生思想を自覚させると共に緊要である。このことは国民一般が相いましめねばならぬことは勿論であるが、政府にもまた或程度までこれに対する用意があって欲しい。

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ここに到って私は私娼の絶滅を計るよりも先ず公娼の絶滅を計るべきものであると考える。公娼は文字通りに国家の公認した娼婦である。よしや在来の張見世はりみせとやらを撤廃せしめるにしても、その営業組織が余りに公開的であり、露骨であって、人肉を買う男子と、人肉を売る女子とに太切な人間の羞恥心と道徳的情操とを麻痺させる危険が多い。また国家がそれらの醜業を公認し、直接にそれらの売淫営業税を収めて教育その他の国家事業に使用するに到ることはまた国家道徳の矛盾である。また娼婦の国家的公認は、娼婦の存置が人間の弱点と社会組織の不備とから来るやむをえない消極的事情に由るということを忘れて、かえって積極的に必要な公共機関であるように、多数の無智な男女に誤解させる。

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この外になお私が公娼に反対する大きな理由がある。聞く所に由ると、公娼の営業組織は男子に必要以上の金銭を濫費らんぴさせるように出来ているそうである。そういう在来の暴利的習慣は容易に改められるものでない。その点になると私娼は一般に経済的であるといわれる。この事は特に独身男子の経済力のために深く考えねばならないことである。公娼制度が教育上に及ぼす害毒や、その営業者が娼婦を束縛し虐待して人間の自由を蹂躙じゅうりんする悪弊やは今更私がいうまでもない。

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私は未成年男子の買淫もまた有妻者のそれと同じように厳しく政府が防止すべきであると考える。今の家庭と学校当事者の保護のみに任せて置くことは危険である。

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私は公娼よりも私娼を存して置くことにやむをえず寛容を与える者であるが、それには勿論いろいろの条件を附けたい。第一、公衆の目に触れないように場末の地を限って手軽な待合まちあい営業を黙認し、その営業の不徳を自覚せしめて、出来るだけ目立たぬよう隠密にそれを営む心掛を徹底させることが必要である。

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私娼とてもこれを奨励するのでなく、むしろ出来るだけ減少せしめようとするのであるから、政府が売淫周旋業者が悪辣あくらつな手段を用いて純良な処女をあざむき、その意志に反した売淫を行わしめるような行為を防止し、それを犯す者は厳しく罰することも必要である。今日はどん底まで糊口ここうに窮して売淫する悲惨な女はすくない。太抵は労働を避けて些細ささいな物質的贅沢ぜいたくの中に遊惰ゆうだな日送りをしようとすることが動機であるから、政府は世の社会改良家、教育者、慈善家と共に、それらの無智な女に勧めて何らかの正しい労働に服させるような方法を講じ、出来るだけ下層階級の女の堕落を防ぐべきである。

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娼婦に対する検黴けんばい制度の実行が公娼には完全に行れ、私娼には不十分であるという理由はなさそうに想われる。私娼がもし監督の上に不便であるなら、すべて酌婦の名義で届でる手続きを取らせてもよい。私娼の意義が明示されるような名は宜しくない。今日では芸妓も裏面では私娼の事を行う者が多いのであるから、検黴制度を彼らにも及ぼすのが当然である。

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私は内務省が先きに絶滅させる必要のある、そうして絶滅させることの容易な公娼を存して置いて、絶滅させることの難い、そうして存置する方が公娼よりも害毒の露骨でない私娼を撲滅しようとするのを見て、その無駄な努力を惜むよりも、更にその社会的影響の好くないことを想う者である。内務省の真意は公娼を倫理的に公認するのではないのであるが、世の公娼営業者、多数の放恣ほうしな男子及び多数の無智な女子はその意味に解釈しようとするであろう。
[#地より1字上げ](『太陽』一九一六年六月)



底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「我等何を求むるか」天弦堂書房
   1917(大正6)年1月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
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公開:平成16年8月8日