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現在の文部大臣中橋氏はこれまでの伴食大臣とちがって、教育界の現状を憂慮する誠実と、それを改造する意志とを多分に持っておられるように見え、そのうえ、改造を断行する実力をも兼備されているように思われます。私は中橋氏を信頼して、ここに私が平素から希望している教育改造の一端を御参考までに述べたいと思います。
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第一には、教育が国民から孤立していることを改めて頂きたいのです。明治の初年このかた何事も官僚に由って切り盛りされねばならぬ未開時代にあったのですから、教育もまた官僚化したことはやむをえない歴史的過程であったでしょうが、今はもう教育の民主主義化を実現しなければならぬ時機に達していると思います。
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現在の教育は文部大臣と、それに属する官僚的教育者とに由って支配されている教育です。臨時教育会議というような文部大臣の諮詢機関が出来て、官民の間から委員が選ばれることもあるようですが、その実際は真の国民の代表者は参加しておらず、国民の中の特権階級である少数の財閥者がそれもほんの申訳だけに一、二の人たちが加っているに過ぎません。私は司法部の改造を唱える人たちが陪審制度を要望し、それに依って司法部の民主主義化を計ろうとするように、府、県、市、町、村に民選の教育委員を設けて、我国の教育制度を各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任し、これまでの官僚的画一制度を破ると共に、普通高等一切の教育を国民自治の中に発達させて行きたいと思います。
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教育委員としては、その三分の一を教育界の経験家から選挙し、三分の二はすべての階級にわたる家庭にあって現に数人の子女を教育しつつある父母から選挙せねばなりません。こういう家庭教育の経験者――実際に我子の教育に責任を感じている父母――をして国民教育に参加せしめるということは、教育を以て国民の自発的要求たらしめることであり、これに依って教育が国民自身のものとなる事が出来、また今日のように国民が学校教育に冷淡であるというような変態を生じることがなくなるであろうと思います。
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今日は文部省の専制的裁断に屈従した教育です。国民は全くその子女が如何なる理想と手段とに依って教育されているかを知りません。国民に依って討議され承認された教育ではないのです。現に子女を持った家庭の父母にして、その子女が小学初め中学程度の学校において何を学びつつあるかを明確に認識している者が幾人あるでしょうか。彼らはその子女のために最も大切な二つの教育、即ち家庭教育と学校教育とを如何に協同し統一せしむべきかを知らないのは勿論、学校教育に対してその是非を批判する材料さえ持っていないのです。これがどうして国民教育の名に値する教育と呼ぶことが出来ましょう。教育が国民から孤立していると私のいうのはこれがためです。
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学校教育は子女を教育の機械たらしめるものでなく、子女をしてその年頃に必要な一つの生活を創造せしめる事です。その生活は子女自身の生活ですが、教育者は現在の社会生活から得た知識と感情とを以て、それらの子女の生活を輔導し助成する用意がなくてはなりません。しかるに教育ばかりでなく、これまでの教育者もまた国民から孤立しているために、彼らが我国の司法官が非常識であるのと同じく、国民の実際生活について極めて貧弱な経験しか持っていないのです。教育者のこういう欠陥を補うためにも、多数の教育委員を家庭の父母から選挙して官選司法官に対する陪審司法官のように、教育者の協同責任者たらしめる必要があると思います。
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国民の参与を許さない教育であればこそ、今日までのように家庭の父母が学校教育に対して冷淡になっていますが、教育委員として各自治体の教育に参与する権利が多数の父母に容認される暁には、子女の教育に対する国民の自覚が俄かに尖鋭となり、その権利を立派に行使するだけの実力が国民に備わって行くことを私は予断します。こういう風に国民の自発的要求に支持されてこそ初めて国民教育の意義を実現することが出来ると思います。只今のように、学校から父母に対して、時々の参観や学校に対する注意を形式的に求めているに過ぎない間は、決して教育は国民化せず、官僚任せの孤立的教育に停滞するのはやむをえないことだと思います。
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第二に私の希望する改造は、小学及び中学程度の学校における国語科の一大整理です。誰にも気が附く通り、只今の学科の配置では国語が余りに多くの時間を占めています。私は国語を愛重することにおいて、詩人として何人にも譲らない熱情を持っている者であると共に、国語に対する理解についても相応の自信を持っている一人です。私の慎重に考察する所では、国語は国民の意志を表示し合う手段です。既に手段である以上、国民の言語としては、端的に国民の意志を表示することが出来て、それが自由にかつ一般的に使用されるものでなくてはなりません。手段のために主要な意志の表示が不自由になり、迂遠になり、あるいは晦渋になるようでは、決して最上の手段といわれないのです。また出来るだけその手段は誰にも容易に使用されるものであることを必要とし、手段を学ぶために特に多くの心力と時間とを消費せねばならぬというようでは面白くありません。
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国語に対する私のこの見解が承認して頂けるならば、普通教育における国語は専ら口語体のみを課すべきであると思います。口語体は現在の国民の思想感情を最も明確に表示して、命も、血も、熱もこれに打込んだ第一次的の言語であるのですから、すべての子女は早くから家庭でこれに習熟しています。学校においては、それを書きあらわす文字と、少しの口語の規則とを教えさえすれば、子女をそれを鳥の自ら囀るように、楽々として読みかつ書くことが出来るのです。その上すべての読本を口語体で統一すれば、特に国語読本を授ける必要もなくなり、作文も頭に浮んだ第一の思想をそのまま写せば好く、これがために子女及び教師の心力と、授業の時間とをどれだけ多く他の有用な学科に善用し得るか知れません。
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文章体の言語は古代人の言語です。それは決して現代人の精神や感覚を端的に表示し得るものでなく、それを現代に役立てようとすれば、我々は先ずその型を学ばねばなりません。
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また文章体の言語は、今日もなお不完全な日本文典で辛抱しているほどに、科学的に出来上った言語ではなく、直覚を以て感得せねばならぬ所の多い特殊な詩的言語であるのですから、これを現代の国民の実用語とする教育方針がもともと間違っているのです。世間には漢字の廃止を唱える人がありますけれど、漢字は放任して置いても必要なもの以外は次第に行われない傾向を持っていますが、文章語の文法はこれを教育において英断に除外しない限り、永久に国民の意思表示を困難にして、莫大な禍害を国民生活に与えるものだと思います。文章語がどれだけ私たちの意志を曲げたり、稀薄にしたり、勿体ぶらせたり、誇張させたりしているかは説明を要しない事実です。倫理教育において「真実を尊べ」とか「正直に物をいえ」とか教えて置きながら、文章語の読本及び作文においては、反対に、意識して真実から遠ざかった文章を読みかつ綴らせているのです。手段を学ぶために多大の心力と時間とを消費するのも文章語であり、その手段のためにかえって目的の意志表示を不便不自由にするのも文章語であると思います。私のこの意見に反対される人たちは、小学なり、中学なり、女学校なりのいずれかの読本を一読されるなら、立ちどころに承認されるであろうと思います。何事にせよ、旧式に属する手段に多くの崇拝と未練とを持つ国民は、文化的に世界と進歩を競い得る積極主義の国民でないといわねばなりません。
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或人たちは反対していわれるでしょう。文章語は単純なる意志表示の手段ではなく、それには日本国民の貴重なる伝統的精神が含まれている。文章語の廃絶はやがて国民性の廃絶であると。恐らくこれは保守主義者の拠って以て自ら守る有力な反対理由であろうと思います。しかし私は、手段たる言語に依って国民の精神が左右されるものとは考えません。その貴重な伝統的精神は現代人の言語であるところの口語に新訳することが出来ます。現に私たちは和漢の古文を読んだり、その講義を聴いたりする時、もとの古文のままでは受用していず、それを一々現代の言語に意訳して理解しています。日本人の古代精神がすべて『古事記』や『万葉集』の言語に依るのでなければ理解が出来ないというものでない限り、今日にもなお必要だと思う古代精神は、それを自由に現代の口語に新訳して教育すれば好いのです。古文を教えないという事は決して古代精神を教えないという事にはなりません。また古文の教育は大学その他の高等教育機関において特別に施しさえすれば決して反対論者の杞憂のように廃絶するものでないと思います。
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第三に私の注意したい所は、現在の国語読本や修身読本に書かれている口語体が余りに悪文に満ちていることです。どの文章を取って見ても、これが現代語で書かれた立派な文章であると思われるものを発見しません。教科書の文章は必ずしも名文たることを要しないと思いますが、とにかく立派な現代文の標本であって欲しいと思います。果して現代の日本はこんなにみすぼらしい文章を以て標本とせねばならぬほどに文学の進歩が停滞しているでしょうか。私はこの点にも日本の教育が他の社会から孤立していることを悲みます。明治大正の文学者の努力は、前代になかったところの非常に優れた口語体の文章を創造しています。国語教育は、どうしてそれらの最も進歩した現代の溌溂たる国語と協力する所がないのでしょうか。私は現代の進歩した国語と離れて存在し得べき真の国語教育はなかろうと考えます。
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殊に私の不快に思うことは、読本に挿まれた長い詩や唱歌が(昭憲皇后の御製は別として)口語体のも、文章体のも、すべて詩歌としての価値を持っていない事です。散文が既に悪文であるのに、更に一層拙悪野卑な散文の横書きを以て詩歌の名を僭しているのです。我国の伝統的精神を尊重するなら、前代の文学に現れた優雅な国民性をこういう所に細心に発揮して欲しいと思います。明治大正の新しい詩歌に未成品が多いとはいえ、それらの読本にある詩歌よりどれだけ高く真の芸術品となっているか知れません。
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一体に文部省が現代の国語学者を文学者のように誤解しているのが宜しくないと思います。国語読本の編纂に専門の詩人や文学者を除外しているために、こういう粗野な読本が出来上り、これに依って国民の感情教育が非常に退化させられていると思います。私はこの見地から、国語読本や修身読本の国民化を望み、現代の国民的文学者をその編纂に参加させて、完全なる口語体を以て統一的に改修して頂くことを中橋文相に御相談します。(一九一九年四月二十五日)
[#地より1字上げ](『中央公論』一九一九年五月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「激動の中を行く」アルス
1919(大正8)年8月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
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公開:平成16年8月8日