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人類が連帯責任の中に協力して文化主義の生活を建設し、その生活の福祉に均霑することが、人生の最高唯一の理想であると私は信じています。文化生活が或程度の成熟期に入れば、そこには個人の能力に適する正当な社会的分業の生活があるばかりで、只今のように、同じ人類の内に甲と乙とで利害を異にし、甲の幸福のためには乙の幸福を犠牲とせねばならず、従って甲と乙とはその境遇に由って人格価値に優劣を分ち、生活の機会と享楽とに差等を生じる、いわゆる階級思想の如きものは、全く一掃されてしまうでしょう。
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正当な社会的分業ということは、一切の人類が心的及び体的の実力を以て、文化生活の維持と増進とに必要な労作を分担することです。この労作には精神的のものもあり、物質的のものもありますが、前者が高等な労作であり、後者が劣等な労作であるという差別はありません。私は文化生活に役立つ上において等しく相対的の価値を持っているものであると考えます。自己の能力に応じ、自ら認めて受持つ所の分業ですから、何人もその分業に特権を要求する者もなく、また役不足をいう者もありません。これまでは経済的労作を以て精神的労作よりも劣ったもの、もしくは第二次的のものとし、あるいは前者は後者の生活の手段であるという風に卑下して考えていました。私はこの労作のいずれかの一方を欠いた文化生活というものが成立しようとは思いません。文化生活の内容は当然この二つの労作を要素としているものです。二つながら手段でなくて目的です。
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文化主義の生活を実現する社会には、一人としてこの労作の義務を負担しないものはありません。この義務を生存の権利として要求します。何人からも強いられず、何人にも強いず、各自が自発的に権利として要求する所の社会的奉仕です。かくする事に由って、人は互に自己の個人的存在の理由を充実し、生き甲斐のある人生を享楽するのです。
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人類の感情は次第にこの文化主義の実現に向って傾動しています。しかしこれに逆行する反対の利己的感情がまだ多分に残っていますから、最近の大戦のような文化生活の破壊を試みる一大蛮行が突如として発生もしましたが、人は到底野獣の生活に還元されるものでなく、かえってこの大戦から受けた刺戟に由って、世界は一つの大きな自覚を加え、――それはあたかも大火に遭った都会が、その莫大な災厄に由って建築の上にかねて計画していた新しい理想を実現する機会を見出し、都会の面目を一新するように――文化生活の方へ在来の生活を急に躍進させるのに必要な一つの転機を作ったと思います。
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その中にも最も偉大な自覚であると思うのは、民衆が自己の個性の威厳と力量とに、一層顕著に目覚めて来たことです。例えば労働者がその集団を以てすれば、資本家階級に対抗して優に対等の争闘的実力を成立し、久しく従属的奴隷的の階級として資本家の圧迫の下に小くなっていた屈辱的地位から解放される見込があるという確信を持つに到ったことなどは、実に驚くべき民衆の自覚を証明する現象の一つだと思います。
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この現象は、巴里の平和会議において、我国の講和委員たちが「資本家と労働者との関係が世界とはちがった別種の道徳の中に調和されている」と述べた所の我国にも発生して来ました。最近において東京に起った活版職工その他の幾多の同盟罷工は、この現象の外に何を語るでしょうか。
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武力に訴える人類間の闘争は独墺の屈服に由って一段落がついたようですが、望む所の平和はまだ容易にその曙光を示しません。今や武力の闘争に代る貧富の階級闘争が戦前よりも幾多の勢力を以て我国にも押寄せて来ました。
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これまでの労働者が企てた階級闘争は本能的、盲目的のものでした。反射的、ヒステリイ的のものでした。彼らは敵についても、味方についても、その実力を知らず、その要求が一時的の不平に発し、その行動が個人的に偏して、多数の利害を念とする協同作用が欠けていましたから、資本家の慈善主義に感激したり、警察官や軍隊の威圧に挫折したりして、たわいもない結果に終る場合が多かったようですが、最近の同盟罷工には、労働者に知識があり、自制があって、その要求が或程度の合理的基礎を備え、その行動が自制と組織とを持つようになりました。これは労働者の非常な進歩です。こういう聡明なかつ道徳的な労働運動に対しては、第一に一般社会がこれに同情して、隠然と多大の後援を寄せることになります。また資本家も官憲も姑息な圧制手段や温情的方法を以て一時を糊塗することが出来なくなりました。殊に唯今の政府は農民党たる政友会の政府であり、労働者の当の敵たる資本家は固より都市の商工業者ですから、同じ資本家の手先になっている政府とはいえ、憲政会の政府よりは資本家に私する所が露骨でないという事情もあり、また近来の官憲の中の少壮分子は不徹底ながらも民主思想を理解し、世界の労働問題に一隻眼を開いている所から、資本家の極端な利己心に憤慨し、労働者の境遇に同情するという立派な理由もあって、最近の同盟罷工が概ね官憲に由って善意に保護されているのを見ると、これしきの事にも我国においては空前の善政だという感謝の心が湧かずにおられません。
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私は貧富の階級闘争を以て到底一度は避けがたいものだと思っています。それは無産階級にある私たちが、一面には労働者として余りに不当に少く支払われ、一面には消費者として余りに不当に多く支払わされているという日日の経済事情がこれを促進せずに置きません。この事は一に少数の資本家と称する特権階級が、その利己的欲望の発露である資本主義的制度、営利的企業制度に由って私たち無産階級の生活を出来るだけ脅かしている所から発生する不祥な事象です。
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既に階級闘争が避けがたいものであるとすれば、出来るだけ穏和な方法でこれを早く通過してしまうことが聡明な仕方だと思います。これを圧服しようと考えるのは、腸窒扶斯を解熱剤で退治しようとするのと同じ庸劣な処置です。
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しかし私は、今日行れる工場労働者の同盟罷工の如きものが階級闘争の本意であるとは考えません。賃銀の三割や五割の増給を主とする要求は、たとい十割二十割の増給の要求であるにもせよ、それは労働者が資本主義の制度を承認して、その制度の中に瞞着されながら、現代における生活の必需品を最小限度に充用し得る程度の賃銀の支払を要求しているに過ぎないのです。資本制度に隷属している第二次的人間の要求としては正当至極の要求であるのです。それですから少し功利的打算に長じた資本家は比較的容易にその要求を寛容します。
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階級闘争がこういう賃銀の増給のような要求を前衛として起って来る間は、資本家はまだ太平の夢を見ていることが出来ます。労働者が資本家の存在を認めて、賃銀さえ要求通りに支払わるれば、その下風に立って各自の労働力を商品の如くに売買することを辞しないという奴隷的精神が明確に維持されているからです。
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私の考察では、階級闘争という意義は、労働者が全く資本家の支配から解放されて、平等なる人格者として対抗し、これまで資本家が利潤として独占していた剰余価値を――むしろ労働者から掠奪していた剰余価値を――労働者にも公平に分配されることを要求する行動に対して、資本家がこれを拒否することでなくてはなりません。即ち労働者の要求する所が、既定の賃銀の幾割の値上げという類のものではなくて、労働者自身の刻苦の成果である生産価値の余剰、即ち営利事業の利潤の幾割を労働者にも分配せよ、もしくはその利潤の全部を労働者に返還せよという類の要求にまで進まなければ、資本家を向うへ廻しての争闘とはいわれないと思います。
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今日の資本家が利潤において五割七割という配当を行っているのに、労働者が利潤の方面には手を着けず、全く無関心に放任して置いて、その賃銀ばかりの値上を迫っているのは、資本家と対等な人格的独立者としての権利的要求でなくて、徹頭徹尾資本家の隷属として社会的低位にある人間の哀訴的要求であると思います。
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私はこの物価の暴騰時代に、労働者が目前の窮乏を補足する必要から、賃銀の値上を要求することは正当過ぎる要求として勿論同感しますが、しかしこれが前述のように階級闘争の意義に遠いものである所から、この事が少しも無産階級全体の幸福とはならない事を遺憾に思います。賃銀の値上は、その要求に成功したる少数の工場労働者だけに目前の窮乏を救うだけのものです。のみならず、値上げしたる賃銀は資本家の利潤から支払われるものでなくて、資本家はきっとそれだけの増収を製品の価格を値上げすることに由って計ろうとします。例えば活版職工の賃銀の増加はてきめん印刷物の定価の引上を見ずに置きません。そうすれば、資本家と、及びその資本家と賃銀において妥協した少数の労働者とが協力して、製品の価格を不法に吊上げ、大多数の消費者たる無産階級を層一層物価の暴騰に由って苦める結果を生じます。
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例えば私たちのような文筆の職業に就いている者は単独的労働者であって、工場や会社の労働者のように集団的行動を為しがたい者です。労働者は工場労働者ばかりと限らず、私たちと同じような単独無勢力の労働者の方が社会には多いのです。こういう労働者は大挙結束して資本家に迫るだけの威力を持たないのですから、工場労働者が賃銀値上の運動に成功する日にも、依然として不当に少く支払われて、それに我慢していねばならない上に、更に間接に工場労働者の賃銀値上が影響して生活の必需品に対し、一層不当に多く支払わねばならないという二重三重の苦境に立たせられます。同じ労働階級でありながら、その中に、更に特権階級と無特権階級とが併存するという事は、決して正義に合したことだといわれません。今日同盟罷工に成功しつつある工場労働者の中の聡明な人たちがもしこの事に想い到るならば、その自家の行為が同じ階級の中の大多数者の生活を一層困難に導く結果を見て、意外の感に打たれるのみならず、その行為が資本家の行為と纔かに五十歩百歩の差を以て利己的行為たるを免れないことに赤面せねばならないでしょう。
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しかし階級闘争が賃銀の値上を越えて、その本体たる利潤の争奪戦にまで向上する日が遠からず到来するにせよ、そうしてあるいはそれが露西亜の過激派のように、労働階級の勝利に帰する日があるにせよ、私はそれを決して望ましい事だとは考えないのです。それは反動の社会です。極端なる資本家階級の横暴に代えるに、極端なる労働階級の横暴を以てする社会です。私の理想はそういう衡平を失した顛倒生活の外にあります。私がどうせ一度来る階級闘争なら、それをなるべく早く穏和な方法で通過させたいと望むのはこれがためです。
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私は階級闘争を出来るだけ早く緩和する方法として、資本階級の絶滅を計ると共に、労働階級の絶滅をも併せて計る外はないと思います。両階級が対立して存在する限り、いずれかの一方が代って支配者の地位に就くことを要求し、特権を占有する者と第二次的人格者として隷属する者との嫉視争闘の断える機会は永久に来ないでしょう。
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茲に到って、私は本文の初めに述べたような文化主義の理想に由って、人類生活の精神と組織とを根本的に改造する必要を切実に感じます。
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文化主義の社会には、唯だ文化生活の建設に努力し、協力し、貢献する労作者ばかりがあります。資本主義もなければ営利主義もなく、従って資本家と労働者との階級が対立する見苦しい光景もありません。生活に必要な物質財は、その生産を各人の能力に応じて自由に分担すると共に、その分配もまた各人の必要に応じて公平に行れます。生産の唯一の要素は人間の労働力です。土地も、器械も、原料も、資金も、余剰価値も、悉く人間の労働力に附属したものです。資本制度が亡んで営利を目的とする労作が存在しないのですから、利潤の名を以て称すべき性質のものもなく、余剰価値が多く生ずれば、それだけ一般人類の物質的生活が豊富に保障される結果になります。
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資本主義の精神と制度とが勢力を持っている今日において、このような文化生活を翹望することは空中の楼閣にも比すべき幻想として一笑に附せられるでしょう。しかし私は予言します。資本階級も労働階級も、人生の真の平和が愛と正義と平等と自由との中にあることを深省する日が来るなら、資本家はその営利的利己心と、階級的特権と、不労遊惰の悪習とを抛って、その全財産を社会の共有に委すると共に、一般の文化的労作者の間に没入し、労働者もまた資本家に盲従する奴隷心と、乃至資本家に取って代ろうとする利己的支配的欲望とを一擲して、同じく文化的労作者としての一席に就くことを、いずれも自発的に決行するに到るでしょう。資本と労働の協調問題は、こういう風に文化主義の理想を目標として考察しなければ、要するに徹底した解決を発見しがたかろうと思います。(一九二〇年一月)
[#地より1字上げ](『雄弁』一九一九年九月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「女人創造」白水社
1920(大正9)年5月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
青空文庫ファイル:
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公開:平成16年8月8日