遺書

與謝野晶子




     一

1

私にあなたがしてお置きになる遺言と云ふものも、私のしますれも、権威のあるものでないことは一緒だらうと思ひます。ですからこれは覚書です。子供の面倒を見て下さるかたにと思ふのですが、今のところ私の生きて居る限りではあなたを対象として書くより仕方がありません。私は前にも一度こんなものを書きました。もうあれから八年になります。花樹はなき瑞樹みづきの二人が一緒に生れて来る前の私が、身体からだの苦しさ、心細さの日々にち/\に募るばかりの時で、あれを書かなければならなくなつたのだと覚えて居ます。十二月の二十五日の午後から書き初めたのでした。今朝けさ耶蘇降誕祭クリスマス贈物おくりものひかるしげるの二人を喜ばせて、私等二人も楽しい顔をして居たと確か初めには書いたと思つて居ます。その時のも覚書以上の物ではありませんし、たヾ今と同じやうにあなたの見て下さるのに骨の折れないやうにと雑記帳へ書くこともしたのでしたが、今よりは余程瞑想的な頭が土台になつて居ました。あなたのついで結婚をおしになる女性に就いていろ/\なことを書いてありました。数人の名をあげて批判を下したり、私の希望を述べたりしたのでした。思へば思ふ程滑稽な瞑想者でした、私は。瞑想は下らないものとして、あなたに僭上せんじやうを云つたものとして、しかしながらあの時にA子さんやH子さんのことをあなたの相手として考へたやうに、今も四人や五人はそんな人のあつたはうが、この覚書を読んで下さる時のあなたを目にいて見る私にも幸福であるやうに思はれます。あのかたよりさう云ふ人を今のあなたは持つておいでにならない、あのかたは私が見たこともなし、委細くはしい御様子も聞いたことはありませんけれど、近年になりまして私が死んだあとのあなたはどうしてもあのかたの物にならなければならない、私の子を世話して下さる人はあのかたよりないと云ふことがはつきりと、余りにはつきりと私に思はれて来ました。自分の死後の日を見廻す中にも、私はいたましくてその絵の掛つたはうは凝視することが出来ません。私は冷く静かな心になつて居ると思つて居ながら、あなたの苦痛のためにはこれ程の悲しみを感じるのかとみづから呆れます。あのかたはあなたの初恋のかたで、しかも何年か御一緒にお暮しになつたかたで、あなたのためにそののちの十七八年を今日けふまで独居しておいでになるかたであつても、悲しいことにはあなたよりもつとお年上なのでせう。去年あのかたのお国から出ておいでになつた岩城いはきさんが、私等夫婦をもすこしけ広げな間柄であらうとお思ひになつて、あのかたのことをいろ/\とお話しになつた時に、年は自分よりも確か二つ三つ上だと云つておいでになりました。岩城いはきさんはあなたよりまた二つ三つ上なのでせう、であつて見ればあのかたの髪にはもう白い毛が出来て居るでせう、お目の下の皮膚から紫色になつた血がいて見えるでせう。真実ほんたうにあなたはお可哀相かあいさうです。お可哀相かあいさうです。あのかたのことをあなたが私へお話しになつたことはたヾ一度しかありません。結婚して一月ひとつきも経たない時分でした。つまりおたがひに自己の利益などは考へ合はなかつた時だつたのです。ですからあなたは虚心平気でいらつしつた。昔の恋人のためにしみじみとお話しなさいました。けれどその晩を私は一睡もようしないであかしたことを覚えて居ます。

     二

2

あの××県のあなたの兄様にいさんこしらへておいでになる女学校を、神童時代の次の十八九のあなたが教えておいでになる時、其処そこの舎監で、軍人の未亡人の切下げ髪の人とかが、毎夜毎夜提灯をともして遠いあなたの住居すまゐを訪ねて来て、あなたをいどまうとしながら表面うはべでは学校のあの二人の才媛の何方どちらをあなたは未来の妻にしたいと思ふかなどと云ふ話ばかりをして居たと云ふこと、あなたは第一の才媛は容貌きりやうが悪いから厭だ、あの人ならとあのかたのことをお云ひになつたのだと云ふこと、京の北山きたやまの林の中へ鉄砲を持つてはひつて、あのかたと添はれない悲しみに死なうとなすつたこと、それから五六年もしてあなたとあのかたが一緒になつて、女の赤さんを生んで、そしてその子が死んでからお別れになつた時、あのかたは大きい柳行李やなぎがうり充満いつぱいあつたあなたのふみがらをあなたの先生のところへ持つて行つて焼いたと云ふこと、こんなことでした。私が何故なぜ別れるやうになつたのでせうと云ひましたら、赤坊あかんぼうの死んだのが悪かつたのだとあなたは云つておいでになりました。年上の女と恋をするのはどんな気持なものかとも私がお尋ねしましたら、綺麗な人だつたせいか自分は年上とも思はなかつたとあなたはわけなしに云つておいででした。よくあなたや私の知つた人が、年上の女をめとつたり、年下の男のところへ行つたりするのを見て何故なぜああした気になれるだらうとあなたはよく不思議がつておいでになりました。私は何時いつも昔のあなたがお思ひになつたやうにとしと云ふものの目に映つて来ない幸福なに包まれた人達なのであらうと、さう云ふ人達に対しては思つて居るだけなのです。あのかたが何年間かのあなたの心をたくはへた行李かうりけて人に見せ、焼き尽しもした程にくみを見せながらそのあなたの弟や妹に、実姉妹のやうな交際をなほ続けて来て居ることは三四年前まで私は知りませんでした。あなたは私よりもつとあとまでお知りにならなかつたかも知れません。知つておいでになつたかも知れない。あるひはまた西洋においでになる時にも門司もじでお逢ひになつた妹さんの口から何事もあなたへ伝へられなかつたかも知れません。私はおつやさんとあなたのお留守に一月ひとつき程一緒に居ました時、おつやさんは私をくるしめたいのでもなく、なにの気なしによくあのかたのことをめてお聞かせになりました。はげしいヒステリイの起つてゐる時などは、悲しい程にさうでした。あなたの兄上やあによめの君の信用の最も厚い婦人と云ふのはあのかたであるとも聞きました。私が幾人も残してく子供を育てヽ下さるであらうと依頼心をあのかたおこすやうになつたのもおつやさんの言葉がいんになつて居るのです。岩城いはきさんが某氏の後添のちぞひにあのかたを世話しやうかと思ふと云つておいでになつた時に、私は滑稽なことを云ふ人であると思つて笑つたのでしたが、あの時はあなたもそばにおいでになつて、私がさも心から嬉しげに笑つたとはお思ひにならなかつたでせうか、私はあなたのその時の顔をよう見ませんでしたけれど。

3

私は子供のことばかりを書いて置かうと思つたのでしたが、前に書いた遺書のことから云はないでもいいことを書きました。

     三

4

私が今日けふまたこんな物を書いて置かうと思ひましたのは、花樹はなき瑞樹みづきが学校へ草紙代や筆代で四十六銭づヽ持つてかねばならないと云ひまして、前日先生のお云ひになつたことを書いて来た物を持つて来て見せました時、私が居なくてこの子等がこんな物を見せる人がなかつたならと、ふとそんな気がしまして、そんな事などをお頼みする物を書かうと思つたのでした。私は今また遺書ではありませんが、四五年前に死を予想して書いた物のあつたことをふと思ひ出しました。それは私が亡霊になつてうちへ来ることにして書いたものでした。

5

東紅梅町ひがしこうばいちやうのあの家は書斎も客室きやくまも二階にあつたのでした。階下した二室ふたま続いてあつた六畳にわかれて親子は寝て居ました。亡霊の私が出掛けてくのは無論よる夜中よなかなのです。ニコライのドオムに面したはうの窓から私は家の中へはひると云ふのでした。私は何時いつも源氏の講義をした座敷の壁の前に立つて居ました。青玉せいぎよくのやうな光が私の身体からだから出て、水の中の物がだんだんと目に見えて来ると云ふ風に其処等そこらがはつきりとして来ると云ふやうなことは、私が書かうと思つたことではありません。私はやつぱり電気灯のスイツチを廻して座敷の真中まんなかけました。へやの中は隅々まで綺麗になつて居ました。私は昼間階下したの暗いのにいて二階へあがつて来て居る子供等が、紙片かみきれ玩具おもちや欠片かけら一つを落してあつても、
「このきたないのが目に着かんか。」

6

とおにらみ廻しになるあなたの顔が目に見えて身慄みぶるひをすると云ふのです。または自身達のちらして置いたちりでなくても、
「このほこりが目に見えないのか。」

7

と子供等は云はれたであらう、梯子のぼりにだんだんいかりが大きくなつて来るあなたは、しまひには縮緬ちりめんの着物を着た人形でも、銀の喇叭らつぱでも、筆のさやを折るやうにへし折つて縁側から路次へ捨てヽおしまひになるやうなこともあつたに違ひないと思ふと云ふのでした。床の間は何時いつ来て見ても私の生きて居た日に少しの違ひもない品々の並べやうがしてあると云ふのです。だ私の詩集が八冊程花瓶はながめの前へ二つに分けて積まれてあるのだけは近頃からのことであると思ふと云ふのです。本の彼方此方あちこちには白い紙がしおりのやうにしてはさんであると云ふのです。本の上には京の茅野ちのさんの手紙が置いてあるのです。私は全集に就いてして呉れた茅野ちのさんの親切な注意をよく読んで見たいと思ひながら遅くなるからと思つてそれはめると云ふのです。また私は詩集の中がどんな風に整理されてあるのか見たいとも思ふのですが、自分がどうすることも出来ないのであるから仕方がないと諦めます。しかしさう思つてしまへば、子供を見るためにかうして時々この家へ来ると云ふことも同じ無駄なことであらうと苦笑するのです。私の作物さくぶつには生んだ親である自分にもまさつた愛を掛けて呉れる人達がすくなくも幾人かはある。私の分身の子には厳しい父親だけよりない、さうであるからなどヽ恥はづかしい気もありながら思ふのです。最初には気が附かなかつたのですが、柳箱やなぎばこの上に私の写真が一枚置いてあるのです。何処どこかの雑誌社から返しに来たのであらうと思ふと云ふのです。

     四

8

今日けふはもう書斎へははひつて見ないで置かうと私は思ふのです。死ぬ少し前まで一日のうちの八時間は其処そこすごして、悲しいことも嬉しいことも其処そこに居る時の私が最も多く感じたところなんですから、自身の使つて居た机が新刊雑誌の台になつたりして居る変り果てた光景は見たくないからなのです。しか階下したへ降りるには其処そこを通つて梯子口へ出なければならないと思つて、また自分は亡霊であるから梯子段などは要らないと非常に得意な気分になつて、階下したへすつと抜けてはひるのです。

9

子供の寝部屋には以前の二燭光よりは余程明るい電気灯がけられてあるのです。子供は淋しがらせたくないあなたの心持を私は嬉しく思ふのです。ところでね、蚊帳かやの中には寝床が三つよりない、ひかるしげると、それから女の子が一人より居ません。亡霊の胸はとヾろきます。どうしても三つよりない。しかも一つの寝床には確かに一人づヽより寝て居ません。寝て居るはう瑞樹みづきなのであらう、居なくなつたのは花樹はなきであらう、花樹はなき美濃みのの妹が来てれて行つたのであらうと私はぐそれだけのことを直覚で知ると云ふのです。三郎が京の茅野ちのさんのところへ行つてからもう十五日になる、花樹はなき何時いつ行つたのであらうなどヽ考へながら私は引き離された双生児ふたご瑞樹みづき枕許まくらもとへ坐ります。大人ならば到底眠れないだけの悲痛なおとがこの子の心臓に鳴つて居るはずである、どんなに瑞樹みづきさんは悲しいだらう、双生児ふたごと云ふものは普通人の想像の出来ない愛情を持ち合つて居るもので、まだ生れて四五月目から泣いて居る時でも双方の顔が目に映ると笑顔を見せあつたあなた達ですね、けれどあなたのはうが幾分か両親に大事がられたので、妹になつては居るのだけれど姉のやうな心持で双生児ふたごの一人をかばふことを何時いつ何時いつも忘れませんでしたね、大抵の病気は二人が一緒にしましたね、さうさう下向したむき寝返ねがへりを仕初めたのも這ひ出したのも一緒の日からでしたね、牛乳を飲む時には教へられないのに瓶を持ち合つて上げましたね、あなたがたはね、世間の双生児ふたごにはめづらしい一つの胞衣えなに包まれて居たのでしたよ、などとこんな話を口の中でした瑞樹みづきの顔をのぞかうとするのでしたが、赤いメリンスの蒲団に引き入れた顔は上を向きさうにもないのです。泣きながら寝入つたことがよくわかるのです。枕の前には硝子ガラスの箱にはひつた新しい玩具おもちやが置いてあるのです。花樹はなきもこれと同じのをお父様とうさんに買つて頂いて行つたのであらうと私は思ふのです。蒲団から出して居る瑞樹みづきの手のてのひらには緋縮緬ひぢりめんのお手玉が二つ載つて居るのです。私が五つこしらへて遣つて置いたのを、花樹はなきに三つ持たせてつたのであらうと私は点頭うなづくと云ふのです。大胆なしげるの顔にも少しやせが見えて来たと哀れに思ひながら見て、私は一番端に寝たひかるの寝床へくのです。苦しい夢でも見て居るやうに、ひかるの眉の間には大人のやうな皺が現はれたり消えたりするのです。私は物が言ひたいと長男の胸を抱いて悲しがるのです。
ひかるさん。」

10

とだけでいヽ、だそれだけでいヽ、もう永劫にこの子等を見に来られないことになつてもいヽ、今夜の今、
ひかるさん。」

11

と云つて、この子をねむりからさまさせたいと遣瀬なく思ふのです。

     五

12

そのうちひかるがのんびりした寝顔になるのを見て、私の心はだんだんその美に引き入れられながら、何と云ふ綺麗な子であらう、私はこんな美しい物を見たことがない、生きて居た日にはもとより、天上の果てから地の底までも見ようと思つて歩いている今でさへも見ることのない美しさであると思ふのです。私は渋谷の丘の上の家で、初めて自分の分身としてひかるを見た時の満足にも劣らない満足さを感じるのですが、やはりあの時のやうに目をいて居ない、真紅まつかな唇は柔かくとざされて鼻の側面が少女をとめのやうである、この子をおほふのには黄八丈きはちぢやうの蒲団でも縮緬ちりめんでもまだ足るものとは思はないのに、余りに哀れな更紗さらさ蒲団であるなどヽ思ふのです。白い掛襟のほころびの繕はれてないのも口惜くやしいことに思はれるのです。ひかる枕許まくらもとには大きいリボンを掛けた女の子を色鉛筆でいた絵葉書が作られてあるのです。
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瑞樹みづきちやんは昨日きのふ今日けふ花樹はなきちやんに逢ひたいとばかり云つて泣いて居ます。花樹はなきさんがこの絵のやうな大きいお嬢さんになる時分には、にいさんも大きくなつて居て一人で汽車に乗つて迎へに行つて上げますよ。にいさんの上げた林檎は汽車の中で食べましたか。
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13

などヽ仮名で書いてあるのです。表の宛名はまだ書いてありません。

14

私はあなたの蚊帳かやの中へもすつとはひりました。三郎の寝床がなくなつてからのあなたの蚊帳かやの中の様子は海の中にたヾ一つある島のやうであると思つて、この前と同じやうな淋しさを私が感じると云ふのです。此処ここの電気灯も十燭光位がいて居るのです。私は三度程ぐるぐるとおとこを廻つてからはづかしいものですから背中向きにあなたの枕許まくらもとへ坐るのです。亡霊になつてからまだあなたのお顔だけはしみじみと見たことが初めの一度きりしかないのです。そしてまたこれが出してあると私は思ふのです。それは(実際はそんな物をお持ちになりませんけれど、)私から昔あなたへお上げした手紙の一部である五六通が一束ひとたばになつた物なのです。亡霊は出て来る度に、これを読んで寝ようとお思ひになつてあなたが二階から態々わざ/\[#底本では「/\」は「/″\」と誤植]とこの中へ持つて来ておありになるのを見附けますが、私の生前にたばねられた儘の紙捻こよりの結び目は一度もまだ解いた跡がないのです。私の生前と云ふよりも、私があなたのもとへ来る前につかねられた儘なのです。私にはまるで見当の附かない名の書かれた女の手紙が二通と、私の知つた中のつまらない女の手紙が一通あるのです。私の古手紙のやうなけぶりのやうな色をしないで、それらは皆鮮かな心持のいヽ色をした封筒に入つてゐるのです。男のも一通はあるんです。その知らない女の一通のはうの手紙は今日けふ来たのではなく、二三日前のであつて、今までにもう五六度も読まれた物であると云ふことが私の心にはぐ解るのです。葉書も二枚あるのです。一枚は私の妹から瑞樹みづきの機嫌のいことを知らせて来た物です。それには涙に匂ひが附いて居るので私はまた悲しくて溜らない気になると云ふのです。一枚は悪筆で、
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ワイフを貰ふことなんかを考へ出してはおまへのためによくねえぞ。その外のことならどんなことでも相談に乗つてやらう。心得がある。
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15

こんなことが書いてあるのです。

     六

16

私は阪本さんのために珍しく笑はせられながら、床の間の玩具棚おもちやだなの光で見ようとしてくのです。下の棚はがらあきになつて居るのです。二段目にも隅のはうに三郎のだつたがらがらが一つあるだけなのです。花樹はなきがあの欠けた珈琲こうひー道具も、壊れかかつた物干の玩具おもちやも持つて行つたのかなどと私は思ふと云ふのです。三段目には蒲団が敷かれて人形の二つが並んで寝て居るのです。その前にはの葉や花の御馳走が供へられてあるのです。一人ひとり前だけです。花樹はなきさんお飲みなさいよと云つてあの茶碗の水はがれたのであらうと私は想像をするのです。一番上の人形ばかりの段を見ますと、二つづヽあつたのが皆つゐをなくして居るのです。瑞樹みづきだけでなくて沢山双生児ふたご欠片かけらが出来たと私は驚きます。

17

私はもう帰らうとしてまた台所のはう一寸ちよつとのぞきにく気になると云ふのです。

18

また電気灯をともすと、白つぽくなつた壁際かべぎはの二段の吊棚が目の前へ現はれて来るのです。私は洋杯こつぷの中にはひつた三郎の使ひ残した護謨ごむ乳首ちヽくびづ目が附きます。丁度二時頃の今時分に毎夜此処ここ牛乳ちヽを取りに来た、自身でそれをしに来られなくなつた頃から私はもう死を覚期かくごしたなどヽ思ひ出すのです。ほこりの溜つた棚の向うの隅には懐中鏡が立てヽあるのです。洗粉あらひこのはみ出した袋なども私は苦々にが/\しく思つて眺めるのです。しかし私が居たからと云つても、心でくさくさと思ふだけで、表に現れるところでは有つても無くても同じ程な寛容な主婦なのであると思ふのです。女中に対する寛容は私の美徳でも何でもなかつた[#「た」は底本では脱落]のである、私は我身を惜んで、一日いちにちでも二日ふつかでも女中の居なくなつて下等な労働をさせられてはならないと思ふ心を離さなかつたからであるなどとも思ふのです。私はふと水口みづくちの土間に泥の附いた長靴があるのを見るのです。たれのであらう、もとよりあなたのではない、書斎も玄関も通らなかつたけれど、これを穿いて来たやうな客の寝て居る風はなかつた、盗賊どろばうのではないかと思つて戸のはうを見ても、硝子ガラス戸もその向うの戸もきちんとしまつて居るのです。私はそのうち板の間に並んだ女中部屋からはげしい男の寝息のきこえて来るのに気が附くと云ふのです。二人の女中と一足の長靴と云ふことで私はしばらおびえさせられて居ると云ふのです。阪本さんはあんなことを云ふが、この上主人が夜泊よどまりでもするやうになつては困つてしまふではないかなどと思つたと云ふのです。確かそれでおしまひなのでした。これは書いたのをぐ破つてしまつたのでした。前に書いた覚書は何処どこかヽら出て来ることもあるでせう。

19

私にはまだ書かうと思つて書かないでしまつた遺書もあるのです。あの腎臓炎をわづらつた前のことだつたやうに思ひます。あの時分の私は、あなたの妹さんのおつやさんは私の代りになつて、私以上にも子供を可愛がつて教育して下さるかたに違ひないと信じ切つて居ました。何時いつ死んでもいと云ふ位に思つてゐましたから、どうぞ継母まヽはヽに任せないで、生理的の事情から一生独身で居ると云ふことになつて居るおつやさんに私の子をすつかり育てヽ貰つて下さいとかう書かうと思つて居たのでした。

     七

20

世の中のことは二三年もすれば信じ切つて居た物の中から意外なことを発見するものであるなどと、私は人間全体の智慧の乏しさにこの事を帰して思ふのではありません。私一人が悪いのだと思つて居ます。ああした身体からだになつた人には女のやうなヒステリイはないのであらうと云ふ誤解をしたり、既に男性的な辛辣な性質も加つて居ると云ふ観察をようしなかつたりして、一生に比べて見れば六箇月は僅かなやうなものヽ、その間を私の子の肉体から霊魂までも疑ひをはさまずにおつやさんに預けてきました。私は自分の子に済まないことをしたと思つて泣いても泣き足りなく思ひます。私は欧州に居た間の叔母さんと子供等とに就いてしかもそれ程くはしいことは知らないのです。四人程そのことに就いて話してやらうと云つて来た人がありましたが、私は自分の後暗うしろくらさから(間接に子供をいぢめたのは私とあなたなのですから)その人等には曖昧なことを云つて口をとざさせました。けれども四つ五つの話から見たくない全体も目に描かれて、悲しいことは同じだけの悲しみを私にさせます。私は留守中のおつやさんのなすつたすべてを決して否定しては居ません。だあの人には父に似た愛はあつても母らしい愛に似たものもなかつたのが子供等の不幸だつたのです。巴里パリーの下宿で毎日帰りたいと泣くやうになりましたのは、子供等の心が私に通じたのであると、私はこれまでの経験の中でこのことだけを神秘的なことと思つて居ます。おつやさんがお去りになつた翌日、ひかるが朝のお膳に向ひながらぼんやりとして居ますのを、どうしたかと聞きますと、××の育児園の生徒は可哀相かあいさうだ、今日けふからは僕達のやうに叔母さんからいぢめられるだらうからと云ふのです。私は顔を覆ふて泣きました。でも母様かあさんが生き返つて来たから好かつたではないかと私は云つて慰めました。生き返ることの出来ないところにそれが行つて居たのでしたらどうでせう。里から取り返されて、かあさんなんか厭だよと口癖に云つて居ました佐保子さほこだけを王様のお姫様のやうに大事になすつて、今に佐保子さほこ兄様にいさん達を踏みにじらせますとばかり叔母さんは云つておいでになつたさうです。末の妹に踏みにじられるやうな兄達を生みの親であれば作り上げやうとは思ひませんけれど。私が花樹はなき瑞樹みづきに三枚づヽの洋服を買ひ、佐保子さほこに一枚を宛てて買つて来た程のことにもおつやさんは佐保子さほこを粗末にするとお取りになつてきよしさんのうちへ泣いておいでになつたのです。洋服などはちひさくなるのですから下へ譲つてかなければならないではありませんか、さうした物質的のことで親の愛の尺度は解るものではありません。丁度私の帰つた日に二羽の矮鶏ちやぼの一羽が犬にられて一羽ぼつちになりましたのを、佐保子さほこ昨日きのふまでに変つての兄弟からまれて孤独になつた象徴しるしであるらしいと台所で女中に云つて聞かせたりもおつやさんはなさいました。何処どこの国に親が帰つて来て孤独になる子がありませうか。母様かあさんところけと云つてはその一番可愛い佐保子さほこの頭をおうちになる音を私にお聞かせになりました。そして私の居ないところではあの大きな佐保子さほこに出ないあのかたの乳を吸はせたりもなさるのでした。佐保子さほこが私を敵視するやうになり、この間まで僕婢ぼくひのやうであつた兄弟達が物とも思はなくなつたのに、いきどほつてます/\横道へねじれて行つたのも、その時には是非もないことだつたのです。

     八

21

ひかるを見ておつやさんが母と叔母の前で陰陽かげひなたをすると云つて罵しつておいでになつた日には、私は思はずヒステリーに感染したはづかしい真似をしました。雨の中へ重いひかるを抱いて出まして、叔母さんがこはいから逃げてきませうなどと云ひました。私を介抱して下すつたのは春夫さんと菽泉しゆくせんさんでした。そのお二人がおぬらしになつた靴足袋くつたびを乾かしてお返しする時におつやさんのなすつた丁寧な挨拶を書斎に居て聞きながら、私はやまひの本家が自分になつたと思つて苦笑しました。ひかるが叔母さんの前ですることがかげなら、かあさんの前ですることもやはりかげで、そんなにいヽと思ふこともして居ないと私はおつやさんに云ひたかつたのですが、大阪育ちの私はそんな時には駄目なのです。ひかるが善良な子であると云ふことにはあなたも異論がおありにならないでせう。一年に三四度づヽは学校の先生もさう云つて下さいます。藤島先生もさう思つていらつしやるのです。私の日本を立つ時に敦賀まで来て下すつた茅野ちのさんも、ひかるさんは憎まうとしても憎めない性質を持つて居るから叔母さんも可愛がりなさるでせうと云つて私を安心させて下すつたのでしたが、つまりああした中性のやうになつたかたは男から見ても女から見ても想像の出来ない心理の変態があるのだらうと思ひます。

22

最初の覚書にはまだひかるのエプロンにはこんな形がいいとか、股引もヽひきはかうして女中にたヽせて下さいとか書いて図を引いて置いたりしましたが、其頃そのころのことを思ひますとひかるは大きくなりました。私等二人のして来た苦労が今更に哀れなものとも美しいものとも思はれます。この書物かきものが不用になつて、また何年かののちに更に覚書を作るのであつたなら、この感は一層深いであらうと思ひます。私はもうその時分になつてはこんな物を長々と書くまいとも思ひ、一層書くことが多いであらうとも思はれます。私はしかしながら話を聞くだけでも眩暈めまひのしさうなひかる達の祖父のかたがなすつたと云ふ子女の厳しい教育に比べて、煙管きせる雁首がんくびでおちになつた傷痕きずあとが幾十と数へられぬ程あなたがた御兄弟の頭に残つて居ると云ふやうなことに比べて、寛容をお誇りになるあなたであつても、生きたひかる達をお託しすることの不安さは何にもたとへられない程に思つて居るのです。あなたのお飼ひになる小鳥の籠をくつがへすやうなことがあつても私の子は親の家をはれるでせう。あなたが仏蘭西フランスからお持ち帰りになつた陶器の一つに傷を附けた時、私の子はもとに戻せと云ふことを幾百たびあなたから求められたでせう。私は此処ここまで書いて来まして非常に気があがつて来ました。母を持たない我子は孤児になるはうがましなのではなからうかと思ひます。先刻さつき御一緒に飲んだココアのせいなのでせうか。私には隣国の某太后たいこうが養子の帝王に下した最後の手段を幻影に見て居ます。けれど私はそれを決して実行致しません。もとよりこの覚書を見て頂かうと思つて居ます。ことに私は白髪しらがを掻き垂れて登場して来ようとするあなたの初恋の女のために、あなたと一緒に葬られやうとしたと思はれては厭ですから。

23

妙な調子になつて来ました。

     九

24

私はひかるのためにあのことも書いて置きませう。これは一昨年をとヽし歳暮せいぼのことでした。ある日の午後学校から帰りましたしげる護謨ごむまりしいと頼むものですから、私はひかるに買つて来て遣ることを命じたのでした。簡単な買物として私はひかるの経験にとも思つて出したのでした。きよしさんのうちゆづるさんにも頼んで一緒に行つて貰つたのです。麹町の通りであがなはれたまりしげるの手へ渡されたのです。しげるは嬉しさに元園町もとぞのちやうの辺りではまりを上へ放り上げながら歩いて居たのです。どうした拍子にかまりはあのさかの中途にある米何こめなにとか云ふやしきの門の中へ落ちたのださうです。ひかる自身の物であればあのはづかしがる子がどうして知らない家へ拾ひにはひりませう、また貧しいと云つても自分の親には十や二十のまりを買ふだけの力はあると信じて居ますから、もう一度帰つてから麹町のとほりまでけばいいと諦めただけで帰るのだつたのです。今の今迄よろこんで居た弟の淋しい泣顔を見てはじつとして居られないやうな気がしたのでせう、しかもまだ二人だけであつたなら手を取り合つて帰つて来たかも知れませんが、従弟いとこの心も自分と同じやうにしげるのためにいためられて居るのであらうと見ては、一番年上の自分が勇気を出して見なければならないと思つたのでせう、ひかるはその米何こめなにの門を五六歩はひつて行つたのださうです。それだけで十一年の間たまのやうに私の思つて来た子は無名の富豪のぼくに罵られたのです。はづかしめられたのです。ひかるは多くを云ひませんし、私も尋ねないでそれで済んだのですが、私の心は長い間その事から離れませんでした。ぼくを老人として赤ら顔の酒臭い男を思つて見たり、若くて背中の曲がつた男かと思つて見たり、車夫しやふ姿をした男かと思つて見たり、我子を罵つた言葉は越後訛か、奥州訛かと考へて見たり、門内の物は塵一本でも自家の所有物であると、ねちねちと物を言ふ半商人、半書生が憎まれたりもしました。人の子を瓦のはしのやうに思つて居るそんな人間を養つて置く広いやしきや無用な塀の多い街を私は我子を置いて死にところとはよう思ひません。ウイインの王宮の庭は平民達の通路になつて居るではありませんか。であるからヨセフ老帝は薄命だと云はれるのである、自身の居る窓の下に旅人の煙草たばこの吸殻を捨てさせるなどとは憐むべきである、絶東ぜつとう米何こめなにだけのをもよう張らないのであると米何こめなには思つて居るかも知れません。私は米何こめなにを無名の人と書きましたが、あの海軍の収賄問題のやかましい頃に贈賄者として検挙されるはずであるとか、家宅捜索を受けたとか、度々たび/\米何こめなにの名は新聞に伝へられましたから、そんな意味においての名はある人なのでせう。

     十

25

ひかるはどう大人にしていのでせう。親は二人あると思つてもこのことは考へなければならないのです。はねを持たないだけの天使は人間界の罪悪を知りもしなければ、それに抵抗する準備もありません。私は心細くて心細くてなりません。ひかるはまだ子は母より生れるものとよりを知りません。同じ家に居るからと云つて子に父の遺伝があるなどヽ云ふことは不思議なことではないかと、この間もしげるに語つて居るのを聞きました。それは結婚と云ふことがあるからであらうと思ふがと、斟酌しんしやくをして居るやうな返事のしかたを弟はして居ました。しげるの懐疑はひかるのそれに比べられない程に根底が出来て居るらしいのです。弟は両親が兄に対する細心な心遣ひを知つて居ますから、自分は自分、兄は兄として別々にして置かうと思つて居るらしいのです。ひかるはそんなのですから、荒々しくて優しい趣味の乏しく思はれるやうな男の友より女の友と遊ぶのをよろこんで居ます。綺麗だからしいと云ふものですから、私は叱ることもようせずに、花樹はなき瑞樹みづきに遣るやうな小切れをひかるにも分けて与へてあるのです。色糸いろいとなども持つて居ます。平生ふだんはそれを出して遊ばうとはしませんが、玩具おもちや棚の一番下にある黒い箱がそれです。女の友達の来て居る時に刺繍ぬひこしらへて遣つたり、人形を作つたりしてやることがあるのです。女もまじつて遊ぶ学校へ入つて居たなら、ひかるも運動場の傍観者ではなかつたかも知れません。このことは性の別がはつきりと意識される日に直ることであらうと思ひます。ひかるはまた男性的でないのではありません。あの大様おほやう生々いき/\とした線でく絵を見て下さい、ひかるの書いて居る日記を見て下さい、ひかるは母親のうらやんでい男性です。私がひかるあやぶみますのは異性に最も近い所で開く性の目覚めざめです。この間私は電車が来ないために或停留場に二十分余りも立つて待つて居ましたが、丁度祭日まつりびであつたその夕方に、綺麗によそほはれた街の幼い男女なんによは並木の間々あひだ/\で鬼ごつこや何やと幾団いくだんにもなつて遊んで居ました。その子等の絶えず口占くちずさみのやうにして云つて居ますことは、二字三字活字になつて本の中に交つても発売禁止を免れることの出来ないやうな言語なのです。そればかりなのです。おそろしい都、悲しい都、早熟な人間の居る南洋の何やらじまの子も五つ六つでうなのであらうかと、私は青ざめて立つて居ました。性欲教育と云ふことはその子等の親達には考へるべき問題でないでせうが、私等のためには重大なことなのです。よく考へて遣つて下さいな。

26

ひかるのことを思つて居ますうちに、私の心は四郎のことを少し云はないでは居られないやうになりました。私は四郎の生立おひたちをよう見ないのでせうか。五つ六つ、七八なヽやつで母親を亡くした人を見ては、ひかるもああなるのではあるまいかと運命を恐れながらやうや十三歳じうさんに迄なるのを見ました。四郎は二歳ふたつではありませんか、ひかると同じ顔をした同じやうな性質を持つて生れた四郎を、私はどうかするともう十三歳じうさんに迄してあると云ふやうな誤つた安心を持つて見て居なかつたでせうか。四郎が二歳ふたつであることを思ふと私は死なれない、死にともない。

27

雑記帳はだこればかしでもう白いところがなくなりました。あとを書いて置くかどうか、よく解りません。[#地付きで](完)



底本:「読売新聞」読売新聞社
   1914(大正3)年10月11日〜23日(全10回連載)
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。(旧字を新字にあらためましたが、旧仮名づかいには変更を加えませんでした。総ルビをパラルビにあらためました。)
※「井」は「ウイ」、「こと」の変体仮名は「こと」、二の字点は「ヽ」にそれぞれ書き換えました。(一般には、片仮名用の繰り返し記号として用いられる「ヽ」が、底本では平仮名のルビにも使用されていることを踏まえ、二の字点の代替には「ヽ」を用いました。)
※底本は「入る」に「はいる」とルビを振っていましたが、「はひる」としました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:武田秀男
校正:mayu
2001年12月6日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


■上記ファイルを、里実工房が次のように変更しました。
変更箇所
  ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
  行間処理:行間180%
  段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
      :段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
      :段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
公開:平成16年8月8日