1
私にあなたがしてお置きになる遺言と云ふものも、私のします其れも、権威のあるものでないことは一緒だらうと思ひます。ですからこれは覚書です。子供の面倒を見て下さる方にと思ふのですが、今の処私の生きて居る限りではあなたを対象として書くより仕方がありません。私は前にも一度こんなものを書きました。もうあれから八年になります。花樹と瑞樹の二人が一緒に生れて来る前の私が、身体の苦しさ、心細さの日々に募るばかりの時で、あれを書かなければならなくなつたのだと覚えて居ます。十二月の二十五日の午後から書き初めたのでした。今朝は耶蘇降誕祭の贈物で光と茂の二人を喜ばせて、私等二人も楽しい顔をして居たと確か初めには書いたと思つて居ます。その時のも覚書以上の物ではありませんし、唯今と同じやうにあなたの見て下さるのに骨の折れないやうにと雑記帳へ書くこともしたのでしたが、今よりは余程瞑想的な頭が土台になつて居ました。あなたの次で結婚をおしになる女性に就いていろ/\なことを書いてありました。数人の名を挙て批判を下したり、私の希望を述べたりしたのでした。思へば思ふ程滑稽な瞑想者でした、私は。瞑想は下らないものとして、あなたに僭上を云つたものとして、併しながらあの時にA子さんやH子さんのことをあなたの相手として考へたやうに、今も四人や五人はそんな人のあつた方が、この覚書を読んで下さる時のあなたを目に描いて見る私にも幸福であるやうに思はれます。あの方よりさう云ふ人を今のあなたは持つておいでにならない、あの方は私が見たこともなし、委細しい御様子も聞いたことはありませんけれど、近年になりまして私が死んだ跡のあなたはどうしてもあの方の物にならなければならない、私の子を世話して下さる人はあの方よりないと云ふことがはつきりと、余りにはつきりと私に思はれて来ました。自分の死後の日を見廻す中にも、私は傷ましくてその絵の掛つた方は凝視することが出来ません。私は冷く静かな心になつて居ると思つて居ながら、あなたの苦痛のためにはこれ程の悲しみを感じるのかと自ら呆れます。あの方はあなたの初恋の方で、然も何年か御一緒にお暮しになつた方で、あなたのためにその後の十七八年を今日まで独居しておいでになる方であつても、悲しいことにはあなたよりもつとお年上なのでせう。去年あの方のお国から出ておいでになつた岩城さんが、私等夫婦をもすこし開け広げな間柄であらうとお思ひになつて、あの方のことをいろ/\とお話しになつた時に、年は自分よりも確か二つ三つ上だと云つておいでになりました。岩城さんはあなたよりまた二つ三つ上なのでせう、であつて見ればあの方の髪にはもう白い毛が出来て居るでせう、お目の下の皮膚から紫色になつた血が透いて見えるでせう。真実にあなたはお可哀相です。お可哀相です。あの方のことをあなたが私へお話しになつたことは唯一度しかありません。結婚して一月も経たない時分でした。つまりお互に自己の利益などは考へ合はなかつた時だつたのです。ですからあなたは虚心平気でいらつしつた。昔の恋人のためにしみじみとお話しなさいました。けれどその晩を私は一睡もようしないで明したことを覚えて居ます。
二
2
あの××県のあなたの兄様の拵へておいでになる女学校を、神童時代の次の十八九のあなたが教えておいでになる時、其処の舎監で、軍人の未亡人の切下げ髪の人とかが、毎夜毎夜提灯を点して遠いあなたの住居を訪ねて来て、あなたを挑まうとしながら表面では学校のあの二人の才媛の何方をあなたは未来の妻にしたいと思ふかなどと云ふ話ばかりをして居たと云ふこと、あなたは第一の才媛は容貌が悪いから厭だ、あの人ならとあの方のことをお云ひになつたのだと云ふこと、京の北山の林の中へ鉄砲を持つて入つて、あの方と添はれない悲しみに死なうとなすつたこと、それから五六年もしてあなたとあの方が一緒になつて、女の赤さんを生んで、そしてその子が死んでからお別れになつた時、あの方は大きい柳行李に充満あつたあなたの文がらをあなたの先生の処へ持つて行つて焼いたと云ふこと、こんなことでした。私が何故別れるやうになつたのでせうと云ひましたら、赤坊の死んだのが悪かつたのだとあなたは云つておいでになりました。年上の女と恋をするのはどんな気持なものかとも私がお尋ねしましたら、綺麗な人だつたせいか自分は年上とも思はなかつたとあなたは訳なしに云つておいででした。よくあなたや私の知つた人が、年上の女を娶つたり、年下の男の処へ行つたりするのを見て何故ああした気になれるだらうとあなたはよく不思議がつておいでになりました。私は何時も昔のあなたがお思ひになつたやうに年と云ふものの目に映つて来ない幸福な気に包まれた人達なのであらうと、さう云ふ人達に対しては思つて居るだけなのです。あの方が何年間かのあなたの心を蓄へた行李を開けて人に見せ、焼き尽しもした程憎みを見せながらそのあなたの弟や妹に、実姉妹のやうな交際を猶続けて来て居ることは三四年前まで私は知りませんでした。あなたは私よりもつと後までお知りにならなかつたかも知れません。知つておいでになつたかも知れない。或はまた西洋においでになる時にも門司でお逢ひになつた妹さんの口から何事もあなたへ伝へられなかつたかも知れません。私はお艶さんとあなたのお留守に一月程一緒に居ました時、お艶さんは私を苦めたいのでもなく、何の気なしによくあの方のことを賞めてお聞かせになりました。烈しいヒステリイの起つてゐる時などは、悲しい程にさうでした。あなたの兄上や嫂の君の信用の最も厚い婦人と云ふのはあの方であるとも聞きました。私が幾人も残して行く子供を育てヽ下さるであらうと依頼心をあの方に起すやうになつたのもお艶さんの言葉が因になつて居るのです。岩城さんが某氏の後添にあの方を世話しやうかと思ふと云つておいでになつた時に、私は滑稽なことを云ふ人であると思つて笑つたのでしたが、あの時はあなたも傍においでになつて、私がさも心から嬉しげに笑つたとはお思ひにならなかつたでせうか、私はあなたのその時の顔をよう見ませんでしたけれど。
3
私は子供のことばかりを書いて置かうと思つたのでしたが、前に書いた遺書のことから云はないでもいいことを書きました。
三
4
私が今日またこんな物を書いて置かうと思ひましたのは、花樹と瑞樹が学校へ草紙代や筆代で四十六銭づヽ持つて行かねばならないと云ひまして、前日先生のお云ひになつたことを書いて来た物を持つて来て見せました時、私が居なくてこの子等がこんな物を見せる人がなかつたならと、ふとそんな気がしまして、そんな事などをお頼みする物を書かうと思つたのでした。私は今また遺書ではありませんが、四五年前に死を予想して書いた物のあつたことをふと思ひ出しました。それは私が亡霊になつて家へ来ることにして書いたものでした。
5
東紅梅町のあの家は書斎も客室も二階にあつたのでした。階下に二室続いてあつた六畳に分れて親子は寝て居ました。亡霊の私が出掛けて行くのは無論夜の夜中なのです。ニコライのドオムに面した方の窓から私は家の中へ入ると云ふのでした。私は何時も源氏の講義をした座敷の壁の前に立つて居ました。青玉のやうな光が私の身体から出て、水の中の物がだんだんと目に見えて来ると云ふ風に其処等がはつきりとして来ると云ふやうなことは、私が書かうと思つたことではありません。私はやつぱり電気灯のスイツチを廻して座敷の真中へ灯を点けました。室の中は隅々まで綺麗になつて居ました。私は昼間階下の暗いのに飽いて二階へ上つて来て居る子供等が、紙片や玩具の欠片一つを落してあつても、
「この穢いのが目に着かんか。」
6
とお睨み廻しになるあなたの顔が目に見えて身慄ひをすると云ふのです。または自身達の散して置いた塵でなくても、
「この埃が目に見えないのか。」
7
と子供等は云はれたであらう、梯子上りにだんだん怒りが大きくなつて来るあなたは、終ひには縮緬の着物を着た人形でも、銀の喇叭でも、筆の莢を折るやうにへし折つて縁側から路次へ捨てヽおしまひになるやうなこともあつたに違ひないと思ふと云ふのでした。床の間は何時来て見ても私の生きて居た日に少しの違ひもない品々の並べやうがしてあると云ふのです。唯だ私の詩集が八冊程花瓶の前へ二つに分けて積まれてあるのだけは近頃からのことであると思ふと云ふのです。本の彼方此方には白い紙が栞のやうにして挟んであると云ふのです。本の上には京の茅野さんの手紙が置いてあるのです。私は全集に就いてして呉れた茅野さんの親切な注意をよく読んで見たいと思ひながら遅くなるからと思つてそれは廃めると云ふのです。また私は詩集の中がどんな風に整理されてあるのか見たいとも思ふのですが、自分がどうすることも出来ないのであるから仕方がないと諦めます。併しさう思つてしまへば、子供を見るためにかうして時々この家へ来ると云ふことも同じ無駄なことであらうと苦笑するのです。私の作物には生んだ親である自分にも勝つた愛を掛けて呉れる人達が少くも幾人かはある。私の分身の子には厳しい父親だけよりない、さうであるからなどヽ恥しい気もありながら思ふのです。最初には気が附かなかつたのですが、柳箱の上に私の写真が一枚置いてあるのです。何処かの雑誌社から返しに来たのであらうと思ふと云ふのです。
四
8
今日はもう書斎へは入つて見ないで置かうと私は思ふのです。死ぬ少し前まで一日のうちの八時間は其処で過して、悲しいことも嬉しいことも其処に居る時の私が最も多く感じた処なんですから、自身の使つて居た机が新刊雑誌の台になつたりして居る変り果てた光景は見たくないからなのです。併し階下へ降りるには其処を通つて梯子口へ出なければならないと思つて、また自分は亡霊であるから梯子段などは要らないと非常に得意な気分になつて、階下へすつと抜けて入るのです。
9
子供の寝部屋には以前の二燭光よりは余程明るい電気灯が点けられてあるのです。子供は淋しがらせたくないあなたの心持を私は嬉しく思ふのです。処でね、蚊帳の中には寝床が三つよりない、光と茂と、それから女の子が一人より居ません。亡霊の胸は轟きます。どうしても三つよりない。然も一つの寝床には確かに一人づヽより寝て居ません。寝て居る方は瑞樹なのであらう、居なくなつたのは花樹であらう、花樹は美濃の妹が来て伴れて行つたのであらうと私は直ぐそれだけのことを直覚で知ると云ふのです。三郎が京の茅野さんの処へ行つてからもう十五日になる、花樹は何時行つたのであらうなどヽ考へながら私は引き離された双生児の瑞樹の枕許へ坐ります。大人ならば到底眠れないだけの悲痛な音がこの子の心臓に鳴つて居る筈である、どんなに瑞樹さんは悲しいだらう、双生児と云ふものは普通人の想像の出来ない愛情を持ち合つて居るもので、まだ生れて四五月目から泣いて居る時でも双方の顔が目に映ると笑顔を見せあつたあなた達ですね、けれどあなたの方が幾分か両親に大事がられたので、妹になつては居るのだけれど姉のやうな心持で双生児の一人を庇ふことを何時も何時も忘れませんでしたね、大抵の病気は二人が一緒にしましたね、さうさう下向に寝返りを仕初めたのも這ひ出したのも一緒の日からでしたね、牛乳を飲む時には教へられないのに瓶を持ち合つて上げましたね、あなた方はね、世間の双生児には珍らしい一つの胞衣に包まれて居たのでしたよ、などとこんな話を口の中でした瑞樹の顔を覗かうとするのでしたが、赤いメリンスの蒲団に引き入れた顔は上を向き相にもないのです。泣きながら寝入つたことがよく解るのです。枕の前には硝子の箱に入つた新しい玩具が置いてあるのです。花樹もこれと同じのをお父様に買つて頂いて行つたのであらうと私は思ふのです。蒲団から出して居る瑞樹の手の掌には緋縮緬のお手玉が二つ載つて居るのです。私が五つ拵へて遣つて置いたのを、花樹に三つ持たせて遣つたのであらうと私は点頭くと云ふのです。大胆な茂の顔にも少し痩が見えて来たと哀れに思ひながら見て、私は一番端に寝た光の寝床へ行くのです。苦しい夢でも見て居るやうに、光の眉の間には大人のやうな皺が現はれたり消えたりするのです。私は物が言ひたいと長男の胸を抱いて悲しがるのです。
「光さん。」
10
とだけでいヽ、唯だそれだけでいヽ、もう永劫にこの子等を見に来られないことになつてもいヽ、今夜の今、
「光さん。」
11
と云つて、この子を眠から醒させたいと遣瀬なく思ふのです。
五
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そのうち光がのんびりした寝顔になるのを見て、私の心はだんだんその美に引き入れられながら、何と云ふ綺麗な子であらう、私はこんな美しい物を見たことがない、生きて居た日にはもとより、天上の果てから地の底までも見ようと思つて歩いている今でさへも見ることのない美しさであると思ふのです。私は渋谷の丘の上の家で、初めて自分の分身として光を見た時の満足にも劣らない満足さを感じるのですが、やはりあの時のやうに目を開いて居ない、真紅な唇は柔かく閉されて鼻の側面が少女のやうである、この子を被ふのには黄八丈の蒲団でも縮緬でもまだ足るものとは思はないのに、余りに哀れな更紗蒲団であるなどヽ思ふのです。白い掛襟の綻びの繕はれてないのも口惜しいことに思はれるのです。光の枕許には大きいリボンを掛けた女の子を色鉛筆で描いた絵葉書が作られてあるのです。
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瑞樹ちやんは昨日も今日も花樹ちやんに逢ひたいとばかり云つて泣いて居ます。花樹さんがこの絵のやうな大きいお嬢さんになる時分には、兄さんも大きくなつて居て一人で汽車に乗つて迎へに行つて上げますよ。兄さんの上げた林檎は汽車の中で食べましたか。
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などヽ仮名で書いてあるのです。表の宛名はまだ書いてありません。
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私はあなたの蚊帳の中へもすつと入りました。三郎の寝床がなくなつてからのあなたの蚊帳の中の様子は海の中に唯一つある島のやうであると思つて、この前と同じやうな淋しさを私が感じると云ふのです。此処の電気灯も十燭光位が点いて居るのです。私は三度程ぐるぐるとお床を廻つてから恥しいものですから背中向きにあなたの枕許へ坐るのです。亡霊になつてからまだあなたのお顔だけはしみじみと見たことが初めの一度きりしかないのです。そしてまたこれが出してあると私は思ふのです。それは(実際はそんな物をお持ちになりませんけれど、)私から昔あなたへお上げした手紙の一部である五六通が一束になつた物なのです。亡霊は出て来る度に、これを読んで寝ようとお思ひになつてあなたが二階から態々床の中へ持つて来ておありになるのを見附けますが、私の生前に束ねられた儘の紙捻の結び目は一度もまだ解いた跡がないのです。私の生前と云ふよりも、私があなたの許へ来る前に束ねられた儘なのです。私には全で見当の附かない名の書かれた女の手紙が二通と、私の知つた中のつまらない女の手紙が一通あるのです。私の古手紙のやうな煙のやうな色をしないで、それらは皆鮮かな心持のいヽ色をした封筒に入つてゐるのです。男のも一通はあるんです。その知らない女の一通の方の手紙は今日来たのではなく、二三日前のであつて、今までにもう五六度も読まれた物であると云ふことが私の心には直ぐ解るのです。葉書も二枚あるのです。一枚は私の妹から瑞樹の機嫌の好いことを知らせて来た物です。それには涙に匂ひが附いて居るので私はまた悲しくて溜らない気になると云ふのです。一枚は悪筆で、
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ワイフを貰ふことなんかを考へ出してはおまへのためによくねえぞ。その外のことならどんなことでも相談に乗つてやらう。心得がある。
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こんなことが書いてあるのです。
六
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私は阪本さんのために珍しく笑はせられながら、床の間の玩具棚を灯の光で見ようとして行くのです。下の棚はがら空になつて居るのです。二段目にも隅の方に三郎のだつたがらがらが一つあるだけなのです。花樹があの欠けた珈琲道具も、壊れかかつた物干の玩具も持つて行つたのかなどと私は思ふと云ふのです。三段目には蒲団が敷かれて人形の二つが並んで寝て居るのです。その前には木の葉や花の御馳走が供へられてあるのです。一人前だけです。花樹さんお飲みなさいよと云つてあの茶碗の水は注がれたのであらうと私は想像をするのです。一番上の人形ばかりの段を見ますと、二つづヽあつたのが皆対をなくして居るのです。瑞樹だけでなくて沢山双生児の欠片が出来たと私は驚きます。
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私はもう帰らうとしてまた台所の方を一寸覗きに行く気になると云ふのです。
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また電気灯を点すと、白つぽくなつた壁際の二段の吊棚が目の前へ現はれて来るのです。私は洋杯の中に入つた三郎の使ひ残した護謨の乳首に先づ目が附きます。丁度二時頃の今時分に毎夜此処へ牛乳を取りに来た、自身でそれをしに来られなくなつた頃から私はもう死を覚期したなどヽ思ひ出すのです。埃の溜つた棚の向うの隅には懐中鏡が立てヽあるのです。洗粉のはみ出した袋なども私は苦々しく思つて眺めるのです。併し私が居たからと云つても、心でくさくさと思ふだけで、表に現れる処では有つても無くても同じ程な寛容な主婦なのであると思ふのです。女中に対する寛容は私の美徳でも何でもなかつた[#「た」は底本では脱落]のである、私は我身を惜んで、一日でも二日でも女中の居なくなつて下等な労働をさせられてはならないと思ふ心を離さなかつたからであるなどとも思ふのです。私はふと水口の土間に泥の附いた長靴があるのを見るのです。誰のであらう、もとよりあなたのではない、書斎も玄関も通らなかつたけれど、これを穿いて来たやうな客の寝て居る風はなかつた、盗賊のではないかと思つて戸の方を見ても、硝子戸もその向うの戸もきちんと閉つて居るのです。私はそのうち板の間に並んだ女中部屋から烈しい男の寝息の聞えて来るのに気が附くと云ふのです。二人の女中と一足の長靴と云ふことで私は暫く怖えさせられて居ると云ふのです。阪本さんはあんなことを云ふが、この上主人が夜泊りでもするやうになつては困つてしまふではないかなどと思つたと云ふのです。確かそれでおしまひなのでした。これは書いたのを直ぐ破つてしまつたのでした。前に書いた覚書は何処かヽら出て来ることもあるでせう。
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私にはまだ書かうと思つて書かないでしまつた遺書もあるのです。あの腎臓炎を煩つた前のことだつたやうに思ひます。あの時分の私は、あなたの妹さんのお艶さんは私の代りになつて、私以上にも子供を可愛がつて教育して下さる方に違ひないと信じ切つて居ました。何時死んでも好いと云ふ位に思つてゐましたから、どうぞ継母に任せないで、生理的の事情から一生独身で居ると云ふことになつて居るお艶さんに私の子をすつかり育てヽ貰つて下さいとかう書かうと思つて居たのでした。
七
20
世の中のことは二三年もすれば信じ切つて居た物の中から意外なことを発見するものであるなどと、私は人間全体の智慧の乏しさにこの事を帰して思ふのではありません。私一人が悪いのだと思つて居ます。ああした身体になつた人には女のやうなヒステリイはないのであらうと云ふ誤解をしたり、既に男性的な辛辣な性質も加つて居ると云ふ観察をようしなかつたりして、一生に比べて見れば六箇月は僅かなやうなものヽ、その間を私の子の肉体から霊魂までも疑ひを挿まずにお艶さんに預けて行きました。私は自分の子に済まないことをしたと思つて泣いても泣き足りなく思ひます。私は欧州に居た間の叔母さんと子供等とに就いて然もそれ程くはしいことは知らないのです。四人程そのことに就いて話してやらうと云つて来た人がありましたが、私は自分の後暗さから(間接に子供を苛めたのは私とあなたなのですから)その人等には曖昧なことを云つて口を閉させました。けれども四つ五つの話から見たくない全体も目に描かれて、悲しいことは同じだけの悲しみを私にさせます。私は留守中のお艶さんのなすつた総てを決して否定しては居ません。唯だあの人には父に似た愛はあつても母らしい愛に似たものもなかつたのが子供等の不幸だつたのです。巴里の下宿で毎日帰りたいと泣くやうになりましたのは、子供等の心が私に通じたのであると、私はこれまでの経験の中でこのことだけを神秘的なことと思つて居ます。お艶さんがお去りになつた翌日、光が朝のお膳に向ひながらぼんやりとして居ますのを、どうしたかと聞きますと、××の育児園の生徒は可哀相だ、今日からは僕達のやうに叔母さんから苛められるだらうからと云ふのです。私は顔を覆ふて泣きました。でも母様が生き返つて来たから好かつたではないかと私は云つて慰めました。生き返ることの出来ない処にそれが行つて居たのでしたらどうでせう。里から取り返されて、母さんなんか厭だよと口癖に云つて居ました佐保子だけを王様のお姫様のやうに大事になすつて、今に佐保子に兄様達を踏み躙らせますとばかり叔母さんは云つておいでになつたさうです。末の妹に踏み躙られるやうな兄達を生みの親であれば作り上げやうとは思ひませんけれど。私が花樹と瑞樹に三枚づヽの洋服を買ひ、佐保子に一枚を宛てて買つて来た程のことにもお艶さんは佐保子を粗末にするとお取りになつて清さんの家へ泣いておいでになつたのです。洋服などは直ぐ小くなるのですから下へ譲つて行かなければならないではありませんか、さうした物質的のことで親の愛の尺度は解るものではありません。丁度私の帰つた日に二羽の矮鶏の一羽が犬に奪られて一羽ぼつちになりましたのを、佐保子が昨日までに変つて他の兄弟から忌まれて孤独になつた象徴であるらしいと台所で女中に云つて聞かせたりもお艶さんはなさいました。何処の国に親が帰つて来て孤独になる子がありませうか。母様の処へ行け行けと云つてはその一番可愛い佐保子の頭をお打になる音を私にお聞かせになりました。そして私の居ない処ではあの大きな佐保子に出ないあの方の乳を吸はせたりもなさるのでした。佐保子が私を敵視するやうになり、この間まで僕婢のやうであつた兄弟達が物とも思はなくなつたのに、憤つてます/\横道へ捩れて行つたのも、その時には是非もないことだつたのです。
八
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光を見てお艶さんが母と叔母の前で陰陽をすると云つて罵しつておいでになつた日には、私は思はずヒステリーに感染した恥かしい真似をしました。雨の中へ重い光を抱いて出まして、叔母さんが恐いから逃げて行きませうなどと云ひました。私を介抱して下すつたのは春夫さんと菽泉さんでした。そのお二人がお濡しになつた靴足袋を乾かしてお返しする時にお艶さんのなすつた丁寧な挨拶を書斎に居て聞きながら、私は病の本家が自分になつたと思つて苦笑しました。光が叔母さんの前ですることが陰なら、母さんの前ですることもやはり陰で、そんなにいヽと思ふこともして居ないと私はお艶さんに云ひたかつたのですが、大阪育ちの私はそんな時には駄目なのです。光が善良な子であると云ふことにはあなたも異論がおありにならないでせう。一年に三四度づヽは学校の先生もさう云つて下さいます。藤島先生もさう思つていらつしやるのです。私の日本を立つ時に敦賀まで来て下すつた茅野さんも、光さんは憎まうとしても憎めない性質を持つて居るから叔母さんも可愛がりなさるでせうと云つて私を安心させて下すつたのでしたが、つまりああした中性のやうになつた方は男から見ても女から見ても想像の出来ない心理の変態があるのだらうと思ひます。
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最初の覚書にはまだ光のエプロンにはこんな形がいいとか、股引はかうして女中に裁せて下さいとか書いて図を引いて置いたりしましたが、其頃のことを思ひますと光は大きくなりました。私等二人のして来た苦労が今更に哀れなものとも美しいものとも思はれます。この書物が不用になつて、また何年かの後に更に覚書を作るのであつたなら、この感は一層深いであらうと思ひます。私はもうその時分になつてはこんな物を長々と書くまいとも思ひ、一層書くことが多いであらうとも思はれます。私は併しながら話を聞くだけでも眩暈のしさうな光達の祖父の方がなすつたと云ふ子女の厳しい教育に比べて、煙管の雁首でお撲ちになつた傷痕が幾十と数へられぬ程あなた方御兄弟の頭に残つて居ると云ふやうなことに比べて、寛容をお誇りになるあなたであつても、生きた光達をお託しすることの不安さは何にも譬へられない程に思つて居るのです。あなたのお飼ひになる小鳥の籠を覆すやうなことがあつても私の子は親の家を逐はれるでせう。あなたが仏蘭西からお持ち帰りになつた陶器の一つに傷を附けた時、私の子は旧に戻せと云ふことを幾百度あなたから求められたでせう。私は此処まで書いて来まして非常に気が昂つて来ました。母を持たない我子は孤児になる方がましなのではなからうかと思ひます。先刻御一緒に飲んだココアのせいなのでせうか。私には隣国の某太后が養子の帝王に下した最後の手段を幻影に見て居ます。けれど私はそれを決して実行致しません。もとよりこの覚書を見て頂かうと思つて居ます。殊に私は白髪を掻き垂れて登場して来ようとするあなたの初恋の女のために、あなたと一緒に葬られやうとしたと思はれては厭ですから。
23
妙な調子になつて来ました。
九
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私は光のためにあのことも書いて置きませう。これは一昨年の歳暮のことでした。ある日の午後学校から帰りました茂が護謨鞠を欲しいと頼むものですから、私は光に買つて来て遣ることを命じたのでした。簡単な買物として私は光の経験にとも思つて出したのでした。清さんの家の譲さんにも頼んで一緒に行つて貰つたのです。麹町の通りで購はれた鞠は直ぐ茂の手へ渡されたのです。茂は嬉しさに元園町の辺りでは鞠を上へ放り上げながら歩いて居たのです。どうした拍子にか鞠はあの阪の中途にある米何とか云ふ邸の門の中へ落ちたのださうです。光自身の物であればあの恥しがる子がどうして知らない家へ拾ひに入りませう、また貧しいと云つても自分の親には十や二十の鞠を買ふだけの力はあると信じて居ますから、もう一度帰つてから麹町の通まで行けばいいと諦めた丈で帰るのだつたのです。今の今迄悦んで居た弟の淋しい泣顔を見てはじつとして居られないやうな気がしたのでせう、然もまだ二人だけであつたなら手を取り合つて帰つて来たかも知れませんが、従弟の心も自分と同じやうに茂のために傷められて居るのであらうと見ては、一番年上の自分が勇気を出して見なければならないと思つたのでせう、光はその米何の門を五六歩入つて行つたのださうです。それだけで十一年の間玉のやうに私の思つて来た子は無名の富豪の僕に罵られたのです。辱められたのです。光は多くを云ひませんし、私も尋ねないでそれで済んだのですが、私の心は長い間その事から離れませんでした。僕を老人として赤ら顔の酒臭い男を思つて見たり、若くて背中の曲がつた男かと思つて見たり、車夫姿をした男かと思つて見たり、我子を罵つた言葉は越後訛か、奥州訛かと考へて見たり、門内の物は塵一本でも自家の所有物であると、ねちねちと物を言ふ半商人、半書生が憎まれたりもしました。人の子を瓦の片のやうに思つて居るそんな人間を養つて置く広い邸や無用な塀の多い街を私は我子を置いて死に得る処とはよう思ひません。ウイインの王宮の庭は平民達の通路になつて居るではありませんか。であるからヨセフ老帝は薄命だと云はれるのである、自身の居る窓の下に旅人の煙草の吸殻を捨てさせるなどとは憐むべきである、絶東の米何だけの威をもよう張らないのであると米何は思つて居るかも知れません。私は米何を無名の人と書きましたが、あの海軍の収賄問題のやかましい頃に贈賄者として検挙される筈であるとか、家宅捜索を受けたとか、度々米何の名は新聞に伝へられましたから、そんな意味に於ての名はある人なのでせう。
十
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光はどう大人にして好いのでせう。親は二人あると思つてもこのことは考へなければならないのです。翅を持たないだけの天使は人間界の罪悪を知りもしなければ、それに抵抗する準備もありません。私は心細くて心細くてなりません。光はまだ子は母より生れるものとより他を知りません。同じ家に居るからと云つて子に父の遺伝があるなどヽ云ふことは不思議なことではないかと、この間も茂に語つて居るのを聞きました。それは結婚と云ふことがあるからであらうと思ふがと、斟酌をして居るやうな返事のしかたを弟はして居ました。茂の懐疑は光のそれに比べられない程に根底が出来て居るらしいのです。弟は両親が兄に対する細心な心遣ひを知つて居ますから、自分は自分、兄は兄として別々にして置かうと思つて居るらしいのです。光はそんなのですから、荒々しくて優しい趣味の乏しく思はれるやうな男の友より女の友と遊ぶのを悦んで居ます。綺麗だから欲しいと云ふものですから、私は叱ることもようせずに、花樹や瑞樹に遣るやうな小切れを光にも分けて与へてあるのです。色糸なども持つて居ます。平生はそれを出して遊ばうとはしませんが、玩具棚の一番下にある黒い箱がそれです。女の友達の来て居る時に刺繍を拵へて遣つたり、人形を作つたりしてやることがあるのです。女も交つて遊ぶ学校へ入つて居たなら、光も運動場の傍観者ではなかつたかも知れません。このことは性の別がはつきりと意識される日に直ることであらうと思ひます。光はまた男性的でないのではありません。あの大様な生々とした線で描く絵を見て下さい、光の書いて居る日記を見て下さい、光は母親の羨んで好い男性です。私が光に危みますのは異性に最も近い所で開く性の目覚です。この間私は電車が来ないために或停留場に二十分余りも立つて待つて居ましたが、丁度祭日であつたその夕方に、綺麗に装はれた街の幼い男女は並木の間々で鬼ごつこや何やと幾団にもなつて遊んで居ました。その子等の絶えず口占のやうにして云つて居ますことは、二字三字活字になつて本の中に交つても発売禁止を免れることの出来ないやうな言語なのです。そればかりなのです。恐しい都、悲しい都、早熟な人間の居る南洋の何やら島の子も五つ六つで斯うなのであらうかと、私は青ざめて立つて居ました。性欲教育と云ふことはその子等の親達には考へるべき問題でないでせうが、私等のためには重大なことなのです。よく考へて遣つて下さいな。
26
光のことを思つて居ますうちに、私の心は四郎のことを少し云はないでは居られないやうになりました。私は四郎の生立をよう見ないのでせうか。五つ六つ、七八つで母親を亡くした人を見ては、光もああなるのではあるまいかと運命を恐れながら漸く十三歳に迄なるのを見ました。四郎は二歳ではありませんか、光と同じ顔をした同じやうな性質を持つて生れた四郎を、私はどうかするともう十三歳に迄してあると云ふやうな誤つた安心を持つて見て居なかつたでせうか。四郎が二歳であることを思ふと私は死なれない、死にともない。
27
雑記帳は唯だこればかしでもう白い処がなくなりました。後を書いて置くかどうか、よく解りません。[#地付きで](完)
底本:「読売新聞」読売新聞社
1914(大正3)年10月11日〜23日(全10回連載)
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。(旧字を新字にあらためましたが、旧仮名づかいには変更を加えませんでした。総ルビをパラルビにあらためました。)
※「井」は「ウイ」、「こと」の変体仮名は「こと」、二の字点は「ヽ」にそれぞれ書き換えました。(一般には、片仮名用の繰り返し記号として用いられる「ヽ」が、底本では平仮名のルビにも使用されていることを踏まえ、二の字点の代替には「ヽ」を用いました。)
※底本は「入る」に「はいる」とルビを振っていましたが、「はひる」としました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:武田秀男
校正:mayu
2001年12月6日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
■上記ファイルを、里実工房が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
公開:平成16年8月8日