盲腸

             横光利一



1

Fは口から血を吐いた。Mは盲腸炎で腹を切つた。Hは鼻毛を抜いた痕から丹毒に浸入された。此の三つの報告を、彼は同時に耳に入れると、痔が突発して血を流した。彼は三つの不幸の輪の中で血を流しながら頭を上げると、さてどつちへ行かうかとうろうろした。
「やられた。しかし、」とFから第二の報告が舞ひ込んだ。
「顔が二倍になつた。」とHから。
「もう駄目だ。」とMから来た。

2

――俺は下から――と彼は云つた。

3

彼はもうどつちへも行くまいと決心した。死ぬ者を見るより見ない方が記憶に良い。彼は三点の黒い不幸の真中まんなかを、円タクに乗つて、ひとり明るい中心を狙ふやうにぐるぐると廻り出した。血は振り廻されるやうに流れて来た。

4

――俺は下から、

5

――俺は下から、

6

下から不幸が流れ出す故に、頭の上の明るい幸福を追つ馳けるのだ――だが、廻れば廻るほど、彼に付着して来たものは借金だつた。――幸福とは何物だ?――推進機から血を流して借金を追ひ廻す――その結果が一層不幸であると分つてゐても、明るいからを追つかけ廻したそのことだけでも幸福だ。――それが喜ばしい生活なら、下から不幸が流れ出して了ふまで、幸福な頭の方へ馳け廻らう。――死ねば不幸はなくなるだらう。――死なねば、幸はなくなるまい。――四人の中で死んだ者が幸福だ。――誰がその富籤とみくじを引き当てるか。――彼は競争する選手のやうに、円タクに乗つて飛んでゐた。

7

と、Mが死んだ。

8

彼は廻り続けた円タクの最後の線をひつ張つてMの病室へ飛び込んだ。が、Mの病室は空虚からだつた。医者が出て来て彼に云つた。
「今日、退院なさいました。」
「どこへ行つたのです?」
「さア、それは分りません。」

9

――それや、さうだ。

10

――だが身体の中で何の必要もない盲腸でられると云ふことは?

11

――身体の中に、誰でも一つ、幸福を抱いてゐると云ふことになつて来る。

12

彼は円タクに乗つて、盲腸のやうな身体をホテルに着けた。ホテルのボーイは彼に云つた。
「もう部屋は一つもございません。」

13

その次のホテルも彼に云つた。
「もう部屋は一つもございません。」

14

――死を幸福だと思ふものに、ホテルは部屋を借す必要は少しもない。

15

彼はまたぶらりと円タクの中へ飛び込んだ。
「どこへ参りませう。」と運転手は彼に訊いた。
「どこへでもやつてくれ。」

16

円タクは走り出した。彼は運転手の後から声をかけた。
「明るい街を通つてくれ、明るい街を。暗い街を通つたら金は出さぬぞ。」

17

――盲腸が円タクの中で叫んでゐる。

18

彼はにやりと笑ひ出した。

19

――此の盲腸は、今度は誰を殺すのだらう。

20

――だが、身体の中に、誰でも一つの盲腸を持つてゐると云ふことは?

21

彼は街路を、血管の中の虫のやうに馳け廻つた。だが、此の盲腸はどこへ行くと云ふのだらう。



底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社
   1981昭和56年8月31日初版発行
底本の親本:「文藝時代」
   1927昭和2年4月1日発行、第4巻第4号
初出:「文藝時代」
   1927昭和2年4月1日発行、第4巻第4号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2001年12月11日公開
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