横光利一
1
村の点燈夫は雨の中を帰っていった。火の点いた献灯の光りの下で、梨の花が雨に打たれていた。
灸は闇の中を眺めていた。点燈夫の雨合羽の襞が遠くへきらと光りながら消えていった。
「今夜はひどい雨になりますよ。お気をおつけ遊ばして。」
2
灸の母はそう客にいってお辞儀をした。
「そうでしょうね。では、どうもいろいろ。」
3
客はまた旅へ出ていった。
4
灸は雨が降ると悲しかった。向うの山が雲の中に隠れてしまう。路の上には水が溜った。河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は山の方から流れて来る。
「雨、こんこん降るなよ。
屋根の虫が鳴くぞよ。」
5
灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のような形をしているに相違ないと灸は考えた。
雨垂れの音が早くなった。池の鯉はどうしているか、それがまた灸には心配なことであった。
「雨こんこん降るなよ。
屋根の虫が鳴くぞよ。」
6
暗い外で客と話している俥夫の大きな声がした。間もなく、門口の八つ手の葉が俥の幌で揺り動かされた。俥夫の持った舵棒が玄関の石の上へ降ろされた。すると、幌の中からは婦人が小さい女の子を連れて降りて来た。
「いらっしゃいませ。今晩はまア、大へんな降りでこざいまして。さア、どうぞ。」
7
灸の母は玄関の時計の下へ膝をついて婦人にいった。
「まアお嬢様のお可愛らしゅうていらっしゃいますこと。」
8
女の子は眠むそうな顔をして灸の方を眺めていた。女の子の着物は真赤であった。灸の母は婦人と女の子とを連れて二階の五号の部屋へ案内した。灸は女の子を見ながらその後からついて上ろうとした。
「またッ、お前はあちらへ行っていらっしゃい。」と母は叱った。
9
灸は指を食わえて階段の下に立っていた。田舎宿の勝手元はこの二人の客で、急に忙しそうになって来た。
「三つ葉はあって?」
「まア、卵がないわ。姉さん、もう卵がなくなってしまったのね。」
10
活気よく灸の姉たちの声がした。茶の間では銅壺が湯気を立てて鳴っていた。灸はまた縁側に立って暗い外を眺めていた。飛脚の提灯の火が街の方から帰って来た。びしょ濡れになった犬が首を垂れて、影のように献燈の下を通っていった。
11
宿の者らの晩餐は遅かった。灸は御飯を食ぺてしまうともう眠くなって来た。彼は姉の膝の上へ頭を乗せて母のほつれ毛を眺めていた。姉は沈んでいた。彼女はその日まだ良人から手紙を受けとっていなかった。暫くすると、灸の頭の中へ女の子の赤い着物がぼんやりと浮んで来た。そのままいつの間にか彼は眠ってしまった。
12
翌朝灸はいつもより早く起きて来た。雨はまだ降っていた。家々の屋根は寒そうに濡れていた。鶏は庭の隅に塊っていた。
13
灸は起きると直ぐ二階へ行った。そして、五号の部屋の障子の破れ目から中を覗いてみたが、蒲団の襟から出ている丸髷とかぶらの頭が二つ並んだまままだなかなか起きそうにも見えなかった。
14
灸は早く女の子を起したかった。彼は子供を遊ばすことが何よりも上手であった。彼はいつも子供の宿ったときに限ってするように、また今日も五号の部屋の前を往ったり来たりし始めた。次には小さな声で歌を唄った。暫くして、彼はソッと部屋の中を覗くと、婦人がひとり起きて来て寝巻のまま障子を開けた。
「坊ちゃんはいい子ですね。あのね、小母さんはまだこれから寝なくちゃならないのよ。あちらへいってらっしゃいな。いい子ね。」
15
灸は婦人を見上げたまま少し顔を赧くして背を欄干につけた。
「あの子、まだ起きないの?」
「もう直ぐ起きますよ。起きたら遊んでやって下さいな。いい子ね、坊ちゃんは。」
16
灸は障子が閉まると黙って下へ降りた。母は竈の前で青い野菜を洗っていた。灸は庭の飛び石の上を渡って泉水の鯉を見にいった。鯉は静に藻の中に隠れていた。灸はちょっと指先を水の中へつけてみた。灸の眉毛には細かい雨が溜り出した。
「灸ちゃん。雨がかかるじゃないの。灸ちゃん。雨がよう。」と姉がいった。
17
二度目に灸が五号の部屋を覗いたとき、女の子はもう赤い昨夜の着物を着て母親に御飯を食べさせてもらっていた。女の子が母親の差し出す箸の先へ口を寄せていくと、灸の口も障子の破れ目の下で大きく開いた。
18
灸はふとまだ自分が御飯を食べていないことに気がついた。彼は直ぐ下へ降りていった。しかし、彼の御飯はまだであった。灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの滴を仰いでいた。
「雨こんこん降るなよ。
屋根の虫が鳴くぞよ。」
19
河は濁って太っていた。橋の上を駄馬が車を輓いて通っていった。生徒の小さ番傘が遠くまで並んでいた。灸は弁当を下げたかった。早くオルガンを聴きながら唱歌を唄ってみたかった。
「灸ちゃん。御飯よ。」と姉が呼んだ。
20
茶の間へ行くと、灸の茶碗に盛られた御飯の上からはもう湯気が昇っていた。青い野菜は露の中に浮んでいた。灸は自分の小さい箸をとった。が、二階の女の子のことを思い出すと彼は箸を置いて口を母親の方へ差し出した。
「何によ。」と母は訊いて灸の口を眺めていた。
「御飯。」
「まア、この子ってば!」
「御飯よう。」
「そこにあなたのがあるじゃありませんか。」
21
母はひとり御飯を食べ始めた。灸は顎をひっ込めて少しふくれたが、直ぐまた黙って箸を持った。彼の椀の中では青い野菜が凋れたまま泣いていた。
22
三度目に灸が五号の部屋を覗くと、女の子は座蒲団を冠って頭を左右に振っていた。
「お嬢ちゃん。」
23
灸は廊下の外から呼んでみた。
「お這入りなさいな。」と、婦人はいった。
24
灸は部屋の中へ這入ると暫く明けた障子に手をかけて立っていた。女の子は彼の傍へ寄って来て、
「アッ、アッ。」といいながら座蒲団を灸の胸へ押しつけた。
25
灸は座蒲団を受けとると女の子のしていたようにそれを頭へ冠ってみた。
「エヘエヘエヘエヘ。」と女の子は笑った。
26
灸は頭を振り始めた。顔を顰めて舌を出した。それから眼をむいて頭を振った。
27
女の子の笑い声は高くなった。灸はそのままころりと横になると女の子の足元の方へ転がった。
28
女の子は笑いながら手紙を書いている母親の肩を引っ張って、
「アッ、アッ。」といった。
29
婦人は灸の方をちょっと見ると、
「まア、兄さんは面白いことをなさるわね。」といっておいて、また急がしそうに、別れた愛人へ出す手紙を書き続けた。
30
女の子は灸の傍へ戻ると彼の頭を一つ叩いた。
31
灸は「ア痛ッ。」といった。
32
女の子は笑いながらまた叩いた。
「ア痛ッ、ア痛ッ。」
33
そう灸は叩かれる度ごとにいいながら自分も自分の頭を叩いてみて、
「ア痛ッ、ア痛ッ。」といった。
34
女の子が笑うと、彼は調子づいてなお強く自分の頭をぴしゃりぴしゃりと叩いていった。すると、女の子も、「た、た。」といいながら自分の頭を叩き出した。
35
しかし、いつまでもそういう遊びをしているわけにはいかなかった。灸は突然犬の真似をした。そして、高く「わん、わん。」と吠えながら女の子の足元へ突進した。女の子は恐わそうな顔をして灸の頭を強く叩いた。灸はくるりとひっくり返った。
「エヘエヘエヘエヘ。」とまた女の子は笑い出した。
36
すると、灸はそのままひっくり返りながら廊下へ出た。女の子はますます面白がって灸の転がる後からついて出た。灸は女の子が笑えば笑うほど転がることに夢中になった。顔が赤く熱して来た。
「エヘエヘエヘエヘ。」
37
いつまでも続く女の子の笑い声を聞いていると、灸はもう止まることが出来なかった。笑い声に煽られるように廊下の端まで転がって来ると階段があった。しかし、彼にはもう油がのっていた。彼はまた逆様になってその段々を降り出した。裾がまくれて白い小さな尻が、「ワン、ワン。」と吠えながら少しずつ下がっていった。
「エヘエヘエヘエヘ。」
38
女の子は腹を波打たして笑い出した。二、三段ほど下りたときであった。突然、灸の尻は撃たれた鳥のように階段の下まで転った。
「エヘエヘエヘエヘ。」
39
階段の上では、女の子は一層高く笑って面白がった。
「エヘエヘエヘエヘ。」
40
物音を聞きつけて灸の母は馳けて来た。
「どうしたの、どうしたの。」
41
母は灸を抱き上げて揺ってみた。灸の顔は揺られながら青くなってべたりと母親の胸へついた。
「痛いか、どこが痛いの。」
42
灸は眼を閉じたまま黙っていた。
43
母は灸を抱いて直ぐ近所の医者の所へ馳けつけた。医者は灸の顔を見ると、「アッ。」と低く声を上げた。灸は死んでいた。
44
その翌日もまた雨は朝から降っていた。街へ通う飛脚の荷車の上には破れた雨合羽がかかっていた。河には山から筏が流れて来た。何処かの酒庫からは酒桶の輪を叩く音が聞えていた。その日婦人はまた旅へ出ていった。
「いろいろどうもありがとうこざいまして。」
45
彼女は女の子の手を持って灸の母に礼をいった。
「では御気嫌よろしく。」
46
赤い着物の女の子は俥の幌の中へ消えてしまった。山は雲の中に煙っていた。雨垂れはいつまでも落ちていた。郵便脚夫は灸の姉の所へ重い良人の手紙を投げ込んだ。
47
夕暮れになると、またいつものように点燈夫が灸の家の門へ来た。献燈には新らしい油が注ぎ込まれた。梨の花は濡れ光った葉の中で白々と咲いていた。そして、点燈夫は黙って次の家の方へ去っていった。
48
真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にされた馬の背中まで這い上った。
二
49
馬は一条の枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背の老いた馭者の姿を捜している。
50
馭者は宿場の横の饅頭屋の店頭で、将棋を三番さして負け通した。
「何に? 文句をいうな。もう一番じゃ。」
51
すると、廂を脱れた日の光は、彼の腰から、円い荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。
三
52
宿場の空虚な場庭へ一人の農婦が馳けつけた。彼女はこの朝早く、街に務めている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿った三里の山路を馳け続けた。
「馬車はまだかのう?」
53
彼女は馭者部屋を覗いて呼んだが返事がない。
「馬車はまだかのう?」
歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。
「馬車はまだかの?」
「先刻出ましたぞ。」
54
答えたのはその家の主婦である。
「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちと早よ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」
55
農婦は性急な泣き声でそういう中に、早や泣き出した。が、涙も拭かず、往還の中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。
「二番が出るぞ。」
56
猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛を吊り上げた。
「出るかの。直ぐ出るかの。倅が死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」
「桂馬と来たな。」
「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれるのう。」
「二番が出るわい。」と馭者はぽんと歩を打った。
「出ますかな、街までは三時間もかかりますかな。三時間はたっぷりかかりますやろ。倅が死にかけていますのじゃ、間に合せておくれかのう?」
四
57
野末の陽炎の中から、種蓮華を叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「何アに。」
「重たかろうが。」
58
若者は黙っていかにも軽そうな容子を見せた。が、額から流れる汗は塩辛かった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘は呟いた。
59
若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
60
二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。
61
種蓮華を叩く音だけが、幽かに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
「私が持とう。もう肩が直ったえ。」
62
若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。
五
63
宿場の場庭へ、母親に手を曳かれた男の子が指を銜えて這入って来た。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来た。そうして二間ほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った。
64
馬は首を擡げて耳を立てた。男の子は馬の真似をして首を上げたが、耳が動かなかった。で、ただやたらに馬の前で顔を顰めると、再び、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで地を打った。
65
馬は槽の手蔓に口をひっ掛けながら、またその中へ顔を隠して馬草を食った。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」
六
「おっと、待てよ。これは倅の下駄を買うのを忘れたぞ。あ奴は西瓜が好きじゃ。西瓜を買うと、俺もあ奴も好きじゃで両得じゃ。」
田舎紳士は宿場へ着いた。彼は四十三になる。四十三年貧困と戦い続けた効あって、昨夜漸く春蚕の仲買で八百円を手に入れた。今彼の胸は未来の画策のために詰っている。けれども、昨夜銭湯へ行ったとき、八百円の札束を鞄に入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。
66
農婦は場庭の床几から立ち上ると、彼の傍へよって来た。
「馬車はいつ出るのでござんしょうな。倅が死にかかっていますので、早よ街へ行かんと死に目に逢えまい思いましてな。」
「そりゃいかん。」
「もう出るのでござんしょうな、もう出るって、さっきいわしゃったがの。」
「さアて、何しておるやらな。」
67
若者と娘は場庭の中へ入ってきた。農婦はまた二人の傍へ近寄った。
「馬車に乗りなさるのかな。馬車は出ませんぞな。」
「出ませんか?」と若者は訊き返した。
「出ませんの?」と娘はいった。
「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。街へ着くと正午になりますやろか。」
「そりゃ正午や。」と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、
「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。正午になりますかいな。」
68
という中にまた泣き出した。が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。
「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」
69
猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向きになったまま、簀の子を洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。
「饅頭はまだ蒸さらんかいのう?」
七
70
馬車は何時になったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋の竈の中で、漸く脹れ始めた饅頭であった。何ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが、それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。
八
71
宿場の柱時計が十時を打った。饅頭屋の竈は湯気を立てて鳴り出した。
72
ザク、ザク、ザク。猫背の馭者は馬草を切った。馬は猫背の横で、水を充分飲み溜めた。ザク、ザク、ザク。
九
73
馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた。
「乗っとくれやア。」と猫背はいった。
74
五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。
75
猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。喇叭が鳴った。鞭が鳴った。
76
眼の大きなかの一疋の蠅は馬の腰の余肉の匂いの中から飛び立った。そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、漸く蜘蛛の網からその生命をとり戻した身体を休めて、馬車と一緒に揺れていった。
77
馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。
十
78
馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以来の知己にした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で野の中を見続けた。
「お母ア、梨々。」
「ああ、梨々。」
79
馭者台では鞭が動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に眼をつけた。
「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」
80
馭者台では喇叭が鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅頭を、今や尽く胃の腑の中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤に栄えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路の高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。しかし、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、僅かにただ蠅一疋であるらしかった。蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、それから、濡れた馬の背中に留って汗を舐めた。
81
馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿しの中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。
82
吉をどのような人間に仕立てるかということについて、吉の家では晩餐後毎夜のように論議せられた。またその話が始った。吉は牛にやる雑炊を煮きながら、ひとり柴の切れ目からぶくぶく出る泡を面白そうに眺めていた。
「やはり吉を大阪へやる方が好い。十五年も辛抱したなら、暖簾が分けてもらえるし、そうすりゃあそこだから直ぐに金も儲かるし。」
83
そう父親がいうのに母親はこう言った。
「大阪は水が悪いというから駄目駄目。幾らお金を儲けても、早く死んだら何もならない。」
「百姓をさせば好い、百姓を。」
84
と兄は言った。
「吉は手工が甲だから信楽へお茶碗造りにやるといいのよ。あの職人さんほどいいお金儲けをする人はないっていうし。」
85
そう口を入れたのはませた[#「ませた」に傍点]姉である。
「そうだ、それも好いな。」
86
と父親は言った。
87
母親だけはいつまでも黙っていた。
88
吉は流しの暗い棚の上に光っている硝子の酒瓶が眼につくと、庭へ降りていった。そして瓶の口へ自分の口をつけて、仰向いて立っていると、間もなくひと流れの酒の滴が舌の上で拡がった。吉は口を鳴らしてもう一度同じことをやってみた。今度は駄目だった。で、瓶の口へ鼻をつけた。
「またッ。」と母親は吉を睨んだ。
89
吉は「へへへ。」と笑って袖口で鼻と口とを撫でた。
「吉を酒やの小僧にやると好いわ。」
90
姉がそういうと、父と兄は大きな声で笑った。
91
その夜である。吉は真暗な涯のない野の中で、口が耳まで裂けた大きな顔に笑われた。その顔は何処か正月に見た獅子舞いの獅子の顔に似ているところもあったが、吉を見て笑う時の頬の肉や殊に鼻のふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]までが、人間のようにびくびくと動いていた。吉は必死に逃げようとするのに足がどちらへでも折れ曲がって、ただ汗が流れるばかりで結局身体はもとの道の上から動いていなかった。けれどもその大きな顔は、だんだん吉の方へ近よって来るのは来るが、さて吉をどうしようともせず、何時までたってもただにやりにやりと笑っていた。何を笑っているのか吉にも分からなかった。がとにかく彼を馬鹿にしたような笑顔であった。
92
翌朝、蒲団の上に坐って薄暗い壁を見詰めていた吉は、昨夜夢の中で逃げようとして藻掻いたときの汗を、まだかいていた。
93
その日、吉は学校で三度教師に叱られた。
94
最初は算術の時間で、仮分数を帯分数に直した分子の数を訊かれた時に黙っていると、
「そうれ見よ。お前はさっきから窓ばかり眺めていたのだ。」と教師に睨まれた。
95
二度目の時は習字の時間である。その時の吉の草紙の上には、字が一字も見あたらないで、宮の前の高麗狗の顔にも似ていれば、また人間の顔にも似つかわしい三つの顔が書いてあった。そのどの顔も、笑いを浮かばせようと骨折った大きな口の曲線が、幾度も書き直されてあるために、真っ黒くなっていた。
96
三度目の時は学校の退けるときで、皆の学童が包を仕上げて礼をしてから出ようとすると、教師は吉を呼び止めた。そして、もう一度礼をし直せと叱った。
97
家へ走り帰ると直ぐ吉は、鏡台の抽出から油紙に包んだ剃刀を取り出して人目につかない小屋の中でそれを研いだ。研ぎ終ると軒へ廻って、積み上げてある割木を眺めていた。それからまた庭に這入って、餅搗き用の杵を撫でてみた。が、またぶらぶら流し元まで戻って来ると俎を裏返してみたが急に彼は井戸傍の跳ね釣瓶の下へ駆け出した。
「これは甘いぞ、甘いぞ。」
98
そういいながら吉は釣瓶の尻の重りに縛り付けられた欅の丸太を取りはずして、その代わり石を縛り付けた。
暫くして吉は、その丸太を三、四寸も厚味のある幅広い長方形のものにしてから、それと一緒に鉛筆と剃刀とを持って屋根裏へ昇っていった。
99
次の日もまたその次の日も、そしてそれからずっと吉は毎日同じことをした。
100
ひと月もたつと四月が来て、吉は学校を卒業した。
101
しかし、少し顔色の青くなった彼は、まだ剃刀を研いでは屋根裏へ通い続けた。そしてその間も時々家の者らは晩飯の後の話のついでに吉の職業を選び合った。が、話は一向にまとまらなかった。
或日、昼餉を終えると親は顎を撫でながら剃刀を取り出した。吉は湯を呑んでいた。
「誰だ、この剃刀をぼろぼろにしたのは。」
102
父親は剃刀の刃をすかして見てから、紙の端を二つに折って切ってみた。が、少し引っかかった。父の顔は嶮しくなった。
「誰だ、この剃刀をぼろぼろにしたのは。」
103
父は片袖をまくって腕を舐めると剃刀をそこへあててみて、
「いかん。」といった。
104
吉は飲みかけた湯を暫く口へ溜めて黙っていた。
「吉がこの間研いでいましたよ。」と姉は言った。
「吉、お前どうした。」
105
やはり吉は黙って湯をごくりと咽喉へ落し込んだ。
「うむ、どうした?」
106
吉が何時までも黙っていると、
「ははア分った。吉は屋根裏へばかり上っていたから、何かしていたに定ってる。」
107
と姉は言って庭へ降りた。
「いやだい。」と吉は鋭く叫んだ。
「いよいよ怪しい。」
108
姉は梁の端に吊り下っている梯子を昇りかけた。すると吉は跣足のまま庭へ飛び降りて梯子を下から揺すぶり出した。
「恐いよう、これ、吉ってば。」
109
肩を縮めている姉はちょっと黙ると、口をとがらせて唾を吐きかける真似をした。
「吉ッ!」と父親は叱った。
110
暫くして屋根裏の奥の方で、
「まアこんな処に仮面が作えてあるわ。」
111
という姉の声がした。
112
吉は姉が仮面を持って降りて来るのを待ち構えていて飛びかかった。姉は吉を突き除けて素早く仮面を父に渡した。父はそれを高く捧げるようにして暫く黙って眺めていたが、
「こりゃ好く出来とるな。」
113
またちょっと黙って、
「うむ、こりゃ好く出来とる。」
114
といってから頭を左へ傾け変えた。
115
仮面は父親を見下して馬鹿にしたような顔でにやりと笑っていた。
116
その夜、納戸で父親と母親とは寝ながら相談した。
「吉を下駄屋にさそう。」
117
最初にそう父親が言い出した。母親はただ黙ってきいていた。
「道路に向いた小屋の壁をとって、そこで店を出さそう、それに村には下駄屋が一軒もないし。」
118
ここまで父親が言うと、今まで心配そうに黙っていた母親は、
「それが好い。あの子は身体が弱いから遠くへやりたくない。」といった。
119
間もなく吉は下駄屋になった。
120
吉の作った仮面は、その後、彼の店の鴨居の上で絶えず笑っていた。無論何を笑っているのか誰も知らなかった。
121
吉は二十五年仮面の下で下駄をいじり続けて貧乏した。無論、父も母も亡くなっていた。
122
或る日、吉は久しぶりでその仮面を仰いで見た。すると仮面は、鴨居の上から馬鹿にしたような顔をしてにやりと笑った。吉は腹が立った。次に悲しくなった。が、また腹が立って来た。
「貴様のお蔭で俺は下駄屋になったのだ!」
123
吉は仮面を引きずり降ろすと、鉈を振るってその場で仮面を二つに割った。暫くして、彼は持ち馴れた下駄の台木を眺めるように、割れた仮面を手にとって眺めていた。が、ふと何んだかそれで立派な下駄が出来そうな気がして来た。すると間もなく、吉の顔はもとのように満足そうにぼんやりと柔ぎだした。
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変更作業:里実福太朗
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