島崎藤村
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近頃出した『千曲川のスケツチ』は装釘としては、宜い案です。国の方で父の碑を立てるに就て歌抔を集めた遺稿を、東京で印刷して欲しいと云ふので、有島さんに描いて貰つた表紙は赤ちやけた黒いラシャ紙に黒で印刷した素朴で強い感を与へた。
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私の従来作つた書物の中では、私では、有島さんに願つた、『家』の中の挿画の「台所」と「座敷」とである。家と云へば広漠なものだから、それを表はすには、「台所」や静物が宜からうと云ふので、台所に静物を置いた物にした。ランプを置いてある「座敷」の方は版にし易い様な油で描いて貰つた。田中さんの所で三度許り版を色々遣つて見たが、どうも巧く行かないといふので、有島さんに願つて、青い色にセピアを入れたのを、赤い色にセピアを混じて、それを初版の時に使つた。その初版の方は田中さんの方で紛失したが、再版の時からは反つて私の思ふ様に出来たと思ふ。
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私の書物に対しての考へを、極く大体に言へば、成る可く、かう貧しい、余り余裕のない人にも読んで貰ひたいといふ気持があるから、装釘などは質素にして、陰では色々の手数を掛けても、形に成る時は、成る可く簡単に、金の掛らぬ様な、皆の好みに合ふ様なものを造る。私の本は大抵仮表紙で、クロースの本などは一冊もない。一つは紙の表紙は色々変化も有つて面白いと思ふ。
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古い所では、一番初め『若菜集』を出した時は中村不折君が、骨を折つて描いて呉れた。自分でも注文もしたが、不折君の自分の考へも入れて描かうと、朝なんぞ写生に出掛けて呉れたりした。中村さんの装釘は『若菜集』で、大分知られて来た様な形も有つた。中村さんは自分で挿絵も描いたが、その時分「日本新聞」にも描いて居たかと思ふが、本の装釘は私の詩集の処女作が、初めてで、不折君も処女作で有つたらうと思ふ。
『一葉舟』を次に出した、詩と散文を集めた物であれも中村さんに頼んだ、字なんぞも自分で書いて呉れた。
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三番目の『夏草』は以前の美術院派の方々に御願をしたが、主に下村観山さんが担当して呉れた。菱田春草さんも「農夫」の画を描いて呉れた。横山大観さん、山田敬中さん抔も描いて呉れた。何でも当時は観山さんが谷中の寺で、描いて居られた時分で、淡黄色の地に、蜻蛉と蛍草を白で抜いた。表紙は全く下村さんの意匠である。あの「夏くさ」と云ふ小文字なども大変古い物から抜いた物である。
『落梅集』は、中村さんにお願ひして、矢張骨折つて、古い瓦に梅の花をあしらつた、表紙でした。
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私は信州で小説を書く外に、外の四冊の詩集を一冊に纏めたいと思つた。其時から以前明治学院時代から知つて居た、和田英作さんが、丁度西洋から帰つたので、和田氏に頼んで、白に藍を配して斜に曲線の併行した図案を描いて貰つて、表紙にし、中に四枚だけ挿画を描いて貰つたが、殊に『若菜集』の中に挿んだ、柔らかい春の私語とでも云ふ様な画は、大変宜く出来たが、石版にした故、再版から、すつかり壊れて、原画の面影が無くなつたと云うて宜い。此の『藤村詩集』の出た時は、私は信州に居つた故、余程和田君の趣味も表はれて好ましいと思ふ。
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此集はつい昨年の暮『改訂本』にして、小さい物にしたいと云ふので、原画を写真版にして入れたいと云うてゐたが、間がなかつたので、表紙は和田さんの先の意匠を取つた。色は同じ薄緑の様な色のみの調子を、私の考へでやり、先の意匠を傷けないで、新しい趣味のものが出来たかと思ふ。
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以上は詩集の方で、小説の方は、『緑蔭叢書』の第一編の『破戒』である。緑色の表紙は、どうかして私に合ふ様な表紙を造りたいと思つて、文字や輪廓は緑の蔭の色で、地は日光の当つた緑色のつもりで造った。三編とも同じで、初めは三宅克己さんにお願ひして、色々工夫して貰つた。『破戒』の挿画は鏑木清方さんに御願ひした。信州に居て、都会の方に、田舎の事を描いて貰ふので、信州の方から百姓の収穫の写真なんぞを参考として送つたりして、画いて頂いた。
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一体『緑蔭叢書』の表紙は、色々の色のある紙があれば宜いが、無いから石版にする事にした。泰金堂で、種々骨折つて呉れたが、思はしい色がないので、石目にして造つて見た事などが有つた。何にしろ職工が代る度に変つて、同じ様に行かないで困つてる。是丈は薄くつて深みの有る色を出して見たいと骨折つて、木の葉の桜や何かの若葉の色を写して見たいと思つたりした。同じグリンでもどうかして、宜い色を出さうと思つて居た。
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二編の『春』は和田さんが、稲毛に居る時分に昔知つて居るものだから、大変喜んで、進んで、描かうと云つて、本文を読んだりして描いて頂いたが、大変評判も宜いし、挿画としては、宜い物が出来た。
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短篇集の初めは『緑葉集』を出した。これは鏑木さんに頼んだが、モデルの適当なのがないので、甥の夫婦を連れて行き、「老嬢」の方は甥の妻を写し、「水彩画家」の方は、甥の輪廓丈けを取つた。
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博文館の方からは、『食後』と『藤村集』と二冊出したが、『藤村集』の方は長原さんにお願ひした。何にしろ表紙に使ふ宜い紙などが少ないので、黄の表紙に黒で、意匠は面白かつたが、本に成つて見れば、染めた紙故何んだか。然し簡単で宜いと皆が言つて呉れる。中の挿画は十七枚許り、木版に造つて頂かうと思つて、下図の様なものや、説明書のやうなものを拵へて御願ひした。他の短編には、何んだか「収穫」と題する一篇には、挿画の描き様がない。それから丁度大川端を通ると、秋の事で柿を売つてる男が有つて、どうしてもかう収穫の時分の感が表はれてゐるので、書き附けて手紙を上げて、果物売を描いて下さいと願つた。
『食後』の方は、有島さんに紹介して貰つて、南さんに御願ひした。さつぱりした物で、全然南さんの意匠で、広島の方で、手紙で往復したの故、困つた。版にすると、製版界の事情では、南さんや私の思ふ様に出来ない。
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今の製版界の事情では、とても画家の満足する様な物は出来ない時代である。兎に角私は、自分の拵へる本は矢張自分で拵へて、多少趣味とか、自分の好みとか云ふ物を入れたいと思ふ故、ついつい画家の方へ、無理な事を願つたことが多かつた。
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