島崎藤村
序
1
敬愛する吉村さん――樹さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸く今纏めることが出来た。
2
樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町の小学校へ通われる頃は、私は白金の明治学院へ通った。君と私とは殆んど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒えようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君独りで来られた。この書の中にある小諸城址の附近、中棚温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地がする。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
3
これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々なことを学んだ。田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択ぶように成った。この書の主なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。
4
樹さん、君のお父さんも最早居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川の川上から川下までを生々と眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友神津猛君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著した。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。
大正元年 冬
5
地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧ヶ原の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分蕨を採った。それから鴇窪という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
6
私は今、小諸の城址に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李も殆んど同時に開く。城址の懐古園には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時にすべての花を浚って行って了う。私達の教室は八重桜の樹で囲繞されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早すっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋れていた。
7
私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼等は各自の家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川の岸に随いて、蛙の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡、人参などの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久の領分でなく、小県の傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
8
ここでは男女が烈しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
9
Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠の間の平かな道も好きだ。
10
私は盛んな青麦の香を嗅ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧しつけられるような心持に成る。可怖しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
11
近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃な家族の人達が私の心を惹いた。
12
君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側から直に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛が飼われている。
13
Sの兄は大きなバケツを提げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲めて、新鮮な牛乳を罎詰にする仕度をした。暫時、私は立って眺めていた。
14
やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々な話を聞いた。牛の性質によって温順しく乳を搾らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西の入の牧場なぞが設けてあることを聞いた。
15
晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。
鉄砲虫
16
この山の上で、私はよく光沢の無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺の小屋の前や、桑畠の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
17
学校の小使が私にこんなことを言った。
烏帽子山麓の牧場
18
水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれていたが、M君は沢山信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。今ではB君がその後をうけて生徒に画学を教えている。B君は製作の余暇に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
19
土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県の傾斜を上った。
20
根津村には私達の学校を卒業したOという青年が居る。Oは兵学校の試験を受けたいと言っているが、最早一人前の農夫として恥しからぬ位だ。私はその家へも寄って、Oの母や姉に逢った。Oの母は肥満した、大きな体格の婦人で、赤い艶々とした頬の色なぞが素樸な快感を与える。一体千曲川の沿岸では女がよく働く、随って気象も強い。恐らく、これは都会の婦人ばかり見慣れた君なぞの想像もつかないことだろう。私は又、この土地で、野蛮な感じのする女に遭遇うこともある。Oの母にはそんな荒々しさが無い。何しろこの婦人は驚くべき強健な体格だ。Oの姉も労働に慣れた女らしい手を有っていた。
21
私はB君や、B君の隣家の主人に誘われて、根津村を見て廻った。隣家の主人はB君が小学校時代からの友達であるという。パノラマのような風光は、この大傾斜から擅に望むことが出来た。遠く谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
22
私達は村はずれの田圃道を通って、ドロ柳の若葉のかげへ出た。谷川には鬼芹などの毒草が茂っていた。小山の裾を選んで、三人とも草の上に足を投出した。そこでB君の友達は提げて来た焼酎を取出した。この草の上の酒盛の前を、時々若い女の連が通った。草刈に行く人達だ。
23
B君の友達は思出したように、
「君とここで鉄砲打ちに来て、半日飲んでいたっけナ」
24
と言うと、B君も同じように洋行以前のことを思出したらしい調子で、
「もう五年前だ――」
25
と答えた。B君は写生帳を取出して、灰色なドロ柳の幹、風に動くそのやわらかい若葉などを写し写し話した。一寸散歩に出るにも、この画家は写生帳を離さなかった。
26
翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子ヶ岳の麓を指して出掛けた。私が牧場のことを尋ねたら、B君も写生かたがた一緒に行こうと言出したので、到頭私は一晩厄介に成った。尤も、この村から牧場のあるところへは、更に一里半ばかり上らなければ成らない。案内なしに、私などの行かれる場処では無かった。
27
夏山――山鶺鴒――こういう言葉を聞いただけでも、君は私達の進んで行く山道を想像するだろう。「のっぺい」と称する土は乾いていて灰のよう。それを踏んで雑木林の間にある一条の細道を分けて行くと、黄勝なすずしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢った。
28
更に山深く進んだ。山鳩なぞが啼いていた。B君は歩きながら飛騨の旅の話を始めて、十一という鳥を聞いた時の淋しかったことを言出した。「十一……十一……十一……」とB君は段々声を細くして、谷を渡って行く鳥の啼声を真似て聞かせた。そのうちに、私達はある岡の上へ出て来た。
29
君、白い鈴のように垂下った可憐な草花の一面に咲いた初夏の光に満ちた岡の上を想像したまえ。私達は、あの香気の高い谷の百合がこんなに生えている場所があろうとは思いもよらなかった。B君は西洋でこの花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまり沢山あるので終には採る気もなかった。二人とも足を投出して草の中に寝転んだ。まるで花の臥床だ。谷の百合は一名を君影草とも言って、「幸福の帰来」を意味するなどと、花好きなB君が話した。
30
話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は倦むことを知らなかった。岡の上には到るところに躑躅の花が咲いていた。この花は牛が食わない為に、それでこう繁茂しているという。
31
一周すれば二里あまりもあるという広々とした高原の一部が私達の眼にあった。牛の群が見える。何と思ったか、私達の方を眼掛けて突進してくる牛もある。こうして放し飼にしてある牛の群の側を通るのは、慣れない私には気味悪く思われた。私達は牧夫の住んでいる方へと急いだ。
32
番小屋は谷を下りたところにあった。そこへ行く前に沢の流れに飲んでいる小牛、蕨を採っている子供などに逢った。牛が来て戸や障子を突き破るとかで、小屋の周囲には柵が作ってある。年をとった牧夫が住んでいた。僅かばかりの痩せた畑もこの老爺が作るらしかった。破れた屋根の下で、牧夫は私達の為に湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
33
壁には鋸、鉈、鎌の類を入れた「山猫」というものが掛けてあった。こんな山の中までよく訪ねて来てくれたという顔付で、牧夫は私達に牛飼の経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手宛を貰っていることや、自分は他の牧場からこの西の入の沢へ移って来たものであることなどを話した。牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、物を破壊して困るとか言った。今は草も短く、少いから、草を食い食い進むという話もあった。
34
牧夫は一寸考えて、見えなくなった牛のことを言出した。あの山間の深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
35
こう復た考え直したように、その牛のことを言った。
36
間もなく私達は牧夫に伴われて、この番小屋を出た。牧夫は、多くの牛が待っているという顔付で、手に塩を提げて行った。途次私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛の為に好いです」とか「今は木が低いから、夏はいきれていけません」とか、種々な事を言って聞かせた。
37
ここへ来て見ると、人と牛との生涯が殆んど混り合っているかのようである。この老爺は、牛が塩を嘗めて清水を飲みさえすれば、病も癒えるということまで知悉していた。月経期の牝牛の鳴声まで聞き分ける耳を持っていた。
38
アケビの花の紫色に咲いている谷を越して、復た私達は牛の群の見えるところへ出た。牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛が先ず耳を振りながらやって来た。つづいて、額の広い、目付の愛らしい赤牛や、首の長い斑なぞがぞろぞろやって来て、「御馳走」と言わないばかりに頭を振ったり尻尾を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりには、家を懐しがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集り、弱い牛は弱い牛と組を立てるなどと話した。向うの傾斜の方には、臥たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
39
この牧場では月々五十銭ずつで諸方の持主から牝牛を預っている。そういう牝牛が今五十頭ばかり居る。種牛は一頭置いてある。牧夫が勤めの主なるものは、牛の繁殖を監督することであった。礼を言って、私達はこの番人に別れた。
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そ の 二
青麦の熟する時
40
学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬の紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣る。校長の家では毎年可成な農家ほどに野菜を作った。燕麦なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
41
私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
42
粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔の労苦を聞いた。地を鋤くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋を穿いて漸くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒くという。麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
43
南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微な西風が私達の顔を撫でて、窓の外を通る時候に成って来た。
少 年 の 群
44
学校の帰路に、鉄道の踏切を越えた石垣の下のところで、私は少年の群に逢った。色の黒い、二本棒の下った、藁草履を穿いた子供等で、中には素足のまま土を踏んでいるのもある。「野郎」、「この野郎」、と互に顔を引掻きながら、相撲を取って遊んでいた。
45
何処の子供も一種の俳優だ。私という見物がそこに立って眺めると、彼等は一層調子づいた。これ見よがしに危い石垣の上へ登るのもあれば、「怪我しるぞ」と下に居て呼ぶのもある。その中で、体躯の小な子供に何歳に成るかと聞いてみた。
「おら、五歳」とその子供が答えた。
46
水車小屋の向うの方で、他の少年の群らしい声がした。そこに遊んでいた子供の中には、それを聞きつけて、急に馳出すのもあった。
「来ねえか、この野郎――ホラ、手を引かれろ」
47
とさすがに兄らしいのが、年下の子供の手を助けるように引いた。
「やい、米でも食え」
48
こんなことを言って、いきなり其処にある草を毟って、朋輩の口の中へ捻込むのもあった。
49
すると、片方も黙ってはいない。覚えておれと言わないばかりに、「この野郎」と叫んだ。
「畜生!」一方は軽蔑した調子で。
「ナニ? この野郎」片方は石を拾って投げつける。
「いやだいやだ」
50
と笑いながら逃げて行く子供を、片方は棒を持って追馳けた。乳呑児を背負ったまま、その後を追って行くのもあった。
51
君、こういう光景を私は学校の往還に毎日のように目撃する。どうかすると、大人が子供をめがけて、石を振上げて、「野郎――殺してくれるぞ」などと戯れるのを見ることもある。これが、君、大人と子供の間に極く無邪気に、笑いながら交換される言葉である。
52
東京の下町の空気の中に成長した君なぞに、この光景を見せたら、何と言うだろう。野蛮に相違ない。しかし、君、その野蛮は、疲れた旅人の官能に活気と刺戟とを与えるような性質のものだ。
麦 畠
53
青い野面には蒸すような光が満ちている。彼方此方の畠側にある樹木も活々とした新葉を着けている。雲雀、雀の鳴声に混って、鋭いヨシキリの声も聞える。
54
火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠はすべて石垣によって支えられる。その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。石垣と共に多いのは、柿の樹だ。黄勝な、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
55
小諸はこの傾斜に添うて、北国街道の両側に細長く発達した町だ。本町、荒町は光岳寺を境にして左右に曲折した、主なる商家のあるところだが、その両端に市町、与良町が続いている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町を通りぬけて、田圃側の細道へ出た。そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように見られる。白壁、土壁は青葉に埋れていた。
56
田圃側の草の上には、土だらけの足を投出して、あおのけさまに寝ている働き労れたらしい男があった。青麦の穂は黄緑に熟しかけていて、大根の花の白く咲き乱れたのも見える。私は石垣や草土手の間を通って石塊の多い細道を歩いて行った。そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
57
若い鷹は私の頭の上に舞っていた。私はある草の生えた場所を選んで、土のにおいなどを嗅ぎながら、そこに寝そべった。水蒸気を含んだ風が吹いて来ると、麦の穂と穂が擦れ合って、私語くような音をさせる。その間には、畠に出て「サク」を切ってるい百姓の鍬の音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちて行く細い水の響も伝わって来る。その響の中に、私は流れる砂を想像してみた。しばらく私はその音を聞いていた。しかし、私は野鼠のように、独りでそう長く草の中には居られない。乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。自然は、私に取っては、どうしても長く熟視めていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成るようなものだ。
58
で、復た私は起き上った。微温い風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へ掩い冠さるように成った。復た帽子を冠って、歩き廻った。
59
畠の間には遊んでいる子供もあった。手甲をはめ、浅黄の襷を掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ馳けて来た。そして、畠中で、大きな乳房の垂下った懐をさぐらせた。私は無心な絵を見る心地がして、しばらくそこに立って、この母子の方を眺めていた。草土手の雑草を刈取ってそれを背負って行く老婆もあった。
60
与良町の裏手で、私は畠に出て働いているK君に逢った。K君は背の低い、快活な調子の人で、若い細君を迎えたばかりであったが、行く行くは新時代の小諸を形造る壮年の一人として、土地のものに望を嘱されている。こういう人が、畠を耕しているということも面白く思う。
61
胡麻塩頭で、目が凹んで、鼻の隆い、節々のあらわれたような大きな手を持った隠居が、私達の前を挨拶して通った。腰には角の根つけの付いた、大きな煙草入をぶらさげていた。K君はその隠居を指して、この辺で第一の老農であると私に言って聞かせた。隠居は、何か思い付いたように、私達の方を振返って、白い短い髭を見せた。
62
肥桶を担いだ男も畠の向を通った。K君はその男の方をも私に指して見せて、あの桶の底には必と葱などの盗んだのが入っている、と笑いながら言った。それから、私は髪の赤白髪な、眼の色も灰色を帯びた、酒好らしい赤ら顔の農夫にも逢った。
古 城 の 初 夏
63
私の同僚に理学士が居る。物理、化学なぞを受持っている。
64
学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑、塩酸の壜、コップ、玻璃管などが置いてあった。蝋燭の火も燃えていた。学士は、手にしたコップをすこし傾げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
65
無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、口を開いたり、眼を円くしたりして眺めていた。微笑むもの、腕組するもの、頬杖突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠を入れると直に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
66
問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
67
と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫すぞ螫すぞ」
68
口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶えて、死んだ。
「最早マイりましたかネ」
69
と学士も笑った。
70
その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園の方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校から直に城址の方へ行くことにした。
71
はじめて私が学士に逢った時は、唯こんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しく成ろうとは思わなかった。私達は――三人の同僚を除いては、皆な旅の鳥で、その中でも学士は幾多の辛酸を嘗め尽して来たような人である。服装なぞに極く関わない、授業に熱心な人で、どうかすると白墨で汚れた古洋服を碌に払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎んぜられた。服装と月給とで人間の価値を定めたがるのは、普通一般の人の相場だ。しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけに行かなかった。これ程何もかも外部へ露出した人を、私もあまり見たことが無い。何時の間にか私はこの老学士と仲好に成って自分の身内からでも聞くように、その制えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くように成った。
72
私達は揃って出掛けた。学士の口からは、時々軽い仏蘭西語なぞが流れて来る。それを聞く度に、私は学士の華やかな過去を思いやった。学士は又、そんな関わない風采の中にも、何処か往時の瀟洒なところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留なぞが光ることがある。それを見ると、私は子供のように噴飯したくなる。
73
白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。学士は弓の袋や、クスネの類を入れた鞄を提げて歩きながら、
「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜が、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲が取れるんですトサ。此頃もネ、弓の弦を褒美に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑しいんですよ。何だッて聞きましたらネ――沖の鮫」
74
私は笑わずにいられなかった。学士も笑を制えかねるという風で、
「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなものですネ」
75
こういう阿爺さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達に挨拶して通った。
76
学士は見送って、
「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よく何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売りだ、とても話せない』なんて、エライ気焔サ。でも、面白い気象の人で、在へでも行くと、薬代がなけりゃ畠の物でも何でもいいや、葱が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には非常に受が好い……」
77
奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了った。
78
もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
79
今、弓を提げて破壊された城址の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
80
私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える。
81
懐古園内の藤、木蘭、躑躅、牡丹なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横わる光景が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅、楓の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下すことが出来る。
82
境内には見晴しの好い茶屋がある。そこに預けて置いた弓の道具を取出して、私は学士と一緒に苔蒸した石段を下りた。静かな矢場には、学校の仲間以外の顔も見えた。
「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」
「一年の御稽古でも、しばらく休んでいると、まるで当らない。なんだか串談のようですナ」
「こりゃ驚いた。尺二ですぜ。しっかり御頼申しますぜ」
「ボツン」
「そうはいかない――」
83
こんな話が、強弓をひく漢学の先生や、体操の教師などの間に起る。理学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当った。
84
古城址といえば、全く人の住まないところのように君には想像されたろう。私は残った城門の傍にある門番と、園内の茶屋とを君に紹介した。まだその外に、鶏を養う人なぞも住んでいる。この人は病身で、無聊に苦むところから、私達の矢場の方へ遊びに来る。そして、私達の弓が揃って引絞られたり、矢の羽が頬を摺ったりする後方に居て、奇警な批評を浴せかける。戯れに、
「どうです。先生、もう弓も飽いたから――貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にゃあ、それこそ此方のものだ……しかしこの弓は、永代続きそうだテ」こんなことを言って混返すので、折角入れた力が抜けて、弓もひけないものが有った。
85
小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家のように見えた。愛蔵する鷹の羽の矢が揃って白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。
86
急に、熱い雨が落ちて来た。雷の音も聞えた。浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。雨は通過ぎたかと思うと復急に落ちて来た。「いよいよ本物かナ」と言って、学士は新しく自分で張った七寸的を取除しに行った。
87
城址の桑畠には、雨に濡れながら働いている人々もあった。皆なで雲行を眺めていると、初夏らしい日の光が遽かに青葉を通して射して来た。弓仲間は勇んで一手ずつ射はじめた。やがて復たザアと降って来た。到頭一同は断念して、茶屋の方へ引揚げた。
88
私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹を見た。実に、学士はユックリユックリ歩いた。
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そ の 三
山 荘
89
浅間の方から落ちて来る細流は竹藪のところで二つに別れて、一つは水車小屋のある窪い浅い谷の方へ私の家の裏を横ぎり、一つは馬場裏の町について流れている。その流に添う家々は私の家の組合だ。私は馬場裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らねばならぬ。
90
組合頭は勤勉な仕立屋の亭主だ。この人が日頃出入する本町のある商家から、商売も閑な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
91
私は君に古城の附近をすこし紹介した。町家の方の話はまだ為なかった。仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
92
君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。そこで行き逢う人々の多くは
――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路や、田圃側の細い道なぞを択んで、勝手を知った人々は多く往ったり来たりする。
93
私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一瞥して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾と対照を成して土地の気質や殷富を表している。
94
麦秋だ。一年に二度ずつ黄色くなる野面が、私達の両側にあった。既に刈取られた麦畠も多かった。半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包を提げた百姓とも一緒に成った。
95
仕立屋は百姓を顧みて、
「もうすっかり植付が済みましたかネ」
「はい、漸く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
「暖くなった故かナ」
「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
96
百姓は眺め眺め答えた。
97
東沢の山荘には商家の人達が集っていた。店の方には内儀さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋天馬町の針問屋とか、浅草猿屋町の隠宅とかは、君にも私に可懐しい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
98
山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓も望まれるという。池の辺に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹かなかった。
99
私達は眺望のある二階の部屋へ案内された。田舎縞の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍へ来た。池の鯉の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
100
一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐の皿にのみ花鰹節が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節をすこしかいて来ておくれ」
101
と楼梯のところから階下を覗いて、小僧に吩咐けた。間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。
102
やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。それを仕立屋の前に置いた。二枚落しでいこうと番頭が言った。仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。番頭は盃を啣んで、「さあ誰でも来い」という顔付をした。「お貸しなさい、敵打だ」と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。どうやら主人の手も悪く成りかけた。番頭はぴッしゃり自分の頭を叩いて、「恐れ入ったかな」と舌打した。到頭主人の敗と成った。復た二番目が始まった。
103
階下では、大きな巾着を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌を取りに階下へ降りた。その時、私も庭を歩いて見た。小手毬の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者も有った。
104
池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
105
番頭は鼻の先へ握り拳を重ねて、大天狗をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。
106
こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘というやつはナカナカ意気なものですから」
107
と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本お持ちなさい」と言って、復た小僧が追いかけて来た。
毒 消 売 の 女
「毒消は宜う御座んすかねえ」
108
家々の門に立って、鋭い越後訛で呼ぶ女の声を聞くように成った。
109
黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷、日をうけて光る笠、あだかも燕が同じような勢揃いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方、此方の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気壮んなところまで互によく似ている。
銀 馬 鹿
「何処の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。
110
貧しい町を通って、黒い髭の生えた飴屋に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還によく通るところだ。岩石の多い桑畠の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠った豚の股が載せてあった。後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他に占領されてそれを知らずに働いているともいう。
祭 の 前 夜
111
春蚕が済む頃は、やがて土地では、祇園祭の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院の僧侶すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚と、襲うような臭気と、蚕の睡眠と、桑の出来不出来と、ある時は殆んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
112
秤を腰に差して麻袋を負ったような人達は、諏訪、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎は一時繭買の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景も、何となく町々に活気を添えるのである。
113
二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸く晴れた。霖雨の後の日光は殊にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗色に顕われた。この日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待っていた日だ。
114
私は町の団体の暗闘に就いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。ただ、祭以前に紛擾を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾りが漸く七日目に町々の空へ掛った。その余波として、御輿を担ぎ込まれるが煩さに移転したと言われる家すらあった。そういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。多くの商人は殊に祭の賑いを期待する。養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであるから。
115
夜に入って、「湯立」という儀式があった。この晩は主な町の人々が提灯つけて社の方へ集る。それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子を売っている人に逢った。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。
116
本町の通には紅白の提灯が往来の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋のI、紙店のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。
十三日の祇園
117
十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休まないでは毎時論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。
118
近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽を持出し、毛布をひろげ、その上に飲食する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀とが互に片肌抜で、稲荷鮨を漬けたり、海苔巻を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
119
午後に、家のものはB姉妹の許へ招かれて御輿の通るのを見に行った。Bは清少納言の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
120
光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適わしい。
121
祭を見に来た人達は鄙びた絵巻物を繰展げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂をして尻端を折った児もある。黒い、太い足に白足袋を穿て、裾の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢辺りの客と見えて、珍らしそうに眺めて行く西洋の婦人もあった。町の子供はいずれも嬉しそうに群集の間を飛んで歩いた。
122
やがて町の下の方から木の臼を転がして来た。見物はいずれも両側の軒下なぞへ逃げ込んだ。
「ヨイヨ。ヨイヨ」
123
と掛声して、重い御輿が担がれて来た。狭い往来の真中で、時々御輿は臼の上に置かれる。血気な連中はその周囲に取付いて、ぐるぐる廻したり、手を揚げて叫んだりする。壮んな歓呼の中に、復た御輿は担がれて行った。一種の調律は見物の身に流れ伝わった。私は戻りがけに子供まで同じ足拍子で歩いているのを見た。
124
この日は、町に紛擾のあった後で、何となく人の心が穏かでなかった。六時頃に復た本町の角へ出て見た。「ヨイヨヨイヨ」という掛声までシャガレて「ギョイギョ、ギョイギョ」と物凄く聞える。人々は酒気を帯て、今御輿が町の上の方へ担がれて行ったかと思うと急に復た下って来る。五六十人の野次馬は狂するごとく叫び廻る。多勢の巡査や祭事掛は駈足で一緒に附いて歩いた。丁度夕飯時で、見物は彼方是方へ散じたが、御輿の勢は反って烈しく成った。それが大きな商家の前などを担がれて通る時は、見る人の手に汗を握らせた。
125
急に御輿は一種の運動と化した。ある家の前で、衝突の先棒を振るものがある、両手を揚げて制するものがある、多勢の勢に駆られて見る間に御輿は傾いて行った。その時、家の方から飛んで出て、御輿に飛付き押し廻そうとするものもあった。騒ぎに踏み敷かれて、あるものの顔から血が流れた。「御輿を下せ御輿を下せ」と巡査が馳せ集って、烈しい論判の末、到頭輿丁の外は許さないということに成った。御輿の周囲は白帽白服の人で護られて、「さあ、よし、持ち上げろ」などという声と共に、急に復た仲町の方角を指して担がれて行った。見物の中には突き飛ばされて、あおのけさまに倒れた大の男もあった。
「それ早く逃げろ、子供々々」
126
皆な口々に罵った
「巡査も随分御苦労なことですな」
「ほんとに好い迷惑サ」
127
見物は言い合っていた。
128
暮れてから町々の提灯は美しく点った。簾を捲上げ、店先に毛氈なぞを敷き、屏風を立て廻して、人々は端近く座りながら涼んでいた。
129
御輿は市町から新町の方へ移った。ある坂道のところで、雨のように降った賽銭を手探りに拾う女の児なぞが有った。後には、提灯を手にして往来を探すような青砥の子孫も顕れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土を掴んだりして見るのも有った。さかしい慾の世ということを思わせた。
130
市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。私の懇意なT君という医者の家にも近い。その欄干の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽んでいるものや、人の顔を覗くものや、胴魔声に歌うものや、手を引かれて断り言う女連なぞが有った。
131
夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集って涼みがてら祭の噂をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。螢は暗い流の方から迷って来て、町中を飛んで、青い美しい光を放った。
後 の 祭
132
翌日は朝から涼しい雨が降った。家の周囲にある柿、李なぞの緑葉からは雫が滴った。李の葉の濡れたのは殊に涼しい。
133
本町の通では前の日の混雑した光景と打って変って家毎に祭の提灯を深く吊してある。紺暖簾の下にさげた簾も静かだ。その奥で煙草盆の灰吹を叩く音が響いて聞える位だ。往来には、娘子供が傘をさして遊び歩くのみだ。前の日に用いた木の臼も町の片隅に転してある。それが七月の雨に濡れている。
134
この十四日には家々で強飯を蒸し、煮染なぞを祝って遊び暮す日であるという。午後の四時頃に成っても、まだ空は晴れなかった。烏帽子を冠り、古風な太刀を帯びて、芝居の「暫」にでも出て来そうな男が、神官、祭事掛、子供などと一緒に、いずれも浅黄の直垂を着けて、小雨の降る町中の〆飾を切りに歩いた。
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そ の 四
中 棚
135
私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、桑などが植付けてある。
136
こういう谷が松林の多い崖を挟んで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間で水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。
137
八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。
138
中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠が見える。千曲川はその向を流れている。
139
午後の一時過に、私は田圃脇の道を通って、千曲川の岸へ出た。蘆、蓬、それから短い楊などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成た。A、A、Wなどいう連中だ。この人達は夏休を応用して、本を読みに私の家へ通っている。岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。その中には私達の学校の生徒も混っていた。
140
暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、眩暈がする位だ。川上の方を見ると、暗い岩蔭から白波を揚げて流れて来る。川下の方は又、矢のように早い。それが五里淵の赤い崖に突き当って、非常な勢で落ちて行く。どうして、この水瀬が是処の岩から向うの崖下まで真直に突切れるものではない。それに澄んだ水の中には、大きな岩の隠れたのがある。下手をマゴつけば押流されて了う。だから余程上の方からでも泳いで行かなければ、目的とする岩に取付いて上ることが出来ない。
141
平野を流れる利根などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく傾いている。私達は、この河底の露れた方に居て、溝萩の花などの咲いた岩の蔭で、二時間ばかりを過した。熱い砂の上には這いのめって、甲羅を乾しているものもあった。ザンブと水の中へ飛込むものもあった。このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、尻を端折ったりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。
142
三つの麦藁帽子が石の間にあらわれた。師範校の連中だ。
「ちったア釣れましたかネ」と私が聞いた。
「ええ、すっかり釣られて了いました」
「どうだネ、君の方は」
「五尾ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺されて了いました」
「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」
143
こんなことを言って、仲間の話を混返すものもあった。
144
この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽ることであった。林檎畠、葡萄棚なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
145
と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行そうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」
146
三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩いて、踊り上って笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯さずにはいられなかった。
147
やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎の方へ別れて行った。
148
この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚って眺望の好い位置に在る。
149
先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。あの頃は先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」などを教えてくれたものだった。その先生が今ではこういうとこに隠れて、花を植えて楽んだり鉱泉に老を養ったりするような、白髯の翁だ。どうかすると先生の口から先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような戯談を聞くこともある。でも先生の雄心は年と共に銷磨し尽すようなものでもない。客が訪ねて行くと、談論風発する。
150
水明楼へ来る度に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄に倚りながら恣に賞することが出来る。対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋が戻り橋だ。川向から聞える朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点く灯の色、種々思いやられる。
楢 の 樹 蔭
151
楢の樹蔭。
152
そこは鹿島神社の境内だ。学校が休みに成ってからも、私はよくその樹蔭を通る。
153
ある日、鉄道の踏切を越えて、また緑草の間の小径へ出た。楢の古木には、角の短い、目の愛らしい小牛が繋いであった。しばらく私が立って眺めていると、小牛は繋がれたままでぐるぐると廻るうちに、地を引くほどの長い綱を彼方此方の楢の幹へすっかり巻き付けて終った。そして、身動きすることも出来ないように成った。
154
向の草の中には、赤い馬と白い馬とが繋いであった。
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そ の 五
山 の 温 泉
155
夕立ともつかず、時雨ともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。最早初茸を箱に入れて、木の葉のついた樺色なやつや、緑青がかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。
156
一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。あの話を君にするのを忘れた。
157
温泉地にも種々あるが、山の温泉は別種の趣がある。上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、随って種々の便利も具わっている。しかし山国らしい温泉の感じは、反って不便な田沢、霊泉寺などに多く味われる。あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌や米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。自炊する浴客が多い。宿では部屋だけでも貸す。それに部屋付の竃が具えてある。浴客は下駄穿のまま庭から直に楼梯を上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。この土足で昇降の出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。鹿沢温泉と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
158
半ば緑葉に包まれ、半ば赤い崖に成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下に眺めて行った。私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。あの辺はいかにも田舎道らしい気のするところだ。途中に樹蔭もある。腰掛けて休む粗末な茶屋もある。
159
青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。彼等の背中に木の葉を挿して、それを僅かの日除としながら、田の草を取って働いていた。私なぞは洋傘でもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に随いて、谷深く坂道を上るように成る。川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 湯 ┃
┃ ※ み や ば ら ┃
┃ 本 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
※[#「※」はます記号、第3水準1-2-23、47-13]
160
升屋というは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
161
楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
162
十九夜の月の光がこの谷間に射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞えた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
163
理屈ッぽい人達の言いそうな言葉だ。
164
翌日は朝霧の籠った谿谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。
165
そこは保福寺峠と地蔵峠とに挟まれた谷間だ。二十日の月はその晩も遅くなって上った。水の流が枕に響いて眠られないので、一旦寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じを味った。高い欄に倚凭って聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。その他暗い沢の底の方には種々な声があった。――遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話声、犬の啼声、楽しそうな農夫の唄。
166
四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度して、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。
学 窓 の 一
167
夏休みも終って、復た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。
168
秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦の話をした。
169
私は『釈迦譜』を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲を読むように写出してある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
170
戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。
171
私は生徒の方を見た。生徒は私の言った意味を何と釈ったか、いずれも顔を見合せて笑った。中には妙な顔をして、頭を擁えているものもあった。
学 窓 の 二
172
樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。今は九月の若葉の時だ。
173
学校の校舎の周囲には可成多くの樹木を植えてある。大きな桜の実の熟する頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎の葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向を作っている。楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方に起る。テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉蔭で角力を取るものも多い。
174
学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。そこにも初秋らしい日が映っていた。
田 舎 教 師
175
朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途に、新しい弟子の話を私にして聞かせた。
176
弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」と懐かしがられている。
177
この叔父さんの説教最中に夕立が来た。まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。大事な貝割葉の方へ行った。雨に打たれる朝顔鉢の方へ行った。説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出した。
「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。その先生はまた、火事見舞に来て、朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。
九月の田圃道
178
傾斜に添うて赤坂の家つづきの見えるところへ出た。
179
浅間の山麓にあるこの町々は眠から覚めた時だ。朝餐の煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近に聞える。
180
熟しかけた稲田の周囲には、豆も莢を垂れていた。稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。九月も半ば過ぎだ。稲穂は種々で、あるものは薄の穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは紅毛の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色のが糯を作った田であることは、私にも見分けがつく。
181
朝日は谷々へ射して来た。
182
田圃道の草露は足を濡らして、かゆい。私はその間を歩き廻って、蟋蟀の啼くのを聞いた。
183
この節、浅間は日によって八回も煙を噴くことがある。
「ああ復た浅間が焼ける」と土地の人は言い合うのが癖だ。男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の団が望まれる。そういう時だけ火山の麓に住んでいるような心地を起させる。こういうところに住み慣れたものは、平素は、そんなことも忘れ勝ちに暮している。
184
浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山が往時の噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山の形状に一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。浅間ばかりでなく、蓼科山脈の方を眺めても、何の奇も無い山々ばかりだ。唯、面白いのは山の空気だ。昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆んど毎日のように変っている。
山 中 生 活
185
理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵の窓なぞが見える。その横について荒町の通へ出ると、畳表、鰹節、茶、雑貨などを商う店々の軒を並べたところに、可成大きな鍛冶屋がある。高い暗い屋根の下で、古風な髷に結った老爺が鉄槌の音をさせている。
186
この昔気質の老爺が学校の体操教師の父親さんだ。
187
朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場の側を裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。
188
山家と言っても、これから私達が行こうとしているところは真実の山の中だ。深い山林の中に住む人達の居る方だ。
189
粟、小豆、飼馬の料にするとかいう稗なぞの畠が、私達の歩るいて行く岡部の道に連なっていた。花の白い、茎の紅い蕎麦の畠なぞも到るところにあった。秋のさかりだ。体操の教師は耕作のことに委しい人だから、諸方に光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」というやつだとか、こっちの方に細い青黒い莢を垂れたのが「こうれい小豆」という種類だとか、御蔭で私は種々なことを教えて貰った。この体操教師は稲田を眺めたばかりで、その種類を区別するほど明るかった。
190
五六本松の岡に倚って立っているのを望んだ。囁道祖神のあるのは其処だ。
191
寺窪というところへ出た。農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙な山村だ。君に黒斑山のことは未だ話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。あの天主台から黒斑山の裾にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。その白壁の見えるのもこの山村だ。
192
塩俵を負って腰を曲めながら歩いて行く農夫があった。体操の教師は呼び掛けて、
「もう漬物ですか」と聞いた。
「今やりやすと二割方得ですよ」
193
荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えることを考えると見える。
194
前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈の獲物もあるだろう。こういう体操教師の後に随いて、私は学生と共に松林の方へ入った。この松林は体操教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額としか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木の林」と称える方に進み入った。
195
私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染みた手拭を冠り、襦袢肌抜ぎ尻端折という風で、前垂を下げて、藁草履を穿いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
196
その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬のように見えた。でも、健かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
197
母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
198
この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦な松林の中へ出た。刈草を負った男が林の間の細道を帰って行った。日は泄れて、湿った草の上に映っていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。
199
がらがらと音をさせて、柴を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。
200
熊笹、柴などを分けて、私達は蕈を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌で掻除けて見ると稀にあるのは紅蕈という食われないのか、腐敗した初蕈位のものだった。終には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠を提げたまま南瓜の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。
山 番
201
番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山の直ぐ裾にあたる。
202
三峯神社とした盗難除の御札を貼付けた馬小屋や、萩なぞを刈って乾してある母屋の前に立って、日の映った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。
203
鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達を怪むように吠えた。この犬は番人に飼われて、種々な役に立つと見えた。
204
番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫でさせるほどに成った。主人は鬚も剃らずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛で、この山の中に出来た南瓜なぞを切りながら働いていた。
205
四人の子供も庭へ出て来た。一番年長のは最早十四五になる。狭い帯を〆て藁草履なぞを穿いた、しかし髪の毛の黒い娘だ。年少の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞を帯びた顔付をしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鶏が一羽と、灰色な雌鶏が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了った。
206
小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際平素は寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺の板敷には薄縁を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺に置き並べてある。何一つ飾りの無い、煤けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦ばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
207
私達は草鞋掛のまま炉辺で足を休めた。細君が辣韮の塩漬にしたのと、茶を出して勧めてくれた。渇いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火を絶したことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。
208
一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。
209
やがて昼飯時だ。
210
庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰った蕈を焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始まった。細君は別に鶏と茄子の露、南瓜の煮付を馳走振に勧めてくれた。いずれも大鍋にウンとあった。私達は各自手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
211
この山の中で林檎を試植したら、地梨の虫が上って花の蜜を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
212
食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
213
私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
214
落葉松の畠も見えた。その苗は草のように嫩かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
215
主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚の木炭を焼いているという話もした。
216
この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘の村は菱野だから。
217
土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。
218
彼処はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
219
別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
220
白樺の幹は何処の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早美しく黄ばんだのも混っていた。
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そ の 六
秋の修学旅行
221
十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸へ戻って来た。この旅には殆んど一週間を費した。私達は蓼科、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
222
その中でも、千曲川の上流から野辺山が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。
甲 州 街 道
223
小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前に展けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。
224
一体、犀川に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。唯、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
225
私は、佐久、小県の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
226
馬流というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人の往来するのも見られる。
227
馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司で、街道からすこし離れた幽邃な松原湖の畔にある。Tは私達を待受けていたのだ。
228
白楊、蘆、楓、漆、樺、楢などの類が、私達の歩いて行く河岸に生い茂っていた。両岸には、南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊の跡、金峯、国師、甲武信、三国の山々、その高く聳えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望の中に入った。
229
日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
230
時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟の立登るのも見えた。
231
この谷の尽きたところに海の口村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。
山村の一夜
232
この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏戦争の後、仏蘭西兵の用いた軍馬は吾陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専にこのアルゼリイ種を指したものです。その後亜米利加産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂さが某の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御寵愛のファラリイスと云亜刺比亜産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御喜悦は何程でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
233
以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
234
静かな山村の夜――河水の氾濫を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯――鄙びた旅舎の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊の地をもう一度見ることが出来た。
235
ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
236
風呂桶が下水の溜の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度に私を驚かす。ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
237
私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類に成る人が提灯つけて旅舎へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
238
その娘も今では養子して、子供まであるとか。こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生なぞも何となく私の心を引いた。
239
君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅だ。草鞋穿で焚火に温りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺の楽しい光景なのだ。
高 原 の 上
240
翌朝私達は野辺山が原へ上った。私の胸には種々な記憶が浮び揚って来た。ファラリイスの駒三十四頭、牝馬二百四十頭、牡馬まで合せて三百余頭の馬匹が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。馬市の立つというあたりに作られた御仮屋、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人、四千人余の群集、そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随いて来た背の高い参事官だ。白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。それで居て動作には敏捷なところもあった。丁度あの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの型をその参事官に当嵌てみたりなぞした。あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
241
あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺の幹に朝日の映るさまなぞを眺めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦なぞを蒔いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅かな村落を形造っている。板橋村はその一番取付にある村だ。
242
以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾の見えた八つが岳が次第に険しい山骨を顕わして来て、終に紅色の光を帯びた巓まで見られる頃は、影が山から山へ映しておりました。甲州に跨る山脈の色は幾度変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ朝です。
243
男山、金峯山、女山、甲武信岳、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
244
夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖の半天に、股引、草鞋穿で、頬冠りした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬を肩に掛けた男もあり、肥桶を担いで腰を捻って行く男もあり、爺の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。気候、雑草、荒廃、瘠土などを相手に、秋の一日の烈しい労働が今は最早始まるのでした。
245
既に働いている農夫もありました。黒々とした「ノッペイ」の畠の側を進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗雫に成って、傍目をふらずに畠を打っておりました。大きな鍬を打込んで、身を横にして仆れるばかりに土の塊を起す。気の遠くなるような黒土の臭気は紛として、鼻を衝くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
246
高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延びて、冬季に吹く風の勁さも思いやられる。白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹は踞るように低く隠れている。秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡いて、柏の葉もうらがえりました。
247
ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜の花をもつのは爰です。
「かしばみ」の実の落ちこぼれるのも爰です。
248
爰には又、野の鳥も住み隠れました。笹の葉蔭に巣をつくる雲雀は、老いて春先ほどの勢も無い。鶉は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。見れば不格好な短い羽をひろげて、舞揚ろうとしてやがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
249
外の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝な蔭をとどめたところも有る。それは水の流を旅人に教えるので、そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。
250
今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少い。八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣に乏しいので、遠く爰まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
251
これは主に旧道から見た光景だ。趣の深いのも旧道だ。
252
以前私は新道の方をも取って、帰り路に原の中を通ったこともある。その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いていた。聞いてみると往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙しい生活の光景だと思った。
253
こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
254
この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。今は馬匹を見ることも少いが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
255
白樺の下葉は最早落ちていた。枯葉や草のそよぐ音――殊に槲の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
「まぐそ鷹」というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。私達はところどころにある茶色な楢の木立をも見て通った。それが遠い灰色の雲なぞを背景にして立つさまは、何んとなく茫漠とした感じを与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか言った。この辺は古い戦場の跡ででもあって、往昔海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
256
甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨を見つけた。葉は落ち尽して、小さな赤い実が残っていた。草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
257
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻しい坂道を甲州の方へ下りた。
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そ の 七
落 葉 の 一
258
毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。雑木林や平坦な耕地の多い武蔵野へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。ここの桑畠へ三度や四度もあの霜が来て見給え、桑の葉は忽ち縮み上って焼け焦げたように成る、畠の土はボロボロに爛れて了う……見ても可恐しい。猛烈な冬の威力を示すものは、あの霜だ。そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔かい。降り積る雪はむしろ平和な感じを抱かせる。
259
十月末のある朝のことであった。私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ下るのを見た。肉の厚い柿の葉は霜のために焼け損われたり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪えないで脆く落ちる。しばらく私はそこに立って、茫然と眺めていた位だ。そして、その朝は殊に烈しい霜の来たことを思った。
落 葉 の 二
260
十一月に入って急に寒さを増した。天長節の朝、起出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も皆な白く見渡される。裏口の柿の葉は一時に落ちて、道も埋れるばかりであった。すこしも風は無い。それでいて一葉二葉づつ静かに地へ下る。屋根の上の方で鳴く雀も、いつもよりは高くいさましそうに聞えた。
261
空はドンヨリとして、霧のために全く灰色に見えるような日だった。私は勝手元の焚火に凍えた両手をかざしたく成った。足袋を穿いた爪先も寒くしみて、いかにも可恐しい冬の近よって来ることを感じた。この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、殆んど五ヶ月の冬を過さねば成らぬ。その長い冬籠りの用意をせねば成らぬ。
落 葉 の 三
262
木枯が吹いて来た。
263
十一月中旬のことであった。ある朝、私は潮の押寄せて来るような音に驚かされて、眼が覚めた。空を通る風の音だ。時々それが沈まったかと思うと、急に復た吹きつける。戸も鳴れば障子も鳴る。殊に南向の障子にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素から見るとずっと近く聞えた。
264
障子を開けると、木の葉は部屋の内までも舞込んで来る。空は晴れて白い雲の見えるような日であったが、裏の流のところに立つ柳なぞは烈風に吹かれて髪を振うように見えた。枯々とした桑畠に茶褐色に残った霜葉なぞも左右に吹き靡いていた。
265
その日、私は学校の往と還とに停車場前の通を横ぎって、真綿帽子やフランネルの布で頭を包んだ男だの、手拭を冠って両手を袖に隠した女だのの行き過ぎるのに遭った。往来の人々は、いずれも鼻汁をすすったり、眼側を紅くしたり、あるいは涙を流したりして、顔色は白ッぽく、頬、耳、鼻の先だけは赤く成って、身を縮め、頭をかがめて、寒そうに歩いていた。風を背後にした人は飛ぶようで、風に向って行く人は又、力を出して物を押すように見えた。
266
土も、岩も、人の皮膚の色も、私の眼には灰色に見えた。日光そのものが黄ばんだ灰色だ。その日の木枯が野山を吹きまくる光景は凄まじく、烈しく、又勇ましくもあった。樹木という樹木の枝は撓み、幹も動揺し、柳、竹の類は草のように靡いた。柿の実で梢に残ったのは吹き落された。梅、李、桜、欅、銀杏なぞの霜葉は、その一日で悉く落ちた。そして、そこここに聚った落葉が風に吹かれては舞い揚った。急に山々の景色は淋しく、明るく成った。
炬 燵 話
267
私が君に山上の冬を待受けることの奈様に恐るべきかを話した。しかしその長い寒い冬の季節が又、信濃に於ける最も趣の多い、最も楽しい時であることをも告げなければ成らぬ。
268
それには先ず自分の身体のことを話そう。そうだ。この山国へ移り住んだ当時、土地慣れない私は風邪を引き易くて困った。こんなことで凌いで行かれるかと思う位だった。実際、人間の器官は生活に必要な程度に応じて発達すると言われるが、丁度私の身体にもそれに適したことが起って来た。次第に私は烈しい気候の刺激に抵抗し得るように成った。東京に居た頃から見ると、私は自分の皮膚が殊に丈夫に成ったことを感ずる。私の肺は極く冷い山の空気を呼吸するに堪えられる。のみならず、私は春先まで枯葉の落ちないあの椚林を鳴らす寒い風の音を聞いたり、真白に霜の来た葱畠を眺めたりして、屋の外を歩き廻る度に、こういう地方に住むものでなければ知らないような、一種刺すような快感を覚えるように成った。
269
草木までも、ここに成長するものは、柔い気候の中にあるものとは違って見える。多くの常磐樹の緑がここでは重く黒ずんで見えるのも、自然の消息を語っている。試みに君が武蔵野辺の緑を見た眼で、ここの礫地に繁茂する赤松の林なぞを望んだなら、色相の相違だけにも驚くであろう。
270
ある朝、私は深い霧の中を学校の方へ出掛けたことが有った。五六町先は見えないほどの道を歩いて行くと、これから野面へ働きに行こうとする農夫、番小屋の側にションボリ立っている線路番人、霧に湿りながら貨物の車を押す中牛馬の男なぞに逢った。そして私は――私自身それを感ずるように――この人達の手なぞが真紅に腫れるほどの寒い朝でも、皆な見かけほど気候に臆してはいないということを知った。
「どうです、一枚着ようじゃ有りませんか――」
271
こんなことを言って、皆な歩き廻る。それでも温熱が取れるという風だ。
272
それから私は学校の連中と一緒に成ったが、朝霧は次第に晴れて行った。そこいらは明るく成って来た。浅間の山の裾もすこし顕れて来た。早く行く雲なぞが眼に入る。ところどころに濃い青空が見えて来る。そのうちに西の方は晴れて、ポッと日が映って来る。浅間が全く見えるように成ると、でも冬らしく成ったという気がする。最早あの山の巓には白髪のような雪が望まれる。
273
こんな風にして、冬が来る。激しい気候を相手に働くものに取って、一年中の楽しい休息の時が来る。信州名物の炬燵の上には、茶盆だの、漬物鉢だの、煙草盆だの、どうかすると酒の道具まで置かれて、その周囲で炬燵話というやつが始まる。
小 六 月
274
気候は繰返す。温暖な平野の地方ではそれほど際立って感じないようなことを、ここでは切に感ずる。寒い日があるかと思うと、また莫迦に暖い日がある。それから復た一層寒い日が来る。いくら山の上でも、一息に冬の底へ沈んでは了わない。秋から冬に成る頃の小春日和は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである。俗に「小六月」とはその楽しさを言い顕した言葉だ。で、私はいくらかこの話を引戻して、もう一度十一月の上旬に立返って、そういう日あたりの中で農夫等が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。
小 春 の 岡 辺
275
風のすくない、雲の無い、温暖な日に屋外へ出て見ると、日光は眼眩しいほどギラギラ輝いて、静かに眺めることも出来ない位だが、それで居ながら日蔭へ寄れば矢張寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じ合ったのが、楽しい小春日和だ。
276
そういう日のある午後、私は小諸の町裏にある赤坂の田圃中へ出た。その辺は勾配のついた岡つづきで、田と田の境は例の石垣に成っている。私は枯々とした草土手に身を持たせ掛けて、眺め入った。
277
手廻しの好い農夫は既に収穫を終った頃だ。近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁はその辺に置き並べてあった。二人の丸髷に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖という小作人らしい風体で、女の機嫌を取り取り籾の俵を造っていた。そのあたりの田の面には、この一家族の外に、野に出て働いているものも見えなかった。
278
古い釜形帽を冠って、黄菊一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
「まあ、一服お吸い」
279
と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽と一緒に、石垣に倚りながら煙草を燻し始めた。女二人は話し話し働いた。
「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」などと女の語る声が聞えた。私は屋外に日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。振返って見ると、一方の畦の上には菅笠、下駄、弁当の包らしい物なぞが置いてあって、そこで男の燻す煙草の煙が日の光に青く見えた。
「さいなら、それじゃお静かに」
280
と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
281
鳥打帽は鍬を執って田の土をすこしナラし始めた。女二人が錯々と籾を振ったり、稲こきしたりしているに引替え、この雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直に鍬を杖にして、是方を眺めてはボンヤリと立っていた。
282
岡辺は光の海であった。黒ずんだ土、不規則な石垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢まで、小春の光の充ち溢れていないところは無かった。
283
私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。今一人はいかにも背の高い、痩せた、年若な農夫だ。高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕して、モミを打ち始めた。遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌だけは見えた。そして、その槌の音が遠い砧の音のように聞えた。
284
午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
285
そのうちに、畠側の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
286
急に私の背後から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫を急いでいた。子供はお茶の入ったことを知らせに来たのだ。信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息はその籾を叩く方に廻ってすこしも手を休めなかった。遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
287
子供にあんなことを言われると、私も咽喉が乾いて来た。
288
家へ帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近の眺望が改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。
農 夫 の 生 活
289
君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。私の話の中には、幾度か農家を訪ねたり、農夫に話し掛けたり、彼等の働く光景を眺めたりして、多くの時を送ったことが出て来る。それほど私は飽きない心地で居る。そして、もっともっと彼等をよく知りたいと思っている。見たところ、Openで、質素で、簡単で、半ば野外にさらけ出されたようなのが、彼等の生活だ。しかし彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んでいることを思う。同じような服装を着け、同じような農具を携え、同じような耕作に従っている農夫等。譬えば、彼等の生活は極く地味な灰色だ。その灰色に幾通りあるか知れない。私は学校の暇々に、自分でも鍬を執って、すこしばかりの野菜を作ってみているが、どうしても未だ彼等の心には入れない。
290
こうは言うものの、百姓の好きな私は、どうかいう機会を作って、彼等に近づくことを楽みとする。
291
赤い茅萱の霜枯れた草土手に腰掛け、桟俵を尻に敷き、田へ両足を投出しながら、ある日、私は小作する人達の側に居た。その一人は学校の小使の辰さんで、一人は彼の父、一人は彼の弟だ。辰さん親子は麦畠の「サク」を掛け起していたが、私の方へ来ては休み休み種々な話をした。雨、風、日光、鳥、虫、雑草、土、気候、そういうものは無くて叶わぬものでありながら、又百姓が敵として戦わねば成らないものでもある。そんなことから、この辺の百姓が苦むという種々な雑草の話が出た。水沢瀉、えご、夜這蔓、山牛蒡、つる草、蓬、蛇苺、あけびの蔓、がくもんじその他田の草取る時の邪魔ものは、私なぞの記憶しきれないほど有る。辰さんは田の中から、一塊の土を取って来て、青い毛のような草の根が隠れていることを私に示した。それは「ひょうひょう草」とか言った。この人達は又、その中から種々な薬草を見分けることを知っていた。「大抵の御百姓に、この稲は何だなんて聞いても、名を知らないのが多い位に、沢山いろいろと御座います」
292
話好きな辰さんの父親は、女穂、男穂のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥、稲田を荒らすという虫類の話などを私にして聞かせた。「地獄蒔」と言って、同じ麦の種を蒔くにも、農夫は地勢に応じたことを考えるという話もした。小諸は東西の風をうけるから、南北に向って「ウネ」を造ると、日あたりも好し、又風の為に穂の擦れ落ちる憂が無い、自分等は絶えずそんなことを工夫しているとも話した。
「しかし、上州の人に見せたものなら、こんなことでよく麦が取れるッて、消魂られます」
293
こう言って、隠居は笑った。
「この阿爺さんも、ちったア御百姓の御話が出来ますから、御二人で御話しなすって下さい」
294
と辰さんは言い置いて、麦藁帽の古いのを冠りながら復た畠へ出た。辰さんの弟も股引を膝までまくし上げ、素足を顕して、兄と一緒に土を起し始めた。二人は腰に差した鎌を取出して、時々鍬に附着する土を掻取って、それから復た腰を曲めて錯々とやった。
「浅間が焼けますナ」
295
と皆な言い合った。
296
私は掘起される土の香を嗅ぎ、弱った虫の声を聞きながら、隠居から身上話を聞かされた。この人は六十三歳に成って、まだ耕作を休まずにいるという。十四の時から灸、占の道楽を覚え、三十時代には十年も人力車を引いて、自分が小諸の車夫の初だということ、それから同居する夫婦の噂なぞもして、鉄道に親を引つぶされてからその男も次第に、零落したことを話した。
「お百姓なぞは、能の無いものの為るこんです……」
297
と隠居は自ら嘲るように言った。
298
その時、髪の白い、背の高い、勇健な体格を具えた老農夫が、同じ年格好な仲間と並んで、いずれも土の喰い入った大きな手に鍬を携えながら、私達の側を挨拶して通った。肥し桶を肩に掛けて、威勢よく向うの畠道を急ぐ壮年も有った。
収 穫
299
ある日、復た私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側にあたる岡の上に行って見た。
300
午後の四時頃だった。私が出た岡の上は可成眺望の好いところで、大きな波濤のような傾斜の下の方に小諸町の一部が瞰下される位置にある。私の周囲には、既に刈乾した田だの未だ刈取らない田だのが連なり続いて、その中である二家族のみが残って収穫を急いでいた。
301
雪の来ない中に早くと、耕作に従事する人達の何かにつけて心忙しさが思われる。私の眼前には胡麻塩頭の父と十四五ばかりに成る子とが互に長い槌を振上げて籾を打った。その音がトントンと地に響いて、白い土埃が立ち上った。母は手拭を冠り、手甲を着けて、稲の穂をこいては前にある箕の中へ落していた。その傍には、父子の叩いた籾を篩にすくい入れて、腰を曲めながら働いている、黒い日に焼けた顔付の女もあった。それから赤い襷掛に紺足袋穿という風俗で、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向ってすこしずつ振い落すと、その度に粃と塵埃との混り合った黄な煙を送る女もあった。
302
日が短いから、皆な話もしないで、塵埃だらけに成って働いた。岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦して笠を冠って働いているのがある。殊にその女房が箕を高く差揚げ風に立てているのが見える。風は身に染みて、冷々として来た。私の眼前に働いていた男の子は稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。母も上着の塵埃を払って着た。何となく私も身体がゾクゾクして来たから、尻端折を下して、着物の上から自分の膝を摩擦しながら、皆なの為ることを見ていた。
303
鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬冠りの男もあった。鎌を二挺持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」と言いつつ通過ぎる女もあった。
304
眼前の父子が打つ槌の音はトントンと忙しく成った。
「フン」、「ヨウ」の掛声も幽かに泄れて来た。そのうちに、父はへなへなした俵を取出した。腰を延ばして塵埃の中を眺める女もあった。田の中には黄な籾の山を成した。
305
その時は最早暮色が薄く迫った。小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄が立ち籠めた。向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
306
私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾をつめた俵に縄を掛けて、それを負いながら家を指して運んで行く様子だ。今は三人の女が主に成って働いた。岡辺も暮れかかって来て、野面に居て働くものも無くなる。向うの田の中に居る夫婦者の姿もよく見えない程に成った。
307
光岳寺の暮鐘が響き渡った。浅間も次第に暮れ、紫色に夕映した山々は何時しか暗い鉛色と成って、唯白い煙のみが暗紫色の空に望まれた。急に野面がパッと明るく成ったかと思うと、復た響き渡る鐘の音を聞いた。私の側には、青々とした菜を負って帰って行く子供もあり、男とも女とも後姿の分らないようなのが足速に岡の道を下って行くもあり、そうかと思うと、上着のまま細帯も締めないで、まるで帯とけひろげのように見える荒くれた女が野獣のように走って行くのもあった。
308
南の空には青光りのある星一つあらわれた。すこし離れて、また一つあらわれた。この二つの星の姿が紫色な暮の空にちらちらと光りを見せた。西の空はと見ると、山の端は黄色に光り、急に焦茶色と変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野面に投げた。働いている三人の女の頬冠り、曲めた腰、皆な一時に光った。男の子の鼻の先まで光った。最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜のこんもりとした欅の梢も暗い茶褐色に隠れて了った。
309
町の彼方にはチラチラ燈火が点き始めた。岡つづきの山の裾にも点いた。
310
父の農夫は引返して来て復た一俵負って行った。三人の女や男の子は急ぎ働いた。
「暗くなって、いけねえナア」と母の子をいたわる声がした。
「箒探しな――箒――」
311
と復た母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
312
やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵を揚げて取り集めなどする。女達が是方を向いた顔もハッキリとは分らないほどで、冠っている手拭の色と顔とが同じほどの暗さに見えた。
313
向うの田に居る夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色な稲田の中に暗く動くさまが、それとなく分る。
314
汽笛が寂しく響いて聞えた。風は遽然私の身にしみて来た。
「待ちろ待ちろ」
315
母の声がする。男の子はその側で、姉らしい女と共に籾を打った。彼方の岡の道を帰る人も暗く見えた。「おつかれでごわす」と挨拶そこそこに急いで通過ぎるものもあった。そのうちに、三人の女の働くさまもよくは見えない位に成って、冠った手拭のみが仄かに白く残った。振り上ぐる槌までも暗かった。
「藁をまつめろ」
316
という声もその中で聞える。
317
私がこの岡を離れようとした頃、三人の女はまだ残って働いていた。私が振返って彼等を見た時は、暗い影の動くとしか見えなかった。全く暮れ果てた。
巡 礼 の 歌
318
乳呑児を負った女の巡礼が私の家の門に立った。
319
寒空には初冬らしい雲が望まれた。一目見たばかりで、皆な氷だということが思われる。氷線の群合とも言いたい。白い、冷い、透明な尖端は針のようだ。この雲が出る頃に成ると、一日は一日より寒気を増して行く。
320
こうして山の上に来ている自分等のことを思うと、灰色の脚絆に古足袋を穿いた、旅窶れのした女の乞食姿にも、心を引かれる。巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。私は家のものと一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」と尋ねた。
「伊勢でござります」
「随分遠方だネ」
「わしらの方は皆なこうして流しますでござります」
「何処の方から来たんだネ」
「越後路から長野の方へ出まして、諸方を廻って参りました。これから寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
321
私は家のものに吩咐けて、この女に柿をくれた。女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
322
夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似二[#「二」は返り点]故丘一[#「一」は返り点]」という古い詩の句を思出す。近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科の山々よりも高いところに見える。近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。
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そ の 八
一ぜんめし
323
私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。
324
私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子を相手にして、石菖蒲、万年青などの青い葉に眼を楽ませながら錯々と着物を造える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩を渡世にする頭を円めた盲人が居る。駒鳥だの瑠璃だのその他小鳥が籠の中で囀っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
325
揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直に分る。自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。近頃は子息も大きく成って、母親さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴でもトントンとやるように成った。
326
揚羽屋には、うどんもある。尤も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走に成っている。それから、「お煮掛」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何でごわす」などと言って、内儀さんが大丼に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲に弓を取った自慢話なぞを始める。
327
そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来に繋いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。
松 林 の 奥
328
夷講の翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山あるきに出掛けた。W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を跋渉するには面白い道連だ。
329
小諸の町はずれに近い、与良町のある家の門で、
「煮いて貰うのだから、お米を一升も持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」
330
こう言ってくれる言葉を聞捨てて、私達は頭陀袋に米を入れ、毛布を肩に掛け、股引尻端折という面白い風をして、洋傘を杖につき、それに牛肉を提げて出掛けた。
331
出発は約束の時より一時間ばかり遅れた。八幡の杜を離れたのが、午後の四時半だった。日の暮れないうちにと、岡つづきの細道を辿って、浅間の方をさして上った。ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光って来て、既に暮色の迫るのを感じた。西の山々のかなたには、日も隠れた。私達は後方を振返り振返りして急いで行った。
332
静かな松林の中にある一筋の細道――それを分けて上ると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかり、松葉の落ち敷いた土を踏んで行っても足音もしなかった。林の中を泄れて射し入る残りの光が私達の眼に映った。西の空には僅かに黄色が残っていた。鳥の声一つ聞えなかった。
333
そのうちに、一つの松林を通越して、また他の松林の中へ入った。その時は、西の空は全く暗かった。月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄は煙るようであった。細長い幹と幹との並び立つさまは、この夕靄の灰色な中にも見えた。遠い方は暗く、木立も黒く、何となく深く静かに物寂しい。
334
宵の月は半輪で、冴えてはいたが、光は薄かった。私達が辿って行く道は松かげに成って暗かった。けれども一筋黒く眼にあって、松葉の散り敷いたところは殊に区別することが出来た。そこまで行くと、最早人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れない極く幽かな響に耳を立てたり、暗い奥の方を窺うようにして眺め入ったりした。先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方を向いてもよく顔が分らない程の光を辿って、猶奥深く進んだ。すべての物は暗い夜の色に包まれた。それが靄の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧と影のように見えた。ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を卸し、足を投出して、しばらく休んで行った。私は既に非常な疲労を覚えた。というは、腹具合が悪くて、飯を一度食わなかったから。で、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。やがて復た洋傘に力を入れて、起ち上った。
335
いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。私達二人の影は地に映って見えた。月の光は明るくなったり暗くなったりした。そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。七ひろ石だ。
「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足が前へ出なくなった」
「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
「ここで一つ休もうじゃありませんか」
「弱いナア。ああああ」
336
こう言合って、勇気を鼓して進もうとすると、疲れた足の指先は石に蹉いて痛い。復たぐったりと倒れるように、草の上へ横に成って休んだ。そこは浅間の中腹にある大傾斜のところで、あたりは茫漠とした荒れた原のように見えた。越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大石が夜色に包まれて眼に入るばかりだ。月の光も薄くこの山の端に満ちた。空の彼方には青い星の光が三つばかり冴えて見えた。灰白い夜の雲も望まれた。
深 山 の 燈 影
337
赤々と障子に映る燈火を見た時の私達の喜びは譬えようもなかった。私達は漸くのことで清水の山小屋に辿り着いた。
338
小屋の番人はまだ月明りの中で何か取片付けて働いている様子であった。私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆のままで炉辺に寛いだ。W君は毛布を身に纏いながら、
「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日は大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納が来ましたから、小母さんも見せたいからッて。それは立派なのが来ましたよ」
339
お竹さんは番人の細君のことで、本家の小母さんとは小諸を出がけに私達にすこしは多く米を持って行けと注意してくれた人だ。W君はこの人達と懇意で、話し方も忸々しい。
340
米を入れた頭陀袋、牛肉の新聞紙包、それから一かけの半襟なぞが、土産がわりにそこへ取出された。
341
番人は小屋へ入りがけに、
「肉には葱が宜しゅうごわしょうナア」
342
と言うと、W君も笑って、
「ああ葱は結構」
「序に、芋があったナア――そうだ、芋も入れるか」と番人は屋外へ出て行って、葱、芋の貯えたのを持って来た。やがて炉辺へドッカと座り、ぶすぶす煙る雑木を大火箸であらけ、ぱっと燃え付いたところへ櫟の枝を折りくべた。火勢が盛んに成ると、皆なの顔も赤々と見えた。
343
番人はまだ年も若く、前の年の四月にここへ引移って、五月に細君を迎えたという。火に映る顔は健かに輝き眼は小さいけれど正直な働き好きな性質を表していた。話をしては大きく口を開いて、頭を振り、舌の見える程に笑うのが癖のようだ。その笑い方はすこし無作法ではあるが、包み隠しの無いところは嫌味の無い面白い若者だ。直に懇意に成れそうな人だ。細君はまた評判の働き者で、顔色の赤い、髪の厚く黒い、どこかにまだ娘らしいところの残った、若く肥った女だ。まことに似合った好い若夫婦だ。
344
部屋の方は暗いランプに照らされていて、炉辺のみ明るく見えた。小屋の庭の隅には竃が置いてあって、そこから煙が登り始めた。飯をたく音も聞えて来た。細君はザクザクと葱を切りながら、
「私は幼少い時から寂しいところに育ちやしたが、この山へ来て慣れるまでには、真実に寂しい思をいたしやした」
345
こう山住の話をして聞かせる。亭主も私達が訪ねて来たことを嬉しそうに、その年作ったという葱の出来などを話し聞かせて夫婦して夕飯の仕度をしてくれた。炉には馬に食わせるとかの馬鈴薯を煮る大鍋が掛けてあったが、それが小鍋に取替えられた。細君が芋を入れれば、亭主はその上へ蓋を載せる。私達は「手鍋提げても」という俗謡にあるような生活を眼のあたり見た。
346
小猫は肉の香を嗅ぎつけて新聞紙包の傍へ鼻を押しつけ、亭主に叱られた。やがて私達の後を廻って遠慮なくW君の膝に上った。「野郎」と復た亭主に叱られて炉辺に縮み、寒そうに火を眺めて目を細くした。
「私はこの猫という奴が大嫌いですが、本家でもって無理に貰ってくれッて、連れて来やした」
347
と亭主は言って、色の黒い野鼠がこの小屋へ来ていたずらすることなど、山の中らしい話をして笑った。
「すこし煙たくなって来たナア。開けるか」とW君は起上って、細目に小屋の障子を開けた。しばらく屋外を眺めて立っていた。
「ああ好い月だ、冴え冴えとして」
348
と言いながらこの同僚が座に戻る頃は、鍋から白い泡を吹いて、湯気も立のぼった。
「さア、もういいよ」
「肉を入れて下さい」
「どれ入れるかナ。一寸待てよ、芋を見て――」
349
亭主は貝匙で芋を一つ掬った。それを鍋蓋の上に載せて、いくつかに割って見た。芋は肉を入れても可い程に煮えた。そこで新聞紙包が解かれ、竹の皮が開かれた。赤々とした牛の肉のすこし白い脂肪も混ったのを、亭主は箸で鍋の中に入れた。
「どうも甘そうな匂いがする。こんな御土産なら毎日でも頂きたい」と亭主がW君に言った。
350
細君は戸棚から、膳、茶碗、塗箸などを取出し、飯は直に釜から盛って出した。
「どうしやすか、この炉辺の方がめずらしくて好うごわしょう」
351
と細君に言われて、私達は焚火を眺め眺め、夕飯を始めた。その時は余程空腹を感じていた。
「さア、肉も煮えやした」と細君は給仕しながら款待顔に言った。
「お竹さん、勘定して下さい、沢山頂きますから」とW君も心易い調子で、「うまい、この葱はうまい。熱、熱。フウフウ」
「どうも寒い時は肉に限りますナア」と亭主は一緒にやった。
352
三杯ほど肉の汁をかえて、私も盛んな食欲を満たした。私達二人は帯をゆるめるやら、洋服のズボンをゆるめるやらした。
「さア、おかえなすって――山へ来て御飯がまずいなんて仰る方はありませんよ」
353
と細君が言ううち、つとW君の前にあった茶碗を引きたくった。W君はあわてて、奪い返そうとするように手を延ばしたが、間に合わなかった。細君はまた一ぱい飯を盛って勧めた。
354
W君は笑いながら頭を抱えた。「ひどいひどい――ひどくやられた」
「えッ、やられた?」と亭主も笑った。
「その位はいけやしょう」
「どうして、もう沢山頂いて、実際入りません」とW君は溜息吐いた後で、「チ、それじゃ、やるか。どうも一ぱい食った――ええ、香の物でやれ」
355
楽しい笑声の中に、私は夕飯を済ました。「お前も御馳走に成れ」という亭主の蔭で、細君も飯を始めた。戸棚の中に入れられた小猫は、物欲しそうに鳴いた。山の中のことで、亭主は牛肉を包んだ新聞紙をもめずらしそうに展げて、読んだ。W君はあまり詰込み過ぎたかして、毛布を冠ったまま暫時あおのけに倒れていた。
356
炭焼、兎狩の話なぞが夫婦の口からかわるがわる話された。やがて細君も膳を片付け、馬の飲料にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の家の倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たらその時は馬を引出そうと用意したに、彼方に倒れて、可恐しい思をしたことを話した。めったに外へ泊ったことの無い夫がその晩に限って本家で泊った、とも話した。
357
新築の家というは小屋に近く建ててあった。私達はその家の方へ案内されて、そこで一晩泊めて貰った。漸く普請が出来たばかりだとか、戸のかわりに唐紙を押つけ、その透間から月の光も泄れた。私達は毛布にくるまり、燈火も消し、疲れて話もせずに眠った。
山 の 上 の 朝 飯
358
翌朝の三時頃から、同じ家の内に泊っていた土方は最早起き出す様子だ。この人達の話声は、前の晩遅くまで聞えていた。雉子の鳴声を聞いて、私達も朝早く床を離れた。
359
私達は重なり畳なった山々を眼の下に望むような場処へ来ていた。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引いた。次第に山の端も輝いて、紅い雲が淡黄に変る頃は、夜前真黒であった落葉松の林も見えて来た。
360
亭主と連立って、私達は小屋の周囲にある玉菜畠、葱畠、菊畠などの間を見て廻った。大根乾した下の箱の中から、家鴨が二羽ばかり這出した。そして喜ばしそうに羽ばたきして、そこいらにこぼれたものを拾っては、首を縮めたり、黄色い口嘴を振ったり、ひょろひょろと歩き廻ったりした。
361
亭主は私達を馬小屋の前に連れて行った。赤い馬が首を出して、鼻をブルブル言わせた。冬季のことだから毛も長く延び、背は高く、目は優しく、肥大な骨格の馬だ。亭主は例のフスマに芋、葱のうでたのを混ぜ、ツタを加えて掻廻し、それを大桶に入れて、馬小屋の鍵に掛けて遣った。馬はあまえて、朝飯欲しそうな顔付をした。
「廻って来い」
362
と亭主が言うと、馬は主人の言葉を聞分けて、ぐるりと一度小屋の内を廻った。
「もう一度――」
363
と復た亭主が馬の鼻面を押しやった。それからこの可憐な動物は桶の中へ首を差込むことを許された。馬がゴトゴトさせて食う傍で、亭主は一斗五升の白水が一吸に尽されることを話して、私達を驚かした。
364
山上の雲は漸く白く成って行った。谷底も明けて行った。光の触れるところは灰色に望まれた。
365
細君が膳の仕度の出来たことを知らせに来た。めずらしいところで、私達は朝の食事をした。亭主は食べ了った茶碗に湯を注ぎ、それを汁椀にあけて飲み尽し、やがて箱膳の中から布巾を取出して、茶碗も箸も自分で拭いて納めた。
366
もう一度、私達は亭主と一緒に小屋を出て、朝日に光る山々を見上げ、見下した。亭主は望遠鏡まで取出して来て、あそこに見えるのが渋の沢、その手前の窪みが霊泉寺の沢、と一々指して見せた。八つが岳、蓼科の裾、御牧が原、すべて一望の中にあった。
367
層を成して深い谷底の方へ落ちた断崖の間には、桔梗、山辺、横取、多計志、八重原などの村々を数えることが出来る。白壁も遠く見える。千曲川も白く光って見える。
368
十二月に入ると山の雉は畠へ下りて来る、どうかすると人の足許より飛び立つことがある。兎も雪の中の麦を喰いに寄る。こうした話が私達にはめずらしい。
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そ の 九
雪国のクリスマス
369
クリスマスの夜とその翌日を、私は長野の方で送った。長野測候所に技手を勤むる人から私は招きの手紙を受けて、未知の人々に逢うために、小諸を発ち、汽車の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、長野まで行った。そこにある測候所を見たいと思ったのがこの小さな旅の目的の一つであった。私はそれも果した。
370
雪国のクリスマス――雪国の測候所――と言っただけでも、すでに何物か君の想像を動かすものがあるであろう。しかし私はその話を君にする前に、いかにこの国が野も山も雪のために埋もれて行ったかを話したいと思う。
371
毎年十一月の二十日前後には初雪を見る。ある朝私は小諸の住居で眼が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。塩のように細かい雪の降り積のが、こういう土地の特色だ。あまりに周囲の光景が白々としていた為か、私の眼にはいくらか青みを帯びて見える位だった。朝通いの人達が、下駄の歯につく雪になやみながら往来を辿るさまは、あたかも暗夜を行く人に異ならない。赤い毛布で頭を包んだ草鞋穿の小学生徒の群、町家の軒下にションボリと佇立む鶏、それから停車場のほとりに貨物を満載した車の上にまで雪の積ったさまなぞを見ると、降った、降った、とそう思う。私は懐古園の松に掛った雪が、時々崩れ落ちる度に、濛々とした白い烟を揚げるのを見た。谷底にある竹の林が皆な草のように臥て了ったのをも見た。
372
岩村田通いの馬車がこの雪の中を出る。馬丁の吹き鳴らす喇叭の音が起る。薄い蓙を掛けた馬の身はビッショリと濡て、粗く乱れた鬣からは雫が滴る。ザクザクと音のする雪の路を、馬車の輪が滑り始める。白く降り埋んだ道路の中には、人の往来の跡だけ一筋赤く土の色になって、うねうねと印したさまが眺られる。家ごとに出て雪をかく人達の混雑したさまも、こういう土地でなければ見られない光景だ。
373
薄い靄か霧かが来て雪のあとの町々を立ち罩めた。その日の黄昏時のことだ。晴れたナと思いながら門口に出て見ると、ぱらぱらと冷いのが襟にかかる。ヤア降ってるのかと、思わず髪に触ると、霧のように見えたのは矢張細かい雪だということが知れる。二度ばかり掻取った路も、また薄白くなって、夜に入れば、時々家の外で下駄の雪の落す音が、ハタハタと聞える。自分の家へ客でも訪れるのかと思うと、それが往来の人々であるには驚かされる。
374
雪明りで、暗いなかにも道は辿ることが出来る。町を通う人々の提灯の光が、夜の雪に映って、花やかに明るく見えるなぞもPicturesqueだ。
375
君、私はこの国に於ける雪の第一日のあらましを君に語った。この雪が残らず溶けては了わないことを、君に思ってみて貰いたい。殊に寒い日蔭、庭だとか、北側の屋根だとかには、何時までも消え残って、降り積った上へと復た積るので、その雪の凍ったのが春までも持越すことを思ってみて貰いたい。
376
しかし、これだけで未だ、私がこういう雪国に居るという感じを君に伝えるには、不充分だ。その雪の来た翌日になって見ると、屋根に残ったは一尺ほどで、軒先には細い氷柱も垂下り、庭の林檎も倒れ臥していた。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被せられたように成った。雪の翌日には、きまりで北の障子が明るくなる。灰色の空を通して日が照し始めると雪は光を含んでギラギラ輝く。見るもまぶしい。軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、退屈な、侘しく静かな思をさせる。
377
更に小諸町裏の田圃側へ出て見ると、浅々と萌え出た麦などは皆な白く埋もれて、岡つづきの起き伏すさまは、さながら雪の波の押し寄せて来るようである。さすがに田と田を区別する低い石垣には、大小の石の面も顕われ、黄ばんだ草の葉の垂れたのが見られぬでもない。遠い森、枯々な梢、一帯の人家、すべて柔かに深い鉛色を帯びて見える。この鉛色――もしくはすこし紫色を帯びたのが、これからの色彩の基調かとも言いたい。朦朧として、いかにもおぼつかないような名状し難い世界の方へ、人の心を連れて行くような色調だ。
378
翌々日に私はまた鶴沢という方の谷間へ出たことがあった。日光が恐しく烈しい勢で私に迫って来た。四面皆な雪の反射は殆んど堪えられなかった。私は眼を開いてハッキリ物を見ることも出来なかった。まぶしいところは通り過して、私はほとほと痛いような日光の反射と熱とを感じた。そこはだらだらと次第下りに谷の方へ落ちている地勢で、高低の差別なく田畠もしくは桑畠に成っている。一段々々と刻んでは落ちている地層の側面は、焦茶色の枯草に掩われ、ところどころ赤黝い土のあらわれた場所もある。その赤土の大波の上は枯々な桑畠で、ウネなりに白い雪が積って、日光の輝きを受けていた。その大波を越えて、蓼科の山脈が望まれ、遙かに日本アルプスの遠い山々も見えた。その日は私は千曲川の凄まじい音を立てて流れるのをも聞いた。
379
こんな風にして、溶けたと思う雪が復た積り、顕れた道路の土は復た隠れ、十二月に入って曇った空が続いて、日の光も次第に遠く薄く射すように成れば、周囲は半ば凍りつめた世界である。高い山々は雪嵐に包まれて、全体の姿を顕す日も稀だ。小諸の停車場に架けた筧からは水が溢れて、それが太い氷の柱のように成る。小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白いのを見ると、ア彼方は降ってるナと思うこともある。冬至近くに成れば、雲ともつかぬ水蒸気の群が細線の集合の如く寒い空に懸り、その蕭条とした趣は日没などに殊に私の心を引く。その頃には、軒の氷柱も次第に長くなって、尺余に及ぶのもある。草葺の屋根を伝う濁った雫が凍るのだから、茶色の長い剣を見るようだ。積りに積る庭の雪は、やがて縁側より高い。その間から顔を出す石南木なぞを見ると、葉は寒そうにべたりと垂れ、強い蕾だけは大きく堅く附着いている。冬籠りする土の中の虫同様に、寒気の強い晩なぞは、私達の身体も縮こまって了う……
380
こういう寒さと、凍った空気とを衝いて、私は未知の人々に逢う楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵にあたりながらの気象学の話や、文学上の精しい引証談なぞが、私の心を楽ませた。ラスキンが「近代画家」の中にある雲の研究の話なども出た。ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近時の雲形の研究は進んだものだ。こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
381
私が主人から紹介されたその若い婦人は、牧師の夫人で、主人が親しい友達であるという。快活な声で笑う人だった。その晩歌うクリスマスの唱歌で、その主人の手に成ったものも有るとのことだった。やがて降誕祭を祝う時刻も近づいたので、私達は連立って技手の家を出た。
382
私が案内されて行った会堂風の建物は、丁度坂に成った町の中途にあった。そこへ行くまでに私は雪の残った暗い町々を通った。時々私は技手と一緒に、凍った往来に足を留めて、後部の方に起る女連の笑声を聞くこともあった。その高い楽しい笑声が、寒い冬の空気に響いた時は、一層雪国の祭の夜らしい思をさせた。後に成って私は、若い牧師夫人が二度ほど滑って転んだことを知った。
383
赤々とした燈火は会堂の窓を泄れていた。そこに集っていた多勢の子供と共に、私は田舎らしいクリスマスの晩を送った。
長 野 測 候 所
384
翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
385
途次技手は私を顧みて、ある小説の中に、榛名の朝の飛雲の赤色なるを記したところが有ったと記憶するが、飛雲は低い処を行くのだから、赤くなるということは奈何などと話した。さすが専門家だけあって話すことがすべて精しかった。
386
測候所は建物としては小さいが、眺望の好い位置にある。そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、万般の設備は始めての私にはめずらしく思われた。雲形や気温の表を製作しつつ日を送る人々の生活なぞも、私の心を引いた。
387
やがて私は技手の後に随いて、狭い楼階を昇り、観測台の上へ出た。朝の長野の町の一部がそこから見渡される。向うに連なる山の裾には、冬らしい靄が立ち罩めて、その間の空虚なところだけ後景が明かに透けて見えた。
388
風力を測る器械の側で、技手は私に、暴風雨の前の雲――例えば広濶な海岸の地方で望まれるようなは、その全形をこの信濃の地方で望み難いことを話してくれた。その理由としては、山が高くて、気圧の衝突から雲はちぎれちぎれに成るという説明をも加えてくれた。
「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
389
こう技手は言って、それから私達の頭の上に群り集る幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
「あの雲は何と御覧ですか」
390
と私に指して尋ねた。
391
私も旅の心を慰める為に、すこしばかり雲の日記なぞをつけて見ているが、こう的確に専門家から問を出された時は、一寸返事に困った。
鉄 道 草
392
鉄道が今では中仙道なり、北国街道なりだ。この千曲川の沿岸に及ぼす激烈な影響には、驚かれるものがある。それは静かな農民の生活までも変えつつある。
393
鉄道は自然界にまで革命を持来した。その一例を言えば、この辺で鉄道草と呼んでいる雑草の種子は鉄道の開設と共に進入し来ったものであるという。野にも、畠にも、今ではあの猛烈な雑草の蔓延しないところは無い。そして土質を荒したり、固有の草地を制服したりしつつある。
屠 牛 の 一
394
上田の町はずれに屠牛場のあることは聞いていたがそれを見る機会もなしに過ぎた。丁度上田から牛肉を売りに来る男があって、その男が案内しようと言ってくれた。
395
正月の元日だ。新年早々屠牛を見に行くとは、随分物数寄な話だとは思ったが、しかし私の遊意は勃々として制え難いものがあった。朝早く私は上田をさして小諸の住居を出た。
396
小諸停車場には汽車を待つ客も少い。駅夫等は集って歌留多の遊びなぞしていた。田中まで行くと、いくらか客を加えたが、その田舎らしい小さな駅は平素より更に閑静で、停車場の内で女子供の羽子をつくさまも、汽車の窓から見えた。
397
初春とは言いながら、寒い黄ばんだ朝日が車窓の硝子に射し入った。窓の外は、枯々な木立もさびしく、野にある人の影もなく、ひっそりとして雪の白く残った谷々、石垣の間の桑畠、茶色な櫟の枯葉なぞが、私の眼に映った。車中にも数えるほどしか乗客がない。隅のところには古い帽子を冠り、古い外套を身に纏い赤い毛布を敷いて、まだ十二月らしい顔付しながら、さびしそうに居眠りする鉄道員もあった。こうした汽車の中で日を送っている人達のことも思いやられた。
398
上田町に着いた。上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷
399
思わず私は山の上にある都会の比較を始めた。その日は牛のつぶし初
400
肉屋の若者等は空車をガラガラ言わせて町はずれの道を引いて行った。私達もその後に随
401
黒く塗った門を入ると、十人ばかりの屠手が居た。その中でも重立った頭
402
中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。この庭は低い黒塗りの板塀
屠 牛 の 二
403
黒い外套に鳥打帽を冠った獣医が入って来た。人々は互に新年の挨拶を取換
404
南部産の黒い牡牛
405
死地に牽
406
検査が済んだ。屠手は多勢寄
407
この南部牛のまだ気息の残ったのを取繞
408
黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の眼前
409
赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。
屠 牛 の 三
410
赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型の如くに瞬
「牛は宜
411
こういう肉屋の亭主に随いて、復た私は屠場へ入って見た。豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、哀しげに呻
412
年をとった屠手の頭
413
そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹部のあたりに加えられた。卵色の膜に包まれた臓腑
屠 牛 の 四
414
私は赤い牝牛が「引割
「そら、巻くぜ」
「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」
415
屠手の頭
「さあー車々」と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」と掛声するものもあって、牝牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛った。脊髄
「どうも切れなくて不可
「鋸が切れないのか、手が切れないのか」
416
と頭は頭らしいことを言って、笑い眺めていた。
417
巡査が入って来た。子供達はおずおずと屠場を覗
418
古びた白の被服
「ハイ」
「醤油で煮染
419
南部牛は既に四つの大きな肉の塊に成って、その一つズツの股
420
不思議にも、屠られた牛の傷
「このダンベラは、どうかして其方
421
と獣医は屠手に言付けて、大きな風呂敷
422
肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の内へ引き込んだ。箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投入れた。
「十貫六百――八貫二百――」
423
なぞと読み上げる声が屠場の奥に起った。屠手は二人掛りで大きな秤
424
肉と膏
「三貫八百――」
425
それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。肉屋の亭主に言わせると、牛は殆んど廃
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そ の 十
千曲川に沿うて
426
これまで私が君に話したことで、君は浅間山脈と蓼科
427
軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三日だ。この汽車が通って来た碓氷
428
汽車が小諸を離れる時、プラットフォムの上に立つ駅夫等の呼吸
429
雪国の鬱陶
430
この旅は私独
431
豊野で汽車を下りた。そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施
川 船
432
降ったり休
433
そのうちに乗客が集って来た。私達は雪の積った崖に添うて乗場の方へ降りた。屋根の低い川船で、人々はいずれも膝
434
こうして蟹沢を離れて行った。上今井
435
船の中は割合に暖かだった。同じ雪国でも高原地に比べると気候の相違を感ずる。それだけ雪は深い。午後の日ざしの加減で、対岸の山々が紫がかった灰色の影を水に映して見せる。私は船窓を開けて、つぶやくような波の音を聞いたり、舷
436
ある舟橋に差掛った。船は無作法
437
黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の眼前
雪 の 海
438
一晩に四尺も降り積るというのが、これから越後へかけての雪の量だ。飯山へ来て見ると、全く雪に埋もれた町だ。あるいは雪の中から掘出された町と言った方が適当かも知れぬ。
439
この掘出されたという感じを強く与えるものは、町の往来に高く築
440
雪煙もこの辺でなければ見られないものだ。実に陰鬱
441
暗くなるまで私は雪の町を見て廻った。荷車の代りに橇
442
復た霙が降って来た。千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで対岸へ通うウネウネと長い舟橋の上には人の足跡だけ一筋茶色に雪の上に印されたのが望まれた。時には雪鞋
443
しかし試みにサクサクと音のする雪を踏んで、舟橋の上まで行って見ると、下を流れる水勢は矢のように早い。そこから河原を望んだ時は一面の雪の海だった――そうだ、白い海だ。その白さは、唯の白さでなく、寂莫
愛 の し る し
444
飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切るという場合には手拭を裂くという。だからこの辺の近在の女は皆な手拭を大切にして、落して置くことを嫌
445
これは縁起が好いとか、悪いとかいう類
山 の 上 へ
「水内
446
種々の土地の話を聞き、同行した娘達を残して置いて翌朝私は飯山を発
「ホウ――ヨウ――」という掛声と共に、雪の上を滑
447
中野近くで橇を降りた。道路に雪のある間は足も暖かであったが、そのうちに黄ばんだ泥をこねて行くような道に成って、冷く、足の指も萎
448
一月十四日のことで村々では「ものづくり」というものを祝った。「みずくさ」という木の赤い条
449
帰りには、日光の為に眼もまぶしく、雪の反射で悩まされた。その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。
450
豊野から復た汽車で、山の上の方へ戻って行った時は次第に寒さの加わることを感じた。けれども私は薄暗い陰気な雪の中からいくらか明るい空の方へ出て来たような気がして、ホッと息を吐
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そ の 十 一
山に住む人々の一
451
以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇
452
私は飯山行の話の中で、土地の人の信心深いことや、あの山間の小都会に二十何ヶ所の寺院のあることや、そういう旧態の保存されているところは一寸上方
453
長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺望
454
君は印度
455
しかし飯山地方に古めかしい宗教的の臭気
456
こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法
山に住む人々の二
457
学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。多くの児童を収容する大校舎の建築物
458
こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。種々
459
一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。その点は都会の教育家などの比でない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘
460
御蔭で私もここへ来てから種々
461
こうした熱心な何もかも同じように受入れようとする傾きは、一方に於いて一種重苦しい空気を形造っている。強
462
それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。ここには極くノンキな人もいるが又非常に理窟
463
何故こう信州人は理窟ッぽいだろう、とはよく聞く話だが、一体に人の心が激しいからだと思う。槲
464
一方に、極く静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受持っているT君なぞがその一人であろう。ほんとに学者らしい、そして静かな心だ。どんな場合でも、私はT君の顔色の変ったのを見たことが無い。小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。T君の顔を見ると私は学校中で誰に逢うよりも安心する。
山に住む人々の三
465
警察と鉄道に従事する人達は他郷からの移住者が多い。町の平和を監督する署長さんと言えば、大抵他の地方の人だ。ここの巡査の中にはでも土地から出て奉職する人なぞがあって、ポクポクと親しみのある靴の音をさせる。
466
鉄道の方の人達は停車場の周囲
467
以前ある駅長が残して行った話だと言って、按摩はまた次のようなことを私に語って聞かせた。「もと、越後の酒造
468
こんな口論の末から駅長と技手とはすべて反対に出るように成った。間もなくその駅長は面白くなくて、小諸を去ったとか。
469
線路の側に立っているポイント・メンこそはこの山の上で寂しい生活を送る移住者の姿であろう。勤めの時間は二昼夜にわたって、それで一日の休みにありつくという。労働の長いのに苦むとか。私は学校の往還
柳 田 茂 十 郎
470
先代柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引合に出される。茂十郎さんの如きは極端に佐久気質
471
諸国まで名を知られたこの商人も、一時は商法の手違いから、豆腐屋にまで身を落したことがある。そこまで思い切って行ったところが茂十郎さんかも知れない。でも、この人が小諸で豆腐屋を始めた時は、誰も気の毒に思って買う人が無かったとのことだ。茂十郎さんの家では、もと酒屋であったが、造酒
「酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです」
472
万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。
小 作 人 の 家
473
学校の小使の家を訪ねる約束をした。辰さんは年貢
474
小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。細い流を隔てて水車小屋と対したのが、辰さんの家だ。庭には蓆
475
かねて懇意な隠居に伴われて私は暗い小作人の家へ入った。猫の入物
476
話好きな面白い隠居は上州と信州の農夫の比較なぞから、種々な農具のことや地主と小作人の関係なぞを私に語り聞かせた。この隠居の話で、私は新町辺の小作人の間に小さな同盟罷工
「しかし私の時には定屋
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こう隠居は私に話して笑った。
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そのうちに家の外では「定屋さんになア、来て御くんなんしょって、早く行って来てくれや」という辰さんの声がする。日の光は急に戸口より射し入り、暗い南の明窓
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細帯締た娘は茶を入れて私達の方へ持って来てくれた。炬燵にあたっていた無口な女は、ぷいと台所の方へ行った。
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隠居は小声に成って、
「私も唯
「飯なぞは炊
「それですよ、世間の人はそう思う。ところが私は炊いて貰わない。どうしてそんな事をしようものなら皆な食われて了う……そこは私もなかなか狡
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古い洋傘
「昔の恥を御話し申すんじゃないが、私も若い時には車夫をしてねえ、日に八両ずつなんて稼
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こう隠居が笑っているところへ、黄な真綿帽子を冠った五十恰好
「定屋さんですよ」と辰さんが呼んだ。
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地主は屋
「今に母さんが来るから泣くなよ」
「手が冷たい……」
「ナニ、手が冷たい? そんなら早く行ってお炬燵
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凍った娘の手を握りながら、辰さんは家の内へ連れて行った。
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谷に面した狭い庭には枯々な柿の樹もあった。向うの水車も藁囲
「どうで御座んすなア、籾の造
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と辰さんに言われて、地主は白い柔かい手で籾を掬
「空穂
「雀に食われやして、空穂でも無いでやす。一俵造えて掛けて見やしょう」
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地主は掌中
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辰さんは弟に命じて籾を箕
「貴様入れろ、声掛けなくちゃ御年貢のようで無くて不可
「一わたりよ、二わたりよ」と弟の呼ぶ声が起った。
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六つばかりの俵がそこに並んだ。一俵に六斗三升の籾が量り入れられた。辰さんは桟俵
「御年貢ですか、御目出度
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私は、藁仕事なぞの仕掛けてある物置小屋の方に邪魔にならないように居て、桟俵なぞを尻に敷きながら、この光景を眺めた。辰さんは俵に足を掛けて藁縄
「一俵掛けて見やしょう」
「いくらありやす。出放題
「これは魂消
「十八貫八百あれば、まあ好い籾です」
「俵
「そうです、俵にもありやすが、それは知れたもんです」
「おらがとこは十八貫あれば可いだ」
「なにしろ坊主九分混りという籾ですからなア」
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人々の間にこんな話が交換
「どうだいお前の体格じゃ二俵位は大丈夫担げる」
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と地主に言われて辰さんの弟は一俵ずつ両手に抱え、顔を真紅にして持ち上げてみたりなぞして戯れた。
「まあ、お茶一つお上り」
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と辰さんは地主に言って、私にもそれを勧めた。真綿帽子を脱いで屋
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こう辰さんが言ったのを隠居は炬燵にあたりながら聞咎
「二斗五升ってことが有るもんか。四斗五升よ」
「四斗……」と地主は口籠
「四斗五升じゃないや。四斗七升サ。そうだ――」と復た隠居が言った。
「四斗七升?」と地主は隠居の顔を見た。
「ああ四斗七升か」と云い捨てて、辰さんは庭の方へ出て行った。
495
私達は炬燵の周囲
「冷
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こう隠居も気軽な調子で言った。地主は煙管
「こういう時には婆さんが居ると、都合が好いなア」
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地主の顔には始めて微
「婆さんに別れてからねえ、今年で二十五年に成りますよ」
「もう好加減に家へ入れるが可いや」
「まあ聞いて下さい。婆さんには子供が七人も有りましたが、皆な死んで了った……今の辰は貰
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隠居の話し振には実に気の面白い、小作人仲間の物識と立てられるだけのことがあった。地主と隠居の間には、台所の方に居る同居人母子のことに就いてこんな話も出た。
「へえ、あれが娘ですか」
「子も有るんでさあね。可哀
「幾歳
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御蔭で私もめったに来たことのない屋根の下で、百姓らしい話を聞きながら、時を送った。菎蒻
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そ の 十 二
路 傍 の 雑 草
500
学校の往還
501
南向きもしくは西向の桑畠
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どういう世界の中にこれ等の雑草が顔を出して、中には極く小さな蕾
503
草木のことを言えば、福寿草を小鉢
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君は牛乳の凍ったのを見たことがあるまい。淡い緑色を帯びて、乳らしい香もなくなる。ここでは鶏卵も氷る。それを割れば白味も黄身もザクザクに成っている。台処の流許
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雪の襲って来る前は反
学 生 の 死
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私達の学校の生徒でOという青年が亡
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Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩画家M君の以前住んでいた家の前を通った。その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居
508
細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の冷えてゾクゾクするのも関わず、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四合も出たという。四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。Oは十歳位の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
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葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。Oは耶蘇
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士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。松の多い静な小山の上にOの遺骸
暖 い 雨
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二月に入って暖い雨が来た。
512
灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、遽
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空は煙か雨かと思うほどで、傘さして通る人や、濡れて行く馬などの姿が眼につく。単調な軒の玉水の音も楽しい。
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堅く縮こまっていた私の身体もいくらか延び延びとして来た。私は言い難き快感を覚えた。庭に行って見ると、汚
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流の音、雀の声も何となく陽気に聞えて来る。桑畠の桑の根元までも濡らすような雨だ。この泥濘
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夜に入って、淋
北山の狼
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生徒と一緒に歩いていると、土地の種々な話を聞く。ある生徒が北山の狼の話を私にした。その足跡は里犬よりも大きく、糞
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野蛮な話を聞くこともある。ここには鶏を盗むことを商売にしている人がある。雄鶏
519
土地の話の序
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ここは養蚕地だから、蚕祭というのをする。その日は繭
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二月八日の道祖神
御 辞 儀
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私達の学校の校長が小諸小学校の校堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。先生の演説は直接には聞かなかったが、それがヤカマしい問題を惹起
523
ある晩、岡源という料理屋からの使で、警察の署長さんの手紙を持って来た。開けて見ると、私に来てくれとしてある。私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。その時私は校長に代って、さきの失言を謝して貰いたいと言われた。なにしろ私は先生の演説を知らないのだから、謝して可いものかどうかの判断もつきかねた。謝すべきものなら先生が来て謝する、一応私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。この形成を看
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その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のために御辞儀をさせられたことを話して笑った。すると先生は先生で忌々しそうに、そんな御辞儀には及ばなかったという返事だ。実に、損な役廻りを勤めたものだ。
春 の 先 駆
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一雨ごとに温暖
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私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。ポッと雲の形があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くに随
星
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月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。東の空には赤い光の星が一つ掛った。天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。
第 一 の 花
「熱い寒いも彼岸まで」とは土地の人のよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ホッと溜息
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私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅い艶
山 上 の 春
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貯えた野菜は尽き、葱
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三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠
四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界を擅
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「千曲川のスケッチ」奥書
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このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。まだこの外にもわたしがあの信濃
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実際私が小諸
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これは後になってからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。自分の第四の詩集を出した頃、わたしはもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心からの要求はかなりはげしかったので、そのためにわたしは三年近くも黙して暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家三宅克巳
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過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。わたしたちの旧
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このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」の寄贈を受けたことがあった。その新刊の号に斎藤緑雨
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「彼も今では北佐久郡の居候
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緑雨君はこういう調子の人であった。うまいとも、辛辣
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紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。わたしは一年に一度ぐらいしか東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることも稀
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旧いものを毀
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今から明治二十年代を振り返ってみることは、私に取って自分等の青年時代を振り返ってみることであるが、あの鴎外漁史なぞが「舞姫」の作によって文学の舞台に登場せられたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」に「文づかい」が出たのも二十四年の頃であったと思う。だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧
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もし、明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあったろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な原因がなくてはならない。
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ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったことも争われない。紅葉山人のような作者ですら雅俗折衷の文体と言文一致の間を往来した。何と言ってもあの頃は、古くからある文章の約束がまだ重く残って、言葉の感情とか、その陰影とかの自然な流露を妨げていた。この状態はどうしても行き詰る。そこでだんだん変化と自由とを求めるようになって行って、これまで物を書いていた作者達も今までの表現の方法では、やりきれなくなって行ったかと思う。私は斉藤緑雨君のような頭の好い人がそういう点で苦しみぬいたことを知っている。同君も文章そのものの苦労が大き過ぎて、「油地獄」や「かくれんぼ」に見せたような作者としての天禀
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その後に、鴎外漁史はめずらしく創作の筆を執って、「そめちがえ」一篇を「新小説」誌上に発表した。私はそれを読んで漁史のような人の上にもある一転機の来たことを感じた。「そめちがえ」の砕けた題目が示すように、漁史は最早あの「文づかい」や「うたかたの記」に見るような高い調子で押し通そうとする人ではなかったらしい。その頃には、透谷君や一葉女史の短い活動の時はすでに過ぎ去り、柳浪にはやや早く、蝸牛庵主
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おそらく二十年代の末から三十年代のはじめへかけては、明治文学者の生涯の中でも特に動きのある時代で、あの緑雨君が鴎外漁史や幸田露伴氏等との交遊のあったのもあの頃であり、諸先輩が新進作家の作品に対して合評会なぞを思い立ったのもあの時代であったかと思う。
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思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、欧羅巴
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私は明治の新しい文学と、言文一致の発達とを切り離しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。我々の書くものが、古い文章の約束や云い廻しその他から、解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものでない。先ず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人のやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たに就いてはかなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。何んと云っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃
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到頭、わたしは七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
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行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年3月