寺田寅彦
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芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念をいだいているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。
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科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。
3
夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。もちろん芸術家も時として衣食のために働かなければならぬと同様に、科学者もまた時として同様な目的のために自分の嗜好に反した仕事に骨を折らなければならぬ事がある。しかしそのような場合にでも、その仕事の中に自分の天与の嗜好に逢着して、いつのまにかそれが仕事であるという事を忘れ、無我の境に入りうる機会も少なくないようである。いわんや衣食に窮せず、仕事に追われぬ芸術家と科学者が、それぞれの製作と研究とに没頭している時の特殊な心的状態は、その間になんらの区別をも見いだしがたいように思われる。しかしそれだけのことならば、あるいは芸術家と科学者のみに限らぬかもしれない。天性の猟師が獲物をねらっている瞬間に経験する機微な享楽も、樵夫が大木を倒す時に味わう一種の本能満足も、これと類似の点がないとはいわれない。
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しかし科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でないと同様に、他人の研究を繰り返すのみでは科学者の研究ではない。もちろん両者の取り扱う対象の内容には、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなり共有な点がないでもない。科学者の研究の目的物は自然現象であってその中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見いだそうとするのである。芸術家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑いもない事である。また科学者がこのような新しい事実に逢着した場合に、その事実の実用的価値には全然無頓着に、その事実の奥底に徹底するまでこれを突き止めようとすると同様に、少なくも純真なる芸術が一つの新しい観察創見に出会うた場合には、その実用的の価値などには顧慮する事なしに、その深刻なる描写表現を試みるであろう。古来多くの科学者がこのために迫害や愚弄の焦点となったと同様に、芸術家がそのために悲惨な境界に沈淪せぬまでも、世間の反感を買うた例は少なくあるまい。このような科学者と芸術家とが相会うて肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手をかわすに躊躇しないであろう。二人の目ざすところは同一な真の半面である。
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世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いようである。しかし科学者には科学者以外の味わう事のできぬような美的生活がある事は事実である。たとえば古来の数学者が建設した幾多の数理的の系統はその整合の美においておそらくあらゆる人間の製作物中の最も壮麗なものであろう。物理化学の諸般の方則はもちろん、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺激する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、実際ヴォルテーアの謳ったように、神の声と共に渾沌は消え、闇の中に隠れた自然の奥底はその帷帳を開かれて、玲瓏たる天界が目前に現われたようなものであったろう。フォークトはその結晶物理学の冒頭において結晶の整調の美を管弦楽にたとえているが、また最近にラウエやブラグの研究によって始めて明らかになった結晶体分子構造のごときものに対しても、多くの人は一種の「美」に酔わされぬわけに行かぬ事と思う。この種の美感は、たとえば壮麗な建築や崇重な音楽から生ずるものと根本的にかなり似通ったところがあるように思われる。
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また一方において芸術家は、科学者に必要なと同程度、もしくはそれ以上の観察力や分析的の頭脳をもっていなければなるまいと思う。この事はあるいは多くの芸術家自身には自覚していない事かもしれないが、事実はそうでなければなるまい。いかなる空想的夢幻的の製作でも、その基底は鋭利な観察によって複雑な事象をその要素に分析する心の作用がなければなるまい。もしそうでなければ一木一草を描き、一事一物を記述するという事は不可能な事である。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品の芸術としての価値が定まるのではあるまいか。
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ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の大部分は想像あるいは理想に関したものと考えるかもしれないが、この区別はあまり明白なものではない。広い意味における仮説なしには科学は成立し得ないと同様に、厳密な意味で現実を離れた想像は不可能であろう。科学者の組み立てた科学的系統は畢竟するに人間の頭脳の中に築き上げ造り出した建築物製作品であって、現実その物でない事は哲学者をまたずとも明白な事である。また一方において芸術家の製作物はいかに空想的のものでもある意味において皆現実の表現であって天然の方則の記述でなければならぬ。俗に絵そら事という言葉があるが、立派な科学の中にも厳密に詮索すれば絵そら事は数えきれぬほどある。科学の理論に用いらるる方便仮説が現実と精密に一致しなくてもさしつかえがないならば、いわゆる絵そら事も少しも虚偽ではない。分子の集団から成る物体を連続体と考えてこれに微分方程式を応用するのが不思議でなければ、色の斑点を羅列して物象を表わす事も少しも不都合ではない。
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もう少し進んで科学は客観的、芸術は主観的のものであると言う人もあろう。しかしこれもそう簡単な言葉で区別のできるわけではない。万人に普遍であるという意味での客観性という事は必ずしも科学の全部には通用しない。科学が進歩するにつれてその取り扱う各種の概念はだんだんに吾人の五官と遠ざかって来る。従って普通人間の客観とは次第に縁の遠いものになり、言わば科学者という特殊な人間の主観になって来るような傾向がある。近代理論物理学の傾向がプランクなどの言うごとく次第に「人間本位の要素」の除去にあるとすればその結果は一面において大いに客観的であると同時にまた一面においては大いに主観的なものとも言えない事はない。芸術界におけるキュービズムやフツリズムが直接五官の印象を離れた概念の表現を試みているのとかなり類したところがないでもない。
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次に、自然科学においてはその対象とする事物の「価値」は問題とならぬが、その研究の結果や方法の学術的価値にはおのずから他に標準がある。芸術のための芸術ではその取り扱う物の価値よりその作物の芸術的価値が問題になる。そうして後者の価値という事がむつかしい問題であると同様に前者の価値という事も厳密には定め難いものである。
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科学の方則や事実の表現はこれを言い表わす国語や方程式の形のいかんを問わぬ。しかし芸術は事物その物よりはこれを表現する方法にあるとも言わば言われぬ事はあるまい。しかしこれもそう簡単ではない。なるほど科学の方則を日本語で訳しても英語で現わしても、それは問題にならぬが、しかし方則自身が自然現象の一種の言い表わし方であって事実その物ではない。ただ言い表わすべき事がらが比較的簡単であるために、表わし方が多様でないばかりで必ずしもただ一つではない。芸術の表現しようとするは、写してある事物自身ではなくてそれによって表わさるべき「ある物」であろう、ただそのある物を表わすべき手段が一様でない、国語が一定しない。しかししいて言えば、一つの芸術品はある言葉で表わした一つの「事実」の表現であるとも言われぬ事はない。
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しからば植物学者の描いた草木の写生図や、地理学者の描いた風景のスケッチは芸術品と言われうるかというに、それはもちろん違ったものである。なぜとならば事実の表現は必ずしも芸術ではない。絵を描く人の表わそうとする対象が違うからである。科学者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、芸術家の描こうとするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって草木山河はこれを表わす言葉である。しかしそのある物は作家だけの主観に存するものでなくてある程度までは他人にも普遍的に存する物でなければ、鑑賞の目的物としてのいわゆる芸術は成立せず、従ってこれの批評などという事も無意味なものとなるに相違ない。このある物をしいて言語や文学で表わそうとしても無理な事であろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が科学者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものであろうと信じている。
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しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し科学者と芸術家のコンジェニアルな方面を列挙してみたいと思う。
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観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。世には往々科学を誤解してただ論理と解析とで固め上げたもののように考えている人もあるがこれは決してそうではない。論理と解析ではその前提においてすでに包含されている以外の何物をも得られない事は明らかである。総合という事がなければ多くの科学はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の径路を組み立てたものである。純粋に解析的と考えられる数学の部門においてすら、実際の発展は偉大な数学者の直感に基づく事が多いと言われている。この直感は芸術家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。長い間考えていてどうしても解釈のつかなかった問題が、偶然の機会にほとんど電光のように一時にくまなくその究極を示顕する。その光で一度目標を認めた後には、ただそれがだれにでも認め得られるような論理的あるいは実験的の径路を開墾するまでである。もっとも中には直感的に認めた結果が誤謬である場合もしばしばあるが、とにかくこれらの場合における科学者の心の作用は芸術家が神来の感興を得た時のと共通な点が少なくないであろう。ある科学者はかくのごとき場合にあまりはなはだしく興奮してしばらく心の沈静するまでは筆を取る事さえできなかったという話である。アルキメーデスが裸体で風呂桶から飛び出したのも有名な話である。
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それで芸術家が神来的に得た感想を表わすために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は言わば芸術家の論理解析のようなものであって、科学者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において科学者の技巧とも見らるべきものであろう。
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もっともこのような直感的の傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。
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科学者の中にはただ忠実な個々のスケッチを作るのみをもって科学者本来の務めと考え、すべての総合的思索を一概に投機的とし排斥する人もあるかもしれない。また反対に零細のスケッチを無価値として軽侮する人もあるかもしれないが、科学というものの本来の目的が知識の系統化あるいは思考の節約にあるとすれば、まずこれらのスケッチを集めこれを基として大きな製作をまとめ渾然たる系統を立てるのが理想であろう。これと全く同じ事が芸術についても言われるであろうと信ずる。
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ある哲学者の著書の中に、小説戯曲は倫理的の実験のようなものだという意味の事があった。実際たとえば理論物理学で常に使用さるるいわゆる思考実験と称するものはある意味において全く物理学的の小説である。かつて何人も実験せずまた将来も実現する事のありそうもない抽象的な条件の下に行なわるべき現象の推移を、既知の方則から推定し、それからさらに他の方則に到達するような筋道は、あるいは小説以上に架空的なものとも言われぬ事はない。ただ小説の場合には方則があまりに複雑であって演繹の結果が単義的でなく、答解が幾通りでもあるに反して、理学の場合にはそれがただ一つだという点に著しい区別がある。それはとにかくとして小説家が架空の人物を描き出してそれら相互の間に起こる事件の発展推移を脚色している時の心の作用と、科学者が物質とエネルギーを抽象して来てその間に起こるべき現象の径路を演繹している時のそれとはよほど似たものであるように思われる。少なくもこの種の科学者は小説家を捕えて虚言者とののしる権利はあるまい。小説戯曲によっては現実に遠い神秘的あるいは夢幻的なものもあるが、しかしこれが文学的作品として成立するためにはやはり読者の胸裏におのずから存在する一種の方則を無視しないものでなければならない。これを無視したものがあればそれはつまり瘋癲病院の文学であろう。
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芸術家科学者はその芸術科学に対する愛着のあまりに深い結果としてしばしば互いに共有な弱点を持っている。その一つはすなわち偏狭という事である。もちろんまれには卑しい物質的の利害から起こる事もないではあるまいが、それらは別問題として、科学者芸術家に多い病は、他を容れる度量に乏しくて互いに苦々しく相排することである。これも両者の心理に共通なもののある事を示す一例と見なされる。畢竟偏狭※嫉は執着の半面であるとすれば、これは芸術と科学の愛がいかに人の心の奥底に深く食い入る性質のものであるかを示すかもしれない。ちょっと考えると、少なくも科学者のほうは、学問の性質上きわめて博愛的で公平なものでありそうなのに事実は必ずしもそうでないのは謎理的のようである。しかしよく考えてみると、科学者芸術家共に他の一面において本来一種の自己主義者たるべき素質を備えているべきもののようにも思われる。これは惜しむべきことであるかもしれないが、あるいはやみがたい自然の現象であるかもしれない。一面から見れば両者が往々この弱点を暴露してそれがために生ずる結果の利害を顧慮するいとまがないという事が少なくとも両者に共通な真剣な熱情を表明するのであるかもしれない。
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科学者と芸術家が別々の世界に働いていて、互いに無頓着であろうが、あるいは互いに相反目したとしたところが、それは別にたいした事でもないかもしれない。科学と芸術それぞれの発展に積極的な障害はあるまい。しかしこの二つの世界を離れた第三者の立場から見れば、この二つの階級は存外に近い肉親の間がらであるように思われて来るのである。 20
時の観念に関しては、哲学者の側でいろいろ昔からむつかしい議論があったようである。自分はそれらの諸説について詳しく調べてみる機会を得ないが、簡単な言葉でしかもそれ自身すでに時の概念を含んでいないような言葉で「時」に定義を下そうというような企てはたいてい失敗に帰しているようである。「一様に流れる量」であるとか、「逸しつつある広がり」だとかいうのはもちろん時の定義でもなければ説明とも思われぬ。Si non rogas intelligo というほうが至当のようである。時の前後の観念はとにかく直感的なものであって、なんらかの自然現象に関して方則を仮定する事なしに定義を下しうべき性質のものではないと思われる。 21
吾人が外界の事象を理解し系統化するための道具として、いわゆる認識の形式の一つとして「時」を見なす事には多くの科学者も異論はないであろうが、それだけでは「時」の観念の内容については何事も説明されない。近ごろベルグソンが出て来て、カントや科学者の考えた「時」というものは「空間化された時」であって「純な時」というものがほかにあると考え、彼のいわゆる形而上学の重要な出発点の一つとしているようである。それらの議論はむつかしすぎて自分にはのみ込めないが、とにかくわれわれが力学や物理学で普通に用いる時の概念は空間の概念を拡張したものだという事は疑いもない事である。力学はつまり幾何学の拡張である。空間座標のほかに時を入れれば運動学が成立し、これに質量を入れて経験の結果を導入すれば力学ができる。これらの数学的の式における時間tが空間 x y z とほとんど同様に取り扱われうる事はミンコフスキーの四元空間 Welt の構成されるのを見てもわかる事である。 22
このように時を空間化して取り扱ったために得られる便利は多大なものであるが、しかし人間の直感する「時」の全部はtの符号に含まれていない。 23
ニュートンの考えたような、現象に無関係な「絶対的の時」はマッハによって批評されたのみならず、輓近相対性原理の研究と共にさらに多くの変更を余儀なくされた。この原理の発展以来「時」の観念はよほど進化して来たが、それはやはり幾何学の「時」の範囲内での進歩である。 24
吾人の直感する「時」の観念に随伴して来る重大な要素は「不可逆」ということである。この要点は時を空間化するために往々閑却されるものである。空間の前後は観者の位置をかえれば逆になるが時間は一方にのみ向かって流れている。抽象的な数学から現実の自然界に移ってその現象を記載しようとする時には空間化された時だけでは用の弁じない場合が起こる。それはいわゆる不可逆現象の存在するため、熱力学第二方則の成立しているためである。 25
この方則の設立、エントロピーの概念の導入という事が物理学の発達史上でいかに重大なものであったかという事は種々の方面から論ずる事ができようが、ここで述べたいと思うのは、空間化された「時」だけでは取り扱う事のできぬ現象を記載するために最も便利な「時」の代用物を見いだした事である。 26
もしかりに宇宙間にただ一つ、摩擦のない振り子があって、これを不老不死の仙人が見ている、そして根気よく振動を数えているとすればどうであろう。この仙人にとっては「時」の観念に相当するものはただ一つの輪のようなものであって、振動を数える数は一でも二でも一万でもことごとく異語同義に過ぎまい。よしやそれほど簡単な場合でなくとも、有限な個体の間に有限な関係があるだけの宇宙ならば、万象はいつかは昔時の状態そのままに復帰して、少なくも吾人のいわゆる物理的世界が若返る事は可能である。このような世界の「時」では、未来の果ては過去につながってしまうかもしれぬ。 27
吾人の宇宙を不可逆と感じる事は、「時」を不可逆と感ずる事である。全エントロピーは時と共に増すとも減ずる事はないというのが事実であるとすれば、逆にエントロピーをもって「時」を代表させる事はできないであろうか。普通の「時」とエントロピーとの歩調がいかに一様でないとしても、そこに一つの新しい「時」の観念が成立しうるのではあるまいか。 28
エントロピーの概念自身には「時」が含まれなくてもよい。これが時と関連して来るのは自然の経験の結果である。われわれの普通日常用いる時計の針の回る角度がたまたま時の代用となるのもやはり自然の経験にほかならぬ。少なくともこの点においては時計の「時」とエントロピーの「時」とは対等のものである。 29
今もしここに宇宙のエントロピーの量を指示する時計があると想像する。この時計の示す時刻は何を示すかといえば、それは宇宙の老衰の程度を示すものである。エネルギーの全量は不変でも、それはこの時計の進むにつれて墜落し廃頽して行く。この時計ほど適切に不可逆な時の進みを示すものはないのであろう。しかし実際このような時計があったとしても、それが吾人の日常普通の目的に適当したものではないかもしれぬ。第一に種々の個体の集団からできた一つの系を考える時、その個体各個のエントロピーの時計の歩調は必ずしも系全体のものの歩調と一致しない。従って個体相互の間で「同時」という事がよほど複雑な非常識的なものになってしまう。しかしそこにまたこの時計の妙味もあるのである。譬喩を引けば浦島太郎が竜宮の一年はこの世界の十年に当たるというような空想や、五十年の人生を刹那に縮めて嘗め尽くすというような言葉の意味を、つまり「このエントロピーの時計で測った時の経過と普通の時計と比べて一年と十年また五十年と一瞬とに当たる」と説明すればよいかもしれぬ。これはただ通俗的な譬喩に過ぎないが、とにかく心理的に感ずる時の長短が人間自身ならびに周囲の物質的エントロピーの増加の多少と、いくぶんか相応じるように見えるのは興味のある事である。冬眠の状態にある蛙が半年の間に増大させるエントロピーの量は、覚醒期間のそれに比べて著しく少ないに相違ない。 30
次にエントロピーは一つの系全体にわたる積分として与えらるる性質のものであって、それが指定されても系を組織する各個体の現状は指定されない。これはこの時計の不便な点であって同時にすぐれた点である。ガス体の分子やエレクトロンの集団あるいは光束の集合場において各個部分の状態を論ぜんとしても普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。そういう場合にこのエントロピーのありがたみが始めて明白になって来るのである。 31
かように、エントロピーの役に立つ場合には、必ずそこにいわゆる「分子的に混乱した系」がある。分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。ボルツマンがこのような混乱系の内部の排置の公算をエントロピーと結びつけたのは非常な卓見で物理学史上の大偉業であった。プランクはさらにこれを無限な光束の集団に拡張して有名な輻射の方則を得たのは第二の進歩であった。すなわち系の複雑さが完全に複雑になれば統計という事が成り立ち、公算というものが数量的に確定したものになる。そして系の変化はその状態の公算の大なるほうへ大なるほうへと進むという事が、すなわちエントロピーの増大という事と同義になるのである。 32
「時」の不可逆という事にもまた分子的混乱系の存在が随伴している。前にあげたような、仙人と振り子とだけの簡単な世界では、可逆な「時」が可能であるが、吾人の宇宙はある意味で分子的混乱系である。ある学者の考えているように森羅万象をことごとく有限な方程式に盛って、あらゆる抽象前提なしに現象を確実に予言することは不可能であって、そのゆえにこそ公算論の成立する余地が存している。そのために吾人の「時」には不可逆の観念が伴なって来る。そのために未来と過去の差別が生じるのではあるまいか。未来に関して吾人の言いうる事は系の公算の増すという事だけではあるまいか。未来は「であろう」ですなわちプロバビリティのみである。この宇宙系のプロバビリティの流れはすなわちエントロピーの流れで、すなわち吾人の直感する不可逆な時の流れではあるまいか。 33
エントロピーに随伴して来る観念は「温度」である。たとえば簡単な完全ガス体の系では容積を保定しておけば、エネルギーの増す時にそのエントロピーの増加は「温度」に反比する。前のような通俗的のたとえを引けば、人間のエントロピーの増大と「精神的の時」の進みが伴なうと仮定すれば、また一定の物理的エネルギーを与えられた時にその人の「時」の進み方はその人の感覚の鋭鈍によるものと仮定すれば、この場合の「温度」に相当するものは、すなわちその鋭鈍を計る尺度の読み取りに当たるものである。もっともこれはただ譬喩に過ぎない。物理学上の言葉の濫用かもしれぬ。しかしまじめな物理学上の事がらでエントロピーや温度の考えを拡張して行く余地は充分にあるように思われる。すなわちどこでも molekular ungeordnet [#底本では「ungeordnet」は「ungecrdnet」と誤記]の状態が入り込んで来る所には、これらの観念の幅をきかす余地がある。たとえば液体の運動でもいわゆる混乱運動を論ずる時にはオスボルン・レーノルズが行なったような特殊な取り扱いが必要になって来る。ここにも、エントロピーや温度の観念の拡張さるべき余地があるのではあるまいか。これに類した問題は液体の交流に関するものである。 34
現今物理学の研究問題は、分子、原子、エレクトロン、エネルギー素量となって、至るところに混乱系が跳梁している。プロバビリティの問題、エントロピーの時計の用途は存外に広いという事を思い出すに格好な時機ではあるまいか。 35
時。エントロピー。プロバビリティ。この三つは三つ巴のようにつながった謎の三位一体である。この謎の解かれる未来は予期し難いが、これを解かんと努めるのもあながちむだな事ではあるまい。 36
人間がその周囲の自然界の事物に対する知識経験の基になる材料は、いずれも直接間接に吾人の五感を通じて供給されるものである。生まれつき盲目で視神経の能力を欠いた人間には色という言葉はなんらの意味を持たない、物体の性質から色という観念をぬき出して考える事がどうしてもできない。トルストイのおとぎ話に牛乳の白色という観念を盲者に理解させようとしてむだ骨折りをする話がある。雪のようだと言えばそんなに冷たいかとこたえ白うさぎのようだと言えばそんなに毛深い柔らかいのかと聞きかえした。 37
それでもし生まれつき盲目でその上に聾な人間があったら、その人の世界はただ触覚、嗅覚、味覚ならびに自分の筋肉の運動に連関して生ずる感覚のみの世界であって、われわれ普通な人間の時間や空間や物質に対する観念とはよほど違った観念を持っているに相違ない。もし世界じゅうの人間が残らず盲目で聾唖であったらどうであろうか。このような触覚ばかりの世界でもこのような人間には一種の知識経験が成立しそれがだんだんに発達し系統が立ってそして一種の物理的科学が成立しうる事は疑いない事であろう。しかしその物理学の内容はちょっと吾人の想像し難いようなものに相違ない。たとえば吾人の時間に対する観念の源でも実は吾人の視覚に負うところがはなはだ多い。日月星辰の運行昼夜の区別とかいうものが視覚の欠けた人間には到底時間の経過を感じさせる材料にはなるまい。それでも寒暑の往来によって昼夜季節の変化を知る事はある程度までできる。振り子のごとき週期的の運動に対する触感と自分の脈搏とを比較して振動の等時性というような事を考え時計を組み立てる事は可能であるかもしれぬ。しかし自分の手足の届くだけの狭い空間以外の世界に起こっている現象を自分の時計にたよって観測する事はよほど困難である。このような人には時や空間はただ自分の周囲、たとえば方六尺の内に限られた、そして自分といっしょに付随して歩いて行くもののようにしか考えられぬのかもしれぬ。この人にとっては自分の触覚と肉感があらゆる実在で、自分の存在に無関係な外界の実在を仮定する事はわれわれほど容易でないかもしれない。象と盲者のたとえ話は実によくこの点に触れている。 38
これはただ極端な一例をあげたに過ぎないが、この仮想的の人間の世界と吾人の世界とを比較してもわかるように、吾人のいわゆる世界の事物は、われわれと同様な人間の見た事物であって、それがその事物の全体であるかどうか少しもわからぬ。 39
哲学者の中にはわれわれが普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、われわれ科学者としてはそこまでは疑わない事にする。世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。この意味ですべての科学者は幼稚な実在派である。科学者でも外界の実在を疑おうと思えば疑われぬ事はないが多くの物理学者の立場は、これを疑うよりは、一種の公理として仮定し承認してしまうほうがいわゆる科学を成立させる筋道が簡単になる。元来何物かの仮定なしに学が成立し難いものとすればここに第一の仮定を置くのが便宜であるというまでである。絶対とか窮極の真理とかというものの存在を信じてそれを得ようと努力する人はこの点で第一に科学というものに失望しなければならない。科学者はなんらの弁証なしに吾人と独立な外界の存在を仮定してしまう。ただし必ずしもこれを信じる[#「信じる」に丸傍点]必要はない、科学者が個人としてこれ以上の点に立ち入って考える事は少しもさしつかえはないが、ただその人の科学者としての仕事はこれを仮定した上で始まるのである。もっともマッハのごときは感覚以外に実在はないと論じているが、彼のいわゆる感覚の世界は普通吾人のいう外界の別名と考えればここに述べる所とはあえて矛盾しない。 40
外界の事物の存在を吾人が感ずるのは前述べたとおり直接間接に吾人の五感の助けによるものである。これらの官能が刺激されたために生ずる個々の知覚が記憶によって連絡されるとこれが一つの経験になる。このような経験が幾回も幾回も繰り返されている間にそこに漠然とした知識が生じて来る。この原始的な知識がさらに経験によってだんだんに吟味され取捨されて個人的一時的からだんだんに普遍的なものに進化して来るとこれが科学の基礎となる事実というものになるのである。 41
しかるにあらゆる経験の第一の源となる人間の五感がどれほど鋭敏でまた確実であるかという事はぜひとも考えてみなければならぬ。 42
人間の肉眼が細かいものを判別しうる範囲はおおよそどれくらいかというとまず一ミリの数十分の一以上のものである、最強度な顕微鏡の力を借りてもその数千分の一以下に下げる事はできぬ。そしてその物から来る光の波長が一ミリの二千分の一ないし三千分の一ぐらいの範囲内にあるのでなければもはや網膜に光の感じを起こさせる事ができない。波長がこの範囲にあってもその運ぶエネルギーが一定の限度以上でなければ感じる事ができない。なおやっかいな事にはいわゆる光学的錯覚というものがある。周囲の状況で直線が曲がって見えたり、色が違って見えたりする。もう一つ立ち入って考えれば甲の感じる赤色と乙の感じる赤色とはどれだけ一致しているものか不確かである。 43
音についても同様な限界がある、振動数二三十以下あるいは一二万以上の音波はもはや音として聞く事はできぬ。振幅が一定の限度以下でも同様である。また振動数の少しぐらい違った音の高低の区別は到底わからぬものである。 44
触感によって温度や重量の判断をする場合にもいっそう不確かなものである。冷熱の感覚はその当人の状態にもよりまた温度以外にその物体の伝導度によるのである。寒暖計の示度によらないで冷温を言う場合にはその人によってまるでちがった判定を下す事になる。これでは普遍的の事実というものは成り立たぬ。また甲乙二物体の温度の差でも触覚で区別できる差は寒暖計で区別できる差よりははるかに大きい。次に物体の重量の感覚でも同様で、十匁のものと十一匁のものとの差はなかなかわかるものではない。 45
このように外界の存在を認めその現象を直接に感ずるのは吾人の感官によるほかはないのにその感官がすこぶる粗雑なものであってしかも人々個々に一致せぬものである。それで各人が自分の感覚のみをたよって互いに矛盾した事を主張し合っている間は普遍的すなわちだれにも通用のできる事実は成り立たぬ、すなわち科学は成り立ち得ぬのである。 46
それで物質界に関する普遍的な知識を成立させるには第一に吾人の直接の感覚すなわち主観的の標準をいったん放棄して自分以外の物質界自身に標準を移す必要がある。これが現代物理的科学にみなぎりわたっている非人間的自然観の根元である。 47
このように外界を標準として外界を判断する事は何も物理学者をまたない、だれでも日常知らず知らずに行なっている事である。ある生まれつき盲目の人が生長後手術を受けて眼瞼を切開し、始めて浮き世の光を見た時に、眼界にある物象はすべて自分の目の表面に糊着したものとしか思えなかったそうである。こういう無経験な純粋な感覚のみにたよれば一間前にある一尺の棒と十間の距離にある同様な棒とは全く別物としか見えないに相違ない。仰向けた茶わんとうつ向けた同じ茶わんとが同一物である事を自得するまでにはかなりな経験を重ねなければならぬ。吾人普通の感官を備えた人間がこのような相違に気のつかぬのは遺伝や長い間の経験によって、外界の標準を外界に置いて非常に複雑な修練と無意識的の推理を経て来た結果にほかならぬのであろう。 48
吾人の理性に訴えて描き出す幾何的の空間、至るところ均等で等向的な性質を備えた空間は吾人の視感に直接訴える空間とは恐ろしくかけ離れたものである。視感的空間では仰向きの茶わんとうつ向きの茶わん、一里を隔てた山と脚下の山とはあまりに相違したものである。紙面に描いた四角でもその傾き方で全く別な感覚を起こしてもよいはずである。しかるにこのような相違を怪しまず当然としているのは、吾人が主観を離れた幾何学的の空間という標準を無意識あるいは有意識的に持っているためである。 49
同様な事は聴官についてもある。雷鳴の音の波の振幅は多くの場合に耳の近くで雨戸を繰る音に比べて大きなものではないのに雷の音は著しく大きいと考えるのはやはり直接の感官を無視して音響の強度の距離と共に感ずる物理的方則を標準としているのである。 50
このような事は別に取り立てて言うほどでないかもしれぬがしかしこの主観を無視する程度は人間の文明の程度によってだんだんに変化して来るものである。絵画に陰影を施しあるいは透視画法を用いる事はある国民には普通であるのに他の国民には容易に了解ができないのもその根元は直接感覚によるのと、感覚を離れた観念によるとの差と考える事もできるので、少なくもこの点だけにおいては未開人種や子供の描く観念的な絵は泰西名匠の絵画よりもある意味で科学的であると言わねばならない。ただしその概念が人々随意に異なり普遍的でない事は争われぬ。 51
以上の程度までは物理学者も素人もあまり変わりはないようであるが、物理学者と素人と異なる所は普通人間にも存するこのような感覚をはなれた見方をどこまでも徹底させて行く点にある。物理学発達の初期には物理学者の見方はまだそれほど世人と離れていなかった。たとえば音響というような現象でも昔は全く人間の聴官に訴える感覚的の音を考えていたのが、だんだんに物体の振動ならびにそのために起こる気波という客観的なものを考えるようになり「聞こえぬ音」というような珍奇な言葉が生じて来た。今日純粋物理学の立場から言えば感覚に関した音という概念はもはや消滅したわけであるが因習の惰性で今日でも音響学という名前が物理学の中に存している。今日ではむしろ弾性体振動学とでもいうべきであろう。光の感覚でも同様である。光覚に関する問題は生理学の領分に譲って物理学では非人間的な電磁波を考えるのみである。熱の輻射も無線電信の電波も一つの連続系の部分になってしまって光という言葉の無意味なために今では輻射線という言葉に蹴落とされてしまったのである。 52
今日のように非人間的に徹底したように見える物理学でもまだ徹底しない分子を捜せばいくらでも残っている。たとえば力という観念でも非人間的傾向を徹底させる立場から言えばなんらの具体的のものではなく、ただ「物質に加速度が生じた」という事を、これに「力が働いた」という言葉で象徴的に言いかえるに過ぎないが、普通この言葉が用いられる場合には何かそこに具体的な「力」というものがあるように了解されている。これは人間としてやみ難い傾向でまたそう考えるのが便宜である。また他の例を取れば物理学でも右左という言葉を用いる、しかしこれも人間というものから割り出した区別で空間自身には右もなければ左もあるはずはない。もしどこまでも非人間的な態度で行けば物理学の書籍からこのような言葉を除去しなければならぬはずであるが、実際は平気でこれを使用している、この一事でも非人間主義の物理学が人間の便宜のために膝を屈している事はわかるだろう。 53
ある人は著者に物理学の教科書を幾何学教科書のような画一的なものにしたいものであると言ったが、自分はそれはむつかしかろうと考える。数学のように最初全く任意に一つの概念を与えあとは解析ばかりでその内容を展開するのと、物理学で自己以外の実在として与えられた外界の現象を系統立てるのとはよほど趣がちがわなければなるまい。たとえば一つの自動車を作ってその機械の自己の作用で向かう所にどこまでも向かわせる場合には便宜とか選択の問題は起こらぬ、車は行く所にしか行かぬのであるが、これが解析的な数学の行き方とすれば物理学のはそうでない。このような自動車のハンドルを握って四通八達の街頭に立っているようなものである。同じ目的地に達するのでも道筋の取り方は必ずしも一定していない。そこで径路の選択という問題が起こり、この選択の標準とするものはつまり人間の便宜である、思想の節約である。この際もし車掌がある一つの主義を偏執してたとえば大通りばかりを選ぶとするとそれを徹底させるためには時にはたいへんな迂路を取らねばならぬような事があるだろう。ただ一筋の系統によって一糸乱れぬ物理学の系統を立てようという希望は決して悪くはないが、人間の便宜という点から考えるとそれはむしろ不便である。大通りが縦横に交差してその間にはまた多数の「抜け裏」のあるような、そういう複雑な系統として保存し発達さるべきものではないかと考える。 54
近年プランクなどは従来勢力のあったマッハ一派の感覚即実在論に反対して、科学上の実在は人間の作った便宜的相対的のものでなくもっと絶対的な「方則」の系統から成立した実在であると考え、いわゆる世界像の統一という事を論じている。しかし退いて考えるとあるいはこれはあまり早まりすぎた考えではなかろうかと疑わざるを得ない。プランクは物理学を人間の感覚から解放するという勇ましい喊声の主唱者であるが、一方から考えると人間の感覚を無視すると称しながら、畢竟は感覚から出発して設立した科学の方則にあまり信用を置きすぎるのではあるまいか。もし現在の科学の所得は、すでに科学の究極的に獲得しうるすべての大部分であると考え、吾人の残務はただそこかしこの小さい穴を繕うに過ぎぬと考えればプランクの説はもっともと思われる。しかしそう考えるだけの確かな根拠があるかどうか自分には疑わしい。物理学の範囲内だけでも近ごろ勢力を得て来た量子説が古典的な物理学と矛盾していて、まだどうしてもその間の融和がとれないところを見てもプランクの望むような統一はまだ急に達せられそうもない。 55
今のところでは生物界の現象に関しては物理学はたいてい無能である。レーブのごとき一派の学者が熱心に努力しているにもかかわらず今のところ到底目鼻もつかぬようである。生物現象がすべて現在の物理学で説明できようとは思われぬが、しかしプランクが無生物質界の方則の統一を理想とするならば、もう一歩を進めて物理生理あるいは心理学までも包括して渾然たる一つの「理学」という系統がいつかは設立されるという理想をいだく事もできない事ではない。それがもしも可能であるとすればそうなるまでには今の物理学はまだまだよほど根本的な改革を受けなければなるまいと思う。 56
このような考えからも自分はマッハの説により多く共鳴する者である。すなわち吾人に直接に与えられる実在はすなわち吾人の感覚である、いわゆる外界と自身の身体と精神との間に起こる現象である。このような単純な感覚が記憶や連想によって結合されて経験になる。これらの経験を総合して知識とし知識を総合して方則を作るまでには種々な抽象的概念を構成しそれを道具立てとして科学を組み立てて行くものである。この道具になる概念は必ずしも先験的な必然的なものでなくてもよい。以上のごとく科学を組み立て、知識の整理をするに最も便利なものを選べばよいのである。その便不便は人間の便不便である、すなわち思考の節約という事が選択の標準になるのである。 57
選択という言語は多くは眼前に種々の可能が排列されている時に用いられるものである。実際科学上の概念にそのような選択の余地があるであろうか、これは大切な問題である。自分は現在の物理学の概念をことごとく改造して従来よりもいっそう思考の経済上有利な体系ができうるかどうか到底想像する事はできないが、しかし少なくも物理学の従来の歴史から見て、斯学の発展と共に種々の概念が改造されあるいは新たに構成されまた改造されて来た事は事実である。光や音の観念の変化は前にも述べたとおりである。温度の観念でも昔の触感によった時代から特殊物質の膨脹によった時代を経て今日の熱力学的の絶対温度に到着するまでの径路を通覧すれば、ある時代に夢想だもできぬような考えが将来に起こりうる事は明らかである。もっと新しい例を取れば質量に関する観念がある。質量は物体に含まるる実体の量だというように考えたは昔の事で、後にむしろ力の概念が先になって、物体に力が働いた時に受ける加速度を定める係数というふうに解釈した実証論者もある。電子説が勢いを得てからは運動せる電気がすなわち質量と考えてすべての質量を電気的に解釈しようとした。さらに相対性原理の結果としてすべてのエネルギーは質量を有すると同等な作用を示すところから、逆にすべての物質はすなわちエネルギーであると考えようという試みもあるくらいである。 58
原子内部に関する研究に古典的力学を応用しようとして失敗を重ねた結果は大胆な素量説の提出を促した。今日のところなかなか両者の調停はできそうもない。しかしあらゆる方則は元来経験的なもので前世の約束事でもなんでもない事を思い出せば素量仮説が確立した方則となりえぬという道理もない。もし素量説が勝利を占めて旧物理学との間の橋渡しができればどうであろうか。おそらくそのために従来の物理学がことごとくだめになるような事はあるまいが、従来用いられた諸概念に少なからぬ変動が来るであろうと予想するのは至当であるまいか。 59
少なくもわれらは従来経験的事実の要求に応じて、物理学的概念の内容にたびたび改革あるいは修繕を施して来た。これらの経験的事実の集まり方はそれまでの歴史に無関係ではない。甲の事実は、乙丙の事実の発見を促す。しこうして乙が先に発見されるか丙が先に発見されるかによってその次に来る丙丁の事実の解釈を異にする場合は可能ではあるまいか。それはどうでもよいとして、一つ極端な想像をして見れば自分の今言わんとしている事を説明する事ができよう。すなわちかりにここに微小な人間があって物質分子の間に立ち交じり原子内のエレクトロンの運動を目睹しているがその視力は分子距離以外に及ばぬと想像する。このような人間の力学が吾人のと同様であれば吾人の原子的現象の説明は比較的容易であろうが、実際素量説などの今日勢いを得て来たことから考えても原子距離における引斥力の方則をニュートンやクーロンの方則と同じものとは考えがたい。そうすればこの原子的人間の物理の方則は吾人の方則とよほど違った発展をするに相違ない。 60
前に選択といったのは必ずしも吾人にとって選択の多様なという意味ではない。ただ人間という特別なものの便宜を標準として選択するという意味である。それでこういう意味で現在の物理学はたしかに人工的な造営物であってその発展の順序にも常に人間の要求や歴史が影響する事は争われぬ事実である。 61
物理学を感覚に無関係にするという事はおそらく単に一つの見方を現わす見かけの意味であろう。この簡単な言葉に迷わされて感覚というものの基礎的の意義効用を忘れるのはむしろ極端な人間中心主義でかえって自然を蔑視したものとも言われるのである。 62
ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物です。 63
第一に、湯の面からは白い湯げが立っています。これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。この茶わんを、縁側の日向へ持ち出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い布でもおいてすかして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます。場合により、粒があまり大きくないときには、日光にすかして見ると、湯げの中に、虹のような、赤や青の色がついています。これは白い薄雲が月にかかったときに見えるのと似たようなものです。この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつか別のときにしましょう。 64
すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴の心になるものがあって、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういう心がなかったら、霧は容易にできないということが学者の研究でわかって来ました。その心になるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かい塵のようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。空中に浮かんでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすかして見ると、ちょうど煙が広がっているように見えるそうです。 65
茶わんから上がる湯げをよく見ると、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかります。締め切った室で、人の動き回らないときだとことによくわかります。熱い湯ですと湯げの温度が高くて、周囲の空気に比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに立ちのぼります。反対に湯がぬるいと勢いが弱いわけです。湯の温度を計る寒暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。もちろんこれは、まわりの空気の温度によっても違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。 66
次に湯げが上がるときにはいろいろの渦ができます。これがまたよく見ているとなかなかおもしろいものです。線香の煙でもなんでも、煙の出るところからいくらかの高さまではまっすぐに上りますが、それ以上は煙がゆらゆらして、いくつもの渦になり、それがだんだんに広がり入り乱れて、しまいに見えなくなってしまいます。茶わんの湯げなどの場合だと、もう茶わんのすぐ上から大きく渦ができて、それがかなり早く回りながら上って行きます。 67
これとよく似た渦で、もっと大きなのが庭の上なぞにできることがあります。春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でもふって土のしめっているところへ日光が当たって、そこから白い湯げが立つことがよくあります。そういうときによく気をつけて見ていてごらんなさい。湯げは、縁の下や垣根のすきまから冷たい風が吹き込むたびに、横になびいてはまた立ち上ります。そして時々大きな渦ができ、それがちょうど竜巻のようなものになって、地面から何尺もある、高い柱の形になり、非常な速さで回転するのを見ることがあるでしょう。 68
茶わんの上や、庭先で起こる渦のようなもので、もっと大仕掛けなものがあります。それは雷雨のときに空中に起こっている大きな渦です。陸地の上のどこかの一地方が日光のために特別にあたためられると、そこだけは地面から蒸発する水蒸気が特に多くなります。そういう地方のそばに、割合に冷たい空気におおわれた地方がありますと、前に言った地方の、暖かい空気が上がって行くあとへ、入り代わりにまわりの冷たい空気が下から吹き込んで来て、大きな渦ができます。そして雹がふったり雷が鳴ったりします。 69
これは茶わんの場合に比べると仕掛けがずっと大きくて、渦の高さも一里とか二里とかいうのですからそういう、いろいろな変わったことが起こるのですが、しかしまた見方によっては、茶わんの湯とこうした雷雨とはよほどよく似たものと思ってもさしつかえありません。もっとも雷雨のでき方は、今言ったような場合ばかりでなく、だいぶ模様のちがったのもありますから、どれもこれもみんな茶わんの湯に比べるのは無理ですがただ、ちょっと見ただけではまるで関係のないような事がらが、原理の上からはお互いによく似たものに見えるという一つの例に、雷をあげてみたのです。 70
湯げのお話はこのくらいにして、今度は湯のほうを見ることにしましょう。 71
白い茶わんにはいっている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向へ持ち出して直接に日光を当て、茶わんの底をよく見てごらんなさい。そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それがゆるやかに動いているのに気がつくでしょう。これは夜電燈の光をあてて見ると、もっとよくあざやかに見えます。夕食のお膳の上でもやれますからよく見てごらんなさい。それもお湯がなるべく熱いほど模様がはっきりします。 72
次に、茶わんのお湯がだんだんに冷えるのは、湯の表面の茶わんの周囲から熱が逃げるためだと思っていいのです。もし表面にちゃんとふたでもしておけば、冷やされるのはおもにまわりの茶わんにふれた部分だけになります。そうなると、茶わんに接したところでは湯は冷えて重くなり、下のほうへ流れて底のほうへ向かって動きます。その反対に、茶わんのまん中のほうでは逆に上のほうへのぼって、表面からは外側に向かって流れる、だいたいそういうふうな循環が起こります。よく理科の書物なぞにある、ビーカーの底をアルコール・ランプで熱したときの水の流れと同じようなものになるわけです。これは湯の中に浮かんでいる、小さな糸くずなどの動くのを見ていても、いくらかわかるはずです。 73
しかし茶わんの湯をふたもしないで置いた場合には、湯は表面からも冷えます。そしてその冷え方がどこも同じではないので、ところどころ特別に冷たいむら[#「むら」に傍点]ができます。そういう部分からは、冷えた水が下へ降りる、そのまわりの割合に熱い表面の水がそのあとへ向かって流れる、それが降りた水のあとへ届く時分には冷えてそこからおりる。こんなふうにして湯の表面には水の降りているところとのぼっているところとが方々にできます。従って湯の中までも、熱いところと割合にぬるいところとがいろいろに入り乱れてできて来ます。これに日光を当てると熱いところと冷たいところとの境で光が曲がるために、その光が一様にならず、むらになって茶わんの底を照らします。そのためにさきに言ったような模様が見えるのです。 74
日の当たった壁や屋根をすかして見ると、ちらちらしたものが見えることがあります。あの「かげろう」というものも、この茶わんの底の模様と同じようなものです。「かげろう」が立つのは、壁や屋根が熱せられると、それに接した空気が熱くなって膨脹してのぼる、そのときにできる気流のむら[#「むら」に傍点]が光を折り曲げるためなのです。 75
このような水や空気のむら[#「むら」に傍点]を非常に鮮明に見えるようにくふうすることができます。その方法を使って鉄砲のたまが空中を飛んでいるときに、前面の空気を押しつけているありさまや、たまの後ろに渦巻を起こして進んでいる様子を写真にとることもできるし、また飛行機のプロペラーが空気を切っている模様を調べたり、そのほかいろいろのおもしろい研究をすることができます。 76
近ごろはまたそういう方法で、望遠鏡を使って空中の高いところの空気のむら[#「むら」に傍点]を調べようとしている学者もいたようです。 77
次には熱い茶わんの湯の表面を日光にすかして見ると、湯の面に虹の色のついた霧のようなものが一皮かぶさっており、それがちょうど亀裂のように縦横に破れて、そこだけが透明に見えます。この不思議な模様が何であるかということは、私の調べたところではまだあまりよくわかっていないらしい。しかしそれも前の温度のむら[#「むら」に傍点]と何か関係のあることだけは確かでしょう。 78
湯が冷えるときにできる熱い冷たいむら[#「むら」に傍点]がどうなるかということは、ただ茶わんのときだけの問題ではなく、たとえば湖水や海の水が冬になって表面から冷えて行くときにはどんな流れが起こるかというようなことにも関係して来ます。そうなるといろいろの実用上の問題と縁がつながって来ます。 79
地面の空気が日光のために暖められてできるときのむら[#「むら」に傍点]は、飛行家にとっては非常に危険なものです。いわゆる突風なるものがそれです。たとえば森と畑地との境のようなところですと、畑のほうが森よりも日光のためによけいにあたためられるので、畑では空気が上り森ではくだっています。それで畑の上から飛んで来て森の上へかかると、飛行機は自然と下のほうへ押しおろされる傾きがあります。これがあまりにはげしくなると危険になるのです。これと同じような気流の循環が、もっと大仕掛けに陸地と海との間に行なわれております。それはいわゆる海陸風と呼ばれているもので、昼間は海から陸へ、夜は反対に陸から海へ吹きます。少し高いところでは反対の風が吹いています。 80
これと同じようなことが、山の頂きと谷との間にあって山谷風と名づけられています。これがもういっそう大仕掛けになって、たとえばアジア大陸と太平洋との間に起こるとそれがいわゆる季節風で、われわれが冬期に受ける北西の風と、夏期の南がかった風になるのです。 81
茶わんの湯のお話は、すればまだいくらでもありますが、今度はこれくらいにしておきましょう。 82
世間ではもちろん、専門の学生の間でもまたどうかすると理学者の間ですら「相対性原理は理解しにくいものだ」という事に相場がきまっているようである。理解しにくいと聞いてそのためにかえって興味を刺激される人ももとよりたくさんあるだろうし、また謙遜ないしは聞きおじしてあえて近寄らない人もあるだろうし、自分の仕事に忙しくて実際暇のない人もあるだろうし、また徹底的専門主義の門戸に閉じこもって純潔を保つ人もあるだろうし、世はさまざまである。アインシュタイン自身も「自分の一般原理を理解しうる人は世界に一ダースとはいないだろう」というような意味の事を公言したと伝えられている。そしてこの言葉もまた人さまざまにいろいろに解釈されもてはやされている。 83
しかしこの「理解」という文字の意味がはっきりしない以上は「理解しにくい」という言詞の意味もきわめて漠然としたものである。とりようによっては、どうにでも取られる。 84
もっとも科学上の理論に限らず理解という事はいつでも容易なことでない。たとえばわれわれの子供がわれわれに向かって言う事でも、それからその子供のほんとうの心持ちをくみ取る程度まで理解するのは必ずしも容易な事ではない。これを充分に理解するためには、その子供をしてそういう言辞を言わしむるようになった必然な沿革や環境や与件を知悉しなければならない。それを知らなければ畢竟無理解没分暁の親爺たる事を免れ難いかもしれない。ましてや内部生活の疎隔した他人はなおさらの事である。 85
科学上の、一見簡単明瞭なように見える命題でもやはりほんとうの理解は存外困難である。たとえばニュートンの運動の方則というものがある。これは中学校の教科書にでも載せられていて、年のゆかない中学生はともかくもすでにこれを「理解」する事を要求されている。高等学校ではさらに詳しく繰り返して第二段の「理解」を授けられる。大学にはいって物理学を専攻する人はさらに深き第三段第四段の「理解」に進むべき手はずになっている。マッハの「力学」一巻でも読破して多少自分の批評的な目を働かせてみて始めていくらか「理解」らしい理解が芽を吹いて来る。しかしよくよく考えてみるとそれではまだ充分だろうとは思われない。 86
科学上の知識の真価を知るには科学だけを知ったのでは不充分である事はもちろんである。外国へ出てみなければ祖国の事がわからないように、あらゆる非科学ことに形而上学のようなものと対照し、また認識論というような鏡に照らして批評的に見た上でなければ科学はほんとうには「理解」されるはずがない。しかしそういう一般的な問題は別として、ここで例にとったニュートンの方則の場合について物理学の範囲内だけで考えてみても、結局ニュートン自身が彼自身の方則を理解していなかったというパラドックスに逢着する。なんとなれば彼の方則がいかなるものかを了解する事は、相対性理論というものの出現によって始めて可能になったからである。こういう意味で言えば、ニュートン以来彼の方則を理解し得たと自信していた人はことごとく「理解していなかった」人であって、かえってこの方則に不満を感じ理解の困難に悩んでいたきわめて少数の人たちが実は比較的よく理解しているほうの側に属していたのかもしれない。アインシュタインに至って始めてこの難点が明らかにされたとすれば、彼は少なくもニュートンの方則を理解する事において第一人者であると言わなければならない。これと同じ論法で押して行くと結局アインシュタイン自身もまだ徹底的には相対性原理を理解し得ないのかもしれないという事になる。 87
こういうふうに考えて来ると私には冒頭に掲げたアインシュタインの言詞がなんとなく一種風刺的な意味のニュアンスを帯びて耳に響く。 88
思うに一般相対性原理の長所と同時にまたいくらかの短所があるとすれば、いちばん痛切にそれを感じているのはアインシュタイン自身ではあるまいか。おそらく聡明な彼の目には、なお飽き足らない点、補充を要する点がいくらもありはしないかという事は浅学な後輩のわれわれにも想像されない事はない。 89
自己批評の鋭いこの人自身に不満足と感ぜらるる点があると仮定する。そしてそれらの点までもなんらの批評なしに一般多数に承認され賛美される事があると仮定した時に、それにことごとく満足して少しもくすぐったさを感じないほどに冷静を欠いた人とはどうしても私には思われない。 90
それゆえに私は彼の言葉から一種の風刺的な意味のニュアンスを感じる。私にはそれが自負の言葉だとはどうしても思われなくて、かえってくすぐったさに悩む余りの愚痴のようにも聞きなされる。これはあまりの曲解かもしれない。しかしそういう解釈も可能ではある。 91
科学上の学説、ことに一人の生きているアダムとイヴの後裔たる学者の仕事としての学説に、絶対的「完全」という事が厳密な意味で望まれうる事であるかどうか。これもほとんど問題にならないほど明白に不可能な事である。ただ学者自身の自己批評能力の程度に応じて、自ら認めて完全と「思う」事はもちろん可能で、そして尋常一般に行なわれている事である。そう思いうる幸運な学者は、その仕事が自分で見て完全になるのを待って安心してこれを発表する事ができる。しかし厳密な意味の完全が不可能事である事を痛切にリアライズし得た不幸なる学者は相対的完全以上の完全を期図する事の不可能で無意義な事を知っていると同時に、自分の仕事の「完全の程度」に対してやや判然たる自覚を持つ事が可能である。私の見るところでニュートンやアインシュタインは明らかにこの後の部類に属する学者である。 92
私は、ボルツマンやドルーデの自殺の原因が何であるかを知らない。しかし彼らの死を思うたびに真摯な学者の煩悶という事を考えない事はない。 93
学説を学ぶものにとってもそれの完全の程度を批判し不完全な点を認識するは、その学説を理解するためにまさに努むべき必要条件の一つである。 94
しかしここに誤解してならない事で、そしてややもすれば誤解されやすい事がある。すなわちそういう「不完全」があるという事は、すべての人間の構成した学説に共通なほとんど本質的な事であって、しかもそれがあるために直ちにその学説が全滅するというような簡単なものとは限らないし、むしろそういう点を認める事がその学説の補填に対する階段と見なすべき場合の多い事である。そういう場合に、若干の欠点を指摘して残る大部分の長所までも葬り去らんとするがごとき態度を取る人もない事はない。アインシュタインの場合にもそういう人がないとは限らないようである。しかしそれはいわゆる「揚げ足取り」の態度であって、まじめな学者の態度とは受け取られない。 95
「完全」でない事をもって学説の創設者を責めるのは、完全でない事をもって人間に生まれた事を人間に責めるに等しい。 96
人間を理解し人間を向上させるためには、盲目的に嘆美してはならないし、没分暁に非難してもならないと同様に、一つの学説を理解するためには、その短所を認める事が必要であると同時に、そのためにせっかくの長所を見のがしてはならない。これはあまりに自明的な事であるにかかわらず、最も冷静なるべき科学者自身すら往々にして忘れがちな事である。 97
少なくも相対性原理はたとえいかなる不備の点が今後発見され、またたとえいかなる実験的事実がこの説に不利なように見えても、それがために根本的に否定されうべき性質のものではないと私は信じている。 98
相対性原理の比較的に深い理解を得るためにはその数学的系統を理解する事はおそらく必要である。しかしそれは必要であるが、それだけではまだ「必要かつ充分な条件」にならない事も明白である。数学だけは理解しても、少なくもアインシュタインの把握しているごとくこの原理を「つかむ」事は必ずしも可能でない。 99
また一方において、数学の複雑な式の開展を充分に理解しないでしかも、アインシュタインがこの理論を構成する際に歩んで来た思考上の道程を、かなりに誤らずに通覧する事も必ずしも不可能ではないのである。不可能でないのみならずある程度までのある意味での理解はかえってきわめて容易な事かもしれない。少なくもアインシュタイン以前の力学や電気学における基礎的概念の発展沿革の骨子を歴史的に追跡し玩味した後にまず特別相対性理論に耳を傾けるならば、その人の頭がはなはだしく先入中毒にかかっていない限り、この原理の根本仮定の余儀なさあるいはむしろ無理なさをさえ感じないわけには行くまいと思う。ある人はコロンバスの卵を想起するであろう。卵を直立させるには殻を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである。 100
殻を砕いて新たに立てた根本仮定から出発して、それから推論される結果までの論理的道行きは数学者に信頼すればそれでよい。そして結果として出現した整然たる系統の美しさを多少でも認め味わう事ができて、そうして客観的実在の一つの相をここに認める事ができたとすれば、その人は少なくとも非専門家としてすでにこの原理をある度まで「理解」したものと言っても決して不倫ではない。 101
特別論の一般を知った後にそれが等速運動のみに関するという点に一種の物足りなさあるいは不安を感じる人は、すでに立派に一般論の門戸に導かれるべき資格を備えている。そしてそこに再び第二のコロンバスの卵に逢着するだろう。 102
本論にはいってからのやや複雑を免れない道筋でも専門家以外には味わわれないようなものばかりであるとは思われない。もしどうしてもわからないものであったら、アインシュタイン自身がその通俗講義を書くような事はおそらくなかったに相違ない。私はどんなむつかしい理論でもそれが「物理学」に関したものである限り、素人にどうしてもなんらの説明をもする事もできないほどにむつかしいものがあるとは信じられない。もしあったらそれは少なくも物理でないといったような心持ちがする。 103
少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではなく、またそういう程度に味わう事がそれほど悪い事でもないと思う。 104
この原理を物理学上の一原理として見た時の「妙趣」あるいは「価値」が主としてどこにあるか。それが数式にあるか、考えの運び方にあるか。これもほとんど問題にならないほど明らかであるように私は思う。数式は彼の考えを進めるものに使われた必要な道具であった。その道具を彼は遠慮なく昔の数学者や友人のところから借りて来た。これはまさに人の知るとおりである。その道具の使い方がどこまで成効しているかはおそらく未決の問題ではあるまいか。それを決定するのは専門家の仕事である、そしてそれは必ずしも第二のアインシュタインを要しない仕事である。しかし一人のアインシュタインを必要とした仕事の中核真髄は、この道具を必要とするような羽目に陥るような思考の道筋に探りあてた事、それからどうしてもこの道具を必要とするという事を看破した事である。これだけの功績はどう考えても否む事はできないと思う。たとえ彼の理論の運命が今後どうあろうとも、これだけは確かな事である。そこに彼の頭脳の偉大さを認めぬわけには行くまいと思う。 105
ナポレオンが運命の夕べに南大西洋の孤島にさびしく終わってもその偉大さに変わりはなかった。しかしアインシュタインのような仕事にそのような夕べがあろうとは想像されない。科学上の仕事は砂上の家のような征服者の栄華の夢とは比較ができない。 106
しかしまた考えてみると一般相対性理論の実験的証左という事は厳密に言えば至難な事業である。たとえ遊星運動の説明に関する従来の困難がかなりまで除却され、日蝕観測の結果がかなりまで彼の説に有利であっても、それはこの理論の確実性を増しこそすれ、厳密な意味でその絶対唯一性を決定するに充分なものであるとはにわかには信じられない。スペクトル線の変位のごときはなおさら決定的証左としての価値にかなりの疑問があるように見える。 107
私は科学の進歩に究極があり、学説に絶対唯一のものが有限な将来に設定されようとは信じ得ないものの一人である。それで無終無限の道程をたどり行く旅人として見た時にプトレミーもコペルニクスもガリレーもニュートンも今のアインシュタインも結局はただ同じ旅人の異なる時の姿として目に映る。この果てなく見える旅路が偶然にもわれわれの現代に終結して、これでいよいよ彼岸に到達したのだと信じうるだけの根拠を見いだすのは私には困難である。 108
それで私は現在あるがままの相対性理論がどこまで保存されるかという事は一つの疑問になりうると思う。しかしこれに反して、どうしても疑問にならない唯一の確実な事実は、アインシュタインの相対性原理というものが現われ、研究され、少なくも大部分の当代の学界に明白な存在を認められたという事実である。これだけの事実はいかなる疑い深い人でも認めないわけにはいかないだろうと思う。 109
これはしかし大きな事実ではあるまいか。科学の学説としてこれ以上を望む事がはたして可能であるかどうか、少なくも従来の歴史は明らかにそういう期待を否定している。 110
こういうわけで私はアインシュタインの出現が少しもニュートンの仕事の偉大さを傷つけないと同様に、アインシュタインの後にきたるべきXやYのために彼の仕事の立派さがそこなわれるべきものでないと思っている。 111
もしこういう学説が一朝にしてくつがえされ、またそのために創設者の偉さが一時に消滅するような事が可能だと思う人があれば、それはおそらく科学というものの本質に対する根本的の誤解から生じた誤りであろう。 112
いかなる場合にもアインシュタインの相対性原理は、波打ちぎわに子供の築いた砂の城郭のような物ではない。狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚である。 113
相対性原理に対する反対論というものが往々に見受けられる。しかし私の知り得た限りの範囲では、この原理の存在を危うくするほどに有力なものはないように思われる。 114
反対論者の反対のおもなる「動機」は、だんだんせんじつめると結局この原理の基礎的な仮定や概念があまりはなはだしく吾人の常識にそむくという一事に帰着するように見える。 115
科学と常識との交渉は、これは科学の問題ではなくてむしろ認識論上の問題である。従って科学上の問題に比べてむつかしさの程度が一段上にある。 116
しかし少なくも歴史的に見た時に従来の物理的科学ではいわゆる常識なるものは、論理的系統の整合のためには、惜しげなくとは言われないまでも、少なくもやむを得ず犠牲として棄却されあるいは改造されて来た。 117
太陽が動かないで地球が運行しているという事、地球が球形で対蹠点の住民が逆さにぶら下がっているという事、こういう事がいかに当時の常識に反していたかは想像するに難くない。 118
非ユークリッド幾何学の出発点がいかに常識的におかしく思われても、これを否定すべき論理は見つからない。こういう場合にわれわれのとるべき道は二つある。すなわち常識を捨てるか、論理を捨てるかである。数学者はなんの躊躇もなく常識を投げ出して論理を取る。物理学者はたとえいやいやながらでもこの例にならわなければならない。 119
物理学の対象は客観的実在である。そういうものの存在はもちろん仮定であろうが、それを出発点として成立した物理学の学説は畢竟比較的少数の仮定から論理的演繹によって「観測されうる事象」を「説明」する系統である。この目的が達せられうる程度によって学説の相対的価値が定まる。この目的がかなり立派に達せられて、しかも根本仮定が非常識だという場合に常識を捨てるか学説を捨てるかが問題である。現在あるところの物理学は後者を選んで進んで来た一つの系統である。 120
私は常識に重きを置く別種の系統の成立不可能を確実に証明するだけの根拠を持たない。しかしもしそれが成立したと仮定したらどうだろう。それは少なくも今日のいわゆる物理学とは全然別種のものである。そうしてそれが成立したとしても、それが現在物理学の存在を否定する事にはなり得ないと思う。そして最後に二者の優劣を批判するものがあれば、それは科学以外の世界に求めなければならない。 121
自然の森羅万象がただ四個の座標の幾何学にせんじつめられるという事はあまりに堪え難いさびしさであると嘆じる詩人があるかもしれない。しかしこれは明らかに誤解である。相対性理論がどこまで徹底しても、やっぱり花は笑い、鳥は歌う事をやめない。もしこの人と同じように考えるならば、ただ一人の全能の神が宇宙を支配しているという考えもいかにさびしく荒涼なものであろう。 122
今のところ私は、すべての世人が科学系統の真美を理解して、そこに人生究極の帰趣を認めなければならないのだと信ずるほどに徹底した科学者になり得ない不幸な懐疑者である。それで時には人並みに花を見て喜び月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を感じる。それは花や月その他いっさいの具象世界のあまりに取り止めどころのないたよりなさである。どこをつかまえるようもない泡沫の海におぼれんとする時に私の手に触れるものが理学の論理的系統である。絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めたい。
[#地付き]
時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ
[#地付き]
物理学と感覚
[#地付き]
茶わんの湯
[#地付き]
相対性原理側面観
一
二
三
四
五
六
beat | butu |
laugh | walahu |
flat | filattai |
hollow | hola |
new | nii |
fat | futo |
easy | yasasi |
clean | kilei |
ill | walui |
rough | araki |
hard | katai |
angry | ikari |
anchor | ikari |
tray | tarai |
soot | susu |
mattress | musiro |
etc. | etc. |
177
この程度のもの、またもっと駄洒落
178
もっと思い切って、たとえばアフリカへ飛んで Chikaranga の語彙
象 | zhou |
魚 | hove[#「v」は下線 |
鳥 | shiri |
咽喉 | huro |
179
こういう種類のではたとえばたっつけ袴
180
しかしこれらの例をあげたのは、決してこれらの語が邦語と因果的に関係しているという事を証明するためではなく、むしろただいかなる任意の二つの国語を取って比較しても、この種の類似がありうるものであるという事の例として取ったに過ぎない。それでたとえば、他方で「魚」や「鳥」の訓がシナ語や台湾語で説明されるとか、されないとかいう事は、ここでは問題にならないのである。
181
ともかくも自分の皮相的な経験によると、いかなる国語の語彙
182
浜の真砂
183
まず試みに、子音にのみ注目するとする。そうしてAの国語における子音の総数をnとする。次に問題をできるだけ簡単にするためにB国語の子音をもこれと同数だとする。さらにいちばん簡単な場合を考えて、各子音がそれぞれ各国語に出現する頻度
[#ここから数式]
P = s1a1b1ν + s2a2b2ν2 + s3a3b3ν3 + ……[# s、a、b に続くアラビア数字はすべて下付き小文字、νに続くアラビア数字はすべて上付き小文字]
[#ここで数式終わり]
で与えられるはずである。この中に出現するs、a、b、νの各数はともかくも統計的になんとかして求められうる性質のものである。
184
以上はできるだけ事がらを簡単に考えた考え方である。これ以上にだんだん試験的、近似的仮定を修正して、少しずつ実際の場合に近づけて行く事も、原理上からの困難はなく、ただ次第に計算が込み入るだけである。しかし、今のところ、あまりに込み入った計算では実用にならないから、できるならば簡単な形で進みたい。
185
それで第一の試みとしては、まず前記のいちばん簡単な場合になるべく適合するように、材料のほうを選定し排列する事である。それはたとえば両国語の適当な語彙から比較に不適当な分子、たとえば本質的でないと思わるる接頭語、接尾語などを整理し
186
かくのごとき試験的
[#ここから数式]
siaibi[#「i」はすべて下付き小文字] = 1/4[#「1/4」は分数], i = 1, 2, 3, 4.
P = 1/4[#「1/4」は分数](1/14[#「1/14」は分数] + 1/142[#「2」は上付き小文字、「1/142」は分数] + 1/143[#「3」は上付き小文字、「1/143」は分数] + 1/144[#2つめの「4」は上付き小文字、「1/144」は分数])
1/14[#「1/14」は分数] = 0.07144444
1/142[#「2」は上付き小文字、「1/142」は分数] = 0.00510204
1/143[#「3」は上付き小文字、「1/143」は分数] = 0.00036443
1/144[#2つめの「4」は上付き小文字、「1/144」は分数] = 0.00002603
P = 0.07693694[#「P = 0.07693694」は上線
[#ここで数式終わり]
すなわち、指定のごとき比較によって、全然偶然から来る暗合の率が約二プロセントはできる事になる。
187
しかし、上の仮定で明らかに最も不都合なのは、子音ただ一つをもつ語の割合をはなはだしく大きく見すぎた事である。これはシナ語の場合のほかには明らかに適用されない。
188
それで、かりに、単子音語の確率を著しく小さいとして度外視し、なお次のごとく仮定する。 189
なお、もしも、シノニムの数が、上記4の二倍であるとすれば、以上の百分値はやはり二倍になるだけであるから、このほうから結果の桁数 190
次に特別な場合として、邦語をかな一つ一つに切り離し、その一つ一つと音韻の似た原語と同義のシナ文字を求め、それを接合して説明をするという、普通よくあるやり方をするとどうなるか。この場合は、a1 b1[#「1」はすべて下付き小文字] いずれも1で他は零となるから 191
次に比較の標準を少し下げて、メタセシスを許容すると、Pの展開式のi項に※が乗ぜられる事になるが 192
次に、子音転訛 193
以上はもちろんかなりいろいろな無理な仮定のもとに行なった計算である。これを逐次修正して言語学者の要求に応ずるように近づけて行くことは必ずしも困難ではないが、ここではしばらくこれ以上に立ち入らない事にする。 194
要するにこれは、表題にも掲げたとおり、比較言語学上における統計学的研究の可能性を暗示するための一つの試みに過ぎないのである。 195
学者の中には、二つの国語の間の少数な語彙 196
たとえば子音転訛 197
統計的方法の長所は、初めから偶然を認容してかかる点にある。いろいろな「間違い」や「杜撰 198
それで、この方法を真に有効ならしむるには、むしろあらゆる独断、偏見、臆説 199
もちろん、これも他の科学の場合と全く同様に、初めからそううまくは行かないであろう。そうして、すべての可能なるものへの試みの「不可能」を「証明」し、抹殺 200
余談はしばらくおいて、AB、AC、AD……の関係、なお念のために比較の主客を置換してBA、CA、DA……の関係の濃度に対するだいたいの比較的の数値を定める事ができたとすれば、少なくもここにABという一つの「鎖の輪」が、従来よりはやや科学的な根拠の上に仮設される。さすれば次には、前にAについて行なったと同様の方法を、今度はBについて行なうべきである。そうしてともかくも、BCという、「次の輪」の見当をつける。順次かくのごとくして、できるならばまた、世界の各方面から出発して、同じようにして、それぞれの鎖を――もちろんそういう鎖が存在するとの作業仮設のもとに――たぐって行く。もし多くの人の信ずるであろうごとく、この数々の鎖が世界のどこかに自然と集合すれば簡単である。さすればその焦点に集中した要素をやや確かに把握 201
しかし上に考えた鎖はおそらく一点には集中しないであろう、それがどう食い違うか、そこに最も興味ある将来の問題の神秘の殿堂の扉 202
自分はできるだけ根拠なき臆断 203
思うにこの私案の第一歩の試みを最も有効に遂行するためには、おそらく言語学者と科学者との協力が必要ではないかと思われる。もしこの両者が共同し、その上に機械的の計算や統計を担当する助手の数人の力をかりることができれば、仕事はかなりおもしろく進行しそうに思われる。しかしこのほうがむしろおそらく夢のような空想であるかもしれない。 204
205
最後に誤解のないために断わっておく必要のあるのは、従来とても統計的のやり方はあるにはあるが、単に数をかぞえて多いとか少ないとかいうだけではなんらのほんとうの統計としての意味がないという事である。全体に対する実際の符合率が偶然による符合率に対する比のみが意味をもつ、ここではそれを問題にしたという事である。 206
人間文化の進歩の道程において発明され創作されたいろいろの作品の中でも「化け物」などは最もすぐれた傑作と言わなければなるまい。化け物もやはり人間と自然の接触から生まれた正嫡子であって、その出入する世界は一面には宗教の世界であり、また一面には科学の世界である。同時にまた芸術の世界ででもある。 207
いかなる宗教でもその教典の中に「化け物」の活躍しないものはあるまい。化け物なしにはおそらく宗教なるものは成立しないであろう。もっとも時代の推移に応じて化け物の表象は変化するであろうが、その心的内容においては永久に同一であるべきだと思われる。 208
昔の人は多くの自然界の不可解な現象を化け物の所業として説明した。やはり一種の作業仮説である。雷電の現象は虎 209
自然界の不思議さは原始人類にとっても、二十世紀の科学者にとっても同じくらいに不思議である。その不思議を昔われらの先祖が化け物へ帰納したのを、今の科学者は分子原子電子へ持って行くだけの事である。昔の人でもおそらく当時彼らの身辺の石器土器を「見る」と同じ意味で化け物を見たものはあるまい。それと同じようにいかなる科学者でもまだ天秤 210
雷電の怪物が分解して一半は科学のほうへ入り一半は宗教のほうへ走って行った。すべての怪異も同様である。前者は集積し凝縮し電子となりプロトーンとなり、後者は一つにかたまり合って全能の神様になり天地の大道となった。そうして両者ともに人間の創作であり芸術である。流派がちがうだけである。 211
それゆえに化け物の歴史は人間文化の一面の歴史であり、時と場所との環境の変化がこれに如実に反映している。鎌倉 212
前年だれか八頭の大蛇 213
しかし不幸にして科学が進歩するとともに科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果として、化け物に対する世人の興味が不正当に希薄になった、今どき本気になって化け物の研究でも始めようという人はかなり気が引けるであろうと思う時代の形勢である。 214
全くこのごろは化け物どもがあまりにいなくなり過ぎた感がある。今の子供らがおとぎ話の中の化け物に対する感じはほとんどただ空想的な滑稽味 215
しあわせな事にわれわれの少年時代の田舎 216
このような化け物教育は、少年時代のわれわれの科学知識に対する興味を阻害しなかったのみならず、かえってむしろますますそれを鼓舞したようにも思われる。これは一見奇妙なようではあるが、よく考えてみるとむしろ当然な事でもある。皮肉なようであるがわれわれにほんとうの科学教育を与えたものは、数々の立派な中等教科書よりは、むしろ長屋の重兵衛さんと友人のNであったかもしれない。これは必ずしも無用の変痴奇論 217
不幸にして科学の中等教科書は往々にしてそれ自身の本来の目的を裏切って被教育者の中に芽ばえつつある科学者の胚芽 218
通俗科学などと称するものがやはり同様である。「科学ファン」を喜ばすだけであって、ほんとうの科学者を培養するものとしては、どれだけの効果がはたしてその弊害を償いうるか問題である。特にそれが科学者としての体験を持たないほんとうのジャーナリストの手によって行なわれる場合にはなおさらの考えものである。 219
こういう皮相的科学教育が普及した結果として、あらゆる化け物どもは箱根 220
昔の化け物は昔の人にはちゃんとした事実であったのである。一世紀以前の科学者に事実であった事がらが今では事実でなくなった例はいくらもある。たとえば電気や光熱や物質に関するわれわれの考えでも昔と今とはまるで変わったと言ってもよい。しかし昔の学者の信じた事実は昔の学者にはやはり事実であったのである。神鳴りの正体を鬼だと思った先祖を笑う科学者が、百年後の科学者に同じように笑われないとだれが保証しうるであろう。 221
古人の書き残した多くの化け物の記録は、昔の人に不思議と思われた事実の記録と見る事ができる。今日の意味での科学的事実では到底有り得ない事はもちろんであるが、しかしそれらの記録の中から今日の科学的事実を掘り出しうる見込みのある事はたしかである。 222
そのような化け物の一例として私は前に「提馬風 223
鎌鼬の事はいろいろの書物にあるが、「伽婢子 224
怪異を科学的に説明する事に対して反感をいだく人もあるようである。それはせっかくの神秘なものを浅薄なる唯物論者の土足に踏みにじられるといったような不快を感じるからであるらしい。しかしそれは僻見 225
「鸚鵡石 226
近ごろは海の深さを測定するために高周波の音波を船底から海水中に送り、それが海底で反響するのを利用する事が実行されるようになった。これを研究した学者たちが、どの程度まで上記の問題に立ち入ったか私は知らない。しかしこの鸚鵡石で問題になった事はこの場合当面の問題となって再燃しなければならないのである。伊勢 227
余談ではあるが、二十年ほど前にアメリカの役者が来て、たしか歌舞伎座 228
「伽婢子 229
地変に関係のある怪異では空中から毛の降る現象がある。これについては古来記録が少なくない。これは多くの場合にたぶん「火山毛」すなわち「ペレ女神の髪の毛」と称するものに相違ない。江戸でも慶長寛永寛政文政のころの記録がある。耽奇漫録 230
気象に関係のありそうなのでは「たぬきの腹鼓」がある。この現象は現代の東京にもまだあるかもしれないがたぶんは他の二十世紀文化の物音に圧倒されているためにだれも注意しなくなったのであろうと思う。ともかくも気温や風の特異な垂直分布による音響の異常 231
「天狗 232
天狗和尚 233
ついでながらインドへんの国語で海亀 234
もっとも「河童 235
要するにあらゆる化け物をいかなる程度まで科学で説明しても化け物は決して退散も消滅もしない。ただ化け物の顔かたちがだんだんにちがったものとなって現われるだけである。人間が進化するにつれて、化け物も進化しないわけには行かない。しかしいくら進化しても化け物はやはり化け物である。現在の世界じゅうの科学者らは毎日各自の研究室に閉じこもり懸命にこれらの化け物と相撲 236
化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。宇宙は永久に怪異に満ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。それをひもといてその怪異に戦慄 237
私は時々ひそかに思う事がある、今の世に最も多く神秘の世界に出入するものは世間からは物質科学者と呼ばるる科学研究者ではあるまいか。神秘なあらゆるものは宗教の領域を去っていつのまにか科学の国に移ってしまったのではあるまいか。 238
またこんな事を考える、科学教育はやはり昔の化け物教育のごとくすべきものではないか。法律の条文を暗記させるように教え込むべきものではなくて、自然の不思議への憧憬 239
こんな事を考えるのはあるいは自分の子供の時に受けた「化け物教育」の薬がきき過ぎて、せっかく受けたオーソドックスの科学教育を自分の「お化け鏡」の曲面に映して見ているためかもしれない。そうだとすればこの一編は一つの懺悔録 240
伝聞するところによると現代物理学の第一人者であるデンマークのニエルス・ボーアは現代物理学の根本に横たわるある矛盾を論じた際に、この矛盾を解きうるまでにわれわれ人間の頭はまだ進んでいないだろうという意味の事を言ったそうである。この尊敬すべき大家の謙遜 241
ある入学試験の成績表について数学の点数と語学の点数の相関 242
これはきわめて当たりまえのようにも思われる。結局頭のよいものは両方の点がいいという事が、最も多くプロバブルである、といってしまえばそれだけである。しかしもしやこの二つの学科がこれを修得するに要する頭脳の働き方の上で本質的に互いに共通な因子を持っているようなことはないか。これは一つの問題になる。 243
ちょっと考えると数学は純粋な論理の系統であり、語学は偶然なものの偶然な寄り集まりのように見える。前者には機械的な記憶などは全然不要であり、後者には方則も何もなく、ただ無条件にのみ込みさえすればよいように思われるかもしれないが、事実はいうまでもなくそう簡単ではない。 244
数学も実はやはり一種の語学のようなものである、いろいろなベグリッフがいろいろな記号符号で表わされ、それが一種の文法に従って配列されると、それが数理の国の人々の話す文句となり、つづる文章となる。もちろん、その言語の内容は、われわれ日常の言語のそれとはだいぶ毛色のちがったものである。しかし幾十百億年後の人間の言語が全部数学式の連続に似たものになりはしないかという空想をほんの少しばかりデヴェロープして考えてみると、この譬喩 245
言語はわれわれの話をするための道具であるが、またむしろ考えるための道具である。言語なしに「考える」ことはできそうもない。動物心理学者はなんと教えるかしらないが、私には牛馬や鳶 246
数学では最初に若干の公理前提を置いて、あとは論理に従って前提の中に含まれているものを分析し、分析したものを組み立ててゆくのであるが、われわれの言語によって考えを運んでゆく過程もかなりこれと似たところがある。もちろん、数学の公理や論理はきわめて簡単明瞭であり、使用される概念も明確に制定されているに反して、言語による思考の場合では、これらのすべてのものが複雑に多義的であるから、一見同様な前提から多種多様な結論が生まれ出るように見える。しかし実際の場合に前提の数が非常に多いから全く同一な前提群から出発するという事は実はあり得ないのである。 247
それでも、二人の人間が長く共同的に生活している場合には二人の考え方が似てくる。親しい友だちどうしで道を歩いていると、二人が同時に同じ事を考える事がある。縁側で日向 248
こんな空想はどうでもよい事にして、平凡な実際問題として見た時にも、数学の学習と語学の学習とは方法の上でかなり似通 249
語学を修得するにまず単語を覚え文法を覚えなければならない。しかしただそれを一通り理解し暗記しただけでは自分で話す事もできなければ文章も書けない。長い修練によってそれをすっかり体得した上で、始めて自分自身の考えを運ぶ道具にする事ができる。 250
数学でも、ただ教科書や講義のノートにある事がらを全部理解しただけではなかなか自分の用には立たない。やはりいろいろな符号の意味をすっかり徹底的にのみ込む事はもちろん、またいろいろな公式をかなりの程度まで暗記して、一度わがものにしてしまわなければ実際の計算は困難である。 251
それで語学も数学もその修得は一気呵成 252
ただしこれだけでは「充分なる条件」ではない。いくら単語をたくさん覚え、文法をそらんじてもよい文章は書けないと同様に、いくら数学に習熟してもそれで立派なオリジナルな論文が書けるとは限らない。これはいうまでもない事である。 253
数学が一種の国語であるとしても、それはきわめて特別な国語であることには間違いない。少なくとも高等数学となると一般世人にはあまり用のないこと、あたかもサンスクリットやヘブライのようなものである。用がないから習わない、習わないからたいそうむつかしく恐ろしく近づき難いもののように思われ、従ってそれに熟達した人がたいそうえらいものに見え、それでつづられた文章がたいそうありがたいもののように見えてくる。読んでみると実はたわいのないようなくだらないものであっても尊いお経のように思われるかもしれない。そういう傾向はたしかにある。文典の巻末にある作文や翻訳の例題と同格な応用数学的論文もなくはない。 254
近ごろ Heinrich Hackmann : Der Zusammenhang zwischen Schrift und Kultur in China (1928) を読んでみた。シナ人があまり漢字をだいじに育てあげたためにシナの文化が伸展しなかったというような事がおもしろく論じてある。 255現代の物理的科学は確かに数学の応用のおかげで異常の進歩を遂げた。この事には疑いもないが、その結果として数学にかからない自然現象は見て見ぬふりをしたり、無理に数学にかけうるように自然をねじ曲げるような傾向を生じてくる。この弊がこうじるとかえって科学の本然の進展を阻害しはしないか。 256
あらゆる自然科学は結局記載の学問である。数学的解析は実にその数学的記載に使われるもっとも便利な国語である。しかしこの言語では記載されなくても他の言語で記載さるべき興味ある有益なる現象は数限りもなくある。 257
あまり道具を尊重し過ぎて本然の目的を忘れるのは有りがちな事であるから、これもよく考えてみなければならない。 258
ついでながら、先日ある日本語の上手な漢字も自由に書けるドイツ人から聞いた話によると、漢字を学ぶ唯一の方法は、ただ暇さえあればそれらの文字とにらめくらをする事だといっていた。なるほどあの根気のいいドイツ人に、日本語のうまい、そして文字までも書く事のできる人の多いわけだと思った。もしかすると、ドイツ人がいったいに数理的科学に長じているように見えるのは、やはり同じ根気のよさ執拗さに起因しているのではないかという疑いが起こった。そう考えてみるとドイツ人の論文の中に、少なくもまれには、愚にもつかない空虚な考えをいかめしい数式で武装したようなのもある、そのわけが読めるような気がした。 259
しかしなんといっても、あらゆる言語のうちで、数学の言語のように、一度つかまえた糸口をどこまでもどこまでも離さないで思考の筋道を続けうる言語はない。普通の言語はある所までは続いていても、犬に追われたうさぎの足跡のように、時々連絡が怪しくなる。思うにこれは普通の言語の発達がいまだ幼稚なせいかもしれない。ギリシア哲学盛期の言語に比べて二十世紀の思想界の言語はこういう意味では、ほんの少ししか進歩していないかもしれない。しかし現在よりもっと進歩し得ないという理由は考えられない。人間の思考の運びを数学の計算の運びのように間違いなくしうるようにできるものかどうかはわかりかねる。しかし、少なくともそれに近づくようにわれわれの言語、というかあるいはむしろ思考の方式を発育させる事はできるかもしれない。もっともそうなるほうがいいか、ならないほうがいいか、これはまたもちろん別問題である。 260
私が「数学と語学」という題でこの原稿を書き始めた時は、こういうむつかしい問題にかかり合う考えはなかった。ただ語学が好きで数学のきらいな学生諸君と、数学が好きで語学がきらいな学生諸君とに、その好きなものときらいなものとに存外共通な要素のある事を思いださせ、その好きなものに対する方法を利用してそのきらいなものを征服する道程を暗示したいと考えたまでであった。それがやはりうさぎの足跡的に意外な方面を飛び歩いて結局こんなものが書き上がってしまった。これはやはり人間、というよりむしろ私の言語の不完全のせいだとして読者の寛容を祈る事とする。 261
今からもう十余年も前のことである。私はだれかの物理学史を読んでいるうちに、耶蘇紀元 262
その後に私は友人安倍能成 263
ところが、昨年の夏であったか、ある日丸善 264
ことし 265
マンローの注は、もちろんラチンの原文を読まんとする人のために作られたものであって、自分のような古典の知識のないものにとっては大部分はいわゆるねこに小判である。しかし原詩の十行あるいは三十行ごとに掲げた摘要は便利なものである。 266
マンローの第三巻はこの人の対語訳で、同じものがボーンのポピュラー・ライブラリーの中にも出ているそうであるが、自分はまだこの訳を読んでいない。 267
思うにルクレチウスを読み破る事ができたら、今までのルクレチウス研究者が発見し得なかった意外なものを掘り出す事ができはしないかと疑う。それほどにルクレチウスの中には多くの未来が黙示されているのである。 268
アンドラデの解説によると、近代物理学の大家であったケルヴィン卿 269
ルクレチウスの黙示からなんらかの大きな啓示を受けた学者の数は、おそらく少なくはなかったであろう。アンドラデによると、ニウトンの原子に関する説明[#ここに注 270
私がルクレチウスを紹介した集会の席上で、今どきそういうかび臭いものを読んで、実際に現在の物理学の研究上に何かの具体的の啓示を受けるという事がはたして有りうるであろうかという疑いをもらした人もあった。この疑いはあるいは現代の多くの科学者の疑いを代表するものであるかもしれない。しかし私は確かにそれが可能であると信じる一人である。もちろん科学者の中にはいろいろの種類の性質の人がある。暗示に対する感受性の鋭敏なたちの人と鈍感なたちの人とがある。解析型クラシカル型の人は多く後者に属し、幾何型ロマンチック型の学者は前者に属するのは周知の事実である。暗示に対して耳と目を閉じないタイプの学者ならば、ルクレチウスのこの黙示録から、おそらく数限りない可能性の源泉をくみ取る事ができるであろう。少なくもあるところまで進んで来て行き詰まりになっている考えに新しい光を投げ、新たな衝動を与える何物かを発見する事は決して珍しくはあるまいと思うのである。 271
要するにルクレチウスは一つの偉大な科学的の黙示録 272
近着の雑誌リリュストラシオン[#ここに注 273
意味のわからない言葉の中からはあらゆる意味が導き出されることは事実である。狡猾 274
私は今ルクレチウスを紹介せんとするに当たってまずこの点に誤解のないように、わざわざ贅言 275
問題は畢竟 276
丙は数理の応用が最高の科学的の仕事だと考えている間に、丁は実験や測定こそ真に貴重な科学の本筋であると考えているのを発見するであろう。もっともこのようにめいめいの見解の相違する事は、必ずしも科学の進歩に妨げを生じないのみならず、あるいはかえってむしろ必要な事であるかもしれない。しかし今ルクレチウスに科学の名を与えるか与えないかという問題となると、前述の見解の相違の結果が明瞭 277
現在の精密科学の方法の重要な目標は高級な数理の応用と、精緻 278
しかし、今一方に数理と器械を持たない赤手 279
この明白なる事実は不幸にして往々忘れられる。数学と器械が、それを駆使する目に見えぬ魂の力によって初めて現わし得た偉大な効果に対する感嘆の念は、いつのまにか数学と器械そのものに対する偶像的礼拝の心に推移しようとする傾向を生ずる。そういう傾向は特に現代のアカデミックな教育を受けた若い学生の間に多いのみならず、また西洋でも二三流以下の学者の中にかなりに存在するように見える。この迷信の結果は往々はなはだしく滑稽 280
もっともこう言ったからとて私は、定石的数学応用の理論や既成的の方法器械によるルーティン的の実験測定の仕事の価値を少しでもけなそうとするものではない。そういうのが無数に寄り集まってこそ、初めて現在のごとき科学の壮麗な殿堂が築き上げられたということは毫 281
しかしいかに建築材料だけが立派に堆積 282
科学の殿堂と言っても、その建設はもちろん家屋の建築とはわけがちがう。家屋の建築は設計者の気随になる。必要な建築学上の規則に牴触 283
科学の高塔はいまだかつて完成した事がないバベルの塔である。これでもうだいたいできあがったと思うと、実はできあがっていないという証拠が足元から発見される。職工たちの言葉が混乱してわからなくなる。しかし、すべての時代の学者はその完成を近き将来に夢みて来た。現在がそうであり、未来もおそらくそうであろう。 284
このおそらく永遠に未完成であるべき物理的科学の殿堂の基礎はだれが置いたか。これはもちろん一人や二人の業績ではない。しかしその最初のプランを置き最初の大黒柱を立てたものは、おそらくルクレチウスの書物の内容を寄与したエピキュリアンの哲学者でなければならない。人はアリストテレスやピタゴラスをあげるかもしれない。前者は多くの科学的素材と問題を供し後者は自然の研究に数の観念を導入したというような点で彼らもまた科学者の祖先でないとは言われない。しかし彼らの立っていた地盤は今の自然科学のそれとはむしろ対蹠的 285
この大設計は決して数学や器械の力でできるものではなくて、ただ哲人の直観の力によってできうるものである。古代の哲学者が元子の考えを導き出したのは畢竟 286
真理をかぎつける事の天才はファラデーであった。しかし彼の直観の能力に富んでいたという事は少しも彼の科学者としての面目を傷つけるものではなかった。彼がもし真理に対する嗅覚 287
ファラデーはしかし彼の直観を周到厳重な実験の吟味にかける事を忘れなかった。この事がなかったら彼はおそらく十九世紀の科学者であり得なかったに相違ない、ところでデモクリトス、エピクロス、ルクレチウスはたしかにファラデーのような実験はしなかった。そういう意味では彼らは明らかに科学者ではあるまい。しかしもし彼らがその驚くべき直観の力を具有してしかしてガリレー以後に生まれ、ファラデーの時代に生まれたと仮定したらどうであろう。 288
もっともルクレチウスを科学者と名づけるか、名づけないかというような事は実はどうでもよい事で、またどうでも言える事である。しかし私のここで問題とするところは、現代の精密科学にとってルクレチウスの内容もしくはその思想精神がなんらかの役に立ちうるかということである。ルクレチウスの内容そのものよりはむしろ、ルクレチウス流の方法や精神が現在の科学の追究に有用であるかどうかということである。 289
科学上ではなんらかの画紀元的の進展を与えた新しい観念や学説がほとんど皆すぐれた頭脳の直観に基づくものであるという事は今さらに贅言 290
しかし何もアインシュタインやブローリーらのごとき第一流の大家だけには限らない。ほとんどいかなる理論的あるいは実験的の仕事でも、少しでも独創的と名のつく仕事が全然直観なしにできようとは到底考えられない。「見当をつける」ことなしに何事が始め得られよう。「かぐ」ことなしにはいかなる実験も一歩も進捗 291
ケルヴィンやマクスウェルがルクレチウスを読んだのはなんのためであるかはよくわからない。しかし彼らがこの書の中に彼らに親しい何物かを感じたには相違ないと想像される。実際ルクレチウスに現われた科学者魂といったようなものにはそれだけでも近代の科学者の肺腑 292
原子素量の存在、その結合による物質の構成機巧、物質総量の不滅、原子の運動衝突と物性の関係、そういうようなものが予想されているばかりでなく、見方によっては電子のようなものも考えられており、分子 293
私は自分の頭になんらの「考え」をもたない科学者がかりにあるとして、そういう人がルクレチウスを百ぺん読んでもなんの役にも立とうと思わない。女学校上がりの若い細君が料理法の書物を読むような気でこの詩編のすみずみまで捜したところで、すぐ昼食の間に合いそうな材料は到底見つからない。そういう目的ならば、ざらにある安い職業的料理書を見て、完全なる総菜料理を捜したほうがいいのである。 294
しかし多くの科学の探究者はそれでは飽き足らないであろう。その当代のその科学の前線まで進んで来て、そこでなんらかの自分の仕事をしようとしている人たちは、眼前の闇黒 295
今もしルクレチウスが現代の科学者にとって有効に役立ちうるとすれば、それはまさにこの稲妻の役目をつとめうる点である。たとえば化学的分子の立体的構造を考えていた化学者や渦動原子 296
暗示の閃光 297
一方において私は若い科学の学生にこの書の一読をすすめてもよいと思うものである。学生たちは到底消化しきれないほどの栄養を詰め込まれて知識的胃病にかかっている。人は決して澱粉 298
以上長々しい前置きによって私は多くの読者の倦怠 299
これから私はルクレチウスの内容についてきわめて概略ながら紹介を試みようと思う。 300
もちろん私は哲学史については何も知らないものであるからこの書の所説の哲学史的の意義などはよくわからない。またどこまでがデモクリトス、エピクロスの説で、どこからがルクレチウスの独創によるか、そういう考証も私の柄 301
ルクレチウスに関するあらゆる文献、内容に関する詳細の考証、注釈はマンローに譲りたい。 302
以下ルクレチウスと私の呼ぶものは、必ずしもローマの詩人ルクレチウス・カールスをさすのではなくて、かの書に示された学説の代表者を抽象してそれをさすものである事を承知した上で以下の解説を読んでもらいたいと思うのである。 303
ルクレチウスの第一編は女神ヴィナスに呼びかけた祈りの言葉で始まっている。これはあらゆる神と宗教とを無視し否定せんとする彼にふさわしからぬようであるが、実はこの彼のヴィナスは「自然」とその「生成の方則」をさしているように思われる。そう思って読むと彼の言葉が生きて来るようである。それからヴィナスに訴えて、どうかその愛人たる軍神マルスが、自分のこの詩を書く邪魔をしないように心配してくれと頼んでいる。これもシーザーやポンペイの活躍していた恐怖時代のローマの片すみで静かに科学の揺籃 304
要するにこの冒頭は詩編の形式を踏襲するために置かれた装飾のようであるが、これもまた彼の全巻をおおう情調の前奏曲として見るとおもしろいのである。 305
次に名はさしてないがロイキッポスあるいはエピクロスの礼賛 306
そういう事を自分が論ずるのは神を冒涜 307
そうして彼は次の数句を歌う。 308
この句は後にもしばしばリフレインとして繰り返さるる。私はこの四句をどこかの科学研究所の喫煙室の壁にでも記銘しておいてふさわしいものであると思う。 309
この次の二句は 310
迷信から来る精神の不安を除くべき魔よけの護符はすなわち「物質不滅の方則」である、というのである。もちろん彼は彼の物質元子論から出発して、結局それから霊魂の可死を論ぜんとするのではあるが、彼のここに言うエキソルディアムは、おそらくもう少し一般化して「自然科学的世界観」をさすものと解釈しても、たぶん彼の真意を離れる恐れはあるまいと考えるのである。 311
現在の物理学における物質不滅則、原子の実在はだれも信ずるごとく実験によって帰納的に確かめられたものである。二千年前のルクレチウスの用いた方法はこれとはちがう。彼はただ目を眠りふところ手をして考えただけであった。それにかかわらず彼の考えが後代の学者の長い間の非常の労力の結果によって、だいたいにおいて確かめられた。これははたして偶然であろうか。私はここに物理学なるものの認識論的の意義についてきわめて重要な問題に逢着 312
今日の科学の方法に照らして見れば、彼が「無より有は生じない」という宣言は、要するに彼の前提であり作業仮説であると見られる。もっとも、無から有ができるとすれば、ある母体からちがった子が生まれるはずだといったような議論はしているが、これらは決して証明ではあり得ない事は明らかである。さて、有から有が生じるとすれば、そこに有の種子を仮定する必要を生じて来るのであるが、この種子の考え方においてエピキュリアンはその先輩同輩に対して実に比較にならぬほど進歩している、あるいはむしろ現代の原子観に肉薄した考え方をしている。これも厳密な推理から得た結果ではなくて、結局は直観で透視したものであろう。ルクレチウスは正直な態度で Thus easier 'tis to hold that many things have primal bodies in common 313
そういう元子を人間が目で見る事ができないからといって、その実在を疑ってはいけない。たとえば、風は目に見えないけれどもあらゆる作用をするではないかと論じている。すなわち作用によって物理的実在を規定するのである。この数行を読んで私は十九世紀末に行なわれた原子の実在に関するはげしい論争を思い浮かべざるを得なかった。また物理学における「アンスロポモーフィズムからの解放」を唱えたプランク一派の主張や、また一方最近に至って、直接可測的のもの以外の実在性を否定しようとする新素量力学の先駆者らの叫びを思いくらべて、いかにこの問題が古いものであるかを知り得たのである。 314
目に見えぬ実在の他の例としては彼はなお、香気や湿気などをあげている。また物体の磨滅 315
元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」 316
物質原子の空間における配置と運動によってすべての物理的化学的現象を説明せんとするのが実に近代の少なくも十九世紀末までの物理学の理想であった。そうして二十世紀の初めに至るまでこの原子と空間に関するわれわれの考えはルクレチウスの考えから、本質的にはおそらく一歩も進んでいないものであった。近年に至って原子は電子とプロトーンによって置き換えられ、ごくごく最近に波動力学の出現によってこれら物質的素量に関する観念に始めて目立った変化をきたしつつある。また一方相対性理論の発展によって、いわゆる空間に属する考えもまたこの素朴 317
さて、次に、物質は元子[#「元子」は底本 318
次には、空間と物質とが「それ自身に存在する」ただ二つのものであって、それ以外に第三のものはないという事を宣言している。その意味はすでに前述のごとく器械的力学的自然観の基礎として現代に保存されたものと同義である。これは物の作用や性質やまでも物体視せんとするストア派の学者に対する手ごわい論難として書かれたものであるらしい。そしてそれはまた今の物理の学生たちがあたかもあたりまえの事であるように教わり、またそう思ってかつて一度も疑ってみる事すらしなかった事である。これも皮肉な事である。今の学生の頭が二千年前の詩人よりも劣っているのか、それとも今の教育法が悪いのかそれはわからない。 319
ここで注意すべきもう一つの事は、「時間」なるものがやはりそれ自身の存在を否定されて、物性や作用などと同部類のいわゆる偶然的な、非永存的のものと見なされている事である。これも一つのおもしろい考え方である。十九世紀物理学の力学的自然観は、すべての現象を空間における質点の運動によって記載しようとした。そのために空間座標三つと時間座標一つと、この四つの変数を含む方程式をもってあらゆる自然現象の表現とした。後に相対性理論が成立してからは、時もまた空間座標と同様に見なされ取り扱われるようになったが、時というものの根本的な位地を全然奪おうとした物理学者はなかった。しかしもともと相対性理論の存在を必要とするに至った根原は、畢竟 320
普通力学の問題において、運動方程式が完全に解かれた場合には、すべての質点の各位置における速度、加速度、運動量、あるいはエネルギーのごときものが、それぞれ時の函数 321
次に彼は論じて言う。元子からいろいろの硬 322
ともかくも物質元子に、物体と同様な第二次的属性を与える事を拒み、ただその幾何学的性質すなわちその形状と空間的排列とその運動とのみによって偶然的なる「無常」の現象を説明しようとしたのが、驚くべく近代的である。そしてまさにこの点で彼が、彼の駁撃 323
元子は恒久的な剛単体 solid singleness でなければならない。そして微小ではあるが有限の大きさをもたなければならないという事を証明しようと試みている。剛体でなければ、それから剛体が作り得られないであろう。恒久なものでなければ、恒久に無常なこの世界を補充 replenish する事ができないであろう。またもし大きさが有限でなければ、物質は無限に分裂しうる、従って過去無限の年月の間に破壊し分解されたものが再び合成し復旧されるためには無限大の時を要し、結局何物も成立し得ないというのである。これは明らかにボルツマンの学説の提供する宇宙進化の大問題に触れていることを見のがす事はできない。なおこの議論の根底には後に述べる時の無窮性の仮定が置いてある事はもちろんである。 324
私は近代物理学によって設立された物質やエネルギーの素量の存在がいわゆる経験によった科学の事実である事を疑わないと同時に、またかくのごとき素量の存在の仮定が物理学の根本仮定のどこかにそもそもの初めから暗黙のうちに包含されているのではないかということをしばしば疑ってみる事がある。われわれが自然を系統化するために用いきたった思考形式の機巧 325
彼はなお、もし物質に最小限がなければ、最小なものでも無限を包蔵し、従って微分と総和の区別がなくなるという哲学者流の議論をしている。このあたりの議論はおそらく科学者にはあまり興味がないであろう。哲学的のスケプチシズムに対しては何かの意味はあるかもしれないが、われわれにはたいして直接の必要のない議論である。なんとならば、科学は畢竟 326
ルクレチウスは、かようにして、彼のいわゆる元子の何物であるかを説明した後に、エピキュリアンに対立した他の学説に対して峻烈 327
この論議の中に、熱は元子の衝突運動であるという考えや、元子排列の順序の相違だけで物の変化が生じるというような近代的の考えも見えている。 328
そこで、ルクレチウスは言葉を改めていう。自分はミューズの神のインスピレーションによって、以下さらに深く真理の解説をしようとする。しかしこういうめんどうなむつかしい事がらを説くには、「詩」の助けをかりなければならない。苦 329
さて、それから、空間には際限がないという事を論ずるのであるが、これは、「先には先がある」というだけの事であって、これはアインシュタインの一般相対性理論の出るまでは、素人 330
次には物質総量が無限大である事を説いている。もし無限大の空間にただ有限の物質があるとしたら、物質はすべてその組成元子に分解し尽くして、もはや何物も合成され得ず、従って何物も存在し得ない。なんとならば、物質世界の保存には「かなた」からの不断の補充を要する。それには無限の物質素材を要するというのである。これは、後に述べるように、彼の考える「元子の雨」が無際涯 331
この物質量の無限大を論ずる条下に現われているもう一つの重要な考えがある。元子が集合して物を生ずるのは、元子の混乱した衝突の間に偶然の機会でできあがるものであって、何物の命令や意志によるのでもない。そういう偶然によって物が合成されうるためには無限の物質元子の供給を要するというのである。この「偶然」の考えも実に近代の原子説の根底たる統計力学の内容を暗示するように見える。偶然のみ支配する宇宙ではエントロピーは無際限に増大して死滅への道をたどる。これを呼び帰して回生の喜びを与えるべき別の「理」はないものであろうか。ボルツマンやアーレニウスは、そういうプリンシプルの夢を書き残した。しかしこの夢はまだだれも実現し得ない。この問題に対してなんらかの示唆を与えるものは 332
第二巻においてルクレチウスは元子の運動の状況や、その形状や結合の機巧等を前よりも詳しく具体的に記述しているのである。 333
例によって冒頭には、富貴権勢は幸福の源泉でなくて、かえって不幸の種である。ただ理知による真理の探究が真の心の平静を与えるものだという意味の前置きがある。そして前にあげた四行のリフレインが再び繰り返されている。 334
元子は結合するが、その結合は固定的ではなく、不断に入れ代わり、離れまた捕われる。eternal give and take である。しかしその物質の総和は恒久不変であると考える。ここの考えは後代の物質不滅説を思わせる事はだれも認めるであろうが、また見方によっては、たとえば溶液分子のようなものの化学的平衡を思わせる何物かを含んでいるからおもしろい。 335
元子は互いに衝突する。その速度は一部は固有のものであり、一部は衝突によって得るものである。衝突の結果はいろいろである。ある元子はその複雑な形状のために互いに引っ掛かって結合して剛 336
元子が集まって微小な物体を作り、それが集まって、またそれより大きいものを作り、順次に目に見える物ができあがるというのである。これも原子から微晶、微晶から多晶金属の組成、あるいはまたコロイドから有機体の生成等の機巧と相通じる考えである。 337
日光に踊る微塵 338
元子が動いているのにその組成物体が静止しているように見える事のあるのは何ゆえか。それはわれわれの「知覚には限界がある」からである、と言って、遠い小山に緑草をあさる羊の群れがただ一抹 339
元子の速度はいかに大きいものであるか。太陽が出ると一瞬時に世界は光に包まれる。この光の元子は空虚を通るのではなく、物質の中を通って来るのにかかわらず、これほどに早いものであるとすれば、空虚を飛び行く場合の速度はさらに大きなものでなければならないと論じる。 340
ここで光の速度という観念、また真空と物質の中とでの速度の相違という事が想像され意識されている。 341
次に元子説の反対者が「神の意志」を持ち出すのに対する弁駁 342
見かけの上から「上」に浮かぶものはいろいろあるが、それは別に働力のためであると考えている。これもストア派に対する反対だそうである。 343
この考えからすると、すべての元子は皆「下」にまっすぐに落ちる。その場合いかにして元子相互間の衝突が可能となるか。この困難を切り抜けるために持ち出された一つの今から見て奇抜な考えは、この元子のおのおのはその直線的並行落下の途中で、ある不定な時、不定な場所において、おりおり、きわめて少しその経路を曲げるというのである。 344
しかし各種元子の中で、重いのと軽いのとで各自の落下速度がちがうとすれば相対距離が変化するから相互の衝突が起こりうるではないかという人があるだろう。しかしそれは誤っている。なんとならば、真空中では抵抗がないから、すべての元子は同速度で落下するからである、とルクレチウスは断言している。彼がおそらくなんの実験にもよらずしていかにしてこの落体に関するアリストテレスの誤謬 345
元子が互いに衝突するために物が生成し変転するという考えと元子が同速度で並行に動くという考えとの矛盾を融和するために持ち出されたこの元子[#「元子」は底本 346
彼は人間や動物に自由意志なるものの存在を無条件に容認する。さて彼の元子論に従ってすべての元子が自然方則によって直線落下をつづけるか、あるいは少なくもなんらかの確定的の方則によって支配されているならば、すべての世界の現象は全然予定的に進行するのみであって、その間になんら「自由」なる意志の現われうべき余地はないのである。しかし一方で意志の存在を許すとすれば、これはどこからはいり込んで来るか。徹底的物質論者である彼はそういうものを物質以外の世界から借用して来るという二元論的態度はどうしてもとれなかった。従って当然の必要から彼は意志の根元を彼の元子に付与したのである。 347
この考えは一見はなはだ非科学的に見えるであろう。当時でもキケロによって児戯視されたものである。しかし今の科学のねらいどころをどこまでも徹底させて生物界の現象にまでも物理学の領土を拡張しようとする場合には、だれでも当然に逢着 348
自然の漸進的死滅を救いうべき「選択原理」の有無について前章に述べた事をここで再び繰り返し考えてみると、私はこのルクレチウスの元子の任意志的偏向のうちに、その求むる原理の片鱗 349
さて元子の形状や大きさはどんなものかという説明に移る前に、これらの元子の種別の多種多様である事を述べている。この種別に関しては、現今では有限数の元素を区別するが、同一元素のすべての原子はすべて同等であるごとく考える。もっとも化学の方面では炭素原子の種々の化合価を有するものを区別し、またスペクトルの物理では同元素原子の種々の素量的状態を区別するが、そういう変態はどの原子にも共通に可能と考えるから、結局同元素原子には個性を認容していないことになる。しかるにルクレチウスの言葉から判断すると、人間がめいめいに異なるごとく、羊と羊とが異なるごとく、全く同一なる元子は一つもないと考えているらしい。すなわちウィリアム・ソディの暗示したごとく原子の個性を認める事に相当する。この現代科学の考え方とちがった考え方をしたのは、いかなる必要もしくは動機によるかわからないが、しかし前述の元子の自由意志の考えとは、かなりまでよく融合しうるものであることを注意しておきたい。 350
元子には大きさの種類がある。たとえば雷電の火の元子は薪炭の火の元子よりも微小であるから、よく物を透す力がある。光は提灯 351
次には元子の形状の差違を述べている。酒は流れやすいのに油が流動しにくいのは、後者の元子が「曲がりもつれ合っている」ためであると考えている。すなわち液体粘度の差を元子[#「元子」は底本 352
われわれの官能を刺激する光、音、香、味は、いずれもおのおの目的物から飛来する元子による一種の触覚であるという考えである。そして、すべてわれわれに快い感覚を与える光音香味の元子は丸くなめらかであり、不快に感ぜらるるものの元子は角 353
それはとにかくすべての感覚を、器械的現象に引きならしてしまおうとしているところに、われわれはルクレチウスの近代科学的精神の発現を認めなければならない。 354
次には、固体元子は曲がりあるいは分岐しているのに対して液体の元子は丸くなめらかであるとしている。これも、一方に結晶体の原子格子 355
元子の形状は多種多様であるが、しかしその種類の数は有限である。もし無限の種類があるとすれば、その一種としてわれわれは無限に大きな形態をもった元子もあるとしなければならないという議論が述べてある。この議論はそのままでは科学者には了解し難いものである。しかし今かりに次のような言葉に翻訳してみると彼の言葉がいくぶんか生きて来るように思う。すなわち彼は形の変化は、形を定める「部分」の錯列 356
この言葉が現代の原子模型をいかに適切に表わすものであるか。また言う 357
これは寒と熱との間の段階の素量的推移を述べた言葉で、言わば温度の素量説として述べた言葉である。しかしこれはまたきわめて徹底的な一般的素量説の標語としても見られる。しかして現在洪水 358
元子の種類が有限であるという考えと、最初の元子個性説とは一見矛盾するように見える。しかしこの矛盾ははなはだ貴重なる矛盾であり、実に無機界の科学と生物界の科学との矛盾である。そうしてこの矛盾を融和することこそ、未来の科学の最も重大な任務でなければならない。 359
元子の種類は有限であるが、各種元子の数は無限である。これは物質総量の無限大という前提から来る当然の帰結である。 360
これら無数の元子はその運動の結果として不断に物を生成し、また生じた物は不断に破壊され、生成と破壊の戦いによって世界は進行する。生のそばには死、死のそばには生があるのである。この考えにはいわゆる「平衡 361
物の性能が複雑であればあるほど、その物の組成元子は多種多様である。われらの母なる地のごときものはその最も著しいものである。彼女はあらゆるものの母であるからである。そのために昔のギリシア人はこの地を人格化して神と祭り上げてしまった。しかしそれは譬喩 362
動植物は地から食物をとって生長する。従って彼らの中には共通な元子が多分に包まれている。しかし共通な元子からできても、その元子の結合のしかたや順序によって異種の物ができる。あたかも種々に異なる語に共通なアルファベットがあるようなものである。 363
しかし元子の結合のしかたにある定則があって、勝手放題なものはできない。そのために生物はその祖先の定型を保存し、できそこないの妖怪 364
そういう事がどうしてできるか。それは動植物が摂取する食物の中で、各自に適当なものは残存し、不適当なものは排出されるからである。すなわちここにも「選択の原理」の存在を持ち出している。これと同じ事は無機界にも行なわれている。すなわち元子の結合にはある定まった方則が支配している。そのおかげで個々の一定の物質が区別されると考えるのである。これも化学におけるあらゆる方則全体の存在を必要とする根本原理を述べたものと見られる。 365
次にはすでに前にも述べたごとく、元子に可触的物体と同じような二次的属性を付与する事の不都合を詳述している。たとえば元子に色があるとしては、同じものの色の変化することを説明し難い。色の変化は元子の排列順序の変化あるいは元子の交代によって説明せられうると言っている。これもはなはだ近代的である。 366
色は光あって始めて生じるものであると言っているのも正しい。暗中では色の見えぬ事、照らす光によって色のちがって見える事が引証されている。有色物質を粉末にすると次第に褪色 367
光が当たって色を生ずるのは光の元子の衝突し方によるもので、そのしかたの差は物質元子の形状によると述べてある。これはある程度まで近代的に翻訳する余地があるかと思われる。 368
同様に元子は香も味もなく、声も発せず、また熱くも冷たくもない。そういう変わりやすい無常的なる二次的属性が永遠不変なるべき元子にあるはずがない。 369
色のないものから色が生じるように、感覚のない土から蚯蚓 370
その次に、生物がはげしい衝撃を受けると肉体と精神との結合が破れて後者が前者の孔 371
これらの所説は畢竟 372
以上の所説のごとくにして造られた世界には、同じようなものがたくさん共存するという考えから、われわれのと同じ世界が、他にもいくつも存在するであろうという考えが述べてある。これも一つの卓見であると言われよう。さように限りなき宇宙を一人の力で支配する神様はないはずだというところへ鋒先 373
この条下にこの世界の誕生、生長、老衰、死滅に関することも述べられている。これらを省略して直ちに第三巻に移ろう。 374
第三巻の要項とするところは、人間精神の本性を論じこれもまた物質的なる元子より成るものであることを論じ、それから霊魂は死滅するものであるという事を「証明し」最後に死の恐るるに足りない事を結論するのにある。 375
これらの所論はルクレチウスの哲学的の立場からすれば最も重要な役目を務めるものであろうが、今の私の立場から見るとあまりに現在の科学の領域を逸出した問題である事はやむを得ない。もっとも今から百年二百年後の精神物理学者が今の私のような立場でこの巻を読めばあるいは、この巻において最も興味ある発見に出会うかもわからないという事は想像し得られる。しかし私としてはこの巻をきわめて概括的な、主としてマンローの摘要による紹介だけで通過しなければならない。これらの所説の哲学史的の意義については他の哲学書に譲るほかはない。 376
冒頭には例によってエピクロスにささげた礼賛 377
まず心 378
同様に精神 379
ここで心と精神 animus と anima をルクレチウスがどう考えているかというと、両者は相互に連関したものであるが、心は支配者として胸の中枢なる心臓に座し、精神は全身に分布して心の命令に従うものとしている。私の読み得たところが誤りでなければ、彼のいわゆる心は脳に相当し、精神は全身に広がれる知覚ならびに運動神経に相当するように見える。そう思って読むと彼の言葉が了解しやすくなるのである。 380
心の衝動によって精神が刺激され、これが肉体を動かす。物質的肉体を動かすものはまた、物質でなければならない。ゆえに精神、従って心もまた物質的のものでなければならないと論ずる。これは彼の唯物観の当然の帰結であり、またおそらく現代の多くの物理的生理学者の暗黙のうちに仮定しつつある事でなければならない。 381
精神は物質であるとすれば、それはやはり物質的元子[#「元子」は底本 382
人間の息を引き取る前とあととにおける体重を比較しようとする学者は今おそらく一人もないであろう。しかし徹底的なる現代科学的精神からすれば、この実験を遂行せずして始めから結果を断定する事は許されないであろう。 383
精神を組成するものは、「精 384
人間や動物の性情性質の相違はこの熱と精気と、空気との含有の割合によって生ずる。たとえば獅子 385
精神は肉体によって結合され、さらに肉体を生かす。両者いずれか一を引きはなせば両者は破壊され生命は滅びる、また両者の相対的運動によって感覚が生じる。肉体の元子と精神の元子とが一つずつ対 386
これらの考えを基にしてルクレチウスは、精神は肉体の死とともに死滅するものであるという彼の信条を「説明」するためにおよそ二十八箇条をあげて彼の雄弁を発揮するのである。しかしこれを逐条ここで述べることは私の任務でないのみならず、いたずらに読者の倦怠 387
さて、霊魂が母体とともに死滅してしまうとすれば、死は少しも恐ろしくなくなってしまう。ローマが勝とうがカルタゴが勝とうが、霊肉飛散した後の我れにはなんのかかわりもない。たとえわが精神の元子は元子として世界のどこかに存在していても、肉を離れて分解した元子はもはや「我れ」ではない。もっとも、現に我れを構成していたすべての元子が、測るべからざる未来において、偶然に再び元のとおりに結合して今の我れと同じものも作るような事はありうるかもしれないが、その再生した我れが、前生の我れを記憶していようとは思われない。 388
死後に自分の死を悲しむべき第二の我れは存しないからわが死は我れにとって悲しみでない。死とともに欲望も死ぬるから、だれも、満たされなかった望みに未練を感ずるものはない。そしてたとえせいぜい幾年生き延びたところで永遠の死に対してはその余命は無に等しい。 389
死後に行くと言われる地獄は、実は目前の欲の世界である。これをのがるる唯一の道は万物の物理の研究である。 390
私はこのエゴイストの哲学についてはなんらの批評の言葉も持ち合わせない。しかし私は、現代においてもしも腹わたの奥底までも科学的にできあがった科学者がいたとしたら、少なくも彼の死に対する観念だけは、よほどこれと似たものでありはしないかを疑うものである。 391
以上彼の所説中で今の物理学者にとって最も興味あるものと思わるるのは、いったん成立して後に分解し離散した多数元子のある特定の集団が、たとえほとんど無限の時間の後であるとしても、再び元どおりに復活しうる機会を持つという考え、しかもそれはなんらの神の意志にもよらずして単に統計学的偶然の所産として起こりうるという考えである。これを読んだ多くの物理学者はボルツマンがそのガス論の第九十章に書き残した意味深きなぞを思い出さないわけには行かないであろう。 392
もう一つの注目すべき事は、この巻のみに限らないが、一般に元子の大きさが小さければ小さいほどその速度が大きいという考えが黙認されているらしく見えることである。いかなる根拠あるいは機縁によってこういう観念が生じたかはもちろん不明であるが、ともかくもこれは後代のガス論に現われたエネルギーの等分配 393
私は思う。直観と夢とは別物である。科学というものは畢竟 394
ちなみにわが国の神官の間に伝わる言い伝えに、人間の霊魂は「妙 395
第四巻に移るに当たって、私は以上の三巻を取り扱って来た私の紹介の態度と方法に多少の変更を加える必要を感じる。 396
以上紹介したところによって、私はルクレチウスの根底に存する科学的精神の一般的諸相と、彼の元子説のおもなる前提ならびにその運用方法の概念だけを不完全ながら伝えることができたように思う。以下の三巻に現われるこれらの根本的なものは、多く述べきたったものの変形であり敷衍 397
また一方、以下各巻に現わるる具体的の自然現象の具体的説明となれば、これらはそのままでは当然現在の科学に照らした批判に堪えうるものではない。 398
そういうわけであるから、これ以後も従前のごとく逐条的詳細の紹介解説をするとすれば、それはあまりにしばしば無用な重複に陥り、またあまりにわずらわしき些末 399
それで、私は、以下にはなるべく重複を避けながら、主として科学的に興味あるべき事がらを、やや随意に摘出しながら進行しようと思う。 400
第四巻の初めにおける重要題目は物体が吾人 401
反射角と入射角と等しいという意味の言葉もある。水中に插入 402
表面の粗なる物体にこの「像」が衝突した場合には、この薄膜の像が破れてしまうから、映像を生じないという説明や、また遠方の物体が不鮮明に見えるのは長く、空中を飛行する間に無数の衝突を受けて、像のとがった角 403
知覚が与えるものは常に正しくても、その判断の誤りから錯覚を生ずると言っていろいろの例もあげてある。そしてこれに続いて自然の認識の基礎となるべきものはしかし結局吾人 404
音響はやはり一種の放射物であるが「像」のようなものとは考えられていないらしい。そして音の散乱、反射というようなものも、どうにか論じてある。おもしろいのは音の回折の事実を述べてある所に、ホイゲンスの原理に似た考えが認められる。すなわち一つの音から次の音が生まれる。ちょうど一つの火花から多くの火花が生まれるようだと言っているのである。そして、光は影を作るが音は影を作らない事実に注意を向けている。 405
私は昔ある場所の入学試験の問題として、音波と光波の見かけの上の回折の差を証明する事を求めたが、正解らしい要点に触れたものはまれであった。多くの学生らは教科書に書いてない眼前の問題はあまり考えてみないものと思われる。そして教わったものなら、どんなめんどうな数式でも暗記していて、所問に当たろうが当たるまいが、そのままに答案用紙に書き並べるのである。二千年前のルクレチウスのほうがよりよき科学者であるのか、今の教育方針が悪いのか、これも問題である。 406
香や味の問題その他生理学的の問題の所説は全部略する。ただこの条に連関して人間の生活官能は人間の用途のために設計して作られたものではなくて、官能があって後にその用が生まれるものであると言って、目的論的自然観に反対する所論のある事を注意しておきたい。 407
巻末に性愛を論じた部分の中に遺伝素に関する考えが見いだされる。この考えはよほどまで具体的に現代の遺伝学説に近似するものであって、この事はすでに近ごろのネチュアー[#ここに注 408
第五巻の初めにおいて、ルクレチウスは、さらに鋒先 409
そうして世界の可死を論じるために水や空気や火の輪廻 410
最も興味あるは宇宙の生成に関する開闢論的 411
地が静止しているというための彼の説明は遺憾ながら有利に翻訳し難いものである。 412
次には星の運行の原因を説明するものとして、四つばかりの可能なオルターネティヴを列挙している。この説明の内容はとにかくとして、この後においても彼はしばしば当面の問題に対して可能であるべき説明をできうる限り列挙せんと努めているのは注意すべき彼の科学的方法である。彼は言う。これらのもののいずれが、この「われわれの世界」で原因となっているかは確実にはわからない。しかし宇宙間に存する「種々の世界」は種々に作られているから、これらの原因のいずれもが、どこかの世界には行なわれているかもしれない。ただこの世界でその中のどれが行なわれているかを断言する事は、自分のように「要心深く歩を進める人間」のすべき事ではないと言っている。 413
この方法論は、実は、はなはだ科学的なものである。彼の考えを敷衍 414
この態度で彼は太陰太陽の週期の異なる理由、昼夜の長短の生ずる理由、月の盈虚 415
開闢論 416
ここで地の老衰を説いた後に 417
最初のうちはいろいろの片輪者や化け物が生まれた。しかしそれらは栄養生殖に不適当であるためにまもなく絶滅したと言って、ここに明らかに「適者生存の理」を述べている。残存し繁栄した種族は自衛の能力あるものか、しからざれば人間の保護によるものであると付け加えている。そして半人半獣の怪物が現存し得ざるゆえんを説いているのである。 418
次には原始人類の生活状態から人文の発達の歴史をかなり詳しく論じている。これらの所説を現在学者の所説と比較してみてもおそらく根本的にはいくらも違わないのではないかと思われる。たとえば火の発明の記事は現に私の机上にある科学者の火に関する著書の内容そのままであり、言語の起源に関する考えは、近代言語学者中の最も非常識なる説よりも、もう少し要を得ている。 419
冶金 420
第六巻では主として地球物理学的の現象が取り扱われている。これは現在の気象学者や地震学者、地質学者にとってかなりに興味あるものを多分に包有し提供している。しかしここでこれらの詳細にわたって紹介し評注を加えることはできない。私はもし機会があったら、他日特に「ルクレチウスの地球物理学的所説」だけを取り出してどこかで紹介したいという希望をもっているだけである。 421
彼が雷電や地震噴火を詳説した目的は、畢竟 422
雷電の現象についてもやはり種々の可能な原因を列挙している。その中に雷雨の生因と、雲および風の渦動 423
また風が速度のために熱するということも考えられている。圧縮によって熱の種子が絞り出されるという言葉もおもしろい。これらはガス体の熱力学の一部の予言とも見られる。 424
雷電の熱効果、器械的効果を述べる中に、酒壺 425
雷電の火の種子が一部は太陽から借りられたものであるとの考えも正鵠 426
電火の驚くべき器械的効果は、きわめて微細なる粒子が物質間の空隙 427
雷雨の季節的分布を論ずる条において、寒暑の接触を雷雨の成立条件と考えているのも見のがすことができない。 428
竜巻 429
雲の生成に凝縮心核を考えているのは卓見である。そして天外より飛来する粒子の考えなどは、現在の宇宙微塵 430
次に地震の問題に移って、地殻 431
「地下の風」の圧力が地の傾動を起こし震動を起こすという考えが、最近のマグマ運動と地震の関係に関する学説を連想させる。 432
津波の記事の加えられているのは地震国たるギリシア・ローマの学者にして始めてありうるものであろう。 433
次には大洋の水量の恒久と関係して蒸発や土壌 434
火山を人体の病気にたとえた後に、物の大きさの相対性に論及し、何物も全和に対しては無に等しいと宣言している。 435
また火山の生因として海水が地下に滲透 436
ナイルの洪水 437
次には毒ガス泉や井戸水の問題がある。井水の温度に関する彼の説明は奇抜である。 438
その次に磁石の説が来るのは今の科学書の体裁と比較して見れば唐突の感がある。ただし著者のつもりは、あらゆる「不思議」を解説するにあるのであって、科学の系統を述べているのでないと思えばよい。 439
磁石の作用を考えている中に「感応」の観念の胚子 440
終わりには「病気」に関する一節があって、そこには風土病と気候の関係が論ぜられ、また伝染病の種子としての黴菌 441
最後にアゼンスにおける疫病流行当時の状況がリアルな恐ろしさをもって描き出されている。マンローによればこれはおもにツキジデスを訳したものだそうであり中には誤謬 442
この疫病の記述によってルクレチウスの De Rerum Natura は終わっている。これはわれわれになんとなく物足りない感じを与える。ルクレチウスはおそらく、この後にさらに何物かを付加する考えがあったのではないか。私はこの書に結末らしい結末のない事をかえっておもしろくも思うものである。実際科学の巻物には始めはあっても終わりはないはずである。 443
ルクレチウスの書によってわれわれの学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である。この意味でこの書は一部の貴重なる経典である。もし時代に応じて適当に釈注を加えさえすれば、これは永久に適用さるべき科学方法論の解説書である。またわれわれの科学的想像力の枯渇した場合に啓示の霊水をくむべき不死の泉である。また知識の中毒によって起こった壊血症を治するヴィタミンである。 444
現代科学の花や実の美しさを賛美するわれわれは、往々にしてその根幹を忘却しがちである。ルクレチウスは実にわれわれにこの科学系統の根幹を思い出させる。そうする事によってのみわれわれは科学の幹に新しい枝を発見する機会を得るのであろう。 445
実際昔も今も、科学の前衛線に立って何か一つの新しき道を開いた第一流の学者たちは、ある意味でルクレチウスの後裔 446
エネルギー不滅論の祖とせらるるロベルト・マイアーは最もよくルクレチウスの衣鉢 447
現代の科学がルクレチウスだけで進められようとは思われない。しかしルクレチウスなしにいかなる科学の部門でも未知の領域に一歩も踏み出すことは困難であろう。 448
今かりに現代科学者が科学者として持つべき要素として三つのものを抽出する。一つはルクレチウス的直観能力の要素であってこれをLと名づける。次は数理的分析の能力でこれをSと名づける。第三は器械的実験によって現象を系統化し、帰納する能力である。これをKと名づける。今もしこの三つの能力が測定の可能な量であると仮定すれば、LSKの三つのものを座標として、三次元の八分一 449
ヘルムホルツや、ケルヴィンやレイノルズのごときはLSKいずれも多分に併有していたものの例である。現存の学者ではジェー・ジェー・タムソンがこのタイプの人であろう。ファラデーや現代のラザフォードやウードのごときはLK軸の面に近く位している。ボルツマン、プランク、ボーア、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ディラックらはLS面に近い各点に相当する。ただ L = 0 すなわちSKの面内に座する著名の大家を物色する事が困難である。あるいはレーリー卿のごときは少なくもこの座標軸面に近い大家であったかもしれない。 450
ゾンマーフェルトやその他の数理物理学者はS軸の上近くに座するものであり、純実験、純測定の大家らはK軸に羅列 451
しかるにL軸の真上に座する人はもはや科学者ではない。彼らは詩人である。最善の場合において形而上学者 452
もちろん座標中心の付近には科学者の多数が群集していて、中心から遠い所に僅少 453
以上の譬喩 454
誤解のないために繰り返して言う。ルクレチウスのみでは科学は成立しない。しかしまたルクレチウスなしには科学はなんら本質的なる進展を遂げ得ない。 455
私は科学の学生がただいたずらにL軸の上にのみ進む事を戒めたく思うと同時に、また科学教育に従事する権威者があまりにSK面の中にのみ学生を拘束して、L軸の方向に飛翔 456
最後に私はこの一編の未熟な解説が、ルクレチウスの面影の一側面をも充分正確に鮮明に描出することを得なかったであろうことを恐れる。そうしてこの点について読者の寛容をこいねがうものである。 457
ルクレチウスを読み、そうしてその解説を筆にしている間に、しばしば私は一種の興奮を感じないではいられなかった。従って私の冷静なるべき客観的紹介の態度は、往々にしてはなはだしく取り乱され、私の筆端は強い主観的のにおいを発散していることに気がつく。また一方私はルクレチウスをかりて自分の年来培養して来た科学観のあるものを読者に押し売りしつつあるのではないかと反省してみなければならない。しかし私がもしそういう罪を犯す危険が少しもないくらいであったら、私はおそらくルクレチウスの一巻を塵溜 458
ちなみに故日下部四郎太 459
日本から南洋へかけての火山の活動の時間分布を調べているうちに、火山の名前の中には互いによく似通 460
この統計の基礎的の材料として第一に必要なものは火山名の表である。しかしこの表を完全に作るということがかなりな難事業である。まずたくさんの山の中から火山を拾い出し、それを活火山と消火山に分類し、あるいは形態的にコニーデ、トロイデ、アスピーテ等に区別することは地質学者のほうで完成されているとしても、おのおのの山には多くの場合に二つ以上の名称がありまた一つの火山系の各峰がそれぞれ別々の名をもっているのをいかに取り扱うかの問題が起こる。 461
また火山の名が同時に郡の名や国の名であったりすることがしばしばある。その場合そのいずれが先であるかが問題となる。国郡のごとき行政区画のできるはるかに前から、火山の名が存し、それが顕著な目標として国郡名に適用されたであろうとは思われるが、これも確証することはむつかしい。 462
山の名の起原についてはそれぞれいろいろの伝説があり、また北海道の山名などではいかにももっともらしい解釈が一つ一つにつけられている。これをことごとく信用するとすれば自分の企てている統計的研究の結果が、できたとしても、それは言語学的に貢献することは僅少 463
それで唯一の科学的方法はこれらのあらゆる不確実な伝説や付会説をひとまず全部無視して、そうして現在の山名そのものを採り、全く機械的に統計にかけることである。たとえば硫黄岳 464
完全な材料はなかなか急には得難いので、ここではまず最初の試みとして東京天文台編「理科年表」昭和五年版の「本邦のおもな火山」の表を採ることにする。これは現在の目的とはなんの関係なしに作られたものであるから、自分の勝手がきかないところに強みがある。これを採用するとした上で山名の読み方が問題となるが、これは「大日本地名辞書」により、そのほかには小川 465
さて Aso, Usu, Uns(z)en, Esan の四つを取ってみる。これはいずれも母音で始まり、次に子音で始まる綴音 466
一般に母音で始まり次にいずれか任意の一つの子音の来る場合が火山の表中で何個あるかを数えてみる。この数を N(VC) で表わす。するとこの中である特定の一つの子音、たとえばSならSが出現するという事のプロバビリテーはいくらか。この確率は可能な子音の種類の数 467
子音数Qをどう取るかがかなりむつかしい問題になるが、「アソ」の場合は、かりにこれを9と取る。すなわち 468
まず歴史時代に噴火の記録のあるものだけについて見ると N(VC) = 8 である。 469
次に消火山活火山をも合わせて取り扱う場合には、N'(VC) = 11 となり、R = 3.3 に減ずるが、硫黄・岩雄の頭がyなる子音だとして、このアソ型から除けば R = 5.1 となる。 470
次に Koma 471
Q = 9, m = 7, N = 48 であれば R = 10.5 となる。活火山だけだと m = 2 なる代わりに N = 14 となるので R = 10.3 でやはりほぼ同値となる。いずれにしても偶然の場合とは桁数 472
Turumi, Tarumai, Daruma の場合は、活火山だけだとタルマイ一つ、すなわち m = 1 で統計価値があまりに少ないから、消火山も入れて n = 3 の場合を考える。この場合は子音三つであってNの最多数な場合である。それでもしこの場合の数 N(CCC) を現在の表中の火山の総数に等しいと取れば、これは結果のRを少なくするほうの取り方であるからこれで得られたRが大きければ、ほんとうはもっと大きい事になる。それでかりにそうしてみる。さすればこの場合 N(CCC) = 167, m = 3 また子音三個の組み合わせの順列の数は 9×8×7 = 504 であるから、R = 3×504÷167 = 9.0 強となる。 473
鳥海山はトリノウミと言ったらしい形跡があるので、これも入れるとするとRはさらに四分の五倍だけに増すわけである。 474
次に問題になるのは F(H)uz(d, t)i, Hiuti, Kudyu[#5文字目の「u」はアクサン 475
次には Yuwoo, Yuwao, Yufu を取り三つの「硫黄 476
以上の場合に得たRの価はいずれも1に対して相当多いものである。従って単なる偶然と見る事は少しむつかしく思われて来るのである。もちろんこれらが全部関係があるということは言われないが、これらのうち若干は連関しているであろうということを暗示するには充分であると思う。それでもし偶然でないとすれば以上にあげたような言語要素がいろいろな形で他の火山名の中にも現われていはしないかと思われる。また一方で同じ要素が南洋その他の方面にありはしないかと思われる。また南洋の言語中には従来の言語学者の説のごとく世界じゅうの言語が混合しているとすれば逆に遠い外国の意外のへんにも同じ要素が認められはしないかという疑いが起こる。それで試みに同型の疑いのある火山名を次ページの表に列挙して将来の参考に供しておきたいと思うのである。中には現在の形での意味がかなり明白だと思うのがあってもかりに除かないで採録しておくことにする。 477
このほかにまだコマ・カンプ型、クジウ型およびイワウ型があるがこれは今回は略し、他日の機会に譲ることとする。 478
この表中にヨーロッパやアメリカなどの火山が出て来るのを見て笑う人もあろうと思うが、しかし南洋語と欧州語との間の親族関係がかなり明らかにされている今日、日本だけが特別な箱入りの国土と考えるのはあまりにおかしい考えである。これについてはどうか私が先年「思想」に出した「比較言語学における統計的研究法の可能性について」を参照されたい。 479
また言語学者のほうからは、私の以上の扱い方が音韻転化の方則などを無視しているではないかという非難を受けるかと思う。しかしグリムの方則のような簡単明瞭 480
以上の調べの結果で、たとえば Aso, Usu, Esan, Uson, Asur, Osore, Ossar 等が意味の上で関係があると仮定すれば、これはいったい何を意味するかが問題となる。たとえば南洋エファテの Aso 481
コマ型、タラ型、フジ・クジウ型、ユワウ型についても同様なことが言われるのであるが、これらは後日さらに詳しく考えてみたいと思う。今回は紙数の制限もあるので以上の予備的概論にとどめ、ただ多少の見込みのありそうな一つの道を暗示するだけの意味でしるしたに過ぎない。従って意を尽くさない点のはなはだ多いのを遺憾とする。ともかくもかかる研究の対象としては火山の名が最も適当なものの一つであることは明らかであろう。たとえば川の名ではこういう方法は到底むつかしいと考えられる。最も顕著な特徴をもって原始民の心に最も強く訴えたであろうと思わるる地上の目標として火山にまさるものはないのである。しかしそういう目標に名前がつけられ、その名前がいよいよ固定してしまい、生き残りうるためには特別な条件が具足することが必要であると思われる。単に理屈がうまいとか、口調がいいとかいうだけでは決して長い時の試練に堪えないかと思われる。従来の地名の研究には私の知る限りこの必要条件の考察が少しも加わっていないではないかと思われる。この条件が何であるかについては他日また愚見を述べて学者の批評を仰ぎたいと思っている。 482
毎朝起きて顔を洗いに湯殿の洗面所へ行く、そうしてこの平凡な日々行事の第一箇条を遂行している間に私はいろいろの物理学の問題に逢着 483
第一は金だらいとコップとの摩擦によって発する特殊な音響の問題である。普通の琺瑯引 484
古い物理書などに書いてあるとおりガラスのフィンガーボールの縁を指頭で摩擦して楽音を発せしめる場合に、指を水でぬらしておいて摩擦する事になっているが、現在の場合でも接触面が水でぬれている事が必要条件であるらしく見える。これも充分に実験を重ねた上でなければ断言はできないが、これまでの経験ではそう思われる。しかし次に起こって来る問題は、単に水でぬれているだけでそれで充分であるかどうかということである。 485
近年のいわゆる「表面化学」の発達によって次第に明らかになって来たとおり、固体ことにガラスや陶器などの表面にはガスのみならずある種類の液体や固体の薄膜を頑固 486
自分の経験では金だらいの縁がひどく油あかでよごれているときは鳴らない。石鹸 487
この場合に油膜の存在と摩擦の関係が明らかになったとしても、この場合の摩擦によって金だらいの規則正しい振動の誘発される機巧についてはまだよくわからないことがかなりに多く伏在しているのである。クラドニの実験や、またヴァイオリンの場合に松やにをつけた毛で摩擦する際にどうして振動が継続されるかの問題についてはヘルムホルツ以来本質的にはほとんど一歩も進んだ解釈は与えられていないように思う。もちろんただ通り一ぺんの説明はついている。すなわち振動体の減衰するエネルギーを弓の仕事で補給する、その補給の回数と適当な位相とを振動体の振動自身が調節するというのである。この点では実際ラジオなどに使う真空管とよく似た場合である。 488
しかしこれだけの説明で満足しないでもう一歩深く立ち入って考えてみると、もういっさいが暗やみになってしまうのである。弓の毛髪と振動体とが複雑な週期的相対運動をしている際に摩擦係数がはたして静的係数と動的係数との間を不連続的に往復しているのか、それとももっと複雑な変化をしているのか、これについてはまだだれも徹底的に研究した人はないようである。 489
クントの実験でも同様である。あの場合になぜ金属棒は松やにを着けた皮でしごき、ガラス棒だとアルコールを着けた綿布でこするか、この幼稚な疑問に対してふに落ちる説明をしてくれる教師はまれであろう。それにもかかわらず物理学をデモンストレートする先生がたはなかなかこの目前の好個の問題を手に取り上げて落ち着いて熟視しようとはしないのである。 490
同じく摩擦に関した問題で日常おもしろいと思うものがもう一つある。それは雨の日の東京の大通りを歩いているときにしばしば経験させられることであるが、人造石を敷いた舗道が非常にすべりやすくなることがある。煉瓦 491
近ごろネーチュア誌を見ると、コップにビールをつぐ時にビールの泡 492
たとえば、これもやはり私の洗面台の問題の一つであるが、前夜にたてた風呂 493
ガラス面に水滴の着く事に関してはいわゆる「呼気像」 494
水滴の合流するしかたの統計的方則に関しては現在の物理学はほとんど無能に近いと言っても過言ではない。これに類する多くの問題は至るところに散在している。たとえば本誌 495
私が宅 496
古代ギリシアの哲学者の自然観照ならびに考察の方法とその結果には往々現代の物理学者、化学者のそれと、少なくも範疇的 497
この歴史的事実は往々、「質的の研究が量的の研究に変わったために、そこで始めてほんとうの科学が初まった」というお題目のような命題の前提として引用される。これは、この言葉の意味の解釈次第ではまさにそのとおりであるが、しかしこういう簡単な、わずか一二行の文句で表わされた事はとかく誤解され誤伝されるものである。いったいにこの種類の誤伝と誤解の結果は往々不幸にして有害なる影響を科学自身の進展に及ぼす事がある。それはその命題がポピュラーでそうして伝統的権威の高圧をきかせうる場合において特にはなはだしいのである。 498
量的というだけならば古代民族の天文学的測定ははなはだ量的なものであった。しかし彼らは実験はあまりしなかった。上記の科学の黎明期 499
ガリレー、ゲーリケ以後今日まで同様なことがずっと続いて跡を絶たない。ヴォルタの電盆や電堆 500
現代のように量的に進歩した物理化学界で、昔のような質的発見はもはやあり得まいという人があるとすれば、それはあまり人間を高く買い過ぎ、自然を安く踏み過ぎる人であり、そうしてあまりに歴史的事実を無視する人であり、約言すれば科学自身の精神を無視する人でなければならない。 501
重大な発見の中でいわゆる Residual phenomena の研究から生まれるものがある。これらはもちろん非常に精密なる最高級の量的実験の結果としてのみ得られるものである。たとえばあまりに有名なルヴェリエの海王星における、レーリーのアルゴンにおけるごときものである。また近ごろの宇宙線 502
もちろん質的の思いつきだけでは何にもならないことは自明的であるが、またこれなしには何も生まれないこともより多く自明的である。西洋の学界ではこの思いつきを非常に尊重して愛護し、保有し、また他人の思いつきを尊重する学者が多いのであるが、わが国ではその傾向が少ないようである。「ただの思いつきである」という批評は多く非難の意味をもって使われるようである。思いつきはやはり愛護し助長させるべきであろう。 503
これらはきわめて平凡なことである。それにかかわらずここでわざわざこういうことを事新しく述べ立てるのは、現時の世界の物理学界において「すべてを量的に」という合い言葉が往々はなはだしく誤解されて行なわれるためにすべての質的なる研究が encourage される代わりに無批評無条件に discourage せられ、また一方では量的に正しくしかし質的にはあまりに著しい価値のないようなものが過大に尊重されるような傾向が、いつでもどこでもというわけでないが、おりおりはところどころに見られはしないかと疑うからである。そのために、物理的に見ていかにおもしろいものであり、またそれを追求すれば次第に量的の取り扱いを加えうる見込みがあり、そうした後に多くの良果を結ぶ見込みのありそうなものであっても、それが単に現在の形において質的であることの「罪」のために省みられず、あるいはかえって忌避されるようなことがありはしないか、こういうことを反省してみる必要はありはしないか。 504
むしろそういう研究を奨励することが学問の行き詰まりを防ぐ上に有効でありはしないか。 505
もちろん多くの優秀なる学徒たちは何もわざわざそういう質的の、容易なようで実はむずかしい実験などをやらなくても、立派に量的であって、しかもおもしろくて有益であるような研究に従事するほうが賢明であり能率が良いと考えるであろうし、またそれはまさにそのとおりである。それだけならば何も問題はないのであるが、しかしもしそういう人たちがかりにそういう人たちとは反対にわざわざ難儀で要領を得ない質的研究をしている少数な人たちの仕事を、意識的、ないしは無意識的に discourage しあるいは積極的に阻止するようなことが、たまにならばともかく、学界一般の風 506
現代において行なわれておりあるいは行なわれうべき質的研究は必ずしも初めから有益でありおもしろいとは限らない。十中八九は実際おそらくなんらの目立った果実を結ぶことなく歴史の闇 507
ずっと昔から質的にしか知られていないような現象の研究には通例異常な困難が伴なう。結局の目的はやはりこれらを量的分析にかけるにあるが、現象のいかなる相貌 508
こういう種類の問題の一例は、おなじみのリヒテンベルクの放電像のそれである。この人が今から百何十年前にこの像を得た時にはたぶん当時の学者の目を驚かせたに相違ないのであるが、それがその後の長い年月の間にただ僅少 509
こういう種類の現象は分類的に見るとたいてい事がらが偶然的に統計的であって、古典的物理学の意味において deterministic でないような部類に属しているのである。 510
統計的数字を取り扱うことが「量的」であるかないか、従来の古典物理学で言うところの量的であるかないか、これは議論にもならないような事であるが、しかし事実上往々、たとえば地球物理学の問題における統計的研究は物理学上の量的研究とは全然別種のものと見なされ、どうかするとそれがかなり有益であり興味あるものであっても、「統計的だから」というわけをもって物理的なるものの圏外に置かれ、そういう仕事を行なう人たちには「統計屋」なるあまり愉快でない名前がさずけられる場合もあった。実際多くは統計屋であったかもそれはわからない。しかしそういう事実からして、統計的研究――物理学方法論から見た一つの方法としての――が本質的に無価値なるがごとき「感じ」を与えるようになるとしたら、それもまた憂うべきことである。 511
近代物理学では実際統計的現象の領土は次第次第に拡張されて来た。そうして古い意味での deterministic な考え方は一つのかりの方便としてしか意味をもたなくなって来た。同じ原因は同じ結果を生ずるという命題は、「同じ」という概念の上におおいかかった黒雲のために焦点をはずれた写真のように漠然 512
こういう時代において、それ自身だけに任せておくととかく立ち枯れになりやすい理論に生命の水をそそぎ、行き詰まりになりやすい抽象に新しい疎通孔をあけるには、やはりいろいろの実験が望ましい。それには行ない古したことの精査もよいが、また別に何かしら従来とはよほどちがった方面をちがった目で見るような実験的研究が望ましい。ことにこの眼前の生きた自然における現実の統計的物理現象の実証的研究によって、およそ自然界にいかに多様なる統計的現象がいかなる形において統計的に起こっているかを、できるならば片端から虱 513
この難儀の問題の黒幕の背後に控えているものは、われわれのこの自然に起こる自然現象を支配する未知の統計的自然方則であって、それは――もしはなはだしい空想を許さるるならば――熱力学第二方則の統計的解釈に比較さるべき種類のものではあり得ないか。マクスウェル、ボルツマン、アーレニウスらを悩ました宇宙の未来に関するなぞを解くべきかぎとしての「第三第四の方則」がそこにもしや隠れているのではないか。 514
このような可能性への探究の第一歩を進めるための一つの手掛かりは、上記のごとき統計的質的現象の周到なる実験的研究と、それの結果の質的整理から量的決算への道程の中に拾い出されはしないであろうか。 515
要するに、従来のいわゆる統計物理学は物理学の一方の庇 516
最後についでながら私が近ごろ出会ったおもしろい経験をここにしるしておこう。それはある会合の席でプランクトンの調査に関する講演を聞いた時、「今回のわれわれの調査はまだ単に量的であって質的の点までは進んでいない」という言葉を聞いて愕然 517
以上未熟な考察の一部をしるして貴重なる本誌の紙面をけがし読者からのとがめを招くであろうことを恐れる。紙数の限りあるために意を尽くさない点の多いのを遺憾とする。ただ量的にあまりに抽象的な、ややもすれば知識の干物の貯蔵所となる恐れのある学界の一隅 518
物理学は元来自然界における物理的現象を取り扱う学問であるが、そうかと言って、あらゆる物理的現象がいつでも物理学者の研究の対象となるとは限らない。本来の意味では立派に物理的現象と見るべき現象でも、時代によって全く物理学の圏外に置かれたかのように見えることがありうるのである。 519
物理学というものはやはり一つの学問の体系であって、それが黎明 520
しかしそれほど根本的な問題はしばらくおき、もう少し具体的な問題を取ってみると、各時代において物理学上の第一線の問題とみなされ、世界じゅうの学者が競って総攻撃をするような問題があり、そうしてその問題の対象物は時代から時代へと推移して行く。この推移の経路がはたして単義的なものであるかどうかという問題が提出されうるように思われる。これは少なくもある程度までは偶然的人間的な事情に支配されることは疑いないように思われる。たとえば電子波回折の実験がX光線回折の実験の行なわれたころにすでに行なわれたというような事も、それ自身において必ずしも不可能でなかったと思われるから、もしもそうであったとしたら、その後の物理学界の動きはよほど実際とは違ったものになったのではないかと想像されるのである。 521
それと同様に未来の物理学進歩の経路も必ずしも単義的にただ一筋の予定の道筋を通るであろうとは考えられない。将来なされうべきある二つの画期的な発見のどちらが先に行なわれるかは偶然的な事情によって左右されうるであろう。そういうわけであるから、今から十年後の物理学界を予想する事はいかなる大家にも困難であろう。いついかなる問題が勃興 522
これだけの例から見ても、その当代の流行問題とはなんの関係もなくて、物理学の圏外にあるように見える事がらの研究でも、将来意外に重要な第一線の問題への最初の歩みとなり得ないとは限らない。それでそういう意味で、現在の物理学ではあまり問題にならないような物理的現象にどんなものがあるかを物色してみるのも、あながち無用のわざではないかもしれない。 523
そういう種類の現象で自分が多年心にかけていたものがいろいろあるが、それらの多数はいずれも事がらが偶然的偏差に支配されるために、結果が決定的再起的でないような種類に属するものである。たとえばガラス板を平坦 524
金米糖 525
剃刀 526
これらの現象を通じて言われることは、普通の古典的な理論的考察からすれば、およそ一様に均等に連続的にあるいは対称的に起こるであろうと考えらるるものが、実際には不均等に非対称的に不連続的にしかも統計的に起こるのである。このような場合を適当に処理すべき理論はもちろんのこと、その理論の構成に基礎となるべき概念すらもまだ全然発達していないのであるから、今のところでは物理学者はこれらをどうしてよいかわからない。従って問題にしようともしなければ、また見ても見ないつもりで目をつぶって通り過ぎるのが通例である。 527
上記のごとき現象が純粋な自然探究者にとって決して興味がなくはないのであっても、それが現在の学問の既成体系の網に引っかからない限りは、それが一般学者から閑却されるのもまた自然の成りゆきであったと思われる。ところが、最近に至って物理学の理論の基礎に著しい革命の起こった結果として、物理現象の決定性といったような基礎観念にもまた若干の改革が行なわれるようになった。その結果としておもしろいことには、われわれが従来捨てて顧みなかった上記の種類の不決定な事がらに対して、もはやいつまでもそうそう無関心ではいられなくなって来たと私には思われる。なぜかというと、上記の種類の現象の根本に横たわる形式的要素が、新物理学の基礎に存するそれらとどこか共通なものを備えているからである。 528
原子の構造とその性能に関してわれわれは個々のエネルギー水準の考えを導入した。しかしてそれはある方程式の固有値と称するものと連関していると考える。これは最も簡単な類型的の一例とさるる弦の振動の場合ならばその節点の数を決定するものであり、要するに連続的なものの中でただ特定なものだけの実在を決定するものである。ところでたとえば鈴木清太郎 529
ハイゼンベルクのマトリッキスを一つのオーケストラにたとえた人があったが、たとえばガラスの割れ目のごときも、やはり一種のオーケストラが個々の場合に応じてそれぞれの曲を奏しているようなものであるかもしれない。原子の場合にわれわれは個々の原子の状態を確定する代わりに、ただその確率を知ると同様に、たとえば割れ目の場合でも精密な形を記載することはできなくても、その統計的特徴を把握 530
これらは今のところはなはだしい空想であるかもしれないが、この空想には多少の物理的根拠があるとすれば、事がらがともかくも物理学的認識の根本観念に触れているだけに、少なくももっと深く追究してみる価値があるであろう。たとえその結果が消極的に終わるとしても、その考究の経路には少なからぬ獲物があるであろうと思われる。しかしそれは別問題としても、上記のごとき特殊の部類に属する現象の実験的研究からいろいろな統計的の規則正しさを発見しうるには、いかなる方法をとるべきかという事が少なくも当面の問題の一つでありはしないかと思われる。そういう実験の結果を整理するためにわれわれは種々な新しい概念と方法の導入を必要とするであろう、そういうものがだんだんに発達し整理されて行く経路は、やがて新しい理論の形成となるであろう。新物理学の考え方がいろいろな点で古典的物理学の常識に融合しないように感ずるのは、畢竟 531
物理学圏外の物理的現象と称すべきものは決して上記の部類に限らない。広大無辺の自然にはなお無限の問題が伏在しているのに、われわれの盲目なためにそれを問題として認め得ない結果、それが存在しないかのように枕 532
多年藤原 533
また物理学者は電子や原子の問題の追究に忙しくて、到底日常眼前の現象を省みる暇 534
またかつて藤原 535
物理学圏外の物理現象に関する実験的研究には、多くの場合に必ずしも高価な器械や豊富な設備を要しない。従って中等学校の物理室でも、また素人 536
思うに本誌「理学界」の読者の中には、まさにそういう問題に理解と興味を持ち、また同時に必要の予備知識を持ち、しかして自分自身の研究に従事しうるだけの時間と便宜を有する人も多数にあるであろう。そういう人たちにそういう研究を勧めたいと思うのが、私のこの一編を書くに至った動機であったのである。正統的教養の楽園に安住する専門的物理学者の目から見れば、あまりに空想をたくましゅうした叙述が多かったように見えるかもしれない。 537
しかしこれらの空想にも、自分としては相当な物理学的実証の根拠は持っているつもりであるが、ここではこれについて詳説することのできないのを遺憾とする。ただもし、虚心に、正当な光のもとに読んでもらいさえすれば、これらの空想の中には、それらの専門家にとっても、いくらかの意義と興味のある暗示を含んでいるであろうという希望をもって、ここにこのつたない叙説の筆をおくことにする。 538
東トルキスタン東部の流砂の中に大きな湖水ロプ・ノールのあることは二千年昔のシナ人にはすでに知られていて、そのだいたいの形や位置を示す地図ができていたそうである。西暦一七三三年に二人のヨーロッパ人が独立に別々にその地方の地図をシナから持ち帰った。ところがマルコポロは一二七三年にこの湖のすぐ南の砂漠 539
以上は近着の Geographical Review. Oct., 1932. 所載の記事から抄録したものである。 540
中央アジアではまだ自然が人間などの存在を無視して勝手放題にあばれ回っている。そのために気候風土が変転して都市が砂漠になったり、砂漠が楽園に変わったりする。地震なども、いわゆる地震国日本の地震などとは比較にならないような大仕掛けのが時々あって、途方もない大断層などもできるらしい。ロプ・ノールの転位でも事によると地殻 541
同じ雑誌にエリク・ノーリンがタリム盆地の第四紀における気候変化を調べた論文がある。これによると、最後の氷河期の氷河が崑崙 542
もう一度このへんの雪線が少しばかり低下して崑崙 543
その時に日本はどうなるか。欧米はどうなるか。これはむつかしい問題である。しかしとにかく現在の人間は、世界の気候風土が現在のままで千年でも万年でもいつまでも持続するように思っている。そうして実にわずかばかりの科学の知識をたのんで、もうすっかり大自然を征服したつもりでいる。しかし自然のあばれ回るのは必ずしも中央アジアだけには限らない。あすにもどこに何事が起こるかそれはだれにもわからない。それかといって神経衰弱にかかった杞人 544
同じ雑誌に、米国のある飛行家が近ごろペルーの山中を空中から探険してたくさんの写真をとって来た報告が出ている。その中に、ミスチ火山の西北に当たるコルカ川の谷でまだ世界に紹介されていない古い都市の廃趾 545
ロプ・ノールの話や、このペルーの廃墟の話などを読んでいると、やっぱりまだこの世界が広いもののように思われて来るのである。 546
米国地理学会で出版されたペルーの空中写真帳を見るとあの広い国が至るところただ赤裸の岩山ばかりでできているのに驚く。地図を見ているだけではこんな事実は夢にも想像されない。地理書をいくら読んでも少なくもこれら写真の与える実感は味わわれまい。 547
一日も早く「世界空中写真帳」といったようなものが完成されるといいと思う。それが完成するとわれわれの世界観は一変し、それはまたわれわれの人生観社会観にもかなりな影響を及ぼすであろう。そうして在来の哲学などでは間に合わない新しい天地が開けるであろうと夢想される。 548
昔シナで鐘を鋳た後にこれに牛羊の鮮血を塗ったことが伝えられている。しかしそれがいかなる意味の作業であったかはたしかにはわからないらしい。この事について幸田露伴 549
鐘に血を塗るというのは、本来はおそらく犠牲の血によって物を祭り清めるという宗教的の意義しかなかったのであろうが、しかし特に鐘の割れ目に塗るということがあったとすると、それは何かしら割れ目のために生じた鐘の欠点を補正するという意味があったのではないかと疑わせる。そうしないと特に割れ目に塗るという言葉が無意味になってしまうのである。 550
もし空想をたくましゅうすることを許されれば、最初は宗教的儀式としてやっていた事が偶然鐘の音に対してある有利な効果のある事を発見し、次いでそれが鋳物の裂罅から来る音響学的欠点を修正するためだということに考え及び、そうして今度は意識的にそういう作業を施すようになったのかもしれないと思われるのである。 551
現在のわれわれの分子物理学上の知識から考えて、こういう想像は必ずしもそう乱暴なものではないということは次のような考察をすれば、何人 552
金属と油脂類との間の吸着力の著しいことは日常の経験からもよく知られている。真鍮 553
割れ目があまり大きくては困るが、しかし必ずしも 10-8[#「-8」は上付き小文字] や 10-7[#「-7」は上付き小文字] でなくてもミクロン程度のものならば、その間隙を液体で充填することによって割れ目の面における音波の反射をかなりまで防止し従って鐘の正常な定常振動を回復することができるであろうと考えられる。もっとも割れ目の空隙 554
以上のスペキュレーションが多少でも事実に該当するとした時に血液成分中に含まれるいかなる成分が最も有効であるかという問題が起こるが、多くの場合から類推すると、おそらく膠 555
Lubrication に関して油の oiliness と称するものがこの場合の問題に密接な関係をもつであろうと思われる。この減摩油の効力を規定する因子としての oiliness は、ある学者の説では炭水素連鎖の屈撓性 556
以上は単なるスペキュレーションに過ぎないが近来ますます盛んになった分子物理学上の諸問題と連関して種々興味ある研究題目を暗示する点において多少の意味があろうと思うので本誌の余白を借りて思いついたままをしるした次第である。 557
金属と油との境界面については単に lubrication のみでなく、もっといろいろの違った方面の事がらと関係してもっといろいろ研究されてよいように思われるのに、この方面の研究が割合に少ないように見えるのは遺憾である。金相学者と界面化学者との協同によってこの方面の研究を進める事ができれば存外有益な効果をあげる事ができそうに思われるのである。 558
ここでかりに「縞模様 559
昔、自分らの学生時代に、確率論の講義を聞かされたときに「理由欠乏の原理」と「理由具足の原理」との話があったことを思い出す。この前者によれば、たとえば生長するすべてのものは円か球になるはずである。どの方向に特に延びるという理由が「ない」というよりはむしろ、そういう理由を「知らない」ためである。しかし、自然は人間の知らないいろいろな理由を知っており、持ち合わせているために、世界の万物はことごとく円や球や均質平等であることから救われるのである。二十余年の昔、いろいろこういう種類のことを考えていたころに、何よりもまずわが国に特有で子供の時からなじみの深い「金米糖 560
金米糖 561
金米糖といくぶん似たものは、「噴泉塔」と称せられるものである。温泉の噴出する口の周囲に、水に溶けた物質が析出沈積して曲線的円錐体 562
これは少し脱線であるが、珊瑚礁 563
丸皿形 564
対流渦による波状雲のことは今さら述べるまでもないが、これに類似の縞は、近ごろ「墨流し」の実験をしているときに、最初表面に浮かんだ墨汁 565
もう一つ対流渦による週期的現象で珍しいのは「構造土」と名づけられるもので、たとえば乗鞍岳 566
以上のものとは少し違った部類のものであるが、氷柱や鐘乳石 567
次に思い及ぶものは、だれもが昔からよく問題にする、水の波や流れやまたは風による砂泥 568
これと密接な関係のあるものは、クントの塵像 569
もう一つ、これは未発表のものであるが、北海道大学理学部の米田勝彦 570
クラドニ板上のいろいろの像や、高周波振動をする水晶板で生ずる粉の像などにもやはり共通な問題が潜んでいるらしい。 571
要するにこれらの問題の基礎には「粉」という特殊な物の特性に関する知識が重大な与件として要求されるにもかかわらず、それがほとんど全く欠乏している。そうしてただ現象の片側に過ぎない流体だけの運動をいくら論じてみても完全な解釈がつきそうにも思われない。粉状物質の堆積 572
粉の輪で思い出すのは、蒸発皿 573
そういう科学的な週期的形像中の最も顕著なもので、従来はなはだ多くの研究の対象となったものは、いわゆるリーゼガングの現象である。これに関してはかなりいろいろな説明的理論も提出されておりはするが、一言で言ってしまえば、要するにほとんどまだ目鼻もつきかねたようなありさまであるらしい。ともかくもこの現象は拡散に随伴する週期的現象である。言わば√-1[#「√」の中に「-1」]を含むイマジナリーな部分から成る拡散現象であるとも言われる。おもしろいことには、また一方で、自然界に存する実際のすべての波動はやはり「虚成分」をもっていて、これが減衰を支配し、ある意味ではまた拡散をも意味する。それで、もしや、拡散も波動も概括するような一つの大きな体系があって、その両極端の場合が不減衰波動と純粋な拡散とであって、その中間にいろいろなものが可能でありはしないかという空想が起こり得られる。ずっと昔、ケルヴィン卿 574
週期的ではないが、リーゼガング現象といくぶん類似の点のあるのは、モチの木の葉の面に線香か炭火の一角を当てるときにできる黒色の環状紋である。これについては現に理化学研究所平田 575
縞瑪瑙 576
また少し脱線ではあるが雲紋竹 577
樹木の年輪や、魚類の耳石の年輪や、また貝がらの輪状構造などは一見明白な理由によって説明されるようではあるが、少し詳細に立ち入って考えるとなると、やはりわからないことがかなりありそうである。木の年輪にしても、これを支配する気象的要素の週期曲線はともかくもかなり平滑で連続的であるのに、杉 578
岩塩の縞 579
岩石に関してはまだ皺襞 580
弾性体の皺襞については従来「弾性的不安定」の問題として理論的にもかなりたびたび取り扱われたもので、工学上にもいろいろの応用のあるのはもちろんであるが、また一方では、平行山脈の生成の説明に適用されたり、また毛色の変わった例としては、生物の細胞組織が最初の空洞球状 581
裂罅、あるいは「われめ」の生成は皺襞と対立さるべきものでやはり一種の不安定によって定まるものであろうが、このほうの研究はまだきわめて進捗 582
しかし、実験的現象として見た割れ目の現象はなかなか在来の簡単な理論などでは追いつきそうもない複雑多様なものであって、これに関する完全な説明のできる前にはまだまだ非常にたくさんの実験観察ならびにそれからの帰納的要約が行なわれなければならない。そうして新しい「割れ目の方則」が発見されなければならないであろうと想像される。そういう次第であるから、わが国で、鈴木清太郎 583
ガラスなどの円盤の中央をたたくと、それがある整数だけのほぼ同大の扇形に割れる。これについては前に鈴木清太郎 584
実験室における割れ目の問題が地殻 585
地殻の皺曲 586
河流の蛇行径路 587
以上述べたものの多くは、言わば「並行縞 588
リヒテンベルグの陽像はかなり不規則であるが、これもいくぶんの放射形週期性をもっている。これに類した他方面の現象としては清潔なガラス板の水平な面上に薄く清潔な水の層を作っておいて、そうして墨を含ませた筆の先をちょっとそのガラス面の一点に触れると水の薄層はたちまち四方に押しのけられて、墨汁 589
リヒテンベルグの場合に放電板の裏側にできる第二次像の同心環が米田 590
近来筒井俊正 591
池の表面の氷結した上に適度の降雪があった時に、その面に亀甲形 592
唐紙 593
「理由欠乏の原理」あるいは「無知の原理」からすれば、これらの伝播 594
とにかくこういうふうに考えれば、完全週期的な縞 595
以上のほかにも天然の縞模様の例はたくさんあるであろう。放電についても放電管内の陽極の縞や、陽極の光った斑点 596
また、粘土などを水に混じた微粒のサスペンションが容器の中で水平な縞状 597
このほかにもまだいろいろあるであろうがあまりに予定の紙数を超過するからまずこのへんで筆をおく事とする。このはなはだ杜撰 598
せんだって、駿河湾 599
人間のごとき最高等な動物でも、それが多数の群集を成している場合について統計的の調査をする際には、それらの人間の個体各個の意志の自由などは無視して、その集団を単なる無機的物質の団体であると見なしても、少しもさしつかえのない場合がはなはだ多い。たとえば街路を歩行する人間の「密度」や「平均速度」に関する統計などには、純粋な物質的の問題たとえばコロイド粒子の密度の場合に応用さるる公式を、そのまま使用しても立派に当てはまることが実証的に明らかになっている。平田 600
これについて思い出すのは、東京の著名な神社の祭礼に、街上で神輿 601
今、たとえば、次のような問題があったとする。一年三百六十五日間における日々の甲某百貨店の第X売り場における売り上げ高と日々の雨量との関係いかんということが問題になったとする。これはともかくも応用気象学上の一つの問題となりうるであろう。雨は市民の外出に若干の影響を及ぼしうると考えられる。もちろん降雨の時刻と人々の外出時刻との関係でこの影響はいろいろになりうる。また百貨店閉場中の時間の降雨は問題の売り上げ高には関係しない。それにも係わらず、多数の日数を含む統計的素材を統計的に取り扱う場合には、これらの個々の場合は問題とならず、ただ平均の関係だけが結果として現われるであろう。降雨のほうでは、全雨量の平均幾割幾分が開場時間に落ちるかが定まり、また外出する市民の平均幾%がこの百貨店に入り、その平均幾%がX売り場に到着しその中の平均幾%が買い物をし、そうして一人の支払い額が平均いくばくであるということが考え得られるとすれば、この問題は一つの合理的な研究問題として成立する。そうして雨量と売り上げとの相関は一つの合理的な研究問題として採用せられ、その研究の結果から、季節による変化とか、いわゆる景気の影響とかいうものが摘出されうる可能性をも予想することができるであろう。 602
地震と漁獲との関係もかなりこれに類したものである。魚は必ずしもいつも地震に感じまた反応しなくともよい。また駿河湾 603
銀座通 604
地理学のほうでは人口の分布や農耕範囲の問題などについて、興味ある物理学的統計学的研究をしている少壮学者もある。これはわれわれには非常におもしろく有益な試みであると思われるが、これも「人間のことに物理的方法に適用しない」という通有の誤解のために、あまり一般には了解されないようである。これも遺憾なことと思われる。こういう試みは、もっともっといろいろの方面に追求されるべきはずのものである。 605
これとは少し種類は違うが、細胞分裂の機構を説明する一つのモデルとして、表面張力の異同による液滴の分裂などを研究している学者もある。そういうおもしろい研究に対してもその研究題目それ自身に対していろいろの故障を申し立てる学者があると見えて、そういう「異端学者」の論文の中に、そういう故障への弁明の辞を述べ立てたのがおりおり見当たる。もちろんそういう簡単な無機的な現象の実験から、一足飛びに有機的現象の機構を説明しようというのならば、それは問題外であるが、研究者のほうではそれほど大胆な意図はもちろんあるはずはない。ただ遼遠 606
近代の物理科学は、自然を研究するための道具として五官の役割をなるべく切り詰め自然を記載する言葉の中からあらゆる人間的なものを削除する事を目標として進んで来た。そうしてその意図はある程度までは遂げられたように見える。この「anthropomorphism からの解放」という合い言葉が合理的でまた目的にかなうものだということは、この旗じるしを押し立てて進んで来た近代科学の収穫の豊富さを見ても明白である。科学はたよりない人間の官能から独立した「科学的客観的人間」の所得となって永遠の落ちつき所に安置されたようにも見える。 607
われわれ「生理的主観的人間」は目も耳も指も切り取って、あらゆる外界との出入り口をふさいで、そうして、ただ、生きていることと、考えることとだけで科学を追究し、自然を駆使することができるのではないかという空想さえいだかせられる恐れがある。しかし、それがただの夢であることは自明的である。五官を杜絶 608
思うに五官の認識の方法は一面分析的であると同時にまた総合的である。たとえば耳は音響を調和分析にかける。そうして、めんどうな積分的計算をわれわれの無意識の間に安々と仕上げて、音の成分を認識すると同時に、またそれを総合した和弦 609
それはとにかく、感官のもう一つの弱点は、個人個人による多少の差別の存在である。しかし、われわれは「考える器械」としての個人性を科学の上に認めている。「見る器械」、「聞く器械」としての優劣の存在を許容するのもやむを得まい。高価な器械を持つ人と、粗製の器械をもつ人との相違と本質的に同じとも言われる。多くのすぐれた器械の結果が互いに一致し、そうしてその結果が全系統に適合する時に、その結果を「事実」と名づけることがいけなければ、科学はその足場を失うであろう。 610
もう一つの困難は、感官の「読み取り」が生理的心理的効果と結びついて、いろいろな障害を起こす心配のあるということである。これはしかし、修練による人間そのものの進化によって救われないものであろうか、要するに観測器械としての感官を生理的心理的効果の係蹄 611
われわれのように地球物理学関係の研究に従事しているものが国々の神話などを読む場合に一番気のつくことは、それらの説話の中にその国々の気候風土の特徴が濃厚に印銘されており浸潤していることである。たとえばスカンディナヴィアの神話の中には、温暖な国の住民には到底思いつかれそうもないような、驚くべき氷や雪の現象、あるいはそれを人格化し象徴化したと思われるような描写が織り込まれているのである。 612
それで、わが国の神話伝説中にも、そういう目で見ると、いかにも日本の国土にふさわしいような自然現象が記述的あるいは象徴的に至るところにちりばめられているのを発見する。 613
まず第一にこの国が島国であることが神代史の第一ページにおいてすでにきわめて明瞭 614
島が生まれるという記事なども、地球物理学的に解釈すると、海底火山の噴出、あるいは地震による海底の隆起によって海中に島が現われあるいは暗礁が露出する現象、あるいはまた河口における三角州の出現などを連想させるものがある。 615
なかんずく速須佐之男命 616
記紀にはないが、天手力男命 617
誤解を防ぐために一言しておかなければならないことは、ここで自分の言おうとしていることは以上の神話が全部地球物理学的現象を人格化した記述であるという意味では決してない。神々の間に起こったいろいろな事件や葛藤 618
高志 619
八十神 620
大国主神 621
出雲風土記 622
神話というものの意義についてはいろいろその道の学者の説があるようであるが、以上引用した若干の例によってもわかるように、わが国の神話が地球物理学的に見てもかなりまでわが国にふさわしい真実を含んだものであるということから考えて、その他の人事的な説話の中にも、案外かなりに多くの史実あるいは史実の影像が包含されているのではないかという気がする。少なくもそういう仮定を置いた上で従来よりももう少し立ち入った神話の研究をしてもよくはないかと思うのである。 623
きのうの出来事に関する新聞記事がほとんどうそばかりである場合もある。しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう。少なくもわが国民の民族魂といったようなものの由来を研究する資料としては、万葉集などよりもさらにより以上に記紀の神話が重要な地位を占めるものではないかという気がする。 624
以上はただ一人の地球物理学者の目を通して見た日本神話観に過ぎないのであるが、ここに思うままをしるして読者の教えをこう次第である。 625
子供の時分に、学校の読本以外に最初に家庭で授けられ、読むことを許されたものは、いわゆる「軍記」ものであった。すなわち、「真田三代記 626
自分の少青年時代に受けた文学的の教育と言えば、これくらいのことしか思い出されない。そうして、その後三十余年の間に時おり手に触れた文学書の、数だけはあるいは相当にあるかもしれないが、自分の頭に深い強い印象を焼き付けたものと言ってはきわめて少数であるように思われる。日本の作家では夏目先生のものは別として国木田独歩 627
何ゆえに自分がここでこのような、読者にとってはなんの興味もない一私人の経験を長たらしく書き並べたかというと、これだけの前置きが、これから書こうとするきわめて特殊な、そうして狭隘 628
もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。少年時代に上記のごときおとぎ文学や小説戯曲に読みふけっているかたわらで、昆虫 629
大学を卒業して大学院に入り、そうして自分の研究題目についていわゆるオリジナル・リサーチを始めてほんとうの科学生活に入りはじめたころに、偶然な機会でまた同時に文学的創作の初歩のようなものを体験するような回り合わせになった。そのころの自分の心持ちを今振り返って考えてみると、実に充実した生命の喜びに浸っていたような気がする。一方で家庭的には当時いろいろな不幸があったりして、心を痛め労することも決して少なくはなかったにかかわらず、少なくも自分の中にはそういうこととは係り合いのない別の世界があって、その世界のみが自分の第一義的な世界であり、そうして生きがいのある唯一の世界であるように思われたものらしい。その世界では「作り出す」「生み出す」ということだけが意義があり、それが唯一の生きて行く道であるように見えた。そうして、日々何かしら少しでも「作る」か「生む」かしない日は空費されたもののように思われたのである。もちろん若いころには免れ難い卑近な名誉心や功名心も多分に随伴していたことに疑いはないが、そのほかに全く純粋な「創作の歓喜」が生理的にはあまり強くもないからだを緊張させていたように思われる。全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。 630
その後三十年に近い生涯 631
それはとにかく、以上のような経歴をもつ一私人が「文学」と「科学」とを対立させてながめる時に浮かんでくるいろいろな感想をここに有りのままに記録して本講座の読者にささげるということは、全く無意味のわざでもあるまいと考えたので、編集者の勧誘に甘えてここにつたない筆を執ることにした次第である。もとよりただ、一つの貧しい参考資料を提供するという以外になんらの意図はないのである。そういうわけで、もちろん、論文でもなく教程でもなく、全く思いつくままの随筆である。文学者の文学論、文学観はいくらでもあるが、科学者の文学観は比較的少数なので、いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが、自分の自分への申し訳である。 632
文学の内容は「言葉」である。言葉でつづられた人間の思惟 633
ここで言葉というのは文字どおりの意味での言葉である。絵画彫刻でも音楽舞踊でも皆それぞれの「言葉」をもってつづられた文学の一種だとも言われるが、しかし、ここではそういうものは考えないことにする。 634
作者の頭の中にある腹案のようなものは、いかに詳細に組み立てられたつもりでも、それは文学ではない。またそれを口で話して一定の聴衆が聞くだけでもそれは文学ではない。象形文字であろうが、速記記号であろうが、ともかくも読める記号文字で、粘土板でもパピラスでも「記録」されたものでなければおそらくそれを文学とは名づけることができないであろう。つまり文学というものも一つの「実証的な存在」である。甲某が死ぬ前に考えていた小説は非常な傑作であった、と言ってもそれは全く無意味である。 635
実際作物の創作心理から考えてみても、考えていたものがただそのままに器械的に文字に書き現わされるのではなくて、むしろ、紙上の文字に現われた行文の惰力が作者の頭に反応して、ただ空で考えただけでは決して思い浮かばないような潜在的な意識を引き出し、それが文字に現われて、もう一度作者の頭に働きかけることによって、さらに次の考えを呼び起こす、というのが実際の現象であるように思われる。こういう創作者の心理はまた同時にその作品を読む読者の心理でなければならない。ある瞬間までに読んで来たものの積分的効果が読者の頭に作用して、その結果として読者の意識の底におぼろげに動きはじめたある物を、次に来る言葉の力で意識の表層に引き上げ、そうして強い閃光 636
こういう現象の可能なのは、畢竟 637
「狂人の文学」はわれわれの文学では有り得ないであろう。それは狂人の思惟 638
科学というものの内容も、よく考えてみるとやはり結局は「言葉」である。もっとも普通の世間の人の口にする科学という語の包括する漠然 639
文字で書き現わされていて、だれでもが読めるようになったものでなければ、それはやはり科学ではない。ある学者が記録し発表せずに終わった大発見というような実証のないものは新聞記事にはなっても科学界にとっては存在がないのと同等である。甲某は何も発表しないがしかしたいそうなえらい学者であるというようなうわさはやはり幽霊のようなものである。万人の吟味と批判に堪えうるか堪え得ないかを決する前には、万人の読みうる形を与えなければならないことはもちろんである。 640
科学的論文を書く人が虚心でそうして正直である限りだれでも経験するであろうことは、研究の結果をちゃんと書き上げみがきあげてしまわなければその研究が完結したとは言われない、ということである。実際書いてみるまではほとんど完備したつもりでいるのが、さていよいよ書きだしてみると、書くまでは気のつかないでいた手ぬかりや欠陥がはっきり目について来る。そうして、その不備の点を補うためにさらに補助的研究を遂行しなければならないようになることもしばしばあるのである。それからまた、頭の中で考えただけでは充分につじつまが合ったつもりでいた推論などが、歴然と目の前の文章となって客観されてみると存外疑わしいものに見えて来て、もう一ぺん初めからよく考え直してみなければならないようなことになる。そういう場合も決してまれではないのである。それで自分の書いたものを、改めて自分が読者の立場になって批判し、読者の起こしうべきあらゆる疑問を予想してこれに答えなければならないのである。そういう吟味が充分に行き届いた論文であれば、それを読む同学の読者は、それを読むことによって作者の経験したことをみずから経験し、作者とともに推理し、共に疑問し、共に解釈し、そうして最後に結論するものがちょうど作者の結論と一致する時に、読者は作者のその著によって発表せんとした内容の真実性とその帰結の正確性とを承認するのである。すなわちその論文は記録となると同時に予言となるのである。 641
実際、たとえばすぐれた物理学者が、ある与えられた研究題目に対して独創的な実験的方法を画策して一歩一歩その探究の歩を進めて行った道筋の忠実な記録を読んで行くときの同学読者の心持ちは、自分で行きたくて、しかも一人では行きにくい所へ手を取ってぐんぐん引っぱって行かれるような気がするであろう。また理論的の論文のすぐれたものを読むときにもやはりそれと似かよった感じをすることがしばしばあるであろう。もっとも読者の頭の程度が著者の頭の程度の水準線よりはなはだしく低い場合には、その著作にはなんらの必然性も認められないであろうし、従ってなんらの妙味も味わわれずなんらの感激をも刺激されないであろう。しかしこれは文学的作品の場合についても同じことであって、アメリカの株屋に芭蕉 642
科学的の作品すなわち論文でも、ほんとうにそれを批判しうる人は存外少数である。残りの大多数の人たちは、そういう少数の信用ある批判者の批判の結果だけをそのままに採用して、そうしてその論文のアブストラクトと帰結とだけを承認することになっている。芭蕉 643
言葉としての科学が文学とちがう一つの重要な差別は、普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の国語を使うことである。その国語はすなわち「数学」の言葉である。 644
数学の世界のいろいろな「概念」はすべて一種の言葉である。ただ日常の言葉と違って一粒えりに選まれた、そうしてきわめて明確に定義された内容を持っている言葉である。そうしてまたそれらの言葉の「文法」もきわめて明確に限定されていて少しの曖昧 645
文学の場合でも、たとえば、ある史実を取り扱った戯曲を作るとすれば、作者の個性の差別によって、千差万別ありとあらゆる作品が可能であって、そうして、そのいずれもが傑作でもありうるのである。しかも物理学の場合などとは到底比較にならない多種多様の変化を示しうることはもちろんである。 646
物理学で用いられる数学の中でも最も重要なものはいわゆる微分方程式である。これは物理学的ないろいろな量の相互の関係を決定する数式であるが、それがそれらの量自身の間の関係を示すだけでなく、一つの量が少し変わったときに他の量がそれにつれて少し変わる、その変化の比率を示すところのいわゆる微分係数によって書き現わされた関係式である。こういう微分方程式の一つの著しい特徴は、その式だけでは具体的の問題は一つも決定されない。すなわち一つの式が無限に多種多様な一群の問題のすべてを包括しており、また同時にそれらのおのおのをも代表しているのである。それで、もし、この式のほかに、場合によっていろいろ数はちがうが、とにかく数個の境界条件 647
この自然現象の表示としての微分方程式の本質とその役目とをこういうふうに考えてみた後に、翻って文学の世界に眼を転じて、何かしらこれに似たものはないかと考えてみると、そこにいろいろな漠然 648
もしも、人間の思惟 649
まず、最も簡単な例を取って気温と人間の感覚との関係を考えてみる。他の気象要素の条件が全部同一であるとしても、人のある瞬間の感覚は単にその瞬間の気温だけでは決定しない。その温度が上がりつつあるか下がりつつあるか、いかなる速度で上がりまた下がりつつあるか、その速度が恒同であるか、変化しているとすればどう変化しているか、そういう変化の時間的割合いかんによって感覚は多種多様になるであろう、それでもしも温度に関する感覚が若干の変数の数値で代表されうるとすれば、これらと気温との関係は若干の微分方程式で与えられ、そうして、それが人間の気温に対する感覚の方則を与えるであろう。しかし実際の事がらは決してこのように簡単ではなくて、人々の感覚は気温と共存する湿度、気圧風速日照等によるのみならず、人々のその瞬間以前におけるありとあらゆる物理的生理的心理的経験の総合された無限に多元的な複合 650
それにもかかわらず、以上の考察は一つの興味ある空想を示唆する。すなわち、人間の思惟 651
しかし、こういう微分方程式は少なくも現在では夢想することさえ困難である。しかしそういうものへの道程の第一歩に似たようなものは考えられなくはない。 652
物理的科学が今日の状態に達する以前、すなわち方則が発見され、そうして最初に数式化される前には、われわれはただ個々の具体的の場合の解式だけを知っていた。そうして、過去にあったあらゆる具体的の場合を験査し、またいろいろな場合を人工的に作るために「実験」を行なった。それらの経験と実験の、すべての結果を整理し排列して最後にそれらから帰納して方則の入り口に達した。 653
文学は、そういう意味での「実験」として見ることはできないか。これが次に起こる疑問である。 654
たとえば勢力不滅の方則が設定されるまでに、この問題に関して行なわれた実験的研究の数はおびただしいものであろう。たとえば大砲の砲腔 655
人間の心の方則に従ってわれわれの周囲に起こっている現象はあまりに複雑である。それだけを見て方則をうかがうには何よりも環境条件があまりに漠然 656
また、ある少女が思春期以前に暴行を受けてその時の心の激動の結果が、熱烈な宗教心となって発現する。そうして最も純潔な尼僧の生活から、一朝つまらぬ悪漢に欺かれて最も悲惨な暗黒の生涯 657
このようにして、作者は、ある特殊な人間を試験管に入れて、これに特殊な試薬を注ぎ、あるいは熱しまた冷やし、あるいは電磁場に置き、あるいは紫外線X線を作用させあるいはスペクトル分析にかける。そうしてこれらに対する反応によってその問題の対象の本性を探知すると同時に、一方ではまたそれらの種々の環境因子に通有な性質と作用の帰納に必要な資料を収集するのである。ただ物質と物質的エネルギーの場合とちがって、対象のすべてが作者の中にあるのであるから、その作者が最も鋭利な観察と分析と総合の能力をもっていない限り、これらの実験が失配に終わることはもちろんである。 658
しかし、こういう実験が可能であるということは古来今日に至るまでのあらゆるすぐれた作品がこれを証明している。シェークスピアとかドストエフスキーとかイブセンとかいう人々は、人間生死の境といったような重大な環境の中に人間をほうり込んで、試験檻 659
こういうふうに考えて来ると、ほとんどあらゆる種類の文学の諸相は皆それぞれ異なる形における実験だと見られなくはない。 660
写実主義、自然主義といったような旗じるしのもとに書かれた作品については別に注釈を加える必要はない。すでにそれらのものは心理学者の研究資料となり彼らの論文に引用されるくらいである。 661
一見非写実的、非自然的な文学であってもよくよく考えてみるとやはり立派な実験と考え得られないことはない。 662
たとえば神話を取り扱った超人の世界の物語でも、それらの登場人格の仮面を一枚だけはいでみれば、実は普通の人間である。ただ少しばかり現実の可能性を延長した環境条件の中に、少しばかり人間の性情のある部分を変形し、あるいは誇張し、あるいは剪除 663
叙事と抒情 664
最も抒情的なものと考えられる詩歌の類で、普通の言い方で言えば作者の全主観をそのままに打ち出したといったようなものでも、冷静な傍観者から見れば、やはり立派な実験である。ただ他の場合と少しちがうことは、この場合においては作者自身が被試験物質ないしは動物となって、試験管なり坩堝 665
探偵小説 666
これから考えると、あらゆる忠実な記録というものが文学の世界で占める地位、またその意義というような事が次の問題になって来るのである。 667
史実というものは文学を離れては存在することが困難なように思われる。単なる年代表のようなものはとにかく、いわゆる史実が歴史家の手によって一応合理的な連鎖として記録される場合は結局その歴史家の「創作」と見るほかはない。「日本歴史」というものはどこにも存在しなくて、何某の「日本歴史」というものだけが存在するのである。ところが必要な鎖の輪が欠けているために実際は関係のよくわからぬ事件が、史家の推定や臆測 668
また一方で歴史と称するものは通例王者、勝利者、支配者の歴史であって、人間の歴史としてははなはだ物足りないものである。少なくも人間の歴史はただその中に偶然的に織り込まれているに過ぎない。歴史を読むのみではわれわれは祖先民族の生活も心理もきわめておぼろげにしかうかがうことができない。 669
この欠陥を補うものはまず第一に個人の日記、随感録のごときものである。そういうものが後代に愛読され尊重されるのは、必ずしもそれが「文章」であるためではなくて、それが「記録」であるためであろう。殿上の名もない一女官がおぼつかない筆で書いた日記体のものでも、それが忠実な記録であるために実証的の価値があり同時にそこに文学としての価値を生じるものと思われる。 670
第二にはいろいろの物語小説の類である。その中に現われる人物が実際にあったとか、なかったとかいう事はほとんど問題にも何もならないことであって、それらの仮想人物によって代表された人間の定型と、叙述された事件の定型はたしかに存在したのである。これはあらゆる「史実」よりもはるかに確実であって疑う余地を存しない。これはその書が後代の偽作でない限り言われることである。作者がいかに豊富なる想像力の所有者であってもその時代を偽り描くということは到底不可能な仕事だからである。それで、ちょうど、ある弾丸の描く弾道はまた同時に他のすべての可能な弾道を代表するように、一遊星の軌道はまさしく天体引力の方則を代表するように、光源氏 671
歴史は繰り返す。方則は不変である。それゆえに過去の記録はまた将来の予言となる。科学の価値と同じく文学の価値もまたこの記録の再現性にかかっていることはいうまでもない。 672
それのみではない。科学が未知の事象を予報すると同様に、文学は未来の新しい人間現象を予想することも可能である。 673
想像力の強い昔の作者の予想した物質文明機関で現代にすでに実現されているものがはなはだ多い。電燈でも、飛行機でも、潜水艇でもまたタンク戦車のごときものすら欧州大戦よりずっと以前に小説家によって予想されている。市井の流行風俗、生活状態のようなものはもちろん、いろいろな時代思潮のごときものでも、すぐれた作者の鋭利な直観の力で未然に洞察 674
文学も科学も結局は広義に解釈した「事実の記録」であり、その「予言」であるとすると、そういうものといわゆる「芸術」とが、どういう関係になるかという問題が起こらないわけにはゆかなくなる。換言すれば、そういう記録と予言がどうして「美」でありうるかということである。これは容易ならぬ問題である。しかし極端な自然科学的唯物論者におくめんなき所見を言わせれば、人間にとってなんらかの見地から有益であるものならば、それがその固有の功利的価値を最上に発揮されるような環境に置かれた場合には常に美である、と考えられるであろう。 675
この考えを実証すべき例証をここに列挙することは略しても、こういう考えがそれ自身なんら新しいものでないことは読者に明らかなことである以上、現在の考察を進める上にたいした支障はないであろう。自分のここで言おうとすることは、そういう考えを承認した上での帰結に関することである。 676
すなわち、文学が芸術であるためには、それは人間に有用な真実その物の記録でなければならない。また逆にすべての真実なる記録はすべて芸術であるというのである。どんな空想的な夢物語でも多感な抒情詩 677
手近な例を取ってみても、ファーブルの昆虫記 678
それだのに文学と科学という名称の対立のために、因襲的に二つの世界は截然 679
しかし二つの世界はもう少し接近してもよく、むしろ接近させなければならないように自分には思われるのである。 680
科学の世界には義理も人情もない。文学の世界にあるものは義理と人情のほかのものと言えばそれの反映である。しかし、科学の世界は国境の向こうから文学の世界に話しかける、その話はわれわれにいろいろのことを考えさせる。 681
たとえば昆虫 682
顕微鏡で花の構造を子細に点検すれば、花の美しさが消滅するという考えは途方もない偏見である。花の美しさはかえってそのために深められるばかりである。花の植物生理的機能を学んで後に始めて充分に咲く花の喜びと散る花の哀れを感ずることもできるであろう。 683
人間の文化が進むにつれて、文学も進化しなければならないはずである。すべての世間の科学的常識が進んで行く世の中に文学だけが過去の無知を保守しなければならないという理由はどうにも考えられない。人間の文学が人間の進歩に取り残されてはいたし方がないであろう。むしろ文学者は科学者以上にさらにより多く科学者でなければならないはずだと思われるのである。 684
一方科学者のほうではまた、その研究の結果によって得られた科学的の知識からなんらかの人間的な声を聞くことを故意に忌避することがあたかも科学者の純潔と尊厳を維持するゆえんであると考えるような理由のない慣習が行なわれて来た。なるほど物質界の事実から「論理的」に人間界の事に推論することは全く不可能である。しかし、そういう物質界の現象の知識は人間にいろいろのことを暗示し「思い出させる」という役目をつとめるのは、紛れもない事実である。たとえばAかBかのほかには何物も有り得ないという仮定のもとに或 685
誤った無理な似て非なる類推は断じて許されないとしても、このような想起者として科学は意外に重要な役目を人間の今日の生活のいろいろな場面に対して申し出しているように思われるのである。 686
これは決して偶然なことではないのである。いったい、科学の方法の基礎には一般人間悟性に固有で必然ないろいろな方則とその運用のあらゆる形式が控えている。この形式はインドやギリシアの古代からいわゆる哲学者によってすでに探究されはじめ、そうして長い哲学の歴史の流れを追うて次第次第に整理され洗練されて来たものである。それが近代科学の基礎として採用され運用されるようになって以来いっそうの検討と洗練を加えられて、今日では昔の人の思い及ばなかったような複雑でしかも整然と排列された一大系統を成している。もっともそういう方法は普通の科学の教科書には、あらわにはどこにも書いてない。ただ具体的な実例の取り扱いの中に黙示的に含蓄されているだけである。たとえば、ある一つの現象がたくさんの因子の共存的効果によって決定される場合に、いかにして各個の因子の個々の影響を分析すべきかというような問題に対するいろいろの方法が示されている。そういう場合にこの方法の中から、あらゆる具体的なものを取り去った場合にそこに抽象的な認識の形式が残る。すなわち、ただ一つだけの因子が有効で他のすべての因子が無効な場合におけるその一つの因子の及ぼす効果だけを知れば、それらの個別的効果の総和が実際の共存的場合の効果を与えるか、というと、決してそうばかりでないということが科学上の実例にはいくらもある。すなわち異なる因子の相乗積が参加する場合がそうなのである。それだのに世の中ではそういう、科学者には明白な可能性を無視した考え方が普通に行なわれ、そういう考え方をもとにして書いた小説などもしばしばあるのである。 687
ともかくも人間の物を考える考え方の形式は科学以前から存在し発達し分化して来たものであって、その一部の屋庇 688
因果律といったようなものにしても、その考えは科学の歴史の上でもいろいろの変遷を遂げて来た。そうして一時は仏説などの因果の考えとは全く背馳 689
要するに科学の基礎には広い意味における「物の見方と考え方」のいろいろな抽象的な典型が控えている。これは科学的対象以外のものに対しても適用されうるものであり、また実際にも使用されているものである。それを科学がわれわれに思い出させる事は決して珍しくも不思議でもないのである。もとよりそういう見方や考え方が唯一のものであるというわけでは決してないのであるが、そういう見方考え方が有益である場合はまた非常に多くてしかも一般世人がそれを見のがしていることもはなはだ多いように思われる。 690
それで、そういういろいろな物の見方に慣れた科学者が人間界の現象に対してそういう見方から得られるいろいろな可能性を指摘してそれに無関心な世人の注意を促すということは、科学者としてふさわしいことであって、そうしてむしろ科学者にしてはじめて最も有効に行ない得らるる奉公の道ではないかとも考えられるのである。 691
しかし、科学者の考え方は唯一無二のものではない。また科学者の成しうるすべては、ただ可能性の指摘あるいは暗示である。かくすべしという命令は科学者としての任務のほかであることはもちろんである。これは忘れてならないことで、しかも往々にして忘れられがちなことである。 692
そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。 693
科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる。 694
俗に科学小説と称するものがある。昔のジュール・ヴェルヌの海底旅行のようなものもある。また近代のではウェルズの「時の器械」とか「世界間の戦争」のようなものもある。いずれも科学的未来記のようなものとして、通俗的の興味は多分にあるであろうが、ほんとうの科学的精神といったようなものは実は存外はなはだ希薄なものであるように見える。それらの多くは科学の世界の表層に浮かぶ美しいシャボン玉を連ねた美しい詩であり、素人 695
これに反して科学者が科学者に固有な目で物象を見、そうして科学者に固有な考え方で物を考えたその考えの筋道を有りのままに記述した随筆のようなものには、往々科学者にも素人 696
科学者のに限らず、一般に随筆と称するものは従来文学の世界の片すみの塵塚 697
ただいわゆる「創作」は概して言えばだいたいに「話の筋」が通っており、数行のレジュメで要約されるストーリーをもっている場合が多い。これに反して、中間的随筆は概してはっきりした「筋」をもたない場合が多い。しかし、この差別も実はそれほどはっきりしたものではなくて、創作欄にあるものでも、ほとんど内容的に身辺の雑事を描写した随筆的なものもあり、また反対に、随筆と銘打ったものでも、その中には、ある人間の一群の内部生活の機微なる交錯が平凡な小説などより数等深刻にしかも巧妙な脚色をもって描かれているものが決して少なくないのである。例をあげよとならば、近ごろ見たものの中では森田草平 698
こういうふうに考えて来るといわゆる「創作」と随筆との区別は、他の多くの「分類」の場合と同じく、漸移的不決定的なものである。ただ便宜上、いわゆる小説家戯曲家の書いた「多少事実と相違するらしいもの」が創作小説と名づけられ、小説家以外のものまた小説家でも「ほんとうにあったこと」と人が認めるものを書いたものが随筆の部類に編入される、というのが実際の事相であるように見える。 699
こういう見方を進めて行くと、結局、いわゆる創作とは、つじつまを合わせるために多少の欺瞞 700
以上の所説は、一見はなはだしく詭弁 701
それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。 702
随筆は論理的な論理を要求しない。論理的な矛盾があっても少しもそれが文学であることを妨げない。しかしそういう場合でも、必ず何かしら「非論理的な論理」がある。それは「夢の論理」であってもよい。そういうものが何もなければ、それは読み物にならない。 703
非論理的論理というのは、今の人間のまだ発見し意識し分析し記述し命名しないところの、人間の思惟 704
「文学も他の芸術も、社会人間の経済状態の改善に直接何かの貢献をするものでなければならない」というような考えや、また反対に「文学その他の芸術は芸術のための芸術でなければならない」といったような考えや、そういう二つの考え方の間に行なわれる討議応酬は、自分のような流儀の考え方から見ればおよそ無意味なこととしか思われないのである。真実な現象の記録とその分析的研究と系統化が行なわれて、ほんとうの「学」が進歩すれば、政治でも経済でも人間に有利になるのが当然の帰結であると思われ、また一方芸術的に美しいものであるためには、その中に何かしら、ここでいわゆる「学」への貢献を含むということが必須条件 705
もちろんすべての知識には悪用の危険性を含んでいる。科学知識も同様である。しかし科学は全体として見れば人間一般の福利を増進するつもりで進んで来た。もちろん現在ではかえって科学の進んだために前よりも不幸になった人間も多数にありはするが、それは物質科学の方面だけが先駆けをしてほんとうの社会科学、現在のいわゆる社会科学よりももう少し科学的な社会科学、がはるかなかなたに取り残されたために生じた矛盾であり悲劇であるように思われる。換言すれば人間の心に関する知識の科学的系統化とその応用が進んでいないために起こる齟齬 706
そういう系統化への資料を供するのが未来の文学の使命ではないかと思うのである。 707
いわゆる通俗科学と称するものがある。科学の事実やその方則やその応用の事例を一般読者にわかりやすいように解説することを目的としたものである。そういうものの中でもファラデー、ヘルムホルツ、マッハ、ブラグなどのものはすぐれた例である。それがすぐれている所因は単に事がらを教えるのみでなく、科学的なものの考え方を教え、科学的の精神を読者の中によびさますからである。そういうものを書きうるためには著者はやはりすぐれた科学的探究者であると同時にまた文学的創作者でもなければならない。 708
以上にあげたような一流の科学者のほかにたとえばフラマリオンやフルニエー・ダルベのような科学の普及や宣伝に貢献したよい意味でのジャーナリストもあるが、しかしそういうものは純粋の科学者から見ると、どうしても肝心のところに物足りないところのあるのはいかんともすることができない。 709
しかるに今日世間に流布する多くのいわゆる通俗科学書中にはすこぶるいかがわしいにせ物が多いように見受けられる。科学の表層だけを不完全なる知識として知っているだけで、自身になんら科学者としての体験のないような職業的通俗科学者の書いたものなどには、かえって科学の本質をゆがめて表現しているものも決して少なくない。また一方では、相当な科学者の書いたものでも、単に読者の退屈を紛らすためとしか思われないような、話の本筋とは本質的になんの交渉もないような事がらを五目飯のように交ぜたり、空疎な借りもののいわゆる「美文」を装飾的に織り込んだりしたようなものもまた少なくはないようである。いずれにしても著者の腹にない付け焼き刃の作物では科学的にはもちろん、文学的にもなんらの価値がありようはないのである。 710
科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。 711
そういう意味でまた通俗科学の講演筆記や、エッセーは立派な「創作品」であり「芸術品」でもありうるのである。取り扱ってある対象は人間界と直接交渉のない生物界あるいは無機界のことであっても、そういう創作であれば、必ず読者の対世界観、ひいてはまた人生観になんらかの新しい領土を加えないではおかないであろう。「読者の中の人間」を拡張し進化させるようなものならばそれを文学と名づけるになんの支障があろうとは思われないのである。 712
科学が文学の世界に接触するときに必然にあまりおもしろからぬ意味でのいわゆるジャーナリズムとの交渉が起こる。 713
ジャーナリズムとはその語の示すとおり、その日その日の目的のために原稿を書いて、その時々の新聞雑誌の記事を作ることである。それ自身に別段悪い意味はないはずであるが、この定義の中にはすでにいろいろな危険を包んでいる。浅薄、軽率、不正確、無責任というようなものがおのずから付きまといやすい。それからまた読者の一時的の興味のために、すべての永久的なものが犠牲にされやすい。それからまた題材が時の流行に支配されるために、取材の範囲がせばめられ、同時にその題材と他の全体との関係が見失われやすい。 714
そういうジャーナリズムの弊に陥ったような通俗科学記事のみならず、科学的論文と銘打ったものさえ決して少なくはないのである。多くの通俗雑誌や学会の記事の中でもそういうものを拾い出せとならば拾い出すことははなはだ容易であると思われる。 715
しかし一方でまた、たとえ日刊新聞や月刊大衆雑誌に掲載されたとしても、そういう弊に陥ることなくして、永久的な読み物としての価値を有するものもまた決して不可能ではないのである。たとえば前にあげたわが国の諸学者の随筆の中の多くのものがそれである。そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。つまり新聞雑誌には書かない最も悪いジャーナリストもあれば、新聞雑誌に書いてもジャーナリズムの弊には完全に免疫された人もありうるのである。この事に関する誤解が往々正常なる科学の普及を妨害しているように見える。これは惜しむべきことである。 716
「甲某の論文は内容はいいが文章が下手 717
反対に「乙某の論文は内容は平凡でも文章がうまいからおもしろい」という場合がある。これも自分には疑わしい。平凡陳套 718
中学生時代に作文を作らされたころは、文章というものが内容を離れて存在するものと思っていた。それで懸命にいわゆる美文を暗唱したりしたが、そういう錯覚は年とともに消滅してしまった。修辞法は器械の減摩油のような役目はするが、器械がなくては仕事はできないのである。世阿弥 719
それで、考え方によっては科学というものは結局言葉であり文章である。文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさないただの言葉であるとも言われよう。 720
若い学生などからよく、どうしたら文章がうまくなれるか、という質問を受けることがある。そういう場合に、自分はいつも以上のような答えをするのである。何度繰り返して読んでみても、何を言うつもりなのかほとんどわからないような論文中の一節があれば、それは実はやはり書いた人にもよくわかっていない、条理混雑した欠陥の所在を標示するのが通例である。これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。 721
この所説もはなはだ半面的な管見をやや誇張したようなきらいはあろうが、おのずから多少の真を含むかと思うのである。 722科学と文学という題のもとに考察さるべき項目はなお多数であろうが、まずこのへんで擱筆 723
緒論で断わってあるとおり、以上の所説は、特殊な歴史と環境とをもった一私人の一私見に過ぎないのであって、おそらく普遍性の少ない僻説 724
私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。 725
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。 726
この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧 727
論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密 728
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事 729
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。 730
頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。 731
頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。 732
それで、研学の徒はあまり頭のいい先生にうっかり助言を請うてはいけない。きっと前途に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されてそうして自分のせっかく楽しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。委細かまわず着手してみると存外指摘された難関は楽に始末がついて、指摘されなかった意外な難点に出会うこともある。 733
頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。 734
頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉 735
頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。 736
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者 737
頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸 738
頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まってしまう。頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時にまたえらい人の仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。 739
頭のいい人で人の仕事のあらはわかるが自分の仕事のあらは見えないという程度の人がある。そういう人は人の仕事をくさしながらも自分で何かしら仕事をして、そうして学界にいくぶんの貢献をする。しかしもういっそう頭がよくて、自分の仕事のあらも見えるという人がある。そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それで結局研究の結果をまとめないで終わる。すなわち何もしなかったのと、実証的な見地からは同等になる。そういう人はなんでもわかっているが、ただ「人間は過誤の動物である」という事実だけを忘却しているのである。一方ではまた、大小方円の見さかいもつかないほどに頭が悪いおかげで大胆な実験をし大胆な理論を公にしその結果として百の間違いの内に一つ二つの真を見つけ出して学界に何がしかの貢献をしまた誤って大家の名を博する事さえある。しかし科学の世界ではすべての間違いは泡沫 740
頭のいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合にでも、その仕事が結果の価値という点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なものになりそうもないという見込みをつけて着手しないで終わる場合が多い。しかし頭の悪い学者はそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われる事でもなんでもがむしゃらに仕事に取りついてわき目もふらずに進行して行く。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくはない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行きを忘却するのである。科学的研究の結果の価値はそれが現われるまではたいていだれにもわからない。また、結果が出た時にはだれも認めなかった価値が十年百年の後に初めて認められることも珍しくはない。 741
頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。 742
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。 743
この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。 744
最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子 745
この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑 746
ことしの夏、信州 747
突然二十一歳になるAが「今火の玉が飛んだ」といいだすと、十九歳になるBが「私も見た」といってその現象の客観的実在性を証明するのであった。 748
そこで二人の証言から互いに一致する諸点を総合してみると、だいたい次のようなものである。 749
ベランダから池の向こうの踊り場を正視していたときに、正面から左方約四十五度の方向で仰角約四十度ぐらいの高さの所を一つの火の玉が水平に飛行したというのである。その水平経路の視角はせいぜい二三十度でその角速度は、どうもはっきりはしないが、約半秒程度の時間に上記の二三十度を通過したものらしい。 750
二人の目撃者の相互の位置は一間 751
ところで、だんだんによく聞きただしてみると、二人の証言のうちで一つ重大な点で互いに矛盾するところがあるのを発見した。すなわち向かって右のほうにいたAは光が左から右へ動くように思ったというのに左のほうにいたBはそれとは正反対に右から左へ動いたようだと主張するのである。この二人の主張がそれぞれ正しいとすると、これは問題の現象が半分は客観的すなわち物理的光学的であり半分は主観的すなわち生理的錯覚的なものだという結論になる。この事がらがこの問題を解くに重要なかぎを与えるのである。 752
私は、数年前、高圧放電の火花に関する実験をしているうちに、次のような生理的光学現象に気づきそれについてほんの少しばかり研究をした結果を理化学研究所彙報 753
長さ数センチメートルの長い火花を写真レンズで郭大した像をすりガラスのスクリーンに映じ、その像を濃青色の濾光板 754
この事実と、前述の二人の見たという火の玉の進行の現象とは何か縁がありそうに思われる。一つの可能性は、上記の浴室の軒の明かり窓の光が一時消えていたのが突然ぱっと一時に明るくなったと仮定すると、その光の帯が暗がりになれていた人の横目には一方から一方に移動する光のように感ぜられたのではないかということである。火花の実験の場合においても、正視するときよりもむしろ少し横目に見るときにこの見かけの移動の感じが著しく、またその移動の方向が目の位置によって逆になるようであった。もっとも、いかなる場合にいかなる方向に動くかという点についてはまだ充分詳しいことを調べたわけではなかったが、ともかくも、実際はほとんど同時に光る光帯が、場合により右から左へ、あるいは左から右へ動くように見えうるという事実がある。これが現在の問題に対して一つの有力な手がかりになるのである。もっとも火花の場合には光帯が現われるとすぐに消えるのに反して現在の場合では点火したきりで消えなかったとすると少し事がらがちがう。それで、後の場合でも同様な錯覚が生ずるかどうかは別に実験を要するわけである。 755
とにかく、これは一つの可能性を暗示するだけで実際はどうだかわからない。 756
もう一つの可能性がある。前記の浴室より、もう少し左上に当たる崖 757
そうかと言って、浴室の天井の電燈が一時消えていたというのは単なる想像であって実証をたしかめたわけでもなんでもないから、結局この問題の現象はなんだかわからないということに帰着するのであるが、しかしこの出来事の上記の考察から示唆された一つの実験的研究を、ほんとうに実行してみることはそうむだではあるまいかと思われる。たとえば、暗室の一点に被実験者をすわらせておいて、室のいろいろな場所のいろいろの高さにいろいろな長さや幅で、いろいろの強度と色彩をもった光帯を出現させ、そうしてそれに対する被実験者の感覚を忠実に記録してみたら存外おもしろいかもしれないと思われるのである。 758
伊豆 759
それはとにかく、われわれの子供の時分には、火の玉、人魂 760
信州 761
その鳴き声は自分の経験した場合ではいわゆる「テッペンカケタカ」を三度くらい繰り返すが通例であった。多くの場合に、飛び出してからまもなく繰り返し鳴いてそれきりあとは鳴かないらしく見える。時には三声のうちの終わりの一つまた二つを「テッペンカケタ」で止めて最後の「カ」を略することがあり、それからまた単に「カケタカ、カケタカ」と二度だけ繰り返すこともある。 762
夜鳴く場合と、昼間深い霧の中に飛びながら鳴く場合とは、しばしば経験したが、昼間快晴の場合はあまり多くは経験しなかったようである。 763
飛びながら鳴く鳥はほかにもいろいろあるが、しかしほととぎすなどは最も著しいものであろう。この鳴き声がいったい何事を意味するかが疑問である。郭公 764
この鳴き声の意味をいろいろ考えていたときにふと思い浮かんだ一つの可能性は、この鳥がこの特異な啼音 765
自分の目測したところではほととぎすの飛ぶのは低くて地上約百メートルか高くて二百メートルのところであるらしく見えた。かりに百七十メートル程度とすると自分の声が地上で反射されて再び自分の所へ帰って来るのに約一秒かかる。ところがおもしろいことには「テッペンカケタカ」と一回鳴くに要する時間がほぼ二秒程度である。それで第一声の前半の反響がほぼその第一声の後半と重なり合って鳥の耳に到着する勘定である。従って鳥の地上高度によって第一声前半の反響とその後半とがいろいろの位相で重なり合って来る。それで、もしも鳥が反響に対して充分鋭敏な聴覚をもっているとしたら、その反響の聴覚と自分の声の聴覚との干渉によって二つの位相次第でいろいろちがった感覚を受け取ることは可能である。あるいはまた反響は自分の声と同じ音程音色をもっているから、それが発声器官に微弱ながらも共鳴を起こし、それが一種特異な感覚を生ずるということも可能である。 766
これは単なる想像である。しかしこの想像は実験によって検査し得らるる見込みがある。それにはこの鳥の飛行する地上の高さを種々の場合に実測し、また同時に啼音のテンポを実測するのが近道であろう。鳥の大きさが仮定できれば単に仰角と鳥の身長の視角を測るだけで高さがわかるし、ストップ・ウォッチ一つあればだいたいのテンポはわかる。熱心な野鳥研究家のうちにもしこの実測を試みる人があれば、その結果は自分の仮説などはどうなろうとも、それとは無関係に有益な研究資料となるであろう。 767
星野温泉 768
これに連関してまた、五位鷺 769
せんだって三越 770
われわれの言語を言語として識別させるに必要な要素としての母音や子音の差別目標となるものは、主として振動数の著しく大きい倍音、あるいは基音とはほとんど無関係ないわゆる形成音 771
こういう考えが妥当であるかないかを決するには、次のような実験をやってみればよいと思われる。人間の言葉の音波列を分析して、その組成分の中からその基音ならびに低いほうの倍音を除去して、その代わりに、もとよりはずっと振動数の大きい任意の音をいろいろと置き換えてみる。そういう人工的な音を響かせてそうしてそれを聞いてみて、それがもし本来の言葉とほぼ同じように「聞こえ」たとしたなら、その時にはじめて上記の考えがだいたいに正しいということになるであろう。 772
これはあまりにも勝手な空想であるが、こうした実験も現在の進んだ音響学のテクニックをもってすれば決して不可能ではないであろう。 773
それはとにかく、以上の空想はまた次の空想を生み出す。それは、九官鳥の「モシモシカメヨ」が、事によると、今ここで想像したような人工音製造の実験を、鳥自身も人間も知らない間に、ちゃんと実行しているのではないかということである。 774
この想像のテストは前記の人工音合成の実験よりはずっと簡単である。すなわち、鳥の「モシモシカメヨ」と人間のそれとのレコードを分析し、比較するだけの手数でいずれとも決定されるからである。 775
こうした研究の結果いかんによっては、ほととぎすの声を「テッペンカケタカ」と聞いたり、ほおじろのさえずりを「一筆啓上仕候
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
[#ここから数式]
a1 = b1 = 0; a2 = a3 = b2 = b3 = 4/10; a4 = b4 = 2/10[#アルファベットに続くアラビア数字はすべて下付き小文字、「4/10」「2/10」は分数]
∴ P = 4
= 4×0.0008756≒0.0035
[#ここで数式終わり]
すなわちわずかに〇、四プロセント弱ぐらいに減じてしまうのである。
[#ここから数式]
P = s1a1b1[#「1」はすべて下付き小文字]1/14[#「1/14」は分数] = s1[#「1」は下付き小文字]×0.0714
[#ここで数式終わり]
しかるにシナでは異音類義の字が多いからこの s1[#「1」は下付き小文字] が大きくなりうる。かりに s1[#「1」は下付き小文字] を5とすると、三五、七プロセントという多数の暗合を見る事になる。これはこの種の方法による比較の価値を判断する際に参考になると思う。なおこの場合に同じ漢字の発音に対して、各地方的発音の異なるものを材料として、その中から都合のいいものを採るとなると s1[#「1」は下付き小文字] がさらにいっそうはなはだしく大きくなって、結局どうでもなるという事になり、かくのごとき比較の言語学上の価値はきわめて希薄になって来る事は明らかである。
[#ここから数式]
1/5[#「1/5」は分数] = 0.2; 1/52[#「2」は上付き小文字、「1/52」は分数] = 0.04; 1/53[#「3」は上付き小文字、「1/53」は分数] = 0.008; 1/54[#「4」は上付き小文字、「1/54」は分数] = 0.0016
[#ここで数式終わり]
であるから a1 = b1 = 0; a2 = b2 = a3 = b3 = 4/10; a4 = b4 = 2/10[#アルファベットに続くアラビア数字はすべて下付き小文字、「4/10」「2/10」は分数] の場合でも、P = s×0.007744 となり、sが4ならば、約三、一%を得るわけである。すなわち、三分ぐらいの符合では偶然だか、偶然でないかわからない事になる。
化け物の進化
数学と語学
ルクレチウスと科学
緒言
Lucretius: Of the Nature of Things. A Metrical Translation by William Ellery Leonard.
というのが目についた。そうして旧知の人にめぐりあったような気がしてさっそく一本を求め、帰りの電車の中でところどころ拾い読みにしてみると、予想以上におもしろい事がらが満載されてあるように感ぜられた。それからあちらこちらの往復に電車で費やす時間を利用してともかくも一度読了した。その後ある物理学者の集会の席上で私はこの書の内容の梗概を紹介して、多くの若い学者たちに一読を勧めたこともあった。
Munro's Lucretius. Fourth Edition, finally revised.
に関するダルシー・タムソンの紹介文が現われた。それによると、この書の第二巻目はマンローの詳細なる評注に加うるに、物理学者のダ・アンドラデ
The Quantum Postulate and Atomic Theory.
と題する興味ある論文を読んだ後に、ルクレチウスの第一巻を開いて、
Even time exists not of itself; but sense
Reads out of things what happened long ago,
What presses now, and what shall follow after:
No man, we must admit, feels time itself,
Disjoined from motion and repose of things.
という詩句を玩味
一
This terror, then, this darkness of the mind,
Not sunrise with its flaring spokes of light,
Nor glittering arrows of morning can disperse,
But only Nature's aspect and her law,
Which, teaching us, hath this exordium:
Nothing from nothing ever yet was born.
For, lo, each thing is quicker marred than made;
という句がある。これを試みに熱力学第二方則の最初の宣告と見るのも興味がありはしないか。
…………………………………………………
It is preserved, when once it has been thrown
Into the proper motions, …………………
という言葉である。これは言い換えると、偶然の産物に或
二
……these primal germs
Vary yet only with finite tale of shapes.
…………………………
Betwixt the two extremes: the things create
Must differ, therefore, by a finite change,
…………………………
三
四
五
For lapsing aeons[#「ae」は合字] change the nature of
The whole wide world, and all things needs must take
One status after other, nor aught persists
For ever like itself. ………………………
と歌っている。これは、ある意味から、自然方則の変遷を考えているものとも見られる。科学の方則ははたして永劫
六
後記
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1) T. Lucretius Carus, Von der Nature der Dinge, nach der Uebersetzung von K. L. v. Knebel. (Reclams Universal-Bibliothek, Nr. 4257―4259.)
2) Lucrece[#5文字目の「e」はアクサン
3) Lucretius, De Rerum Natura, with an English Translation by W. H. D. Rouse. (Loeb Classical Library.)
4) Xenia Atanassievitch, L'Atomisme d'Epicure. (Paris, Les Presses Universitaires de France.)[#「Xenia」の「e」、「Atanassievitch」の「e」、「Epicure」の「E」はアクサン
[#ここで字下げ終わり]
火山の名について
R = 実際数m/偶然数n = mQ/N(VC)[#「実際数m/偶然数n」「mQ/N(VC)」は分数]
なる比が大きいほど暗合でないらしい、何か関係があるらしい確率が増すのである。少なくもm個のうちの若干は互いに関係がありそうだということになるであろう。もっとも厳密に言えばこのほかに日本語の特徴としてはこのような組み合わせの現われる一般的の確率を考慮に入れるべきであるが、これは容易でないからしばらく度外視する。
R = mQ(Q-1)/N(CC)[#「mQ(Q-1)/N(CC)」は分数]
ア ソ・ア サ マ 型
Aso
Usu
Unsen, Unzen
Esan
Unsyo[#「o」はアクサン
Ozyo[#「O」と「o」はアクサン
Osore
Rausu
Rausi
Rasyowa
Gwassan
Bessan
Buson
Nasu
Kasa
Kesamaru
Asakusa
Asitaka
Asahi
Usisir
Asama
Aduma, Azuma
Sanbe
Sambon
Sumon
Samasana
Shumshu
Shimshir
Izuna, Iduna
Udone
Uson
Assongsong
Azuay
Asososco
Asur, Yasowa, Yosur, Yosua
Ossar
Azul
Osorno
Izalco
Lesson
Lassen
Vesuvio
Assatscha
Askja
Kara Assam
Pasaman Telamen
Pasema
Soemoe
Semeroe
Soembing
Semongkron
Gle Samalanga[#「e」はアクサン
Samasate
Saba
Etna
第 二 表
ツ ル ミ・タ ラ 型
Turumi
Daruma
Tarumai
Torinoumi
Chiripu
Chiripoi
Patarabe, Beritaribe
Tara
Tanra
Tori
Tenryu[#「u」はアクサン
Adatara
Hutara
Kutara
Madarao
Tjerimai
Taroeb
Delamen
Sahen Daroeman
Pasaman Telamen
Talla-ma-Kiee[#語尾の「e」はウムラウト
Tulabug
Talima
Toliman
Tolo
Tara
Taal
Talu
Tauro
Toro
Telerep[#2文字目と4文字目の「e」は上に「∪」付き]
Teleki
Tarakan
Telok
Tulik
Telica
Talang
Tarawera
Talasiquin
Tultul
Turrialba
Tjilering
日常身辺の物理的諸問題
量的と質的と統計的と
物理学圏外の物理的現象
ロプ・ノールその他
鐘に釁
自然界の縞模様
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[#ここから1字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
物質群として見た動物群
感覚と科学
神話と地球物理学
科学と文学
緒言
[#ここから2字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
言葉としての文学と科学
実験としての文学と科学
記録としての文学と科学
芸術としての文学と科学
文学と科学の国境
随筆と科学
広義の「学」としての文学と科学
通俗科学と文学
ジャーナリズムと科学
文章と科学
結語
科学者とあたま
人魂の一つの場合
疑問と空想
一 ほととぎすの鳴き声
二 九官鳥の口まね
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947
1963
1997
「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947
1964
1997
「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948
1963
1997
「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948
1963
1997
「寺田寅彦随筆集 第五巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948
1963
1993
「日本の名随筆 33 水」井上靖編、作品社
1985
「日本の名随筆 89 数」安野光雅編、作品社
1990
「日本の名随筆 91 時」三木卓編、作品社
1990
※異なった底本から作品を集めて青空文庫版随筆集を編むにあたり、体裁の統一を図りました。
また、底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」
入力:
校正:田中敬三、かとうかおり
ファイル作成:かとうかおり
2000年10月3日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫
【表記について】
本文中の※は、底本では次のような漢字
※嫉
第4水準2-5-68
※軒小録
第3水準1-92-47
※庭雑録
第3水準1-89-63
田口※三郎
第4水準2-78-35
植物※葉
第3水準1-90-47
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年8月