小説脚色の法則
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およそ小説は作者が架空の想像に成るものなり。故に其趣向を設くるに当りて些も原則のなきに於ては、一向写真を主眼として、孟浪思ひを構ふるまゝ、前後錯乱して脚色整はず、事序繽紛として情通せず、出来事あまりに繁に過ぎて為に因果の関係の察しがたき事もあるべく、人物あまりに数多くして為に終結のつかぬこともあるべし。故にあらかじめ法度を設けて其脚色を構ふること勿論肝要なる事なりかし。
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小説を綴るに当りて最もゆるかせにすべからざることは、脈絡通徹といふ事なり。脈絡通徹とは編中の事物巨細となく互ひに脈絡を相通じて、相隔離せざるをいふなり。例へば、実録、紀行等にては其篇中にしるせる事、元来つくり物にあらざる故、一回毎に一巻毎に、新らしき事物こも%\現はれ、物語の筋の転換すること猶ほ走り行く車の上にて四方の景色を観るが如し。さるからに、前段の事柄は中途にして立消となり、再び其結果を説出すべき約束もなうして、他の因縁なき事柄の物語に遷り、又は前回の人物はいかゞ成り行きしか詳しくは説きも尽くさで、更に他の人に及ぶなど、通篇脈絡離々として関係きはめて疎漏なれども、小説にては之れと異なり、首尾常に照応せざるべからず。前後かならず関係なかるべからず。若し本と末と聯絡なく、原因と結果と関係なくんば、之れを小説といふ可らず。ただありのまゝに世上の事実を筆にまかせて、書記せる実録に似て実録ならざる異しき仮作話といはまくのみ。
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曲亭の翁かつて小説の法則を論じていへらく、「唐山元明の才子らが作れる稗史にはおのづから法則あり。所謂法則とは、一に主客、二に伏線、三に襯染、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微すなはち是れのみ。主客は此間の能楽にいふ「シテ」、「ワキ」の如し。其書に一部の主客あり、又一回毎に主客ありて、主もまた客になることあり、客もまた主にならざるを得ず。又襯染は其事相似て同じからず。所謂伏線は後にかならず出だすべき趣向あるを数回前に些と墨打をして置なり。又襯染は下染にて、此間にいふ「シコミ」のことなり。こは後に大関目の妙趣向を出さむとて、数回前より其事の起本来歴をしこみおくなり。金瑞が『水滸伝』の評註には■染〔糸へんに宣〕に作れり、即ち襯染におなじ。共に「シタゾメ」とよむべし。又照応は照対ともいふ、例へば律詩に対句ある如く、彼れと此れと相照して趣向に対を取るをいふ。照対は重複に似たれども、必ず是れおなじからず。重複は作者あやまつて前の趣向に似たる事を後に至りて復出だすをいふ。又照対はわざと前の趣向に対を取て彼れと此れと照すなり。例へば船虫媼内が牛の角を以て戮せらるゝは北越二十村なる闘牛の照対なり、又犬飼現八が千住河にて繋舟の組撃は芳流閣上なる組撃の反対なり。この反対は照対と相似ておなじからず。照対は牛をもて牛に対するが如し、其物は同じけれども其事は同じからず。又反対は其人は同じけれども其事は同じからず。又省筆は事の長きを後に重ねていはざらん為に、必ず聞かで叶はぬ人に偸聞させて筆を省き、或ひは地の詞をもてせずして其人の口中より説出だすをもて長からず、作者が筆を省くが為に看官もまた倦ざるなり。又隠微は作者の文外に深意あり、百年の後知音を俟ちて之れを悟らしめんとす。『水滸伝』には隠微多かり、李■、金瑞らはいへばさらなり、唐山なる文人、才子に『水滸』を弄ぶ者多けれども、評し得て詳かに隠微を発明せしものなし。」云々
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右の法則の第一たる、主客に関する議論の如きは、おのれ特別に欄を設けて仔細に説明なすべければ、暫く評論をこゝには略して、其余の法則を評論せむ。
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第二の伏線と、第三の襯染とは、おのれが前段に述べおきたる脈絡通徹といふ事を解剖したるに過ぎざるものなり。総じて東洋のむかしの学者は、其博識なると強記なるとに係らず、事物の道理をば綜括して之れを命名くることを知らざるゆゑ、其一部分の性質をば一箇々々に取いだし来て各々其名を附することなり。伏線といふも、襯染といふも、其精神を探り見れば、只管趣向の脈絡を離れしめざらむ為なるのみ。すなはち脈絡通徹てふ一大総則の部分にして、いふにしも足らぬ原則なり。第四の照応、第五の反対の如きは、巧みを求むるに過ぎたる物なり。なまなか斯かるくだ/\しき奇を求めまく企てなば、其本尊たる人情世態をあやまることのなからずやは。故に第四と第五の如きは文章をもて主脳とせる支那の作者の規律にして、我が小説家の守るべき法度にはあらずといふべきなり。第六の省筆の事につきては、叙事の法則を論ずる条下に仔細に弁論なすべければ、これをもこゝには略していはず。又第七の隠微の如きは、之れを法則とはいふべからず。何となれば、仮令小説に文外の深意はなくとも、よく情態の真を写して、読む者をして感ぜしむる美妙の効力備りたらむには、其物語は小説なり。隠微の間に寓意なきも敢て苦しからぬ事といふべし。されば表面の意味の外に隠微の深意を寓するなどは作者が身勝手の楽しみにて、所謂道楽といふものなり。小説としては此物あるも此物なきも些も損害なきことゝもいはなむ。
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已に総論にても論じたるが如く、小説に幾多の法則を設くることは、単に小説の読者をして倦まざらしめんが為なるのみ。故に此意をだに会得しはてなば、別にくだ/\しく細則をば説明するには及ばざれども、我が幼稚なる後進者流の向後の便利に供するため、次第に細則をも弁明せむ。
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脚色を論ずるに臨みて、まづ第一に弁ずべきは、コメデイとトラゼヂイとの区別是れなり。トラゼヂイは悲哀小説と訳すべく、コメヂイは快活小説とも訳すべし。悲哀小説の解釈は已に上巻にて述べし如し。快活小説は専ら快活なる事蹟をのみ叙しいだすをもて本分とし、かたはら滑稽詼謔をも含蓄なしたる小説なり。小説がなほ未熱にして奇異譚の位置にありけるころには、快活小説といへる小説には専ら、笑ふべく嘲るべき道戯し事のみ綴りいだして、世を諷刺するを旨とせしが、今の所謂快活小説は大いに之れと異なる由なり。また必ずしも詼謔洒落を其主眼とはなさゞるのみか間々哀切なる話談をさへに其脚色中に加ふる事あり。我が小説より例を挙げなば、『八犬伝』も『弓張月』も快活小説の部類なるベし。之れを要するに、快活小説にては其篇中の主公となるもの大団円の場にいたりて身恙なく栄ゆれども、悲哀小説は之れと異なり、其結局に近づくころ其篇中の主人公がはかなき最期を遂る由を其趣向とはなすものなり。されば今日の小説家は、悲哀小説のうちにさへも数々快活なる話談をさしはさみ、又は詼謔をもまじふることあり。蓋しさやうになさゞるときには読者が終に倦むべければなり。故に今日の小説はほと/\悲哀小説と快活小説との区分判然たらざる如く、殊に快活てふ文字の如きは頗る適はざる場合も多かり。さればこそ近きころ英国の学者なにがしは、『弓張月』または『八犬伝』の如き小説をばトラゼ・コメヂイと呼做したれ。トラゼ・コメヂイとは哀歓小説の義なり。想ふに妥当の名目なるべし。
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純粋なる快活小説を綴るに当りて最も忌み嫌ふべき条件といふは、鄙野猥褻なる脚色是れなり。作者の見識低き時には間々滑稽の料にくるしみ、詼謔の料を求めかねて、いと賎むべき事柄をさへに其物語のうちに加へて、笑ひを買はまく望む事あり。一九の『膝粟毛』、金鵞の『七偏人』の如き是れなり。我が維新前に行はれし小説として之を評すれば、きはめて巧妙の小説なれども、之れを真成の小説視して更に評論を下すときには、ほと/\読むに堪へざる物あり。蓋し「下がかり」の事件多ければなり。英国の小説家ヂッケンスの著したる『ピクヰック・ペーパルス』の如きは純然たる快活小説の一種にして、通篇詼謔に成るといへども、決して猥褻なる脚色もなければ、また陋しげなる文字もなし。蓋し滑稽の基くところの陋猥の事物にあらざるがゆゑなり。およそ滑稽、戯謔の秘訣は、端厳、倨傲、高尚なるものと粗魯、賎劣、鄙猥なるものとを巧みに交へて叙するにあり。例へば「つまらぬ物」をば「たいそうなるもの」のやうにいひなし、賎しきものを高尚なるものゝやうにいひなすなども笑ひを博すべき一方なり。或ひは老実なる人の粗忽なる振舞、あるひは倨傲なる人物のへこまされし体裁等、総て滑稽の料なるべし。畢竟偶然の間違よりして発生なすべき条件には笑ひの種となるもの多かり、豈に必ずしも婬猥事をもて詼謔の料となすを要せむ。
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それ将来の小説は、従来の小説とはおなじからず婦女童幼に媚ぶるよりは、むしろ具眼者に訴ふるを其本分ともなす事ゆゑ、よしや詼謔の小説なりとも、美術家たるの資格に恥づべき脚色を忌むべきは勿論なり。例へば巧妙なる絵画といへども、親子相ならびて観るに堪へざる鄙猥の形容を写したらむには、之れを美術とはいふべからず。小説に於けるもまた之れにひとしく、親子相ならびて巻をひらき朗読するに堪へざるごときは真成の小説とはいひがたかり。世人あるひは論をなしていへらく、世に鄙猥なる著作のいづるは之れを売る者あるが故なり、之れを売る者の世にいづるは之れを読むものあるが故なり。かゝれば小説の鄙猥なるは其著作家の罪にはあらで之れを読むものゝ罪ともいはなむ。作者は時世に相応じて其情態を模写するのみ。時世の人情いやしうして鄙野猥褻を喜びなば、作者のものする小説中にも自然に鄙猥の脚色多かり。是れ併しながら小説、稗史が時世の写真鏡たる所以にして、また是非もなき事なりかし云々、といふ論者もあり。此論一通りはことわりなれども、また退いて考ふれば、いまだ確論といふべからず。按ふに上文の議論のごときは、婦女童幼に媚ぶるをもて其本分とはなしたりける已往の作者の心事にして、十九世紀の小説家の分説としてはいと/\拙し。およそ鄙猥なる事柄にも大概定限のある事にて、世の情態をうつしいだすに、いはでかなはぬ鄙猥の事あり、いふべからざる卑陋の事あり。いはで叶はぬ鄙猥の事件は之れを叙するに心を用ひてなるべく淡泊に模写しいだし、余は読むものゝ心々に想像し得るに任すべきなり。例へば婬猥なる風習の盛んに行はるゝ時世に在りては、穴隙を鑽りて密会する男女も数あまたあるべきなれども、其風俗を写さんとて只管房中の隠微をあばきて其の相語らふ有様をば仔細に模写しいだすなんどは、是れ小説家の本分にあらで、他の情史家の本分たり。滑稽小説を著作すればとて亦た之れにひとしく、豈に必ずしも其脚色を下流の社会にとるを要せむ。否、上流の人物、事件はかへりて美妙の詼謔をば醸成すべき料ともなるなり。一九派の戯作者流はもとより高尚なる意見もなく、只管下流の読者輩の笑ひを買はむとなせしかば、専ら脚色を中流以下、下流の社会に取りたりしも当然のことなれども、ただ怪むべく訝しきは今の滑稽作者にしてなほ新機軸をいだすことなく、ひたすら陳套手段を取り、鄙野陋猥なる詼謔をば戯謔の本旨と心得つつ、我が小説を改良して美術となさむの意なきことなり。若し小説といふものが果して美術ならざりせば、時世々々の人心をば悦ばしめなばすなはち足れり。いと賎むべき筋ありとも、いとみだらなる話ありとも、之れを咎むるにたるべきやは。若し小説が之れに反して果して一大美術なりせば、一時一国の人心をば感動せしむる力ありとて之れを美術とは称しがたかり。已に上巻にも陳べし如く、真成の美術といふものは、深く人心を感動して、冥々の間に其気韻を高尚ならしむる益あるものなり。苟も此裨益の存せずもあらば、其物は決して美術にあらで、尋常平凡の玩具なるのみ。譬へば俗間にもてあそべる彼の錦絵とかいへる物をば真の絵画なりといひ得べき乎。錦絵まことに美なりといへども、いまだかる%\しく之れを以て絵画の神髄を得たる物とはいふ可からず。錦絵の果して真の絵画たるに恥ぢざると否とは、其人心をして高尚ならしむるの力あると否とに因りて決すべきなり。さあらむには、画工の本分は人の気韻を高尚ならしむるに足るべき巧妙の絵を画くにありて、唯うるはしう物の象を画きいだすにはあらざるなり。小説家もまた之れにひとしく、其本分は情態をば見るが如くに写しいだして、読者を感動するに外ならねど、そのものしたる小説、稗史に人の気韻を尚うすべき彼の大効力なきに於ては、其小説は美術にあらねば、其著作者も美術家たる驕号をしも得る由なからむ。若し作者にして見識乏しく、我れは明治の著作者なり、おのれは文政の戯述者なり、決して美術家にはあらざるなり、と自ら好んで謙遜し、彼の驕号を棄てむとせば、童蒙に媚ぶればとて、下流の社会におもねればとて、おのれいかでか之れを咎めむ。そは兎も角もといはまくのみ。それ一時一処の人心を悦ばしむるは容易にして、広く人心を感動するは難きことなり。試みに例を浮世絵にとりていはむに、菱川師宣の絵は浮世絵の先進にして、岩佐又兵衛の絵につぐべし。さればこそ当時にありては師宣の名は都鄙に知られて、世の人妙手と称へたりき。さはとて師宣の末流なるいと不手際なる浮世絵類をば美妙の名画といひたらむには、世の美術家は合点すまじ。蓋し是等の批評の如きは、美妙と古雅との区別をば弁別せざるに出づればなり。是れに因りて之れを思へば、一時一処の人心をば悦ばしむるは容易にして、真の美術の至難なるをば得て察すべき事なりかし。
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かくいへばとて、小説家は時の情態を度外視してたゞ高尚なる情態をのみ想像をもて案じいだして之れを叙するを本分とすと敢て論ずるにはあらざるなり。時代物語を綴らまくせば、殺伐の条もなかるべからず、惨酷の物語も多かるべし。こはまた是非もなき事なりかし。世話物語を綴ればとて、我が生息せる其社会が尚ほ半開の位置にありなば、残忍なる人物も多かるべく、猥褻なる事件も間々あるべし。そをあながちに忌み嫌ひて皆こと%\く除き去りなば、写しいだしたる物語は作者が理想上の物にして、当時の情態とはいふべからず。しからばいかにせばよからむといふに、おのれは答へていはむとす、猥褻なる情話も叙すべし、惨酷なる事件も語るべし、たゞ之れを叙するに当りて作者が十分其心を虚平ならしむるを要するなり。若しかりそめにも小説作者が残酷の条を叙するに当りて、自身之れを面白しとめでよろこべる心ありなば、其残酷なる物語はますます残酷に流れ易く、他の虚平なる心を有する具眼の人より之れを見れば殆ど堪へがたきものあるべし。鄙野猥褻の条を叙するもまたその如く、作者みづから隠微の情事をあばき写すことを好めるときには、作者の心事のしらず/\其文の面に見らるゝから、具眼の読者は得堪へずして、覚えず巻をもなげうつなり。畢竟ずるに、鄙猥の情話も、また残酷なる物語も、敢て悉く小説中より除き去ることを要せざれども、たゞなるべくだけ之れを省きて、我が従来の作者の如くに徹頭徹尾陋しげなる物語をのみ綴りいだして具眼の読者を倦ましめずばすなはち足れりといはまくのみ。仏のヂウマ翁の著作などには頗る残酷なる物語もあれば、婬奔野合の情話もあり。されども我が国の稗史の如くに、かの閨中の隠微に類する鄙猥の事を叙せざるから、父母兄弟の面前にて朗読なすも妨げなし。又英国の著作家たるリットン翁の小説には、専ら男女の情事をしも物語れる物いと多かり。『花柳春話』の如きは其一例なり。さはあれ翁の趣向の塩梅、わが小説家とおなじからず。男女の切なる心事を穿つも、其閨中の趣きはさらなり、隠微に渉れる態度の如きは総じて之れを省きさりて、明白地には写しもいださず、只管切なる情緒をのみ翁が如意筆の力をもて隈もなく描きいだしたり。リツトン翁の情史の如きは、其物語の性質より其脚色の塩梅まで、我が為永派の情史に似たれど、なほ野卑なりとの嘲笑をば世上に得ざりし所以のものは、豈にたゞ書中の人物事件が高尚なりしによるのみならむや。其模写法の美妙にして、かの有形なる態度をうつさで、他の無形なる情緒をしもいとつまびらかに写せしゆゑなり。我が将来の小説作者は宜しく此区別に眼を注ぎて其新作をものすべきなり。
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序でにいふ、我が国の小説には、ともすれば強姦といふ脚色を設けて、稗史の眼目とすることあり。是れ世の情態のしからしむる所にして、作者の罪にてはあらざめれど、拙き趣向なりといはざるべからず。若し情態を写しいだすに、強姦といふ一事件がなくては不都合なる次第もあらば、之れを語るも悪しからねど、さながらそれを主眼事の如くに、あらはには強姦の有様をば写しいだすべき要なきはずなり。あらはに之れを叙すべき方法、手段は、別にいくらもある事なり。例へば人物の詞をかりて其事ありたる趣きをば他の人物に語らしめなば、かの猥褻なる模様をしも写しいださで事すむべし。是れ両全の手段にして、なか/\に新らしかるべし。之れに類する脚色の改良尚ほ此外にも夥多あるべし。又我が国の小説にて男女の心事を説くに臨めば、かならず閨中の事に及べり。是れ除くべき随一なり。例へば「未だ侶寝はせずもあれ」、「はじめてこはい羞かしい、あとで嬉しい枕して」等これなり。按ふに、是等の詞の如きは、説いださずともすむことなり。又我が国の情話の中にはかならず下の如き文面あり。曰く、「障子をはたとしめきりつゝ、いかなる夢や結ぶらん。」云々。其文章のかきかたにはいろ/\さま%\なる種類もあれど、要する所は男女の婬事を暗にしらしむるに外ならざるなり。是れまた過ぎたりといはまくのみ。書中の男女が野合の次第を暗にしらせまくほりするならば、十分前後の文章にて之れを語るべき便機あるべし。豈にかならずしも障子ふすまを閉切るまでを叙するのを要せむ。
因云。ちかごろ狂言作者らが立案せる新狂言の世話物を見るに、おほむね平凡の脚色にして、情趣に乏しき物のみなり。是れ併しながら狂言作者が開明論者の議論に惑ひて、ひたすら残忍殺伐なる若しくは婬猥陋劣なる脚色を除かむとするものから、元来見識の高きにあらねば、其除却したる脚色に代ふべき清絶高妙の脚色とはそもまたいかなるものなるかを得てさとるべうもあらざる故、在り来りたる狂言中より猥褻野卑なる脚色をば除きさりたるものにひとしき、、味のなき狂言をば提出したる故ともいふベし。されば此間の世話狂言は、今の世態の写真にもならねば、理想の社会のさまともいはれず。作者が刻苦の心情をば表しいだせる世態といふべし。さればこそ死果では適はぬ者がまた蘇生る事もあらば、改心すべうも思はれぬ悪徒が俄かに改心する、本末のあはぬ事もあるなれ。畢竟ずるに、此頃の新作には、今の情態の真像をば描きいだしたる妙所もなければ、切なる情事を表出せる美妙の佳境もあることなく、情態、情趣双つながら共に乏しきものなれば、其興なきは勿論なりかし。
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純粋なる快活小説を論ぜむと欲して覚えず冗長の議論になりゆき、支路にのみ渉りたれば、また本論に立ちもどりて、今の所謂快活小説すなはち哀歓小説の事につきて更に一言を費すべし。
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哀歓小説にて最も注意すべき事は、快活愉快の物語と、悲楚哀切の物語との混淆塩梅すなはち是れなり。およそ人間の感覚力は、視察の力又は筋肉にひとしく、其使用の度に定限あるゆゑ、あまりに久しく労役して之れを休ましむる事なくんば、甚だしく疲れ弱りて、一時は其用をなさゞるべし。例へば、あまりに久しく燦然たる日輸の光りを見つめし後には、燭火の光りを見るといふとも、之れを見ること能はざるが如し。又香気たかき香水にても、久しく之れを鼻頭に接して其馥郁に慣果なば、終に感じがたき水ともなるべし。感覚力また之れにひとしく、久しく痛切哀切なる物語をのみ聞慣れなば、終には悲哀を感覚する心も次第に薄らぐのみか、後には厭へる心もおこらむ。故に愁境の説話の後には、絶快的なる説話を設け、滑稽戯謔の脚色の中にも苦楚惨憺たる条を加味して、以て読者を倦まざらしむるは、古今の作者が已に実践し得たる手段にして、事あたらしう此処に説きおよぼすべき限りにあらねど、今あらためて作者たちに忠告なすべきことこそあれ。そは余の事にもあらざれども、哀歓悲喜の物語をかたみ代りに綴るに当りて、機関を用ひてするが如くに悲哀の後には歓喜をいだし、歓喜の後には悲哀をいだして、些も変幻不可思議なる美妙の手段を用ひずもあらば、哀歓悲喜の調合加減はいかに巧妙に出来たりとも、人を感ぜしむることかたかり。思はざるべからざるなり。
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悲哀小説に於けるもまた然り。いかに愁歎場が主なればとて、徹頭徹尾悲涼惨憺、悲しき事のみ多かりせば、読者遂に倦はつべし。殊に結局の悲話の如きは、なるべくだけは淡泊と且つ軽やかに叙するを要とす。我が国の小説中にて有名なるは『娘節用』といへる情史是れなり。其結局の悲話の如きは、頗る軽やかに説きたれども、なほ哀切に過ぐるを覚えぬ。式部が『源氏物語』に、かの雲隠の巻をまうけて、暗に源氏の遠逝をば読む人々にしらせたりしは、蓋し此辺に用心せし才女が大筆の妙用なるべし。悲哀小説の脚色につきては、なほいふべき事あまたあれども、あまりに長々しく成り行きたれば、しばらく筆をこゝに止めて、他の論説に移らまくす。読む人幸ひに論の到らざるを咎めたまふな。
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およそ小説の脚色中にて、忌まざるべからざる病ひとするもの、其数一にして足らずと雖も、今その主なる種類を算へて、作者の参考に供するものから、もとより尽くしたりといふべからず。余は時々に発明してみづから謹誡なすべきなり。
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真成の小説には、荒唐無稽、奇異非常なる咄々怪事を忌めるよしは、已に繰返して説置たれば、また更にこゝに贅せず。
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趣向一轍とは、おなじやうなる趣きのみ幾回となく続くことなり。唱歌、音楽にも、抑揚なければ面白からず。殊に小説、稗史のたぐひは、変幻浮沈窮りなき世の情態をば写せるものゆゑ、此性質の必須なる、才人を俟つて知らざるなり。
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重複とは、前の趣向に相類する趣向をふたゝびいだすことなり。こは我が国の小説作者もしばしば痛論せしことなるから、口かしましう論ぜずとも、読者も大方は其理由を已に得知られし事なるべし。
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此事につきても已にしば/\論じつ。鄙野猥褻を忌むといへばとて、男女の情事を説くべからずといふにはあらず。たゞ閨中の隠微に類する陋猥の事を綴りいだして、自ら甘心することのなからむをば小説作者に望めるのみ。
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こは小説の人物の上にいふべき事にて、脚色に関する事にはあらねど、序であるまゝ提出し来りて、こゝに数言を費すものなり。好憎とは、作者が自作の人物に対する好憎なり。おのれが架空の想像もて作り設けし虚構の人物を好憎するといふは、何とやらむ奇なるに似たれど、是れ人情の自然にして、決して怪むべき事にはあらず。例へば実事師すなはち善良なる人物は、しらず/\可愛くなりて、話譚の筋の都合によりて、是非よこしまなる行為をば、其人物がなす由をば綴做さでは適はぬ折にも、しひて脚色を曲げたわめて、善き行為をなさしめなどし、あるひは悪形の人物には、ありとあらゆる悪行をばしひてなさしめむと図るなんどは、間々小説家のする事なり。こは小説家の上のみならで、列伝家などにもある事なり。例へば同じ難波戦の事を叙するに当りても、家康の伝を叙する作者は、専ら家康を庇保弁護し、豊臣の記をものするやからは、秀頼母子を偏愛して、家康父子のおこなひをば邪なるやうにいひなすべし。事実をまぐるに如意ならざる正史に於けるも尚ほ且つ然り。況てや架空の小説をや。悪くいはむも、よくいはむも、作者の心の儘なるから、わが奉じたてゝ主公とせし其本尊の行為をば、あくまで善良純潔とし、其反対なる悪主公をひたすらあしく作りなさむは、元来自在の事にしあれば、作者に好憎の偏頗ありなば、かの神聖をもあざむくべく、彼の尭舜をも走らすべき、聖人君子を幾人となく我が明治の世に出し得べく、かの桀紂をも戦慄せしめ、彼の盗跖をも怕れしむる、残忍非道の悪人をも、文明の世に現し得べし。我が従来の小説作者は、最も愛情に偏るものなり。蓋し作者が情態をばたゞありのまゝに傍観して、其趣きをばありのまゝに叙する心得にてありたらむには、決して此弊のなき筈なれども、かの浅墓なる童幼婦女子の嗜好に媚むとなしけるから、さてこそ偏頗の好憎をも自然に行ふ事とはなりけれ。童幼婦女は浅墓なれば、善人なれば常に正しく、悪人なればいつも/\邪ならめと思ふべけれど、善人にもなほ邪なる煩悩あり、悪人にもなほ純善なる良心ありて、時に発動する事あり。作者たるもの、かりそめにも此理に心を注がずして、其人物を造作せば、情態人情ふたつながら此人界のものにあらぬ奇怪のものともなりゆくべし。作者それ之れを思へ。
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特別保護といへることは、好憎の偏頗より生ずる事にて、こもまた人物に関することなり。上文の理由によりて、作者が主公を偏愛することます/\甚だしきにいたるときは、只管主公の身を庇護して危険の場合に臨むごとに必ず之れを援ふことあり。悲哀小説にあらざるよりは、其主人公を殺すことはもとより成しがたき事なるから、之れを救ふはあしきにあらねど、あまりに特別に之れを保護して、其危難をしも免るゝは、其人物の身の上には常に定まりたる事の如く読者に思はるゝはいと拙し。例へば『八犬伝』中なる八士の如きは、無難無死の神仙なり。殊に犬江の仁の如きは、殺したりとも死ざるべし。蓋し伏姫の神霊といふ護神あるがうへに、別に霊玉の助けあればなり。畢竟馬琴の大筆になりたればこそ、此疾病にも心づかで、かの長篇をば読むことなれども、若し他の作者の小説なりせば、第八九輯にいたりし比には、人みな眠気を催すべし。英国の小説家にも之れに類するものあり、リチャアドソンの如き其一例なり。
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矛盾撞着は、脚色の上にもいふべく、叙事の上にもいふべし。今一例をあげていはんに、彼の『神稲水滸伝』は、はじめは岳亭翁の筆になりて、知足軒主人その続篇を綴れり。故に撞着の趣向ありとも、其大概は恕すべきなれども、一条の甚だしき撞着あり。読者の興情を損ずること小少ならずと思はるれば、こゝに提出して例ともなすべし。岳亭翁が綴りたりし篇中には、玉置現九郎を形容して、色黒く骨たくましく眼つぶら云々とあり。しかるに知足軒が綴りたりし遙後篇の巻に至れば、色白く鼻筋通り云々とあり。豈甚だしき撞着ならずや。勿論出現の折柄には、玉置は深山の樵夫なるから、色黒かりしも尤もなれども、若し日やけして黒かりせば、其ことわりのなくてはかなはず。よしや年あまた歴たればとて、武骨なりける荒男が、いと風流たる好男子に豹変する由あるべしやは。斯かる撞着の多きときには、読む人妄誕に倦厭して、余の面白き脚色にだに感触なさゞることゝなるべし。
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学識誇示とは、作者が学識を誇示する事なり。老熱の作者には此事なけれど、少年の作者には間々ある事にて、是れ又忌むべきの随一なり。例へば危急の場合に臨みて、いと長々しき古事を語らせ、語るべからざる長者のまへに古語の講釈を物語らせ、或ひは人質に相応せぬ学問智識を有せしむるは皆此類の疾病なりかし。我が国の小説家にては、曲亭馬琴もつとも此類の病ひに富めり。英のリットンの如きも、其少壮の著作に於ては、間々此過失を醸せしことあり。スコット翁だに、かの『海賊の物語』にては、多少此病ひを免れ得ずして、学者の難評をば得たりきといふ。さはとて、作者が博学をば知られざらむもいとをしければ、宜しく艸紙の地の文にて、其満脳の学識をば其折々の便宜を見て、読む人々を倦ませぬやうに心を用ひて叙ぶべきなり。
23
永延長滞とは、あまりに物語の長びくことなり。こは全体の物語の長びくことをいふにあらず。よしや全体の物語はいかほど長篇に亘ればとて、作者の自在の意匠をもて、千変万化の脚色をものして、読む人々だに倦ましめずば、敢て不都合はなきことなれども、かの講談師風の手段を用ひて、妄りに続談を延引して、あまりに果しのなき時には、「まだか/\」と俟ちかねし読者も、次第に俟ちくたびれ、後には件の続談をば得聞かむとも望まざるベし。扨かくの如く、読者ばらが忘れはてたる比になりて、其続談をいだせばとて、読者の注意は其折には已に他の物にあるべければ、さまで佳境にも入らざるべし。此一条の例ともなるべき一条の笑ふべき小話あり。近きころの事なりき、新吉原の青楼に某といふ遊女ありて、某といへる好男子を其情郎とはなしたりけり。此情郎おもへらく、彼婦をして十分わが術中におとしいれて、其情交の密なること膠漆の如くならしむるには、故意としばらく遠ざかりて、眷々として慕へる念をばます/\倍さしむるに如くことあらじと。斯くなむ思ひ定めしかば、其日よりして一句あまりは絶えて音信をなさゞりけり。さるほどにかの遊女は、もとより件の情郎を務めをはなれて恋慕ひつゝ、已に二世とも盟ひしなかゆゑ、かく日久しく音信なきまゝ、情郎の身に異なりたる変事の出来なしたるかと、種々に心を苦めつゝ、あるひは人して模様をさぐらせ、あるひは匿名の書を送りて、其様子をしも尋ぬるものから、此方は計略中図せりと独り密かに打笑みつゝ、唯よのつねなる返辞をのみ、月に一両度おくりしかど、後には端書をだもおくらずして、三四ケ月をば過ぎ去りけり。さらぬだに遊女などは、嫉妬の心の深かるから、さては余所の花に心移りて、はや時ならぬ秋の風の立ちそめたるにてあらむずらむ、あなねたましやと思ふにつけ、流石にすぎにし睦言をわすれむとしてわすれかねつ。人にしられぬ袖の雨に座敷被の乾く間なきこと已に三四月に及びしかど、なほ情郎の方よりして、そよとの風の音信だに聞き得る由のなかりしかば、流石は川竹の水性なる、移るも早き彩糸の結目解きてまた更に、他の情郎と浅からぬ縁を緒びそめたるより、また彼のさきの情郎をば恋慕へる気もあらずなりぬ。さる程に以前の男は、斯くとはいかで察し得べき。已に四箇月を経たりしかば、時機熟しぬとみづからうなづき、けふこそ女に面合して、悲喜哀歓こも%\なる好活劇を演ずべし生て、揚々としておもむきしが、果して功を奏せざりしは、いはずも読者は推したまはむ。若しこの自信情夫にして、その延滞の方略をば、適度に運用したらむには、此失敗もあるまじきに、我が小説の秘訣をもしらざりけるから失敗しぬ。希ふは小説の作者たる人、此情郎を亀鑑として、其物語を綴りたまへ。
24
詩趣欠乏とは、けつして妥当の文字にあらねど、かりに借用してこゝに載せぬ。おのれがいはむとする本意は、伝奇の旨趣欠乏といふ事なり。それ小説は世態の真像を叙するものゆゑ、ともすれば其脚色も淡々無昧に成り易かり。故に此弊をすくはむため、時に伝奇中の趣きをば其脚色中に調合して、人を倦ましめざる工夫をなすべし。例へば暗闘の如きもの是れなり。余は推しても知るべし。
25
こは省筆の一法なるのみか、また趣きあるものなるから、若し長篇の小説なりせば、一両三回は用ふるとも敢て苦しからぬ事なれども、あまりに数々用ふるときには、読者も「又か」と敷息せむ。殊に三四章もしくは又六七章にわたるが如きは、なるべく稀れなるこそ望ましけれ。
26
脚色につきていふべき議論は、もはや大方は尽くしたれども、なほ時代物の脚色につきては、別にいふべき事さまざまあり。繁雑しきにわたるをおそれて、新たに一章を下に設けて、別に時代物を論評すべし。
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入力者:網迫(あみざこ)さん
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変更終了:平成14年8月