小説の主眼

1

小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。夫れ人間は情慾の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情慾を有ぬは稀れなり。賢不肖の弁別なく、必ず情慾を抱けるものから、賢者の小人に異なる所以、善人の悪人に異なる所以は、一に道理の力を以て若しくは良心の力に頼りて情慾を抑へ制め、煩悩の犬を攘ふに因るのみ。されども智力大いに進みて、気格高尚なる人に在りては、常に劣情を包み、かくして其外面に顕さゞれば、さながら其人煩悩をば全く脱せし如くなれども、彼れまた有情の人たるからには、などて情慾のなからざるべき。哀みても乱るゝことなく、楽みても荒むことなく、能くその節を守れるのみか、忿るべきをも敢て忿らず、怨むべきをも怨まざるは、もと情慾の薄きにあらで、其道理力の強きが故なり。斯かれば外面に打いだして、行ふ所はあくまで純正純良なりと雖も、其行ひを成すに先きだち幾多劣情の心の中に勃発することなからずやは。其劣情と道理の力と心のうちにて相闘ひ、道理劣情に勝つに及びて、はじめて善行をなすを得るなり。彼の神聖にあらざる以上は、水の低きに就くが如くに善を修むる者やはあらむ。いくらか迷ふ心あるをば、よく道理をもて抑ふればこそ賢人とも君子ともいはるゝなれ。初めよりして迷ひなくんば、善をなすとも珍しからず。君子、賢人などといはむは一なか/\におろかなるべし。されば人間といふ動物には、外に現るゝ外部の行為と、内に蔵れたる思想と、二条の現象あるべき筈なり。而して内外双つながら其現象は駁雑にて、面の如くに異なるものから、世に歴史あり伝記ありて、外に見えたる行為の如きは概ね是れを写すといへども、内部に包める思想の如きはくだ/\しきに渉るをもて、写し得たるは曾て稀れなり。此人情の奥を穿ちて、賢人、君子はさらなり、老若男女、善悪正邪の心の中の内幕をば洩す所なく描きいだして周密精到、人情を灼然として見えしむるを我が小説家の務めとはするなり。よしや人情を写せばとて、其皮相のみを写したるものは、未だ之れを真の小説とはいふべからず。其骨髄を穿つに及び、はじめて小説の小説たるを見るなり。和漢に名ある稗官者流は、ひたすら脚色の皮相にとゞまるを拙しとして、深く其骨髄に入らむことを力めたりしも、主脳となすべき人情をば皮相を写して足れりとせり。豈に憾むべきことならずや。稗官者流は心理学者のごとし。宜しく心理学の道理に基づき、其人物をば仮作るべきなり。苟にもおのれが意匠を以て、強ひて人情に悖戻せる、否、心理学に戻れる人物などを仮作りいださば、其人物は已に既に人間世界の者にあらで、作者が想像の人物なるから、其脚色は巧みなりとも、其譚は奇なりといふとも、之れを小説とはいふべからず。物にたとへて之れをいはゞ、機関人形といふ者に似たり。匆卒にして之れを観れば、さながら夥のまことの人が活動なせるが如くなれども、再三熟視なすにいたれば、偶人師の姿も見え、機関の工合もいとよく知られて、興味索然たらざるを得ず。小説もまた之れにひとしく、作者が人物の背後にありて、屡々糸を牽く様子のあらはに人物の挙動に見えなば、たちまち興味を失ふべし、試みに一例をあげていはむ歟、彼の曲亭の傑作なりける『八犬伝』中の八士の如きは、仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり。作者の本意も、もとよりして、彼の八行を人に擬して小説をなすべき心得なるから、あくまで八士の行をば完全無欠の者となして、勧懲の意を寓せしなり。されば勧懲を主眼として『八犬伝』を評するときには、東西古今に其類なき好稗史なりといふべけれど、他の人情を主脳として此物語を論ひなば、瑕なき玉とは称へがたし。其故をいかにとならば、彼の八主公の行ひを見よ、否、行為はとまれかくまれ、肚の裏にて思へる事だに徹顕徹尾道にかなひて、曾て劣情を発せしことなし。矧や一時瞬間といへども、心猿狂ひ、意馬跳りて、彼の道理力と肚の裏にて闘ひたりける例もなし、よしや尭舜の聖代なればとて、かゝる聖賢の八個までも相並びつゝ世にいでむこと殆ど望みがたき事ならずや。蓋し八犬士は曲亭馬琴が理想上の人物にして、現世の人間の写真にあらねば、此不都合もありけるなり。さはあれ馬琴の凡ならざる、よく巧妙の意匠をもてして、其牽強をば掩ひしかば、読者は豪もこれをしらず、よく人情をも穿ちたりとほめ称へたるは誤りならずや。斯ういへばとて、『八犬伝』を小説ならずといふにはあらねど、今証例に便ならむが為に、しばらく人口に膾炙したる彼の傑作を引用せしのみ。 曲亭翁の著作につきては、おのれおのづから別に論あり。其折を得て説くよしあるべし。されば小説の作者たる者は専ら其意を心理に注ぎて、我が仮作たる人物なりとも、一度篇中にいでたる以上は、之れを活世界の人と見做して、其感情を写しいだすに、敢ておのれの意匠をもて善悪邪正の情感を作り設くることをばなさず、只傍観してありのままに摸写する心得にてあるべきなり。譬へば人間の心をもて象棋の棊子と見做すときには、其直きこと飛車の如き情も尠からざるべく、行く道常によこさまなる心の角も多かるベし。桂馬の剽軽なる、香車の料簡なき、或ひは王将の才に富みて機に臨み変に応ずる縦横無尽なるもあれば、只進むべき前あるを知りて左右に避くべき道を知らざる匹歩庸歩も尠からず。おのがじしなる挙動をして、この世局を渡るものから、直なる飛車も生長なればむかしの飛車におなじからず、角も世故に長ずるにいたれば、直なる道をも行くことあるべし、或ひは王将も匹歩の手にかゝり、或ひは慮りなき香車にして金銀を得ることもありなむ。囲棊者は造化の翁にして、棊子は即ち人間なり。造化の配剤の不可思議なる、傍観で観るとは大いに異なり。「彼の金は程なく彼方へ成りこみ進んで王手となるべからむ。」と思ふに違ひて、一匹歩にたちまち道をふたがれつゝ避退くべきひまだになうして、桂馬の餌食となることあり。されば人間も是れにおなじく栄達落魄必ずしも人間の性質に伴はざるから、或ひは才子にして業を成さゞるあり、或ひは庸人にして志しを得るあり。千状万態、千変万化、因果の関係の駁雑なる、予め図定むべからず。故に小説を綴るに当りて、よく人情の奥を穿ち、世態の眞を得まくほりせば、宜しく他人の象棋を観て、其局面の成行をば人に語るが如くになすべし。若し一言一句たりとも傍観の助言を下すときには、象棋は已に作者の象棋となりて、他の某々等が囲したる象棋とはいふ可からず。「あな此処はいと拙し、もし予なりせば斯なすべし、箇様々々に行ふべきに。」と思はるゝ廉も改めずして、只ありの儘に写してこそ初めて小説ともいはるゝなれ。凡そ小説と実録とは、其外貌につきて見れば、すこしも相違のなき物たり。たゞ小説の主人公は実録の主とおなじからで、全く作者の意匠に成たる虚空仮設の人なるのみ。されども一旦出現して小説中の人となりなば、作者といへども擅に之れを進退なすべからず。 恰も他人のやうに思ひて、自然の趣きをのみ写すべきなり。彼の勧懲をもて主眼とせる和漢の小説作者のごとくに、斯かる情は此人物にふさはしからず、さる情慾をいだかせなば此人物の価を損ぜむ、如ず聖人君子に恥ざる立派の人物になしおくべしなど、作者が岡目の手細工もて人の感情を折衷なし、勧懲といふ人為の模型へ造化の作用をはめこむときには、其人情と世態とは已に天然のものにあらず、作者がみづから製作へたる誂へ向きの人情なれば、其人物を除くの外には決して見がたき人情なるべし、それ小説の主人公はもとより仮作の者にしあれば、完美ならしめむと欲する時には、作者の意匠の浮べるまゝに、あくまで全美にこしらふるも敢て妨げざることなれども、たゞ予め限界を設けて、人情の外にいでざるやう工夫を凝すを肝要とす。譬へば画工が意匠を凝して佳人の肖像をものする折にも、ひたすら妖■あでやかならむを望みて、みだりにあるまじき眼を画き、もしくは眉口の類なんども人らしくなく写しいださば、其貌いかほどに美なりといふとも、之れを名画とはいふ可らず。否、名画とはいひ得べきも、絶美の「人間」を描き得たる名画なりとはいひ難かり。もし絶美なる未曾有の佳人を描き出さまくほりするならば、まづ其蛾眉をゑがくに当りて、世に蛾眉をもて名を鳴らせる佳人の蛾眉を雛形となし、さて其眉を画きつべし。星眸に於けるもまた其如く、世に星眸の誉たかき美人の眼を手本として、其星眸を写しつベし。鼻唇はいふに及ばず、面の長短、髪のいろつや、皆世にあるべき人間より其雛形を取り来りて、はじめて、古今に曾てあらざる絶美の婦人を描くべきなり。若し然せずして、眉も口も画工が自儘の想像よりつくりいだせしものならむには、是れ人間の像にあらで、人間以上もしくはまた人間以下の像たるべし。人物を仮作するもまづそのごとく、此処彼処なる人間より其性質の原素をもとめて、併せてこれを一箇となし、完美善良の人物をば小説中につくりいだすは、もし其配合の方法塩梅心理に違へる由なき以上は、敢て苦しからぬことなれども、決して人界に望むまじき咄々奇異なる人物などを作者が自儘の想像もて仮作りいだすは忌むべきなり。前にも已に述べたりし如く、もと小説は美術にして詩歌、伝奇と異なる所尠からず。例へば、詩歌は必ずしも摸擬を主眼となさゞれども、小説は常に摸擬を以て其全体の根拠となし、人情を摸擬し世態を摸擬し、ひたすら摸擬する所のものをば真に逼らしめむと力むるものたり。小説いまだ発達せずして尚ほ「ローマンス」たりしころには、其体裁も詩歌に類して、奇異なる事をも叙したりしが、ひとたび小説の体を具備して今日の小説となりたるからには、また荒唐なる脚色を弄して奇怪の物語をなすべうもあらず。是れ今日の小説、稗史の一至難技たる所以なりかし。されば人物を仮設けて、その情をしも写さまくせば、まづ情慾といふ物をば其人物が已に既に所有したりと仮定めて、さてしか%\の事件おこりて箇様箇様の刺戟をうけなば其人いかなる感情をおこすや、また云々の感情起らば其余のあまたの感情にはいかなる影響を生ずべきか、また従来の教育と其営業の性質によりて其人物の性はさらなり其感情の作用にも何等の差違を生ずるかと、いと細密に撈り写して、外面に見えざる衷情をあらはに外面に見えしむべし。もし人物が善人にて、所謂実事師といふ者ならむか、作者は力めて実事師が其折々に感じつべき感情をのみ摸写しいだし、もし人物が悪質なりせば、邪曲し心に抱きつべき感情をのみ写すべきなり。されども、これをなすに当りて、善人にも尚ほ煩悩あり、悪人にも尚ほ良心ありて、その行ひをなすにさきだち、幾らか躊踏ふ由あるをば洩して写しいださずもあらば、是れまた皮相の状態にて、真を穿たぬものといふべし。聞説、熱心なる油絵師は刑場などへも出張して、斬らるゝ者のかほかたちはさらなり、断頭手の腕の働き、はた筋骨の張たる様にも眼を注ぎて観察するとか。小説作者もまづそのごとく、性の醜きものも、情の邪なるものも、敢て忌嫌ふことをばなさで、心をこめて写さずもあらば、いかでか人情の真に入るべき。さはとて、婬猥野鄙にわたれる隠微に過ぎたる劣情をだに写しいだせよといふにあらず。蓋し小説は美術なるから、彼の音楽に鄭声を忌み、絵画に猥褻の像を嫌ひ、また詩歌、伝奇に鄙野なる言詞を用ふることを悪むが如くに、鄙猥を語るを悪めばなり。英国の博識ジョン・モーレイがヂョーヂ・エリオット女史の著作を評する語にいへらく。
上略なべて文学の主旨目的は人生の批判をなさむが為のみと往古の識者はいひけり。小説はもと文壇の一大美技とも称ふべきに、却つて屡々賎められて最下に其位置を占るものは、そも/\何故ぞや。想ふに、人生の批判と見るべき小説稀れなるに因ることなるべし。世に操觚者流多しと雖も、造化の文才を人に附与ふるや、配剤一様ならざるから、見識の浅きものあり、意匠の足らざる者あり、概して評を下さむに、一大奇想の糸を繰りて巧みに人間の情を織做し、限りなく窮りなき隠妙不可思議なる因源よりして又限りなく定まりなき駁雑多端なる結果をしもいと美しく編いだして、此人生の因果の秘密を見るが如くにいとあらはに説明らめたる著作はすくなし。およそ人生の快楽は、其類きはめて多きが中にも、人の性の秘蘊を穿ち、因果の道理を察り得るほど、世に面白きことはあらじ。さもあれ人生の大機関をばいと詳細に察り得るは、もと容易からぬ業にしあれば、浅識菲才の操觚者流の得てなすべうもあらざるなり。其才稠人の上にぬきんで、不撓の気力を有する者のみ特りこのことを得為すべし。総じて文壇の技術にしてやゝ高等の位置を占むるものは、此人世の大機関を覚るを以て主眼となし、または目的となさゞるなし。宗教といひ、詩歌といひ、哲学といひ、其名によりて形こそかはれ、其主旨とする所を問へば、なべて人間に関する者にて、其性質と運命とは何等の自然の機関によりていかなる工合にはたらくかを残る蘊なく説き明らめて、世間の人の迷妄を解き、また疑ひの雲を払ひて、好奇の癖を慰するにあり。人此般の書を読みなば、よし其深理は解し得ずとも、尚ほ人世の評判記の興あることを覚ゆるからに、巻を擱くこと能はざるべし。蒙昧不学の徒にありては、これらの書籍を読むといへども、為にみづから悟りをひらきて反省取捨するにはいたらずとも、事の曲直是非当否はおぼろげながらに判じ得べし。中賂エリオツト女史の小説は、かゝる観念の畠へしも読者を導く捷径なり。されども女史は独断をもて、此行ひは宜しきことなり、此行ひは不可なりなど、曾て指示することをば好まず。唯あからさまに事物の因果を見るが如くにかきあらはして、褒貶取捨は総じてみな読者の心に任したりき。女史は尚ほ人の為に種を蒔く者のごとし。みづから穫を収めずして他人の之れを拾ふに任して毫も妬める気色もなし。」云々といへり。詢にモーレイ氏のいへる如く、苟にも文壇の上に立ちて著作家たらむと欲する者は、常に人生の批判をもて其第一の目的とし、しかして筆を執るべきなり。

2

されば小説は、見えがたきを見えしめ、曖昧なるものを明瞭にし、限りなき人間の情慾を限りある小冊子のうちに網羅し、之れをもてあそべる読者をして自然に反省せしむるものなり。造物主は天地万象を造りて私なし。恰も我が党小説作者が種々の人物を仮作りいだして毫末も偏頗愛憎なく、行住進退なべてみなひたすら自然に戻らぬやう写しなせるに似たりといふべし。さもあらばあれ、造化の翁が造り做したる活世界は極めて広大無辺にして、規模あまりに大いなるから、凡庸稚蒙の眼を以ては、原因結果の関係をば察り得ることいと/\難かり。しかるを我が党小説作者は其因果の理の要を摘みて一小冊子のうちに蔵めて点検取捨する便に供ふ。其任豈に重からずや。もしよく奏功なす由ありなば、其功は実に偉大ならずや。
  因云。本居大人が『玉小櫛』にて『源氏物語』の大旨を論じていへらく、「此物語の大旨昔より説どもあれども、みな物語といふものゝ本旨をたづねずして、只よのつねの儒教などの書のおもむきをもて論ぜられたるは、作者の本意にあらず。たま/\彼の儒教などの書とおのづから似たるこゝろ合へる趣きもあれども、そをとらへて総体をいふべきにあらず。大かたの趣きはかのたぐひとは痛く異なるものにて、総て物語は又別に物がたりの一種の趣きあることにして、はじめにもいさゝかいへるが如し。中略胡蝶の巻にいはく、むかし物語を見たまふにも、やう/\人のありさま世の中のあるやうを見知りたまへば云々。総て物語は、世にある事、人の有様心をさま%\書けるものなる故に、読めばおのづから世の中の景況をよくこゝろえ、人の所業、情の現象をよく辨へ知る、是れぞ物語を読まむ人のむねと思ふべきことなりける。又略しからば物語にて人の心所業の善き悪きはいかなるぞといふに、大かた物のあはれを知り、情ありて世の中の人の情にかなへるを善とし、物のあはれを知らず、情なくて、世の人の情にかなはざるを悪しとせり。かくいへば儒仏などの道の善悪といとしも異なる差別なきが如くなれども、細かにいはむには、世の人の情に叶ふとかなはざるとの中にも、儒仏の善悪とは合はざるも多し。又すべて善悪を論むるをも只なだらかにやはらびて、儒者などの議論のやうにひたぶるにせまりたる事はなし。さて物語は物のあはれを知るを旨としたるに、其すぢにいたりては儒仏の教へに背けることも多きぞかし。そはまづ人の情の物に感ずる事には善悪邪正さまざまある中に、道理にたがへる事には感ずまじきわざなれども、情は我れながら我が心にも任せぬことありて、おのづから忍びがたきふし有て感ずることもあるものなり。源氏の君の上にていはゞ、空蝉の君、朧月夜の君、藤つぽの中宮などに心をかけて逢ひたまへるは、儒仏などの道にていはむには、世に上もなきいみじき不義悪行なれば、外にいかばかりの善き事あらむにても善人とはいひがたかるべきに、其不義悪行なるよしをばさしもたてゝ言はずして、只そのあひだのものゝあはれの深きかたを返す%\かきのべて、源氏の君をば主と善人の本として、善事のかぎりを此君の上にとりあつめたる、此物語の大旨にして、其よきあしきは儒仏などの書の善悪と差異あるけぢめなり。さりとて彼のたぐひの不義を可とするにはあらず。その悪しきことは今さらいはでもしるく、然るたぐひの罪を論ずることは、おのづから其方の書どもの世に夥多あれば、物とほき物語を俟つべきにあらず。物語は儒仏などのしたゝかなる道のやうに、迷ひをはなれて悟りに入るべき則にもあらず。只世の中の物語なるがゆゑに、さるすぢの善悪の論は暫くさしおきて、さしも関はらず、ただ物の哀れを知れる方の善きをとりたてゝ善とはしたるなり。此こゝろばえを物にたとへていはゞ、蓮をうゑてめでむとする人の、濁りてきたなくはあれども、泥水をたくはふるが如し。物語に不義なる恋をかたるも、その濁れる泥を愛でてにはあらず、物のあはれの花をさかせむ料ぞかし。源氏の君のふるまひは、泥水より生ひ出たる蓮の花の世にめでたく咲にほへるたぐひとして、其水の濁れることをばさしもいはず、只なさけぶかく、物のあはれを知れる方をとりたてゝよき人の本にしたること。云々」といへり。

3

右に引用せる議論のごときは、すこぶる小説の主旨を解して、よく物語の性質をば説きあきらめたるものといふベし。我が国にも大人のごとき活眼の読者なきにしもあらざりけれども、そは絶無にして希有なるから、他の曲学なまものしりにあやまられて、彼の『源語』をさへ牽強して勧懲主意なるものなりなど、いとしたり貌に講釈せる和学者流も多しと聞く。豈に甚だしくあやまらずや。


■使用したテキストファイル
入力者:網迫(あみざこ)さん
      http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4728/index.html
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
  ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
  行間処理:行間180%
  段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
      :段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
      :段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年8月