小説神髄

 小説の変遷

                 坪内逍遙

1

小説は仮作物語の一種にして、所謂奇異譚の変体なり。奇異譚とは何ぞや。英国にてローマンスと名づくるものなり。ローマンスは趣向を荒唐無稽の事物に取りて、奇怪百出もて篇をなし、尋常世界に見はれたる事物の道理に矛盾するを敢て顧みざるものにぞある。小説すなはちノベルに至りては之れと異なり、世の人情と風俗をば写すを以て主脳となし、平常世間にあるべきやうなる事柄をもて材料として而して趣向を設くるものなり。こは只概略の弁なるから、尚ほ解しがたき由もあらめど、其詳細なる本義の如きは、しばらく之を下回に譲りて、まづ変遷の次第を説くべし。

2

それ倩々惟みるに、小説、野乗の行はるゝは其源遠く■〈しんにょう貌〉焉たる上古の時代にありといふべし。其然る所以を知らまくせば、試みに社会の淵源に遡りて其状態を察せざる可らず。上古の社会の状態はいかにといふに、東西人おなじからず南北地異なるにも係らず、一個の家長を尊崇して之れを酋族の長となすこと人間社会の通則なり。かゝれば戦闘いと烈しく優勝劣敗急激なる未開野蛮の上世にありては、猛然荒蕪の間に起りて俄かに一家の主長となり忽ち一族の首となるもの、或ひは少なしとなさゞるなり。かゝる性質の家長にして已に酋族の首となりなば、其子孫らにものがたるに何等の事柄を以てする歟。想ふにおのれが経験なしたる艱難辛苦の事情はさらなり、其武功などを語りつべし。しかして是等の物語は其人親しく経験なし若しくは親しく見聞せる真実の事蹟に相違なけれど、子孫が之れを伝聞してまた其子孫に語るに及びて、或ひは記憶の誤謬より或ひは附会に原因して、竟には事実の髄を亡ひ、咄々奇怪の物語を長く口碑に伝へ存じて、鬼神史、神代記の基をひらく、是れ世上の通則にしてまた怪むに足らずと雖も、事のこゝに到れるには別に原因のなきを得むや。今こゝろみに之れを思ふに、其原因となりたるものおよそ三条ありきと思はる。譬へば酋族次第に栄えて勢ひ強大になるに至れば、人の心のおのづから傲りて、些々たる事をも巨大にいひなし、他の酋族に誇るものなり。かゝれば祖先の履歴の如きは、故意に附会の談を加へていと大業にいひなすべし。是れ第一の原因なり。又人間はうまれながらに奇異を好むに切なるものなり。斯かれば別に其要なくとも、仮作の談話をつくりまうけて、史伝を誤ることあるべし。是れ第二の原因なり。しかして国歩やうやく進みて稍々文明の世界となりなば、其国君といはるゝやからは下賎の匹夫の成りあがりが我が大祖なりといはるゝをば快からぬことに思ひて、附会の説をつくりまうけて太祖の事蹟を粧はむとす。況んや是等の時代に於ては敬信の念深かるから、故意に物語を仮作せずとも自然に祖先を神といひなし、天孫なりきと思ふべきをや。是れなむ諸国に信じがたき神代史などいふものある第三条の原因なりかし。斯かれば上古のミソロヂイ即ち鬼神誌といへるものは所謂奇異譚の濫觴にて、其伝おほくは仮作にいで若しくは訛伝になりたること元より疑ひなきに似たり。さはあれ所謂神代史鬼神誌はもとこれ真実の物語にして決して遊戯の作にあらねば、後の所謂奇異譚とは其質ほと/\同じうして其用はまたいたく異なり。蓋し謬信伝訛の久しき、後世の人其伝記の妄誕なるをば怪まざるなり。こゝをもて後の世の人此種の書を尊み信じて、曾て小説視するものなきまゝ、恬然正史の巻はじめにいとうや/\しく之れをかゝげて、国家の権輿を穿鑿する好材料となすことゝなりけり。或ひは神代史を解釈して太古の奇異譚といふものあれども、こはまた甚だしき誤謬なるべし。夫れ神代史は荒唐なれども、其質小説とはおなじからず。其記載せる物語は元より全くの事実にあらねど、また虚構ともいひがたかり。仮作の話譚と訛伝の事蹟と相混淆して事実を粧ひ、もて史体をばなせるものにて、其質なかばは正史に属し、なかばは小説に類するものなり。此をもて考ふれば、正史の本源は神代史なり。奇異譚の濫觴も神代史にあり。史と小説とは其源おなじ。只累世の変遷にて今日の差を生ぜしのみ。

3

しかりしかして文運のいまだ開けざりし比にありては、世々の史伝を伝ふるには必ず唱歌を用ひたりき。蓋し文字の用をしらず、筆記の法をもしらざりける上古蒙昧の世に於ては、史伝を詩歌に綴りなして子孫に伝唱せしむるをば最も簡易利便にして誤謬すくなき法ぞと思へり。さる程に唱歌師らが史伝を唱歌にものするに臨みて、まづ第一に記憶すると諳誦するとに便ならむことを望むが故に、自然にして、其用ふる言語の如きも成るべく平滑流暢にて吟誦なすに便なるをば力めて選み用ひしなるべし。且つ又行文優雅にして閑麗婉曲なるに於ては、人の注意を促すことも亦たおのづから多かるから、唱歌師は力めて巧妙なる文句を綴るに怠らざるべし。然して一唱人情をばよく表出する文句の如きは、総じて活溌婉麗なるから、ひたすら情を写さむとて事実を枉ることも多かるべし。かくしてしきりに虚飾を加へて漸く時好に媚びる程に、唱歌の伝ふる史伝の事蹟はやゝ本色を失ひつゝ、其本来の伝記に比すれば大異小同なるに至らむ。是れしかしながら神代史、鬼神誌が全然正史の体を脱して排悶の料となりたる時にて、即ち小説の濫觴なりけり。

4

希臘国の詩仙ホウマアが著したる『イリヤッド物語』のごときも、其源は『トロイ神聖史』にいでたれども、其編述せる事蹟に於ては頗る異同多しと聞く。
かくすること幾星霜、文化の度次第に進みて、書よみ書かく道ひらけて、已に其国に正史といふもの全く備はりたる後にありても、尚ほ伝唱の法を存して、奇異譚を唱歌に綴りなして吟誦なすこと行はれぬ。さはあれ、もはや其比には唱歌を以て必要なる史伝を伝ふる法とは思はず、玩弄物のやうに思ひて、只奇なるをのみ求むるからに、唱歌師もまた此意を推してしば/\おのれが意匠をもて奇しき物語を編成なし、まことしやかにいひはやして虚名を売らむと力むることあり。此時よりして正真なる奇異譚世に現はれたれども、なほ此時代のローマンスは総じて韻語のみを用ひて詩歌の体にものせしから、今のいはゆるローマンスとは其名おなじうして体裁異なり。

5

さる程にローマンスの種類もいつしかいろいろになりて、あるひは滑稽を主とするものあり、あるひは真実らしうもてなすもあるべし。然して輿情殺伐にかたぶく時には、武勇を主とせるローマンス出で、時好柔弱に流るゝ国には宗旨に関する物語にあらずは情事に関する物語あらはる。此をもてノウマン人種のローマンスには、勇士の偉業をのべたるもの多く、サクソン時代の古詩篇には宗旨に関するもの多かり。我が皇国のローマンスは前の二つに相反して『住吉』といひ、『伊勢』といひ、またかの式部の『源語』のごときも、専ら男女の情事をのべたり。蓋し優遊文弱なる当時の輿情に応ぜしなるべし。之れを要するに、此ころには人みな奇異を好める故に、かりにも時好に投合せる奇異なる物語をものする時には、世の人のよろこびもてあそびて、敢て妄誕無稽を咎めず且つ実際の事柄とは大いに矛盾することありとも、却りて之れを奇なりとたゝへて、怪み訝る事なければ、作者も益々奇を求めて工夫を費し、文を練りて、ひたすら新奇の脚色をば結構なさまく企つベし。さはあれ此比の物語はひたぶる時好に媚ぶるをもて其目的とはなしけるゆゑ、美術の主旨など知るべうもあらず。且つは物する物語の真に似ざると似るとを問はねば、咄々怪事を綴り出して恬然怪む体なきのみか、なか/\に之れを得意とせり。読む者も亦た之れをめでて毫も疑ふさまもなけれど、文化いま一としほ進むに及びて、世人やうやくローマンスの荒唐無稽に倦むよしありて、ローマンス随つて衰へ、いはゆる真成の物語起る。其沿革の次第の如きは更に下条にときわくべし。

6

およそ奇異譚の世に行はるゝや、寓言の書もまた世に行はる。所謂寓言の書とは何ぞ。無稽の小説に諷意を寓して、童幼婦女子の蒙を啓き、奨誡なすもの、すなはち是れなり。英国にていふフヘイブルは、すなはち件の寓言なり。『イソップ物語』のごときは、其一例とも見るべきものなり。其他『荘子』の寓言のごときも、また此ものに外ならざるなり。按ずるに、寓言の書の世に現るゝは、当時の君子、有徳の士が、世の道徳の萎靡して振はず、人情の澆薄に流るゝをいと歎かはしきことに思ひて、こを救はまくほりするものから、人みな遊侠懶惰にして、書をひもときて読むものまれなり。況て人倫道義を説きたる彼のかたくるしき書籍のごときは、机に近づくるものだになければ、ほと/\教誡の方法に困じつ。竟に世上に愛玩せらるゝ彼の奇異譚の脚色に倣ひて架空の小説を結構なし、暗に奨誡の意を寓して、世を諷せんと図りしなるべし。されば奇異譚と寓言の書とは其外形は同じうして、其内質は同じからず。前者は娯楽を目的とし、後者は諷誡を真相とす。フヘイブルの物語は、浮屠氏のいはゆる方便にて、其眼目にあらざるから、其脚色も単純にて、只皮相をのみ閲する時にはいと淡くして味なし。されども倩々玩読して其隠微をしも味ふときには、所謂寸鉄人を殺す深妙の旨趣を見る事あり。「猿蟹合戦」の物語、又は「桃太郎」の昔語、「舌切雀」、「かちかち山」、皆フヘイブルの部類にして、其皮相なる物語はきはめて甲斐なきものに似たれど、其真相を見るに及びて頗る深意ありと思はる。

7

さる程に文運ます/\進歩して開明の世となるに及べばフヘイブルも亦た変遷して多少の進歩なき能はず。蓋し文運の進むにしたがひ、世の流行もむかしに似ず、とかくに奢侈に傾きつゝ、万の事みな贅沢なり。且つは人智の進めるまゝ、あまりに甲斐なく浅はかなる彼の寓言の書なんどをめで喜びては読まざるべし。中にも傑作『荘子』の如きは長く具眼の士に尊まれて大人社会に行はるれども、他の尋常の寓言書の其書の目的なりける諷誡の旨は次第に効なきものともなるべし。蓋し大人具眼の士は、別に聖賢の書を閲して已に道義をしも弁知したれば、また寓言の書にたよりて之れを学ばむ必要なく、たゞ其文の巧みなると、其結構の妙なるをば賞玩なすに過ざればなり。かゝれば劣等の作に至りては、偏へに童蒙のお伽ばなしとなり、若しくは婦女子ばらにもてあそばれ、わづかに玩弄の一種とならむのみ。其目的たる諷刺の如きは全く通ぜざる事ともなるべし。何となれば、童蒙らはたゞ脚色にのみ眼を留めて、其含蓄せる寓意の所在を窺知ることなければなり。譬へば我が国の寓言なる「猿蟹合戦」の物語、「舌切雀」の話などを見よ。多少の妙意のあるべきなれども、之れを小児にかたり聞かする祖母、母親だに十に八九は寓意の所在を知れるはまれにて、たゞ一通りのつくりばなしと同一様のものぞと思へり。是れみな進化の自然にして、所謂フヘイブル次第におとろへ、寓意小説おこる原因なりかし。

8

アレゴリイとはいかなるものぞ。曰く、仮作物語の一種にして、二様の脚色を含めるものなり。所謂二様の脚色とは、皮相に見えたる物語と隠微の寓意と是れをいふなり。今一例をあげていはゞ彼の有名なる『西遊記』のごときは、すなはち此類の適例なるべし。其皮相なる脚色につきて彼の物語を評するときには、奇異荒唐、架空無稽、只よのつねなる奇異譚と相異なることなきに似たれど、細かに嚼読なすにいたれば、頗る隠微の寓意もしられて、彼の幽玄なる仏道をも窺ひ見るべき便機となる一種深妙不可思議なる脚色の、別に存在することを正可に穿鑿なすを得べし。其他スペンサー翁の傑作なりける『仙嬢伝』の詩、又はバンヤンの『天道歴程記』等の如きも、総て文外に寓意を存して、あるは教訓し、あるは諷刺す。殊に『仙嬢伝』の加きは、都合三様の趣向ありて、一は尋常の奇異譚にて其文章の上にあらはる、一は聖教の極意にして其文外にありて存す。しかして当時の社会を諷刺し且つ奨誡する寓意の如きも其文外に出没して歴々之れを指点すべし。実に『仙嬢伝』のごときはアレゴリイ中の傑作にして、空前絶後のものといはむも決して誣言にあらざるなり。此他に寓意小説はあまたあれども、今証例の便をはかりて、只其粋を抜きたるのみ。其詳細なる脚色の塩梅ならびに寓意の工合なんどは、前の三書を精読してみづから之れを穿鑿なし、しかして覚悟なすべきなり。

9

畢竟ずるに、寓意小説は彼の単純なる寓言の書の次第に進化変遷して発達したるものならむ歟。アレゴリイとフヘイブルとは、其皮相より之れを見れば、一は極めて単簡なり、一は頗る複雑にて、相類似する由なけれど、其の含蓄せる本意を探れば此れ彼れほと/\同一にて、別種のものとは思ひがたかり。因りて窃かに考ふるに、已に前にものべたるごとく、人智しば/\進むにしたがひ、時の好もむかしに似ず、器具、粧服はいへば更なり、はかなき艸紙、物語だに只管純樸の質をきらひて奇異複雑なるものをこのめば、奇異譚にまれフヘイブルにまれ、あまりに単樸浅近にて興味うすかるものなんどは、いつしか輿論にしりぞけられ、世に行はれぬ事ともなるべし。かゝれば奇異譚の作者ばらは、つとめて新奇の趣向を案じ、其脚色を複雑にし、其物語を長くものして、ます/\時好に適するやう意匠をかまふることとなるべし。さる程にフヘイブルはいよ/\輿情にかなはずして、わづかに婦幼の玩具となり、其本来の主旨をさへ忘れらるゝに至るべければ、寓言の書は次第に衰へ、竟には跡をも絶つことなるべし。さはあれ小説に諷意を寓して世を誡むるの力あるは人々もまた知らざるならねば、全く件の方便をば棄つるに忍びぬ由あるから、世の狂才ある操觚者流は暗に奇異譚に諷意を寓して世を誡めまく企つべし。是れ勧懲を主眼とする小説、稗史の濫觴なりけり。しかして文才ある宗教家もしくは道徳家の博識なんども、彼の奇異譚の時好に投じてめでもてはやさるゝのみにあらで且つよく感孚風動する至大の効力あるをば見つ。世の人心を奨誡して萎靡たる徳義を正さむには、先づその好める所によりて扨説いだすにあらざりせば奏功極めて難からむと窃に覚悟する由ありて、すなはちフヘイブルを延長して其脚色をも複雑にし、奨善誡悪の意を寓して彼の奇異譚と相並べて世に発行することゝはなりけむ。されど所謂寓意小説と勧懲主義の小説とは、其淵源は相同じくフヘイブルよりいでたれども、其性質は大いにたがへり。其故はいかにとなれば、寓意小説は勧懲をもて主眼となし、物語をもて方便とせり。しかるに、勧懲小説は物語をもて本尊とし、勧懲をもて粧飾とせり。故に寓意の小説には、いかなる不条理の脚色ありとも何等の荒唐なる話ありとも、寓意の塩梅妙なりせば之れをそしるに及ばざれども、若し勧懲の小説にして基本尊たる物語に咄々奇怪の脚色ありなば、勧懲の主旨は通ずるとも、之れを巧妙の小説とは決して称へがたかるベし。我が東洋の勧懲作者は此変遷の次第を知らねば、ひたすら勧善懲悪をば小説稗史の主眼とこころえ、彼の本尊たる人情をば疎漏に写すはをかしからずや。是れしかしながら、アレゴリイと勧懲主眼の小説との差別を知らざるに出たることにて、物にたとへて之れを譏らば、我が軒下を借受けつゝ勧懲といふ主義を売れる辻商人の風にならひて、われまた軒下に店をいだして、人情といふ品物をば其本店にてひさぎながら、かたはら勧懲をもあきなひつゝ、いつしか店売の本務をおこたり、ひたすら勧懲をば売らまくほりして、竟には店を閉すにいたりし嗚呼あきびとにひとしといはなん。

10

演劇もまた之れにひとしく、はじめはおほむね神代記の事蹟を演ずるものなりしが、人智の次第にすゝめるまゝに、彼の寓意の書にならひて、奨誡の意を伝奇に写して、世を誡むるの方便とせり。此間に行はるゝ馬鹿ばやしといふものなんども、畢竟は古事記などに載せられたる太古の事蹟の演劇にて、いまだ諷意を寓せざりし上古の遺風と思はれたり。英国にていふミラクル・プレイも尊者、聖人の霊験偉跡をたゞ有りのまゝに演ぜしものにて、其大体より評語を下さば、我が馬鹿囃子の類なりけん。しかして其後に行はれし奨誡演劇は之れに異なり。其質は全くアレゴリイを演ぜしものといふとも可ならん。演劇沿革の事につきては、おのれ自ら論あれども、今は要なきまゝこゝには省きつ。

11

之れを要するに、演劇と奇異譚とは其発生のはじめにありては其質ほと/\相同じく、たゞ新奇なる話談のみ主として演ぜし事なりしが、世の人情のすゝむにしたがひ、次第に奇怪の条を除き荒唐無稽の脚色を省きて、事を凡近に取りて意を勧懲に発するに至れり。斯かれば演劇の主脳の如きも、亦た是れ人情風俗にて、他の勧懲の主意の如きは其目的にはあらざること、瞭然として明かなりかし。

12

さる程に奇異譚も其荒唐なる趣向を減じて、漸く世態の真相をば写しいださまく力むることは所謂進化の自然にして、抗すべからざるいきほひなれども、世の人情の陋うして嗜好十分に高尚ならざる文運半明の比にありては、小説作者も見識乏しく、自ら守るの勇なければ、ひたすら流俗の時好を追ひて其物語を物することゆゑ、尚ほ小説の神髄をば修め得るには頗る遠かり。之れを要するに作者の本意は人情世態を写さむとするにもあらず、世を諷誡せむとするにもあらず、たゞ当代の時好に媚び、世の流行に投合して、一時の虚名を射むとするのみ。此をもて、当代の奇異譚作者が物したりし奇異譚中なる人情世態は、其物語の主旨にあらで、時好に媚ぶる方便たり、且つ又寓意の勧懲の如きも、俗にいはゆる遁辞にて、無益の書なりといはれじとて、識者の譏を塞ぐが為に仮りに用ひたる方便なるのみ。是れまた物語の主脳にあらねば、他の寓言家の著作に比すれば其奨誡に益なきこといふまでもなきことなりかし。文化、文政の比よりして、我が国俗のもてはやせる小説、稗史は概してみな此種の勧懲小説にて、真の小説にはあらざるなり。さればこそ具眼の士は我が小説を鄙技とそしり、有害無益とも罵るなれ。是れ豈に小説家の迷惑ならずや。

13

さあらば真の小説稗史はいかなる時世に現はるゝぞ。其奇異譚と異なる所以はそもまた何等の辺にありや。曰くノベル即ち真成の小説の世に行はるゝは概ね演劇衰微の時にあり。故はそもいかにといふに、総じて文化の浅かりける未開蒙昧の世にありては、人皆皮相の新奇をよろこび、眼のつけどころ密ならねば、何にてもあれ異常にして稍々注目を促すべき新奇の性質あるものあれば、競うてこれをもてはやして、面白きものと思ふは常なり。且つまた此比の人の情は今の人情とはおなじからで、怒りても喜びても、また哀みても楽みても、総じて頗る激切なれば、七情白から其挙動と其顔色とに見はれつゝ、隈なく人にも見られしなり。是れ併しながら道理力の作用きはめて微かなりしからに、一時一旦の情慾を抑へ止むることかなはず、心に思ふことをさへにあらはに其外面にうちいだし、または挙動にも見せたるなりき。されば此時代の人々には所謂奇癖もすこぶる多くて、笑ふべき癖あり、罵るべき癖あり、憫むべき癖もあれば、悪むべき癖もありけむ。或ひは破廉恥陋猥なること善六、丈八其人の如きもあるべく、或ひは痴愚の甚だしき有業其人「姫競双葉絵双紙」の道戯形有原屋業平に似たるもあるべし。故にこの時代の人情世態は全く皮相に見えたるから、写しいだすに難からねば、彼のローマンスの類にすら其一通りは描き出して、世の一粲に供せしかど、なほ文才に富まざりける当時の作者の筆頭には、活たるやうには描きがたき人情世態も多なるべし。斯かる時に当りては、精細に風俗を写しいだし、詳明に人情を見えしむるもの、彼の演劇に優るは稀れなり。蓋し演劇の性質たる、彼の奇異譚に比するときは、ただに其脚色の簡略にして、かへりて情趣の密なるのみかは、別に景色の補助ありて、俳優の動止と言語に伴ひ、其趣きを写す程に、擬似の人情世態をして活動せしむる勢ひあり。況てや妙手の俳優にして、伝奇の大家の手になりたる巧妙非凡の傑作をば巧みに演戯するに於ては、一挙一動一笑一顰、宛然其物の真に逼りて、看る者をしてしらず/\其劇たるを忘失なし、あるひは笑ひあるひは泣き、ほと/\狂人のごとくならしむ。我が梨園に幸四郎、半四郎らの妙手ありて、鶴屋南北の傑作あり。もて都人士を動かせしは人のよく知る所なり。彼の奇異譚の疎漏にして、妄誕無稽、奇異荒唐、趣き浅く情至らず、且つ活動の妙乏しく、さながら死灰と一般にて、たゞいたづらに脚色のみくだ/\しきに比するときは、其差雲壌月鼈のみかは。是れ国所の差別もなく、演劇さかえて奇異譚衰ふる所以なり。

14

さもあれ、彼れも一時なり、此れも一時なり。時好の変遷と文運の発達は、いまだこゝにしもとゞまらねば、人智いま一層進むに至れば、世の人次第に華美を好みて、万の事みな其むかしに似ず、主として外観をかざるものから、其人情はかはらずとも、其外面にあらはれたる世の人々のたちゐふるまひはすぎにし時代のものに比すれば、大いに異なる由あるべし。かくて月日を経るうちには、彼の異やうなる風俗習慣いつしか世上に迹をたちて、成立たざるやう成行くのみか、人も智力の進める儘、我が情慾を抑制して、あからさまには其面にあらはさゞるやう力むべし。例へば、大いに怒りし折にも、わざと面を和らげつゝ、従容として語らふべく、または、甚だしく悲しき時にも、涙をながさぬことあるべし。人情かくのごとく変じ来りて、彼の激切なる態度容姿の漸く減少なすにいたれば、梨園子弟が劇場にて演ずる所の人情世態は、漸く時勢に適はずして、真を写すに堪へざるべし。夫れ演劇の性質たる真に逼るべきものにあらで、寧ろ真に越えつべきものなり。語を換へて之れをいへば、真物それみづからを摸擬することを其主脳とはなすにあらで、真物并びに或物を擬するを主眼となすものなり。例へば、一条の情事を演じ、一場の闘戦を摸擬するにも、真物に似ざるはもとより拙しといへども、真物に異ならざるもまた興なし。およそ文明の世にありては、人々おほむね外観をかざりて、其体裁を粧ふから、よしいかほどに恋ひこがれし我が意中人に接すればとて、雛鳥の久我に於ける如く、阿七の吉三に於ける如く、いと厚かましう打いだして情を述ぶるを得ざるべければ、其趣きを見たればとて、さまで興あるものとも思はじ。又闘戦も之れに等しく、いと味なきものなるべし。戦国の世に近かりける武断政治の比にありては、民間にすめるものと雖も、いくらか武芸を習得なし、あるひは柔術をも修めしから、不図喧嘩などなす折にも、法にかなひし手を尽して敵手と挑み戦ひけめ。故に実際の闘戦も見ておもしろき程なれば、之れに擬したる闘戦はいよ/\興の深かりけめ。 されども今の時代にては、相戦ふにも、挑みあふにも、ひたすら拳をふるふのみ、もとより法などあるべきならねば、之れを見るとも興なければ、真物のごとくに演ぜむことは、きはめて益なきのみにあらで、頗る至難の技なるべし。しかるを強ひて写真を旨として、闘戦にも情事にも、専ら真物の情態をばたゞありのまゝに演出せば、たれかあまたの貨をすてゝ、演劇を観むと望むべしや。いくらか真物に超越りて、おもしろをかしく思へばこそ人も観、かれも演ずるなれ。されば情態ふたつながら激切なりける人の目には、其情態をありのまゝに演戯にあらはし得たるをもて、演劇にてする万の事みなおもしろくも見えたるならめど、けふこのごろの人の目には、劇場にて見る万の事みな不条理と思はるれば、次第に真に反するをば罵るやからもいできつべし。さはとて真物を見るがごとく、只ありのまゝに演ずる時には、自然演劇の演劇たる所以をそこなひ、いと怪しげなるものとなるのみならず、また真に真物の如くに演ぜむとするは難かるべし。故に文華の時代となりても、拠ろなく演劇にはなほ往昔の情態を十中の八九は残しとゞめて、所謂世話物の演劇をば時代形にて演ずる事なり。例へば、一個の乙女子ありて、一好男子に邂逅して之れを見初むる折などに、手に携へたる扇子などを恍惚として取落して、他の面をのみうちまもるは、其情きはめて激切なる未開の人の情態にて、今の世の情態とはいふべからず。されども我が国の狂言作者もしくは艸冊子の作者なんども、いまなほ是等を得意として、しば/\恋慕の意を表する好標章ともなすならずや。是れしかしながら演劇もて文明時代の情態を写しいだすことのかたかるべき一つの証拠といふべきなり。

15

とかくする程に、演劇はやうやく当代の鏡と誇りて世にめでらるべき価値をうしなひ、観る人の評もしだい/\に兎角理窟論にかたぶきつつ、あるは仮鬘を用ふるをば真にそむくと罵るべく、あるは仮面を無用といひ、甚だしきは紅粉をも廃すべしなど論じつべし。
  因云。東都の落語家某かつていへらく、輓近は観劇家の評するところも、大いにいにしへとおなじからず。真物に等しく演ずるを、ひたすら奇妙とほめのゝしり、市川団十郎の扮粧の淡泊なるをば「しぶい」とたゝへ、台辞の常の言葉に似ていふべきことをも敢ていはず、思入れにあらはすをば、実に「すごい」と喜ぶなり。想ふに、数年の後にいたらば、団十郎などは数齣のあひだ楽屋の奥に昼寐をして、某といふ一主人公の病気引籠を演ずるなるべし。あるひは素顔素頭にて演劇をなすが可なりといふ輿論とならむもしるべからず。まことに奇なりと戯れしが、実におのれが所論にかなへり。

16

演劇の不利は、ひとり上にのぶる所のものゝみにあらず、別に人間の性質のうちには、演ず可らざるものあり、又演ずとも興なきものあり。故に院本の作者などは、これらのものを度外視して曾て採り用ひしことなけれど、細微に穿鑿をくだすときは、これらの性質を見えしむれば、なか/\に読者に興あるものなり。彼の浅々しき激切の性質のみを写しいだすは、見る人々も已に厭きぬ。かゝる細微の性情をもこまかに描きいだすにあらずば、世の人いかでか嬉むべき。是れ演劇に附属したる不利の第二といふべきなり。

17

演劇は早くいへば擬似なり。擬似は事物の特異性を摸擬するに巧みなりと雖も、普通の性質を摸擬するには巧みならず。譬へば癖多き俳優の声はまねるに易く、普通なるはまねがたきが如し。往昔は人の心も浅はかなるまゝに、七情のこりなく外面にあらはれ、且つ異やうなる所も多かりしゆゑに、之れを演ずるに便なりしが、世の文運の進むにつきて、事ごと物ごとに異やうなる性質は減じゆきつ。所謂「思入れ」のみにては、しつくしがたきものいと多なり。是れもまた演劇の漸く其位ゐを稗史、小説にゆづる所以とやいはまし。

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およそ小説の範囲は、演劇の範囲よりも広く、時世々々の情態をば細大となく写しいだして、ほと/\遺憾を感ぜざらしむ。譬へば演劇にては、人の性情を写しいだすに、もつぱら観者の耳に訴へ、また其眼に訴ふるがゆゑに、其場かへりて狭けれども、小説にては之れに反して、たゞちに読者の心に訴へ、その想像を促すゆゑ、其場頗る広しといふべし。演劇にては、山水草木、遠近の景色、家屋調度の位置、あるひは画をもて之れを示し、あるひは道具をもて之れをあらはす。其他雷電風雨のたぐひも、総じて器械のしかけによりて、観者の視聴の官にうつたふ。小説にては、これらの事をも悉皆美妙の文にものして、読者の心の眼に訴ふ。さるからに、小説にては読者の想像の精疎によりて得るところの興おのづから異なり。あるは文外の佳境に入り、あるは文面のみの佳境に入る。
  因云。英の小説大家ウォーター・スコット翁の小説などには、殊に細密なる記文多かり。ある強賊の巣窟なりける洞窟のさまを記すにあたりて、翁はことさらに家をいでていにしヘ賊の住みきといふある洞窟におもむきつゝ、仔細に其四下を観察し、且つ其あたりに咲き出たる種々さま%\なる草花をば残る所なく観察して、之れを備忘録にかきとゞめつ。さて帰りてのち、其さまをば、見るがごとくに写しいだして、物語の地となせしことあり。かゝる細微の景色を写すは、寔に興ある事なれども、こは是れ小説の長所にして、他の演劇の道具をもてして表し得がたき事なりかし。

19

是れまた演劇の小説、稗史に劣る所以の不便にして、すなはち第三の不利なりけり。尚ほ此外にも、演劇には一箇の重大なる不便利あり。脚色の不便すなはち是れなり。演劇にては万の事みなもつぱら眼に訴ふるを其本性ともなすことゆゑ、前の齣にて見えたる事件と、後の齣にて演ずる事件といくらか脈絡相通じて因縁あきらかならざるべからず。殊に悲壮体の演劇にては、其結局の悲話の如きは、是非とも前の齣なりける因縁よりして来れるものと作りなすをば必要とはなすことなり。結局の悲話とはいかなるものぞといふに、そは先づ悲壮体演劇を十分会得なさゞるときは其性質を知りがたからむ。悲壮体の伝奇小説もとより我が国にも多くあれども、其実ありて其名なければ、是非なく二三の例をあげて、妥に解釈を下しつべし。例へば、ちかごろ新富座にて団十郎らが演じたりし「真田の張抜筒」とかいへるものは、すなはち悲壮体の演劇なり。其他「山門五三の桐」もしくは「幡随院長兵衛」の劇の如きは皆此類の物といふべし。之れを要するに、其演劇の本尊すなはち主人公が其結局の齣に至りて、はかなき最期を遂ぐるといふ、いと浅ましく悲しげなる趣向を旨となすものなり。其最期にも、しな%\なり。或ひは自刃に終るものあり、或ひは殺されて死するものあり。刑場の露と消ゆる強盗もあれば、情死してをはる男女もあるべし。此主人公の最期の段をば、すなはち結局の悲話とはいふなり。此結局の悲話なるもの若し前段に関係なき不慮偶然の事ならむ歟、見る者さながら手に持ちたる物を取られし心地をして、其興情の何とやらむ索然たるをば覚えつべし。小説にては之れに反して、かゝる偶然の事変をもて主公の最後を示すときは、其事の不可思議なるが為に、かへりて佳境を覚ゆることあり。蓋し人生の浮沈栄枯は因ありて成るも多けれども、また偶然の事に成れるも頗る小少ならざればなり。この事につきては尚ほ論ずべきことあれども、脚色論の部にゆづりて、こゝには筆をはぶくものなり。さればこそシルレルがかつて演劇の脚色を論じて、演劇は局を結果に結ぶべし、偶然の事をして其団円とはなすべからずといはれけん。まことに当然の言といふべし。

20

小説の演劇に優ること已にかくの如しといへども、唯々人心を感ぜしむる力に至りては演劇の力に及ぶべうもあらず。蓋し想像と目撃とは其感触の度元来おなじからざればなり。この故をもて小説を貶さむとするは、猶ほ些瑕あるをもて美玉を瓦礫の下に列せむとするがごとし。豈にあげつらふに及ぶことならむや。

21

さてかくの如き進化を経て、小説おのづから世にあらはれ、またおのづから重んぜらる。是れしかしながら優勝劣敗、自然淘汰の然らしむる所、まことに抗しがたき勢ひといふべし。マコーレイ氏かつて美術を論じて、世の開明に進むにしたがひ美術の次第に衰ふるは天の数なりといはれたりき。げに道理なる議論なれども、こは上世より成立たる美術の上にのみいふべきことにて、十九世紀のこのごろよりやゝ美術壇になりたちたる小説の上にはいふべうもあらず。又マコーレイは詩を論じて、その衰頽する所以をしも丁寧反復して論ぜられしが、其論はマコーレイの「ミルトン論」にあり。是れなかなかに小説、稗史の今より次第に栄えつべき確たる理由となることなり。其故はいかにといふに、已に前にも述べたる如く詩は奇異譚の本元(ほんもと)にして、詩と奇異譚とは同質なり。かゝれば奇異譚の衰ふるも、詩の漸々に衰ふるも、其原因の所在をさぐらば、十の八九は同様なる原因なること疑ひなし。もし我が所謂小説にしてよく奇異譚に立ちかはりて世に愛でらるゝの質ありなば、亦たよく詩歌に立ちかはりて美術の壇上に列しつべき器量あるべきはずならむかし。

22

嗚呼、マコーレイ氏の言をもて信なりとせむ歟、従来の美術の次第におとろへ、英国の文華を以ても、また、ミルトンをいださゞるべく、伊太利国の高雅なるも、またワ゛ージルをいださゞるべし。ひとり小説てふ美術に於ては、望み将来に極めて大なり。スコットやリットンやヂウマやエリオットや、近代名家多しといへども、力めて之れに駕せむとせば、決して至難なりといふべからず。嗚呼我が文壇の才人、雅客、いたづらに馬琴を本尊とし、あるひは春水に心酔し、あるひは種彦を師とし崇めて其糟粕をばなむることなく、断乎として陳套手段を脱し、我が物語を改良し、美術壇上に列しつべき一大傑作を編み給へ。


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