小説神髄

 緒言

                   坪内逍遙

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盛んなるかな我が国に物語類の行はるゝや。遠くしては『源氏』、『狭衣』、『浜松』、『住吉』あり、降りては一条禪閤の戯作類を初めとして、小野の阿通の『浄瑠璃十二段』等あり。近くしては西鶴、其笑、風来、京伝のともがら前後物語をかき表はして虚名を一世に博してより、小説ます/\世に行はれて、世の狂才ある操觚者流は皆争うて稗史をあらはし、或ひは滑稽洒落なる三馬、一九の亜流あれば、人情本に名を残せる春水其人の如きもあり。種彦は『田舎源氏』に其名をとゞろかし、馬琴は『八犬伝』に誉をとゞめぬ。しかるに革新の変あるに際して、戯作者暫く跡を断ちて小説したがつて衰へしが、けふ此頃に至るに及びて、また/\大いに復興して、物語のいづべき時とやなりけむ、こゝかしこにてさま%\なる稗史、物語を出版して新奇を競ふこととはなりけり。甚だしきに至りては新聞、雑誌のたぐひにすら、いと陳腐しき小説をば翻案しつゝ載るもあり。勢ひ斯くのごとくなれば今我が国に行はるゝ小説、稗史は其類、其数幾千万とも限りをしらず、汗牛充棟なんどと言はむはなか/\におろかなるばかりになむ。想ふに我が国にて小説の行はるゝ、此明治の聖代をもつて古今未曾有といふべきなり。徳川氏の末路に当りて馬琴、種彦等輩出してしきりに物語を作りしかば、小説盛んに行はれて都鄙の老若男女を選ばず、皆あらそふて稗史をひもどきめでくつがへりもてはやせしかど、なほ今日に比するときは及ばざること遠かるべし。其故はそもいかにといはむに、文化、文政の頃にありては読者もいくらか贅沢にて、たゞ秀逸なる著作をのみあがなひもとめて読たるからに、他の拙劣なる小説、稗史は自然に優者に圧せられて世に行はるゝことをば得ず、むなしく原稿のまゝにて終り、もしくは板木にのぼりし後にも紙魚の餌食となるもの多くて、世にあらはれしは稀れなるから、其類、其数現今に比すれば幾分か少かりけむか。然るに今日は之れに異なり。小説といひ稗史とだにいへば、いかなる拙劣き物語にても、いかなる鄙俚げなる情史にても、翻案にても、翻訳にても、翻刻にても、新著にても、玉石を問はず、優劣を選ばず、みなおなじさまにもてはやされ、世に行はるゝは妙ならずや。実に小説全盛の未曾有の時代といふべきなり。されば戯作者といはるゝ輩も極めて小少ならざれども、おほかたは皆翻案家にして、作者をもつて見るべきものはいまだ一人だもあらざるなり。故に近来刊行せる小説、稗史はこれもかれも、馬琴、種彦の糟粕ならずば一九、春水の贋物多かり。蓋しこのあひだの戯作者流はひたすら李笠の語を師として意を勧懲に発するをば小説、枠史の主脳とこゝろえ、道徳といふ模型を造りて、力めて脚色を其内にて工夫なさまく欲するからに、強ち古人の糟粕をば嘗めむとするにはあらざめれど、もと其範囲広からねば、覚えず同轍同趣向の稗史をものするものなるべし。是れ豈に遺憾ならざらむや。さはあれ斯やうになりもて来るも、其罪偏へに拙劣なる作者の上にありといはむ歟。否、活眼なき四方の読者またあづかりて力あるなり。其故はいかにとなれば、古来我が国のならはしとして、小説をもて教育の一方便のやうに思ひて、しきりに奨誡勧善をば其主眼なりと唱へながら、なほ実際の場合に於てはひたすら殺伐惨酷なる、若しくは頗る猥褻なる物語をのみめでよろこび、他のかたくるしき筋の事は、目を住めてだに見る人稀れなり。併して作者の見識なき、総じて輿論の奴隷にして流行の大ならざるなければ、競うて時好に媚むとして、彼の残忍なる稗史をあみ彼の陋猥なる情史を綴り、世の流行にしたがふものから、勧善といふおもむきの名義もさすがに抛棄がたさに、しひて勧善の主旨を加へて人情をまげ、世態をたわめて、無理なる脚色をなすことなりけり。此に於てか拙劣なる趣向はます/\拙くして、大人、学者の眼を以てはほと/\読むに堪へがたかり。是れ併しながら、作者もたゞいたづらに稗史を弄して、真の稗史の主眼をさとらず、彼の謬妄なる旧慣をむなしく墨守なすに因れるのみ。豈に笑ふべきの極ならずや。否、をしむべきの限りならずや。おのれ幼稚より稗史を嗜みて、いとまある毎に稗史を閲して、貴き光陰を浪費すこと已に十餘年に及びにたれば、流石に古今の稗史に関して看得たる所も少からず、且また稗史の真成の主眼は果して何等の辺にあるやも稍々会得しぬと信ずるから、いと嗚呼がましき所為とは思へど、敢て持論を世に示して、まづ看官の惑を解き、兼ては作者の蒙を啓きて、我が小説の改良進歩を今より次第に企図てつゝ、竟には欧土の小説を凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我が物語を見まくほりす。希ふは四方の学者、才人、わが庸劣を咎めたまはで、わが熱衷と論旨をめでて、熟読含味せられもせば、是れ豈におのれが幸福のみかは、我が文壇の幸なるべし。あなかしこ。

明治十八年といふとしの三月のはじめつかた
春のやの南窓に筆をはしらして
              逍遥遊人しるす


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