『マクベス評釈』の緒言

                    坪内逍遙

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シェークスピヤが脚本と称せられたるうち、確かに彼れが作と定まれるもの、およそ三十六篇に余れり。一千五百八十八年作者二十四歳の時より一千六百十三年までの作なり。作者は一千五百六十四年に生まれて、同六百十六年に五十二歳にてみまかりぬれば、絶筆は四十八九歳の時なりしならん。すなはちシェークスピヤが著作の時期は、およそ二十五年なり。そを、彼が作に現はれたる伎倆、結構、着想等の異同を元として大別すれば、四期となる。第一期は彼れが修行期ともいふべき時にて、即ち諷刺詼謔を主としたる喜劇と、「ロミオ・エンド・ジュリエット」の悲劇とを作りし時代なり。第二期は史劇と快活なる喜劇とを作りし時代、第三期は深刻なる悲劇と表は快活にして裏は厳酷なる喜劇とを作りし時代、而して第四期は沈静厳粛にして、しかも優美爽快なる悲喜混交の劇を作りし時代なり。シェークスピヤの著作は此の四期に於て著き異同あり。着想の優劣はいふまでもなく、伎倆、結構にも著き差違あり。此の故に、シェークスピヤを知らんとせば、尠くとも、此の四期に就きて、おの/\三篇づつは読まざるを得ず。例へば、第一期の代表としては、彼れが処女作とみづから称せし「ヰ゛ーナス・エンド・アドーニス」といふ叙事の詩、兼ねては「ロミオ・エンド・ジュリエット」など、第二期の代表としては「キング・ジョン」、「ヘンリー四世」、「リチャード三世」など。又(並に)「マルチャント・オブ・ヱ゛ニス」など。第三期の代表には、所謂四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「リーヤ」、「オセロー」など。第四期の代表には「テムペスト」・「ウィンタース・テール」など。但し是れは只予が卑見によりて選りいでたるのみ。選択は人々の見る所によりて異なるべし。

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シェークスピヤ研究の方法よりいへば、第一期、第二期と順序を追うて評釈するかた穏当なるべけれど、思ふ由あれば、態と第三期の作よりはじむべし。其の故は、第一期の作には、語呂、口合等多ければ解釈すればとて、英語を知らぬ人には、到底会得せらるまじき故なり。而して此の註釈は英語を知らぬ人にも、多少の参考になれかしとてするなれば、予が本意にたがへり。さて又第二期の作も、喜劇を置きていへば、英国史に疏き人には、興味甚だ深からず。且つは歴史上の管々しき註釈を加へんもうるさし。加之、伎倆も、着想も、第三期のに劣りたり。所詮、本釈の主旨は、シェークスピヤの本体のあらましを、普く邦人に知らせんといふにあれば、先づ傑れたるを取るかた至当なるべしとて、終に四大悲劇の随一なる「マクベス」劇をえらぶことゝしたり。

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或ひは大体を知らせんとならば、管々しき註釈よりは、■〔糸へんに眞〕密厳正なる翻訳を掲ぐるかた優れりといふ人もあるべけれど、そは予の如き■〔言べんに剪〕才不文のものゝ企及すべきことにあらず。此の故に、予は主に原文の字句を追うて、意義を解釈することに力め、必ずしも詞美を伝へんとせざるべし。読者もし真にシェークスピヤの詞美を知らんとせば、原文に直接して会得せよ。予は只、語義を明かにするのみをもて甘んずべし。

4

評釈といふにも二法ありて、有りの儘に字義、語格等を評釈して、修辞上に及ぶも一法なり。作者の本意もしくは作に見えたる理想を発揮して、批判評論するも評釈なるべし。予はじめは「マクベス」を義訳して、専ら第二の評釈の法を取らばやと思ひたりしが、又感ずることありて、むしろ第一義の評釈のかたを取るべしと決しぬ。其の故如何といふに、第二義の評釈、即ち「インタープリテーション」は若し見識高き人に成れる時は、読みて頗る感深く、益もあるべけれど、識卑き人の手に成れる時は徒らに猫を解釈して虎の如くに言ひ做し、迂濶なる読者をして、あらぬ誤解に陥らしむる恐れあり。二はシェークスピヤの作の甚だ自然に似たるより生ずることなり。此の点は大切の事なれば、いはでもの論に似たれど、左に少しく弁じ置くべし。

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予がシェークスピヤの作を甚だ自然に似たりといふは、彼れが描ける事件、人物が、実際のに同じとにはあらず。彼れが作は読む者の心々にて、如何やうにも解釈せらるゝことの酷だ造化に肖たるをいふなり。人々試みに自然といふものを観よ。心を虚平にて観れば、自然は只々自然にして、善悪のいづれにも偏りたりとは見えず。固より意地わるき継母の如きものとも見えねば、慈母とも見えず。然るに、数奇失意の人は造化を怨み、自然を憤りて、此の世を穢土と罵り、苦界と非るなり。さて又得意の人は、之れに反して、造化を情深き慈母のやうに思ひて、此の世を楽園とも思へり。畢竟、人々の思ひ做し次第にて、苦とも楽とも見らるゝが自然の本相なり。此の故に、造化の作用を解釈するに、彼の宿命教の旨をもてするも解し得べく、又耶蘇教の旨をもてするも解し得べし。其の他、老、荘、揚、墨、儒、仏、若しくは古今東西の哲学が思ひ/\の見解も、之れを造化にあてはめて強ちに当たらざるにあらず。否、造化といふものは、是等無数の解釈を悉く容れても余りあるなり。

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まことに茫として際なき造化の法相なりと評すべし。祇園精舎の鐘の声、浮屠氏は聞きて寂滅為楽の響なりといへれど、待宵には情人が何と聞くらん。沙羅双樹の花の色、厭世の目には諸行無常の形とも見ゆらんが、愁ひを知らぬ乙女は、如何さまに眺むらん。要するに、造化の本意は人未だ之れを得知らず、唯々己に愁ひの心ありて秋の哀れを知り、前に其の心楽しくして春の花鳥を楽しと見るのみ。造化の本体は無心なるべし。さてシェークスピヤの傑作は、頗る此の造化に似たり。上は審美の見識に富みたる学者より、下は一知半解の者までも、彼の作をもてはやすは、一つは故人が激賞したるを伝へきゝて、雷同附加するにも因るならめど、一つは、彼の作、度量甚だ広くして、能く衆嗜好を容るゝこと、猶ほ自然の風光の万人を娯ましむるが如きに原くならん。バイロン、スヰフトなどの作の、或人に喜ばれて、他の人に嫌はるゝとは、大いなる相違なり。

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否、たゞ衆嗜好を容るゝばかりかは。彼れが傑作は殆ど万般の理想をも容れて余りあるに似たり。是れ最も造化の本性に似たる所なり。彼れが作に関しての先輩の評論、解釈、今は百を以て算ふべし、而も其の見解はおの/\多少相背馳し、甚だしきに至りてはハムレットの人物論の如き、■〔木へんに内〕鑿相容れざるものあり。蓋し造化の捕捉して解釈しがたきが如く、彼が作の変幻窮りなくして一定の形なく、思ひ做し次第にて、黒白紫黄、いかさまにも解せらるゝが故なるべし。此の故にジョンスン、コールリッヂ以来、シェークスピヤの作を評して自然の二字を用ひざりし者は稀れなり。予嘗てドラマの本体を底知らぬ湖に喩へしことありしが、近ごろダウデン氏の論文を見れば、シェークスピヤとゲーテとを大洋に比したるがあり。趣きはやゝ異なれども同じ理に帰着すべしと信ぜらる。所詮、シェークスピヤは、仮令カーライルが評せし如く、一意「地球座」の劇場へ看者を牽かんとて筆を執りきとするも、其の看者を牽くの手段、自然詩人の本領に合ひて、俗文士が阿世の手段とは異なりたりしならん。或ひは彼れは、衆人心を娯しません為には直ちに、人間の本相を描破するに如かずと冥識し、必ずしも一時に媚びず、天稟の詩眼によく人間を観破し、不偏公平の筆をもて、自然の有りのまゝを描きたりしならんか。

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案ずるにシェークスピヤは我が近松門左衛門の大いなるものか。指頭大の明玉と拳大の明玉、二者の差は度にありて質にはあらざらん。たとひ其の質にも差等ありとするも、双つながら自然の宝石にして、人間の作為せしものにあらざらん。自然の宝石なればこそ、能く自然の霊光を放ちて、野人をも駭かし、婦女子をも駭かし、卞和をも駭かすなるべけれ、しかしながら、之れをもてあがめて城にも代ふべしと価づけたるは、人間の好事、贅沢がしたことにて、元をたゞせば徒の奇石なり。色々に値上げするは人間の好尚が嵩じてのわざなれば、或意味にていはゞ、買ひ冠りなること勿論なるべし。 更に喩へて言へば、シェークスピヤの作は無心無情の鏡の如し。其の作には何人の面も映るなり。明かにいへば、如何なる読者の理想も其の影を其の中に見出だすことを得べし。されば、ゲルヰ゛ーナスも、其の理想をシェークスピヤの作中に発見し、ウルリーチーも、其の理想を同じ作中に発見し、バックニルも、モールトンも、ハドスンも、ダウデンも、各々我が影をかしこに見いだし、シェークスピヤばかり高尚なる理想を詩中に描けるは絶えて無し、とめでくつがへりて驚歎するなれ。げにや、シェークスピヤは空前絶後の大詩人ならん。其の造化に似て際涯無く、其の大洋に似て広く深く、其の底知らぬ湖の如く、普く衆理想を容るゝ所は、まことに空前絶後なるべし。

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しかしながら、斯くの如きは、其の作に理想の見えざるが故にあらぬか。これのみの理由によりて理想高大なりといふは信けがたし。予ひそかに此の点を疑ひ、嘗て近松の世話物を取りて、をさ/\先輩の批評法に傚ひて、分析解剖を試みしに「天の網島」、「油地獄」さては「恋飛脚」、「伊達染手綱」など、いづれも予が小理想を包容して余れる所尚ほ綽々たり。当年の予が解によれば、「天の網島」の理想は、「ロミオ・エンド・ジュリエット」と兄弟の間にありて、更に可笑しき「油の地獄」の解は、ほと/\或理想家が釈したる「テムペスト」の理想をも凌がんとせり。勿論、こは理想の上のみの解なり。美術家としての伎倆の上には、其のころの予とても、二者を同じさまには見ざりしなり。これによりて案ずるに、近松もしエリザベス時代に生れて、英文にて世話物を書き残し、ニコラス・ロー出でて、そが伝を調べ、ジョンスン・ポープいでて、そが作を再版し、解釈し、称讃し、コールリッヂ、ハズリツトいでて、批判し、激賞し、マロン、ワーバートンらいでて評註し、近松研究会成りて、称讃し、アボット、シュミットらいでて、文典、字彙を作り、レッシング、ゲーテいでて、更に尊く、仏に、独に、米に、魯に、近松をもてはやすもの増加するに至りなば、たとひシェークスピヤに及ばずとするも、是等多人数の功力にても我が国の浄瑠璃作者にて終らんよりは、はるかにまさりたる位置に上りつらんかし。其の故は、近松の世話物も、シェークスピヤの作に似て、頗る自然に肖たればなり。斯くいへばとて、シェークスピヤを貶して、浄瑠璃作者の亜流なりといふにはあらず。彼れが作は平凡の石ならずといふにあらず。非凡の宝石たることは争ふ可からざる事実なれども、只々其の値段附けは、人々の心々なれば、古人の理解を聞きて正に其の通りと思ふがその愚かなるをいふのみ。

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若しシェークスピヤを称美せんとせば、其の人間の性情を活動せしむる伎倆を賞するは固より可かるべく、其の比喩の妙、其の想像の妙、其の着想の妙、これをほめて空前といふも可く、絶後といふも可かるべし、唯々其の理想をほめて、大哲学の如く高しといふは信け難し。むしろ其の没理想なるをたゝふべきのみ。然るに、有と無とは二にして一ならざればにや、古人多くは没理想の作を、やがて大理想と解釈して、其の作者を神の如く、聖人の如く、また至人の如く評したるものあれど、没理想必ずしも大理想なるにはあらず、小理想もまた没理想と見ゆることあり。嬰児の慾の極めて小なる是れ有慾とも見るべく、無慾とも見るべし、鬼貫か一句、「なんで秋の来たとも見えず心から」此の十七字、強ひて解釈の辞を作らば、或ひは仏教をも掩ふべく、或ひは東西哲学の幾体系をも埋むべし。木内宗吾が一時の義挙も、若し花々しきマコーレーが筆を借りて伝を作らば、ハムデン、ウォシントンの輩のと肩を比ぶる義挙ともなりなん。

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畢竟ずるに、鬼貫ら俳人の作には、当人の註釈無く、木内宗吾の義挙には詳伝無く、嬰児の口には言語無きゆゑ解釈見る者の心次第なり。恐らくはシェークスピヤと雖も、若し散文にて悲劇を綴らば、悉しくいへば、小説の体にて綴りしならば、幾段か値段を下しゝなるべし。 其の叙事の中に、おのが理想のあらはるゝことを避けがたかるべきが故なり。例へば、「キング・リーヤ」の悲劇は、馬琴の作に似て、勧懲の旨意いといちじるく見えたれども、作者みづからが評論の詞絶えて篇中に無きが故に、見るものの理想次第にて、強ち勧懲の作と見做すを要せず。別に解釈を加ふること自在なり。しかるに、曲亭の作を見れば、例へば、蟇六夫婦の性格の如き、頗る自然に肖て活動したれども、吾人はこを没理想とは評せずして、勧懲の旨に成れりといふ。作者が叙事の間に明かに然いへればなり。芭蕉が「古池」の句に、様々の解あるも同理なるべく、「源語」の本意をいろ/\に臆断するも、同理なるべし。

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此の例証尚ほ甚だ不足なれども、没理想の必ずしも大理想にあらざることゝ、小理想の時としては没理想とも見ゆる由は、之れにてほゞ知らるべし。兎に角に、予は没理想の作を理想をもて評釈することのいと/\要なかるべきを信ずるが故に、此のたびの評釈にては、主として打見たる儘の趣きを描写することを力め、我が一料簡の解釈をば加へざるべし。但し右とも左とも見らるゝ如き場合には、止むを得で故人の評釈をも引用し、予が卑見をも抒ぶることあらん。若し夫れ全体の解釈は、読者みづから之れをなせ。理想、日本大ならん人は、日本国を「マクベス」の脚本中に見だすべく、理想、宇宙大ならんは、宇宙を「マクベス」の中に見出だすべく、理想万古に亘らんは、eternityを「マクペス」の中に見出だすべし。没理想の詩の無限の興味は実に其の度量の大洋の如き所にあるなり。

明治二十四年十月



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