九たび歌よみに与ふる書

明治三十一年 三月三日  正岡子規


一々に論ぜんもうるさければ只々二三を挙げ置きて金槐集以外に遷り候べく候。

  山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも

  箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

  世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも

  大海のいそもとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

箱根路の歌極めて面白けれども斯る想は古今に通じたる想なれば実朝が之を作りたりとて驚くにも足らず、只々「世の中は」の歌の如く古意古調なる者が万葉以後に於てしかも華麗を競ひたる新古今時代に於て作られたる技倆には驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。

新古今に移りて二三首を挙げんに

  なこの海の霞のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白波 (実定)

此歌の如く客観的に景色を善く写したるものは新古今以前にはあらざるべく、これらも此集の特色として、見るべき者に候。惜むらくは「霞のまより」といふ句が瑾にて候。一面にたなびきたる霞に間といふも可笑しく、縦し間ありともそれは此の趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。

  ほの%\と有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風 (信明)

これも客観的の歌にてけしきも淋しく艶なるに語を畳みかけて調子取りたる処いとめづらかに覚え候。

  さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵を並べん冬の山里 (西行)

西行の心はこの歌に現れ居候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいふ露骨的の歌が世にもてはやされて此歌などは却て知る人少きも口惜く候。庵を並べんといふが如き斬新にして趣味ある趣向は西行ならでは得言はざるべく、特に「冬の」と置きたるも亦尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が新に俳諧を興せしも寂は「庵を並べん」などより悟入し、季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思候。
  閨の上にかたえさしおほひ外面なる葉広柏に霰ふるなり (能因)

これも客観的の歌に候。上三句複雑なる趣を現さんとて稍々混雑に陥りたれど葉広柏に霰のはじく趣は極めて面白く候。

  岡の辺の里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風 (慈円)

趣味ありて句法もしつかりと致し居候。此種の歌の第四句を「答へで」などいふが如く下に連続する句法となさば何の面白味も無之候。

  さゞ波や比良山風の海吹けば釣する蜑の袖かへる見ゆ (読人しらず)

実景を其儘に写し些の巧を弄ばぬ所却て興多く候。

  神風や玉串の葉をとりかざし内外の宮に君をこそ祈れ (俊恵)

神祇の歌といへば千代の八千代のと定文句を並ぶるが常なるに此歌はすつぱりと言ひはなしたる、なか/\に神の御心にかなふべく覚え候。句のしまりたる所、半ば客観的に叙したる所など注意すべく、神風やの五字も訳なきやうなれど極めて善く響き居候。

  阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ (伝教)

いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、此歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なれば左迄口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらにもあらざるべけれど、此所はことさらにも九字位にする必要有之、若し七字句などを以て止めたらんには上の十字句に対して釣合取れ不申候。初めの方に字余りの句あるがために後にも字余りの句を置かねばならぬ場合は屡々有之候。若し字余りの句は一句にても少きが善しなどいふ人は字余りの趣味を解せざるものにや候べき。

(明治三十一年三月三日)




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