八たび歌よみに与ふる書
悪き歌の例を前に挙げたれば善き歌の例をこゝに挙げ可申候。悪き歌といひ善き歌といふも四つや五つばかりを挙げたりとて愚意を尽すべくも候はねど、無きには勝りてんと聊か列ね申候。先づ金槐和歌集などより始め申さんか。
武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原
といふ歌は万口一斉に歎賞するやうに聞き候へば今更取り出でていはでもの事ながら、猶御気のつかれざる事もやと存候まゝ一応申上候。此歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく、又此の如き趣向が和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく、又此歌が強き歌なる事も分り居り候へども、此種の句法が殆ど此歌に限る程の特色を為し居るとは知らぬ人ぞ多く候べき。普通に歌はなり、けり、らん、かな、けれ抔の如き助辞を以て斡旋せらるゝにて名詞の少きが常なるに、此歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最短き形)居候。此の如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。新古今の中には材料の充実したる、句法の緊密なる、稍々此歌に以たる者あれど、猶此歌の如くは語々活動せざるを覚え候。万葉の歌は材料極めて少く簡単を以て勝る者、実朝一方には此万葉を擬し一方には此の如く破天荒の歌を為す。
其力量に測るべからざる者有之候。又晴を祈る歌に
時によりすぐれは民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ
といふがあり、恐らくは世人の好まざる所と存候へども、こは生の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。此の如く勢強き恐ろしき歌はまたと有之間敷、八大龍王を叱咤する処、龍王も懾伏致すべき勢相現れ申候。八大龍王と八字の漢語を用ゐたる処、雨やめたまへと四三の調を用ゐたる処、皆此歌の勢を強めたる所にて候。初三句は極めて拙き句なれども其一直線に言ひ下して拙き処、却て其真率偽りなきを示して祈晴の歌などには最も適当致居候。実朝は固より善き歌作らんとて之を作りしにもあらざるべく、只々真心より詠み出でたらんがなか/\に善き歌とは相成り候ひしやらん。こゝらは手のさきの器用を弄し言葉のあやつりにのみ拘る歌よみどもの思ひ至らぬ所に候。三句切の事は猶他日詳に可申候へども、三句切の歌にぶつゝかり候故一言致置候。三句切の歌詠むべからずといふは守株の論にて論ずるに足らず候へ共、三句切の歌は尻軽くなるの弊有之候。此弊を救ふために下二の内を字余りにする事屡々有之、此歌も其一にて(前に挙げたる大江千里の月見ればの歌も此例、尚其外にも数へ尽すべからず)候。此歌の如く下を字余りにする時は三句切にしたる方却りて勢強く相成申候。取りも直さず此歌は三句切の必要を示したる者に有之候。又
物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
の如き何も別にめづらしき趣向もなく候へども、一気呵成の処却て真心を現して余りあり候。序に字余りの事一寸申候、此歌は第五句字余り故に面白く候。或る人は字余りとは余儀なくする者と心得候へどもさにあらず、字余りには凡三種あり、第一、字余りにしたるがために面白き者、第二、字余りにしたるがため悪き者、第三、字余りにするともせずとも可なる者と相分れ申候。其中にも此歌は字余りにしたるがため面白き者に有之候。若し「思ふ」といふをつめて「もふ」など吟じ候はんには興味索然と致し候。こゝは必ず八字に読むべきにて候。又此歌の最後の句にのみ力を人れて「親の子を思ふ」とつめしは情の切なるを現す者にて、若し「親の」の語を第四句に入れ最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」など致し候はゞ例のやさしき調となりて切なる情は現れ不申、従って平凡なる歌と相成可申候。歌よみは古来助辞を濫用致し候様、宋人の虚字を用ゐて弱き詩を作ると一般に御座候。実朝の如きは実に千古の一人と存候。
前日来生は客観詩をのみ取る者と誤解被致候ひしも、其の然らざるは此の例にて相分り可申、那須の歌は純客観、後の二首は純主観にて共に愛誦する所に有之候。併し此の三首ばかりにては強き方に偏し居候へば或は又強き歌をのみ好むかと被考候はん。尚多少の例歌を挙ぐるを御待可被下候。
(明治三十一年三月一日)
■使用したテキストファイル
入力者:網迫(あみざこ)さん
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4728/index.html
■Web文書化
行間処理(行間180%)
段落処理(形式段落ごとに<P>タグ追加、段落冒頭の一字下げを一行下げに変更)
変更作業:里見福太朗
変更終了:平成14年8月