五たび歌よみに与ふる書

明治三十一年 二月二十三日  正岡子規


  心あてに見し白雲は麓にて思はぬ空に晴るゝ不尽の嶺

といふは春海のなりしやに覚え候。これは不尽の裾より見上げし時の即興なるべく、生も実際に斯く感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが、今見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語如何や、心あてに見し処は少くも半腹位の高さなるべきを、それを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、只心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ処に候。第三、不尽の高く壮なる様を詠まんとならば今少し力強き歌ならざるべからず、此の歌姿弱くして到底不尽に副ひ申さず候。几董の俳句に「晴るゝ日や雲を貫く雪の不尽」といふがあり、極めて尋常に叙し去りたれども不尽の趣は却て善く現れ申候。

  もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり

契沖の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、此歌の品下りたる事は稍々心ある人は承知致居事と存候。此歌の伝称せらるゝはいふ迄も無く八重一重の掛合にあるべけれども、余の攻撃点も亦此処に外ならず、総じて同一の歌にて極めてほめる処と他の人の極めて誹る処とは同じ点に存る者に候。八重霞といふもの固より八段に分れて霞みたるにあらねば一重といふこと一向に利き不申、又初に「藻汐焼く」と置きし故後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたる処いよ/\俗に堕ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐焚く煙のなびく由尋常に詠まば、つまらぬ迄も厭味は出来申間敷候。

  心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

此躬恒の歌百人一首にあれは誰も口ずさみ候へども一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。此歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候。趣向嘘なれば趣も糸瓜も有之不申、蓋しそれはつまらぬ嘘なるが故につまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例えば「鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。窮恒のは瑣細な事を矢鱈に仰山に述べたのみなれば無趣味なれども、家持のは全く無い事を空想で現はして見せたる故面白く被感候。嘘を詠むなら全く無い事、とてつもなき嘘を詠むベし、然らざれば有の儘に正直に詠むが宜しく候。雀が舌を剪られたとか、狸が婆に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと真面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて楽む歌よみが多く候へども是等も面白からぬ嘘に候。総て嘘といふものは一二度は善けれど、たび/\詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。況して面白からぬ嘘はいふ迄も無く候。「露の音」「月の匂」「風の色」などは最早十分なれば今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、桜などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。

  春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るゝ

「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労さ加減は恐れ入つた者なれど、これも此頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめに被成ては如何や。闇の梅に限らず普通の香も古今集だけにて十余りもあり、それより今日迄の代々の歌よみがよみし悔の香はおびたゞしく数へられもせぬ程なるに、これも善い加減に打ちとめて香水香料に御用ゐ被成候は格別、其外歌には一切之を入れぬ事とし、鼻つまりの歌人と嘲らるゝ程に御遠ざけ被成ては如何や。小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。

(明治三十一年二月二十三日)




■使用したテキストファイル
入力者:網迫(あみざこ)さん
      http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4728/index.html
■Web文書化
  行間処理(行間180%)
  段落処理(形式段落ごとに<P>タグ追加、段落冒頭の一字下げを一行下げに変更)
変更作業:里見福太朗
変更終了:平成14年8月