三たび歌よみに与ふる書

明治二十一年二月十八日  正岡子規


前略。歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候。歌よみのいふ事を聞き候へば和歌程善き者は他に無き由いつでも誇り申候へども、歌よみは歌より外の者は何も知らぬ故に歌が一番善きやうに自惚候次第に有之候。彼等は歌に最も近き俳句すら少しも解せず、十七字でさへあれは川柳も俳句も同じと思ふ程の、のんきさ加滅なれば、況して支那の詩を研究するでも無く、西洋には詩といふものが有るやら無いやらそれも分らぬ文盲浅学、況して小説や院本も和歌と同じく文学といふ者に属すと聞かば定めて目を剥いて驚き可申候。斯く申さば讒謗罵詈礼を知らぬしれ者と思ふ人もあるべけれど実際なれば致方無之候。若し生の言が誤れりと思さば所謂歌よみの中より只の一人にても俳句を解する人を御指名可被下候。生は歌よみに向ひて何の恨も持たぬに斯く罵詈がましき言を放たねばならぬやうに相成候心の程御察被下度候。

歌を一番善いと申すは固より理窟も無き事にて一番善い訳は毫も無之候。俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり、戯曲院本には戯曲院本の長所あり、其長所は固より和歌の及ぶ所にあらず候。理窟は別とした処で一体歌よみは和歌を一番善い者と考へた上でどうする積りにや、歌が一番善い者ならばどうでもかうでも上手でも下手でも三十一文字並べさへすりや天下第一の者であつて、秀逸と称せらるゝ俳句にも漢詩にも洋詩にも優りたる者と思ひ候者にや、其量見が聞きたく候。最も下手な歌も最も善き俳句漢詩等に優り候程ならば誰も俳句漢詩等に骨折る馬鹿はあるまじく候。若し又俳句漢詩等にも和歌より善き者あり、和歌にも俳句漢詩等より悪き者ありといふならば和歌はかりが一番善きにてもあるまじく候。歌よみの浅見には今更のやうに呆れ申候、

俳句には調が無くて和歌には調がある、故に和歌は俳句に勝れりとある人は申し候。これは強ち一人の論では無く歌よみ仲間には箇様な説を抱く者多き事と存候。歌よみどもはいたく調といふ事を誤解致居候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑な様を歌ふにはなだらかなる長き調を用ふべく、悲哀とか慷慨とかにて情の迫りたる時、又は天然にても人事にても景象の活動甚だしく変化の急なる時、之を歌ふには迫りたる短き調を用ふべきは論ずる迄も無く候。然るに歌よみは調は総てなだらかなる者とのみ心得候と相児え申候。斯る誤を来すも畢竟従来の和歌がなだらかなる調子のみを取り来りしに因る者にて、俳句も漢詩も見ず、歌集ばかりを読みたる歌よみには爾か思はるゝも無理ならぬ事と存候。さて/\困つた者に御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば迫りたる調が俳句の長所なる事は分り申さざるやらん。併し迫りたる調強き調などいふ調の味は所謂歌よみには到底分り申す間敷か。真淵は雄々しく強き歌を好み候へども、さて其歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲の翼もたわに」などいへるは真淵集中の佳什にて強き方の歌なれども、意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をして此意匠を詠ましめば箇様な調子には詠むまじく候。「ものゝふの矢なみつくろふ」の歌の如き、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど調子の強き事は並ぶ者無く、此歌を誦すれば霰の音を聞くが如き心地致候。真淵既に然りとせば真淵以下の歌よみは申す迄も無く候。斯る歌よみは蕪村派の俳句集か盛唐の詩集か読ませたく存候へども、驕りきつたる歌よみどもは宗旨以外の書を読むことは承知致すまじく勧めるだけが野慕にや候べき。

御承知の如く生は歌よみよりは局外者とか素人とかいはるゝ身に有之、従って詳しき歌の学問は致さず、格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども、大体の趣味如何に於ては自ら信ずる所あり、此点に就きて却て専門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇様に悪口をつき申さば生を弥次馬連と同様に見る人もあるべけれど、生の弥次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人にでも来訪あるやう貴兄より御伝へ被下度、三日三夜なりともつゞけざまに議論可致候。熱心の点に於ては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まゝ失礼の語も多かるべく御海容可被下候。拝具

(明治二十一年二月十八日)




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