歌よみに与ふる書
仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざ是からといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。兎に角に第一流の歌人と存候。強ち人丸赤人の余唾を舐るでも無く、固より貫之定家の糟粕をしゃぶるでも無く、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処,実に畏るべく尊むべく覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は人間としては下等の地に居るが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに実朝の歌は只器用といふのでは無く,力量あり見識あり威勢あり,時流に染まず世間に媚びざる処,例の物数寄連中や死に歌よみの公卿達と迚も同日には論じ難く,人間として立派な見識のある人間ならでは実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて他の半面を知らざりし故に可有之候。
真淵は歌に就きては近世の達見家にて万葉崇拝のところ抔当時に在りて実にえらいものに有之候へども,生等の眼より見れば猶万葉をも褒め足らぬ心地致候。真淵が万葉にも善き調あり悪き調ありといふことをいたく気にして繰り返し申し候は、世人が万葉中の佶屈なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より真淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。併しながら世人が佶屈と申す万葉の歌や真淵が悪き調と申す万葉の歌の中には生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何にといふに他の人は言ふまでも無く真淵の歌にも生が好む所の万葉調といふ者は一向に見当り不申候。(尤も此辺の論は短歌に就きての論と御承知可被下候)真淵の家集を見て真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆れ申候。斯く申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。楫取魚彦は万葉を摸したる歌を多く詠みいでたれど猶これと思ふ者は極めて少く候。左程に古調は擬し難きにやと疑ひ居候処、近来生等の相知れる人の中に歌よみにはあらで却て古調を巧に摸する人少からぬことを知り申候。是に由りて観れば昔の歌よみの歌は今の歌よみならぬ人の歌よりも遙に劣り候やらんと心細く相成申候。さて今の歌よみの歌は昔の歌よみの歌よりも更に劣り候はんには如何申すべき。
長歌のみは稍々短歌と異なり申候。古今集の長歌などは箸にも棒にもかゝらず候へども、箇様な長歌は古今集時代にも後世にも余り流行らざりしこそもっけの幸と存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直に万葉を師とする者多く従って可なりの作を見受け申候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば多少手際善く出来申候。(御歌会派の気まぐれに作る長歌などは端唄に劣り申候)併し或人は難じて長歌か万葉の模型を離る、能はざるを笑ひ申候。それも尤には候へども歌よみにそんなむづかしい事を注文致し候はば古今以後殆ど新しい歌が無いと申さねば相成間敷候。猶いろ/\申し残したる事は後鴻に讓り申候。不具。
(明治三十一年 二月十二日)
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