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『春と修羅』補遺
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手簡

雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
ぬれるのはすぎなやすいば、
ひのきの髪は延び過ぎました。

私の胸腔は暗くて熱く
もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。

雨にぬれた緑のどてのこっちを
ゴム引きの青泥いろのマントが
ゆっくりゆっくり行くといふのは
実にこれはつらいことなのです。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。
どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一諸にふんで下さい。

          (一九二二、五、一二、)



  〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。
今日は日直で学校に居る。
早く帰って会ひたい。
今私の担当箱の中のくらやみで
銀紙のチョコレートが明滅してゐる筈だ。
それは昨夜堀篭さんが、
うちへ
遊びに来ると思って
夏蜜柑と一諸に買って置いたのだ。
けれどももちろん来なかった。
それはあんまり当然だ。
昨日の午后街の青びかりの中で
お遊びにいらっしゃいませんか
と私は云った。
その調子があんまり烈しすぎたのだ。
堀篭さんは
だまって返事をしなかった。
お宜しかったらと
おれはぶっきら棒につけたした。
あの人は少し顔色を変へて
きちっと口を結んでゐた。
それは行かうと思ったのに
またそれを制限されたやうにも思ひ
失望したやうにも見えた。
けれども何だかわからない。
山の方は青黒くかすんで光るぞ。
それはさうだ、この五六日
ずゐぶん私は物騒に見えたらう。
何もかもみんなぶち壊し
何もかもみんなとりとめのないおれはあはれだ。
向ふの黒い松山がオイノ森だ。
実に新鮮で肥満プラムプだ。
たしかにさうだ。地図で見ると
もっと高いやうに思はれるけれども
たゞあれだけのことなのだ。
あれの右肩を通ると下り坂だ。
姥屋敷の小学校が見えるだらう。
もう柳沢へ抜けるのもいやになった。
柳沢へ抜けて晩の九時の汽車に乗る。
十時に花巻へ着き
白く疲れて睡る、
つかれの白い波がわやわやとゆれ…
五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。
しかしその五時の汽車は滝沢へよらない。
滝沢には一時にしか汽車がない、
もう帰らうか。こゝからすっと帰って
多分は三時頃盛岡へ着いて
待合室でさっきの本を読む。
いゝや、つまらない。やっぱりおれには
こんな広い処よりだめなんだ。
野原のほかでは私はいつもはゞけてゐる
やっぱり柳沢へ出やう
こんな野原の陰惨な霧の中を
ガッシリした黒い肩をしたベートーフェンが
深く深くうなだれ又ときどきひとり咆えながら
どこまでもいつまでも歩いてゐる。
その弟子たちがついて行く
暗い暗い霧の底なのだ。
今日はさうでない。
鞍掛山も光ってゐる。
そこで一体この先に、たしかに
育牛部があったのだらうか。
こんな処を歩いたやうな気がしない。
杉がよく生えて
緩い坂みちになってゐる。
向ふから農婦たちが一むれやって来る。
実にきちんと身づくろってゐる。
みんなせいが高くまっすぐだ。
黒いきものも立派だし
白いかつぎも
よく農場の褐色や
林の藍と調和してゐる。
本部か耕耘部かには
よほどしっかりした技師が居るぞ。
そらがずゐぶん重くなった。
けれども真っ白に光ってゐる。
耕耘部の方から西洋風の鐘が鳴る。
かすかだけれどもよく聞える。
もうみんな近くにやって来た。
聞いて見やうおれは時計を持たないのだ。
(あの鐘ぁ十二時すか。)
「はあそでごあんす。」
みんながしづかに答へてゐる。
これではまるでオペラぢゃないか。
動き出した彫像といふやうに
しづかにこっちを見やりながら
正しくみんな行き過ぎる。
鐘の方へ歩いて行く。
端正は希臘に属し、時間のあかるさ。
もう育牛部の畜舎がみえる。
牛は出てゐない。
また畜舎の中に居るのかどうかもわからない。
から松の緑の列や畑の茶いろ。
しんとしてゐる。
日光の底といふものはいつでもしんとしたもんだ。

  ※※※※※※※※※※ 第六綴
みちが俄かにぼんやりなった。
から松はあるし草はみぢかいし
実に野原の模型だけれども
姥屋敷まで行く筈の
地図にもはっきり引いてある
このみちがこんな風では
何だかすこし便りない。
尤も方角さへきめて行けば
行けないこともないのだが
実は今日は少し気が急くのだ。
堀篭さんのことも
考へなければならないのだ。
向ふもはたけが堀られてゐる。
白い笠がその緩い傾斜をのぼって行く。
笠は光って立派だが
やっぱりこんな洋風の
農場の中では似合はない。
然しあるひはあの人は
姥屋敷へ行くのかもしれない。
さうぢゃない働いてるのだ。
それに向ふの松林に
まだ狼森ではないだらうが
ずゐぶん大きなみちがある。
あれさへ行ったら間違ひない。
行って見やう。しかしどうだ、
そこの所に堰がある
やなぎがぽしやぽしや生えてゐる
そのせきの近く一二間だけ
きちんとみちができてゐる
すこし変だ。どういふ訳だ。
どうせこいつも農場の
ほんの気紛れ仕事なのだ。
一つはまあ目標にもなる。
とにかく渡れ、あの坂を登れ。
        ※
かなりの松の密林だ。
傾斜もゆるいしほんの短い坂だけれども
仲々登るのは楽ぢゃない。
一昨夜からよく眠らないから
やっぱり疲れてゐるのだ。
疲れのために私は一つの桶を感ずる
この聯想は一体どうだ、
けれどもたしかにこの桶は
まだ松やにの匂もし
新しくてぼくぼくした小さな桶だ。
かなりの松の密林だ。
暗くていやに寂しいやうだ。
雲がずゐぶん低くなった。
あゝよくあるやつだ やっと登って
その向ふが又丘で
松がぽしゃぽしゃ生えてゐる。
しかし何だか面白くない。
みちが又ぼんやりなって
(草穂もぼしゃぼしゃしてゐるし、)
却って向ふに立派なみちが
堤に沿って北へ這って行く。
ほんたうのみちはあいつらしい
こっちは地図のこのみちだ。
赤坂のつゞきのところへ出るんだ。
ひどく東へ行ってしまふんだ。
向ふの道へ行かうかな。
それもあんまりたしかでもない。
鞍掛は光の向ふで見えないし
それに姥屋敷ではきっと
犬が吠えるぞ 吠えるぞ。
事によったら吠えないかな。
かれ草だ。何かパチパチ云ってゐる。
降って来たな。降って来た。
しかし雨の粒は見えない。
そらがぎんぎんするだけだ。
顔へも少しも落ちて来ない。
それでもパチパチ鳴ってゐる。
草がからだを曲げてゐる。
雨だ。たしかだ。やっぱりさうだ。
降り出したんだ。引っ返さう。
すっかりぬれて汽車に乗る。
教員室の青ぐろい空間
チョコレートと椅子
(私はどうしてこんなに
 下等になってしまったらう。
 透明なもの 燃えるもの
 息たえだえに気圏のはてを
 祈ってのぼって行くものは
 いま私から 影を潜め)
五時半ごろは学校につく。
鬼越を越えて盛岡へ出やうかな。
いややっぱり早い方がいゝ
小岩井の停車場へ出るに限る。
さあ引っ返すぞ。こんどもやめだ。
おゝい柳沢。
鞍掛も見えないがさやうなら、
引っ返せ 引っ返せ
小松の密林
暗いし笹だ。
けれども一寸雨を避けやうか。
笹がばりばり枯れてゐる。
それに松ばやしには誘惑がゐる
尤も今ごろそんなものは何でもない。
何でもないが
やっぱり雨は漏ってゐる。
笹に座れば座れるんだが
雨避けにならなくては仕方ない。
何でもぐんぐん歩くにかぎる

★第五綴116行目[ごあんす]は小文字の[ん]で表記されている。



  〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕

〔冒頭原稿なし〕
堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます。
実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。

まことにこれらの天人たちの
水素よりもっと透明な
悲しみの叫びをいつかどこかで
あなたは聞きはしませんでしたか。
まっすぐに天を刺す氷の鎗の
その叫びをあなたはきっと聞いたでせう。

けれども堕ちるひとのことや
又溺れながらその苦い鹹水を
一心に呑みほさうとするひとたちの
はなしを聞いても今のあなたには
たゞある愚かな人たちのあはれなはなし
或は少しめづらしいことにだけ聞くでせう。

けれどもたゞさう考へたのと
ほんたうにその水を噛むときとは
まるっきりまるっきりちがひます。
それは全く熱いくらゐまで冷たく
味のないくらゐまで苦く
青黒さがすきとほるまでかなしいのです。

そこに堕ちた人たちはみな叫びます
わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか
堕ちたといふことがあるのかと。
全くさうです、誰がはじめから信じませう。
それでもたうたう信ずるのです。
そして一さうかなしくなるのです。

こんなことを今あなたに云ったのは
あなたが堕ちないためにでなく
堕ちるために又泳ぎ切るためにです。
誰でもみんな見るのですし また
いちばん強い人たちは願ひによって堕ち
次いで人人と一諸に飛騰しますから。

         一九二二、五、二一、



  厨川停車場   (一九二二・六・二・)

(もうすっかり夕方ですね。)
けむりはビール瓶のかけらなのに、
そらは苹果酒サイダーでいっぱいだ。
(ぢゃ、さよなら。)
砂利は北上山地製、
(あ、僕、車の中ヘマント忘れた。
すっかりはなしこんでゐて。)

(あれは有名な社会主義者だよ。
 何回か東京で引っぱられた。)
髪はきれいに分け、
まだはたち前なのに、
三十にも見えるあの老けやうとネクタイの鼠縞。

(えゝと、済みませんがね、
 ほろぼろの朱子のマント、
 あの汽車へ忘れたんですが。)
(何ばん目の車です。)……
 (二等の前の車だけぁな。)

Larix,Larix,Larix,
青い短い針を噴き、
夕陽はいまは空いっぱいのビール、
かくこうは あっちでもこっちでも、
ぼろぼろになり 紐になって啼いてゐる。



  青森挽歌 三
    −−一九二三、八、一、−−

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき
或ひは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。
私が夜の車室に立ちあがれば
みんなは大ていねむってゐる。
その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。
「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。
そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。
たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。
「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍■に光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。

★題目2行目年月日前後の[−]は原稿では長さ2文字分の棒線。(このテキストでは[−(マイナス)]を使用のため、縦書きにすると雰囲気がつかめません。
★本文57行目[藍■(ランテン)]の[■]は、ヘン[]ツクリ[定]。



  津軽海峡
     −−一九二三、八、一、−−

夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
 (天候のためでなければ食物のため、
  じっさいべーリング海峡の氷は
  今年はまだみんな融け切らず
  寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
 その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
  (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」

くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。

★題目2行目年月日前後の[−]は原稿では長さ2文字分の棒線。(このテキストでは[−(マイナス)]を使用のため、縦書きにすると雰囲気がつかめません



  駒ケ岳

弱々しく白いそらにのびあがり
その無遠慮な火山礫の盛りあがり
黒く削られたのは熔けたものの古いもの
 (喬木帯灌木帯、苔蘚帯といふやうなことは
  まるっきり偶然のことなんだ。三千六百五十尺)
いまその赭い岩巓に
一抹の傘雲がかかる。
   (In the good summer time,In the good summer time;)
(ごらんなさい。
 その赭いやつの裾野は
 うつくしい木立になって傾斜スロープもやさしく
 黄いろな林道も通ってゐます。)
「全体その海の色はどうしたんでせう。
青くもないしあんまり変な色なやうです。」
「えゝ、それは雲の関係です。」
何が雲の関係だ。気圧がこんなに高いのに。

★本文9行目文頭の[( ]、12行目文末の[ )]は、何れも[2重括弧]で表記されている。



  旭川

植民地風のこんな小馬車に
朝はやくひとり乗ることのたのしさ
「農事試験場まで行って下さい。」
「六条の十三丁目だ。」
馬の鈴は鳴り馭者は口を鳴らす。
黒布はゆれるしまるで十月の風だ。
一列馬をひく騎馬従卒のむれ、
この偶然の馬はハックニー
たてがみは火のやうにゆれる。
馬車の震動のこころよさ
この黒布はすベり過ぎた。
もっと引かないといけない
こんな小さな敏渉な馬を
朝早くから私は町をかけさす
それは必ず無上菩提にいたる
六条にいま曲れば
おゝ落葉松 落葉松 それから青く顫えるポプルス
この辺に来て大へん立派にやってゐる
殖民地風の官舎の一ならびや旭川中学校
馬車の屋根は黄と赤の縞で
もうほんたうにジプシイらしく
こんな小馬車を
誰がほしくないと云はうか。
乗馬の人が二人来る
そらが冷たく白いのに
この人は白い歯をむいて笑ってゐる。
バビロン柳、おほばことつめくさ。
みんなつめたい朝の露にみちてゐる。



  宗谷挽歌
       (一九二三、八、二、)

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。
船員たちの黒い影は
水と小さな船燈との
微光の中を往来して
現に誰かは上甲板にのぼって行った。
船は間もなく出るだらう。
稚内の電燈は一列とまり
その灯の影は水にうつらない。
  潮風と霧にしめった舷に
  その影は年老ったしっかりした船員だ。
  私をあやしんで立ってゐる。
霧がばしゃばしゃ降って来る。
帆綱の小さな電燈がいま移転し
怪しくも点ぜられたその首燈、
実にいちめん霧がぼしゃぼしゃ降ってゐる。
降ってゐるよりは湧いて昇ってゐる。
あかしがつくる青い光の棒を
超絶顕微鏡の下の微粒子のやうに
どんどんどんどん流れてゐる。
 (根室の海温と金華山沖の海温
  大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)
帆綱の影はぬれたデックに落ち
津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。
下の船室の前の廊下を通り
上手に銅鑼は擦られてゐる。
 鉛筆がずゐぶんす早く
 小刀をあてない前に削げた。
 頑丈さうな赤髯の男がやって来て
 私の横に立ちその影のために
 私の鉛筆の心はうまく折れた。
 こんな鉛筆はやめてしまへ
 海へ投げることだけは遠慮して
 黄いろのポケットにしまってしまへ。
霧がいっさうしげくなり
私の首すぢはぬれる。
浅黄服の若い船員がたのしさうに走って来る。
「雨が降って来たな。」
「イヽス。」
「イヽスて何だ。」
「雨ふりだ、雨が降って来たよ。」
「瓦斯だよ、霧だよ、これは。」
とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
  (おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)
呼子が船底の方で鳴り
上甲板でそれに応へる。
それは汽船の礼儀だらうか。
或ひは連絡船だといふことから
汽車の作法をとるのだらうか。
霧はいまいよいよしげく
舷燈の青い光の中を
どんなにきれいに降ることか。
稚内のまちの灯は移動をはじめ
たしかに船は進み出す。
この空は広重のぼかしのうす墨のそら
波はゆらぎ汽笛は深くも深くも吼える。
この男は船長ではないのだらうか。
 (私を自殺者と思ってゐるのか。
  私が自殺者でないことは
  次の点からすぐわかる。
  第一自殺をするものが
  霧の降るのをいやがって
  青い巾などを被ってゐるか。
  第二に自殺をするものが
  二本も注意深く鉛筆を削り
  そんなあやしんで近寄るものを
  霧の中でしらしら笑ってゐるか。)
ホイッスラアの夜の空の中に
正しく張り渡されるこの麻の綱は
美しくもまた高尚です。
あちこち電燈はだんだん消され
船員たちはこゝろもちよく帰って来る。
稚内のまちの北のはづれ
私のまっ正面で海から一つの光が湧き
またすぐ消える、鳴れ汽笛鳴れ。
火はまた燃える。
「あすこに見えるのは燈台ですか。」
「さうですね。」
またさっきの男がやって来た。
私は却ってこの人に物を云って置いた方がいゝ。
「あすこに見えますのは燈台ですか。」
「いゝえ、あれは発火信号です。」
「さうですか。」
「うしろの方には軍艦も居ますがね、
あちこち挨拶して出るとこです。」
「あんなに始終つけて置かないのは、

〔この間、原稿数枚なし〕

永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。



  自由画検定委員

どうだここはカムチャッカだな
家の柱ものきもみんなピンクに染めてある
渡り鳥はごみのやうにそらに舞ひあがるし
電線はごくだいたんにとほってゐる
ひわいろの山をかけあるく子どもらよ
緑青の松も丘にはせる

こいつはもうほんもののグランド電柱で
碍子もごろごろ鳴ってるし
赤いぼやけた駒鳥もとまってゐる
月には地球照アースシヤインがあり
かくこうが飛び過ぎると
家のえんとつは黒いけむりをあげる

おいおいおいおい
とてもすてきなトンネルだぜ
けむって平和な群青の山から
いきなりガアッと線路がでてきて
まるで眼のまへまで一ぺんにひろがってくる
鳥もたくさん飛んでゐるし
野はらにはたんぽぽやれんげさうや
じゅうだんをしいたやうです

お月さまからアニリン色素がながれて
そらはへんにあかくなってゐる
黒い三つの岩頸は
もう日も暮れたのでさびしくめいめいの銹をはく
田圃の中には小松がいっぱいに生えて
黄いろな丁字の大街道を
黒いひとは髪をぱちゃぱちゃして大手をふってあるく

鳥ががあがあとんでゐるとき
またまっしろに雪がふってゐるとき
みんなはおもての氷の上にでて
遊戯をするのはだいすきです
鳥ががあがあとんでゐるとき
またまっしろに雪がふってゐるとき

青ざめたそらの夕がたは
みんなはいちれつ青ざめたうさぎうまにのり
きらきら金のばらのひかるのはらを
犬といっしょによこぎって行く
青ざめたそらの夕がたは
みんなはいちれつ青ざめたうさぎうまにのり




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