こおり後光ごこう(習作)
             宮澤賢治
「ええ。」

1

雪と月あかりの中を、汽車はいっしんに走っていました。

2

赤い天蚕絨びろうど頭巾ずきんをかぶったちいさな子が、毛布もうふにつつまれて窓の下のあめ色のかべ上手じようずにたてかけられ、まるで寝床ねどこるように、足をこっちにのばしてすやすやとねむっています。

3

窓のガラスはすきとおり、外はがらんとして青く明るく見えました。
「まだ十八時間あるよ。」
「ええ。」

4

若いお父さんは、その青白い時計をチョッキのポケットにはさんでくつをかたっと鳴らしました。

5

若いお母さんはまだこどもを見ていました。こどものほほ苹果りんごのようにかがやき、苹果のにおいはへやいっぱいでした。そのにおいは、けれども、あちこちの網棚あみだなの上のほんとうの苹果から出ていたのです。実に苹果の蒸気じようきへやいっぱいでした。
「ここどこでしょう。」
「もう岩手県いわてけんだよ。」
「あの山の上に白く見えるの雲でしょうか。」
「雲だろうな。しかしこおっているだろうよ。」
吹雪ふぶきじゃないんでしょうか。」
「そうだな、あそこだけ風が吹いてるかも知れないな。けれども風が山のパサパサした雪を飛ばせたのか、その風が水蒸気すいじようきをもっていて、あんな山のかど一層いつそうつめたいところで雪になったのかわからないね。」
「そうね。」

6

月あかりの中にまっすぐに立った電信柱でんしんばしらが、次次つぎつぎに何本も何本も走って行き、けむりの影は黒く雪の上をすべりました。

7

車室しやしつの中はスティームであたたかく、わずかの乗客じようきやくたちも大ていねむり、もう十二時を過ぎていました。
「今夜は外は寒いんでしょうか。」
「そんなじゃないだろう。けれどもれてるからね。こんな雪の野原を歩いていて、今ごろこんな汽車の通るのに出あうとずいぶんうらやましいようななつかしいような変な気がするもんだよ。」
「あなたそんなことあって。」
「あるともさ。お前睡くないかい。」
ねむれませんわ。」

8

若いお父さんとお母さんとは、一緒いつしよにこどもを見ました。こどもはじゆくしたように睡っています。そのくちびるはきちっと結ばれてさけの色の谷か何かのように見え、少しとび色がかったかみの毛は、ぬれたようになってひたいれていました。
「おい、あの子の口や歯はおまえに似てるよ。」
はあなたそっくりですわ。」

9

山の雪が耿々こうこうと光り出しました。と思ううちにいきなり汽車はまっ白な雪の丘の間に入りました。月あかりの中に、たしかにかしわの木らしいものが、沢山たくさんれた葉をつけて立っていました。

10

そしてみんなはねむり、若いお父さんとお母さんもうとうとしました。山の中の小さな駅を素通すどおりするたんびにがたっと横にゆれながら、汽車はいっしんにそのなな時雨しぐれ傾斜けいしやをのぼって行きました。そのまどろみの中から、二人はかわるがわる、やっぱり夢の中のように眼をあいて子供を見ていました。苹果りんご蒸気じようきがいっぱいだったのです。電燈でんとうは青いをつけたり碧孔雀あおくじやくになってはねをひろげ子供の天蓋てんがいをつくったりしました。

11

ごとごとごとごと、汽車はいっしんに走りました。
「おや、変に寒くなったぞ。」

12

しばらくたって若いお父さんはへやの中を見まわしながらいました。電燈もまるでくらくなって、タングステンがやっと赤くほてっているだけでした。
「まあ、スティームが通らなくなったんですわ。」

13

若いお母さんもびっくりしたように目をひらいて急いで子供を見ました。こどもはすっかりさっきの通りの姿勢しせいですやすやとねむっています。
「どうしたんだろう。ああ寒い。風邪かぜを引かせちゃ大へんだぜ。何時だろう。ほんのとろっとしただけだったが。」

14

時計の黒い針は、かっきりと夜中の四時を指し、窓のガラスはすっかり氷でくもっていました。

15

月が車室のちょうど天井にかかっているらしく、窓の氷はただぼんやり青白いばかり、電燈は一そう暗くなりました。
「寒いねえ、もう一枚着せよう。」
「そんならわたしのコートやりますわ。」
「コートなんかじゃ着ないも同じこったよ。だまって起しておやり。かえって一ぺん起した方がいいよ。同んなじ姿勢しせいでばかり居たんだから。」
「ええ。ですけど大丈夫ですわ。外套がいとうはおぎにならなくてもいいのよ。」

16

若いお母さんは、窓ぎわから子供を抱いて立ちあがりました。毛布はあたたかいぬけがらになって残りました。こどもは抱かれたまま、やっぱりすやすや睡っています。
「まあ着せとけよ。どうせおれは着てなくたって寒くないんだから。」お父さんは立って席の横に出て外套がいとうをぬぎながら云いました。
「毛布の中へ包めばいいよ。そら。」

17

汽車はとうげ頂上ちようじようにかかったらしく、青い信号燈しんごうとうや何かがぼんやりと窓の外をぎ、こどもはまた窓のところに、前より少しうつむいて置かれました。深く息をしながらやっぱりすうすうています。

18

たしかにそこは峠の頂上でした。にわかに汽車のあえぐような歩調ほちようがなくなり、速さは加わり、まっしぐらに傾斜を下って行くらしいのでした。

19

間もなく電燈はさっと明るくなりスティームも通って来てあたたかい空気が窓の下の隅からひものようになってのぼって来ました。若いお父さんとお母さんとは安心してまたうとうと睡りました。外が冷えて来たらしく窓は湯気ゆげこおりついて白くなりました。そしてまた夢の合間あいまあいまに、電燈はまばゆい蒼孔雀あおくじやくに変ってもんのついた尾翅おばねをぎらぎらにのばし、そのおいしそうなこどもをたべたそうにしたり、大事そうにしたりしました。

20

ごとごとごとごと汽車は走ったのです。

21

そしていつか汽車はとまっていました。
盛岡もりおか、五分停車ていしや、盛岡、五分停車。」それからカラコロセメントの上をかける下駄げたの音、たしかにそれは明方でした。
(ふう、今朝けさずいぶん冷えるな。)犬の毛皮を着たり黒いマントをかぶったりして八九人の人たちがどやどや車室に入って来ました。その人たちの頭巾ずきんやえり巻には氷がまっ白な毛のようになって結晶けつしようしていて、ちょっと見ると山羊やぎの毛でもかざりつけてあるようでした。

22

いつか窓はすっかり白く明るくなりました。電燈も水のようでした。
「夜が明けましたわね。」
「うん。すっかり睡っちゃった。」
「ここ、どこでしょう。」
「盛岡だろう。もうぎき日が出るよ。ああすっかり睡っちゃった。」

23

窓はいちめんらんか何かの葉の形をした氷の結晶で飾られていました。

24

汽車はたち、あちこちに朝の新らしい会話が起りました。
(へえ、けれどもみそさざいならてるでしょう。)
(いいえ、みそさざいのような小さな鳥は弾丸たまで形も何もなくなります。)

25

窓の蘭の葉の形の結晶のすきまから、東のそらの琥珀こはくかすかに透えて見えて来ました。
「七時ころでございましょうか。」
丁度ちようど七時だよ。もう七時間、なかなか長いねえ。」

26

子どもが眼をさまして舌を出しました。
「おお、いいよ。泣かないわね。ずいぶんねんねしましたね。さあお乳をあげますよ。ようっと。」お母さんは子どもを抱きました。
「そんなに舌を出してはばけてはいかん。」若いお父さんはトランクから楊子ようじを出しながら云いました。

27

窓は暗くなったり又明るくなったり汽車はごとごと走りました。

28

お父さんが洗面所せんめんじよから帰って来ました。

29

にわかにさっと窓が黄金きんいろになりました。
「まあ、お日さまがおのぼりですわ。氷が北極光ほつきよくこうの形に見えますわ。」
「極光か。この結晶はゼラチンで型をそっくりとれるよ。」

30

車室の中はほんとうに暖いのでした。
(ここらでは汽車の中ぐらい立派りつぱな家はまあありやせんよ。)
(やあ全く。うまるで病院の手術室しゆじゆつしつのように暖にしてありますしね。)

31

窓の氷からかすかに青ぞらが透えて見えました。
「まあ、美しい。ほんとうに氷がかざ羽根ばねのようですわ。」
「うん、奇麗きれいだね。」

32

向うの横の方の席に腰かけていた線路工夫せんろこうふは、しばらく自分の前の氷を見ていました。それからつめでこつこつこそげました。それから息をかけました。そのすきとおった氷の穴からくろずんだ松林まつばやし薔薇ばら色の雪とが見えました。
「さあ、又おすわりね。」こどもはまた窓の前の玉座ぎよくざに置かれました。小さな有平糖あるへいとうのような美しい赤と青のぶちの苹果りんごを、お父さんはこどもに持たせました。
「あら、この子の頭のとこで氷が後光ごこうのようになってますわ。」若いお母さんはそっと云いました。若いお父さんはちょっとそっちを見て、それから少し泣くようにわらいました。
「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物せいぶつのために、無上むじよう菩提ぼだいを求めるなら、そのときは本当にその光がこの子に来るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいようにも思われるけれども、もちろんそう祈らなければならないのだ。」

33

若いお母さんはだまって下を向いていました。

34

こどもは苹果りんごを投げるようにしてバアといました。すっかりひるまになったのです。




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