婦系図
泉鏡花
鯛、比目魚
一
1
素顔に口紅で美いから、その色に紛うけれども、可愛い音は、唇が鳴るのではない。お蔦は、皓歯に酸漿を含んでいる。……
「早瀬の細君はちょうどと見えるが三だとサ、その年紀としで酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺あたり近所は官員つとめにんの多い、屋敷町の夫人おくさま連が風説うわさをする。
2
すでに昨夜ゆうべも、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可いいのを撰よって、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家となりの娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎はねられて、利いた風な、と口惜くやしがった。
3
面当つらあてというでもあるまい。あたかもその隣家となりの娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で佇たたずんで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返いちょうがえしのほつれた鬢びんを傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。
4
コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。唇の鳴るのに連れて。
5
ちょいと吹留ふきやむと、今は寂寞しんとして、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫も居おらず、雀の影もささぬ。
6
鼠かと思ったそうで、斜ななめに棚の上を見遣みやったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。
7
四辺あたりを見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とその幽かすかな音ねにも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。
8
聞き定めて、
「おや、」と云って、一段下流しもながしの板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここから駈かけ出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて引ひっくり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸ひっかけ、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽ひが、向うの井戸端の、柳の上から斜はすっかけに、遍あまねく射込さしこんで、俎まないたの上に揃えた、菠薐草ほうれんそうの根を、紅くれないに照らしたばかり。
9
多分はそれだろう、口真似くちまねをするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。
10
眉を顰ひそめながら、その癖恍惚うっとりした、迫らない顔色かおつきで、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の尖さきで音を入れる。響に応じて、コロコロと行やったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方さきは発奮はずんだと見えて、コロコロコロ。
11
これを聞いて、屈かがんで、板へ敷く半纏はんてんの裙すそを掻取かいとり、膝に挟んだ下交したがいの褄つまを内端うちわに、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の前さきの、下水の溜りに目を着けた。
12
もとより、溝板どぶいたの蓋ふたがあるから、ものの形は見えぬけれども、優やさしい連弾つれびきはまさしくその中。
13
笑えみを含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ!
「蛙だね。」
14
と莞爾にっこりした、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋えもんを軽かろく拊うちながら、
「憎らしい、お源や…………」
15
来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、圧おさえて酸漿をまた吸った。
16
ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線さみせんの胴をうつかと思われつつ、静かに長たくる春の日や、お蔦の袖に二三寸。
「おう、」と突込つっこんで長く引いた、遠くから威勢の可いい声。
17
来たのは江戸前の魚屋で。
二
18
ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄こがらの可いい島田の女中が、逆上のぼせたような顔色かおつきで、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
19
とお蔦は振向いて低声こごえで嗜たしなめ、お源が背後うしろから通るように、身を開きながら、
「聞こえるじゃないか。」
20
目配せをすると、お源は莞爾にっこりして俯向うつむいたが、ほんのり紅あかくした顔を勝手口から外へ出して路地の中うちを目迎える。
「奥様おくさんは?」
21
とその顔へ、打着ぶつけるように声を懸けた。またこれがそのおう。の調子で響いたので、お源が気を揉もんで、手を振って圧おさえた処へ、盤台はんだいを肩にぬいと立った魚屋は、渾名あだなをめ[#「め」に傍点]組と称となえる、名代の芝ッ児こ。
22
半纏は薄汚れ、腹掛の色が褪あせ、三尺が捻ねじくれて、股引ももひきは縮んだ、が、盤台は美うつくしい。
23
いつもの向顱巻むこうはちまきが、四五日陽気がほかほかするので、ひしゃげ帽子を蓮の葉かぶり、ちっとも涼しそうには見えぬ。例によって飲きこしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、
「おいでなさい、奥様おくさん、へへへへへ。」
「お止よしってば、気障きざじゃないか。お源もまた、」
24
と指の尖さきで、鬢びんをちょいと掻かきながら、袖を女中の肩に当てて、
「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様おくさんが、江戸に在るものかね。」
「だって、ねえ、め[#「め」に傍点]のさん。」
25
とお源は袖を擦抜けて、俎板まないたの前へ蹲しゃがむ。
「それじゃ御新造ごしんぞかね。」
「そんなお銭あしはありやしないわ。」
「じゃ、おかみさん。」
「あいよ。」
「へッ、」
26
と一ツ胸でしゃくって笑いながら、盤台を下ろして、天秤てんびんを立掛ける時、菠薐草を揃えている、お源の背せなを上から見て、
「相かわらず大おおきな尻だぜ、台所充満だいどこいっぱいだ。串戯じょうだんじゃねえ。目量めかたにしたら、およそどのくれえ掛るだろう。」
「お前さんの圧おしぐらい掛ります。」
「ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」
「め[#「め」に傍点]の字、」
「ええ、」
「二階にお客さまが居るじゃないか、奥様おくさんはおよしと言うのにね。」
「おっと、そうか、」
27
ぺろぺろと舌を吸って、
「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可いい……」
「値切らない、」
「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦だんじゃねえか。」
「可いよ。私が承知しているんだから、」
28
と眦まなじりの切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤おとがいをつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿しめやかに見えたので、め[#「め」に傍点]組もおとなしく頷うなずいた。
29
お源が横向きに口を出して、
「何があるの。」
「へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らず旨うめえものを食くわしてやるのよ。黙って入物を出しねえな。」
「はい、はい、どうせ無代価ただで頂戴いたしますものでございます。め[#「め」に傍点]のさんのお魚は、現金にも月末つきずえにも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。」
「皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。」
「大きに、お世話、御主人様から頂きます。」
「あれ、見や、島田を揺ゆすぶってら。」
「ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。」
「いかがでございますか、婦人おんなの方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。」
三
「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」
30
と云って、め[#「め」に傍点]組の蓋を払った盤台を差覗さしのぞくと、鯛たいの濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその鱗うろこに消えないのである。
31
俎板をポンと渡すと、目の下一尺の鮮紅からくれない、反そりを打って飜然ひらりと乗る。
32
とろんこの目には似ず、キラリと出刃を真名箸まなばしの構かまえに取って、
「刺身かい。」
「そうね、」
33とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。
「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」
34
と腰を入れると腕の冴さえ、颯さっと吹いて、鱗がぱらぱら。
「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お宜よろしゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」
「憚様はばかりさま。お客は旦那様のお友達の母様おっかさんでございます。」
35
め[#「め」に傍点]の字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに見惚みとれながら、お源が引取って口を入れる。
36
えらを一突き、ぐいと放して、
「凹へこんだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、め[#「め」に傍点]の公塩が廻り過ぎたい。」
「そういや、め[#「め」に傍点]の字、」
37
とお蔦は片手を懐に、するりと辷すべる黒繻子くろじゅすの襟を引いて、
「過日このあいだ頼んだ、河野こうのさん許とこへ、その後のち廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?」
「むむ、河野ッて。何かい、あの南町のお邸やしきかい。」
「ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、昨日きのうも内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、」
「行かねえ。」
「ほんとうに、」
「行きませんとも!」
「なぜさ、」
「なぜッて、お前めえ、あん獣けだものア、」
38
お源が慌あわただしく、
「め[#「め」に傍点]のさん、」
「何だ。」
「め[#「め」に傍点]のさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様おっかさんじゃないか、気をお着けな。」
39
帽子をすっぽり亀の子竦すくみで、
「ホイ阿陀仏おだぶつ、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……」
「いいえね、つい一昨日おとといあたり故郷おくにの静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。」
「だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」
「おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。」
「ああ、」
「と御維新以来このかた、江戸児えどッこの親分の、慶喜様が行っていた処だ。第一かく申すめ[#「め」に傍点]の公も、江戸城を明渡しの、落人おちうどを極きめた時分、二年越居た事がありますぜ。
40
馬鹿にしねえ、大親分が居て、それから私わっしが居た土地だ。大概てえげい江戸ッ児になってそうなもんだに、またどうして、あんな獣が居るんだろう。
41
聞きねえ。
42
過日こないだもね、お前めえ、まったくはお前、一軒かけ離れて、あすこへ行ゆくのは荷なんだけれども、ちとポカと来たし、佳いい魚うおがなくッて困るッて言いなさる、廻ってお上げ、とお前さんが口を利くから、チョッ蔦ちゃんの言うこッた。
43
脛すねを達引たてひけ、と二三度行ったわ。何じゃねえか、一度お前めえ、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」
44
お蔦は莞爾にっこりして、
「せんこう[#「せんこう」に傍点]ッて誰のこったね。」
「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」
45
と鰭ひれをばっさり。
四
「可いいじゃねえか、お前めえ、先公だから先公よ。何も野郎とも兄弟きょうでえとも言ったわけじゃねえ。」
46
と庖丁の尖さきを危く辷すべらして、鼻の下を引擦ひっこすって、
「すると何だ。肥満ふとっちょのお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、と吐ぬかしただろうじゃねえか。
47
ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、憚はばかんながら私わっしあ酒も啖くらわなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんの前めえだけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」
「そんなに、お邪魔なら退どけますよ。」
48
お源が俎板を直して向直る。と面おもてを合わせて、
「はははははは、今日こんちあ、」
「何かい、それで腹を立って行ゆかないのかい。」
「そこはお前さんに免じて肝かんの虫を圧おさえつけた。翌日あくるひも廻ったがね、今度は言種いいぐさがなお気に食わねえ。
49
今日はもうお菜かずが出来たから要らないよサ。合点がってんなるめえじゃねえか。私わっしが商う魚だって、品に因っちゃ好嫌すききれえは当然あたりめえだ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを勿体もってえねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれの※おくびなんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一魚うおが可哀相だ。
50
こっちはお前めえ、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。醜女すべたが情人いろを探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」
「今度は私が背後うしろを向こうか。」
51
とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を伸ばして、摺鉢すりばちに伏せた目笊めざるを取る。
「そらよ、こっちが旦だんの分。こりゃお源坊のだ。奥様おくさんはあら[#「あら」に傍点]が可い、煮るとも潮うしおにするともして、天窓あたまを噛かじりの、目球めだまをつるりだ。」
「私は天窓を噛るのかい。」
52
お蔦は莞爾にっこりして、め[#「め」に傍点]組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。
「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」
53
とお源は柄杓ひしゃくで、がたりと手桶ておけの底を汲くむ。
「田舎ものめ、河野の邸へ鞍替くらがえしろ、朝飯に牛ぎゅうはあっても、鯛てえの目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」
「はい、はい、」
54
手桶を引立ひったてて、お源は腰を切って、出て、溝板どぶいたを下駄で鳴らす。
「あれ、邪険にお踏みでない。私の情人いろが居るんだから。」
「情人がね。」
「へい、」
55
と言ったばかり、こっちは忙がしい顔色かおつきで、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。
「溝みぞの中に、はてな。」
56
印半纏しるしばんてんの腰を落して、溝板を見当に指ゆびさしながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、
「変ってますね。」
「見せようか。」
「是非お目に懸かかりてえね。」
「お待ちよ、」
57
と目笊は流ながしへ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、溝どぶの上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく酸漿ほおずきをクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。
「ね、可愛いだろう。」
58
カタカタカタ!
「蛙けえろだ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」
「朧月夜おぼろづきよの色なんだよ。」
59
得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。
「畜生め、拝んでやれ。」
60
と好事ものずきに蹲込しゃがみこんで、溝板を取ろうとする、め[#「め」に傍点]組は手品の玉手箱の蓋ふたを開ける手つきなり。
「お止しよ、遁にげるから、」
61
と言う処へ、しとやかに、階子段はしごだんを下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、長閑のどかに釣瓶つるべを覆かえしたのである。
見知越
五
62
続いてドンドン粗略ぞんざいに下りたのは、名を主税ちからという、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
63
格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、溝どぶなる連弾つれびきを見届けようと、やにわにその蓋を払っため[#「め」に傍点]組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退ひいて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を屈かがめて、立直った束髪は、前刻さっきから風説うわさのあった、河野の母親と云う女性にょしょう。
64
黒の紋羽二重の紋着もんつき羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰せがれが学士だ先生だというのでも、大略あらまし知れた年紀としは争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶つやが見えた。
65
背は高いが、小肥こぶとりに肥った肩のやや怒ったのは、妙齢としごろには御難だけれども、この位な年配で、服装みなりが可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛ショオルをしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾みだしなみの一ツで、貴婦人あなた方は、菖蒲あやめが過ぎても遊ばさるる。
66
直ぐに御歩行おはこびかと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌はめたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱しごいた時、襦袢じゅばんの裏の紅いのがチラリと翻かえる。
67
年紀としのほどを心づもりに知っため[#「め」に傍点]組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸うなじを窘すくめた処へ、
「まだ、花道かい?」
68
とお蔦が低声こごえ。
「附際つけぎわ々々、」
69
ともう一息め[#「め」に傍点]組の首を縮すくめる時、先方さきは格子戸に立かけた蝙蝠傘こうもりがさを手に取って、またぞろ会釈がある。
「思入れ沢山だくさんだ。いよう!」
70
おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。
71
振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹きっと見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである。め[#「め」に傍点]組はつかつかと二足三足、
「おやおやおや、」
72
調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。
「どうしたの。」
「可訝おかしいぜ。」
73
と急に威勢よく引返ひっかえして、
「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親おふくろかね、静岡だって、故郷くにあ、」
「ああ。」
「家うちは医師いしゃじゃねえかしらん。はてな。」
「どうした、め[#「め」に傍点]組。」
74
とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。
「へへへへへ、」
75
満面に笑えみを含んだ、め[#「め」に傍点]組は蓮葉はすっぱ帽子の中から、夕映ゆうやけのような顔色がんしょく。
「お早うござい。」
「何が早いものか。もう午飯おひるだろう、何だ御馳走は、」
76
と覗込のぞきこんで、
「ははあ、鯛てえだな。」
「鯛たいとおっしゃいよ、見ッともない。」
77
とお蔦が笑う。
「他の魚屋の商うのは鯛たいさ、め[#「め」に傍点]組のに限っちゃ鯛てえよ、なあ、めい公。」
「違えねえ。」
「だって、貴郎あなたは柄にないわ、主公様だんなさまは大人しく鯛魚たいとととおっしゃるもんです、ねえ、め[#「め」に傍点]のさん。」
「違えねえ。」
78
主税は色気のない大息ついて、
「何なんにしろ、ああ腹が空いたぜ。」
「そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯を食あがらないもの。」
「違えねえ、確たしかにアリャ、」
79
と、め[#「め」に傍点]組は路地口へ伸上る。
六
「大分御執心のようだが、どうした。」
80
と、め[#「め」に傍点]組のその素振に目を着けて、主税は空腹すきはらだというのに。……
「後姿に惚れたのかい。おい、もう可いい加減なお婆さんだぜ。」
「だって貴郎あなたにゃお婆さんでも、め[#「め」に傍点]組には似合いな年紀としごろだわ。ねえ、ちょいと、」
「へへへ、違えねえ。」
「よく、違えねえ。を云う人さ。」
「だから、確たしかだろうと思うんでさ。」
81
と呟つぶやいて独ひとりで飲込み、仰向いて天秤棒を取りながら、
「旦那、」
「己おら御免だ。」と主税は懐手で一ツ肩を揺ゆする。
「え、何を。」
「文でも届けてくれじゃないか。」
「御串戯ごじょうだん。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町の家うちへ帰りそうな様子でしたかね。」
「むむ、ずッと帰ると言ったっけ。」
「難有ありがてえ、」
82
額をびっしゃり。
「後を慕って、おおそうだ、と遣やれ。」
「行ゆくのかい、河野さんへ。」
「ちょっぴりね、」
「じゃ可いけれど。貴郎、」
83
と主税を見て莞爾にっこりして、
「めい公がね、また我儘わがままを云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。」
「そうか。」
84
となぜか、主税は気の無い返事をする。
「御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。」
「違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、」
85
と荷を上げそうにするのを見て、
「待て、待て、」
「沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ昨日きのうのも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、皆みんな欲ほしがるンだから……」
「これ、」
86
旦那様苦い顔で、
「端近で何の事こったい、野良猫に扱いやあがる。」
「だっ……て、」
「め[#「め」に傍点]組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の妨害さまたげをする婦おんなだ。」
「肯きかないよ、めの字、沢山なんだから、」
「まあ、お前、」
「いいえ、沢山、大事な所帯だわ。」
「驚きますな。」
「私、もう障子を閉めてよ。」
「め[#「め」に傍点]組、この体ていだ。」
「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、四し寸ずつ食あがりまし。」
「おい、待てと云うに。」
「さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。」
「いや、遣瀬やるせがねえ。」
87
と天秤棒を心しんにして、め[#「め」に傍点]組は一ツくるりと廻る。
「お菜かずのあとねだりをするんじゃ、ないと云うに。」
88
と笑いながらお蔦を睨にらんで、
「なあ、め[#「め」に傍点]組。」
「ええ、」
「これから河野へ行ゆくんだろう。」
「三枚並で駈附けまさ。」
「それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。」
七
「その、河野へ行くに就いてだが、」
89
と主税は何か、言淀んで、
「何は、」
90
お蔦に目配せ、
「茶はないのか。」
「お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に叱言こごとを云う癖に、貴郎あなたこそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。」
91
と上ろうとする台所に、主税が立塞がっているので、袖の端をちょいと突いて、
「さあ、」
92
め[#「め」に傍点]組は威勢よく、
「へい、跡は明晩……じゃねえ、翌あしたの朝だ。」
「待まちなッてば、」
「可いよ、めのさん。」
「はて、どうしたら、」と首を振る。
「お前たちは、」
93
と主税は呆れた顔で呵々からからと笑って、
「相応に気が利かないのに、早飲込だからこんがらがって仕様がない。め[#「め」に傍点]組もまた、さんざ油を売った癖に、急にそわそわせずともだ。まあ、待て、己おれが話があると言えば。
94
そこでだ……お茶と申すは、冷たい……」
95
と口へつけて、指で飲む真似。
「と行やる一件だ。」
「め[#「め」に傍点]組に……」
「沢山だ、沢山だ。私わっしなら、」
96
と声ばかり沢山で、俄然がぜんとして蜂の腰、竜の口、させ、飲もうの構かまえになる。
「不可いけません、もう飲んでるんだもの。この上煽あおらして御覧なさい。また過日いつかのように、ちょいと盤台を預っとくんねえ、か何かで、」
97
お蔦は半纏の袖を投げて、婀娜あだに酔ッぱらいを、拳固で見せて、
「それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。」
「旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地いこじなもんだ。」
「可いから、己が承知だから、」
「じゃ、め[#「め」に傍点]組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを退どいて頂戴よ、通れやしないわね。」
「ああ、もしもし、」
98
主税は身を躱かわして通しながら、
「御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、」
「知りませんよ。」
99
とつっと入る。
「旦も、ゆすり方は素人じゃねえ。なかなか馴れてら、」
100
もう飲みかけたようなもの言いで、腰障子から首を突込み、
「今度八丁堀の私わっしの内へ遊びに来ておくんなせえ。一番ひとつ私がね、嚊々左衛門かかあざえもんに酒を強請ねだる呼吸というのをお目にかけまさ。」
「女房かみさんが寄せつけやしまい、第一吃驚びっくりするだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手から猪いのししぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、め[#「め」に傍点]組。」
101
と下流したながしへかけて板の間へ、主税は腰を掛け込んで、
「ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。」
「何です、旦、」
102
と吃驚するほど真顔。
「お前めえさんや、奥様おくさんで、私わっしに言い憎いって事はありゃしねえ、また私が承って困るって事もねえじゃねえか。
103
嚊々かかあを貸せとも言いなさりゃしめえ、早い話が。何また御使い道がありゃ御用立て申します。」
「打附ぶッつけた話がこうだ。南町はちと君には遠廻りの処を、是非廻って貰いたいと云うもんだから、家内うちで口を利いて行ゆくようになったんだから、ここがちと言い憎いのだが、今云った、それ、膚合はだあいの合わない処だ。
104
今来た、あの母親おふくろも、何のかのって云っているからな、もう彼家あすこへは行かない方が可いぜ。心持を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯奢おごるから。」
105
とまめやかに言う。
八
106
皆まで聞かず、め[#「め」に傍点]組は力んで、
「誰が、誰があんな許とこへ、私わっしア今も、だからそう云ってたんで、頼まれたッて行きゃしねえ。」
「ところが、また何か気が変って、三枚並で駈附けるなぞと云うからよ。」
「そりゃ、何でさ、ええ、ちょいとその気になりゃなッたがね、商いになんか行くもんか。あの母親おふくろッて奴を冷かしに出かける肝はらでさ。」
「そういう料簡りょうけんだから、お前、南町御構いになるんだわ。」
107
と盆の上に茶呑茶碗……不心服な二人ににん分……焼海苔やきのりにはりはり[#「はりはり」に傍点]は心意気ながら、極めて恭しからず押附おッつけものに粗雑ぞんざいに持って、お蔦が台所へ顕あらわれて、
「お客様は、め[#「め」に傍点]組の事を、何か文句を言ったんですか。」
「文句はこっちにあるんだけれど、言分は先方さきにあったのよ。」
108
と盆を受取って押出して、
「さあ、茶を一ツ飲みたまえ。時に、お茶菓子にも言分があるね、もうちっとどうか腹に溜りそうなものはないかい。」
「貴郎のように意地汚きたなではありません。め[#「め」に傍点]組は何にも食べやしないのよ。」
「食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、」
109
と帽子を上へ抜上げると、元気に額の皺しわを伸ばして、がぶりと一口。鶺鴒せきれいの尾のごとく、左の人指ひとさしをひょいと刎はね、ぐいと首を据えて、ぺろぺろと舌舐したなめずる。
110
主税はむしゃりと海苔を頬張り、
「め[#「め」に傍点]組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。」
「ですから御飯になさいなね、種々いろんな事を言いって、お握飯むすびを拵こしらえろって言いかねやしないんだわ。」
「実は……」と莞爾々々にこにこ、
「その気なきにしもあらずだよ。」
「可い加減になさいまし、め[#「め」に傍点]組は商売がありますよ。疾はやくお話しなさいなね。」
「そう、そう。いや、可い気なもんです。」
111
と糸底を一つ撫でて、
「その言分というのは、こうだ。どうも、あの魚屋も可いが、門の外からおうと怒鳴り込んで、先公居るか。は困る。この間も御隠居をつかまえて、こいつあ婆さんに食わしてやれは、いかにもあんまりです。内じゃがえん[#「がえん」に傍点]に知己ちかづきがあるようで、真まことに近所へ極きまりが悪い。それに、聞けば芸者屋待合なんぞへ、主に出入ではいりをするんだそうだから、娘たちのためにもならず、第一家庭の乱れです。また風説うわさによると、あの、魚屋の出入でいりをする家うちは、どこでも工面が悪いって事こったから、かたがた折角、お世話を願ったそうだけれど、宜しいように、貴下あなたから……と先ずざっとこうよ。」
112
め[#「め」に傍点]組より、お蔦が呆れた顔をして、
「わざわざその断りに来なすったの。」
「そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。」
「仰山だわねえ。」
「ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、小火ぼやぐらいには吃驚びっくりしたろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。め[#「め」に傍点]組怒っちゃ不可いけない。」
「分った……」
113
と唐突だしぬけに膝を叩いて、
「旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。彼奴あいつ、兇状持だ。」
「ええ―」
114
何としたか、主税、茶碗酒をふらりと持った手が、キチンと極きまる。
「兇状持え?」とお蔦も袖を抱いたのである。
115
め[#「め」に傍点]組は、どこか当なしに睨にらむように目を据えて、
「それを、私わっしア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。……」
九
「ウイ、だから私わっしが出入っちゃ、どんな事で暴露ばれようも知れねえという肚はらだ。こっちあ台所でえどこまでだから、ちっとも気がつかなかったが、先方さきじゃ奥から見懸けたもんだね。一昨日おととい頃静岡から出て来たって、今も蔦ちゃんの話だっけ。
116
状ざまあ見やがれ、もっと先から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞もあるもんか、笑わらかしゃあがら。」
117
と大きに気勢きおう。
「何だ、何だ、兇状とは。」
「あの、河野さんの母様おっかさんがかい。」
118
とお蔦も真顔で訝いぶかった。
「あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、」
「ほほほ、貴郎あなた、真面目まじめで聞くことはないんだわ。め[#「め」に傍点]組の云う兇状持なら、あの令夫人おくさんがああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお萩餅はぎを拵こしらえたって、自分の女房かみさんを敵かたきのように云う人だもの。ねえ、そうだろう。め[#「め」に傍点]の字、何か甘いものが好すきなんだろう。」
「いずれ、何か隠喰かくしぐいさ、盗人上戸どろぼうじょうごなら味方同士だ。」
「へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、」
「何だ、」
「馬でさ。」
「馬だと……」
「旅俳優やくしゃかい。」
「いんや、馬丁べっとう……貞造って……馬丁でね。私わっしが静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりと嘗なめたが、病着やみつきで、※おくびの出るほど食ったんだ。」
119
主税は思わず乗出して、酒もあったが元気よく、
「ほんとうか、め[#「め」に傍点]組、ほんとうかい。」
120
と事を好んだ聞きようをする。
「嘘よ、貴郎、あの方たちが、そんなことがあって可いもんですか、め[#「め」に傍点]の字、滅多なことは云うもんじゃありません、他ほかの事と違うよ、お前、」
「あれ、串戯じょうだんじゃねえ。これが嘘なら、私わっしの鯛てえ[#「てえ」は底本では「てい」と誤記]は場違ばちげえだ。ええ、旦那、河野の本家は静岡で、医者だろうね。そら、御覧ごろうじろ、河野ッてえから気がつかなかった。門に大おおきな榎えのきがあって、榎邸やしきと云や、お前めえ、興津おきつ江尻まで聞えたもんだね。
121
今見りゃ、ここを出た客てえのは、榎邸の奥様おくさんで、その馬丁の情婦いろおんなだ。
122
だから私ア、冷かしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、児こがあらあ、児が。ああ、」
123
また一口がぶりと遣やって、はりはり[#「はりはり」に傍点]を噛かんだ歯をすすって、
「ねえ、大勢小児こどもがありましょう。」
「南町の学士先生もその一人にん、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。」
「おお、待ちねえ、その先生は幾歳いくつだね。」
「六か、七だ。」
「二十はたちとだね、するとその上か、それとも下かね。どっち道その人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは婦人おんななんだ。いずれ縁附いちゃいるだろうが、これほど確たしかな事はねえ。私わっしア特別で心得てるんで、誰も知っちゃいますめえよ。知らぬは亭主ばかりなりじゃねえんだから、御存じは魚屋惣助そうすけ本名ばかりなりだ。
124
はははは、下郎は口のさがねえもんだ。」
125
ぐいと唇を撫でた手で、ポカリと茶碗の蓋ふたをした。
「危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。鰒汁てっぽうとこいつだけは、命がけでも留やめられねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、毒薬いっぷく装もられちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。」
「ああ、お前ももうおいででない。」
「行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、」
126
と茶碗を捻ひねくる。
「厭いやな人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。」
「おお、」
127
と何か考え込んだ、主税が急に顔を上げて、
「もうちっと精くわしくその話を聞かせないか。」
128
井戸端から、婦人おんなの凧たこが切れて来たかと、お源が一文字に飛込んだ。
「旦だ、旦那様、あの、何が、あの、あのあの、」
矢車草
十
129
お源のその慌あわただしさ、駈かけて来た呼吸いきづかいと、早口の急込せきこみに真赤まっかになりながら、直ぐに台所から居間を突切つっきって、取次ぎに出る手廻しの、襷たすきを外すのが膚はだを脱ぐような身悶みもだえで、
「真砂町まさごちょうの、」
「や、先生か。」
130
真砂町と聞いただけで、主税は素直まっすぐに突立つったち上る。お蔦はさそくに身を躱かわして、ひらりと壁に附着くッついた。
「いえ、お嬢様でございます。」
「嬢的、お妙たえさんか。」
131
と謂いうと斉ひとしく、まだ酒のある茶碗を置いた塗盆を、飛上る足で蹴覆けかえして、羽織の紐ひもを引掴ひッつかんで、横飛びに台所を消えようとして、
「赤いか、」
132
お蔦を見向いて面おもてを撫でると、涼しい瞳で、それ見たかと云う目色めつきで、
「誰が見ても……」と、ぐっと落着く。
「弱った。」と頭つむりを圧おさえる。
「朝湯々々、」と莞爾にっこり笑う。
「軍師なるかな、諸葛孔明しょかつこうめい。」といい棄てに、ばたばたどんと出て行ったは、玄関に迎えるのである。
133
ふらふらとした目を据えて、まだ未練にも茶碗を放さなかった、め[#「め」に傍点]組の惣助、満面の笑えみに崩れた、とろんこの相格そうごうで、
「いよう、天人。」と向うを覗のぞく。
「不可いけないよ、」
134
と強きつく云う、お蔦の声が屹きっとしたので、きょとんとして立つ処を、横合からお源の手が、ちょろりとその執心の茶碗を掻攫かっさらって、
「失礼だわ。」
135
と極きめつける。天下大変、吃驚びっくりして、黙って天秤てんびんの下へ潜ると、ひょいと盤台の真中まんなかへ。向うの板塀に肩を寄せたは、遠くから路を開く心得、するするとこれも出て行ゆく。
136
もう、玄関の、格子が開あきそうなものだと思うと、音もしなければ、声もせぬので、お蔦が、
「御覧、」と目配せする。
137
覗くは失礼と控えたのが、遁腰にげごしで水口から目ばかり出したと思うと、反返そりかえるように引込ひっこんで、
「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」
「ええ、こちらへ、」
138
と裾を捌さばくと、何と思ったか空を望み、破風はふから出そうにきりりと手繰って、引窓をカタリと閉めた。
「あれ、奥様。」
「お前、そのお盆なんぞ、早くよ。」と釣鐘にでも隠れたそうに、肩から居間へ飜然ひらりと飛込む。
139
驚いたのはお源坊、ぼうとなって、ただくるくると働く目に、一目輝くと見たばかりで、意気地なくぺたぺたと坐って、偏ひとえに恐入ってお辞儀をする。
「御免なさいよ。」
140
と優やさしい声、はッと花降る留南奇とめきの薫に、お源は恍惚うっとりとして顔を上げると、帯も、袂たもとも、衣紋えもんも、扱帯しごきも、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と紅くれない咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀くじゃくを見るような。
141
め[#「め」に傍点]組が刎返はねかえした流汁の溝溜どぶだまりもこれがために水澄んで、霞をかけたる蒼空あおぞらが、底美しく映るばかり。先祖が乙姫に恋歌して、かかる処に流された、蛙の児よ、いでや、柳の袂に似た、君の袖に縋すがれかし。
142
妙子は、有名な独逸ドイツ文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵の愛娘である。
143
父様とうさんは、この家やの主人、早瀬主税には、先生で大恩人、且つ御主おしゅうに当る。さればこそ、嬢様さんと聞くと斉ひとしく、朝から台所で冷酒ひやざけのぐい煽あおり、魚屋と茶碗を合わせた、その挙動ふるまい魔のごときが、立処たちどころに影を潜めた。
144
まだそれよりも内証ないしょなのは、引窓を閉めたため、勝手の暗い……その……誰だか。
十一
145
妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔しなやかな葉の中に、枝をちょいと持替えながら、
「こんなものを持っていますから、こちらから、」
146
とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑ほほえみ、
「お邪魔をしてね。」
「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴ひッつかんで、
「あれ、お召ものが、」
147
と云う内に、吾妻下駄あずまげたが可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸なんど地に、浅黄と赤で、撫子なでしこと水の繻珍しゅちんの帯腰、向う屈かがみに水瓶みずがめへ、花菫はなすみれの簪かんざしと、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入ひとしおである。
「ここに置かして頂戴よ。まあ、お酒の香においがしてねえ、」と手を放すと、揺々ゆらゆらとなる矢車草より、薫ばかりも玉に染む、顔かんばせ酔えいて桃に似たり。
「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と罪もなく莞爾にっこりする。
148
お源はどぎまぎ、
「ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。」
「ちょいと、溢こぼしたの。やっぱり悪戯いたずらな小僧さん? 犬にばっかり弄からかっているんでしょう、私ン許とこのも同一おんなじよ。」
149
一廉いっかど社会観のような口ぶり、説くがごとく言いながら、上に上って、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包、真四角なのを差置いた。
「お裾が汚れます、お嬢様。」
「いいえ、可いいのよ、」
150
と褄つまは上げても、袖は板の間に敷くのであった。
「あの、お惣菜になすって下さい。」
「どうも恐れ入ります。」
「旨おいしくはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。」
151
少し途切れて、
「お内ですか。」
「はい、」
「主税さんは……あの旦那様は、」
152
と言いかけて、急に気が着いたか、
「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」
153
成程、そこまでは水口の明あかりが取れたが、奥へ行く道は暗かった。
「も、仕様がないのでございますよ、ほんとうに、あら、どうしましょう。」
154
とお源は飛上って、慌てて引窓を、くるり、かたり。颯さっと明るく虹の幻、娘の肩から矢車草に。
155
その時台所へ落着いて顔を出した、主人あるじの主税と、妙子は面おもてを見合わせた。
「驚おどかして上げましょうと思ったんだけれども。」と、笑って串戯じょうだんを言いながら、瓶かめなる花と対丈ついたけに、そこに娘が跪居ついいるので、渠かれは謹んで板に片手を支ついたのである。
「驚かしちゃ、私厭いやですよ。」
「じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。」
「それでもね、」
156
と愛々しく打傾き、
「お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、花にも水を遣りたかったの。」
「綺麗ですな、まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。」
「ほんとうにお綺麗でございますこと。」と、これは妙子に見惚みとれている。
「同じく頂戴が出来ますんで?」
「どうしようかしら。お茶を食あがるんなら可いいけれど、お酒を飲のむんじゃ、可哀相だわ。」
「え、酒なんぞ。」
「厭な、おほほ、主税さん、飲んでるのね。」
「はは、はは、さ、まあ、二階へ。」
157
と遁出にげだすような。後へするする衣きぬの音。階子段はしごだんの下あたりで、主税が思出したように、
「成程、今日は日曜ですな。」
「どうせ、そうよ、日曜が遊びに来たのよ。」
十二
158
二階の六畳の書斎へ入ると、机の向うへ引附けるは失礼らしいと思ったそうで、火鉢を座中へ持って出て、床の間の前に坐り蒲団ぶとん。
「どうぞ、お敷きなさいまし。」
159
主税は更あらたまって、慇懃いんぎんに手を支ついて、
「まあ、よくいらっしゃいました。」
「はい、」とばかり。長年内に居た書生の事、随分、我儘わがままも言ったり、甘えたり、勉強の邪魔もしたり、悪口も言ったり、喧嘩けんかもしたり。帽子と花簪の中であった。が、さてこうなると、心は同一おなじでも兵子帯へこおびと扱帯しごきほど隔てが出来る。主税もその扱にすれば、お嬢さんも晴がましく、顔の色とおなじような、毛巾ハンケチを便たよりにして、姿と一緒にひらひらと動かすと、畳に陽炎かげろうが燃えるようなり。
「御無沙汰を致しまして済みません。奥様おくさんもお変りがございませんで、結構でございます。先生は相変らず……飲酒めしあがりますか。」
「誰たれか、と同一おんなじように……やっぱり……」と莞爾にっこり。落着かない坐りようをしているから、火鉢の角へ、力を入れて手を掛けながら、床の掛物に目を反そらす。
160
主税は額に手を当てて、
「いや、恐縮。ですが今日のは、こりゃ逆上のぼせますんですよ。前刻さっき朝湯に参りました。」
「父様とうさんもね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。」
161
主税は胸を据えた体ていに、両膝にぴたりと手を置き、
「平に、奥様おくさんには御内分。貴女あなたまた、早瀬が朝湯に酔っていたなぞと、お話をなすっては不可いけませんよ。」
「ほんとうに貴郎あなたの半分でも、父様が母様の言うことを肯きくと可いんだけれど、学校でも皆みんなが評判をするんですもの、人が悪いのはね、私の事をお酌さん。なんて冷評ひやかすわ。」
「結構じゃありませんか。」
「厭だわ、私は。」
「だって、貴女、先生がお嬢さんのお酌で快く御酒を召食めしあがれば、それに越した事はありません。後いまにその筋から御褒美ごほうびが出ます。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女をお酌さん。なぞと云う奴は、親のために焼芋を調え、牡丹餅おはぎを買い……お茶番の孝女だ。」
162
と大おおいに擽くすぐって笑うと、妙子は怨めしそうな目で、可愛らしく見たばかり。
「私は、もう帰ります。」
「御串戯ごじょうだんをおっしゃっては不可ません。これからその焼芋だの、牡丹餅おはぎだの。」
「ええ、私はお茶番の孝女ですから。」
「まあ、御褒美を差上げましょう。」
163
と主税が引寄せる茶道具の、そこらを視ながめて、
「お客様があったのね。お邪魔をしたのじゃありませんか。」
「いいえ、もう帰った後です。」
「厭な人ね?」
164
と唐突だしぬけに澄まして云う。
「見たんですか。」
「見やしませんけれど、御覧なさいな。お茶台に茶碗が伏ふさっているじゃありませんか、お茶台に茶碗を伏せる人は、貴下嫌きらいだもの、父様も。」
「天晴あっぱれ御鑑定、本阿弥ほんあみでいらっしゃる。」と急須子きびしょをあける。
「誰方どなたなの?」
「御存じのない者です。河野と云う私の友達……来ていたのはその母親ですよ。」
「河野ね? 主税さん。」と妙子はふっくりした前髪で打傾き、
「学士の方じゃなくって、」
「知っていらっしゃるか。」と茶筒にかけた手を留めた。
「その母様おっかさんと云うのは、四十余りの、あの、若造りで、ちょいとお化粧なんぞして、細面ほそおもての、鼻筋の通った、何だか権式の高い、違って?」
「まったく。どうして貴女、」
「私の学校へ、参観に。」
新学士
十三
「昨日きのうは母様かあさんが来て御厄介でした。」
165
と、今夜主税の机の際わきに、河野英吉えいきちが、まだ洋服の膝も崩さぬ前さきから、
「君、困ったろう、母様は僕と違って、威儀堂々という風で厳粛だから、ははは、」
166
と肩を揺ゆすって、無邪気と云えば無邪気、余り底の無さ過ぎるような笑方。文学士と肩書の名刺と共に、新あたらしいだけに美しい若々しい髯ひげを押揉おしもんだ。ちと目立つばかり口が大おおきいのに、似合わず声の優しい男で。気焔きえんを吐くのが愚痴のように聞きなされる事がある。もっとも、何をするにも、福、徳とだけ襟を数えれば済む身分。貧乏は知らないと云っても可いいから、愚痴になるわけはないが、自分の親を、その年紀としで、友達の前で、呼ぶに母様をもってするのでも大略あらかた解る。酒に酔わずにアルコオルに中毒あたるような人物で。
167
年紀としは二十七。従じゅ五位勲くん三等、前さきの軍医監、同姓英臣ひでおみの長男、七人の同胞きょうだいの中うちに英吉ばかりが男子で、姉が一人、妹が五人、その中縁附いたのが三人で。姉は静岡の本宅に、さる医学士を婿にして、現に病院を開いている。
168
南町の邸は、祖母おばあさんが監督に附いて、英吉が主人あるじで、三人の妹が、それぞれ学校に通っているので、すでに縁組みした令嬢たちも、皆そこから通学した。別家のようで且つ学問所、家厳はこれに桐楊とうよう塾と題したのである。漢詩の嗜たしなみがある軍医だから、何等か桐楊の出処があろう、但しその義審つまびらかならず。
169
英吉に問うと、素湯さゆを飲むような事を云う。枝も栄えて、葉も繁ると云うのだろう、松柏も古いから、そこで桐楊だと。
170
説を為なすものあり、曰く、桐楊の桐きりは男児に較べ、楊やなぎは令嬢むすめたちに擬なぞらえたのであろう。漢皇重色思傾国いろをおもんじてけいこくをおもう……楊家女有ようかにじょあり、と同一おんなじ字だ。道理こそ皆美人であると、それあるいは然しからむ。が男の方は、桐に鳳凰ほうおう、とばかりで出処が怪しく、花骨牌はなふだから出たようであるから、遂にどちらも信あてにはならぬ。
171
休題さておき、南町の桐楊塾は、監督が祖母さんで、同窓が嬢むすめたちで、更に憚はばかる処が無いから、天下泰平、家内安全、鳳凰は舞い次第、英吉は遊び放題。在学中も、雨桐はじめ烏金からすがねの絶倍で、しばしばかいがん[#「かいがん」に傍点]に及んだのみか、卒業も二年ばかり後れたけれども、首尾よく学位を得たと聞いて、親たちは先ず占めた、びき[#「びき」に傍点]で、あおたん[#「あおたん」に傍点]の掴つかみだと思うと、手八てはちの蒔直まきなおしで夜泊よどまりの、昼流連ひるながし。祖母さんの命を承うけて、妹連から注進櫛の歯を挽ひくがごとし。で、意見かたがたしかるべき嫁もあらばの気構えで、この度母親が上京したので、妙子が通う女学校を参観したと云うにつけても、意のある処が解せられる。
「どうだい、君、窮屈な思いをしたろう。」
172
親が参って、さぞ御迷惑、と悪気は無い挨拶あいさつも、母様かあさんで、威儀で、厳粛で、窮屈な思いを、と云うから、何と豪えらいか、恐入ったろう、と極きめつけるがごとくに聞える。
173
例いつもの調子と知っているから、主税は別に気にも留めず、勿論、恐入る必要も無いので、
「姑に持とうと云うんじゃなし、ちっとも窮屈な事はありません。」
174
机の前に鉄拐胡坐てっかあぐらで、悠然と煙草を輪に吹く。
「しかし、君、その自おのずから、何だろう。」
175
とその何だか、火箸で灰を引掻ひっかいて、
「僕は窮屈で困る。母様がああだから、自から襟を正すと云ったような工合でね。……
176
直じきの妹なんざ、随分脱兎だっとのごとしだけれど、母様の前じゃほとんど処女だね。」
177
と髯を捻ひねる。
十四
「で、何かね、母様かあさんは、」
178
と主税は笑いながら、わざと同一おんなじように母様と云って、煙管きせるを敲はたき、
「しばらく御滞在なんですかい。」
「一月ぐらい居るかも知れない、ああ、」と火鉢に凭掛よりかかる。
「じゃ当分謹慎だね。今夜なぞも、これから真直まっすぐにお帰りだろう、どこへも廻りゃしますまいな。」
「うふふ、考えてるんだ。」とまた灰に棒を引く。
「相変らず辛抱[#「辛抱」は底本では「幸抱」と誤記]が出来ないか。」
「うむ、何、そうでもない。母様が可愛がってくれるから、来ている間は内も愉快だよ。賑にぎやかじゃあるし、料理が上手だからお菜かずも旨うまいし、君、昨夜ゆうべは妹たちと一所に西洋料理を奢おごって貰った、僕は七皿喰った。ははは、」
179
と火箸をポンと灰に投なげて、仰向いて、頬杖ほおづえついて、片足を鳶とんびになる。
「御馳走と云えば内へ来るめ[#「め」に傍点]組だが、」
180
皆まで聞かず、英吉は突放つっぱなしたように、
「ありゃ君、もう来なくッても可いよ。余り失礼な奴だと、母様が大変感情を害したからね、君から断ってくれたまえ。」
181
と真面目で云って、衣兜かくしから手巾ハンケチをそそくさ引張出し、口を拭ふいて、
「どうせ東京の魚だもの、誰のを買ったって新鮮あたらしいのは無い。たまに盤台の中で刎はねてると思や、蛆うじで蠢うごくか、そうでなければ比目魚ひらめの下に、手品の鰌どじょうが泳いでるんだと、母様がそう云ったっけ。」
182
め[#「め」に傍点]組が聞いたら、立処たちどころに汝の一命覚束おぼつかない、事を云って、けろりとして、
「静岡は口の奢った、旨いものを食う処さ。汽車の弁当でも試みたまえ、東海道一番だよ。」
183
主税はどこまでも髯のある坊ちゃんにして、逆らわない気で、
「いや、何か、手前どもで、め[#「め」に傍点]組のものを召食めしあがって、大層御意に叶ったから、是非寄越してくれと誰かが仰有おっしゃるもんだから取あえず差立てたんだ。御家風を存じないでもなかったけれども、承知の上で、君がたってと云ったから、」
「僕は構わん。僕は構わんが、あの調子だもの、祖母おばあさんや妹たちはもとよりだ。故郷くにから連れて来ている下女さえ吃驚びっくりしたよ。母様は、僕を呼びつけて談じたです。あんなものに朋輩呼ばわりをされるような悪い事をしたか。そこいらの芸妓げいしゃにゃ、魚屋だの、蒲鉾かまぼこ屋の職人、蕎麦そば屋の出前持の客が有ると云うから、お前、どこぞで一座でもおしだろう、とね、叱られたです。
184
僕は何、あれは通りもんです。早瀬の許とこへ行っても、同一おなじく、今日は旨えものを食わせてやろう。居るか、と云った調子です、と云ったら、母様が云うにゃ、当前あたりまえだ、早瀬じゃ、細君……」
185
と云いかけて、ぐっと支つかえたが、ニヤリとして、
「君、僕は饒舌しゃべりやしないよ。僕は決して饒舌らんさ。秘密で居ることを知ってるから、君の不利益になるような事は云わないがね、妹たちが知ってるんだ。どこかで聞いて来てたもんだから、ついね、」
186
と気の毒そう。
「まあ、可い、そんな事は構わないが、僕と懇意にしてくれるんなら、もうちっと君、遊蕩あそびを控えて貰いたいね。
187
昨日きのうも君の母様が来て、つくづく若様の不始末を愚痴るのが、何だか僕が取巻きでもして、わッと浮かせるようじゃないか。
188
高利アイスを世話して、口銭を取る。酒を飲ませてお流ながれ頂戴。切々せつせつ内へ呼び出しちゃ、花骨牌はなふだでも撒まきそうに思ってるんだ。何の事はない、美少年録のソレ何だっけ、安保箭五郎直行あほのやごろうなおゆきさ。甚しきは美人局つつもたせでも遣りかねないほど軽蔑けいべつしていら。母様の口ぶりが、」
189
とややその調子が強くなったが、急に事も無げな串戯口じょうだんぐち、
「ええ、隊長、ちと謹んでくれないか。」
「母様の来ている内は謹慎さ。」
190
と灰を掻きまわして、
「その代り、西洋料理七皿だ。」と火箸をバタリ。
十五
「じゃあ色気より食気の方だ、何だか自棄やけに食うようじゃないか。しかし、まあそれで済みゃ結構さ。」
「済みやしないよ、七皿のあとが、一銚子ひとちょうし、玉子に海苔のりと来て、おひけ[#「おひけ」に傍点]となると可いんだけれど、やっぱり一人で寝るんだから、大きに足が突張つっぱるです。それに母様が来たから、ちっとは小遣があるし、二三時間駈出して行って来ようかと思う。どうだろう、君、迷惑をするだろうか。」
191
と甘えるような身体からだつき、座蒲団にぐったりして、横合から覗のぞいて云う。
「何が迷惑さ。君の身体で、御自分お出かけなさるに、ちっとも迷惑な事はない。迷惑な事はないが……」
「いや、ところが今夜は、君の内へ来たことを、母様が知ってるからね。今のような話じゃ、また君が引張出したように、母様に思われようかと、心配をするだろうと云うんだ。」
「お疑いなさるは御勝手さ。癪しゃくに障ればったって、恐い事、何あるものか、君の母親おふくろが何だ?」
192
と云いかけて、語気をかえ、
「そう云っちまえば、実も蓋ふたもない。痛くない腹を探られるのは、僕だって厭いやだ。それにしても早瀬へ遊びに行くと云う君に、よく故障を入れなかったね。」
「うむ、そりゃあれです、君に逢わない内は疑うたぐっていないでもなかったがね、」
193
あえて臆面おくめんは無い容子ようすで、
「昨日きのう逢ってから、そうした人じゃないようだ、と頷うなずいていた。母様はね、君、目が高いんだ、いわゆる士を知る明ありだよ。」
「じゃ、何か、士を知る明があって、それで、何か、そうした人じゃないようだ、ようだ[#「ようだ」に傍点]。とまだ疑があるのか。」
「だってただ一面識だものね、三四度たび交際つきあって見たまえ。ちゃんと分るよ、五度とは言わない。」
「何も母様に交際うには当らんじゃないか。せめて年増ででもあればだが、もう婆さまだ。」
194
と横を向いて、微笑ほほえんで、机の上の本を見た。何の書だか酒井蔵書の印が見える。真砂町から借用のものであろう。
195
英吉は、火鉢越に覗きながら、その段は見るでもなく、
「年紀としは取ってるけれど、まだ見た処は若いよ。君、婦人会なんぞじゃ、後姿を時々姉と見違えられるさ。
196
で、何だ、そうやって人を見る明が有るもんだから、婿の選択は残らず母様に任せてあるんだ。取当てるよ。君、内の姉の婿にした医学士なんざ大当りだ。病院の立派になった事を見たまえな。」
「僕なんざ御選択に預れまいか。」
197
と気を、その書物に取られたか、木に竹を接ついだような事を云うと、もっての外真面目まじめに受けて、
「君か、君は何だ、学位は持っちゃおらんけれど、独逸ドイツのいけるのは僕が知ってるからね。母様の信用さえ得てくれりゃ、何だ。ええ君、妹たちには、もとより評判が可いんだからね、色男、ははは、」
198
と他愛なく身体からだ中で笑い、
「だって、どうする。階下したに居るのを、」
199
背後うしろを見返り、
「湯かい。見えなかったようだっけ。」
200
主税は堪こらえず失笑ふきだしたが、向直って話に乗るように、
「まあ、可い加減にして、疾はやく一人貰っちゃどうだ。人の事より御自分が。そうすりゃ遊蕩あそびも留やみます。安保箭五郎悪い事は言わないが、どうだ。」
「むむ、その事だがね。」
201
とぐったりしていた胸を起して、また手巾で口を拭いて、なぜか、縞しまのズボンを揃えて、ちゃんと畏かしこまって、
「実はその事なんだ。」
「何がその事だ。」
「やっぱりその事だ。」
「いずれその事だろう。」
「ええ、知ってるのか。」
「ちっとも知らない、」
202
と煙管きせるを取って、
「いや、真面目に真面目に、何か、心当りでも出来たかね。」
縁 談
十六
203
時に河野がその事と言えば、いずれ婦おんなに違いないが、早瀬はいつもこの人から、その収紅拾紫しゅうこうしゅうし、鶯うぐいすを鳴かしたり、蝶を弄もてあそんだりの件について、いや、ああ云ったがこれは何と、こう申したがそれは如何いかに。無心をされたがどうしたものか、なるべくは断りたい、断ったら嫌われようか、嫌われては甚だ不好まずい。一体恋スウィートでありながら金子かねをくれろは変な工合だ、妙だよ。その意志のある処を知るに苦くるしむ、などと、※紅をさして、蚯蚓みみずまでも突附けて、意見? を問われるには恐れている。
204
誇るに西洋料理七皿をもってする、式かたのごとき若様であるから、冷評ひやかせば真に受ける、打棄うっちゃって置けば悄しょげる、はぐらかしても乗出す。勢い可い加減にでも返事をすれば、すなわち期せずして遊蕩あそびの顧問になる。尠すくなからず悩まされて、自分にお蔦と云う弱点よわみがあるだけ、人知れず冷汗が習ならいであったから、その事ならもう聞くまい、と手強く念を入れると、今夜はズボンの膝を畏かしこまっただけ大真面目。もっとも馴染なじみの相談も串戯じょうだんではないのだけれども。特に更あらたまって、ついにない事、もじもじして、
「実はね、母様も云ったんだ、君に相談をして見ろと……」
「縁談だね、真面目な。」
205
珍らしそうに顔を見て、
「母様から御声懸りで、僕に相談と云う縁談の口は、当時心当りが無いが。ああ、」
206
と軽く膝を叩いた。
「隣家となりのかい。むむ、あれは別嬪べっぴんだ。ちょいと高慢じゃあるが、そのかわり学校はなかなか出来るそうだ。」
207
英吉は小児こどものように頭かぶりを振って、
「ううむ、違うよ。」
「違う。じゃ誰だい。」
208
と落着いて尋ねると、慌てて衣兜かくしへ手を突込つっこみ、肩を高うして、一ツ揺ゆすって、
「真砂町の、」
「真砂町!?[#「!?」は1字、第3水準1-8-78]」
209
と聞くや否や、鸚鵡返おうむがえしに力が入った。床の間にしっとりと露を被かついだ矢車の花は、燈ひの明あかりを余所よそに、暖か過ぎて障子を透すかした、富士見町あたりの大空の星の光を宿して、美しく活いかっている。
210
見よ、河野が座を、斜ななめに避けた処には、昨日きのうの袖の香を留めた、友染の花も、綾あやの霞も、畳の上を消えないのである。
211
真砂町、と聞返すと斉ひとしく、屹きっとその座に目を注いだが、驚破すわと謂いわば身をもって、影をも守らん意気組であった。
212
英吉はまた火箸を突支棒つっかいぼうのようにして、押立尻おったてじりをしながら、火鉢の上へ乗掛のっかかって、
「あの、酒井ね、君の先生の。あすこに娘があるんだね。」
「あるさ、」と云ったが、余り取っても着けないようで、我ながら冷かに聞えたから、
「知らなかったかな、君は。随分その方へかけちゃ、脱落ぬかりはあるまいに。」
「洋燈ランプ台下暗しで、と大おおいに洒落しゃれて、さっぱり気が付かなかった。君ン許とこへもちょいちょい遊びに来るんだろう。」
「お成りがあるさ。僕には御主人だ。」
「じゃ一度ぐらい逢いそうなものだった。」
213
何か残惜く、かごとがましく、不平そうに謂ったのが、なぜ見せなかった、と詰なじるように聞えたので、早瀬は石を突流すごとく、
「縁が無かったんだろうよ。」
「ところがあります、ははは、」と、ここでまた相好とともに足を崩して、ぐたりと横坐りになって、
「思うに逢わずして思わざるに……じゃない。向うも来れば僕も来るのに、此家ここで逢いそうなものだったが、そうでなくって君、学校で見たよ。ああ、あの人の行く学校で、妙子さんの行く学校で。」
214
と、何だか話しに乗らないから、畳かけて云った。妙子、と早や名のこの男に知られたのを、早瀬はその人のために恥辱のように思って、不快な色が眉の根に浮んだ。
「どうして、学校で、」
215
とこの際わざと尋ねたのである。母子おやこで参観したことは、もう心得ていたのに。
十七
「どうもこうも無いさ。母様と二人で参観に出掛けたんだ。教頭は僕と同窓だからね。先せんにから来て見い、来て見い、と云うけれど、顔の方じゃ大した評判の無い学校だから、馬鹿にしていたが驚いたね。勿論五年級にゃ佳いいのが居ると云ったっけが、」
「じゃあその教頭、媒酌人なこうども遣やるんだな。」
216
と舌尖したさき三分で切附けたが、一向に感じないで、
「遣るさ。そのかわり待合や、何かじゃ、僕の方が媒酌人だよ。」
「怪しからん。黒と白との、待て? 海老茶と緋縮緬ひぢりめんの交換だな。いや、可い面つらの皮だ。ずらりと並べて選取よりどりにお目に掛けます、小格子の風だ。」
「可いじゃないか、学校の目的は、良妻賢母を造るんだもの、生理の講義も聞かせりゃ、媒酌なこうどもしようじゃあないか。」
217
とこの人にして大警句。早瀬は恐入った体で、
「成程、」
「勿論人を見てするこッた、いくら媒酌人をすればッて、人ごとに許しゃしない。そこは地位もあり、財産もあり、学位も有るもんなら、」
218
と自若として、自分で云って、意気頗すこぶる昂然こうぜんたりで、
「講堂で良妻賢母を拵こしらえて、ちゃんと父兄に渡す方が、双方の利益だもの。教頭だって、そこは考えているよ。」
「で何かね、」
219
早瀬は、斜めに開き直って、
「そこで僕の、僕の先生の娘を見たんだな。」
「ああ、しかも首席よ。出来るんだね。そうして見た処、優美しとやかで、品が良くって、愛嬌あいきょうがある。沢山ない、滅多にないんだ。高級三百顔色なし。照陽殿裏第一人だよ。あたかも可よし、学校も照陽女学校さ。」
220
と冷えた茶をがぶりと一口。浮かれの体とおいでなすって、
「はは、僕ばかりじゃない、第一母様が気に入ったさ。あれなら河野家の嫁にしても、まあまあ……恥かしくない、と云って、教頭に尋ねたら、酒井妙子と云うんだ。ちょっと、教員室で立話しをしたんだから、委くわしいことは追てとして、その日は帰った。
221
すると昨日きのう、母様がここへ訪ねて来たろう。帰りがけに、飯田町から見附みつけを出ようとする処で、腕車くるまを飛ばして来た、母衣ほろの中のがそれだッたって、矢車の花を。」
222
と言いかけて、床の間を凝じっと見て、
「ああ、これだこれだ。」
223
ひょいと腰を擡もたげて、這身はいみにぬいと手を伸ばした様子が、一本ひともと引抜ひんぬきそうに見えたので、
「河野!」
「ええ、」
「それから。おい、肝心な処だ。フム、」
224
乗って出たのに引込まれて、ト居直って、
「あの砂埃すなほこりの中を水際立って、駈け抜けるように、そりゃ綺麗だったと云うのだ。立留って見送ると、この内の角へ車を下ろしたろう。
225
そろそろ引返ひっかえしたんです、母様がね。休んでいた車夫に、今のお嬢さんは真中の家へですか。へい、さようで、と云うのを聞いて帰ったのさね。」
226
と早口に饒舌しゃべって、
「美人だねえ。君、」とゆったり顔を見る。
「ト遣った工合は、僕が美人のようだ、厭だ。結婚なんぞ申込んじゃ、」と笑いながら、大おおいに諷するかのごとくに云って、とんと肩を突いて、
「浮気ものめ。」
「浮気じゃない、今度ばかしゃ大真面目だがね、君、どうかなるまいか。」
227
また甘えるように、顔を正的まともに差出して、頤おとがいを支えた指で、しきりに忙せわしく髯を捻ひねる。
228
早瀬はしばらく黙ったが、思わず拱こまぬいていた腕に解くと、背後うしろざまに机に肱ひじ、片手をしかと膝に支ついて、
「貰うさ。」
「え。」
「お貰いなさい。」
「くれようか。」
「話によっちゃ、くれましょう。」
「後継者あととりじゃないんだね。」
「勿論後継者じゃあない。」
「じゃ、まあ、話は出来るとして、」と、澄まして云って、今度は心ありげに早瀬の顔を。
「だが、何だよ、私あっしア」と云った調子が変って、
「媒介人なこうどは断るぜ、照陽女学校の教頭じゃないんだから。」
十八
229
そうすると英吉が、かねて心得たりの態度で、媒酌人は勿論、しかるべき人をと云ったのが、其許そのもとごときに勤まるものかと、軽かろんじ賤いやしめたように聞えて、
「そりゃ、いざとなりゃ、教育界に名望のある道学者先生の叔父もあるし、また父様とうさんの幕下で、現下その筋の顕職にある人物も居るんだから、立派に遣ってくれるんだけれど、その君、媒酌人を立てるまでに、」
230
と手を揃えて、火鉢の上へ突出して、じりりと進み、
「先方さきの身分も確めねばならず、妙子、ともう呼棄てにしての品行の点もあり、まあ、学校は優等としてだね。酒井は飲酒家さけのみだと云うから、遺伝性の懸念もありだ。それは大丈夫としてからが、ああいう美しいのには有りがちだから、肺病の憂うれいがあってはならず、酒井の親属関係、妙子の交友の如何いかん、そこらを一つ委くわしく聞かして貰いたいんだがね。」
231
主税は堪たまりかねて、ばりばりと烏府すみとりの中を突崩した。この暖いのに、河野が両手を翳かざすほど、火鉢の火は消えかかったので、彼は炭を継ごうとして横向になっていたから、背けた顔に稲妻のごとく閃ひらめいた額の筋は見えなかったが、
「もう一度聞こう、何だっけな。先方さきの身分?」
「うむ、先方の身分さ。」
「独逸文学者よ、文学士だ……大学教授よ。知ってるだろう、私の先生だ。」
「むむ、そりゃ分ってるがね、妙子の品行の点もあり、」
「それから、」
「遺伝さ、」
「肺病かね、」
「親族関係、交友の如何いかんさ。何、友達の事なんぞ、大した条件ではないよ。結婚をすれば、処女時代の交際は自然に疎うとくなるです。それに母様が厳しく躾しつければ、その方は心配はないが、むむ、まだ要点は財産だ。が、酒井は困っていやしないだろうか。誰も知った侠客きょうかく風の人間だから、人の世話をすりゃ、つい物費ものいりも少くない。それにゃ、評判の飲酒家さけのみだし、遊ぶ方も盛だと云うし、借金はどうだろう。」
232
主税は黙って、茶を注ついだが、強いて落着いた容子に見えた。
「何かね、持参金でも望みなのかね。」
「馬鹿を謂いいたまえ。妹たちを縁附けるに、こちらから持参はさせるが、僕が結婚するに、いやしくも河野の世子が持参金などを望むものか。
233
君、僕の家じゃ、何だ、女の児こが一人生れると、七夜から直ぐに積立金をするよ。それ立派に支度が出来るだろう。結婚してからは、その利息が化粧料、小遣となろうというんだ。自然嫁入先でも幅が利きます。もっともその金を、婿の名に書き替かえるわけじゃないが、河野家においてさ、一人一人の名にして保管してあるんだから、例えば婿が多日しばらく月給に離れるような事があっても、たちまち破綻はたんを生ずるごとき不面目は無い。
234
という円満な家庭になっているんだ。で先方さきの財産は望じゃないが、余り困っているようだと、親族の関係から、つい迷惑をする事になっちゃ困る。娘の縁で、一時借用なぞというのは有がちだから。」
「酒井先生は江戸児えどっこだ!」
235
と唐突だしぬけに一喝して、
「神田の祭礼まつりに叩き売っても、娘の縁で借りるもんかい。河野!」
236
と屹きっと見た目の鋭さ。眉を昂あげて、
「髯があったり、本を読んだり、お互の交際は窮屈だ。撲倒はりたおすのを野蛮と云うんだ。」
237
お蔦は湯から帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂馥郁ふくいくとして、繻子しゅすの襟の烏羽玉うばたまにも、香やは隠るる路地の宵。格子戸を憚はばかって、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える気勢けはいもない。
238
石鹸シャボンを巻いた手拭てぬぐいを持ったままで、そっと階子段はしごだんの下へ行くと、お源は扉ひらきに附着くッついて、一心に聞いていた。
十九
「先生が酒を飲もうと飲むまいと、借金が有ろうと無かろうと、大きなお世話だ。遺伝が、肺病が、品行が何だ。当方こちらからお給事みやづかえをしようと云うんじゃなし、第一欲しいと仰有おっしゃったって、差上げるやら、平に御免を被るやら、その辺も分らないのに、人の大切な令嬢を、裸体はだかにして検査するような事を聞くのは、無礼じゃないか。
239
私わっしあ第一、河野。世間の宗教家と称となうる奴が、吾々を捕つかまえて、罪の児こだの、救ってやるのと、商売柄好すきな事を云う。薬屋の広告は構わんが、しらきちょうめんな人間に向って罪の子とは何んだい。本人はともかくも、その親たちに対して怪しからん言種いいぐさだと思ってるんです。
240
今君が尋問に及んだ、先生の令嬢の身許検みもとしらべの条件が、ただの一ケ条でもだ。河野英吉氏の意志から出たのなら、私はもう学者や紳士の交際は御免蒙こうむる。そのかわりだ、半纏着はんてんぎの附合いになって撲倒すよ。はははは、えい、おい、」
241
と調子が砕けて、
「母様の指揮さしずだろう、一々。私はこうして懇意にしているからは、君の性質は知ってるんだ。君は惚れたんだろう。一も二もなく妙ちゃんを見染みそめたんだ。」
「うう、まあ……」と対手あいての血相もあり、もじもじする。
「惚れてよ、可愛い、可憐いとしいものなら、なぜ命がけになって貰わない。
242
結婚をしたあとで、不具かたわになろうが、肺病になろうが、またその肺病がうつって、それがために共々倒れようが、そんな事を構うもんか。
243
まあ、何は措おいて、嫁の内の財産を云々うんぬんするなんざ、不埒ふらちの到いたりだ。万々一、実家さとの親が困窮して、都合に依って無心合力ごうりょくでもしたとする。可愛い女房の親じゃないか。自分にも親なんだぜ、余裕があったら勿論貢ぐんだ。無ければ断る。が、人情なら三杯食う飯を一杯ずつ分わけるんだ。着物は下着から脱いで遣るのよ。」
244
と思い入った体で、煙草を持った手の尖さきがぶるぶると震えると、対手の河野は一向気にも留めない様子で、ただ上の空で聞いて首こうべだけ垂れていたが、かえって襖ふすまの外で、思わずはらはらと落涙したのはお蔦である。
245
何の話? と声のはげしいのを憂慮きづかって、階子段の下でそっと聞くと、縁談でございますよ、とお源の答えに、ええ、旦那の、と湯上りの颯さっと上気した顔の色を変えたが、いいえ、河野様が御自分の、と聞いて、まあ、と呆れたように莞爾にっこりして、忍んで段を上って、上り口の次の室まの三畳へ、欄干てすりを擦って抜足で、両方へ開けた襖の蔭へ入ったのを、両人ふたりには気が付かずに居るのである。
246
と河野は自分には勢いきおいのない、聞くものには張合のない口吻くちぶりで、
「だが、母さんが、」
「母様が何だ。母様が娶もらうんじゃあるまい、君が女房にするんじゃないか。いつでもその遣方だから、いや、縁談にかかったの、見合をしたの、としばしば聞かされるのが一々勘定はせんけれども、ざっと三十ぐらいあった。その内、君が、自分で断ったのは一ツもあるまい。皆母さんがこう云った。叔父さんが、ああだ、父さんが、それだ、と難癖を附けちゃ破談だ。
247
君の一家いっけは、およそどのくらいな御門閥ごもんばつかは知らん。河野から縁談を申懸けられる天下の婦人は、いずれも恥辱を蒙るようで、かねて不快に堪えんのだ。
248
昔の国守大名が絵姿で捜せば知らず、そんな御註文に応ずるのが、ええ、河野、どこにだってあるものか。」
249
と果は歎息して云うのであった。河野は急に景気づいて、
「何、無いことはありゃしない。そりゃ有るよ。君、僕ン許とこの妹たちは、誰でもその註文に応ずるように仕立ててあるんだ。
250
揃って容色きりょうも好よし、また不思議に皆みんな別嬪べっぴんだ。知ってるだろう。生れたての嬰児あかんぼの時は、随分、おかしな、色の黒いのもあるけれど、母さんが手しおに掛けて、妙齢としごろにするまでには、ともかくも十人並以上になるんだ、ね、そうじゃないか。」
251
主税は返す言ことばもなく、これには否応なく頷うなずかされたのである。蓋けだし事実であるから。
一家一門
二十
「それから、財産は先刻さっきも謂いった通り、一人一人に用意がしてある。病気なり、何なりは、父様も兄も本職だから注意が届くよ。その他は万事母様が預かって躾しつけるんだ。
252
好嫌すききらいは別として、こちらで他に求める条件だけは、ちゃんとこちらにも整えてあるんだから、強あながち身勝手ばかり謂うんじゃない。
253
けれども、品行の点は、疑えば疑えると云うだろう。そこはね、性理上も斟酌しんしゃくをして、そろそろ色気が、と思う時分には、妹たちが、まだまだ自分で、男をどうのこうのという悪智慧わるぢえの出ない先に、親の鑑定めがねで、婿を見附けて授けるんです。
254
否いやも応も有りやしない。衣服きものの柄ほども文句を謂わんさ。謂わない筈はずだ、何にも知らないで授けられるんだから。しかし間違いはない、そこは母さんの目が高いもの。」
「すると何かね、婿を選ぶにも、およそその条件が満足に解決されないと不可いかんのだね。」
「勿論さ、だから、皆みんな円満に遣っとるよ。第一の姉が医学士さね、直じきの妹の縁附いているのが、理学士。その次のが工学士。皆みんな食いはぐれはないさ。……今また話しのある四番目のも医学士さ、」
「妙に選取えりどって揃えたもんだな。」
「うむ、それは父様の主義で、兄弟一家いっけ一門を揃えて、天下に一階級を形造ろうというんだ。なるべくは、銘々それぞれの収入も、一番の姉が三百円なら、次が二百五十円、次が二百円、次が百五十円、末が百円といった工合に長幼の等差を整然きちんと附けたいというわけだ。
255
先ず行われている、今の処じゃ。そうしてその子、その孫、と次第にこの社会における地位を向上しようというのが理想なんです。例えば、今の代よが学士なら、その次が博士さ、大博士さね。君。
256
謂って見れば、貴族院も、一家族で一党を立てることが出来る。内閣も一門で組織し得るようにという遠大の理想があるんだ。また幸に、父様にゃ孫も八九人出来た。姪めいを引取って教育しているのも三四人ある。着々として歩を進めている。何でも妹たちが人才を引着けるんだ。」
257
人事ひとごとながら、主税は白面に紅こうを潮して、
「じゃ、君の妹たちは、皆学士を釣る餌だ。」
「餌でも可い、構わんね。藤原氏の為だもの。一人や二人犠牲ぎせいが出来ても可いが、そりゃ大丈夫心配なしだ。親たちの目は曇りやしない。
258
次第々々に地位を高めようとするんだから、奇才俊才、傑物は不可いかん。そういうのは時々失敗を遣る。望む処は凡才で間違いの無いのが可いのだ。正々堂々の陣さ、信玄流です。小豆長光を翳かざして旗下へ切込むようなのは、快は快なりだが、永久持重の策にあらず……
259
その理想における河野家の僕が中心なんだろう。その中心に据すわろうという妻さいなんだから、大おおいに慎重の態度を取らんけりゃならんじゃないか。詰り一家いっけの女王クウイインなんだから、」
260
河野は、渠かれがいわゆる正々堂々として説くこと一条。その理想における根ざしの深さは、この男の口から言っても、例の愚痴のように聞えるのや、その落着かない腰には似ない、ほとんど動かすべからざる、確乎としたものであった。
「いや、よく解った、成程その主義じゃ、人の娘の体格検査をせざあなるまい。しかし私は厭いやだ! 私の娘なら断るよ、たとい御試験には及第を致しましても、」
261
と冷かに笑うと、河野は人物に肖にず、これには傲然ごうぜんとして、信ずる処あるごとく、合点のみこんだ笑い方をして、
「でも、条件さえ通過すれば、僕は娶もらうよ。ははは、きっと貰うね、おい、一本貰って行くぜ。」
262
と脱兎のごとく、かねて計っていたように、この時ひょいと立つと、肩を斜めに、衣兜かくしに片手を突込んだまま、急々つかつかと床の間に立向うて、早や手が掛った、花の矢車。
263
片膝立てて、颯さっと色をかえて、
「不可いけないよ。」
「なぜかい?」
264
と済まして見返る。主税は、ややあせった気味で、
「なぜと云って、」
「はははは、そこが、肝心な処だ、と母様が云ったんだ。」
265
と突立ったまま、ニヤリとして、
「早瀬、君がどうかしているんじゃないか、ええ、おい、妙子を。」
二十一
266
冷れいか、熱か、匕首ひしゅ、寸鉄にして、英吉のその舌の根を留めようと急あせったが、咄嗟とっさに針を吐くあたわずして、主税は黙って拳こぶしを握る。
267
英吉は、ここぞ、と土俵に仕切った形で、片手に花の茎じくを引掴ひッつかみ、片手で髯ひげを捻ひねりながら、目をぎろぎろと……ただ冴えない光で、
「だろう、君、筒井筒振分髪と云うんだろう。それならそう云いたまえ、僕の方にもまた手加減があるんだ、どうだね。」
268
信玄流の敵が、かえってこの奇兵を用いたにも係らず、主税の答えは車懸りでも何でもない、極めて平凡なものであった。
「怪しからん事を云うな、串戯じょうだんとは違う、大切なお嬢さんだ。」
「その大切のお嬢さんをどうかしているんじゃないか、それとも心で思ってるんか。」
「怪しからん事を云うなと云うのに。」
「じゃ確かい。」
「御念には及びません。」
「そんなら何も、そう我が河野家の理想に反対して、人が折角聞こうとする、妙子の容子を秘かくさんでも可いじゃないか。話が纏まとまりゃ、その人にも幸福だよ、河野一党の女王クウイインになるんだ。」
「幸か、不幸か、そりゃ知らん、が、私は厭だ。一門の繁栄を望むために、娘を餌にするの、嫁の体格検査をするの、というのは真平御免だ。惚れたからは、癩なりでも肺病でも構わんのでなくっちゃ、妙ちゃんの相談は決してせん。勿論お嬢は瑕きずのない玉だけれど、露出むきだしにして河野家に御覧に入れるのは、平相国清盛に招かれて月が顔を出すようなものよ。」といささか云い得て濃い煙草を吻ほっと吐ついたは、正にかくのごとく、山の端はの朧気おぼろげならん趣であった。
「なら可い、君に聞かんでも余処わきで聞くよ。」
269
と案外また英吉は廉立かどだった様子もなく、争や勝てりの態度で、
「しかし縁起だ、こりゃ一本貰って行くよ。妙子が御持参の花だから、」
「…………」
「君がどうと云う事も無いのなら、一本二本惜むにゃ当るまい、こんなに沢山あるものを、」
「…………」
「失敬、」
270
あわや抜き出そうとする。と床しい人香が、はっと襲って、
「不可いけませんよ。」と半纏の襟を扱しごきながら、お蔦が襖ふすまから、すっと出て、英吉の肩へ手を載せると、蹌踉よろけるように振向く処を、入違いに床の間を背負しょって、花を庇かばって膝をついて、
「厭ですよ、私が活けたのが台なしになります。」
271
と嫣然えんぜんとして一笑する。
「だって、だって君、突込んであるんじゃないか、池の坊も遠州もありゃしない。ちっとぐらい抜いたって、あえてお手前が崩れるというでもないよ。」
272
とさすがに手を控えて、例の衣兜へ突込んだが、お蔦の目前めさきを、子を捉とろ、子捉ろ。の体で、靴足袋で、どたばた、どたばた。
「はい、これは柳橋流と云うんです。柳のように房々活けてありましょう、ちゃんと流儀があるじゃありませんか。」
「嘘を吐きたまえ、まあ可いから、僕が惚込んだ花だから。」
273
主税は火鉢をぐっと手許へ。お蔦はすらりと立って、
「だってもう主のある花ですもの。」
「主がある!」と目を※みはる。
「ええ、ありますとも、主税と云ってね。」
「それ見ろ、早瀬、」
「何だ、お前、」
「いいえ、貴下あなた、この花を引張ひっぱるのは、私を口説くのと同一おんなじ訳よ。主があるんですもの。さあ、引張って御覧なさい。」
274
と寄ると、英吉は一足引く。
「さあ、口説いて頂戴、」
275
と寄ると、英吉は一足引く。微笑ほほえみながら擦すり寄るたびに、たじたじと退すさって、やがて次の間へ、もそりと出る。
道学先生
二十二
276
月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず賑にぎやかな。書肆ほんやの文求堂をもうちっと富坂寄とみざかよりの大道へ出した露店ほしみせの、いかがわしい道具に交ぜて、ばらばら古本がある中の、表紙の除とれた、けばの立った、端摺はしずれの甚ひどい、三世相を開けて、燻くすぼったカンテラの燈あかりで見ている男は、これは、早瀬主税である。
277
何の事ぞ、酒井先生の薫陶くんとうで、少くとも外国語をもって家を為なし、自腹で朝酒を呷あおる者が、今更いかなる必要があって、前世の鸚鵡おうむたり、猩々しょうじょうたるを懸念する?
278
もっとも学者だと云って、天気の好いい日に浅草をぶらついて、奥山を見ないとも限らぬ。その時いかなる必要があって、玉乗の看板を観ると云う、奇問を発するものがあれば、その者愚ならずんば狂に近い。鰻屋の前を通って、好い匂がしたと云っても、直ぐに隣の茶漬屋へ駈込みの、箸を持ちながら嗅かぐ事をしない以上は、速断して、伊勢屋だとは言憎い。
279
主税とても、ただ通りがかりに、露店ほしみせの古本の中にあった三世相が目を遮ったから、見たばかりだ、と言えばそれまでである。けれども、渠かれは目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではないか。しかも開けて見ている処が――夫婦相性の事――は棄置かれぬ。
280
且つその顔色かおつきが、紋附の羽織で、※ふきの厚い内君マダムと、水兵服の坊やを連れて、別に一人抱いて、鮨にしようか、汁粉にしようか、と歩行てくっている紳士のような、平和な、楽しげなものではなく、主税は何か、思い屈した、沈んだ、憂わしげな色が見える。
281
好男子世に処して、屈託そうな面色おももちで、露店の三世相を繰るとなると、柳の下に掌てのひらを見せる、八卦の亡者と大差はない、迷いはむしろそれ以上である。
282
所以ゆえある哉かな、主税のその面上の雲は、河野英吉と床の間の矢車草……お妙の花を争った時から、早やその影が懸ったのであった。その時はお蔦の機知さそくで、柔能よく強ごうを制することを得たのだから、例いつもなら、いや、女房は持つべきものだ、と差対さしむかいで祝杯を挙げかねないのが、冴えない顔をしながら、湯は込んでいたか、と聞いて、フイと出掛けた様子も、その縁談を聞いた耳を、水道の水で洗わんと欲する趣があった。
283
本来だと、朋友ともだちが先生の令嬢を娶めとりたいに就いて、下聴したぎきに来たものを、聞かせない、と云うも依怙地いこじなり、料簡りょうけんの狭い話。二才らしくまた何も、娘がくれた花だといって、人に惜むにも当らない。この筆法をもってすれば、情婦いろから来た文殻ふみがらが紛込まぎれこんだというので、紙屑買を追懸おっかけて、慌てて盗賊どろぼうと怒鳴り兼ねまい。こちの人措おいて下さんせ、と洒落しゃれにも嗜たしなめてしかるべき者までが、その折から、ちょいと留女の格で早瀬に花を持もたせたのでも、河野一家いっけに対しては、お蔦さえ、如何いかんの感情を持つかが明かに解る。
284
それは英吉と、内の人の結婚に対する意見の衝突の次第を、襖の蔭で聴取ったせいもあろう。
285
そうでなくっても、惚れそうな芸妓げいしゃはないか。新学士に是非と云って、達引たてひきそうな朋輩はないか、と煩うるさく尋ねるような英吉に、厭いやなこった、良人うちのが手を支ついてものを言う大切なお嬢さんを、とお蔦はただそれだけでさえ引退ひっさがる。処へ、幾条いくすじも幾条も家うち中の縁の糸は両親で元緊もとじめをして、颯さっさらりと鵜縄うなわに捌さばいて、娘たちに浮世の波を潜くぐらせて、ここを先途と鮎あゆを呑ませて、ぐッと手許へ引手繰ひったぐっては、咽喉のどをギュウの、獲物を占め、一門一家いちもんいっけの繁昌を企むような、ソンな勘作の許とこへお嬢さんを嫁やられるもんか。
286
いいえ、私が肯きかないわ、とお源をつかまえて談ずる処へ、熱いい湯だった、といくらか気色を直して、がたひし、と帰って来た主税に、ちょいとお前さん、大丈夫なんですか、とお蔦の方が念を入れたほどの勢いきおい。
二十三
287
何が大丈夫だか、主税には唐突だしぬけで、即座には合点がってんしかねるばかり、お蔦の方の意気込が凄すさまじい。
288
まだ、取留めた話ではなし、ただ学校で見初めた、と厭らしく云う。それも、恋には丸木橋を渡って落ちてこそしかるべきを、石の橋を叩いて、杖ステッキを支ついて渡ろうとする縁談だから、そこいら聴合わせて歩行あるく中うちに、誰かの口で水を注させば、直ぐに川留めの洪水ほどに目を廻わしてお流れになるだろう。
289
けれども、なぜか、母子連おやこづれで学校へ観に行った、と聞いただけで、お妙さんを観世物みせものにし、またされたようで癪しゃくに障った。しかし物にはなるまいよ、と主税が落着くと、いいえ、私は心配です。どこをどう聞き廻ったって、あのお嬢さんに難癖を着けるものはありません。いずれ真砂町様さんへ言入れるに違いますまい。それに河野と云う人が、他に取柄は無いけれど、ただ頼もしいのが押の強いことなんですから、一押二押で、悪くすると出来ますよ。出来るような気がしてならない。私は何だかもうお妙さんが、ぺろぺろと嘗なめられる夢を見て、今夜にも寝ていて魘うなされそうで、お可哀相でなりません。貴郎あなた油断をしちゃ厭ですよ、と云った――お蔦の方が、その晩毛虫に附着くッつかれた夢を見た。いつも河野のその眉が似ていると思ったから。――
290
もっとも河野は、綺麗に細眉にしていたが、剃りづけませぬよう、と父様の命令で、近頃太くしているので、毛虫ではない、臥蚕がさんである。しかるにこの不生産的の美人は、蚕の世を利するを知らずして、毛虫の厭いとうべきを恐れていた、不心得と言わねばならぬ。
291
で、お蔦は、たとい貴郎が、その癖、内々お妙さんに岡惚おかぼれをしているのでも可い。河野に添わせるくらいなら、貴郎の令夫人おくさんにして私が追出おんだされる方がいっそ増だ、とまで極端に排斥する。
292
この異体同心の無二の味方を得て、主税も何となく頼母たのもしかったが、さて風はどこを吹いていたか、半月ばかりは、英吉も例いつもになく顔を見せなかった。
293
と一日あるひ、
早瀬氏は居おらるるかね。
294
応柄おうへいのような、そうかと云って間違いの無いような訪ずれ方をして、お源に名刺を取次がせた者がある。
295
主税は、しかかっていた翻訳の筆ペンを留めて、請取って見ると、ちょっと心当りが無かったが、どんな人だ、と聞くと、あの、痘痕あばたのおあんなさいます、と一番疾はやく目についた人相を言ったので、直ぐ分った。
296
本名坂田礼之進、通り名をアバ大人、誰か早口な男がタの字を落した。ゆっくり言えばアバタ大人、どちらでもよく通る。通りが可よければと言って、渾名あだなを名刺に書くものはない。手札は立派に、坂田礼之進……傍かたわらへ羅馬ロオマ字で、L. Sakata.
297
すなわち歴々の道学者先生である。
298
渠かれの道学は、宗教的ではない、倫理的、むしろ男女交際的である。とともに、その痘痕あばたと、細君が若うして且つ美であるのをもって、処々の講堂においても、演説会においても、音に聞えた君子である。
299
謂いうまでもなく道徳円満、ただしその細君は三度目で、前さきの二人とも若死をして、目下いまのがまた顔色が近来、蒼あおい。
300
と云ってあえて君子の徳を傷きずつけるのではない、が、要のないお饒舌しゃべりをするわけではない。大人は、自分には二度まで夫人を殺しただけ、盞さかずきの数の三々九度、三度の松風、ささんざの二十七度で、婚姻の事には馴れてござる。
301
処へ、名にし負う道学者と来て、天下この位信用すべき媒妁人なこうどは少いから、呉ごも越えつも隔てなく口を利いて巧うまく纏まとめる。従うて諸家の閨門けいもんに出入すること頻繁にして時々厭らしい! と云う風説うわさを聞く。その袖を曳ひいたり、手を握ったりするのが、いわゆる男女交際的で、この男の余徳ほまちであろう。もっとも出来た験ためしはない。蓋けだしせざるにあらず能あたわざるなりでも何でも、道徳は堅固で通る。於爰乎ここにおいてか、品行方正、御媒妁人おなこうどでも食って行ゆかれる……
二十四
302
道学先生の、その坂田礼之進であるから、少くともめ[#「め」に傍点]組が出入りをするような家庭? へ顔出しをする筈はずがない。と一度ひとたびは怪あやしんだが、偶然ふと河野の叔父に、同一おなじ道学者何某なにがしの有るのに心付いて、主税は思わず眉を寄せた。
303
諸家お出入りの媒妁人、ある意味における地者稼じものかせぎの冠たる大家、さては、と早やお妙の事が胸に応えて、先ずともかくも二階へ通すと、年配は五十ばかり。推おしものの痘痕あばたは一目見て気の毒な程で、しかも黒い。字義をもって論ずると月下氷人でない、竈下かまのした炭焼であるが、身躾みだしなみよく、カラアが白く、磨込んだ顔がてらてらと光る。地じの透く髪を一筋梳すきに整然きちんと櫛を入れて、髯の尖さきから小鼻へかけて、ぎらぎらと油ぎった処、いかにも内君が病身らしい。
304
さて、お初にお目に懸かかりまする、いかがでごわりまするか、ますます御翻訳で、とさぞ食うに困って切々稼ぐだろう、と謂いわないばかりな言ことを、けろりとして世辞に云って、衣兜かくしから御殿持の煙草入、薄色の鉄の派手な塩瀬に、鉄扇かずらの浮織のある、近頃行わるる洋服持。どこのか媒妁人した御縁女の贈物らしく、貰った時の移香を、今かく中古ちゅうぶるに草臥くたびれても同一おなじ香においの香水で、追おっかけ追かけ香におわせてある持物を取出して、気になるほど爪の伸びた、湯が嫌きらいらしい手に短い延のべの銀煙管ぎせる、何か目出度い薄っぺらな彫ほりのあるのを控えながら、先ず一ツ奥歯をスッと吸って、寛悠ゆっくりと構えた処は、生命保険の勧誘も出来そうに見えた。
305
甚だ突然でごわりまするが、酒井俊蔵氏令嬢の儀で……ごわりまして、とまたスッと歯せせりをする。
306
それ、えへん! と云えば灰吹と、諸礼躾方しつけかた第一義に有るけれども、何にも御馳走をしない人に、たとい※おくびが葱臭ねぎくさかろうが、干鱈ひだらの繊維が挟はさまっていそうであろうが、お楊枝ようじを、と云うは無礼に当る。
307
そこで、止むことを得ず、むずむずする口を堪こらえる下から、直ぐに、スッとまたぞうろ風を入れて、でごわりまするに就いて、かような事は、余り正面から申入れまするよりと、考えることでごわりまする……と掻かいつまんで謂えば、自分はいまだ一面識も無いから、門生の主税から紹介をして貰いたいと言うのである。
308
南無三、橋は渡った、いつの間にか、お妙は試験済の合格になった。
309
今は表向に縁談を申込むばかりにしたらしい。それに、自分に紹介を求めるのは、英吉に反対した廉かどもあり、主税は面当つらあてをされるように擽くすぐったく思ったばかりか、少からず敵の機敏に、不意打を食ったのである。
310
いや、お断り申しましょう、英吉君に難癖のある訳ではないが、河野家の理想と言うものが根も葉も挙げて気に入らない。余所よそで紹介をお求めなさるなり、また酒井先生は紹介の有り無しで、客の分隔わけへだてをするような人ではないから――直接じかにお話しなすって、御縁があれば纏まとまる分。心に潔しとしない事に、名刺一枚御荷担は申兼ぬる、と若武者だけに逸はやってかかると、その分は百も合点がってんで、戦場往来の古兵ふるつわもの。
311
取りあえず、スースーと歯をすすって、ニヤニヤと笑いかけて、何か令嬢お身の上に就いて、下聴したぎきをするのが、御賛成なかったとか申すことでごわりましたな。御説に因れば、好いた女なら娼妓じょろうでもと少しおまけをして、構わん、死なば諸共にと云う。いや、人生意気を重んず、ト歯をすすってで、ごわりまするが、世間もあり親もあり……
312
とこれから道学者の面目を発揮して、河野のためにその理想の、道義上完美にして非難すべき点の無いのを説くこと数千言。約半日にして一先ず日暮前に立帰った。ざっと半日居たけれども、飯時を避けるなぞは、さすがに馴れたものである。
二十五
313
客が来れば姿を隠すお蔦が内に居るほどで、道学先生と太刀打して、議論に勝てよう道理が無い。主税の意気ずくで言うことは、ただ礼之進の歯ですすられるのみであったが、厭なものは厭だ、と城を枕に討死をする態度で、少々自棄やけ気味の、酒井先生へ紹介は断然、お断り。
314
そこを一つお考え直されて、と言ことばを残して帰った後で、アバ大人が媒妁なこうどではなおの事。とお妙の顔が蒼あおくなって殺されでもするように、酒も飲まないで屈託をする、とお蔦はお蔦で、かくまってあった姫君を、鐘を合図に首討って渡せ、と懸合われたほどの驚き加減。可愛い夫が可惜いとおしがる大切なお主しゅうの娘、ならば身替りにも、と云う逆上のぼせ方。すべてが浄瑠璃の三の切きりを手本だが、憎くはない。
315
さあ、貴郎、そうしていらっしゃる処ではありません、早く真砂町へおいでなすって、先生が何なら奥様おくさんまで、あんな許とこへは御相談なさいませんように、お頼みなさらなくッちゃ不可いけません。ちょいと、羽織を着換えて、と箪笥たんすをがたりと引いて、アア、しばらく御無沙汰なすった、明日あしため[#「め」に傍点]組が参りますから、何ぞお土産をお持ちなさいまし、先生はさっぱりしたものがお好きだ、と云うし、彼奴あいつが片思いになるように鮑あわびがちょうど可い、と他愛もない。
316
馬鹿を云え、縁談の前さきへ立って、讒口なかぐちなんぞ利こうものなら、己おれの方が勘当だ、そんな先生でないのだから、と一言にして刎はねられた、柳橋の策不被用焉もちいられず。
317
また考えて見れば、道学者の説を待たずとも、河野家に不都合はない。英吉とても、ただちとだらしの無いばかり、それに結婚すれば自然治まる、と自分も云えば、さもあろう。人の前で、母様かあさんと云おうが、父様とうさまと云おうが、道義上あえて差支さしつかえはない、かえって結構なくらいである。
318
そのこれを難ずるゆえんは……曰く……言い難しだから、表向きはどこへも通らぬ。
319
困ったな、と腕を組めば、困りましたねえ、とお蔦も鬱ふさぐ。
320
ここへ大いなる福音を齎もたらし来ったのはお源で。
321
手廻りの使いに遣やったのに、大分後れたにもかかわらず、水口の戸を、がたひし勢いきおいよく、唯今ただいま帰りました、あの、御新造様ごしんぞさん、大丈夫でございます。
322
明後日あさって出来るのかい、とお蔦がきりもりで、夏の掻巻かいまきに、と思って古浴衣の染を抜いて形を置かせに遣ってある、紺屋へ催促の返事か、と思うと、そうでない。
323
この忠義ものは、二人の憂うれいを憂として、紺屋から帰りがけに、千栽ものの、風呂敷包を持ったまま、内の前を一度通り越して、見附へ出て、土手際の売卜者うらないに占みて貰った、と云うのであった。
324
対手あいては学士の方ですって、それまで申して占て貰いましたら、とても縁は無い断念あきらめものだ、と謂いいましたから、私は嬉しくって、三銭の見料へ白銅一つ発奮はずみました。可い気味でございますと、独りで喜んでアハアハ笑う。
325
まあ、嬉しいじゃないか、よく、お前、お嬢さんの年なんか知っていたね、と云うと、勿怪もっけな顔をして、いいえ、誰方どなたのお年も存じません。お蔦は腑ふに落ちない容子をして、売卜者うらないしゃは、年紀としを聞きゃしないかい。ええ、聞きましたから私の年を謂ってやりました。
326
当前あたりまえよ、対手が学士でお前じゃ、と堪たまりかねて主税が云うのを聞いて、目を※みはって、しばらくして、ええ! 口惜くやしいと、台所へ逃込んで、売卜屋の畜生め、どたどたどた。
327
二人は顔を見合せて、ようように笑わらいが出た。
328
すぐにお蔦が、新しい半襟を一掛ひとかけ礼に遣って、その晩は市が栄えたが。
329
二三日経たって、ともかく、それとなく、お妙がお持たせの重箱を返しかたがた、土産ものを持って、主税が真砂町へ出向くと、あいにく、先生はお留守、令夫人おくがたは御墓参、お妙は学校のひけが遅かった。
二十六
330
仮にその日、先生なり奥方なりに逢ったところで、縁談の事に就いて、とこう謂いうつもりでなく、また言われる筋でもなかったが、久闊振ひさしぶりではあり、誰方どなたも留守と云うのに気抜けがする。今度来た玄関の書生は馴染なじみが薄いから、巻莨まきたばこの吸殻沢山な火鉢をしきりに突着けられても、興に乗る話も出ず。しかしこの一両日に、坂田と云う道学者が先生を訪問はしませんか、と尋ねて、来ない、と聞いただけを取柄。土産ものを包んで行った風呂敷を畳みもしないで突込んで、見ッともないほど袂たもとを膨らませて、ぼんやりして帰りがけ、その横町の中程まで来ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と頓興とんきょうに馴々しく声を懸けた者がある。
331
玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にして眩まばゆい日当りを遮った帳場から、ぬい、と顔を出したのは、酒井へお出入りのその車夫わかいしゅ。
332
おうと立停まって一言二言交すついでに、主税はふと心付いて、もしやこの頃、先生の事だの、お嬢さんの事を聞きに来たものはないか、と聞くと、月はじめにモオニングを着た、痘痕あばたのある立派な旦那が。
333
来たか! へい、お目出たい話なんだからちっとばかり様子を聞かせな、とおっしゃいましてね。終しまいにゃ、き様、お伴をするだろう、懸かかりつけの医師いしゃはどこだ、とお尋ねなさいましたっけ。
334
台所から、筒袖を着た女房が、ひょっこり出て来て、おやまあ早瀬さん、と笑いかけて、いいえ、やどでもここが御奉公と存じましてね、もうもう賞ほめて賞めて賞め抜いてお聞かせ申しましてございますよ。お嬢様も近々御縁が極きまりますそうで、おめでとう存じます、えへへ、と燥はしゃいだ。
335
余計な事を、と不興な顔をして、不愛想に分れたが、何も車屋へ捜りを入れずともの事だ、またそれにしても、モオニング着用は何事だと、苦々しさ一方ならず。
336
曲角の漬物屋、ここいらへも探偵いぬが入ったろうと思うと、筋向いのハイカラ造りの煙草屋がある。この亭主もベラベラお饒舌しゃべりをする男だが、同じく申上げたろう、と通りがかりに睨にらむと、腰かけ込んだ学生を対手あいてに、そのまた金歯の目立つ事。
337
内へ帰ると、お蔦はお蔦で、その晩出直して、今度は自分が売卜うらないの前へ立つと、この縁はきっと結ばる、と易が出たので、大きに鬱ふさぐ。
338
もっとも売卜者も如才はない。お源が行ったのに較べれば、容子を見ただけでも、お蔦の方が結ばるに違いないから。
339
一日措おいて、主税が自分嘱たのまれのさる学校の授業を済まして帰って来ると、門口にのそりと立って、頤あごを撫でながら、じろじろ門札を視ながめていたのが、坂田礼之進。
340
早やここから歯をスーと吸って、先刻さっきからお待ち申して……はちと変だ。
341
さては誰も物申ものもうに応うるものが無かったのであろう。女中おんなは外出そとでで? お蔦は隠れた。……
342
無人ぶにんで失礼。さあ、どうぞ、と先方さきは編上靴あみあげぐつで手間が取れる。主税は気早に靴を脱いで、癇癪紛かんしゃくまぎれに、突然二階へ懸上る。段の下の扉ひらきの蔭から、そりゃこそ旦那様。と、にょっと出た、お源を見ると、取次に出ないも道理、勝手働きの玉襷たまだすき、長刀なぎなた小脇に掻込かいこんだりな。高箒たかぼうきに手拭てぬぐいを被かぶせたのを、柄長に構えて、逆上のぼせた顔色がんしょく。
343
馬鹿め、と噴出ふきだして飛上る後から、ややあって、道学先生、のそりのそり。
344
二階の論判ろッぱん一時ひとときに余りけるほどに、雷様の時の用心の線香を芬ふんとさせ、居間から顕あらわれたのはお蔦で、艾もぐさはないが、禁厭まじないは心ゆかし、片手に煙草を一撮ひとつまみ。抜足で玄関へ出て、礼之進の靴の中へ。この燃草もえぐさは利ききが可かった。※ぱっと煙が、むらむらと立つ狼煙のろしを合図に、二階から降りる気勢けはい。飜然ひらり路地へお蔦が遁込にげこむと、まだその煙は消えないので、雑水ぞうみずを撒まきかけてこの一芸に見惚れたお源が、さしったりと、手でしゃくって、ざぶりと掛けると、おかしな皮の臭がして、そこら中水だらけ。
二十七
345
それ熟々つらつら、史を按あんずるに、城なり、陣所、戦場なり、軍いくさは婦おんなの出る方が大概敗まける。この日、道学先生に対する語学者は勝利でなく、礼之進の靴は名誉の負傷で、揚々と引挙げた。
346
ゆえ如何いかんとなれば、お厭いやとあれば最早紹介は求めますまい、そのかわりには、当方から酒井家へ申入れまする、この縁談に就きまして、貴方あなたから先生に向って、河野に対する御非難をなされぬよう。御意見は御意見、感情問題は別として、これだけはお願い申したいでごわりまするが、と婉曲に言いは言ったが、露骨に遣やったら、邪魔をする勿なかれであるから、御懸念無用と、男らしく判然はっきり答えたは可いけれども、要するに釘を刺されたのであった。
347
礼之進の方でも、酒井へ出入りの車夫くるまやまで捜さぐりを入れた程だから、その分は随分手が廻って、従って、先生が主税に対する信用の点も、情愛のほども、子のごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口を圧おさえたのであろう。
348
讒口なかぐちは決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、纏まとまる縁も破ることは出来たのだったに。
349
ここで賽さいは河野の手に在矣ありい。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。
350
先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。
351
お蔦さえ、憂慮きづかうよりむしろ口惜くやしがって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何は措おいても、余所よそながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となく疵きず持足、思いなしで敷居が高い。
352
で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌窺うかがいに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。
353
愚図々々ぐずぐずすれば、貴郎あなた例いつもに似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が歯痒はがゆがる。
354
勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、とこの次、来い。は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証ないしょうのお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯きおくれがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐なつかしい姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗うしろめたさに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子ひとちょうし、と莞爾にっこりして仰せある、優しい顔が、眩まぶしいように後退しりごみして、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、噫ああ、止やんぬる哉かな。
355
しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮きづかわしさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
356
ちと、恐怖おずおずの形で、先ず玄関を覗のぞいて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。奥様おくさんは、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、女中おんなが、唯今すやすやと御寐おやすみになっていらっしゃいます、と云う。
357
悄々すごすご玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた女中おんなで、四ッ谷の方へ縁附かたづいたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になる筈はずで、お夜食が済むと、奥方の仰おおせに因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。
358
それでは私も通とおりの方を、いずれ後刻のちほど、とこれを機しおに。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の午後ひるすぎ。
男金女土
二十八
359
主税は、礼之進が早くも二度の魁かけを働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が暴露ばれたために、先生が太いたく感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕を拱こまぬいて、そこともなく横町から通りへ出て、件くだんの漬物屋の前を通ると、向う側がとある大構おおがまえの邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで押揺おしゆるがすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の樹立こだちの梢こずえへ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。
360
東へ、西へ、と置場処の間数けんすうを示した標杙くいが仄白ほのしろく立って、車は一台も無かった。真黒まっくろな溝の縁に、野を焚やいた跡の湿ったかと見える破風呂敷やぶれぶろしきを開いて、式かたのごとき小灯こともしが、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、明あかりの果敢はかなさ。三束みたば五束いつたば附木つけぎを並べたのを前に置いて、手を支ついて、縺もつれ髪の頸うなじ清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、踏反ふんぞって、泣寐入なきねいりに寐入ったらしい嬰児あかんぼが懐に、膝に縋すがって六歳むッつばかりの男の子が、指を銜くわえながら往来をきょろきょろと視ながめる背後うしろに、母親のその背せなに凭もたれかかって、四歳よッつぐらいなのがもう一人。
361
一陣ひとしきり風が吹くと、姿も店も吹き消されそうで哀あわれな光景ありさま。浮世の影絵が鬼の手の機関からくりで、月なき辻へ映るのである。
362
さりながら、縁日の神仏は、賽銭さいせんの降る中ならず、かかる処にこそ、影向ようごうして、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と母子おやこの上に袖笠して、遠音に観世ものの囃子はやしの声を打聞かせたまうらんよ。
363
健在すこやかなれ、御身等、今若、牛若、生立おいたてよ、と窃ひそかに河野の一門を呪のろって、主税は袂たもとから戛然かちりと音する松の葉を投げて、足疾とくその前を通り過ぎた。
364
ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、煙管きせるを逆に吹口でぴたり戸外おもてを指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人店前みせさきを塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、叱しっ、と圧おさえた者がある。
365
向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって人集ひとだかり。寂寞ひっそりしたその原のへりを、この時通りかかった女が二人。
366
主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。
367
リボンも顔も単ひとえに白く、かすりの羽織が夜の艶つやに、ちらちらと蝶が行交う歩行あるきぶり、紅くれないちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ長たけて大人びて、愛らしいよりも艶麗あでやかであった。
368
風呂敷包を左手ゆんでに載せて、左の方へ附いたのは、大一番の円髷まるまげだけれども、花簪はなかんざしの下になって、脊が低い。渾名を鮹たこと云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げ皺じわの夥多おびただしい婦おんなで、主税が玄関に居た頃勤めた女中おさんどん。
369
心懸けの好いい、実体じっていもので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。お主しゅうの娘に引添ひっそうて、身を固めて行ゆく態ふりの、その円髷の大おおきいのも、かかる折から頼もしい。
370
煙草屋の店でくるくるぱちぱち、一打いちダアスばかりの眼球めのたまの中を、仕切しきって、我身でお妙を遮るように、主税は真中へ立ったから、余り人目に立つので、こなたから進んで出て、声を掛けるのは憚はばかって差控えた。
371
そうしてお妙が気が付かないで、すらすらと行過ぎたのが、主税は何となく心寂しかった。つい前さきの年までは、自分が、ああして附いて出たに。
372
とリボンが靡なびいて、お妙は立停まった。
373
肩が離れて、大おおきな白足袋の色新しく、附木つけぎを売る女房のあわれな灯ともしびに近ちかづいたのは円髷で。実直ものの丁寧に、屈かがみ腰になって手を出したは、志を恵んだらしい。親子が揃って額ぬかずいた時、お妙の手の巾着きんちゃくが、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。
374
書生たちは、ぞろぞろと煙草屋の軒を出て、斉ひとしく星を仰いだのである。
二十九
375
○男金女土おとこかねおんなつち大おおいに吉よし、子五人か九人あり衣食満ち富貴ふっきにして――
男金女土こそ大吉よ
衣食みちみち…………
376
と歌の方も衣食みちみちのあとは、虫蝕むしくいと、雨染あまじみと、摺剥すりむけたので分らぬが、上に、業平なりひらと小町のようなのが対向さしむかいで、前に土器かわらけを控えると、万歳烏帽子まんざいえぼしが五人ばかり、ずらりと拝伏した処が描いてある。いかさまにも大吉に相違ない。
377
主税は、お妙の背後うしろ姿を見送って、風が染みるような懐手で、俯向うつむき勝ちに薬師堂の方へ歩行あるいて来て、ここに露店の中に、三世相がひっくりかえって、これ見よ、と言わないばかりなのに目が留まって、漫そぞろに手に取って、相性の処を開けたのであった。
378
その英吉が、金の性しょう、お妙が、土性であることは、あらかじめお蔦が美うつくしい指の節から、寅卯戌亥とらういぬいと繰出したものである。
379
半吉ででもある事か、大おおいに吉よしは、主税に取って、一向に芽出度めでたくない。勿論、いかに迷えば、と云って、三世相を気にするような男ではないけれども、自分はとにかく、先生は言うに及ばずながら、奥方はどうかすると、一白九紫を口にされる。同じ相性でも、始はじめわるし、中程宜しからず、末覚束おぼつかなしと云う縁なら、いくらか破談の方に頼みはあるが……衣食満ち満ち富貴……は弱った。
380
のみならず、子五人か、九人あるべしで、平家の一門、藤原一族、いよいよ天下に蔓はびこらんずる根ざしが見えて容易でない。
381
すでに過日いつかも、現に今日の午後ひるすぎにも、礼之進が推参に及んだ、というきっさきなり、何となく、この縁、纏まりそうで、一方ならず気に懸る。
382
ああ、先生には言われぬ事、奥方には遠慮をすべき事にしても、今しも原の前で、お妙さんを見懸けた時、声を懸けて呼び留めて、もし河野の話が出たら、私は厭いや、とおっしゃいよ、と一言いえば可かったものを。
383
大道で話をするのが可訝おかしければ、その辺の西洋料理へ、と云っても構わず、鳥居の中には藪蕎麦やぶそばもある。さしむかいに云うではなし、円髷も附添った、その女中おんなとても、長年の、犬鷹朋輩の間柄、何の遠慮も仔細しさいも無かった。
384
お妙さんがまた、あの目で笑って、お小遣いはあるの? とは冷評ひやかしても、どこかへ連れられるのを厭味らしく考えるような間なかではないに、ぬかったことをしたよ。
385
なぞと取留めもなく思い乱れて、凝じっとその大吉を瞻みつめていると、次第次第に挿画さしえの殿上人に髯ひげが生えて、たちまち尻尾のように足を投げ出したと思うと、横倒れに、小町の膝へ凭もたれかかって、でれでれと溶けた顔が、河野英吉に、寸分違わぬ。
「旦那いかがでございます。えへへ、」と、かんてらの灯の蔭から、気味の悪い唐突だしぬけの笑声わらいごえは、当露店の亭主で、目を細うして、額で睨にらんで、
「大分御意に召しましたようで、えへへ。」
「幾干いくらだい。」
386
とぎょっとした主税は、空くうで値を聞いて見た。
「そうでげすな。」
387
と古帽子の庇ひさしから透かして、撓ためつつ、
「二十銭にいたして置きます。」と天窓あたまから十倍に吹懸ふっかける。
388
その時かんてらが煽あおる。
389
主税は思わず三世相を落して、
「高価たかい!」
「お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、」
「何だか知らんが、さんざ汚れて引断ひっちぎれているじゃないか。」
「でげすがな、絵が整然ちゃんとしておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。」
390
と出放題な事を云う。相性さえ悪かったら、主税は二十銭のその二倍でもあえて惜くはなかったろう。
「余り高価いよ。」と立ちかける。
「お幾干で? ええ、旦那。」
391
と引据ひっすえるように圧おさえて云った。
「半分か。」
「へい。」
「それだって廉やすくはない。」
三十
392
亭主は膝を抱いて反身そりみになり、禅の問答持って来い、という高慢な顔色がんしょくで。
「半価値ねだんは酷ひどうげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ引剥ひっぺがして差上げる訳にも参りませんで。どうぞ一番ひとつ御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、」
「一体高過ぎる、無法だよ。」
393
と主税はその言い種ぐさが憎いから、ますます買う気は出なくなる。
「でげすがな、これから切通しの坂を一ツお下りになりゃ、五両と十両は飛ぶんでげしょう。そこでもって、へへへ、相性は聞きたし年紀としは秘かくしたしなんて寸法だ。ええ、旦那、三世相は御祝儀にお求め下さいな。」
394
いよいよむっとして、
「要らない。」と、また立とうとする。
「じゃもう五銭、五百、たった五銭。」
395
片手を開いて、肱ひじで肩癖けんぺきの手つきになり、ばらばらと主税の目前めさきへ揉もみ立てる。
396
憤然として衝つッと立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらの燻くすぶった明あかりを切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。
397
同時に、
「要るものなら買って置け。」
398
と※さびのある、凜りんとした声がかかった。
399
主税は思わず身を窘すくめた。帽子を払って、は、と手を下げて、
「先生。」
400
露店の亭主は這出して、慌てて古道具の中へ手を支ついて、片手で銀貨を圧おさえながら、きょとんと見上げる。
401
茶の中折帽なかおれを無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子くろななこに丁子巴ちょうじどもえの三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短ゆきみじかな袖を投げた風采は、丈高く痩やせぎすな肌に粋いなせである。しかも上品に衣紋えもん正しく、黒八丈くろはちの襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、[#「、」は底本では「。」と誤記]眉の秀でた、ただその口許くちもとはお妙に肖にて、嬰児みどりごも懐なつくべく無量の愛の含まるる。
402
一寸見ちょっとみには、かの令嬢にして、その父ぞとは思われぬ。令夫人おくがたは許嫁いいなずけで、お妙は先生がいまだ金鈕きんぼたんであった頃の若木の花。夫婦ふたりの色香を分けたのである、とも云うが……
403
酒井はどこか小酌の帰途かえりと覚しく、玉樹一人縁日の四辺あたりを払って彳たたずんだ。またいつか、人足もややこの辺あたりに疎まばらになって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、露店ほしみせの大傘おおがらかさを圧している。
404
会釈をしてわずかに擡もたげた、主税の顔を、その威のある目で屹きっと見て、
「少わかいものが何だ、端銭はしたをかれこれ人中で云っている奴があるかい、見っともない。」
405
と言い棄てて、直ぐに歩を移して、少し肩の昂あがったのも、霜に堪え、雪を忍んだ、梅の樹振は潔い。
406
呆気あっけに取られた顔をして、亭主が、ずッと乗出しながら、
「へい。」
407
とばかり怯おびえるように差出した三世相を、ものをも言わず引掴ひッつかんで、追縋おいすがって跡に附くと、早や五六間前途むこうへ離れた。
「どうも恐入ります。ええ、何、別に入用いりようなのじゃないのでございますから、はい、」
408
と最初の一喝に怯気々々びくびくもので、申訳らしく独言ひとりごとのように言う。
409
酒井は、すらりと懐手のまま、斜めに見返って、
「用いらないものを、何だって価を聞くんだ。素見ひやかすのかい、お前は、」
「…………」
「素見すのかよ。」
「ええ、別に、」と俯向うつむいて怨めしそうに、三世相を揉み、且つ捻ひねくる。
410
少時しばらくして、酒井はふと歩あゆみを停めて、
「早瀬。」
「はい、」
411
とこの返事は嬉しそうに聞えたのである。
三十一
412
名を呼ばれるさえ嬉しいほど、久闊しばらく懸違かけちがっていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井の言ことばは、太いたく主税の胸を刺した。
「どこへ行くんだ。」
413
これで突放されたようになって、思わず後退あとしざりすること三尺半。
414
この前さきの、原一つ越した横町が、先生の住居すまいである。そなたに向って行くのに、従って歩行あるくものを、どこへ行く。は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、
「散歩でございます。」
「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」
「いいえ、実は……」
415
といささか取附くことが出来た……
「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」
416
酒井がずッと歩行あるき出したので、たじたじと後を慕うて、
「どちらへ?」
「俺か。」
「ずッと御帰宅おかえりでございますか。」
417
知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。
「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」
「ええ!」と云ったが、何は措おいても夜が明けたように勇み立って、
「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足引返ひっかえしたが、慌ててまた先へ出て、
「お車を申しましょうか。」
418
とそわそわする。
「水道橋まで歩行くが可い。ああ、酔醒えいざめだ。」と、衣紋えもんを揺ゆすって、ぐっと袖口へ突込んだ、引緊ひきしめた腕組になったと思うと、林檎りんごの綺麗な、芭蕉実バナナの芬ふんと薫る、燈あかりの真蒼まっさおな、明あかるい水菓子屋の角を曲って、猶予ためらわず衝つと横町の暗がりへ入った。
419
下宿屋の瓦斯がすは遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、
「奥さんが、お風邪気けでいらっしゃいますそうで、不可いけませんでございます。」
「逢ったか。」
「いえ、すやすやお寐やすみだと承りましたから、御遠慮申しました。」
「妙は居たかい。」
「四谷へ縁附かたづいております、先せんのお光みつをお連れなさいまして、縁日へ。」
「そうか、娘こどもが出歩行であるくようじゃ、大した御容態でもなしさ。」
420
と少し言ことばが和らいで来たので、主税は吻ほっと呼吸いきを吐ついて、はじめて持扱った三世相を懐中ふところへ始末をすると、壱岐殿坂いきどのざかの下口おりぐちで、急な不意打。
「お前の許とこでも皆みんな健康たっしゃか。」
421
また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、皆健康か。は尋常事ただごとでない。けれども、よもや、と思うから、その皆を僻耳ひがみみであろう、と自分でも疑って、
「はい?」
422
と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったのでさようでございます。と云う意味になる。
423
で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠ぞうへいの夜の光景は、楽天的に視ながめると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々ごうごうと轟とどろく響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
424
通りかかる時、蒸気が真白まっしろな滝のように横ざまに漲みなぎって路を塞いだ。
425
やがて、水道橋の袂たもとに着く――酒井はその雲に駕がして、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
426
無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨まきたばこを、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
427
萌黄もえぎの光が、ぱらぱらと暗やみに散ると、炬きょのごとく輝く星が、人を乗せて衝つと外濠そとぼりを流れて来た。
電 車
三十二
428
河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の夜よ、道学者坂田礼之進は、渠かれが、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――委くわしく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌しゃべったり……と云うと尾籠びろうになる。紳士貴婦人が互に相親睦あいしんぼくする集会で、談政治に渉わたることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇しょうび薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめ[#「おしめ」に傍点]と襷たすきを念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児こどもが泣く。町内迷惑な……その、男女交際会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、馴染なじみの会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈の明あかるい電車に乗った。
アバ大人ですか、ハハハ今日の午後ひるすぎ。と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。
429
先哲曰く、時は黄金である。そんな隙潰ひまつぶしをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、更あらためて夫子自身ふうしみずからを労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて無銭ただで手を握るのだ、と云ったものがある。世には演劇しばいの見物の幹事をして、それを縁に、俳優やくしゃと接吻キスする貴婦人もあると云うから。
430
もっともこれは、嘘であろう。が、会費を衣兜かくしにして、電車に乗ったのは事実である。
「ええ、込合いますから御注意を願います。」
431
礼之進は提革さげかわに掴つかまりながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、痘痕あばたを散らして、目を配って、鬢びんずら、簪かんざし、庇ひさし、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、江戸児えどッこはこの味を知るまい、と乗合の婦おんなの移香を、楽たのしみそうに、歯をスーと遣やって、片手で頤あごを撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、俄然がぜんとして、慄然りつぜんとして、膚はだ寒うして、腰が軽い。
432
途端に引込ひっこめた、年紀としの若い半纏着はんてんぎの手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの膏汗あぶらあせで、ぬらめいた手で、夢中にしっかと引掴ひッつかんだ。
433
道学先生の徳孤ならず、隣りに掏摸すりが居たそうな。
「…………」
434
と、わなないて、気が上ずッて、ただ睨にらむ。
435
対手あいては手拭てぬぐいも被かぶらない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、頭ずを下げて、
「御免なすって、」と盗むように哀憐あわれみを乞う目づかいをする。
「出、出しおろう、」
436
と震え声で、
「馬鹿!」と一つ極きめつけた。
「どうぞ、御免なすって、真平、へい……」
437
と革に縋すがったまま、ぐったりとなって、悄気しょげ返った職人の状さまは、消えも入りたいとよりは、さながら罪を恥じて、自分で縊くびくくったようである。
「コリャ」とまた怒鳴って、満面の痘痕を蠢うごめかして、堪こらえず、握拳にぎりこぶしを挙げてその横頬よこづらを、ハタと撲ぶった。
「あ、痛いた、」
438
と横に身を反そらして、泣声になって、
「酷ひ、酷ひどうござんすね……旦那、ア痛々たた、」
439
も一つ拳で、勝誇って、
「酷いも何も要ったものか。」
440
哄どっと立上る多人数たにんずの影で、月の前を黒雲が走るような電車の中。大事に革鞄かばんを抱きながら、車掌が甲走った早口で、
「御免なさい、何ですか、何ですか。」
三十三
441
カラアの純白まっしろな、髪をきちんと分けた紳士が、職人体の半纏着を引捉ひっとらえて、出せ、出せ、と喚わめいているからには、その間の消息一目して瞭然りょうぜんたりで、車掌もちっとも猶予ためらわず、むずと曲者の肩を握とりしばった。
「降りろ――さあ、」
442
と一ツしゃくり附けると、革を離して、蹌踉よろよろと凭もたれかかる。半纏着にまた凭れ懸かるようになって、三人揉重もみかさなって、車掌台へ圧おされて出ると、先せんから、がらりと扉を開けて、把手ハンドルに手を置きながら、中を覗込のぞきこんでいた運転手が、チリン無しにちょうどそこの停留所に車を留めた。
443
御嶽山おんたけさんを少し進んだ一ツ橋通どおりを右に見る辺りで、この街鉄は、これから御承知のごとく東明館前を通って両国へ行くのである。
「少々お待ちを……」
444
と車掌も大事件の肩を掴まえているから、息急せいて、四五人押込もうとする待合わせの乗組を制しながら、後退あとじさりに身を反そらせて、曲者を釣身に出ると、両手を突張つっぱって礼之進も続いて、どたり。
445
後からぞろぞろと七八人、我勝ちに見物に飛出たのがある。事ありと見て、乗ろうとしたのもそのまま足を留めて、押取巻おっとりまいた。二人ばかり婦おんなも交って。
446
外へ、その人数を吐出したので、風が透いて、すっきり透明になって、行儀よく乗合の膝だけは揃いながら、思い思いに捻向ねじむいて、硝子戸がらすどから覗く中に、片足膝の上へ投げて、丁子巴ちょうじどもえの羽織の袖を組合わせて、茶のその中折を額深ひたいぶかく、ふらふら坐眠いねむりをしていたらしい人物は、酒井俊蔵であった。
447
けれども、礼之進が今、外へ出たと見ると同時に、明かにその両眼を※みひらいた瞳には、一点も睡ねむそうな曇くもりが無い。
448
惟おもうに、乗合いの蔭ではあったが、礼之進に目を着けられて、例のますます御翻訳で。を前置きに、就きましては御縁女儀、を場処柄も介かまわず弁じられよう恐おそれがあるため、計略ここに出たのであろう。ただしその縁談を嫌ったという形跡はいささかも見当らぬが。
「攫やられたのかい。」
「はい、」
449
と見ると、酒井の向い合わせ、正面を右へ離れて、ちょうどその曲者の立った袖下の処に主税が居て、かく答えた。
「何でございますか、騒ぎです。」
450
先生の前で、立騒いでは、と控えたが、門生が澄まし込んで冷淡に膝に手を置いているにも係わらず、酒井はずッと立って、脊高せだかく車掌台へ出かけて、ここにも立淀む一団ひとかたまりの、弥次の上から、大路へ顔を出した……時であった。
451
主客顛倒しゅかくてんどう、曲者の手がポカリと飛んで、礼之進の痘痕あばたは砕けた、火の出るよう。
「猿唐人め。」
452
あろう事か、あっと頬げたを圧おさえて退すさる、道学者の襟飾ネクタイへ、斜はすっかいに肩を突懸つっかけて、横押にぐいと押して、
「何だ、何だ、何だ、何だと? 掏摸すりだ、盗賊どろぼうだと……クソを啖くらえ。ナニその、胡麻和ごまあえのような汝てめえが面つらを甜なめろい! さあ、どこに私わっしが汝てめえの紙入を掏すったんだ。
453
こっちあまた、串戯じょうだんじゃねえ。込合ってる中だから、汝の足でも踏んだんだろう、と思ってよ。足ぐれえ踏んだにしちゃ、怒りようが御大層だが、面を見や、踵かかとと大した違えは無えから、ははは、」
454
と夜の大路へ笑わらいが響いて、
「汝てめえの方じゃ、面を踏まれた分にして、怒りやがるんだ、と断念あきらめてよ。難有ありがたく思え、日傭取ひようとりのお職人様が月給取に謝罪あやまったんだ。
455
いつ出来た規則だか知らねえが、股ももッたア出すなッてえ、肥満ふとった乳母おんばどんが焦じれッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、他様ほかさまの足を踏みゃ、引摺下ひきずりおろされる御法だ、と往生してよ。」
456
と、車掌にひょこと頭を下げて、
「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」
457
また礼之進に突懸つっかかる。
三十四
「掏すられた、盗とられたッて、幾干いくらばかり台所の小遣いりようをごまかして来やあがったか知らねえけれど、汝てめえがその面つらで、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。
458
へん、鈍漢のろま。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口がまぐちが有るもんかい、疾とっくの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
459
さあ、お目通りで、着物を引掉ひっぷるって神田児かんだッこの膚合はだあいを見せてやらあ、汝が口説く婦おんなじゃねえから、見たって目の潰つぶれる憂慮きづけえはねえ、安心して切立きったての褌ふんどしを拝みゃあがれ。
460
ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、汝うぬ、どうするか見ろ。」
「やあ、風が変った、風が変った。」
461
と酒井は快活に云って、原もとの席に帰った。
462
車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌が勢いきおいなく戻って、がちゃりと提革鞄さげかばんを一つ揺ゆすって、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの混々ごたごた揉むのを、通り過ぎ状ざまに見て進む。
463
と錦帯橋きんたいきょうの月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりと繋つながって停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、風説うわさとりどり。
464
あれは掏摸すりの術てでございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確に業わざをしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類の袂たもとへすっこかしにして、証拠が無いから逆捻さかねじを遣るでございます、と小商人こあきんど風の一分別ありそうなのがその同伴つれらしい前垂掛まえだれかけに云うと、こちらでは法然天窓ほうねんあたまの隠居様が、七度ななたび捜して人を疑えじゃ、滅多な事は謂われんもので、のう。
465
そうおっしゃれば、あの掏られた、と言いなさる洋服ふくを着た方も、おかしな御仁でござりますよ。此娘これの貴下あなた、と隣に腰かけた、孫らしい、豊肌ぽってりした娘の膝を叩いて、簪かんざしへ、貴下、立っていてちょいちょい手をお触りなさるでございます。御仁体が、御仁体なり、この娘こが恥かしがって、お止しよ、お止しよ、と申しますから、何をなさる、と口まで出ましたのを堪こらえていたのでござりますよ。お止しよ、お祖母さんと、その娘はまた同じことをここで云って、ぼうと紅くなる。
466
法然天窓は苦笑いをして……後からせせるやら、前からは毛の生えた、大おおきな足を突出すやら……など、浄瑠璃にもあって、のう、昔、この登り下りの乗合船では女子衆おなごしゅが怪しからず迷惑をしたものじゃが、電車の中でも遣りますか、のう、結句、掏摸よりは困りものじゃて。
467
駄目でさ、だってお前さん、いきなり引摺り下ろしてしまったんだから、それ、ばらばら一緒に大勢が飛出しましたね、よしんばですね、同類が居た処で、疾とっくの前さき、どこかへ、すっ飛んでいるんですから手係りはありやしません。そうでなくって、一人も乗客のりてが散らずに居りゃ、私達わっしだちだって関合かかりあいは抜けませんや。巡査おまわりが来て、一応検しらべるなんぞッて事になりかねません。ええ、後はどうなるッて、お前さん、掏摸は現行犯ですからね、証拠が無くって、知らないと云や、それまででさ。またほんとうに掏られたんだか何だか知れたもんじゃありません、どうせ間抜けた奴なんでさあね、と折革鞄おりかばんを抱え込んだ、どこかの中小僧らしいのが、隣合った田舎の親仁おやじに、尻上りに弁じたのである。
468
いずれ道学先生のために、祝すべき事ではない。
469
あえて人の憂うれいを見て喜ぶような男ではないが、さりとて差当りああした中の礼之進のために、その憂を憂として悲かなしむほどの君子でもなかろう。悪くすると状を見ろ。ぐらいは云うらしい主税が、風向きの悪い大人の風説うわさを、耳を澄まして聞き取りながら、太いたく憂わしげな面色おももちで。
470
実際鬱込ふさぎこんでいるのはなぜか。
471
忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税を睨にらむがごとくにしていることを。
三十五
472
鬱ぐも道理ことわり、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。
473
もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から外濠線そとぼりせんに乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の住居すまいへ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子が凜りんとして厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、罰利生ばちりしょうある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へ蹙すくんで、僥倖さいわいそこでも乗客のりてが込んだ、人蔭になって、眩まばゆい大目玉の光から、顔を躱かわして免まぬかれていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、件くだんの売卜者うらないの行燈あんどうが、真黒まっくろな石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞く辺あたりから、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、吐胸とむねを支ついたのは、お蔦の儀。
474
ひとえに御目玉の可恐おそろしいのも、何を秘かくそう繻子しゅすの帯に極きわまったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の跫音あしおとは、聞覚えている。
475
その跫音が、他の跫音と共に、澄まして音信おとずれれば、お帰んなさい。で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、特ことに、似たもの夫婦の譬たとえ、信玄流の沈勇の方ではないから、随分飜然ひらりと露あらわれ兼ねない。
476
いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。
477
あいにく例いつものように話しもしないで、ずかずか酒井が歩行あるいたので、とこう云う間ひまもなかった、早や我家の路地が。
478
堪たまりかねて、先生と、呼んで、女中おんなが寝ていますと失礼ですから、一足! と云うが疾はやいか、お先へ、は身体からだで出て、横ッ飛びに駈かけ抜ける内も、ああ、我ながら拙つたない言分。
待て! 待て!
479
それ、声が掛った。
480
酒井はそこで足を留めた。
481
屹きっと立って、
宵から寐ねるような内へ、邪魔をするは気の毒だ。他わきへ行こう、一緒に来な。
482
で路が変って、先生のするまま、鷲わしに攫さらわれたような思いで乗ったのが、この両国行――
483
なかなか道学者の風説うわさに就いて、善悪ともに、自から思虜を回めぐらすような余裕とては無いのである。
484
電車が万世橋めがねの交叉点を素直まっすぐに貫いても、鷲は翼を納めぬので、さてはこのまま隅田川おおかわへ流罪ながしものか、軽くて本所から東京の外へ追放になろうも知れぬ。
485
と観念の眼まなこを閉じて首垂うなだれた。
「早瀬、」
「は、」
「降りるんだ。」
486
一場展開した広小路は、二階の燈ひと、三階の燈と、店の燈と、街路の燈と、蒼あおに、萌黄もえぎに、紅くれないに、寸隙すきまなく鏤ちりばめられた、綾あやの幕ぞと見る程に、八重に往来ゆきかう人影に、たちまち寸々ずたずたと引分けられ、さらさらと風に連れて、鈴を入れた幾千の輝く鞠まりとなって、八方に投げ交わさるるかと思われる。
487
ここに一際夜の雲の濃こまやかに緑の色を重ねたのは、隅田へ潮がさすのであろう、水の影か、星が閃きらめく。
488
我が酒井と主税の姿は、この広小路の二点となって、浅草橋を渡果てると、富貴竈ふうきかまどが巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、磨硝子すりがらすの軒の燈籠の、媚なまめかしく寂寞ひっそりして、ちらちらと雪の降るような数ある中を、蓑みのを着た状さまして、忍びやかに行くのであった。
柏 家
三十六
489
やがて、貸切と書いた紙の白い、その門の柱の暗い、敷石のぱっと明あかるい、静粛しんとしながら幽かすかなように、三味線さみせんの音ねが、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒大構おおがまえの料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎えられつつ、地つちの濡れた、軒に艶つやある、その横町の中程へ行くと、一条ひとすじ朧おぼろな露路がある。
490
芸妓家げいしゃや二軒の廂合ひあわいで、透かすと、奥に薄墨で描いたような、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が一木ひとき、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりと彳たたずむと、向い合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛を銜くわえた態ていで、すらすらと靡なびいている。
491
梅と柳の間を潜くぐって、酒井はその竹垣について曲ると、処がら何となく羽織の背の婀娜あだめくのを、隣家となりの背戸の、低い石燈籠がト踞しゃがんだ形で差覗さしのぞく。
492
主税は四辺あたりを見て立ったのである。
493
先生がその肩の聳そびえた、懐手のまま、片手で不精らしくとんとんと枝折戸しおりどを叩くと、ばたばたと跫音あしおと聞えて、縁の雨戸が細目に開いた。
494
と派手な友染の模様が透いて、真円まんまるな顔を出したが、燈あかりなしでも、その切下げた前髪の下の、くるッとした目は届く。隔ては一重で、つい目の前さきの、丁子巴の紋を見ると、莞爾々々にこにこと笑いかけて、黙って引込ひっこむと、またばたばたばた。
495
程もあらせず、どこかでねじを圧したと見える、その小座敷へ、電燈が颯さっと点つくのを合図に、中脊で痩やせぎすな、二十はたちばかりの細面ほそおもて、薄化粧して眉の鮮明あざやかな、口許くちもとの引緊ひきしまった芸妓げいこ島田が、わざとらしい堅気づくり。袷あわせをしゃんと、前垂がけ、褄つまを取るのは知らない風に、庭下駄を引掛ひっかけて、二ツ三ツ飛石を伝うて、カチリと外すと、戸を押してずッと入る先生の背中を一ツ、黙言だんまりで、はたと打った。これは、この柏屋かしわやの姐ねえさんの、小芳こよしと云うものの妹分で、綱次つなじと聞えた流行妓はやりっこである。
「大層な要害だな。」
「物騒ですもの。」
「ちっとは貯蓄たまったか。」
496
と粗雑ぞんざいに廊下へ上る。先生に従うて、浮かぬ顔の主税と入違いに、綱次は、あとの戸を閉めながら、
「お珍らしいこと。」
「…………。」
「蔦吉姉さんはお達者?」と小さな声。
497
主税はヒヤリとして、ついに無い、ものをも言わず、恐れた顔をして、ちょっと睨にらんで、そっと上って、開けた障子へ身体からだは入れたが、敷居際へ畏かしこまる。
498
酒井先生、座敷の真中へぬいと突立ったままで――その時茶がかった庭を、雨戸で消して入いり来る綱次に、
「どうだ、色男が糶出せりだしたように見えるか。」
499
とずッと胸を張って見せる。
「私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、」
「そう目前めさきが利かないから、お茶を挽ひくのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるが可いい。」
「憚様はばかりさま、お座敷は宵の口だけですよ。」
500
と姿見の前から座蒲団をするりと引いて、床の間の横へ直した。
「さあ、早瀬さん。」と、もう一枚。
501
主税は膝の傍わきへ置いたままなり。
502
友染の羽織を着たのが、店から火鉢を抱えて来て、膝と一所に、お大事のもののように据えると、先生は引跨ひんまたぐ体に胡坐あぐらの膝へ挟んで、口の辺あたりを一ツ撫でて、
「敷きな、敷きな。」
503
と主税を見向いた。
「はい、」
504
とばかりで、その目玉に射られるようで堅くなってどこも見ず、面おもてを背けると端はしなく、重箪笥かさねだんすの前なる姿見。ここで梳くしけずる柳の髪は長かろう、その姿見の丈が高い。
三十七
「お敷きなさいなね、貴下あなた、此家ここへいらっしゃりゃ、先生も何もありはしません、御遠慮をなさらなくっても可いんですよ。」
505
と意気、文学士を呑む。この女は、主税が整然きちんとしているのを、気の毒がるより、むしろ自分の方が、為に窮屈を感ずるので。
506
その癖、先生には、かえって、遠慮の無い様子で、肩を並べるようにして支膝つきひざで坐りながら、火鉢の灰をならして、手でその縁をスッと扱しごく。
「茶を一ツ、熱いのを。」
507
酒井は今のを聞かない振で、
「それから酒だ。」
508
綱次は入口の低い襖ふすまを振返って、ト拝む風に、雪のような手を敲たたく。
「自分で起たて。少わかいものが、不精を極きめるな。」
「厭いやですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。」
509
と言いながら、人懐かしげに莞爾にっこりして、
「ねえ、早瀬さん。」
「で、ございますかな。」とようよう膝去いざり出して、遠くから、背を円くして伸上って、腕を出して、巻莨まきたばこに火を点つけたが、お蔦が物指ものさしを当てた襦袢じゅばんの袖が見えたので、気にして、慌てて、引込める。
「ちっと透かさないか、籠こもるようだ。」
「縁側ですか。」
「ううむ、」
510
と頭かぶりを掉ふったので、すっと立って、背後うしろの肱掛窓ひじかけまどを開けると、辛うじて、雨落だけの隙すきを残して、厳いかめしい、忍返しのある、しかも真新まあたらしい黒板塀が見える。
「見霽みはらしでも御覧なさいよ。」
511
と主税を振向いてまた笑う。
512
酒井が凝じっと、その塀を視ながめて、
「一面の杉の立樹だ、森々としたものさ。」
513
と擽くすぐって、独ひとりで笑った。
「しかし山焼の跡だと見えて、真黒は酷ひどいな。俺もゆくゆくは此家こちらへ引取られようと思ったが、裏が建って、川が見えなくなったから分別を変えたよ。」
514
そこへ友染がちらちら来る。
「お出花を、早く、」
「はあ、」
「熱くするんだよ。」
「これ、小児こどもばっかり使わないで、ちっと立って食うものの心配でもしろ。民たみはどうした、あれは可いい。小老実こまめに働くから。今に帰ったら是非酌をさせよう。あの、愛嬌あいきょうのある処で。」
「そんなに、若いのが好すきなら、御内のお嬢さんが可いんだわ。ねえ早瀬さん。」
515
これには早瀬も答えなかったが、先生も苦笑した。
「妙も近頃は不可いけなくなったよ。奥方と目配めくばせをし合って、とかく銚子をこぎって不可いかん。第一酌をしないね。学校で、お酌さん。と云うそうだ。小児どもの癖に、相応に皮肉なことを云うもんだ。」
「貴郎あなたには小児でも、もうお嫁入盛ざかりじゃありませんか。どうかすると、こっちへもいらっしゃる、学校出の方にゃ、酒井さんの天女エンゼルが、何のと云っちゃ、あの、騒いでおいでなさるのがありますわ。」
「あの、嬰児あかんぼをか、どこの坊やだ。」
「あら、あんなことを云って。こちらの早瀬さんなんかでも、ちょうど似合いの年紀頃としごろじゃありませんか。」
516
と何でものう云ってのけたが、主税は懐中ふところの三世相とともに胸に支つかえて俯向うつむいた。
「その癖、当人は嫁入と云や鼠の絵だと思っているよ。」
517
と云いかけて莞爾かんじとして、
「むむ、これは、猫の前で危い話だ。」
518
と横顔へ煙を吹くと、
「引掻ひっかいてよ。」と手を挙げたが、思い出したように座を立って、
「どうしたんだろうねえ、電話は、」と呟つぶやいて出ようとする。
「おい、阿婆おっかあは?」
「もう寐ねました。」
「いや、老人としよりはそう有りたい。」
519
座の白ける間は措かず、綱次はすぐに引返ひっかえして、
「姉さんは、もう先方むこうは出たそうですわ。」
520
云う間程なく、矢を射るような腕車くるま一台、からからと門かどに着いたと思うと、
「唯今ただいま!」と車夫の声。
三十八
「そうかい。」
521
と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の襖ふすま音なく、すらりと開あいて入ったのは、座敷帰りの小芳である。
522
瓜核顔うりざねがおの、鼻の準縄じんじょうな、目の柔和やさしい、心ばかり面窶おもやつれがして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際はえぎわの可いい、洗い髪を引詰ひッつめた総髪そうがみの銀杏返いちょうがえしに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の艶つやの涼しさ。撫肩の衣紋えもんつき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この婦おんなの母親なら、芸者家の阿婆おっかあでも、早寝をしよう、と頷うなずかれる。
「まあ、よくいらしってねえ。」
523
と主税の方へ挨拶して、微笑ほほえみながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着もんつき二枚袷あわせ、藍気鼠あいけねずみの半襟、白茶地しらちゃじに翁格子おきなごうしの博多の丸帯、古代模様空色縮緬ちりめんの長襦袢ながじゅばん、慎ましやかに、酒井に引添ひっそうた風采とりなりは、左支さしつかえなく頭つむりが下るが、分けてその夜よの首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、
「御機嫌宜よう、」と会釈をする。
524
その時、先生撫然ぶぜんとして、
「芸者に挨拶をする奴があるか。」
525
これに一言句ひともんくあるべき処を、姉さんは柔順おとなしいから、
「お出花が冷くなって、」
526
と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある肱掛窓ひじかけまどから、暗い雨落へ、ざぶりと覆かえすと、斜めに見返って、
「大おおきな湯覆ゆこぼしだな、お前ン許とこのは。」
「あんな事ばかり云って、」
527
と、主税を見て莞爾にっこりして、白歯を染めても似合う年紀とし、少しも浮いた様子は見えぬ。
528
それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶を注ついだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。
529
酒井は軽かるく襟を扱しごいて、
「そこで、御馳走は、」
「綱次さんが承知をしてます。」
「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」
「どうですか。」
530
と横目で見て、嬉しそうに笑えみを含む。
「いずれ不漁しけさ。」
531
と打棄うっちゃるように云ったが、向直って、
「早瀬、」と呼んだ声が更あらたまった。
「ええ。」
「先刻さっきの三世相を見せろ。」
532
一仔細ひとしさいなくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、辞いなむべき数すうではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈の下もとに、先生の手に、もじもじと奉る。
533
引取ひっとって、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見て胆きもを冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい面色おももちで、覗込のぞきこんで、
「心当りでも出来たんですか。」
534
不答こたえず。煙草の喫すいさしを灰の中へ邪険に突込つっこみ、
「何は、どうした。」
535
と唐突だしぬけに聞かれたので、小芳は恍惚うっとりしたように、酒井の顔を視ながめると……
「あれよ、ちょいと意気な、清元の旨うまい、景気の可いい、」
536
いいいい本を引返ひっかえして、
「扱帯しごきで、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」
537
と凝じっと見られて、小芳は引入れられたように、
「蔦吉さん。」
538
と云って、喫いかけた煙管きせるを忘れる。
539
主税は天窓あたまから悚然ぞっとした。
「あれはどうした。」
「え、」
「俺はさっぱり山手のてになって容子を知らんが、相変らず繁昌はんじょうか。」
三十九
540
小芳は我知らず、ああ、どうしよう。と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理に堪こらえて、酒井を瞻みまもった顔が震えて、
「蔦吉さんはもう落籍ひきましたそうです。」
541
と言わせも果てずに、
「そうです。は可怪おかしい。近所に居ながら、知らんやつがあるか、判然はっきり謂いえ、落籍ひいたのか!」
「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな睫毛まつげが、どうかなさいよ。と、主税の顔へ目配せする。
542
酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、
「そりゃ可い事をした、泥水稼業を留やめたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」
「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」
「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」
「…………。」
「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、姉妹きょうだいのようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。
543
姉さんとか、小芳さんとか云って、先方さきでも落籍ひき祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。
544
蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、※にんべんの切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳に記ついているだろう。その婦おんなの行先が知れない奴があるものか。
545
知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、己おれのような素一歩すいちぶと腐合おうと云う料簡方りょうけんかただから、はじめから悧怜りこうでないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は不可いかんな! 薄情は。薄情な奴は俺おいら真平だ。」
「いつ、私が、薄情な、」
546
と口惜くやしく屹きっとなる処を、酒井の剣幕が烈はげしいので、悄しおれて声が霑うるんだのである。
「薄情でない! 薄情さ。懇意な婦おんなの、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」
「だって、貴郎あなた。だって、先方さきでも、つい音信たよりをしないもんですから、」
「先方さきが音信たよりをしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。行通ゆきかよいはしないでも、居処が分らんじゃ、近火きんかはどうする! 火事見舞に町内の頭かしらも遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。」
547
姉さんの震えるのを見て、身から出た主税は堪たまりかねて、
「先生、」
548
と呼んだが、心ばかりで、この声は口へは出なかった。
549
酒井は耳にも掛けないで、
「済まん事さ、俺も他人でないお前を、薄情者にはしたくないから、居処を教えてやろう。
550
堀の内へでも参詣まいる時は道順だ。煎餅の袋でも持って尋ねてやれ。おい、蔦吉は、当時飯田町五丁目の早瀬主税の処に居るよ。」
551
真蒼まっさおになって、
「先生、」
「早瀬!」
552
と一声屹きっとなって、膝を向けると、疾風一陣、黒雲を捲まいて、三世相を飛ばし来って、主税の前へはたと落した。
553
眼の光射るがごとく
「見ろ! 野郎は、素袷すあわせのすッとこ被かぶりよ。婦おんなは編笠を着て三味線さみせんを持った、その門附かどつけの絵のある処が、お前たちの相性だ。はじめから承知だろう。今更本郷くんだりの俺の縄張内を胡乱うろついて、三世相の盗人覗ぬすっとのぞきをするにゃ当るまい。
554
その間抜けさ加減だから、露店ほしみせの亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓になりゃあがったな、田舎漢いなかものめ!」
四十
555
主税はようよう、それも唾つばが乾くか、かすれた声で、
「三世相を見ておりましたのは、何も、そんな、そんな訳じゃございません……」とだけで後が続かぬ。
「翻訳でも頼まれたか、前世は牛だとか、午うまだとか。」
556
と串戯じょうだんのような警抜な詰問が出たので、いささか言ことばが引立ひったって、
「いいえ、実はその何でございまして。その、この間中から、お嬢さんの御縁談がはじまっております、と聞きましたもんですから、」
557
小芳はそっと酒井を見た。この間なかでも初に聞いた、お妙の縁談と云うのを珍らしそうに。
「ははあ、じゃ何か、妙と、河野英吉との相性を検しらべたのかい。」
558
果せる哉かな、礼之進が運動で、先生は早や平家の公達きんだちを御存じ、と主税は、折柄も、我身も忘れて、
「はい、」と云って、思わず先生の顔を見ると、瞼まぶたが颯さっと暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、
「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、歴然れっきとした、謹夫人の名。と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章あわてなさんな。
559
僭上せんじょうだよ、無礼だよ、罰当り!
560
お前が、男世帯をして、いや、菜が不味まずいとか、女中おんなが焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、可いいか、この間持って行った重詰なんざ、妙が独活うどを切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、勿体もったいない、一度先生が目を通して、綺麗に装もってあるのを、重箱のまま、売婦ばいたとせせり箸ばしなんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。
561
よく、その慈姑くわいが咽喉のどに詰って、頓死とんしをしなかったよ。
562
無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」
563
と大喝した。
564
主税は思わず居直って、
「邪魔を……私わ、私わたくしが、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」
「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が己おれに紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」
「…………」
「なぜ断った?」
「あんな、道学者、」
「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は先方さきの河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。
565
第一、汝きさまのような間違った料簡りょうけんで、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。
566
何のかのと、故障を云って、御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。と坂田が歯を吸って、合点のみこんでいたが、どうだ。」
「ええ! あの、痘痕あばたが、」
567
と色をかえて戦わなないた。主税はしかも点々たらたらと汗を流して、
「他ほかの事とは違います、聞棄てになりません。私わたくしは、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」
「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」
「誰が、先生、そんな事。」
「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の許とこへ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。誰か妙の事を聞きに来たものはないか。と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな態なりをしやあがって、薄髯うすひげの生えた面つらを、どこまで曝さらして歩行あるいているんだ。」
568
と火鉢をぐいぐいと揺ゆすぶって。
四十一
「あっちへ蹌々ひょろひょろ、こっちへ踉々よろよろ、狐の憑ついたように、俺の近所を、葛西かさい街道にして、肥料桶こえたごの臭においをさせるのはどこの奴だ。
569
何か、聞きゃ、河野の方で、妙の身体からだに探捜さぐりを入れるのが、不都合だとか、不意気ぶいきだとか言うそうだが、」
570
噫ああ、礼之進が皆饒舌しゃべった……
「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。
571
学位のある、立派な男が、大切な嫁を娶とるのだ。念を入れんでどうするものか。検しらべるのは当前あたりまえだ。芸者を媽々かかあにするんじゃない。
572
また己おれの方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と裸体はだかで見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。
573
何が可恐おそろしい? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、渠等かれらの検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。
574
よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、癪しゃくに障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の身体からだを秘かくした日にゃ、按摩あんまの勢揃ほど道学者輩が杖つえを突張って押寄せて、垣覗かきのぞきを遣ったって、黒子ほくろ一点ひとつも見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」
575
とまた屹きっと見て、
「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子を圧おさえられて、早瀬氏はこれがために、ちと手負猪じしでごわりましてな。なんて、歯をすすらせるんだ。
576
馬鹿野郎! 俺おいら弟子はいくらでもある、が小児こどもの内から手許に置いて、飴あめン棒までねぶらせて、妙と同一ひとつ内で育てたのは、汝きさまばかりだ。その子分が、道学者に冷かされるような事を、なぜするよ。
世間に在るやつでごわります。飼犬に手を噛かまれると申して。以来あの御門生には、令嬢お気を着けなさらんと相成りませんで。坂田が云ったを知ってるか。
577
馬鹿野郎、これ、」
578
と迫った調子に、慈愛が籠って、
「さほどの鈍的とんちきでもなかったが、天罰よ。先生の目を眩くらまして、売婦ばいたなんぞ引摺込む罰が当って、魔が魅さしたんだ。
579
嫁入前の大事な娘だ、そんな狐の憑いた口で、向後こうご妙の名も言うな。
580
生意気に道学者に難癖なんぞ着けやあがって、汝てめえの面当つらあてにも、娘は河野英吉にたたッ呉れるからそう思え。」
「貴郎あなた、」
581
と小芳が顔を上げて、
「早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……と声が曇って、お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、」
「何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような不埒ふらちを働く。第一お前も、」
582
稲妻が西へ飛んで、
「同類だ、共謀ぐるだ、同罪だよ。おい、芸者を何だと思っている。藪入やぶいりに新橋を見た素丁稚すでっちのように難有ありがたいもんだと思っているのか。馬鹿だから、己が不便ふびんを掛けて置きゃ、増長して、酒井は芸者の情婦いろを難有がってると思うんだろう。高慢に口なんぞ突出しやがって、俯向うつむいておれ。」
583
はっと首垂うなだれたが、目に涙一杯。
「そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、」
「難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!」
584
主税は手を支ついて摺ずって出た。
「先せ、先生、姉さんは、何にも御存じじゃございません、それは、お目違いでございまして、」
585
と大呼吸おおいきを胸で吐つくと、
「黙れ! 生れてから、俺おいら、目違いをしたのは、お前達二人ばかりだ。」
四十二
「お言葉を反かえしますようでございますが、」
586
主税は小芳の自分に対する情が仇あだになりそうなので、あるにもあられず据身すえみになって、
「誰がそういうことをお耳に入れましたか存じませんが、芸者が内に居りますなんてとんだ事でございます。やっぱり、あの坂田の奴が、怪しかりません事を。私わたくしは覚悟がございます、彼奴あいつに対しましては、」と目の血走るまで意気込んだが、後暗い身の明あかりは、ちっとも立つのではなかった。
「覚悟がある、何の覚悟だ。己おれに申訳が無くって、首を縊くくる覚悟か。」
「いえ、坂田の畜生、根もない事を、」
「馬鹿!」
587
と叱しっして、調子を弛ゆるめて、
「も休み休み言え。失礼な、他人の壁訴訟を聞いて、根も無い事を疑うような酒井だと思っているか。お前がその盲目めくらだから悪い事を働いて、一端いっぱし己の目を盗んだ気で洒亜々々しゃあしゃあとしているんだ。
588
先刻さっきどうした、牛込見附でどうしたよ。慌てやあがって、言種いいぐさもあろうに、女中が寝ていますと失礼ですから。と駈出した、あれは何の状ざまだ。婆ばばあが高利貸をしていやしまい、主人あるじの留守に十時前から寝込む奴がどこに在る。
589
また寝ていれば無礼だ、と誰が云ったい。これ、お前たちに掛けちゃ、己の目は暗やみでも光るよ。飯田町の子分の内には、玄関の揚板の下に、どんな生意気な、婦おんなの下駄が潜んでるか、鼻緒の色まで心得てるんだ。べらぼうめ、内証ないしょうでする事は客の靴へ灸を据えるのさえ秘かくしおおされないで、恐るべき家庭でごわります。と道学者に言われるような、薄っぺらな奴等が、先生の目を抜こうなぞと、天下を望むような叛逆を企てるな。
590
悪事をするならするように、もっと手際よく立派に遣れ。見事に己を間抜けにして見ろ。同じ叱言こごとを云うんでも、その点だけは恐入ったと、鼻毛を算よまして讃ほめてやるんだ。三下め、先生の目を盗んでも、お前なんぞのは、たかだか駈出しのタッシェン、ディープだ。」
591
これは、攫徒すりと云う事だそうである。主税は折れるように手をハッと支ついた。
「恐入ったか、どうだ。」
「ですが、全く、その、そんな事は……」
「無い?」
「…………」
「芸者は内に居ないと云うのか。」
「はい。」
592
霹靂へきれきのごとく、
「帰れ!」
593
小芳が思わず肩を窘すくめる。
「早瀬さん、私、私じゃ、」
594
と声が消えて、小芳は紋着もんつきの袖そのまま、眉も残さず面おもてを蔽おおう。
「いや、愛想の尽きた蛆虫うじむしめ、往生際の悪い丁稚でっちだ。そんな、しみったれた奴は盗賊どろぼうだって風上にも置きやしない、酒井の前は恐れ多いよ、帰れ!
595
これ、姦通まおとこにも事情はある、親不孝でも理窟を云う。前座のような情実わけでもあって、一旦内へ入れたものなら、猫の児この始末をするにも、鰹節かつおぶしはつきものだ。談はなしを附けて、手を切らして、綺麗に捌さばいてやろうと思って、お前の許とこへ行くつもりで、百と、二百は、懐中ふところに心得て出て来たんだ。
596
この段になっても、まだ、ああ、心得違いをいたしました。先生よしなに、とは言い得ないで、秘し隠しをする料簡りょうけんじゃ、汝うぬが家を野天のでんにして、婦おんなとさかっていたいのだろう。それで身が立つなら立って見ろ。口惜くやしくば、おい、こうやって馴染なじみの芸者を傍そばに置いて、弟子に剣突けんつくをくわせられる、己のような者になって出直して来い。
597
さあ、帰れ、帰れ、帰れ! 汚けがらわしい。帰らんか。この座敷は己の座敷だ。己の座敷から追出すんだ。帰らんか、野郎、帰れと云うに、そこを起たたんと蹴殺けころすぞ!」
「あれ、お謝罪わびをなさいまし。」と小芳が楯たてに、おろおろする。
598
主税は、砕けよ、と身を揉んで、
「小芳さん、お取なしを願います。」と熟じっと瞻みつめて色が変った。
「奥さんに、奥さんに、お願いなさいよ、」
四十三
「何を、奥さんに頼めだい、黙れ。謹が芸者の取持なんぞすると思うか。先刻さっきも云う通り、芳、お前も同類だ、同類は同罪だよ。早瀬を叩出した後じゃ己おれが追出おんでる、お前ともこれきりだから、そう思え。」
599
と言わるるままに、忍び音が、声に出て、肩の震えが、袖を揺ゆすった。小芳は幼いとけないもののごとく、あわれに頭かぶりを掉ふって、厭々をするのであった。
「姉さん、」
600
と思込んだ顔を擡もたげた、主税は瞼まぶたを引擦ひっこすって、元気づいたような……調子ばかりで、一向取留の無い様子、しどろになって、
「貴女あなたは、貴女は御心配下さいませんように……先生、」
601
と更あらためて、両手を支ついて、息を切って、
「申訳がございません。とんだ連累まきぞえでお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、私わたくしを御存分になさいまして。」
「存分にすれば蹴殺すばかりよ。」
602
と吐出すように云って、はじめて、豊かに煙を吸った。
「じゃ恐入ったんだな。
603
内に蔦吉が居るんだな。
604
もう陳じないな。」
「心得違いをいたしまして……何とも申しようがございません。」
605
と吻ほっと息を吐ついたと思うと、声が霑うるむ。
606
最早罪に伏したので、今までは執成とりなすことも出来なかった小芳が、ここぞ、と見計みはからって、初心にも、袂たもとの先を爪つまさぐりながら、
「大目に見てお上あげなすって下さいまし。蔦吉さんも仇あだな気じゃありません。決けして早瀬さんのお世帯の不為ふためになるような事はしませんですよ。一生懸命だったんですから。あんな派手な妓こが落籍祝ひきいわいどころじゃありません、貴郎あなた、着換きがえも無くしてまで、借金の方をつけて、夜遁よにげをするようにして落籍ひいたんですもの。
607
堅気に世帯が持てさえすれば、その内には、世間でも、商売したのは忘れましょうから、早瀬さんの御身分に障るようなこともござんすまい。もうこの節じゃ、洗濯ものも出来るし、単衣ひとえものぐらい縫えますって、この間も夜晩おそく私に逢いに来たんですがね。」
608
と婀娜あだな涙声になって、
「羽織が無いから日中は出られない、と拗すねたように云うのがねえ、どんなに嬉しそうだったでしょう。それに土地ところ馴れないのに、臆病おくびょうな妓ですから、早瀬さんがこうやって留守にしていなさいます、今頃は、どんなに心細がって、戸に附着くッついて、土間に立って、帰りを待っているか知れません、私あそれを思うと……」
609
と空色の、瞼まぶたを染めて、浅く圧おさえた襦袢じゅばんの袖口。月に露添う顔を見て、主税もはらはらと落涙する。
「世迷言よまいごとを言うなよ。」
610
と膠にべもなく、虞氏ぐしが涙なんだを斥しりぞけて、
「早瀬どうだ、分れるか。」
「行処ゆきどこもございません、仕様が無いんでございますから、先生さえ、お見免みのがし下さいますれば、私わたくしの外聞や、そんな事は。世間体なんぞ。」と半なかば云って唾つが乾く。
「いや、不可いかん、許しやしないよ。」
「そう仰有おっしゃって下さいますのも、世間を思って下さいますからでございます。もう、私わたくしは、自分だけでは、決心をいたしまして、世間には、随分一人前の腕を持っていながら、財産を当に婿養子になりましたり、汝てまえが勝手に嫁にすると申して、人の娘の体格検査を望みましたり、」
611
と赫かっとなって、この時やや血の色が眉宇びうに浮んだ。
「女学校の教師をして、媒妁なこうどをいたしましたり……それよりか、拾人ひろいての無い、社会の遺失物おとしものを内へ入れます方が、同じ不都合でも、罪は浅かろうと存じまして。それも決して女房になんぞ、しますわけではございません。一生日蔭ものの下女同様に、ただ内証ないしょうで置いてやりますだけのことでございますから。」
「血迷うな。腕があって婿養子になる、女学校で見合をする、そりゃ勝手だ、己の弟子じゃないんだから、そのかわり芸者を内へ入れる奴も弟子じゃないのだ、分らんか。」
四十四
612
折から食卓を持って現れた、友染のその愛々しいのは、座のあたかも吹荒んだ風の跡のような趣に対して、散り残った帰花かえりばなの風情に見えた。輝く電燈の光さえ、凩こがらしの対手あいてや空に月一つ、で光景が凄すさまじい。
613
一言も物いわぬ三人の口は、一度にバアと云って驚かそうと、我がために、はた爾しかく閉されているように思って、友染は簪かんざしの花とともに、堅くなって膳を据えて、浮上るように立って、小刻こきざみに襖ふすまの際。
614
川千鳥がそこまで通って、チリチリ、と音ねが留まった。杯洗はいせん、鉢肴はちさかななどを、ちょこちょこ運んで、小ぢんまりと綺麗に並べる中うちも、姉さんは、ただ火鉢をちっとずらしたばかり、悄しおれて俯向うつむいて、ならば直ぐに、頭つむりが打つのを圧おさえたそうに、火箸に置く手の白々と、白けた容子を、立際に打傾うちかしいで、熟じっと見て出ようとする時、
「食うものはこれだけか。」
615
と酒井は笑みを含んだが、この際、天窓あたまから塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で慄然ぞっと萎すくんで壁の暗さに消えて行く。
616
慌てて、あとを閉めないで行ったから、小芳が心付いて立とうとすると、するすると裾を捌さばいて、慌あわただしげに来たのは綱次。
617
唯今の注進に、ソレと急いで、銅壺どうこの燗かんを引抜いて、長火鉢の前を衝つと立ち状ざまに来た。
618
前垂掛けとはがらりと変って、鉄お納戸地に、白の角通かくとおしの縮緬ちりめん、かわり色の裳もすそを払って、上下うえした対の袷あわせの襲かさね、黒繻珍くろしゅちんに金茶で菖蒲あやめを織出した丸帯、緋綸子ひりんずの長襦袢ながじゅばん、冷く絡んだ雪の腕かいなで、猶予ためらう色なく、持って来た銚子を向けつつ、
「お酌、」
619
冴えた音を入れると、鶯のほうと立つ、膳の上の陽炎かげろうに、電気の光が和やわらいで、朧々おぼろおぼろと春に返る。
「まだ宵の口かい。」
「柏家だけではね。」と莞爾にっこりする。
「遠慮なく出懸けるが可い、しかし猥褻わいせつだな。」
「あら、なぜ?」
「十一時過ぎてからの座敷じゃないか。」
「御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、」
「いいえ、もう、」
620
主税は猪口ちょくを視ながむるのみ。
「お察しなさいよ。」
621
と先生にまたお酌をして、
「御贔屓ごひいきの民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。」
「道理こそ、鎖帷子くさりかたびらの扮装いでたちだ。」
「錣しころのように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、」
622
と髢たぼに手を触る。
「いいえ、」
623
と云って、言ことばの内に、そんな心配をおしでない。の意味が籠る。綱次は、安心の体に、胸をちょいと軽く撫でて、
「おいしいものが、直ぐにあとから、」
「綱次姉さん、また電話よ。」
624
と廊下から雛妓こどもの声。
「あい、あい、あちらでも御用とおっしゃる。では、直じき行って来ますから、貴下あなた帰っちゃ、厭ですよ、民ちゃんを連れて来て、一所にまたお汁粉をね。」
625
酒井は黙って頷うなずいた。
「早瀬さん、御緩ごゆっくり。」
626
と行く春や、主税はそれさえ心細そうに見送って、先生の目から面おもてを背ける。
627
酒井は、杯を、つっと献さし、
「早瀬、近う寄れ、もっと、」
628
と進ませ、肩を聳そびやかして屹きっと見て、
「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離わかれの杯にするか。」
「…………」
「それとも婦おんなを思切るか。芳、酌ついでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」
629
銚子を挙げて、猪口ちょくを取って、二人は顔を合せたのである。
四十五
630
その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、
「何を愚図々々ぐずぐずしているんだ。」
「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手で密そっと圧おさえながら、
「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、更あらためてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、貴郎あなた。
631
ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに仰有おっしゃるんですから、貴下あなたもよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」
632
と促がされても立ちかねる、主税は後を憂慮きづかうのである。
「蔦吉さんが、どんなに何なんしたって、私が知らない顔をしていれば可よかったのですけれど、思う事は誰も同一おなじだと、私、」
633
と襟に頤おとがい深く、迫った呼吸いきの早口に、
「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」
「そんな、貴女あなたが悪いなんて、そんな事があるもんですか。」
634
と酒井の前を庇かばう気で、肩に力味りきみを入れて云ったが、続いて言おうとする、
貴女がお世話なさいませんでも……の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。
「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「ならん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、婦おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急に首を圧おさえて叩っ斬ってしまうのだ。
635
早瀬。」
636
と苛々した音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦おんなが怨んでも、泣いても可い。憧こがれ死じにに死んでも可い。先生の命令いいつけだ、切れっちまえ。
637
俺を棄てるか、婦を棄てるか。
638
むむ、この他ほかに言句もんくはないのよ。」
どうだ。と頤あごで言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓に肱ひじをついた。
「婦を棄てます。先生。」
639
と判然はっきり云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。
640
物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
「そっちの、そっちの熱い方を。――もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
641
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」
642
小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に引添ひっそうて縋すがり状ざまに、
「お帰んなさるの。」
「謹が病気よ。」
643
と自分で雨戸を。
「それは不可いけませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色の褄つま。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだ開あかぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、忙せわしく巻莨まきたばこを吸うのであった。
644
二時ふたときばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、牡丹ぼたんの花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。
「お互に辛抱するのよう。」と酒気さかけのある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時に渠かれは姉さんと、手をしっかりと取り合った。
645
時に、寂ひっそりした横町の、とある軒燈籠の白い明あかりと、板塀の黒い蔭とに挟はさまって、平ひらたくなっていた、頬被ほおかむりをした伝坊が、一人、後先を※みまわして、密そっと出て、五六歩行過ぎた、早瀬の背後うしろへ、……抜足で急々つかつか。
「もし、」
「…………」
「先刻さっきアどうも。よく助けて下すったねえ。」
646
と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その半纏着はんてんぎ。
誰が引く袖
四十六
647
土曜日は正午ひるまでで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、溌ぱっと麗うららかな日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若かきつばたよりも紫である。
648
年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。
649
阿嬢おじょうは、就中なかんずく活溌に、大形の紅入友染の袂たもとの端を、藤色の八ツ口から飜然ひらりと掉ふって、何を急いだか飛下りるように、靴の尖さきを揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履穿ばきで急いで来て、
「ああ酒井様。」
650
と云う。優等生で、この容色きりょうであるから、寄宿舎へ出入ではいりの諸商人しょあきんども知らぬ者は無いのに、別けて馴染なじみの翁様じいさまゆえ、いずれ菖蒲あやめと引き煩らわずに名を呼んだ。
「ははい。」
651
と振向くと、小使は小腰を屈かがめて、
「教頭様が少し御用がござります。」
「私に、」
「ちょっとお出で下さりまし。」
「あら、何でしょう、」
652
と友達も、吃驚びっくりしたような顔で※みまわすと、出口に一人、駒下駄こまげたを揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの道連みちづれが、斉ひとしく三方からお妙の顔を瞻みまもって黙った。
653
この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、翁様じいさまがまた、そこらの口が姦かしましいと察した気転か。
「何か、お父様へ御託おことづけものがござりますで。」
「まあ、そう、」
654
と莞爾にっこりして、
「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。
655
お妙はずんずん小使について廊下を引返ひっかえしながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸の許もとを擦さすって見せた。
「応接室までござりますわ。」
656
教員室の前を通ると、背後うしろむきで、丁寧に、風呂敷の皺しわを伸のばして、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに仰様のけざまに寝て、両肱りょうひじを空に、後脳を引掴ひッつかむようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑った婦おんなは、言わずとも、体操の師匠である。
657
行きがかりに目についた、お妙は直ぐに俯目ふしめになって、コトコト跫音あしおとが早くなった。階子段はしごだんの裏を抜けると、次の次の、応接室の扉ドアは、半開きになって、ペンキ塗の硝子戸入がらすどいりの、大書棚の前に、卓子テイブルに向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の燦爛さんらんたる、新あたらしい洋書ブックの中ほどを開けて読む、天窓あたまの、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする蝦茶えびちゃと緋縮緬ひぢりめんの交換だ。と主税が憤った一人である。
658
この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、留南奇とめきの薫馥郁ふくいくとしてと云う、創作的文字もんじをここに挟さしはさみ得ることを感謝しよう。勿論、その香においの、二十世紀であるのは言うまでもない。
659
お妙は、扉ドアに半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。
660
閑耕は、キラリ目金めがねを向けて、じろりと見ると、目を細うして、髯ひげの尖さきをピンと立てた、頤あごが円い。
「こちらへ、」
661
と鷹揚おうように云って、再び済まして書見に及ぶ。
662
お妙は扉に附着くッついたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。
「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その発奮はずみで目金が躍る。
663
頬桁ほおげたへ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ揉込もみこむと、睫毛まつげを圧おさえ込んで、驚いて、指の尖を潜くぐらして、瞼まぶたを擦こすって、
「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、
「どうですな。」
四十七
664
もう傍そばへ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、熟じっと立って、臈ろうたけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように俯向うつむいているから、威勢に怖おじて、頭かしらも得え上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、笑えみを含んでいるのである。
665
それは、それは愛々しい、仇気あどけない微笑ほほえみであったけれども、この時の教頭には、素直に言う事を肯きいて、御前おんまえへ侍さぶらわぬだけに、人の悪い、与くみし易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、
「酒井さん、ここへ来なくちゃ不可いかんですよ。」
666
時に教頭胸を反そらして、卓子テイブルをドンと拳こぶしで鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いに面おもてを合わせて、そのふっくりした二重瞼ふたかわめを、臆おくする色なく、円く※みはって、
「御用ですか。」
667
と云った風采、云い知らぬ品威が籠こもって、閑耕は思いかけず、はっと照らされて俯向うつむいた。
668
教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、抑々そもそも生れて以来最初はじめてである。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。
669
はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではない筈はずだが、と更あらためて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井の嬢むすめは依然として気高いのである。
「酒井さん……」
670
声の出処でどころが、倫理を講ずるようには行ゆかぬ。
671
咽喉のどが狂って震えがあるので、えへん! と咳しわぶいて、手巾ハンケチで擦こすって、四辺あたりを※みまわしたが、湯も水も有るのでない、そこで、
「小ウ使いい、」と怒鳴った。
「へ――い、」
と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、大おおいにその威厳を恢復かいふくし得て、勢いきおいに乗じて、
「貴娘あなたに聞く事があるのですが、」
「はい。」
「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様とうさんの弟子ですな。」
「ええ、そう…………」
「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。」
「知りません。」
672
と素気そっけなく云った。
「知らない?」
673
と妙な顔をして、額でお妙を見上げて、
「知らないですか。」
「ええ、前ぜんにからですもの。内の人と同一おんなじですから、いつ頃からだか分りませんの。」
「貴娘は幾歳いくつぐらいから、交際をしたですか。」
「…………」
674
と黙って教頭を見て、しかも不思議そうに、
「交際って、私、厭いやねえ。早瀬さんは内の人なんですもの。」と打微笑む。
「内の人。」
「ええ、」と猶予ためらわず頷うなずいた。
「貴娘、そういう事を言っては不可いけますまい。あれを内の人だなんと云うと、御両親をはじめ、貴娘の名誉に関わるでしょうが、ああ、」
675
と口を開いてニヤリとする。
676
お妙はツンとして横を向いた、眦まなじりに優やさしい怒が籠ったのである。
677
閑耕は、その背けた顔を覗込のぞきこむようにして、胸を曲げ、膝を叩きながら、鼻の尖に、へへん、と笑って、
「あんな者と、貴娘交際するなんて、芸者を細君にしていると云うじゃありませんか。汚わしい。怪しからん不行跡です。実に学者の体面を汚すものです。そういう者の許とこへ貴娘出入りをしてはなりません。知らない事はないのでしょう。」
678
妙子は何にも言わなかったが、はじめて眩まぶしそうに瞬きした。
679
小使が来て、低頭して命を聞くと、教頭は頤あごで教えて、
「何を、茶をくれい。」
「へい。」
「そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。」
四十八
680
扉とが閉ると、教頭身構みがまえを崩して、仰向けに笑い懸けて、
「まあ、お掛なさい、そこへ。貴娘あなたのためにならんから、云うのだよ。」
681
わざわざ立って突着けた、椅子の縁へりは、袂たもとに触れて、その片袖を動かしたけれども、お妙は規則正しいお答礼じぎをしただけで、元の横向きに立っている。
「早瀬の事はまだまだ、それどころじゃないですが、」と直ぐにまた眉を顰ひそめて、談じつけるような調子に変って、
「酒井さん、早瀬は、ありゃ罪人だね、我々はその名を口にするさえ憚はばかるべき悪漢ですね。」
682
とのッそり手を伸ばして、卓子テイブルの上に散ばった新聞を撫でながら、
「貴娘、今日のA……新聞を見んのですか。」
683
一言聞くと、颯さっと瞼まぶたを紅くれないにして、お妙は友染の襦袢じゅばんぐるみ袂の端を堅く握った。
「見ませんか、」
684
と問返した時、教頭は傲然ごうぜんとして、卓子に頤杖あごづえを支つく。
「ええ、」とばかりで、お妙は俯向うつむいて、瞬きしつつ、流眄しりめづかいをするのであった。
「別に、一大事に関して早瀬は父様の許とこへ、頃日このごろに参った事はないですかね。或あるいは何か貴娘、聞いた事はありませんか。」
685
小さな声だったが判然はっきりと、
「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、皓歯しらはで噛かんだ。この時、この色は、瞼のその朱あけを奪うて、寂さみしく白く見えたのである。
「行かん筈はずはないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、秘かくすのじゃないかね。」
「存じませんの。」
686
と頭つむりを掉ふったが、いたいけに、拗すねたようで、且つくどいのを煩うるさそう。
「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、攫徒すりの手伝いをする、巾着切きんちゃくきりの片割のような男ですぞ!」
687
簪かんざしの花が凜りんとして色が冴えたか気が籠って、屹きっと、教頭を見向いたが、その目の遣場やりばが無さそうに、向うの壁に充満いっぱいの、偉おおいなる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、清すずしい瞳がうろうろする。
「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。
688
で、見ないんなら御覧なさい。他ほかの二三の新聞にも記かいてあるですが。このA……が一番悉くわしい。」
689
と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、
「ここにありますが、お読みなさい。」
「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花が戦そよいだ。
「は、は、は、貴娘、内の人だなんと云ったから、極きまりが悪いかね。何、知らないんなら宜よろしいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」
690
と太いたく侮あなどった語気を帯びて、
「父様は、自分の門生だから、十に八九は秘かくすですもの。何で真相が解りますか。」
691
コツコツ廊下から剥啄ノックをした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、反身そりみに伸びて、
「カム、イン、」と猶予ためらわずに答えた。
692
この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。
693
すなわち扉ドアを細目に、先ず七分立しちぶだちの写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様の竪たてネクタイ、金剛石ダイアモンドの針留ピンどめの光っただけでも、天窓あたまから爪先つまさきまで、その日の扮装いでたち想うべしで、髪から油が溶とろけそう。
694
早や得えも言われぬ悦喜の面で、
「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。
695
扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波が煽あおる。
四十九
「失敬、失敬。」
696
とちと持上げて、浮かせ気味に物馴なれた風で、河野は教頭と握手に及んで、
「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の背後うしろから、横顔をじろりと見る。
697
河野の調子の発奮はずんだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、
「どこの帰りか。」
「大学と力を入れて、の図書館に検しらべものをして、それから精養軒で午飯ひるめしを食うて来た。これからまたH博士の許とこへ行かねばならん。」
698
と忙せわしそうに肩を掉ふって、
「君とわざと低声こごえで呼んで、この方は……」
「生徒――」と見下げたように云う。
「はあ、」
「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。
「うむ、真砂町の酒井氏の、」
699
と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、見知越みしりごしのような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、
「君、紹介してくれたまえ。」
「学校で、紹介は可訝おかしかろう。」
「だってもう教場じゃないじゃないか。」
「それでは、」と真まことに余儀なさそうに、さて、厳格に、
「酒井さん、過般いつかも参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」
700
同じ文字を露あらわした大形の名刺の芬ぷんと薫るのを、疾とく用意をしていたらしい、ひょいと抓つまんで、蚤はやいこと、お妙の袖摺そですれに出そうとするのを、拙まずい! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。
701
英吉は眼を※みはって、急いでその名刺と共に、両手を衣兜かくしへ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ歩行あるきに、ぐるりと地図を背負しょって、お妙の真正面まっしょうめんへ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へ擦こすりつけて、清めた気で、くの字形なりに腕を出したは、短兵急に握手の積つもりか、と見ると、揺ゆるがぬ黒髪に自然おのずと四辺あたりを払はらわれて、
「やあ、はははは、失敬。」
702
と英吉大照れになって、後ざまに退さがっておお、神よ。と云いそうな態たいになり、
「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、皆みんな貴女を知っているのですよ。はあ……」
703
と独ひとりで頷うなずいて、大廻りに卓子テイブルの端を廻って、どたりと、腹這はらんばいになるまでに、拡げた新聞の上へ乗懸のりかかって、
「何を話していたのだい。」
704
教頭をちょいと見れば、閑耕は額で睨ねめつけ、苦き顔して、その行過やりすごしを躾たしなめながら、
「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」
705
お妙は色をまた染めた。
「そうだとも! ええ、酒井さん……」
706
黙っているから、
「酒井さん!」
「ははい、」と声がふるえて聞える。
「貴娘あなた知らんのならお聞きなさい。頃日このごろの事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒すりに掏やられたです。取られたと思うと、気が着いて、直ただちに其奴そいつを引掴ひッつかまえて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに猛たけり出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」
「撲なぐられたってなあ、大人、気の毒だったよ。」
「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠も挙あがらんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、打ぶたれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。
707
証拠は無かったが、怪あやしむべき風体の奴だから、その筋の係が、其奴を附廻して、同じ夜よの午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は袱紗ふくさに包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた金子かねを持っていたんだ。
708
ねえ、貴娘。拘引こういんして厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」
709
あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が軽※そそっかしく、
「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」
五十
「攫徒すりの名も新聞に出ているがね、何とか小僧万太まんたと云うんだ。其奴そいつの白状した処では、電車の中で掏った時、大不出来おおふでかしに打攫ふんづかまって、往生をしたんだが、対手あいてが面つらを撲なぐったから、癪しゃくに障って堪たまらないので、ちょうど袖の下に俯向うつむいていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで逆捻さかねじに捻じたと云うんだね。
710
ところで、まん[#「まん」に傍点]直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、晩おそくなってから胡乱うろついていると、うっかり出合ったのが、先刻さっき、紙入れを辷すべらかした男だから、金子かねはどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、袂たもとを探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ不可いかんぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった一時ひとときでも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、盗人心ぬすっとごころを持った時なら、浅草橋の欄干てすりを蹈ふんで、富貴竈ふうきかまどの屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。
711
酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」
712
と教頭は椅子をずらして、卓子を軽かろく打って、
「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。
713
その筋じゃ、直じきその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれた筈はずだ。しかしその申立てが、攫徒の言ことばに符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何は措おいても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の仔細しさいも無く済むにゃ済んだ。
714
真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃ憚はばかって新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。
715
で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。
716
同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」
717
河野にも言ことばを分けて、
「直接じかに攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな盗賊どろぼうとひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ密々話ひそひそばなしさ。」
718
誰も否とは云わんのに、独りで嵩かさにかかって、
「紙入を手から手へ譲渡ゆずりわたしをするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」
「だがね、」
719
とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は流眄しりめづかいもしなくなったので、果は遠慮なく視ながめていたのが、なえた様な声を出して、
「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」
「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」
「父上とうさんに……聞いて……頂戴。」
720
とお妙は口惜くやしそうに、あわれや、うるみ声して云った。
721
二人密そっと目を合せて、苦々しげに教頭が、
「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」
「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」
「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢あなたの名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」
722
お妙は気を張はりつめんと勤むるごとく、熟じっと瞶みまもる地図を的に、目を※みはって、先刻さっきからどんなに堪こらえたろう。得え忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。
五十一
723
いや、学士二人驚いた事。
「貴娘あなた、どうしたんだ。」
724
と教頭が椅子から突立つったった時は、お妙は始からしっかり握った袂たもとをそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖の肱ひじを円まろく、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。
「ええ、どうして泣くです。」
725
靴音高く傍そばへ寄ると、河野も慌あわただしく立って来て、
「泣いちゃ不可いけませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」
「私は貴娘を叱ったんじゃない。」
「けれども、君の話振がちと穏おだやかでなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」
726
と密そっと肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに……
727
河野英吉嬉しそうな顔をして、
「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の俯向うつむいた玉の頸うなじへ、横から徐々そろそろと頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身を戦わななかしたが、教頭は見て見ぬ振の、謂おもえらく、今夜の会計は河野持もちだ。
728
途端にお妙が身動をしたので、刎飛はねとばされたように、がたりと退すさる。
「もう帰っても可いいんですか。」
729
と顔を隠したままお妙が云った。これには返す言ことばもあるまい。
「可いですとも!」
730
と教頭が言いも果てぬに、身を捻ひねったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は及腰およびごしに追っかけて、
「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては不可いかんですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、宜いいですかね、ね。」
731
急せいた声で賺すかすがごとく、顔を附着くッつけて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしく頷うなずいたが、許す。の態度で、しかも優しかった。
「ああ。」と、安堵あんどの溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。
732
河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立って扉ドアを開いて控えたのと、擦違いに、お妙は衝ついと抜けて、顔に当てた袖を落した。
733
雨を帯びたる海棠かいどうに、廊下の埃ほこりは鎮まって、正午過ひるすぎの早や蔭になったが、打向いたる式台の、戸外おもては麗うららかな日なのである。
734
ト押重おっかさなって、木この実の生なった状さまに顔を並べて、斉ひとしくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、蛞蝓なめくじの這うにこそ。
735
真砂町の家うちへ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。
736
さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、母様かあさん御飯、と遣って、何ですね、唯今ただいまも言わないで、と躾たしなめられそうな処。
737
そうではなかった。
738
例いつもの通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、寝着ねまきの上に、縞しまの羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、面窶おもやつれがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのが媚なまめかしい。
739
寝床の上に端然きちんと坐って、膝へ掻巻かいまきの襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに蒲団ふとんに敷いている。
740
これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。
741
美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、
「遅かったね。」
「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」
742
優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た跫音あしおとで、襖ふすまの外から、書生の声、
「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」
紫
五十二
743
お茶漬さらさら、大好だいすきな鰺あじの新切で御飯が済むと、硯すずりを一枚、房楊枝ふさようじを持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯しごきに手拭てぬぐいを挟んで、金盥かなだらいをがらん、と提げて、黒塗に萌葱もえぎの綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所穿ばきを、雪の素足に突掛つっかけたが、靴足袋を脱いだままの裾短すそみじかなのをちっとも介意かまわず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた状さまは、踊舞台の潮汲しおくみに似て非なりで、藤間が新案の羊飼。と云う姿。
744
お妙は玄関傍わき、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷すべりのある井戸流ながしへ危気あぶなげも無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾しつけが可いいから、もう十一二の時分から膚はだについたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染なじみで、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶つるべへ唇を押附おッつけるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々花片はなびらが浮ぶのであった。直すぐに桃色の襷たすきを出して、袂を投げて潜くぐらした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮わたの散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯さっとかかる、水が紫に、墨が散った。
745
宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎はねて※むしりはじめたが、何を焦じれたか、ぐいと引断ひっちぎるように邪険である。
746
ト構内かまえうちの長屋の前へ、通勤つとめに出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装いでたち、何だか衣兜かくしを膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘こうもりがささえ携えて、早瀬が前後あとさきを※みまわしながら、悄然しょうぜんとして入って来たが、梅の許もとなるお妙を見る……
「おお、」
747
と慌あわただしい、懐しげな声をかけて、
「お嬢さん。」
748
お妙はそれまで気がつかなかった。呼よばれて、手を留とめて主税を見たが、水を汲んだ名残なごりか、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言ことばなき世のそれらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。
「また、水いたずらをしているんですね。」
749
と顔を視ながめて元気らしく、呵々からからと笑うと、柔やさしい瞳が睨にらむように動き止まって、
「金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。」
「ああ、成程。」
750
と始めて金盥を覗込のぞきこんで俯向うつむいた時、人知れず目をしばたたいたが、さあらぬ体で、
「御清書ですかい。」
「いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。明後日あさって学校へ持って行くのを、これから描かくんだわ。」
「御手本は何です、姉様あねさまの顔ですか。」
「嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、」
751
と莞爾にっこりして、独りで頷うなずいて、
「もっと可いもの、杜若かきつばたに八橋よ。」
「から衣きつつ馴なれにし、と云うんですね。」
752
と云いかけて愁然しゅうぜんたり。
753
お妙は何の気もつかない、派手な面色おももちして、
「まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。」
「可哀相に。」
754
と苦笑いをすると、お妙は真顔で、
「だって、主税さん、先年いつか私の誕生日に、お酒に酔って唄ったじゃありませんか。貴下あなたは、浅くとも清き流れの方よ。ほんとの歌は柄に無いの。」
755
とつけつけ云う。
「いや、恐入りましたよ。トちょっと額に手を当てて、先生は?」と更あらためて聞くと、心ありげに頷いて、
「居てよ、二階に。」おいでなさいな。を色で云って、臈ろうたく生垣から、二階を振仰ぐ。
756
主税はたちまち思いついたように、
「お嬢さん、」と云うや否や、蝙蝠傘こうもりがさを投出すごとく、井の柱へ押倒おったおして、勢いきおい猛に、上衣を片腕から脱ぎかけて、
「久しぶりで、私が洗って差上げましょう。」と、脱いだ上衣を、井戸側へ突込つっこむほど引掛ひっかけたと思うと、お妙がものを云う間ひまも無かった。手を早や金盥に突込んで、
「貴娘、その房楊枝を。――浅くとも清き流れだ。」
五十三
「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶から雫しずくがするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」
757
と躾たしなめるように云って、お妙は上衣を引取ひっとって、露あらわに白い小腕こがいなで、羽二重で結ゆわえたように、胸へ、薄色を抱いたのである。
「貴娘は、先生のように癇性かんしょうで、寒の中うちも、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可いいけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」
「厭ねえ、恩に被きせて。誰も頼みはしないんだわ。」
「恩に被せるんじゃありません。爪紅つまべにと云って、貴娘、紅をさしたような美うつくしい手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。
758
ああ、これは、」
759
と片頬笑かたほえみして、
「余り上等な墨ではありませんな。」
「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可よくってよ。」
「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代みがわりに立っている処じゃありませんか。」
「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分と力を入れて、微笑んで、迷惑してよ。」
「相変らずだ。と独言ひとりごとのように云って、ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」
「どうしてね? 主税さん。」
「だって、明後日あさってお持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」
「翌日あしたは日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」
「ああ日曜ですね。」
760
と雫を払った、硯は顔も映りそう。熟じっと見て振仰いで、
「その、衣兜かくしにあります、その半紙を取って下さい。」
「主税さん。」
「はあ、」
「ほほほほ、」とただ笑う。
「何が、可笑おかしいんです。え、顔に墨が刎はねましたか。」
「いいえ、ほほほほ。」
「何ですてば、」
「あのね、」
「はあ。」
「もしかすると……」
「ええ、ええ。」
「ほほほ、翌日あしたまた日曜ね、貴郎あなたの許とこへ遊びに行ってよ。」
761
水に映った主税の色は、颯さっと薄墨の暗くなった。あわれ、仔細しさいあって、飯田町の家はもう無かったのである。
「いらっしゃいましとも。」
762
と勢込んで、思入った語気で答えた。
「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」
「…………」
「この間行った時、まだ莟つぼみが堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、」
763
と云う口許くちもとこそふくらなりけれ。主税の背せなは、搾木しめぎにかけて細ったのである。
764
ト見て、お妙が言おうとする時、からりと開あいた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことを肯きかぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、大跨おおまたに歩行あるいて来て、
「早瀬さん、先生が、」
765
二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。
「は、唯今、」
766
と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、背後うしろへ廻って、足駄穿はいたが対丈ついたけに、肩を抱くように着せかける。
「やあ、これは、これはどうも。」
767
と骨も砕くる背に被かついで、戦わななくばかり身を揉むと、
「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」
768
と身動みじろきに眉を顰ひそめて――長屋の窓からお饒舌しゃべりの媽々かかあの顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟を圧おさえて、爪立つまだって、
「厭な、どうして、こんなに雲脂ふけが生できて?」
五十四
769
主税が大急ぎで、ト引挟ひっぱさまるようになって、格子戸を潜くぐった時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。
「まあ、粗※そそっかしいこと。」
770
まことに硯を持って入って、そのかわり蝙蝠傘こうもりと、その柄に引掛けた中折帽なかおれを忘れた。
771
後へ立淀んで、こなたを覗ながめた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪形なりに掉ふって、格子を叩きながら、のそりと入った。
772
誰も居なくなると、お妙はその二重瞼ふたかわめをふっくりとするまで、もう、その速力をもってすれば。主税が上ったらしい二階を見上げて、横歩行あるきに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱に背せなをつけて、くるりと向をかえて凭もたれると、学校から帰ったなりの袂たもとを取って、振ふりをはらりと手許へ返して、睫毛まつげの濃くなるまで熟じっと見て、袷あわせと唐縮緬めりんす友染の長襦袢ながじゅばんのかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなと算かぞえるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。
773
ただし遣方が仇気あどけないから、まだ覗いている件くだんの長屋窓の女房かみさんの目では、おやおや細螺きしゃごか、鞠まりか、もしそれ堅豆かたまめだ、と思った、が、そうでない。
774
引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。
775
さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、細こまかに一段ばかり有ることは言うまでもない。
776
お妙は、今朝学校へ出掛けに、女中おんなが味噌汁おみおつけを装もって来る間に、膳の傍そばへ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、独語学者の掏摸。と云う、幾分か挑撥的の標語みだしで、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、引張ひっぱったり、畳んだり、太いたく気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した女中おんなと入違いに、洋燈ランプ棚へついと起たって、剪刀はさみを袖の下へ秘かくして来て、四辺あたりを※みまわして、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり裁縫しごとは上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。
777
母様かあさんは病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、貴郎あなた、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞は他ほかに二三種も来るのだけれども、そんな事は不関焉おかまいなし。
778
で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。
779
と書生はまた、内々はがき便だより見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ先繰せんぐりになったのを、あとで飛附いて見ると、あたかもその裏へ、目的物が出る筈はずの、三の面が一小間切抜いてあるので、落胆がっかりしたが、いや、この悪戯いたずら、嬢的に極きわまったり、と怨恨うらみ骨髄に徹して、いつもより帰宅かえりの遅いのを、玄関の障子から睨ねめ透すかして待構えて、木戸を入ったのを追かけて詰問に及んだので、その時のお妙の返事というのが、ああ、私よ。と済すましたものだった。
780
それをまたひとりでここで見直しつつ、半ば過ぎると、目を外らして、多時しばらく思入った風であったが、ばさばさと引裂ひっさいて、くるりと丸めてハタと向う見ずに投ほうり出すと、もう一ツの柱の許もとに、その蝙蝠傘こうもりに掛けてある、主税の中折帽なかおれへ留まったので、
「憎らしい。」と顔を赤めて、刎はね飛ばして、帽子ハットを取って、袖で、ばたばたと埃ほこりを払った。
781
書生が、すっ飛んで、格子を出て、どこへ急ぐのか、お妙の前を通りかけて、
「えへへへ。」
782
その時お妙は、主税の蝙蝠傘を引抱ひっかかえて、
「どこへ行ゆくの。」
「車屋へ大急ぎでございます。」
「あら、父上とうさんはお出掛け。」
「いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。」
はなむけ
五十五
783
媒妁人なこうどは宵の口、燈火ともしびを中に、酒井とさしむかいの坂田礼之進。
「唯今は御使で、特ことにお車をお遣わしで恐縮にごわります。実はな、ちょと私用で外出をいたしおりましたが、俗にかの、虫が知らせるとか申すような儀で、何か、心急ぎ、帰宅いたしますると、門口に車がごわりまして、来客らいかくかと存じましたれば、いや、」と、額を撫でて笑うのに前歯が露出あらわ。
「はははは、すなわち御持おもたせのお車、早速間に合いました。実は好都合と云って宜しいので、これと申すも、偏ひとえに御縁のごわりまする兆しるしでごわりまするな、はあ、」
784
酒井も珍らしく威儀を正して、
「お呼立て申して失礼ですが、家内が病気で居ますんで、」と、手を伸して、巻莨まきたばこをぐっ、と抜く。
「時に、いかがでごわりまするな、御令室御病気は。御勝おすぐれ遊ばさん事は、先達ての折も伺いましてごわりましてな。河野でも承り及んで、英吉君の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、私わたくしもその、甚だ心配を仕つかまつりまするので、はあ、」
「別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。」
785
と先生警抜なことを云って、俯向うつむきざまに、灰を払ったが、左手ゆんでを袖口へ掻込かいこんで胸を張って煙を吸った。礼之進は、畏かしこまったズボンの膝を、張肱はりひじの両手で二つ叩いて、スーと云ったばかりで、斜めに酒井の顔を見込むと、
「たかだか風邪のこじれです。」
「その風邪が万病の原もとじゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、事実まったくでな。何分御注意なさらんとなりません。」
786
と妙に白けた顔が、燈火に赤く見えて、
「では、さように御病中でごわりましては、御縁女の事に就きまして、御令室とまだ御相談下さります間もごわりませんので?」
787
と重々しく素引そびきかけると、酒井は事も無げな口吻くちぶり。
「いや、相談はしましたよ。」
「ははあ、御相談下さりましたか。それは、」と頤あごを揉んで、スーと云って、
「御令室の思召おぼしめしはいかがでごわりましょうか。実はな、かような事は、打明けて申せば、貴下あなたより御令室の御意向が主でごわりまするで、その御言葉一ツが、いかがの極まりまする処で、推着おしつけがましゅうごわりますが、英吉君の母も、この御返事……と申しまするより、むしろ黄道吉日をば待ちまして、唯今もって、東京こちらに逗留とうりゅういたしておりまする次第で。はあ。御令室の御言葉一ツで、」
788
と、意気込んで、スーと忙せわしく啜すすって、
「何か、私わたくしまでも、それを承りまするに就いて、このな、胸が轟とどろくでごわりまするが、」
789
と熟じっと見据えると、酒井は半ば目を閉じながら、
「他ほかならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のある筈はずはありませんが、ただ不束ふつつかな娘ですから、」
「いや、いや、」
790
と頭を掉ふって、大おおきに発奮はずみ、
「とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」
「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」
791
時に襖ふすまに密そと当った、柔やわらかな衣きぬの気勢けはいがあった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳二室ふたまで、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から上口あがりぐちの六畳の方。
792
礼之進はまた額に手を当て、
「いや、何とも。私わたくし大願成就仕りましたような心持で。お庇かげを持ちまして、痘痕あばたが栄えるでごわりまする。は、はは、」
793
道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。
五十六
794
望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもう纏まとまったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨稜々りょうりょうたる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方の擽くすぐったさに、礼之進は、日一日歩行あるき廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。
795
坐った膝をもじもじさして、
「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、貴下あなたの思召おぼしめしは。」
796
ちっとも猶予ためらわずに、
「私に言句もんくのあろう筈はありません。」
「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが……
「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」
「娘は小児こどもです。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と哺くくめてやるような縁談ですから、否いやも応もあったもんじゃありません。」
797
と小刻こきざみに灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。
798
道学先生、堪たまりかねて、手を握り、膝を揺ゆすって、
「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。
「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。
「成程、就きまして、何か、別儀が。」
「大有り。と調子が砕けて、私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他ほかにもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
「住居すまいは飯田町ですが、」
799
と云う時、先生の肩がやや聳そびえた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、吃驚びっくりする。
「掏摸すり一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
800
礼之進、苦り切った顔色がんしょくで、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
801
道学者はアッと痘痕、目を円つぶらかにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は入いらん。先生が立処たちどころに手を曳ひいて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可いけない、と云えば、断然お断りをするまでです。」
802
黙ってはいられない。
「しますると、その、」
803
と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて憚はばかったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。同一ひとつ家に我儘わがままを言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹きょうだいのようか、従兄妹いとこのようか、それとも師弟のようか、主従しゅうじゅうのようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人おなこうど、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それともまた酒飲みの料簡りょうけんでしょうか。」
804
と串戯じょうだんのように云って、ちょっと口切くぎったが、道学者の呆れて口が利けないのに、押被おっかぶせて、
「さっぱりとそうして下さい。」
五十七
「貴下あなた、ええ、お言葉ではごわりまするが、スー」と頬の窪むばかりに吸って、礼之進、ねつねつ、……
「さよういたしますると、御門生早瀬子が令嬢を愛すると申して、万一結婚をいたしたいと云うような場合におきましては……でごわりまする……その辺はいかがお計らいなされまする思召おぼしめしでごわりまするな。」
「勝手にさせます。」と先生言下に答えた。
805
これにまた少なからず怯おびやかされて、
「しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。」
「いや、」
「はあ、いかような御趣意に相成りまするか。」
「私は許嫁いいなずけの方ですよ。」と酒井は笑う。
「許嫁? では、早瀬子と、令嬢とは、許嫁でお在いでなされますので。」
「決してそんな事はありません。許嫁は、私と私の家内とです。で、二人ともそれに賛成……ですか。同意だったから、夫婦になりましたよ。妙の方はどんな料簡だか、更さらに私には分りません。早瀬とくッついて、それが自由結婚なら、自由結婚、誰かと駈落をすれば、それは駈落結婚、」と澄ましたものである。
「へへへ、御串戯ごじょうだんで。御議論がちと矯激きょうげきでごわりましょう!」
「先生、人の娘を、嫁に呉れい、と云う方がかえって矯激ですな、考えて見ると。けれども、習慣だからちっとも誰も怪あやしまんのです。
806
貴下から縁談の申込みがある。娘には、惚れてる奴が居ますから、その料簡次第で御話を取極とりきめる、と云うに、不思議はありますまい。唐突だしぬけに嫁入よめらせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、懊悩おうのうだわ、煩悶はんもんだわ、辷すべった、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって不可いかんのです。」
「で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。」
「大丈夫、」
807
と話は済んだように莞爾にっこりして、
「昔から媒酌人なこうど附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云った例ためしはありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴に極きまったものです。」
「はあ、」
808
と云って、道学者は口を開あいて、茫然として酒井の顔を見ていたが、
「しかし、貴下、聞く処に拠よりますると、早瀬子は、何か、芸妓げいしゃ風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。」
「さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも彼奴あいつの返事をお聞き下さい。或あるいは、自分、妙を欲しいではないが、他ほかなら知らず河野へは嫁やっちゃ不可いかん、と云えば、私もお断ことわりだ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、神仏かみほとけの御託宣おつげと同一おんなじです。」
809
形勢かくのごとくんば、掏摸の事など言い出したら、なおこの上の事の破れ、と礼之進行詰って真赤まっかになり、
「是非がごわりませぬ。ともかく、早瀬子を説きまして、更あらためて御承諾を願おうでごわりまする。が、困りましたな。ええ、先刻も飯田町の、あの早瀬子の居おらるる路地を、私わたくし通りがかりに覗のぞきますると、何か、魚屋体のものが、指図をいたして、荷物を片着けおりまする最中。どこへ引越ひっこされる、と聞きましたら、引越すんじゃない、夜遁よにげだい。と怒鳴ります仕誼しぎで、一向その行先も分りませんが。」
810
先生哄然こうぜんとして、
「はははは、事実ですよ。掏摸の手伝いをしたとかで、馬鹿野郎、東京には居られなくなって、遁げたんです。もうこちらへも暇乞いとまごいに来ましたが、故郷の静岡へ引込む、と云っていましたから、河野さんの本宅と同郷でしょう。御相談なさるには便宜かも知れません。……御随意に、――お引取を。」
811
ああ、媒酌人なこうどには何がなる。黄色い手巾ハンケチを忘れて、礼之進の帰るのを、自分で玄関へ送出して、引返して、二階へ上った、酒井が次のその八畳の書斎を開けると、そこには、主税が、膳の前に手を支ついて、畏かしこまって落涙しつつ居たのである。夫人も傍そばに。
812
先生はつかつかと上座に直って、
「謹、酌をしてやれ。早瀬、今のはお前へ餞別だ。」
五十八
813
主税は心も闇やみだったろう、覚束おぼつかなげな足取で、階子壇はしごだんをみしみしと下りて来て、もっとも、先生と夫人が居らるる、八畳の書斎から、一室ひとま越し袋の口を開いたような明あかりは射さすが、下は長六畳で、直ぐそこが玄関の、書生の机も暗かった。
814
さすがは酒井が注意して――早瀬へ贐はなむけ、にする為だった――道学者との談話を漏聞かせまいため、先んじて、今夜はそれとなく余所よそへ出して置いたので。羽織の紐は、結んだかどうか、まだ帰らぬ。
815
酔ってはいないが、蹌踉よろよろと、壁へ手をつくばかりにして、壇を下り切ると、主税は真暗まっくらな穴へ落ちた思おもいがして、がっくりとなって、諸膝もろひざを支つこうとしたが、先生はともかく、そこまで送り出そうとした夫人を、平に、と推着けるように辞退して来たものを、ここで躊躇ちゅうちょしている内に、座を立たれては恐多い、と心を引立ひったてた腰を、自分で突飛ばすごとく、大跨おおまたに出合頭。
816
颯さっと開いた襖ふすまとともに、唐縮緬めりんす友染の不断帯、格子の銘仙めいせんの羽織を着て、いつか、縁日で見たような、三ツ四ツ年紀としの長たけた姿。円い透硝子すきがらすの笠のかかった、背の高い竹台の洋燈ランプを、杖に支つく形に持って、母様かあさんの居室いまから、衝つと立ちざまの容子ようすであった。
817
お妙の顔を一目見ると、主税は物をも言わないで、そのままそこへ、膝を折って、畳に突伏つっぷすがごとく会釈をすると、お妙も、黙って差置いた洋燈の台擦だいずれに、肩を細うして指の尖さきを揃えて坐る、袂たもとが畳にさらりと敷く音。
818
こんな慇懃いんぎんな挨拶をしたのは、二人とも二人には最初はじめてで。玄関の障子にほとんど裾の附着くッつく処で、向い合って、こうして、さて別れるのである。
819
と主税が、胸を斜めにして、片手を膝へ上げた時、お妙のリボンは、何の色か、真白な蝶のよう、燈火ともしびのうつろう影に、黒髪を離れてゆらゆらと揺ゆらめいた。
「もう帰るの?」
820
と先へ声を懸けられて、わずかに顔を上げてお妙を見たが、この時の俤おもかげは、主税が世を終るまで、忘れまじきものであった。
821
机に向った横坐りに、やや乱れたか衣紋えもんを気にして、手でちょいちょいと掻合わせるのが、何やら薄寒うすらさむそうで風采とりなりも沈んだのに、唇が真黒まっくろだったは、杜若かきつばたを描かく墨の、紫の雫しずくを含んだのであろう、艶えんに媚なまめかしく、且つ寂しく、翌日あすの朝は結う筈の後れ毛さえ、眉を掠かすめてはらはらと、白き牡丹の花片に心の影のたたずまえる。
「お嬢さん。」
「…………」
「御機嫌宜よう。」
「貴下も。」とただ一言、無量の情なさけが籠ったのである。
822
靴を穿はいて格子を出るのを、お妙は洋燈を背せなにして、框かまちの障子に掴つかまって、熟じっと覗くように見送りながら、
「さようなら。」
823
と勢いきおいよく云ったが、快く別れを告げたのではなく、学校の帰りに、どこかで朋達ともだちと別れる時のように、かかる折にはこう云うものと、規則で口へ出たのらしい。
824
格子の外にちらちらした、主税の姿が、まるで見えなくなったと思うと、お妙は拗すねた状さまに顔だけを障子で隠して、そのつかまった縁を、するする二三度、烈しく掌たなそこで擦こすったが、背せなを捻よって、切なそうに身を曲げて、遠い所のように、つい襖の彼方あなたの茶の間を覗くと、長火鉢の傍わきの釣洋燈の下に、ものの本にも実際にも、約束通りの女中おさんの有様。
825
ちょいと、風邪を引くよ、と先刻さっきから、隣座敷の机に恁よっかかって絵を描かきながら、低声こごえで気をつけたその大揺れの船が、この時、最早や見事な難船。
826
お妙はその状を見定めると、何を穿いたか自分も知らずに、スッと格子を開けるが疾はやいか、身動みじろぎに端が解けた、しどけない扱帯しごきの紅くれない。
五十九
「厭いやよ、主税さん、地方いなかへ行っては。」
827
とお妙の手は、井戸端の梅に縋すがったが、声は早瀬をせき留める。
「…………」
「厭だわ、私、地方いなかへなんぞ行ってしまっては。」
828
主税は四辺あたりを見たのであろう、闇やみの青葉に帽子ぼうが動いた。
「直じき帰って来るんですからね、心配しないで下さいよ。」
「だって、直じきだって、一月や二月で帰って来やしないんでしょう。」
「そりゃ、家を畳んで参るんですもの。二三年は引込ひっこみます積りです。」
「厭ねえ、二三年。……月に一度ぐらいは遊びに行った日曜さえ、私、待遠しかったんだもの。そんな、二年だの、三年だの、厭だわ、私。」
829
お妙は格子戸を出るまでは、仔細しさいらしく人目を忍んだようだけれども、こうなるとあえて人聞きを憚はばかるごとき、低い声ではなかったのが、ここで急に密ひっそりして、
「あの、貴下あなた、父様とうさんに叱られて、内証の……奥さん、」
「ええ!」
「その方と別れたから、それで悲かなしくなって地方いなかへ行ってしまうのじゃないの、ええ、じゃなくって?」
「…………」
「それならねえ、辛抱なさいよ。母様かあさんが、その方もお可哀相だから、可いい折に、父様にそう云って、一所にして上げるって云ってるんですよ。私がね、お酌さん。をして、沢山お酒を飲まして、そうして、その時に頼めば可いのよ、父様が肯きいてくれますよ。」
「……罰、罰の当った事をおっしゃる! 私は涙が溢こぼれます、勿体ない。そりゃもう、先生の御意見で夢が覚さめましたから、生れ代りましたように、魂を入替えて、これから修行と思いましたに、人は怨みません。自分の越度おちどだけれど、掏摸すりと、どうしたの、こうしたの、という汚名を被きては、人中へは出られません。
830
先生は、かれこれ面倒だったら、また玄関へ来ておれ、置いてやろう、とおっしゃって下さいますけれども、先生のお手許に居ては、なお掏摸の名が世間に騒さわがしくなるばかりです。
831
卑怯なようですけれど、それよりは当分地方いなかへ引込んで、人の噂も七十五日と云うのを、果敢はかないながら、頼みにします方が、万全の策だ、と思いますから、私は、一日旅行してさえ、新橋、上野の停車場ステイションに着くと拝みたいほど嬉しくなります、そんな懐なつかしい東京ですが、しばらく分れねばなりません。」
「厭だわ、私、厭、行っちゃ。」
832
言ことばが途絶えると、音がした、釣瓶つるべの雫しずくが落ちたのである。
833
差俯向さしうつむくと、仄ほのかにお妙の足が白い。
「静岡へ参って落着いて、都合が出来ますと、どんな茅屋あばらやの軒へでも、それこそ花だけは綺麗に飾って、歓迎ウェルカムをしますから、貴娘あなた、暑中休暇には、海水浴にいらしって下さい。
834
江尻も興津も直じきそこだし、まだ知りませんが、久能山だの、竜華寺だの、名所があって、清見寺も、三保の松原も近いんですから、」
835
富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫を賺すかして云った。
「厭だわ、そんな事よりか、私、来年卒業すると、もうあんな学校や教頭なんか用は無いんだから、そうすると、主税さんの許とこへ、毎日朝から行って、教頭なんかに見せつけてやるのにねえ。口惜くやしいわ、攫徒すりの仲間だの、巾着切の同類だのって、貴郎あなたの事をそう云うのよ。そして、口を利いちゃ不可いけないって、学校の名誉に障るって云うのよ。可ようござんす、帰途かえりに直ぐに、早瀬さんへ行っていッつけてやるって、言おうかと思ったけれど、行状点を減ひかれるから。そうすると、お友達に負まけるから、見っともないから、黙っていたけれど、私、泣いたの。主税さん。卒業したら、その日から、私も掏摸かい、見て頂戴。と、貴下の二階に居て讐かたきを取ってやりたかったに、残念だわねえ。」
836
と擦寄って、
「地方いなかへ行かない工夫はないの?」と忘れたように、肩に凭もたれて、胸へ縋すがったお妙の手を、上へ頂くがごとくに取って、主税は思わず、唇を指環ゆびわに接つけた。
「忘れません。私は死んでも鬼になって。」
837
君の影身に附添わん、と青葉をさらさらと鳴らしたのである。
巣立の鷹
六十
「おっと、ここ、ここ、飯田町の先生、こっちだ、こっちだ、はははは。」
838
十二時近い新橋停車場ステイションの、まばらな、陰気な構内も、冴返る高調子で、主税を呼懸けたのは、め[#「め」に傍点]組の惣助。
839
手荷物はすっかり、このいさみが預って、先へ来て待合わせたものと見える。大おおきな支那革鞄しなかばんを横倒しにして、えいこらさと腰を懸けた。重荷に小附の折革鞄ポオトフォリオ、慾張って挟んだ書物の、背のクロオスの文字が、伯林ベルリンの、星の光はかくぞとて、きらきら異彩を放つのを、瓢箪ひょうたん式に膝に引着け、あの右角の、三等待合の入口を、叱られぬだけに塞いで、樹下石上の身の構え、電燈の花見る面色つらつき、九分九厘に飲酒おみつたり矣い。
840
あれでは、我慢が仕切れまい、真砂町の井筒の許もとで、青葉落ち、枝裂けて、お嬢と分れて来る途中、どこで飲んだか、主税も陶然たるもので、かっと二等待合室を、入口から帽子を突込んで覗のぞく処を、め[#「め」に傍点]組は渠かれのいわゆるこっち。から呼んだので。これが一言ひとことでブーンと響くほど聞えたのであるから、その大音や思うべし。
「やあ、待たせたなあ。」
841
主税も、こうなると元気なものなり。
842
ドッコイショ、と荷物は置棄てに立って来て、
「待たせたぜ、先生、私わっしあ九時から来ていた。」
「退屈したろう、気の毒だったい。」
「うんや、何。」
843
とニヤリとして、半纏はんてんの腹を開けると、腹掛へ斜はすっかいに、正宗の四合罎しごうびん、ト内証で見せて、
「これだ、訳やねえ、退屈をするもんか。時々喇叭らっぱを極きめちゃあね、」
844
と向顱巻むこうはちまきの首を掉ふって、
「切符の売下口うりさげぐちを見物でさ。ははは、別嬪べっぴんさんの、お前めえさん、手ばかりが、あすこで、真白まっしろにこうちらつく工合は、何の事あねえ、さしがねで蝶々を使うか、活動写真の花火と云うもんだ、見物みものだね。難有ありがてえ。はははは。」
「馬鹿だな、何だと思う、お役人だよ、怪しからん。」
845
と苦笑いをして躾たしなめながら、
「家うちはすっかり片附いたかい、大変だったろう。」
「戦いくさだ、まるで戦だね。だが、何だ、帳場の親方も来りゃ、挽子ひきこも手伝って、燈あかりの点つく前めえにゃ縁の下の洋燈ランプの破こわれまで掃出した。何をどうして可いんだか、お前めえさん、みんな根こそぎ敲たたき売れ、と云うけれど、そうは行かねえやね。蔦ちゃんが、手を突込んだ糠味噌なんざ、打棄うっちゃるのは惜おしいから、車屋の媽々かかあに遣りさ。お仏壇は、蔦ちゃんが人手にゃ渡さねえ、と云うから、私わっしは引背負ひっしょって、一度内へ帰けえったがね、何だって、お前さん、女人禁制で、蔦ちゃんに、采さいを掉ふらせねえで、城を明渡すんだから、煩むずかしいや。長火鉢の引出しから、紙にくるんだ、お前さん、仕つけ糸の、抜屑を丹念に引丸ひんまるめたのが出たのにゃ、お源坊が泣出した。こんなに御新造ごしんさんが気をつけてなすったお世帯だのにッて、へん、遣ってやあがら。
846
ええ、飲みましたとも。鉄砲巻は山に積むし、近所の肴屋さかなやから、鰹かつおはござってら、鮪まぐろの活いきの可いやつを目利して、一土手提げて来て、私が切味きれあじをお目にかけたね。素敵な切味、一分だめしだ。転がすと、一ぴんが出ようというやつを親指でなめずりながら、酒は鉢前はちめえで、焚火で、煮燗にがんだ。
847
さあ、飲めってえ、と、三人で遣りかけましたが、景気づいたから手明きの挽子どもを在りったけ呼よんで来た。薄暗い台所だいどこを覗く奴あ、音羽から来る八百屋だって。こっちへ上れ。豆腐イもお馴染だろう。彼奴あいつ背負引しょびけ。やあ、酒屋の小僧か、き様喇叭節を唄え。面白え、となった処へ、近所の挨拶を済すまして、帰けえって来た、お源坊がお前さん、一枚いちめえ着換えて、お化粧つくりをしていたろうじゃありませんか。蚤取眼のみとりまなこで小切こぎれを探して、さっさと出てでも行く事か。御奉公のおなごりに、皆さんお酌、と来たから、難有ありがてえ、大日如来、己おらが車に乗せてやる、いや、私わっちが、と戦だね。
848
戦と云やあ、音羽の八百屋は講釈の真似を遣った、親方が浪花節だ。
849
ああ、これがお世帯をお持ちなさいますお祝いだったら、とお源坊が涙ぐんだしおらしさに。お前めさん、有象無象うぞうむぞうが声を納めて、しんみりとしたろうじゃねえか。戦だね。泣くやら、はははははは、笑うやら、はははは。」
六十一
「そこでお前めさん、何だって、世帯をお仕舞しめえなさるんだか、金銭ずくなら、こちとらが無尽をしたって、此家ここの御夫婦に夜遁よにげなんぞさせるんじゃねえ、と一番いっちしみったれた服装なりをして、銭の無さそうな豆腐屋が言わあ。よくしたもんだね。
850
銭金ずくなら、め[#「め」に傍点]組がついてる、と鉄砲巻の皿を真中まんなかへ突出した、と思いねえ。義理にゃ叶わねえ、御新造ごしんぞの方は、先生が子飼から世話になった、真砂町さんと云う、大先生が不承知だ。聞きねえ。師匠と親は無理なものと思え、とお祖師様が云ったとよ。無理でも通さにゃならねえ処を、一々御尤ごもっともなんだから、一言もなしに、御新造も身を退ひいたんだ。あんなにお睦じかった、へへへ、」
「おい、可い加減にしないかい。」
「可いやね、お前めえさん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。」
「なお、悪いぜ。」
「まあ、忍まけときねえな。それを、お前、大先生に叱られたって、柔順すなおに別れ話にした早瀬さんも感心だろう。
851
だが、何だ、それで家を畳むんじゃねえ。若い掏摸すりが遣損やッそくなって、人中で面つらを打ぶたれながら、お助け、と瞬まばたきするから、そこア男だ。諾来よしきた、と頼まれて、紙入を隠してやったのが暴露ばれたんで、掏摸の同類だ、とか何とか云って、旦那方の交際つきええが面倒臭くなったから、引払ひッぱらって駈落だとね。話は間違ったかも知れねえけれど、何だってお前さん頼まれて退ひかねえ、と云やあ威勢が可いから、そう云って、さあ、おい、皆みんな、一番しゃん、と占める処だが、旦那が学者なんだから、万歳、と遣れ。いよう旦那万歳、と云うと御新造万歳、大先生万歳で、ついでにお源ちゃん万歳――までは可かったがね、へへへ、かかり合だ、その掏摸も祝ってやれ。可かろう、」
852
と乗気になって、め[#「め」に傍点]組の惣助、停車場ステイションで手真似が交って、
「掏摸万歳――と遣ったが、すりばんだい。と聞えましょう。近火きんかのようだね。火事はどこだ、と木遣で騒いで、巾着切万歳! と祝い直す処へ、八百屋と豆腐屋の荷の番をしながら、人だかりの中へ立って見てござった差配様おおやさんが、お前めさん、苦笑いの顔をひょっこり。これこれ、火の用心だけは頼むよ、と云うと、手廻しの可い事は、車屋のかみさんが、あとへもう一度払はたきを掛けて、縁側を拭ふき直そう、と云う腹で、番手桶に水を汲んで控えていて、どうぞ御安心下さいましッさ。
853
私わっしは、お仏壇と、それから、蔦ちゃんが庭の百合の花を惜おしがったから、莟つぼみを交ぜて五六本ぶらさげて、お源坊と、車屋の女房かみさんとで、縁の雨戸を操るのを見ながら、梅坊主の由良之助、と云う思入おもいれで、城を明渡して来ましたがね。
854
世の中にゃ、とんだ唐変木も在ったもんで、まだがらくたを片附けてる最中でさ、だん袋を穿きあがった、」
855
と云いかけて、主税の扮装いでたちを、じろり。
「へへへ、今夜はお前めさんも着やってるけれど。まあ、可いや。で何だ、痘痕あばたの、お前さん、しかも大面おおづらの奴が、ぬうと、あの路地を入って来やあがって、空いたか、空いったか、と云やあがる。それが先生、あいたかった、と目に涙でも何でもねえ。家は空いたか、と云うんでさ。近頃流行はやるけれど、ありゃ不躾ぶしつけだね。お前さん、人の引越しの中へ飛込んで、値なんか聞くのは。たとい、何だ、二ツがけ大きな内へ越すんだって、お飯粒まんまつぶを撒まいてやった、雀ッ子にだって残懐なごりは惜おしいや、蔦ちゃんなんか、馴染なじみになって、酸漿ほおずきを鳴らすと鳴く、流元ながしもとの蛙けえろはどうしたろうッて鬱ふさぐじゃねえか。」
「止せよ、そんな事。」
856
と主税は帽子の前を下げる。
「まあさ、そんな中へ来やあがって、お剰まけに、空くのを待っていた、と云う口吻くちぶりで、その上横柄だ。
857
誰の癪しゃくに障るのも同一おんなじだ、と見えて、可笑おかしゅうがしたぜ。車屋の挽子がね、お前めさん、え、え、ええッて、人の悪いッたら、聾つんぼの真似をして、痘痕の極印を打った、其奴そいつの鼻頭はなづらへ横のめりに耳を突つっかけたと思いねえ。奴もむか腹が立った、と見えて、空いた家うちか、と喚わめいたから、私わっしア階子段はしごだんの下に、蔦ちゃんが香においを隠して置いたらしい白粉入おしろいいれを引出しながら、空家だい! と怒鳴った。吃驚びっくりしやがって、早瀬は、と聞くから、夜遁げをしたよ、と威おどかすと、へへへ旦那、」
858
め[#「め」に傍点]組は極めて小さい声で、
「私ア高利貸だ、と思ったから……」
859
話も事にこそよれ、勿体ない、道学の先生を……高利貸。
六十二
860
ちと黙ったか、と思うと、め[#「め」に傍点]組はきょろきょろ四辺あたりを見ながら、帰天斎が扱うように、敏捷すばやく四合罎から倒さかさまにがぶりと飲やって、呼吸いきも吐つかず、
「それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その痘痕あばためい、差配おおやはどこだと聞きゃあがる。差配様おおやさんか、差配様は此家ここの主人あるじが駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った顔色がんしょくをしやがって、家賃は幾干いくらか知らんが、前ぜんにから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。お前めさん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、情人いろと世帯を持った家うちだ、汝達てめえたちの手に渡すもんか。め[#「め」に傍点]組の惣助と云う魚河岸の大問屋おおどいやが、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。帰けえれ、と喚わめくと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。」
「悪戯いたずらをするじゃないか。」
「だって、お前めさん、言種いいぐさが言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳の時ころで御覧ごろうじろ、えて吉、存命は覚束おぼつかねえ。」
861
と図に乗って饒舌しゃべるのを、おかしそうに聞惚ききとれて、夜の潮しおの、充ち満ちた構内に澪標みおつくしのごとく千鳥脚を押据えて憚はばからぬ高話、人もなげな振舞い、小面憎かったものであろう、夢中になった渠等かれらの傍そばで、駅員が一名、密そっと寄って、中にもめ[#「め」に傍点]組の横腹の辺あたりで唐突だしぬけに、がんからん、がんからん、がんからん。
862
「ひゃあ、」と据眼すえまなこに呼吸いきを引いて、たじたじと退すさると、駅員は冷々然として衝つと去って、入口へ向いて、がらんがらん。
863
主税も驚いて、
「切符だ、切符だ。」
864
と思わず口へ出して、慌てて行くのを、
「おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。」
「もう買っといたか、それは豪えらい。」
865
惣助これには答えないで、
「ええ、驚いたい、串戯じょうだんじゃねえ、二合半こなからが処フイにした。さあ、まあ、お乗んなせえ。」
866
荷物を引立ひったてて来て、二人で改札口を出た。その半纏着はんてんぎと、薄色背広の押並んだ対照は妙であったが、乗客のりてはただこの二人の影のちらちらと分れて映るばかり、十四五人には過ぎないのであった。
867
め[#「め」に傍点]組が、中ほどから、急にあたふたと駈出して、二等室を一ツ覗のぞき越しにも一つ出て、ひょいと、飛込むと、早や主税が近寄る時は、荷物を入れて外へ出た。
「ここが可いや、先生。」
「何だ、青切符か。」
「知れた事だね、」
「大束おおたばを言うな、駈落の身分じゃないか。幾干いくらだっけ。」
868
と横へ反身そりみに衣兜かくしを探ると、め[#「め」に傍点]組はどんぶりを、ざッくと叩き、
「心得てら。」
「お前に達引かして堪るものか。」
「ううむ、」と真面目で、頭かぶりを掉ふって、
「不残のこらず叩き売った道具のお銭あしが、ずッしりあるんだ。お前めさんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、」
「それじゃ遠慮しますまいよ。」
869
と乗込んだ時、他に二人。よくも見ないで、窓へ立って、主税は乗出すようにして妙なことを云った。それは――め[#「め」に傍点]組の口から漏らした、河野の母親が以前、通じたと云う――馬丁べっとう貞造の事に就いてであった。
「何分頼むよ。」
「むむ、可いって事に。」
870
主税は笑って、
「その事じゃない、馬丁の居処さ。己おれも捜すが、お前の方も。」
「……分った。」
871
と後退あとじさって、向うざまに顱巻はちまきを占め直した。手をそのまま、花火のごとく上へ開いて、
「いよ、万歳!」
872
傍かたわらへ来た駅員に、突つんのめるように、お辞儀をして、
「真平御免ねえ、はははは。」
873
主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜あだな櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸がらすどをおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。
874
はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと背うしろを向いた。
875
汽車出でぬ。
876
明治四十一九〇七年一〜四月 [#地付き]
泉鏡花
貴婦人
一
877
その翌日、神戸行きの急行列車が、函根はこねの隧道トンネルを出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、卓子テイブルは別であるが、一人にん外国の客と、流暢りゅうちょうに独逸ドイツ語を交えて、自在に談話しつつある青年の旅客りょかくがあった。
878
こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母たのもしそうに、熟じっと見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしく乗のっかかった、かすりで揃の、袷あわせと筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男の児こに、極めて上手な、肉叉フォークと小刀ナイフの扱い振ぶりで、肉チキンを切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。
879
見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は白鷺しらさぎの飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹を後しりえに走る。
880
函嶺はこねを絞る点滴したたりに、自然おのずから浴ゆあみした貴婦人の膚はだは、滑かに玉を刻んだように見えた。
881
真白なリボンに、黒髪の艶つやは、金蒔絵きんまきえの櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに牡丹ぼたんの花、蕊しべに金入の半襟、栗梅の紋お召の袷あわせ、薄色の褄つまを襲かさねて、幽かすかに紅の入った黒地友染の下襲したがさね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子くろじゅすの丸帯に金泥でするすると引いた琴の絃いと、添えた模様の琴柱ことじの一枚ひとつが、ふっくりと乳房を包んだ胸を圧おさえて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の縮緬ちりめんに……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、指環ゆびわの玉の、幾つか連ってキラキラ人の眼まなこを射るのは、水晶の珠数を爪繰つまぐるに似て、非ず、浮世は今を盛さかりの色。艶麗あでやかな女俳優おんなやくしゃが、子役を連れているような。年齢としは、されば、その児この母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十はたちでも差支えはない。
882
婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、少々わかわかしい口許くちもとと、心の透通るような眼光まなざしを見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、小児こどもは手が空いたが、もう腹は出来たり、退屈らしく皿の中へ、指でくるくると環わを描かいた。それも、詰らなそうに、円い目で、貴婦人の顔を視ながめて、同一おなじようにそなたを向いたが、一向珍らしくない日本の兄あにいより、これは外国の小父さんの方が面白いから、あどけなく見入って傾く。
883
その、不思議そうに瞳をくるくると遣やった様子は、よっぽど可愛くって、隅の窓を三角に取って彳たたずんだボオイさえ、莞爾にっこりした程であるから、当の外国人は髯ひげをもじゃもじゃと破顔して、ちょうど食後の林檎りんごを剥むきかけていた処、小刀を目八分に取って、皮をひょいと雷干かみなりぼしに、菓物くだものを差上げて何か口早に云うと、青年が振返って、身を捻ねじざまに、直ぐ近かった、小児の乗っかった椅子へ手をかけて、
「坊ちゃん、いらっしゃい。好いいものを上げますとさ。」とその言ことばを通じたが、無理な乗出しようをして逆に向いたから、つかまった腕に力が入ったので、椅子が斜めに、貴婦人の方へ横になると、それを嬉しそうに、臆面おくめんなく、
「アハアハ、」と小児が笑う。
884
青年は、好事ものずきにも、わざと自分の腰をずらして、今度は危気あぶなげなしに両手をかけて、揺籠ゆりかごのようにぐらぐらと遣ると、
「アハハ、」といよいよ嬉しがる。
885
御機嫌を見計らって、
「さあ、お来いでなさい、お来なさい。」
886
貴婦人の底意なく頷うなずいたのを見て、小さな靴を思う様上下うえしたに刎はねて、外国人の前へ行ゆくと、小刀と林檎と一緒に放して差置くや否や、にょいと手を伸ばして、小児を抱えて、スポンと床から捩取もぎとったように、目よりも高く差上げて、覚束おぼつかない口で、
「万歳――」
887
ボオイが愛想に、ハタハタと手を叩いた。客は時に食堂に、この一組ばかりであった。
二
「今のは独逸ドイツ人でございますか。」
888
外客がいかくの、食堂を出たあとで、貴婦人は青年に尋ねたのである。会話の英語イングリッシュでないのを、すでに承知していたので、その方の素養のあることが知れる。
889
青年は椅子をぐるりと廻して、
「僕もそうかと思いましたが、違います、伊太利イタリイ人だそうです。」
「はあ、伊太利の、商人ですか。」
「いえ、どうも学者のようです。しかしこっちが学者でありませんから、科学上の談話はなしは出来ませんでしたが、様子が、何だか理学者らしゅうございます。」
「理学者、そうでございますか。」
890
小児こどもの肩に手を懸けて、
「これの父親ちちも、ちとばかりその端くれを、致しますのでございますよ。」
891
さては理学士か何ぞである。
892
貴婦人はこう云った時、やや得意気に見えた。
「さぞおもしろい、お話しがございましたでしょうね。」
893
雪踏せったをずらす音がして、柔やわらかな肱ひじを、唐草の浮模様ある、卓子テイブルの蔽おおいに曲げて、身を入れて聞かれたので、青年はなぜか、困った顔をして、
「どう仕つかまつりまして、そうおっしゃられては恐縮しましたな、僕のは、でたらめの理学者ですよ。ええ、」
894
とちょいと天窓あたまを掻かいて、
「林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者と遣やったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。」
「まあ。お人の悪い。貴郎あなたは、」
895
と莞爾にっこりした流眄ながしめの媚なまめかしさ。熟じっと見られて、青年は目を外らしたが、今は仕切の外に控えた、ボオイと硝子がらす越に顔の合ったのを、手招きして、
「珈琲コオヒイを。」
「ああ、こちらへも。」
896
と貴婦人も註文しながら、
「ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。彼地あちらの文学のお話ででもございましたんですか。」
「どういたしまして、」
897
と青年はいよいよ弱って、
「人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな貴女あなた、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。」
「来年の、どんな事でございます。」
「何ですって、今年は一度国へ帰って来年出直して来る、と申すことです。日蝕にっしょくがあるからそれを見にまた出懸ける、東洋じゃほとんど皆既蝕かいきしょくだ。と云いましたが、まだ日本には、その風説うわさがないようでございますね。
898
有っても一向心懸こころがけのございません僕なんざ、年の暮に、太神宮から暦の廻りますまでは、つい気がつかないでしまいます。もっとも東洋とだけで、支那しなだか、朝鮮だか、それとも、北海道か、九州か、どこで観ようと云うのだか、それを聞き懸かけた処へ、貴女が食堂へ入っておいでなさいましたもんですから、や、これは日蝕どころじゃない。と云いましたよ。」
「じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。」
「御串戯ごじょうだんおっしゃっては不可いけません。」
「それでは、どんなお話でございましたの。」
「実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……」
「はあ、」
「何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、」
899
と俯向うつむいて、低声こごえになり、
「女俳優やくしゃだ、と申しました。」
「まあ、」と清すずしい目を※みはって、屹きっと睨にらむがごとくにしたが、口に微笑が含まれて、苦しくはない様子。
「沢山たんと、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、」
「どちらで、」
900
と遠慮らしく聞くと、貴婦人は小児の事も忘れたように、調子が冴えて、
「静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、室へやが違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。」
「御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。」
「お湯ぶう。」
901
と小児が云う時、一所に手にした、珈琲はまだ熱い。
三
「静岡はどちらへお越しなさいます。」
902
貴婦人が嬉しそうにして尋ねると、青年はやや元気を失った体に見えて、
「どこと云って当なしなんです。当分、旅籠屋はたごやへ厄介になりますつもりで。」
903
もしそれならば、土地の様子が聞きたそうに、
「貴女あなた、静岡は御住居おすまいでございますか、それともちょっと御旅行でございますか。」
「東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎俳優やくしゃですからお恥しゅう存じます。田舎も貴下あなた、草深くさぶかと云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お飯炊まんまたきの世話場ばかり勤めます、おやまですわ。」
904
と菫すみれ色の手巾ハンケチで、口許を蔽おおうて笑ったが、前髪に隠れない、俯向うつむいた眉の美しさよ。
905
青年は少時しばらく黙って、うっかり巻莨まきたばこを取出しながら、
「何とも恐縮。決して悪気があったんじゃありません。貴女ぐらいな女優があったら、我国の名誉だと思って、対手あいてが外国人だから、いえ、まったくそのつもりで言ったんですが、真まことに失礼。」
906
と真面目まじめに謝罪あやまって、
「失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、河野こうのさん、と云うのを御存じではございませんか。」
「河野……あの、」
907
深く頷うなずき、
「はい、」
「あら、河野は私わたくしどもですわ。」
908
と無意識に小児こどもの手を取って、卓子テイブルから伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、揺ゆるぐがごとく気を籠めて、
「そして、貴下は。」
「英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税ちからと云うものです。」
909
と青年は衝つと椅子を離れて立ったのである。
「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾にっこりする。
910
主税は驚いた顔で、
「ええ、人が悪うございますって? その女俳優おんなやくしゃ、と言いました事なんですかい。」
「いいえ、家うちが気に入らない、と仰有おっしゃって、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」
「…………」
「兄はもう失望して、蒼あおくなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」
911
とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時更あらためて、略式の会釈あり。
「私わたくしは英さんの妹でございます。」
「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人おくさんでいらっしゃいますか。……これはどうも。」
912
静岡県……某なにがし……校長、島山理学士の夫人菅子すがこ、英吉がかつて、脱兎だっとのごとし、と評した美人たおやめはこれであったか。
913
足一度ひとたび静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間せんげんの森の咲耶姫さくやひめに対した、草深の此花このはなや、実げにこそ、と頷うなずかるる。河野一族随一の艶えん。その一門の富貴栄華は、一いつにこの夫人に因って代表さるると称して可いい。
914
夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありながら純然たる学者肌で、無慾、恬淡てんたん、衣食ともに一向気にしない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べるので、寒ければ着るのであるから、ただその分量の多からんことを欲するのみ。※にたのでも、焼いたのでも、酢でも構わず。兵児帯へこおびでも、ズボンでも、羽織に紐が無くっても、更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易に口も利かないくらい。その短を補うに、令夫人があって存する数すうか、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、……悉ことごとく夫人の手に受取られて、偏ひとえにその指環の宝玉の光によって、名を輝かし得ると聞く。
四
915
五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのもあり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行く約束をするのもあれば、慈善市バザアの相談をするのもある。飽かず、倦うまず、撓たゆまないで、客に接して、いずれもをして随喜渇仰せしむる妙を得ていて、加うるにその目がまた古今の能弁であることは、ここに一目見て主税も知った。
916
聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家さとから附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の装よそおいをもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝おんぞがちの着痩きやせはしたが、玉の膚はだえ豊かにして、汗は紅くれないの露となろう、宜むべなる哉かな、楊家ようかの女じょ、牛込南町における河野家の学問所、桐楊とうよう塾の楊の字は、菅子あって、択えらばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。
917
当時、女学校の廊下を、紅色の緒のたった、襲裏かさねうらの上穿うわばき草履で、ばたばたと鳴らしたもので、それが全校に行われて一時ひとしきり物議を起した。近頃静岡の流行は、衣裳も髪飾もこの夫人と、もう一人、――土地随一の豪家で、安部川の橋の袂たもとに、大巌山おおいわやまの峰を蔽おおう、千歳の柳とともに、鶴屋と聞えた財産家が、去年東京のさる華族から娶めとり得たと云う――新夫人の二人が、二つ巴ともえの、巴川に渦を巻いて、お濠ほりの水の溢あふるる勢いきおい。
「ちっとも存じませんで、失礼を。貴女、英吉君とは、ちっとも似ておいでなさらないから勿論気が着こう筈はずがありませんが。」
918
主税のこの挨拶は、真まことに如才の無いもので。熟々つくづく視ればどこにか俤おもかげが似通って、水晶と陶器せととにしろ、目の大きい処などは、かれこれ同一そっくりであるけれども、英吉に似た、と云って嬉しがるような婦人おんなはないから、いささかも似ない事にした。その段は大出来だったが、時に衣兜かくしから燐寸マッチを出して、鼻の先で吸つけて、ふっと煙を吐いたが早いか、矢のごとく飛んで来たボオイは、小火ぼやを見附けたほどの騒ぎ方で、
「煙草たばこは不可いかんですな。」
「いや、これは。」主税は狼狽うろたえて、くるりと廻って、そそくさ扉とを開いて、隣の休憩室の唾壺だこへ突込んで、喫のみさしを揉消もみけして、太いたく恐縮の体で引返すと、そのボオイを手許てもとへ呼んで、夫人は莞爾々々にこにこ笑いながら低声こごえで何か命じている。ただしその笑い方は、他人の失策を嘲けったのではなく、親類の不出来ふでかしを面白がったように見える。
「すっかり面目を失いました。僕は、この汽車の食堂は、生れてから最初はじめてだ。」
919
と、半ば、独言ひとりごとを云う。折から四五人どやどやと客が入った。それらには目もくれず、
「ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。」
「どういたしまして、大恥辱。」
「旅馴れないのは、かえって江戸子えどっこの名誉なんですわ。」
920
ボオイが剰銭つりを持って来て、夫人の手に渡すのを見て、大照れの主税は、口をつけたばかりの珈琲もそのまま、立ったなりの腰も掛けずに、
「ここへも勘定。」
921
傍そばへ来て腰を屈かがめて、慇懃いんぎんに小さな声で、
「御一所に頂戴いたしました、は、」
「飛んでもない、貴女、」
922
と今度は主税が火の附くように慌あわただしく急あせって云うのを、夫人は済まして、紙入を帯の間へ、キラリと黄金きんの鎖が動いて、
「旅馴れた田舎稼ぎの……」
女俳優おんなやくしゃと云いそうだったが、客が居たので、
「女形おやまにお任せなさいまし。」
923
とすらりと立った丈高う、半面を颯さっと彩る、樺かば色の窓掛に、色彩羅馬ロオマの女神じょしんのごとく、愛神キュピットの手を片手で曳ひいて、主税の肩と擦違い、
「さあ、こっちへいらしって、沢山たんとお煙草を召上れ。」
924
と見返りもしないで先に立って、件くだんの休憩室へ導いた。背うしろに立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩が聳そびえて、主税は大跨おおまたに後に続いた。
925
窓の外は、裾野の紫雲英げんげ、高嶺たかねの雪、富士皓しろく、雨紫なり。
五
926
聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に逗留とうりゅうしていたとの事。桜も過ぎたり、菖蒲あやめの節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この小児こどもの二年ふたつ姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分実家さとの医院においても、治療に詮議せんぎを尽したが、その効かいなく、一生の不幸になりそうな。断念あきらめのために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその帰途かえりだと云う。
927
もとよりその女の児こに取って、実家さとの祖父おじいさんは、当時の蘭医昔取った杵きねづかですわ、と軽い口をその時交えて、であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、盲目めくらの娘、可哀相だわねえ、と客観かっかん的の口吻くちぶりだったが、今更大学へ行ったって、所詮効かいのない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅い語ことばが交った。
928
夫がまた、随分自分には我儘わがままをさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、艶つやがなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。
929
まあ、御覧なさい、と云う折から窓を覗のぞいた。
930
この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木うもれぎのような心地こころもちで心細くってならない処。夫が旅行で多日しばらく留守、この時こそと思っても、あとを預っている主婦あるじならなおの事、実家さとの手前も、旅をかけては出憎いから、そこで、盲目めくらの娘をかこつけに、籠を抜けた。親鳥も、とりめにでもならなければ可い、小児の罰が当りましょう、と言って、夫人は快活に吻々ほほと笑う。
931
この談話は、主税が立続けに巻煙草を燻くゆらす間に、食堂と客室とに挟まった、その幅狭な休憩室に、差向いでされたので。
932
椅子と椅子と間が真まことに短いから、袖と袖と、むかい合って接するほどで、裳もすそは長く足袋に落ちても、腰の高い、雪踏せったの尖さきは爪立つまたつばかり。汽車の動揺どよみに留南奇とめきが散って、友染の花の乱るるのを、夫人は幾度いくたびも引かさね、引かさねするのであった。
933
主税はその盲目の娘こと云うのを見た。それは、食堂からここへ入ると、突然いきなり客室の戸を開けようとして男の児こが硝子扉がらすどに手をかけた時であった。――銀杏返いちょうがえしに結った、三十四五の、実直らしい、小綺麗な年増が、ちょうど腰掛けの端に居て、直ぐにそこから、扉とを開けて、小児を迎え入れたので、さては乳母よ、と見ると、もう一人、被布ひふを着た女の子の、キチンと坐って、この陽気に、袖口へ手を引込ひっこめて、首を萎すくめて、ぐったりして、その年増の膝に凭よりかかっていたのがあって、病気らしい、と思ったのが、すなわち話の、目の病わるい娘こなのであった。
934
乳母の目からは、奥に引込んで、夫人の姿は見えないが、自分は居ながら、硝子越に彼方むこうから見透みえすくのを、主税は何か憚はばかって、ちょいちょい気にしては目遣いをしたようだったが、その風を見ても分る、優しい、深切らしい乳母は、太いたくお主しゅうの盲目めしいなのに同情したために、自然おのずから気が映ってなったらしく、女の児と同一おなじように目を瞑ねむって、男の児に何かものを言いかけるにも、なお深く差俯向さしうつむいて、いささかも室の外を窺うかがう気色けしきは無かったのである。
935
かくて彼一句、これ一句、遠慮なく、やがて静岡に着くまで続けられた。汽車には太いたく倦うんじた体で、夫人は腕かいなを仰向けに窓に投げて、がっくり鬢びんを枕するごとく、果は腰帯の弛ゆるんだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔を瞻みまもって、物打語るに疲れなかった。
草深辺
六
936
県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時ひとしきりは魔の所有ものに寂寞ひっそりする、草深町くさぶかまちは静岡の侍小路さむらいこうじを、カラカラと挽ひいて通る、一台、艶つややかな幌ほろに、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込けこみ、友染の背せなか当てした、高台細骨の車があった。
937
あの、音ねの冴えた、軽い車の軋きしる響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日きのう東京から帰った筈はず。それ、衣更ころもがえの姿を見よ、と小橋の上で留とまるやら、旦那を送り出して引込ひっこんだばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶はねつるべの手を休めるやら、女連づれが上も下も斉ひとしく見る目を聳そばだてたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角あいかどの、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人おくがたに乗初のりそめをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物かぶりものなしに駈けるのであった。
938
ものの半時ばかり経たつと、同じ腕車くるまは、通とおりの方から勢いきおいよく茶畑を走って、草深の町へ曳込ひきこんで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、のりはどうですね――と売って通る女房かみさんなどは、若竹座へ乗込んだ俳優やくしゃだ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立ついたての蔭になって差覗さしのぞいた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演するという新俳優の、あれは貫一に扮なる誰かだ、と立騒いだ。
939
主税がまた此地こっちへ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放なぎはなしの頭髪かみも洗ったように水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の余波なごりは争われぬ。土地の透明な光線には、埃ほこりだらけな洋服を着換えた。酒井先生の垢附あかつきを拝領ものらしい、黒羽二重二ツ巴ともえの紋着もんつきの羽織の中古ちゅうぶるなのさえ、艶があって折目が凜々りりしい。久留米か、薩摩か、紺絣こんがすりの単衣ひとえもの、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、お蔦つたが心懸けたものであろう。
940
渠かれは昨夜、呉服町の大東館に宿って、今朝は夫人に迎えられて、草深さして来たのである。
941
仰いで、浅間せんげんの森の流るるを見、俯ふして、濠ほりの水の走るを見た。たちまち一朶いちだ紅くれないの雲あり、夢のごとく眼まなこを遮る。合歓ねむの花ぞ、と心着いて、流ながれの音を耳にする時、車はがらりと石橋に乗懸のりかかって、黒の大構おおがまえの門に楫かじが下りた。
「ここかい。」とひらりと出る。
「へい、」
942
と門内へ駈け込んで、取附とッつきの格子戸をがらがらと開けて、車夫は横ざまに身を開いて、浅黄裏を屈かがめて待つ。
943
冠木門かぶきもんは、旧式のままで敷木があるから、横附けに玄関まで曳込むわけには行かない。
944
男の児こが先へ立って駈出して来る事だろう、と思いながら、主税が帽ぼうしを脱いで、雨あまあがりの松の傍わきを、緑の露に袖擦りながら、格子を潜くぐって、土間へ入ると、天井には駕籠かごでも釣ってありそうな、昔ながらの大玄関。
945
と見ると、正面に一段高い、式台、片隅の板戸を一枚開けて、後うしろの縁から射さす明りに、黒髪だけ際立ったが、向った土間の薄暗さ、衣きぬの色朦朧もうろうと、俤おもかげ白き立姿、夫人は待兼ねた体に見える。
946
会釈もさせず、口も利かさず、見迎えの莞爾にっこりして、
「まあ、遅かったわねえ。ああ御苦労よ。」
947
ちょいと車夫わかいしゅに声を懸けたが、
「さぞ寝坊していらっしゃるだろうと思ったの。さあ、こちらへ。さあ、」
948
口早に促されて、急いで上る、主税は明あかるい外から入って、一倍暗い式台に、高足を踏んで、ドンと板戸に打附ぶッつかるのも、菅子は心づかぬまで、いそいそして。
「こちらへ、さあ、ずッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」
949
と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足で捌さばく裳もすその音。
七
950
市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどの慌あわただしさ、主税は足早に続く咄嗟とっさで、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて昨日きのう汽車の中で、夫人を女俳優やくしゃだと、外人に揶揄やゆ一番した、ああ、祟たたりだ、と気が付いた。
951
気が付いて、莞爾かんじとした時、渠かれの眼まなこは口許くちもとに似ず鋭かった。
952
ちょうどその横が十畳で、客室きゃくまらしい造つくりだけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の菅女部屋から、
「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。
953
主税が猶予ためらうと、
「あら、座敷を覗のぞいちゃ不可いけません、まだ散らかっているんですから、」
954
と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、飛白かすりの紺も鮮麗あざやかに、部屋へ入っている夫人が、どこから見透みすかしたろうと驚いたその目の色まで、歴然ありありと映っている。
955
姿見の前に、長椅子ソオフア一脚、広縁だから、十分に余裕ゆとりがある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、白粉おしろいの類たぐい、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。
956
薄萌葱うすもえぎの窓掛を、件くだんの長椅子ソオフアと雨戸の間あいへ引掛ひっかけて、幕が明いたように、絞った裙すそが靡なびいている。車で見た合歓ねむの花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本ふたもと三本みもとを植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。
957
地を坤軸こんじくから掘覆ほりかえして、将棊倒しょうぎだおしに凭よせかけたような、あらゆる峰を麓ふもとに抱いだいて、折からの蒼空あおぞらに、雪なす袖を飜ひるがえして、軽くその薄紅うすくれないの合歓の花に乗っていた。
「結構な御住居おすまいでございますな。」
958
ここで、つい通りな、しかも適切なことを云って、部屋へ入ると、長火鉢の向うに坐った、飾を挿さぬ、S巻の濡色が滴るばかり。お納戸の絹セルに、ざっくり、山繭縮緬やままゆちりめんの縞しまの羽織を引掛けて、帯の弛ゆるい、無造作な居住居いずまいは、直ぐに立膝にもなり兼ねないよう。横に飾った箪笥たんすの前なる、鏡台の鏡の裏うちへ、その玉の頸うなじに、後毛おくれげのはらはらとあるのが通かよって、新あらたに薄化粧した美しさが背中まで透通る。白粉の香は座蒲団にも籠こもったか、主税が坐ると馥郁ふくいくたり。
「こんな処へお通し申すんですから、まあ、堅くるしい御挨拶はお止しなさいよ。ちょいと昨夜ゆうべは旅籠屋で、一人で寂しかったでしょう。」
959
と火箸を圧おさえたそうな白い手が、銅壺の湯気を除よけて、ちらちらして、
「昨夜ゆうべにも、お迎いに上げましょうと思ったけれど、一度、寂しい思をさして置かないと、他国へ来て、友達の難有ありがたさが分らないんですもの。これからも粗末にして不実をすると不可いけないから………」
960
と莞爾にっこり笑って、瞥ちらりと見て、
「それにもう内が台なしですからね、私が一週間も居なかった日にゃ、門前雀羅じゃくらを張るんだわ。手紙一ツ来ないんですもの。今朝起抜けから、自分で払はたきを持つやら、掃出すやら、大騒ぎ。まだちっとも片附ないんですけれど、貴下あなたも詰らなかろうし、私も早く逢いたいから、可いい加減にして、直ぐに車を持たせて、大急ぎ、と云ってやったんですがね。
961
あの、地方いなかの車だって疾はやいでしょう。それでも何よ、まだか、まだか、と立って見たり坐って見たり、何にも手につかないで、御覧なさい、身化粧みじまいをしたまんま、鏡台を始末する方角もないじゃありませんか。とうとう玄関の処とこへ立切りに待っていたの。どこを通っていらしって?」
962
返事も聞かないで、ボンボン時計を打仰ぐに、象牙のような咽喉のどを仰向け、胸を反そらした、片手を畳へ。
「まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見て来ました。大東館の直じきこっちの大きな山葵わさびの看板を見ましたか、郵便局は。あの右の手の広小路の正面に、煉瓦の建物があったでしょう。県庁よ。お城の中だわ。ああ、そう、早瀬さん、沢山たんと喫あがって頂戴、お煙草。露西亜ロシヤ巻だって、貰ったんだけれど、島山夫を云うはちっとも喫のみませんから……」
八
963
それから名物だ、と云って扇屋の饅頭を出して、茶を焙ほうじる手つきはなよやかだったが、鉄瓶のはまだ沸たぎらぬ、と銅壺から湯を掬くむ柄杓ひしゃくの柄が、へし折れて、短くなっていたのみか、二度ばかり土瓶にうつして、もう一杯、どぶりと突込む。他愛たわいなく、抜けて柄になってしまったので、
「まあ、」と飛んだ顔をして、斜めに取って見透みすかした風情は、この夫人ひとの艶えんなるだけ、中指なかざしの鼈甲べっこうの斑ふを、日影に透かした趣だったが、
「仕様がないわね。」と笑って、その柄を投ほうり出した様子は、世帯しょたいの事には余り心を用いない、学生生活の俤おもかげが残った。
964
主税が、小児こども衆は、と尋ねると、二人とも乳母ばあやが連れて、土産ものなんぞ持って、東京から帰った報知しらせ旁々かたがた、朝早くから出向いたとある。
「河野の父さんの方も、内々小児をだしに使って、東京へ遊びに行った事を知っているんですから、言句もんくは言わないまでも、苦い顔をして、髯ひげの中から一睨ひとにらみ睨むに違いはないんですもの、難有ありがたくないわ。母様かあさんは自分の方へ、娘が慕って行ったんですから御機嫌が可いでしょう、もうちっと経たつと帰って来ます。それまでは、私、実家さとへは顔を出さないつもりで、当分風邪をひいた分よ。」
965
と火鉢の縁に肱ひじをついて、男の顔を視ながめながら、魂の抜け出したような仇気あどけないことを云う。
「そりゃ、悪いでしょう。」
966
と主税がかえって心配らしく、
「彼方むこうから、誰方どなたかお来いでなさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」
「来るもんですか。義兄にいさん医学士――姉婿を云うは忙しいし、またちっとでも姉さんを出さないのよ。大でれでれなんですから。父さんはね、それにね、頃日このごろは、家族主義の事に就いて、ちっと纏まった著述をするんだって、母屋に閉籠とじこもって、時々は、何よ、一日蔵の中に入りきりの事があってよ。蔵には書物が一杯ですから。父さんはね、医者なんですけれど、もと個人、人一人二人の病やまいを治すより、国の病を治したい、と云う大おおきな希望のぞみの人ですからね。過年いつか、あの、家族主義と個人主義とが新聞で騒ぎましたね。あの時も、父様とうさんは、東京の叔父さんだの、坂田道学者さんに応援して、火の出るように、敵と戦ったんだわ。
967
惜い事に、兄さん英吉も奔走してくれたんですけれど、可い機関がなくって、ほんの教育雑誌のようなものに掲のったものですから、論文も、名も出ないでしまって、残念だからって、一生懸命に遣ってますの。確か、貴下の先生の酒井さんは、その時の、あの敵方の大立ものじゃなくって?」
968
と不意に質問の矢が来たので、ちと、狼狽まごついたようだったが、
「どうでしたか、もう忘れましたよ。」と気けもなく答える。
969
別に狙ったのでないらしく、
「でも、何でしょう、貴下あなたは、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。」
「僕は饅頭主義で、番茶主義です。」
970
と、なぜか気競きおって云って、片手で饅頭を色気なくむしゃりと遣って、息も吐つかずに、番茶を呷あおる。
「あれ、嘘ばっかり。貴下は柳橋主義の癖に、」
971
夫人は薄笑いの目をぱっちりと、睫毛まつげを裂いたように黒目勝なので睨にらむようにした。
「ちょいと、吃驚びっくりして。……そら、御覧なさい、まだ驚かして上げる事があるわ。」
972
と振返りざまに背後うしろ向きに肩を捻ねじて、茶棚の上へ手を遣った、活溌な身動みじろきに、下交したがいの褄つまが辷すべった。
973
そのまま横坐りに見得もなく、長火鉢の横から肩を斜めに身を寄せて、翳かざすがごとく開いて見せたは……
「や! 読本とくほんを買いましたね。」
「先生、これは何て云うの?」
「冷評ひやかしては不可いけませんな、商売道具を。」
「いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……」
「レエゼウッフ読本――月謝が出ますぜ。」
「レエゼウッフ。」
九
「あの、何?」
974
と真まことに打解けたものいいで、
「精々勉強したら、名高い、ギョウテのファウストだとか、シルレルのウィルヘルム、テル………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」
「直じき読めます、」
975
と読本を受取って、片手で大掴おおづかみに引開けながら、
「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」
「だって……」
「いいえ、出来ます。」
「あら、ほんとに……」
「もっとも月謝次第ですな。」
「ああだもの、」
976
と衝つと身を退のいて、叱るがごとく、
「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」
977
茶棚の傍わきの襖ふすまを開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、鞠子辺まりこあたりの産らしい、十六七の婢おさんどんが、
「ふァい、奥様。」と訛なまって云う。
978
聞いただけで、怜悧りこうな菅子は、もうその用を悟ったらしい。
「誰か来たの?」
「ひゃあ、」
「あら、厭いやな。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」
「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代衆しゅでござりますだ。」
「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」
979
と云いかけて、主税を見向いて、
「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへ行ゆきましょうよ。」
980
衣紋えもんを直したと思うと、はらりと気早に立って、踞つくばった婢おんなの髪を、袂で払って、もう居ない。
981
トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。
982
はて心得ぬ、これだけの構かまえに、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺あたりを※みまわしたが――後で知れた――留守中は、実家さとの抱かかえ車夫が夜宿とまりに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。
983
そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに往来ゆききがあったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、美濃安八みのあはちの男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい日中ひなかは学校へ出ても、別に仔細しさいは無かったろうに。
984
さて、夫人は、谷屋の手代というのを、隣室となりのその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、
「早瀬さん――」
985
主税は、夫人が此室ここを出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を辿たどりつつ返事が遅いと、
「早瀬さん、」
986
と近くまた呼ぶ。今しがた、かくまって有る人だと串戯じょうだんを云ったものを。
「室数まかずは幾つばかりあれば可よくって?」
「何です、何です。」
987
余り唐突だしぬけで解し兼ねる。
「貴下あなたのお借りなさろうというお家うちよ。ちょいと、」
「ええ、そうですね。」
「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」
988
夫人がした通りに、茶棚の傍わきの襖口へ行きかけた主税は、菅女部屋の中を、トぐるりと廻って、苦笑にがわらいをしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子に背せなを凭もたせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた肱ひじも露あらわに夫人は頬を支えていた。
「朝から戸迷とまどいをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」
989
と振向いた顔の、花の色は、合歓ねむの影。
「へへへへへ」
990
と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金うこん木綿の風呂敷に、浴衣地が堆うずたかい。
二人連
十
991
午後ひるすぎ、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬ砧きぬたの合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。
992
門際の流ながれに臨むと、頃日このごろの雨で、用水が水嵩みずかさ増して溢あふるるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、蒼あおく飜ひるがえって竜りょうの躍るがごとく、茂しげりの下もとを流るるさえあるに、大空から賤機山しずはたやまの蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は洋傘かさをすぼめた。
993
と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰の靡なびくように見えたのは、羽織なしの一枚袷あわせという扮装でたちのせいで、また着換えていた――この方が、姿も佳よく、よく似合う。ただし媚なまめかしさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。
994
セルで足袋を穿はいては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云って邸やしきを出掛でがけに着換えたが、膚はだに、緋ひの紋縮緬もんちりめんの長襦袢ながじゅばん。
995
二人の児この母親で、その燃立つようなのは、ともすると同一おなじ軍人好みになりたがるが、垢あか抜けのした、意気の壮さかんな、色の白いのが着ると、汗ばんだ木瓜ぼけの花のように生暖なまあたたかなものではなく、雪の下もみじで凜りんとする。
996
部屋で、先刻さっきこれを着た時も、乳を圧おさえて密そっと袖を潜くぐらすような、男に気を兼ねたものではなかった。露あらわにその長襦袢に水紅とき色の紐をぐるぐると巻いた形なりで、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、
市川菅女。と莞爾々々にこにこ笑って、澄まして袷を掻取かいとって、襟を合わせて、ト背向うしろむきに頸うなじを捻ねじて、衣紋えもんつきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒かゆそうに天窓あたまを引掻ひっかいていたのを見ると、
「そんな邪険な撫着なでつけようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」
997
と云うのを、聞かない振でさっさと引込ひっこもうとしたので、
「あれ、お待ちなさい」と、下〆したじめをしたばかりで、衝つと寄って、ブラッシを引奪ひったくると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗のぞき込むように瞳をためて顔を見た。
998
胸の血汐ちしおの通うのが、波打って、風に戦そよいで見ゆるばかり、撓たわまぬ膚はだえの未開紅、この意気なれば二十六でも、紅くれないの色は褪あせぬ。
999
境内の桜の樹蔭こかげに、静々、夫人の裳もすそが留まると、早瀬が傍かたわらから向うを見て、
「茶店があります、一休みして参りましょう。」
「あすこへですか。」
「お誂あつらえ通り、皺しわくちゃな赤毛布あかげっとが敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」
1000
と謹んで色には出ぬが、午飯ひるに一銚子ひとちょうし賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。
「咽喉のどが渇いて?」
「ひりつくようです。」
「では……」
1001
茶店の婆さんというのが、式かたのごとく古ぼけて、ごほん、と咳せくのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人子守女もりっこに、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。
「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」
1002
夫人が彳たたずんでいて掛けないのを見て、早瀬は懐中ふところから切立の手拭てぬぐいを出して、はたはたと毛布けっとを払って、
「さあ、どうぞ、」
1003
笑って云うと、夫人は婆さんを背後うしろにして、悠々と腰を下ろして、
「江戸児えどっこは心得たものね。」
「人を馬鹿にしていらっしゃる。」
1004
と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、
「やあ、甘酒がある……」
十一
「お止しなさいよ。先刻さっきもあんなものを食あがってさ、お腹を悪くしますから。」
1005
と低声こごえでたしなめるように云った、先刻のあんなものは――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐なつかしいお茶屋から、わざと取寄せた午飯ひるの馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込かっこんだのを見て、その時は太いたく嬉しがった。
1006
得てこれを嗜たしなむもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜くやしいが不可いけないそうである。
「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」
1007
と云うと、婆さんが早耳で、
「はい、盆に一杯五厘宛ずつでございます。」
「私は鳩と遊びましょう。貴下あなたは甘酒でも冷酒でも御勝手に召食めしあがれ。」
1008
と前の床几しょうぎに並べたのを、さらりと撒まくと、颯さっと音して、揃いも揃って雉子鳩きじばとが、神代かみよに島の湧わいたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。
「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」
1009
早瀬はその数を算かぞえながら、
「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」
「はいはい、あれ、まあ、御覧ごろうじまし、鳩の喜びますこと、沢山たんと奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」
1010
と合点がってん々々、ほたほた笑えみをこぼしながら甘酒を釜から汲くむ。
1011
見る見るうち、輝く玄潮くろしおの退ひいたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟とっさに寂寞せきばくとした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、蠢うごめいて出た者がある。
1012
鼻の下はさまででないが、ものの切尖きっさきに痩やせた頤おとがいから、耳の根へかけて胡麻塩髯ごましおひげが栗の毬いがのように、すくすく、頬肉ほおじしがっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の皺しわは小さな天窓あたまを揉込もみこんだごとく刻んで深い。色蒼あおく垢あかじみて、筋で繋つないだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を支ついたが、さまで容子ようすの賤いやしくない落魄おちぶれらしい、五十近ぢかの男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸とじいとの断きれた、寝ン寝子を今時分。
1013
藁草履わらぞうりを引摺ひきずって、勢いきおいの無さは埃ほこりも得え立てず、地の底に滅入込めりこむようにして、正面から辿たどって来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう疎うとくて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、眩まばゆそうに細めた目に、あわれや、笑を湛たたえて、婆さんの顔をじろりと見た。
「おお、貞ていさんか。」
1014
と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は屹きっとなって鋭く見た。
1015
が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。
「主ぬしあ、どうさしった、久しく見えなんだ。」
1016
と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。
「方なしじゃ、」
1017
思いの他ほか、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児こどもがいやいや[#「いやいや」に傍点]をすると同一おなじに縮すくめた首を破れた寝ン寝子の襟に擦こすって、
「埒明らちあかんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が除とれると云うので、」
1018
と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて俯向うつむいた。
「何より利くそうなが、主あ飲のましったか。」
「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、大おおきな芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」
1019
とがっくり首を掉ふって、
「験げんが見えぬじゃて。」
1020
験しるしなきにはあらずかし、御身の骸むくろは疾とく消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、果敢はかなくそこに立てるならずや。
1021
ごほごほと頷うなずき頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は手巾ハンケチで口を圧おさえながら、甘酒の茶碗を、衝つと傍わきへ奪ったのである。
十二
「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、効験ききめの無い事はあるまいが、疾はやく快ようなろうと思いなさる慾よくで、焦あせらっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、主ぬし、気の持ちように依るぞいの。」
1022
と婆さんは渠かれを慰めるような、自分も勢せいの無いような事を云う。
1023
病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、
「この頃は病気やまいと張合う勇いさみもないで、どうなとしてくれ、もう投身なげみじゃ。人に由っては大蒜にんにくが可ええ、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、私わしはこう見えても癆咳ろうがいとは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえ除とれれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」
1024
愚痴のあわれや、繰返して、杖に縋すがった手を置替え、
「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」
1025
と切なそうに顔を獅噛しかめる。
「焦らっしゃる事よ、苛じれてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」
「ちっと休まいて貰いたいがの、」
1026
菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、
「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。見霽みはらしへ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然ぞっとする慄然ぞっとする、」
1027
と重そうな頭かぶりを掉ふって、顔を横向きに杖を上げると、尖さきがぶるぶる震う。
1028
こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、構わず休らえ、と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を弾はじいて禁とめたので黙った。
「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」
1029
物は言わず、睡ねむるがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉とんぼも留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。
「お婆さん、」
1030
と早瀬が調子高に呼んだ。
1031
さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生よみがえったようになって、
「へい、」
「今の、風説うわさならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」
1032
と、威おどしては可いけそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。
「いえ、一ツ心当りは無いか、家うちを聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」
「ああ、そうね。」
「どこか、貸家はあるまいか。」
「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町たかじょうまち辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」
「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」
「どんなのがお望みでござりまするやら、」
「廉やすいのが可いい、何でも廉いのが可いんだよ。」
「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと圧おさえて云う。
「長屋で可いのよ、長屋々々。」
1033
と構わず、遣るので、また目で叱る。
「へへへ、お幾干いくらばかりなのをお捜しなされまするやら。」
1034
心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行いざって出る。
「静岡じゃ、お米は一升幾干いくらだい。」
「ええ。」
「厭よ、後生。」
1035
と婆さんを避よけかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は後うしろへ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、
「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」
「もう、私は、」と堪たまりかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾ハンケチで半ば蔽おおいながら、茶店を境内へ衝つっと出る。
十三
1036
どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿わらじばきの親仁おやじだの、日和下駄で尻端折しりはしょり、高帽という壮佼あにいなどが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。
1037
石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際鮮麗あざやかで、青葉越に緋鯉ひごいの躍る池の水に、影も映りそうに彳たたずんだが、手巾ハンケチを振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、
「可い加減になさいよ、極きまりが悪いじゃありませんか。」
「はい、お忘れもの。」
1038
と澄ました顔で、洋傘ひがさを持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり[#「しっとり」に傍点]、中には、じめじめとするのさえある。……
1039
夫人はちょいと俯目ふしめになって、軽かろくその洋傘ひがさを支ついて、
「よく気がついてねえ。小さな声で、――大儀、」
「はッ、主税御供おんとも仕つかまつりまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」
「静岡は暢気のんきでしょう、ほほほほほ。」
「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」
「あらまた、厭ねえ、貴下あなたは。後生ですからそのお米は幾干だい、と云うのだけは堪忍かにして頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」
「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」
「どうせね、柳橋のようなわけには……」
「いいえ、今も、子守女もりっこめらが、貴女が手巾をお掉ふりなさるのを見て、……はははは、」
「何ですって、」
「はははははは。」
1040
と事も無げに笑いながら、
「男と女と豆煎、一盆五厘だよ。ッて、飛んでもない、わッと囃はやして遁にげましたぜ。」
1041
ツンと横を向く、脊が屹きっと高くなった。引ひっかなぐって、その手巾をはたと地つちに擲なげうつや否や、裳もすそを蹴けって、前途むこうへつかつか。
1042
その時義経少しも騒がず、落ちた菫すみれ色の絹に風が戦そよいで、鳩の羽ははっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと袂たもとに突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向うつむいたが、直ぐに大跨おおまたに夫人の後について、社やしろの廻廊を曲った所で追着おッついた。
「夫人おくさん。」
「…………」
「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人おくさん、」
「…………」
「英吉君の御妹御、菅子さん、」
「…………」
「島山夫人……河野令嬢……不可いけない、不可い。」
1043
と口の裡うちで云って、歩行あるき歩行き、
「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更独ひとりじゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の直ねは申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が住すまれそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」
1044
いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。
1045
社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。
1046
夫人はもとより口を開かぬ。
1047
やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。
1048
大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の破やぶれから人顔も見えないので、その時ずッと寄って、
「ものを云って下さいよ。」
「…………」
「夫人おくさん、」
「…………」
十四
1049
少時しばらく――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色かおつきでもないが、腕を拱こまぬいた態なりで、夫人の一足後れに跟ついて行ゆく。
1050
裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように寂寞ひっそりして、空屋かと思えば、蜘蛛くもの巣を引くような糸車の音が何家どこともなく戸外おもてへ漏れる。路傍みちばたに石の古井筒があるが、欠目に青苔あおごけの生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ燥はしゃいで、流ながしも乾からびている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると唸うめくよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴せきどめあめと黒く書いた広告びらの、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。
1051
振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗まっくらな隧道トンネルに樹立こだちが塞いで、炎のように光線ひざしが透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と聳そびえ立って峰から哄どっと吹き下した。
1052
かつ散る紅くれない、靡なびいたのは、夫人の褄つまと軒の鯛たいで、鯛は恵比寿えびすが引抱ひっかかえた処の絵を、色は褪あせたが紺暖簾こんのれんに染めて掛けた、一軒御染物処おんそめものどころがあったのである。
1053
廂ひさしから突出した物干棹ものほしざおに、薄汚れた紅もみの切きれが忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥ごみで埋うまった溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋あばらやで、煤すすのふさふさと下った真黒まっくろな潜戸くぐりどの上の壁に、何の禁厭まじないやら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの狗いぬの、前脚を立てた姿が、雨浸あめじみに浮び出でて朦朧もうろうとお札の中に顕あらわれて活いけるがごとし。それでも鬼が来て覗のぞくか、楽書で捏でっちたような雨戸の、節穴の下に柊ひいらぎの枝が落ちていた……鬼も屈かがまねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄ものすごい。
1054
フト立留まって、この茅家あばらやを覗ながめた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘ひがさを袖の下へ横よこたえると、惜げもなく、髪で、件くだんの暖簾を分けて、隣の紺屋の店前みせさきへ顔を入れた。
「御免なさいよ、御隣家おとなりの屋いえを借りたいんですが、」
「何でございますと、」
1055
と、頓興とんきょうな女房の声がする。
「家賃は幾干いくらでしょうか。」
「ああ、貞造さんの家うちの事かね。」
1056
余り思切った夫人の挙動ふるまいに、呆気あっけに取られて茫然とした主税は、貞造。の名に鋭く耳をそばだてた。
「空家ではござりませぬが。」
「そう、空家じゃないの、失礼。」
1057
と肩の暖簾をはずして出たが、
「大照れ、大照れ、」
1058
と言って、莞爾にっこりして、
「早瀬さん、」
「…………」
「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この家うちじゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」
1059
さすがに夫人もこれは離れ業わざであったと見え、目のふちが颯さっとなって、胸で呼吸いきをはずませる。
1060
その燃ゆるような顔を凝じっと見て、ややあって、
「驚きました。」
「驚いたでしょう、可い気味、」
1061
と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行あるき出そうとして、その茅家をもう一目。
「しかし極きまりが悪かってよ。」
「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻さっき拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷うなずいたばかりで、取るような、取らぬような、歩行あるきながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉ひとしく左右を見た。両側の伏屋ふせやの、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗いぬが……
貸小袖
十五
1062
今来た郵便は、夫人の許もとへ、主人あるじの島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を避よけた食卓の角の処に、さすがにまだ端然きちんと坐って、例の菅女部屋。で、主税は独酌にして、ビイル。
1063
塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に合歓ねむの花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒好ずきが、なぜか、夫人の居ない時は、硝子杯コップへ注つける口も苦そうに、差置いて、どうやら鬱ふさぐらしい。
1064
襖ふすまが開あいた、と思うと、羽織なしの引掛帯ひっかけおび、結び目が摺ずって、横になって、くつろいだ衣紋えもんの、胸から、柔かにふっくりと高い、真白まっしろな線を、読みかけた玉章たまずさで斜めに仕切って、衽下おくみさがりにその繰伸くりのばした手紙の片端を、北斎が描いた蹴出けだしのごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者それしゃの風がある。
「やっと寝かしつけたわ。」
1065
と崩るるように、ばったり坐って、
「上の児こは、もう原もとっから乳母ばあやが好いいんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻さっきのあの取ッ着かれようを御覧なさい。」
1066
と手紙を見い見い忙せわしそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、小児こどもが二人とも母様かあさんにこびりついて、坊やなんざ、武者振つく勢いきおい。目の見えない娘こは、寂さみしそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を押着おッつけ、躱かわす顔の耳許みみもとへかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらに鬢びんが乱れて、面影も痩やせたように、口のあたりまで振かかるのを掻かい払うその白やかな手が、空を掴つかんで悶もだえるようで、乳母ばあや来ておくれ。と云った声が悲鳴のように聞えた。乳母うばが、まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような俯目ふしめの、顔を見ようとしないので、元気なく微笑ほほえみながら、娘の児の手を曳ひくと、厭々それは離れたが、坊やが何と云っても肯きかなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。
1067
そこへ、しばらくして、郵便――だった。
1068
すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、煩うるさそうに掻上げて、
「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ膏あぶらを絞られたわ。」
1069
と急いで衣紋を繕って、
「さあ、お酌をしましょう。」
1070
瓶を上げると、重い。
「まあ、ちっとも召喫めしあがらないのね。お酌がなくっては不可いけないの、ちょいと贅沢ぜいたくだわ。ほほほほ、家うちも極きまったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」
「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々そろそろ失礼しましょう。」
1071
と恐しく真面目に云う。
「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可いいわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様かあさまから手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出いでなすって、幸いお知己ちかづきになったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。
1072
あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」
1073
と掌てのひらに巻き据えた手紙の上を、軽かろく一つとんと拍うって、
「母様かあさんが可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩ゆっくり召食めしあがれ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸わかしてありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯さっと流してから喫あがりますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可よくって、」
1074
念を入れて、やがて諾うんと云わせて、
「ああ、昨日きのうも一昨日おとといも、合歓の花の下へ来ては、晩方寂さみしそうに帰ったわねえ。」
十六
1075
さて湯へ入る時、はじめて理学士の書斎を通った。が、机の上は乱雑で、そこに据えた座蒲団も無かった、早瀬に敷かせているのがそれらしい。
1076
机には、広げたままの新聞も幅をすれば、小児こどもの玩弄物おもちゃも乗って、大きな書棚の上には、世帯道具が置いてある。
1077
湯は、だだっ広い、薄暗い台所の板敷を抜けて、土間へ出て、庇間ひあわいを一跨ひとまたぎ、据すえ風呂をこの空地くうちから焚くので、雨の降る日は難儀そうな。
1078
そこに踞しゃがんでいた、例のつんつるてん鞠子の婢おさんが、湯加減を聞いたが上塩梅じょうあんばい。
1079
どっぷり沈んで、遠くで雨戸を繰る響、台所だいどこをぱたぱた二三度行交いする音を聞きながら、やがて洗い果ててまた浴びたが、湯の設計こしらえは、この邸に似ず古びていた。
1080
小灯こともしの朦々もうもうと包まれた湯気の中から、突然いきなり褌ふんどしのなりで、下駄がけで出ると、颯さっと風の通る庇間に月が見えた。廂ひさしはずれに覗のぞいただけで、影さす程にはあらねども、と見れば尊き光かな、裸身はだみに颯と白銀しろがねを鎧よろったように二の腕あたり蒼あおずんだ。
1081
思わず打仰いで、
「ああ、お妙たえさん。」
1082
俯向うつむいた肩がふるえて、
「お蔦!」
1083
蹌踉よろめいたように母屋の羽目に凭もたれた時、
「早瀬さん、」と、つい台所だいどこに、派手やかな夫人の声で、
「貴下、上ったら、これにお着換えなさいよ。ここに置いときますから、」
「憚はばかり、」
1084
と我に返って、上って見ると、薄べりを敷いた上に、浴衣がある。琉球紬つむぎの書生羽織が添えてあったが、それには及ばぬから浴衣だけ取って手を通すと、桁短ゆきみじかに腕が出て着心の変な事は、引上げても、引上げても、裾が摺ずるのを、引縮めて部屋へ戻ると……道理こそ婦物おんなもの。中形模様の媚なまめかしいのに、藍あいの香が芬ぷんとする。突立って見ていると、夫人は中腰に膝を支ついて、鉄瓶を掛けながら、
「似合ったでしょう、過日いつか谷屋が持って来て、貴下が見立てて下すったのを、直ぐ仕立てさしたのよ。島山のはまだ縫えないし、あるのは古いから、我慢して寝衣ねまきに着て頂戴。」
「むざむざ新らしいのを。」
1085
と主税は袖を引張る。
「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」
「気味が悪い、」
「…………」
「もんですか。勿体至極もござらん。」
1086
と極きまったが、何かまだ物足りない。
「帯ですか。」
「さよう、」
「これを上げましょう。」
1087
とすっと立って、上緊うわじめをずるりと手繰った、麻の葉絞の絹縮ちぢみ。
「…………」
1088
目を見合せ、
「可いいわ、」
1089
とはたと畳に落して、
「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」
1090
主税はあとで座敷を出て、縁側を、十畳の客室きゃくまの前から、玄関の横手あたりまで、行ったり来たり、やや跫音あしおとのするまで歩行あるいた。
1091
婢おさんが来て、ぬいと立って、
「夫人おくさまが言いましけえ、お涼みなさりますなら雨戸を開けるでござります。」
「いや、宜よろしい。」
「はいい。」と念入りに返事する。
「いつも何時頃にお休みだい。」
1092
と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢の傍わきへ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んだ。
1093
疾はやい事、もう紙に両個ふたつ。
「一個ひとつは乳母ばあやさんに、お前さんから、夫人おくさんに云わんのだよ。」
十七
1094
寝たのはかれこれ一時。
1095
膳は片附いて、火鉢の火の白いのが果敢はかないほど、夜も更けて、寂しんと寒くなったが、話に実が入いったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。それでも火の気が便りだから、横坐りに、褄つまを引合せて肩で押して、灰の中へ露あらわな肱ひじも落ちるまで、火鉢の縁ふちに凭もたれかかって、小豆あずきほどな火を拾う。……湯上りの上、昼間歩行あるき廻った疲れが出た菅子は、髪も衣紋も、帯も姿も萎なえたようで、顔だけは、ほんのりした――麦酒ビイルは苦くて嫌い、と葡萄酒を硝子杯コップに二ツばかりの――酔えいさえ醒めず、黒目は大きく睫毛まつげが開いて、艶やかに湿うるおって、唇の紅くれないが濡れ輝く。手足は冷えたろうと思うまで、頭かしらに気が籠った様子で、相互たがいの話を留やめないのを、余り晩おそくなっては、また御家来衆しゅが、変にでも思うと不可いけませんから、とそれこそ、人に聞えたら変に思われそうな事を、早瀬が云って、それでも夫人のまだ話し飽かないのを、幾度いくたび促しても肯入ききいれなかったが……火鉢で隔てて、柔かく乗出していた肩の、衣きぬの裏がするりと辷すべった時、薄寒そうに、がっくりと頷うなずくと見ると、早急さっきゅうにフイと立つ……。
1096
膝に搦からんだ裳もすそが落ちて、蹌踉よろめく袖が、はらりと、茶棚の傍わきの襖ふすまに当った。肩を引いて、胸を反そらして、おっくらしく、身体からだで開けるようにして、次室つぎへ入る。
1097
板廊下を一つ隔てて、そこに四畳半があるのに、床が敷いてあって、小児が二人背中合せに枕して、真中まんなかに透いた処がある。乳母うばが両方を向いて寝かし附けたらしいが、よく寝入っていて、乳母は居なかった。
1098
トそこを通り越して、見えなくなったきり、襖も閉めないで置きながら、夫人はしばらく経たっても来なかった。
1099
早瀬は灰に突込んだ堆うずたかい巻莨まきたばこの吸殻を視ながめながら、ああ、喫のんだと思い、ああ、饒舌しゃべったと考える。
1100
その話、と云うのが、かねて約束の、あの、ギョウテのエルテルを直訳的にという註文で、伝え聞くかの大詩聖は、ある時シルレルと葡萄の杯を合せて、予等われらが詩、年を経るに従いていよいよ貴からんことこの酒のごとくならん、と誓ったそうだわね、と硝子杯コップを火に翳かざしてその血汐ちしおのごとき紅くれないを眉に宿して、大した学者でしょう、などと夫人、得意であったが、お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛きっかけから、エルテルは後日ごにちにして、まあ、題もハヤセと云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられた。
1101
早瀬は悉くわしく懺悔ざんげするがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……
1102
義理から別離わかれ話になると、お蔦は、しかし二度芸者つとめをする気は無いから、幸いめ[#「め」に傍点]組の惣助そうすけの女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、め[#「め」に傍点]組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、銀杏返いちょうがえしなら不自由はなし、雛妓おしゃくの桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは肴屋さかなやへ内弟子に入って当分梳手すきてを手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれに極きまった。この事は、酒井先生も御承知で、内証ないしょうで飯田町の二階で、直々じきじきに、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづく頷うなずいて、手ずから、小遣など、いろいろ心着こころづけがあった、と云う。
1103
それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込ひっこむつもりだったが、め[#「め」に傍点]組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠はたごも人目を憚はばかって、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。
そんな時は、
1104
と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、
背中合わせで、別々に。
1105
翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人あなたに逢ったんだと。……
うつらうつら
十八
1106
中途で談話はなしに引入れられて鬱ふさぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初はじめから酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯まんまを炊たいてくれた婦おんなは、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫ああ、と喟然きぜんとして天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄しりめにかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋つなげません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を※にるのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍あわれみはしたけれども、徹頭徹尾、芸者はおよしなさい。……この後たとい酒井さんのお許可ゆるしが出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
1107
出て来ない――夫人はどうしたろう。
1108
がたがた音がした台所も、遠くなるまで寂寞ひっそりして、耳馴れたれば今更めけど、戸外おもては数す万の蛙かわずの声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、天地あめつちに響くがごとく、はた古戦場を記した文に、尽ことごとく調しらべがあって、章と句と斉ひとしく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、動揺どよみを造って、国が暗くなる気勢けはいがする。
1109
時に湯気の蒸した風呂と、庇合ひあわいの月を思うと、一生の道中記に、荒れた駅路うまやじの夜の孤旅ひとりたびが思出される。
1110
渠かれは愁然として額を圧おさえた。
「どうぞお休み下さりまし。」
1111
と例の俯向うつむいた陰気な風で、敷居越に乳母が手を支ついた。
「いろいろお使い立てます。」
1112
と直ぐにずッと立って、
「どちらですか。」
「そこから、お座敷へどうぞ……あの、先刻はまた、」と頭つむりを下げた。
1113
寝床はその、十畳の真中まんなかに敷いてあった。
1114
枕許まくらもとに水指みずさしと、硝子杯コップを伏せて盆がある。煙草盆を並べて、もう一つ、黒塗金蒔絵きんまきえの小さな棚を飾って、毛糸で編んだ紫陽花あじさいの青い花に、玉ぎょくの丸火屋まるぼやの残燈ありあけを包んで載せて、中の棚に、香包を斜めに、古銅の香合が置いてあって、下の台へ鼻紙を。重しの代りに、女持の金時計が、底澄んで、キラキラ星のように輝いていた。
1115
じろりと視ながめて、莞爾にっこりして、蒲団に乗ると、腰が沈む。天鵝絨びろうどの括枕くくりまくらを横へ取って、足を伸のばして裙すそにかさねた、黄縞きじまの郡内に、桃色の絹の肩当てした掻巻かいまきを引き寄せる、手が辷すべって、ひやりと軽かろくかかった裏の羽二重が燃ゆるよう。
1116
トタンに次の書斎で、するすると帯を解く音がしたので、まだ横にならなかった主税は、掻巻の襟に両肱を支いた。
1117
乳母が何か云ったようだったが、それは聞えないで、派手な夫人の声して、
「ああ、このまま寝ようよ。どうせ台なしなんだから。」
1118
と云ったと思うと、隔ての襖ふすまの左右より、中ほどがスーと開あいたが、こなたの十畳の京間は広し、向うの灯あかりも暗いから、裳もすそはかくれて、乳ちの下の扱帯しごきが見えた。
「お休みなさい。」
「失礼。」
1119
と云う。襖を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありし辺あたり、宙に残って、消えずに俤おもかげに立つ。
1120
主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリと※みひらいて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、洋燈ランプを消したのが知れて、しっこは、しっこは、と小児こどもに云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。
1121
早瀬は起上って、棚の残燈ありあけを取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、便所かわやがあるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子の婢おさんの寝た裙すそを通って、板戸を開けて、台所だいどこの片隅の扉ひらきから出て、小用を達たして、手を洗って、手拭てぬぐいを持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり白粉おしろいの香においがする。
十九
1122
寝室ねまへ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬は勢いきおいよく枕して目を閉じたが、枕許の香こうは、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露を揺ゆすって、幽かすかな波を描いて恋を囁ささやくかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を辿たどって来て、和やわらかに面おもてを撫でる。
1123
それを掻払かいはらうごとく、目の上を両手で無慚むざんに引擦ひっこすると、ものの香はぱっと枕に遁にげて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、引返ひっかえして、今度は軽かろく胸に乗る。
1124
寝返りを打てば、袖の煽あおりにふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った気勢けはい、原もとの花片はなびらに香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が一汐ひとしお高くなった。
1125
快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、先刻さっきお休みなさい。を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ歴々ありありと瞳に映る。
1126
枕に手を支つき、むっくり起きると、あたかもその花環の下、襖の合せ目の処に、残燈ありあけの隈くまかと見えて、薄紫に畳を染めて、例の菫すみれ色の手巾ハンケチが、寂然せきぜんとして落ちたのに心着いた。
1127
薫はさてはそれからと、見る見る、心ゆくばかりに思うと、萌黄もえぎに敷いた畳の上に、一簇ひとむれの菫が咲き競ったようになって、朦朧もうろうとした花環の中に、就中なかんずく輪りんの大きい、目に立つ花の花片が、ひらひらと動くや否や、立処たちどころに羽にかわって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、その同一おなじ処にちらちらする。
1128
早瀬は、甘い、香かんばしい、暖かな、とろりとした、春の野に横よこたわる心地で、枕を逆に、掻巻の上へ寝巻の腹ん這ばいになって、蒲団の裙に乗出しながら、頬杖ほおづえを支いて、恍惚うっとりした状さまにその菫を見ている内、上にたたずむ蝶々と斉ひとしく、花の匂が懐しくなったと見える。
1129
やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。
1130
不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一寸すんばかり襖が……開あ……い……た。
1131
と見ると、手巾の片端に、紅くれないの幻影まぼろしが一条ひとすじ、柔かに結ばれて、夫人の閨ねやに、するすると繋つながっていたのであった。
1132
菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて縁えにしの糸と云う。禁断の智慧ちえの果実このみと斉ひとしく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の児ことなるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属けんぞくとなり、畜生の浅猿あさましさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。
1133
いかに、この時。
1134
隔ての襖が、より多く開いた。見る見る朱あかき蛇くちなわは、その燃ゆる色に黄金の鱗うろこの絞を立てて、菫の花を掻潜かいくぐった尾に、主税の手首を巻きながら、頭かしらに婦人の乳ちの下を紅くれない見せて噛かんでいた。
1135
颯さっと花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の辺あたりが露あらわに見えた。残燈ありあけはその枕許にも差置いてあったが、どちらの明あかりでも、繋いだものの中は断たれず。……
1136
ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾ふすまを出て、胸を圧おさえて、熟じっと見据えた目に、閨の内を※みまわして、※ぼうとしたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を※※さまようごとく、裳もすそも畳に漾ただよったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯しごきの我を纏まとえるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘うなされた、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。
思いやり
二十
1137
妙子は同伴つれも無しにただ一人、学校がえりの態なりで、八丁堀のとある路地へ入って来た。
1138
通うその学校は、麹町こうじまち辺であるが、どこをどう廻ったのか、真砂町まさごちょうの嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で温習ならっている三味線さみせんも、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。
1139
目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのを※みはったお妙は、鶯の声を見る時と同一おんなじな可愛い顔で、路地に立って※みまわしながら、橘たちばなに井げたの紋、堀の内講中こうじゅうのお札を並べた、上原かんばらと姓だけの門札かどふだを視ながめて、単衣ひとえの襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、洋傘ひがさを支ついたが、声を懸けようとしたらしく、斜めに覗のぞき込んだ顔を赤らめて、黙って俯向うつむいて俯目ふしめになった。口許くちもとより睫毛まつげが長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。
1140
コトコトとその洋傘ひがさで、爪先つまさきの土を叩いていたが、
「御免なさい。」
1141
とようよう云う、控え目だったけれども、朗ほがらかに清すずしい、框かまちの障子越にずッと透とおる。
1142
中からよく似た、やや落着いた静しずかな声で、
「はあ、誰方どなた?」
1143
お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分に極きめていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、吃驚びっくりして顔を上げる。
「誰方、」
「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」
「はい、こちらでございますが。」と座を立った気勢けはいに連れて、もの云う調子が婀娜あだになる。
1144
と真正面まっしょうめんに内を透かして、格子戸に目を押附おッつける。
「何ぞ御用。」
1145
といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品の佳いい、しっとりした縞しまお召に、黒繻子くろじゅすの丸帯した御新造ごしんぞ風の円髷まるまげは、見違えるように質素じみだけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の小芳こよしであった。
1146
立身たちみで、框から外を見たが、こんな門かどには最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝つきひざになって、
「あいにく出掛けて居おりませんが、貴嬢あなた、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」
1147
瞳も離さないで視めたお妙が、後馳おくればせに会釈して、
「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」
1148
と指でも圧おさえず、惜気おしげなく束髪の鬢びんを掉ふって、
「お師匠さんでなくっても可いいんです。お弟子さんがお在いでなら、ちょいと結んで下さいな。」
1149
縋すがって頼むように仇あどなく云って、しっかり格子に掴つかまって、差覗きながら、
「小母さんでも可いわ。」
1150
我を小母さんにして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、
「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」
「いいえ、遠いのよ。」
「お遠うございますか。」
「本郷だわ。」
「ええ、」
「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」
「お嬢様、まあ、」
1151
と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中から圧おさえたのも気が附かぬか、駒下駄こまげたの先を、逆さかさに半分踏まえて、片褄蹴出かたづまけだしのみだれさえ、忘れたように瞻みまもって、
「お妙様。」
「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」
二十一
「いらっしゃいまし、」
1152
と小芳が太いたく更あらたまって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の上座じょうざへ直されていたのである。
「貴嬢あなた、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。唯今ただいま手拭を絞って差上げます。」
1153
と一斉いっときに云いかけられて、袖で胸を煽あおいでいた手を留めて、
「暑いんじゃないの、私極きまりが悪いから、それでもって、あの、」
1154
と袂たもとを顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、
「小母さんが、お蔦さん?」と低声こごえでまた聞いた。
「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は狼狽とっちてしまってさ。ほほほ、いうことも前後あとさきになるんですもの、まあ、御免なさいまし。
1155
私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」
「ええ、御病気。」と憂慮きづかわしげに打傾く。
「はあ、久しい間、」
「沢山たんと、悪くって?」
「いいえ、そんなでもないようですけれど、臥ふせっておりますから、お髪ぐしはあげられませんでしょう。ですが、御緩ごゆっくり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」
1156
と擦寄って、うっかりと見惚みとれている。
1157
上框あがりぐちが三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が折曲おりまがった処に、もう一室ひとま、障子は真中まんなかで開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。
1158
向うは余所よその蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、酔のんだくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳も蒼あおい。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれめ[#「め」に傍点]組の住居すまい、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。
1159
惣助の得意先は、皆、渠かれを称して恩田百姓と呼ぶ。註に不及およばず、作取つくりどりのただ儲け、商売あきないで儲けるだけは、飲むも可よし、打ぶつも可し、買うも可しだが、何がさてそれで済もうか。儲けを飲んで、資本もとでで買って、それから女房の衣服きもので打つ。
1160
それお株がはじまった、と見ると、女房はがちがちがちと在りたけの身上しんしょうへ錠をおろして、鍵を昼夜帯へ突込んで、当分商売はさせません、と仕事に出る、
1161
トかますの煙草入に湯銭も無い。おなまめだんぶつ、座敷牢だ、と火鉢の前に縮すくまって、下げ煙管ぎせるの投首が、ある時悪心増長して、鉄瓶を引外ひっぱずし、沸立にたった湯を流ながしへあけて、溝の湯気の消えぬ間に、笊蕎麦ざるそばで一杯いちを極きめた。
1162
その時女房に勘当されたが、やっとよりが戻って以来、金目な物は重箱まで残らず出入先へ預けたから、家には似ない調度の疎末そまつさ。どこを見てもがらんとして、間狭ませまな内には結句さっぱりして可よさそうなが、お妙は目を外らす壁張りの絵も無いので、しきりに袂たもとを爪繰って、
「可いのよ、小母さん、髪結さんの許とこだから、極りが悪いからそう云って来たけれど、髪なんぞ結いわなくったって構わなくってよ。ちっとも私、結いたくはないの、」
1163
と投出したように云って、
「早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?」
「姉さん、」
1164
ト、障子の内から。
「あい、」と小芳が立構えで、縁へ振向いてそなたを見込むと、
「私、そこへ行っても可いいかい?」
1165
小芳が急いで縁づたいで、障子を向うへ押しながら、膝を敷居越に枕許。
1166
枕についた肩細く、半ば掻巻かいまきを藻脱けた姿の、空蝉うつせみのあわれな胸を、痩やせた手でしっかりと、浴衣に襲かさねた寝衣ねまきの襟の、はだかったのを切なそうに掴つかみながら、銀杏返しの鬢びんの崩れを、引結ひきゆわえた頭かしら重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、吻ほっと今呼吸いきをしたのはお蔦である。
二十二
1167
お蔦は急に起上った身体からだのあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ術じゅつなそうであった。
1168
枕から透く、その細う捩よれた背せなへ、小芳が、密そっと手を入れて、上へ抱起すようにして、
「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可いけないよ。」
「ああ、難有ありがとう、」
1169
とようよう起直って、顱巻はちまきを取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、
「何だか、骨が抜けたようで可笑おかしいわ、気障きざだねえ、ぐったりして。」
1170
と蓮葉はすはに云って、口惜くやしそうに力のない膝を緊しめ合わせる。
1171
お妙はもう六畳の縁へ立って来て、障子に掴まって覗のぞいていたが、
「寝ていらっしゃいよ、よう、そうしておいでなさいよ。私がそこへ行ってよ。」
1172
とそれまで遠慮したらしかったが、さあとなると、飜然ひらりと縁を切って走込むばかりの勢いきおい――小芳の方が一目先へ御見の済んだ馴染なじみだけ、この方が便りになったか、薄くお太鼓に結んだ黒繻子のその帯へ、擦着すりつくように坐って、袖のわきから顔だけ出して、はじめて逢ったお蔦の顔を、瞬もしないで凝じっと視ながめる。
1173
肩を落して、お蔦が蒲団の外へ出ようとするのを、
「よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。」
「はじめまして、」
1174
と余り白くて、血の通るのは覚束おぼつかない頸うなじを下げて、手を支つきつつ、
「失礼でございますから、」
「よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。」
1175
と気を揉んで、我を忘れて、小芳の背中をとんとんと叩いて、取次げ、と急あせって云う。
1176
その優しさが身に浸みたか、お蔦の手をしっかり握った、小芳の指も震えつつ、
「お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。」
「いいえ、そんなじゃありません。切なければ直じきに寝ますよ。お嬢さん、難有ありがとう存じます。貴嬢あなた、よくおいで下さいましたのね。」
「そして、よく家うちが知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。」
1177
小芳はまた今更感心したように熟々つくづく云った。
「はあ、分らなくってね。私、方々で聞いて極きまりが悪かったわ。探すのさえ煩むずかしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなかろうと思って、私、心配ッたらなかってよ。」
「私たちが……」
「なぜでございますえ。」
1178
と両方へ身を開いて、お妙を真中まんなかにして左右から、珍らしそうに顔を見ると、俯向うつむきながら打微笑み、
「だって私は、ちっともお金子かねが無いんですもの。お茶屋へ行って、呼ばなくっては逢えないのじゃありませんか。」
1179
お蔦がハッと吐息といきをつくと、小芳はわざと笑いながら、
「怪我にもそんな事があるもんですか。それに、お蔦さんも、もう堅気です。私が、何も……あの、もっとも、私に逢おうとおっしゃって下すったのではござんせんが、」
1180
となぜか、怨めしそうな、しかも優やさしい目で瞻みまもって、
「私は何も、そんな者じゃありませんのに。」
「厭よ、小母さん、私両方とも写真で見て知っていてよ。」
1181
と仇気あどけなく、小芳の肩へ手を掛けて、前髪を推込むばかり、額をつけて顔を隠した。
1182
二人目と目を見合せて、
「極きまりが悪い、お蔦さん。」
「姉さん、私は恥かしい。」
「もう……」
「ああ、」
1183
思わず一所に同音に云った。
「写真なんか撮るまいよ、」――と。
二十三
1184
お妙は時に、小芳の背後うしろで、内証ないしょうで袂を覗のぞいていたが、細い紙に包んだものを出して気兼ねそうに、
「小母さん、あの、お蔦さんが煩らっていらっしゃる事は、私は知らなかったんですから、お見舞じゃないの、あのね、あの、お土産に、私、極りが悪いわ。何にも有りませんから、毛糸で何か編んで上げようと思ったのよ。
1185
だけれども何が可いか、ちっとも分らないでしょう。粋な芸者衆しゅだから、ハイカラなものは不可いけないでしょう。靴足袋も、手袋も、銀貨入も、そんなものじゃ仕方が無いから、これをね、私、極りが悪いけれども持って来ました。小母さんから上げて頂戴。」
「お喜びなさいよ、お嬢さんが、」
「まあ、」
1186
と嬉しそうに頂くのを、小芳は見い見い、蒲団へ膝を乗懸けて、
「何を下すったい。」
「開けて見ても可いかね。」
「早く拝見おしなねえ。」
「あら! 見ちゃ可厭いやよ、酷ひどいわ、小母さんは。」
1187
と背中を推着おッついて、たった今まで味方に頼んだのを、もう目の敵かたきにして、小突く。
1188
お蔦は病気で気も弱って、
「遠慮しましょうかね、」と柔順おとなしく膝の上へ大事に置く。
「ほんとうに、お蔦さんは羨うらやましいわねえ。」
1189
とさも羨しそうに小芳が云うと、お妙はフト打仰向いて、目を大きくして何か考えるようだったが、もう一つの袂から緋天鵝絨ひびろうどの小さな蝦蟇口がまぐちを可愛らしく引出して、
「小母さん、これを上げましょう。怒っちゃ可厭よ。沢山たんとあると可いけれど、大おおきな銀貨五十銭が三個みッつだけだわ。
1190
先せんの紙入の時は、お紙幣さつが……そうねえ……あの、四円ばかりあったのに、この間落してねえ。」
1191
と驚いたような顔をして、
「どうしようかと思ったの。だからちっとばかしだけれど、小母さん怒らないで取っといて下さいな。」
1192
小芳が吃驚びっくりしたらしい顔を、お蔦は振上げた目で屹きっと見て、
「ああ、先生のお嬢さん。……とも……かくも……頂戴おしよ、姉さん、」
「お礼を申上げます。」
1193
と作法正しく、手を支ついたが、柳の髪の品の佳よさ。頭つむりも得え上げず、声が曇って、
「どうぞ、此金これで、苦界くがいが抜けられますように。」
1194
その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく発奮はずんだ調子で、
「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」
「主税さんが好な色よ。」
1195
と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。
「姉さん、」
1196
と、お蔦は俯向うつむいた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼う染そむるまでその半襟を咽喉のどに当てて、頤おとがい深く熟じっと圧おさえた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。
「私が死んだら、姉さん、経帷子きょうかたびらも何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」
1197
と云う下から、桔梗ききょうを走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。
「ええ、お前さん、そんな、まあ、拗すねたような事をお言いでない。お嬢さんのお志、私、私なんざ、今頂いた御祝儀を資本もとでにして、銀行を建てるんです。そして借金を返してね、綺麗に芸者を止すんだよ。」
1198
と串戯じょうだんらしく言いながら、果敢はかないお蔦の姿につけ、情なさけにもろく崩折くずおれつつ、お妙を中に面おもてを背けて、紛らす煙草の煙も無かった。
1199
小芳の心中、ともかくも、お蔦の頼み少ない風情は、お妙にも見て取られて、睫毛まつげを幽かすかに振わしつつ、
「お医者には懸っているの。」
「いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくに診みて貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。」
1200
と、はじめて煙草盆から一服吸って、小芳はお妙の声を聞くのを、楽しそうに待つ顔色かおつき。
お取膳
二十四
1201
その時お妙の言ことばというのが、余り案外であったのから、小芳は慌あわただしく銀の小さな吸口を払はたいて煙管きせるを棄てたのである。
「お医者もお薬も、私だって大嫌いだわ。」
1202
と至って真面目まじめで、
「まずいものを内服のませて、そしてお菓子を食べては悪いの、林檎を食べては不可いけないの、と種々いろんなことを云うんですもの。
1203
そんな事よりねえ、面白いことをしてお遊びなさいよ。」
1204
小芳がまあ。と云う体で呆れると、お蔦は寂しそうな笑えみを見せて、
「お嬢さん、その貴嬢あなた、面白いことが無いんですもの、」と勢せいのない呼吸いきをする。
「主税さんに逢えば可いでしょう。」
「え、」
「貴女、逢いたいでしょう。」
1205
二人が黙って瞻みまもっても、お妙は目まじろぎもしないで、
「私だって逢いたくってよ。静岡へ行ってから、全く一年になるんですもの、随分だと思うわ、手紙も寄越さないんですもの。私は、あんまりだと思ってよ。
1206
絵のお清書をする時、硯すずりを洗ってくれて、そしてその晩別れたのは、ちょうど今月じゃありませんか。その時の杜若かきつばたなんざ、もう私、嬰児あかんぼが描いたように思うんですよ。随分しばらくなんですもの、私だって逢いたいわ。」
1207
と見る見る瞳にうるみを持ったが、活々した顔は撓たわまず、声も凜々りんりんと冴えた。
「それですから、貴女も逢いたかろうと思ってねえ。実は私相談に来たの。もっと早くから、来よう、来ようと思ったんだけれど、極きまりが悪いしねえ、それに私見たようなものには逢って下さらないでしょうと思って、学校の帰りに幾度いくたびも九段まで来て止したの。
1208
それでも、あの、築地から来るお友達に、この辺の事を聞いて置いて、九段から、電車に乗るのは分ったの。だけどもねえ、一度万世橋めがねで降りてしまって、来られなくなった事があるのよ。
1209
そのお友達と一所に来ると、新富座の処まで教えて上げましょうッて云うんだけれど、学校でまた何か言われると悪いから、今日も同一おなじ電車に乗らないように、招魂社の中にしばらく居たら、男の書生さんが傍そばへ来て附着くッついて歩行あるくんですもの。私、斬られるかと思って可恐こわかったわ、ねえ、お臀しりの肉みが薬になると云うんでしょう、ですもの、危いわ。
1210
もう一生懸命にここへ来て、まあ、可よかった、と思ってよ。
1211
あのね、あの、」
1212
と蓐とこの綴糸とじいとを引張って、
「貴女も主税さんも、父さんに叱られてそれでこうしているんだって、可哀相だわ。私なら黙っちゃいないわ、我儘わがままを云ってやるわ。だって、自分だって、母様かあさんが不可いけないと云うお酒を飲んで仕様が無いんですもの。自分も悪いのよ。
1213
貴女叱られたら、おあやまんなさいよ。そしてね、父さんはね、私や母様の云う事は、それは、憎らしくってよ、ちっとも肯きかないけれど、人が来て頼むとねえ、何でも厭だ。とは言わないで、一々引受けるの。私ちゃんと伝授を知っているから、それを知らせて上げたいの、貴女が御病気で来られないんなら、小母さん、」
1214
と隔てなく、小芳の膝に手を置いて、
「小母さんでも可ようござんす。構わないで家うちへいらっしゃいよ。玄関の書生さんは婦おんなのお客様をじろじろ見るから極きまりが悪かったら遠慮は無いわ、ずんずん庭の方からいらっしゃい。
1215
私がね、直ぐに二階へ連れてって、上げるわ。そうするとねえ、母様がお酒を出すでしょう。私がお酌をして酔わせてよ。アハアハ笑って、ブンと響くような大おおきな声を出したら、そしたらもう可いわ。
1216
是非、主税さんを呼んで下さい。電報で――電報と云って頂戴、可くって。不可いけないとか何とか、父さんがそう云ったら、膝をつかまえて離さないの。そして、お蔦さんが寂さみしがって、こんなに煩らっていらっしゃると云って御覧なさい。あんなに可恐こわらしくっても、あわれな話だと直じきに泣くんですもの、きっと承知するわ。
1217
そのかわり、主税さんが帰って来たら、日曜に遊びに行ゆくから、そうしたらば、あの……」
1218
と蓐とこの端につかまって、お蔦の顔を覗くようにして、
「貴女も、私を可厭いやがらないで、一所に遊んで頂戴よ。前ぜんに飯田町に行きたくっても、貴女が隠れるから、どんなに遠慮だったか知れないわ。」
1219
もう二人とも泣いていたが、お蔦は、はッと面おもてを伏せた。
二十五
1220
涙を払って、お蔦が、
「姉さん、私は浮世に未練が出た。また生命いのちが惜おしくなったよ。皆さんに心配を懸けないで、今日からお医師いしゃにも懸りましょう、薬も服のむよ。
1221
お嬢さん、もう早瀬さんには逢えなくっても、貴女がお達者でいらっしゃいます内は、死にたくはなくなりました。」
1222
と身をせめて、わなわな震える。
「寒気がするのねえ、さあ、お寝なさいよ、私が掛けて上げましょう。」
1223
掻巻かいまきの襟へ惜気もなく、お妙が袖も手も入れて引くのを見て、
「ああ、勿体ない。そんなになすっては不可いけません。皆みんながそうじゃないって言いますけれど、私は色のついた痰たんを吐きますから、大切なお身体からだに、もしか、感染うつりでもするとなりません。」
1224
覚悟した顔の色の、颯さっと桃色なが心細い。
「可いいわ!」
「可いわではござんせん。あれ、そして寒気なんぞしませんよ。もう私は熱くって汗が出るようなんです、それから、姉さん、」
1225
と小芳を見て、
「何ぞ……」
1226
と云うと、黙って頷うなずく。
「来たらね、こんな処でなく、あっちへ行って、お前さん、お嬢さんと。」
「今日は私に任かせておくれ。」
「いいえ、」
「不可いけないよ、私がするんだよ。」
「お嬢さん、ああですもの。見舞に来て、ちょっと、病人を苛いじめるものがあって、」
「無理ばっかり云う人だよ、私に理由わけがあるんだから。」
「理由は私にだって有りますよ。あの、過般いつかもお前さんに話したろう。早瀬さんと分れて、こうなる時、煙草を買え、とおっしゃって、先生の下すった、それはね、折目のつかない十円紙幣さつが三枚。勿体ないから、死んだらお葬式とむらいに使って欲しくって、お仏壇の抽斗ひきだしへ紙に包んでしまってある、それを今日使いたいのよ。お嬢さんに差上げて、そして私も食べたいから、」
1227
とただ言うのさえ病人だけ、遺言のように果敢はかなく聞えた。
「ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。」
「戸外おもては暑かろうねえ。」
「何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも洋傘こうもりをさすものか。」
「角の小間物屋で電話をお借りよ。」
「ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処が好よかろうねえ。」
「私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、」
「ここで皆みんな一所に食べるんでなくっちゃ、厭。」
「お相伴しますとも、お取膳とやらで、」
1228
と小芳が嬉しそうに云う。
「じゃ、私も大きいの。」
「感心、」
1229
とお蔦が莞爾にっこり。
「驚きましたねえ。」
1230
と立つ。
「御飯も一所よ。」
「あいよ、」
1231
と框かまちを下りる時、褄つまを取りそうにして、振向いた目のふちが腫はれぼったく、小芳は胸を抱いて、格子をがらがら。
「お嬢さん、」
1232
とお蔦が懐しそうに、
「もともと、そういう約束で別れたんですけれど、私の方へも丸一年……ちっとも便たよりがないんですよ。
1233
人が教えてくれましてね、新聞を見ると、すっかり土地の様子が知れるッて言いますから、去年の七月から静岡の民友新聞と云うのを取りましてね、朝起きると直ぐ覗のぞいて、もう見落しはしなかろうか、と隙ひまさえあれば、広告まで読みますんですが、ちっとも早瀬さんの事を書いてあったことはありませんから、どうしておいでだか分りません。
1234
この頃じゃ落胆がっかりして、勢せいも張合も無いんですけれども、もしやにひかされては見ています。
1235
たった一度、早瀬さんのことを書いてあったのがござんしてね、切抜いて紙入の中へ入れてありますから、今、お目に掛けますよ。」
二十六
1236
お蔦は蓐しとねに居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が褄つまの萎なえた、かよわい状さまは、物語にでもあるような。直ぐにその裳もすそから、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。
1237
紙入の中は、しばらく指の尖さきで掻探さねばならなかったほど、可哀相に大切だいじに蔵しまって、小さく、整然きちんと畳んで、浜町の清正公せいしょうこうの出世開運のお札と一所にしてあった、その新聞の切抜を出す、とお妙は早や隔心へだてごころも無く、十年の馴染のように、横ざまに蓐とこに凭もたれながら、頸うなじを伸のばして、待構えて、
「ちょいと、どんなことが書いてあって。また掏賊すりを助けたりなんか、不可いけないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。」
「いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。」
「拝見な。」
1238
と寝転ぶようにして、頬杖ほおづえついて、畳の上で読むのを見ながら、抜きかけた、仏壇の抽斗ひきだしを覗くと、そこに仰向けにしてある主税の写真を密そっと見て、ほろりとしながら、カタリと閉めた。懐中ふところへ、その酒井先生恩賜の紙幣さつの紙包を取って、仏壇の中に落ちた線香立ての灰を、フッフッと吹いて、手で撫でる。
1239
戸外おもてを金魚売が通った。
「何でしょう。この小使は、また可訝おかしなものじゃないの、」
1240
とお妙が顔を赤うして云う。新聞に書いたのはABアアベエ横町。と云う標題みだしで、西の草深のはずれ、浅間に寄った、もう郡部になろうとするとある小路を、近頃渾名あだなしてAB横町と称となえる。すでに阿部郡ごおりであるのだから語呂が合い過ぎるけれども、これは独語学者早瀬主税氏が、ここに私塾を開いて、朝からその声の絶間のない処から、学生が戯たわむれにしか名づけたのが、一般に拡まって、豆腐屋までがAB横町と呼んで、土地の名物である。名物と云えば、も一ツその早瀬塾の若いもので、これが煮焼にたき、拭掃除、万端世話をするのであるが、通例なら学僕と云う処、粋いなせな兄哥あにいで、鼻唄を唱うたえばと云っても学問をするのでない。以前早瀬氏が東京で或ある学校に講師だった、そこで知己ちかづきの小使が、便って来たものだそうだが、俳優やくしゃの声色が上手で落語も行やる。時々いらっしゃい、と怒鳴って、下足に札を通して通学生を驚かす、とんだ愛敬もので、小使さん、小使さんと、有名な島山夫人をはじめ、近頃流行のようになって、独逸語をその横町に学ぶ貴婦人連が、大分御贔屓ごひいきである、と云う雑報の意味であった。
1241
小芳が、おお暑い、と云いつつ、いそいそと帰って来た。
1242
話にその小使の事も交って、何であろうと三人が風説うわさとりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。
1243
小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦も勢いきおいに連れて蹌踉よろよろ起きて出て、自慢の番茶の焙ほうじ加減で、三人睦くお取膳。
1244
お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛はけを持って、颯さっとお化粧つくりを直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭ふいて一歯入れる。
1245
苦労人くろうとが二人がかりで、妙子は品のいい処へ粋になって、またあるまじき美麗あでやかさを、飽かず視ながめて、小芳が幾度いくたびも恍惚うっとり気抜けのするようなのを、ああ、先生に瓜二つ、御尤ごもっともな次第だけれども、余り手放しで口惜くやしいから、あとでいじめてやろう、とお蔦が思い設けたが、……ああ、さりとては……
1246
いずれ両親には内証ないしょなんだから、とおいしかってよ。を見得もなく門口でまで云って、遅くならない内、お妙は八ツ下りに帰った。路地の角まで見送って、ややあって引返ひっかえした小芳が、ばたばたと駈込んで、半狂乱に、ひしと、お蔦に縋すがりついて、
「我慢が出来ない。我慢が出来ない。我慢が出来ない。あんな可愛いお嬢さんにお育てなすったお手柄は、真砂町の夫人おくさんだけれど、産う……産んだのは私だよ。私の子だよ、お蔦さん、身体からだへ袖が触る度たんびに、胸がうずいてならなんだ、御覧よ、乳のはったこと。」
1247
と、手を引入れて引緊ひきしめて、わっとばかりに声を立てると、思わず熟じっと抱き合って、
「あれ、しっかりおし、小芳さん、癪しゃくが起ると不可いけないよ。私たちは何の因果で、」
1248
芸者なんぞになったとて、色も諸分しょわけも知抜いた、いずれ名取の婦おんなども、処女むすめのように泣いたのである。
小待合
二十七
「こうこう、姉あねえ、姉え、目を開あいて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸前めえの肴屋さかなやだって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。お客だぜ。お客様だぜ。おい、お前めえの方で惣菜は要らなくっても、己おらが方で座敷が要るんだ。何を! 座敷が無え、古風な事を言うな、芸者の霜枯じゃあるめえし。」
1249
と盤台はんだいをどさりと横づけに、澄まして天秤てんびんを立てかける。微酔ほろえいのめ[#「め」に傍点]組の惣助。商売あきないの帰途かえりにまたぐれた――これだから女房が、内には鉄瓶さえ置かないのである。
1250
立迎えた小待合の女中は、坐りもやらず中腰でうろうろして、
「全くおあいにくなんですよ。」
1251
と入口を塞いだ前へ、平気で、ずんと腰を下ろして、
「見ねえ、身もんでえをする度たんびに、どんぶりが鳴らあ。腹の虫が泣くんじゃねえ、金子かねの音だ。びくびくするねえ。お望みとありゃ、千両束で足の埃ほこりを払はたいて通るぜ。」
1252
とあげ膝で、ボコポン靴をずぶりと脱いで、装塩もりじおのこなたへボカン。
1253
声が高いのでもう一人、奥からばたばたと女中が出て来て、推重おっかさなると、力を得たらしく以前の女中が、
「ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。」
「看板を下ろせ、」
1254
と喚わめいて、
「座敷がなくば押入へ案内しねえ、天井だって用は足りらい。やあ、御新規お一人様あ、」
1255
と尻上りに云って、外道面げどうづらの口を尖らす、相好塩吹の面のごとし。
「そっちの姉あねえは話せそうだな。うんや、やっぱりお座敷ござなく面づらだ。変な面だな。はははは、トおっしゃる方が、あんまり変でもねえ面でもねえ。」
1256
行詰った鼻の下へ、握拳にぎりこぶしを捻込ねじこむように引擦ひっこすって、
「憚はばかんながらこう見えても、余所行よそゆきの情婦いろがあるぜ。待合まちええへ来て見繕いで拵こしれえるような、べらぼうな長生ながいきをするもんかい。
1257
おう、八丁堀のめ[#「め」に傍点]の字が来たが、の、の、承知か、承知か、と電話を掛けねえ。柳橋の小芳さん許とこだ。柏屋かしわやの綱次つなじと云う美しいのが、忽然こつぜんとして顕あらわれらあ。
1258
どうだ、驚いたか。銀行の頭取が肴屋に化けて来たのよ。いよ、御趣向!」
1259
と変な手つき、にゅうと女中の鼻頭はなさきへ突出して、
「それとも半纏着はんてんぎは看板に障るから上げねえ、とでも吐ぬかして見ろ。河岸から鯨を背負しょって来て、汝てめえン許とこで泳がせるぞ、浜町界隈かいわい洪水だ。地震より恐怖おっかねえ、屋体骨やていぼねは浮上るぜ。」
1260
女中二人が目配せして、
「ともかくお上んなさいまし、」
「どうにか致しますから。」
「何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、気障きざな事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引[#「引」は小書き]。」
1261
と黄声きなこえを発して、どさり、と廊下の壁に打附ぶつかりながら、
「どこだ、どこだ、さあ、持って来い、座敷を。」
1262
で、突立って大手を拡げる。
「どうぞこちらへ、」
1263
と廊下で別れて、一人が折曲おりまがって二階へ上る後から、どしどし乱入。とある六畳へのめずり込むと、蒲団も待たず、半股引はんももひきの薄汚れたので大胡坐おおあぐら。
「御酒ごしゅをあがりますか。」
「何升お燗かんをしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃ追おッつく[#「追つく」は底本では「追っく」と誤記]めえ。」
1264
女中が苦笑いして立とうとすると、長々と手を伸ばして、据眼すえまなこで首を振って、チョ、舌鼓を打って、
「待ちな待ちな。大夫たゆう前芸と仕つかまつって、一ツ滝の水を走らせる、」
1265
とふいと立って、
「鷲尾の三郎案内致せ。鵯越ひよどりごえの逆落しと遣れ。裏階子うらばしごから便所だ、便所だ。」
1266
どっかの夜講で聞いたそうな。
二十八
1267
手水ちょうず鉢の処へめ[#「め」に傍点]組はのっそり。里心のついた振られ客のような腰附で、中庭越に下座敷をきょろきょろと[#「きょろきょろと」は底本では「きよろきょろと」と誤記]※みまわしたが、どこへ何んと見当附けたか、案内も待たず、元の二階へも戻らないで、とある一室ひとまへのっそりと入って、襖際ふすまぎわへ、どさりとまた胡坐あぐらになる。
1268
女中が慌あわただしく駈込んで、
「まあ、どこへいらっしゃるんですか。」
1269
と、たしなめるように云うと、
「ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。」
「困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。」
「構わねえ、一向構わねえ。」
「こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。」
「可いいじゃねえか、お互たげえだ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の葬礼ともれいに立つとってよ、町内が質屋で打附ぶつかったようなものだ。一ツ穴の狐だい。己おらあまた、猫のさかるような高い処は厭だからよ。勘当された息子じゃねえが、二階で寝ると魘うなされらあ。身分相当割床と遣るんだ。棟割むなわりに住んでるから、壁隣の賑にぎやかなのが頼もしいや。」
「不可いけませんよ、そんなことをお言いなすっちゃ、選好えりこのんでこのお座敷へいらっしゃらないだって、幾らでも空いてるじゃありませんか。」
「空いてる! こう、たった今座敷はねえ、おあいにくだと云ったじゃねえか。気障きざは言わねえ、気障な事は云わねえから、黙って早く燗つけて来ねえよ。」
1270
いいがかりに止むを得ず、厭な顔して、
「じゃ、御酒を上るだけになすって下さいよ、お肴さかなは?」
「肴は己おらが盤台にあら。竹の皮に包んでな、斑鮭ぶちじゃけの鎌ン処とこがあるから、そいつを焼いて持って来ねえ。蔦ちゃんが好すきだったんだが、この節じゃ何にも食わねえや、折角残して帰けえっても今日も食うめえ。」
1271
と独言ひとりごとになって、ぐったりして、
「媽々かかあに遣るんじゃ張合はりええが無え。焼いて来ねえ、焼いて来ねえ。」
1272
女中は、気違かと危あやぶんで、怪訝けげんな顔をしたが、試みに、
「そして綱次さんを掛けるんですか。」
「うんや、今度はこっちがおあいにくだ。ちっとも馴染なじみでも情婦いろでもねえ。口説きように因っちゃ出来ねえ事もあるめえと思うのよ。もっとも惚れてるにゃ惚れてるんだ。待ちねえ、隣の室へやで口説いてら、しかも二人がかりだ。」
「ちょっと、」
1273
と留めて姉さんは興さめ顔。
「こっちは一人だ、今に来たら、お前めえも手伝って口説いてくんねえ。何だ、何だ、と聞く耳立てて純潔な愛だ。けつのあいたあ何だい。」
1274
と、襖ふすまにどしんと顔つらを当てて、
「蟻の戸渡とわたりでいやあがらあ、べらぼうめ。」
「やかましい!」
1275
隣の室へやから堪りかねたか叱咤しったした。
「地声だ!」
「あれ、」
1276
と女中が留めようとする手も届かず、ばたりめ[#「め」に傍点]組が襖を開けると、いつの間に用意をしたか、取って捨てた手拭の中から腹掛を出た出刃庖丁。
「この毛唐人めら、汝うぬ、どうするか見やあがれ。」
1277
あッと云って、真前まっさきに縁へ遁にげた洋服は――河野英吉。続いて駈出そうとする照陽女学校の教頭、宮畑閑耕みやばたかんこうの胸むなづくし、釦ぼたんが引ひっちぎれて辷すべった手で、背後うしろから抱込んだ。
「そ、そこに泣いていらっしゃるなア大先生の嬢様でがしょう。飯田町の路地で拝んで、一度だが忘れねえ。此奴等こいつらがこの地獄宿へ引張込んだのを見懸けたから、ちびりちびり遣りながら、痴こけの色ばなしを冷かしといて、ゆっくり撲なぐろうと思ったが、勿体なくッて我慢ならねえ。酒井さんのお嬢さん、私わっしがこうやっている処を、ここへ来て、こン唐人打挫ぶっくじいておやんなせえ、お打ぶちなせえ、お打ちなせえ。
1278
どうしてまたこんな処へ。……何、八丁堀へおいでなすって。ええ、お帰んなさる電車で逢ったら、一人で遠歩きが怪しいから、教師の役目で検しらべるッて、……沙汰の限りだ。
1279
むむ、此奴等、活かして置くんじゃねえけれど、娑婆の違った獣けだものだ、盆に来て礼を云え。」
1280
と突飛ばすと、閑耕の匐のめった身体からだが、縁側で、はあはあ夢中になって体操のような手つきでいた英吉に倒れかかって、脚が搦からんで漾ただよう処へ、チャブ台の鉢を取って、ばらり天窓あたまから豆を浴びせた。惣助呵々からからと笑って、大音に、
「鬼は外、鬼は外――」
道 子
二十九
1281
夫の所好このみで白粉おしろいは濃いが、色は淡い。淡しとて、容色きりょうの劣る意味ではない。秋の花は春のと違って、艶えんを競い、美を誇る心が無いから、日向ひなたより蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があって、あわれが深く、趣が浅いのである。
1282
河野病院長医学士の内室、河野家の総領娘、道子の俤おもかげはそれであった。
1283
どの姉妹きょうだいも活々して、派手に花やかで、日の光に輝いている中に、独り慎ましやかで、しとやかで、露を待ち、月にあこがるる、芙蓉ふようは丈のびても物寂しく、さした紅も、偏ひとえに身躾みだしなみらしく、装った衣きぬも、鈴虫の宿らしい。
1284
いつも引籠勝ひっこもりがちで、色も香も夫ばかりが慰むのであったが、今日は寺町の若竹座で、某なにがし孤児院に寄附の演劇があって、それに附属して、市の貴婦人連が、張出しの天幕テントを臨時の運動場にしつらえて、慈善市バザアを開く。謂いうまでもなく草深の妹は先陣承りの飛将軍。そこでこの会のほとんど参謀長とも謂いつつべき本宅の大切な母親が、あいにく病気で、さしたる事ではないが、推おしてそういう場所へ出て、気配り心扱いをするのは、甚だ予後のために宜よろしからず、と医家だけに深く注意した処から、自分で進んだ次第ではなく、道子が出席することになった。――六月下旬の事なりけり。
1285
朝涼あさすずの内に支度が出来て、そよそよと風が渡る、袖がひたひたと腕かいなに靡なびいて、引緊ひきしまった白の衣紋着えもんつき。車を彩る青葉の緑、鼈甲べっこうの中指なかざしに影が透く艶やかな円髷まるまげで、誰にも似ない瓜核顔うりざねがお、気高く颯さっと乗出した処は、きりりとして、しかも優しく、媚なまめかず温柔おっとりして、河野一族第一の品。
1286
嗜たしなみも気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向おおだなむきの御新姐ごしんぞらしい。はたそれ途中一土手田畝道たんぼみちへかかって、青田越ごしに富士の山に対した景色は、慈善市バザアへ出掛ける貴女レディとよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。
1287
車は病院所在地の横田の方から、この田畝を越して、城の裏通りを走ったが、突つっかけ若竹座へは行くのでなく、やがて西草深へ挽込ひきこんで、楫棒かじぼうは島山の門の、例の石橋の際に着く。
1288
姉夫人は、余り馴れない会場へ一人で行くのが頼りないので、菅子を誘いに来たのであったが、静かな内へ通って見ると、妹は影も見えず、小児こども達も、乳母ばあやも書生も居ないで、長火鉢の前に主人あるじの理学士がただ一人、下宿屋に居て寝坊をした時のように詰らなそうな顔をして、膳に向って新聞を読んでいた。火鉢に味噌汁の鍋なべが掛かかって、まだそれが煮立たぬから、こうして待っているのである。
1289
気軽なら一番ひとつ威おどかしても見よう処、姉夫人は少し腰を屈かがめて、縁から差覗いた、眉の柔やわらかな笑顔を、綺麗に、小さく畳んだ手巾ハンケチで半ば隠しながら、
「お一人。」
「やあ、誰かと思った。」
1290
と髯ひげのべったりした口許くちもとに笑わらいは見せたが、御承知の為人ひととなりで、どうとも謂いわぬ。
1291
姉夫人は、やっぱり半分なかば隠れたまま、
「滝ちゃんや、透とおるさんは。」
「母様かあさんが出掛けるんで、跡を追うですから、乳母ばあやが連れて、日曜だから山田玄関の書生の名もついて遊びです。平時いつもだと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆か麩ふを食わしとるですかな。」
「ではもう菅子さんは参りましたね。」
「先刻さっき出たです。」
1292
なぜ待っててくれないのだろう、と云う顔色かおつきもしないで、
「ああ、もっと早く来れば可ようござんした。一所に行って欲しかったし、それに四五日お来みえなさらないから、滝ちゃんや透さんの顔も見たくって、」
1293
と優しく云って本意ほいなそう。一門の中うちに、この人ばかり、一人いちにんも小児を持たぬ。
三十
1294
姉夫人の、その本意無げな様子を見て、理学士は、ああ、気の毒だと思うと、この人物だけにいっそ口重になって、言訳もしなければ慰めもせずに、希代にニヤリとして黙ってしまう。
1295
と直ぐ出掛けようか、どうしようと、気抜のした姿うら寂さみしく、姉夫人も言ことばなく、手を掛けていた柱を背せなに向直って、黒塀越に、雲切れがしたように合歓ねむの散った、日曜の朝の青田を見遣った時、ぶつぶつ騒しい鍋の音。
1296
と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が蓋ふたを取った、がよっぽど腹おなかが空いたと見えて、
「失礼します。」と碗を手にする。
「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」
1297
と肉色の絽ろの長襦袢ながじゅばんで、絽縮緬ちりめんの褄つま摺する音ない、するすると長火鉢の前へ行って、科しなよく覗のぞいて見て、
「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」
1298
と銅壺どうこの湯を注さして、杓文字しゃもじで一つ軽く圧おさえて、
「お装つけ申しましょう、」と艶麗あでやかに云う。
「恐縮ですな。」
1299
と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶つやも溢こぼさず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形さやがた小紋の紋着もんつきで、味噌汁おつけを装よそう白々しろしろとした手を、感に堪えて見ていたが、
「玉手を労しますな、」
1300
と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、
「御馳走とチュウと吸ってこれは旨うまい。」
「人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。」
1301
その挨拶もせずに、理学士は箸はしもつけないで、ごッくごッく。
「非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、干杓ひしゃくに二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる禁厭まじないですかね。」
「はい、お禁厭でございます。」
1302
と云った目のふちに、蕾つぼみのような微笑ほほえみを含んでいたから。
「は、は、は、串戯じょうだんでしょう。」
「菅子さんに聞いて御覧なさいまし。」
「そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。」
「は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は名代みょうだいも兼ねておりますから、疾はやく参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに叱言こごとを言われると不可いけません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。」
「うんえ、」
1303
頬ばった飯に籠って、変な声。
「道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬の許とこへお出でなさい、あすこに居ましょうで。」
「しますと、あの方も御一所なんですか。」
「一所じゃないです。早瀬がああいう依怙地いこじもんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の義捐ぎえんなんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌を弄ろうしておるでしょう、は、はは、」
1304
と調子高に笑って、厭いやな顔をして、
「行って見て下さらんか。貴女、」
「はい、」
1305
となぜか俯向うつむいたが、姉夫人はそのまましとやかに別れの会釈。
「また逢違いになりませんように、それでは御飯を召食めしあがりかけた処を、失礼ですが、」
「いや、もう済んだです。」
1306
その日は珍らしく理学士が玄関まで送って出た。
1307
絹足袋の、静しずかな畳ざわりには、客の来たのを心着かなかった鞠子の婢おさんも、旦那様の踏みしだいて出る跫音あしおとに、ひょっこり台所だいどこから顔を見せる。
「今日は、」
1308
と少し打傾いて、姉夫人が、物優しく声をかける。
「ひゃあ、」と打魂消うったまげて棒立ちになったは、出入ではいりをする、貴婦人の、自分にこんな様子をしてくれるのは、ついぞ有った験ためしが無いので。
1309
車夫が門外から飛込んで来て駒下駄を直す。
「AB横町でしたかね。あすこへ廻りますから、」
「へい、へい、ペロペロの先生の。」と心得たるものである。
三十一
1310
早瀬は、妹が連れて父の住居すまいへも来れば病院へも二三度来て知っているが、新聞にまで書いた、塾の小使と云う壮佼わかいものはどんなであろう。男世帯だと云うし、他に人は居ないそうであるから、取次にはきっとその小使が出るに違いない、と籠勝こもりがちな道子は面白いものを見もし聞ききもしするような、物珍らしい、楽しみな、時めくような心持ここちもして、早や大巌山が幌ほろに近い、西草深のはずれの町、前途さきは直ぐに阿部の安東村になる――近来ちかごろ評判のAB横町へ入ると、前庭に古びた黒塀を廻めぐらした、平屋の行詰った、それでも一軒立ちの門構もんがまえ、低く傾いたのに、独語教授、と看板だけ新しい。
1311
車を待たせて、立附けの悪い門をあければ、女の足でも五歩いつあしは無い、直じき正面の格子戸から物静かに音ずれたが、あの調子なれば、話声は早や聞えそうなもの、と思う妹の声も響かず、可訝おかしな顔をして出て来ようと思ったその小使でもなしに、車夫のいわゆるぺろぺろの先生、早瀬主税、左の袖口の綻ほころびた広袖どてらのような絣かすりの単衣ひとえでひょいと出て、顔を見ると、これは、とばかり笑み迎えて、さあ、こちらへ、と云うのが、座敷へ引返ひっかえす途中になるまで、気疾きばやに引込んでしまったので、左右とこうの暇いとまも無く、姉夫人は鶴が山路に蹈迷ふみまよったような形で、机だの、卓子テイブルだの、算を乱した中を拾って通った。
1312
菅子さんは、と先ず問うと、まだ見えぬ。が、いずれお立寄りに相違ない。今にも威勢の可い駒下駄の音が聞えましょう。格子がからりと鳴ると、立処たちどころにこの部屋へお姿が露あらわれますからお休みなさりながらお待ちなさい、と机の傍わきに坐り込んで、煙草たばこを喫のもうとして、打棄うっちゃって、フイと立って蒲団を持出すやら、開放あけはなしましょう、と障子を押開おっぴらいたかと思うと、こっちの庭がもうちっとあると宜よろしいのですが、と云うやら。散らかっておりまして、と床の間の新聞を投ほうり出すやら。火鉢を押出して突附けるかとすれば、何だ、熱いのに、と急いでまた摺ずらすやら。なぜか見苦しいほど慌あわただしげで、蜘蛛くもの囲すをかけるように煩うるさく夫人の居まわりを立ちつ居つ。間には口を続けて、よくいらっしゃいました、ようこそおいで、思いがけない、不思議な御方が、不思議だ、不思議だ、と絶たえず饒舌しゃべったのである。
「まあ、まあ、どうぞ、どうぞ、」
1313
とその中うちに落着いた夫人もつい、口早になって、顔を振上げながら、ちと胸を反そらして、片手で煙を払うような振ふりをした。
1314
早瀬はその時、机の前の我が座を離れて、夫人の背後うしろに突立つったっていたので、上下うえしたに顔を見合わせた。余り騒がれたためか、内気な夫人の顔かんばせは、瞼まぶたに色を染めたのである。
1315
と、早瀬は人間が変ったほど、落着いて座に返って、徐おもむろに巻莨まきたばこを取って、まだ吸いつけないで、ぴたりと片手を膝に支ついた、肩が聳そびえた。
「夫人おくさん、貴女はこれから慈善市じぜんしへいらしって、貧者びんぼうにんのためにお働きなさるんですねえ。」
1316
と沈んで云う。
1317
顔を見詰められたので、睫毛まつげを伏せて、
「はい、ですが私はただお手伝いでございます。」
「お願いがございます。」
1318
と匐のめるがごとく、主税がはたと両手を支いた。
1319
余り意外な事の体に、答うる術すべなく、黙って流眄ながしめに見ていたが、果しなく頭こうべも擡もたげず、突いた手に畳を掴つかんだ憂慮きづかわしさに、棄ても置かれぬ気になって、
「貴下、まあ、更あらたまって何でございますの。」
1320
とは云ったが、思入った人の体に、気味悪くもなって、遁腰にげごしの膝を浮かせる。
「失礼な事を云うようですが、今日の催もよおしはじめ、貴女方のなさいます慈善は、博くまんべんなく情なさけをお懸けになりますので、旱ひでりに雨を降らせると同様の手段。萎なえしぼんだ草樹も、その恵めぐみに依って、蘇生いきかえるのでありますが、しかしそれは、広大無辺な自然の力でなくっては出来ない事で、人間業わざじゃ、なかなか焼石へ如露じょろで振懸けるぐらいに過ぎますまい。」
三十二
「広く行渉ゆきわたるばかりを望んで、途中で群消むらぎえになるような情を掛けずに、その恵の露を湛たたえて、ただ一つのものの根に灌そそいで、名もない草の一葉だけも、蒼々あおあおと活かして頂きたい。
1321
大勢寄ってなさる仕事を、貴女方、各々めいめい御一人宛ずつで、専門に、完全に、一人にんを救って下さるわけには参りませんか。力が余れば二人です、三人です、五人ですな。余所よその子供の世話を焼く隙ひまに、自分の児こに風邪を感ひかせないように、外国の奴隷に同情をする心で、御自分お使いになる女中を勦いたわってやって欲しいんですが、これじゃ大掴おおづかみのお話です、何もそれをかれこれ申上げるわけではないのです。
1322
ところが、差当り、今目の前に、貴女の一雫ひとしずくの涙を頂かないと、死んでも死に切れない、あわれな者があるんです。
1323
この事に就きましては、私わたくしは夜の目も合わないほど心を苦めまして。」
1324
とようよう少し落着いて、
「前ぜんから、貴女の御憐愍ごれんみんを願おうと思っていたんですけれど、島山さんのと違って、貴女には軽々かろがろしくお目に懸かかる事も出来ませんし、そうかと云って、打棄うっちゃって置けば、取返しのなりません一大事、どうしようかと存じておりました処へ、実まことに何とも思いがけない、不思議な御光来おいでで、殊にそれが慈善会にいらっしゃる途中などは、神仏の引合わせと申しても宜しいのです。
1325
どうぞ、その、遍あまねく御施しになろうという如露の水を一雫、一滴で可ようございます、私わたくしの方へお配分すそわけなすってくださるわけには参りませんか。
1326
御存じの風来者でありますけれども、早瀬が一生の恩に被きます。」
1327
と拳こぶしを握り緊しめて云うのを、半ば驚き、半ば呆れ、且つ恐れて聞いていたようだった。重かった夫人の眉が、ここに至ると微笑ほほえみに開けて、深切に、しかし躾たしなめるような優しい調子で、
「お金子かねが御入用なんでございますか。」
1328
と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、直すぐにも帯の間へ辷すべって、懐紙ふところがみの間から華奢きゃしゃな嚢物ふくろものの動作こなしである。道子はしばしば妹の口から風説うわさされて、その暮向くらしむきを知っていた。
1329
ト早瀬の声に力が入って、
「金子かねにも何にも、私わたくしが、自分の事ではありません。」
「まあ、失礼な事を云って、」
1330
と襟を合わせて面おもてを染め、
「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」
「ええ、勿論、救って頂きたい者は他ほかにあるんです。」
「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野医学士が、喧やかましゅうございますから。」
1331
……差俯向さしうつむいて物寂しゅう、
「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」
「いや、貴女でなくては不可いかんのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、翌日あすも待たないという容体なんです。
1332
六十近い老人で、孫子はもとより、親類みよりらしい者もない、全然まるっきりやもめで、実際形影相弔うというその影も、破蒲団やぶれぶとんの中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、褥摺とこずれに摺切れているじゃありませんか。
1333
日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、夫人おくさんの顔が見たいと云います。」
「ええ、」
「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、言ことばをお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗まっくらな地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の端はの月の光とも思って、一生の思出に、莞爾にっこりしたいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人おくさん、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」
1334
と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、
「どこの、どんな人でございますの。」
「直じきこの安東あんとう村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁べっとうをしたもので、……夫人おくさん、貴女の、実の……御父上おとうさん……」
三十三
「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の御父上おとうさん、英臣ひでおみさんが、御出征中、貴女の母様おっかさんが御宅の馬丁貞造と……」
1335
早瀬はちょっと言ことばを切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に飜然ひらりと一葉、半紙に書いた女文字。その玉章たまずさの中には、恐ろしい毒薬が塗籠ぬりこんででもあったように、真蒼まっさおになって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、頤おとがい深く差入れた、俤おもかげを屹きっと視て、
「……などと云う言ことばだけも、貴女方のお耳へ入れられる筈はずのものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げる暇いとまもありません。
1336
で、そのために貴女がおできなすったんで、まだお腹はらにいらっしゃる間には、貴女の母様おっかさんが水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃安八あはちの者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行ってお在いでなすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。
1337
馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄を食はんだ旧藩の御馬廻の忰せがれで、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の奥様おくさんと出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ惚気のろけを云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、児こをなくすという恐おそろしい相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所に遁にげておくんなさい。お肯入ききいれ無く、思切った業わざをなさりゃ、表向きに坐込む、と変った言種いいぐさをしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが凱旋がいせんでしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日が経たって、貴女は九月児ここのつきごでお在いでなさる。
1338
が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、河野さんは、お家が医者だから。……そうでないと、大抵九月児は育たんものだと申します。また旧弊な連中れんじゅうは、戦争で人が多く死んだから、生れるのが早い、と云ったそうです。
1339
名誉に、とお思いなすったか、それとも最初はじめての御出産で、お喜びの余りか、英臣さんは現に貴女の御父上おとうさんだ。
1340
貞造は、無事に健かに産れた児の顔を一目見ると、安心をして、貴女の七夜の御祝いに酔ったのがお残懐なごりで、お暇を頂いて、お邸を出たんです。
1341
朝晩お顔を見ていちゃ、またどんな不了簡ふりょうけんが起るまいものでもない、という遠慮と、それに肺病の出る身体からだ、若い内から僂麻質リョウマチスがあったそうで。旁々かたがたお邸を出るとなると、力業ちからわざは出来ず、そうかと云って、その時分はまだ達者だった、阿母おふくろを一人養わなければならないもんですから、奥さんが手切てぎれなり心着こころづけなり下すった幾干いくらかの金子かねを資本もとでにして、初めは浅間の額堂裏へ、大弓場を出したそうです。
1342
幸い商売が的に当って、どうにか食って行かれる見込みのついた処で、女房を持ったんですがね。いや、罰ばちは覿面てきめんだ。境内へ多時しばらくかかっていた、見世物師と密通くッついて、有金を攫さらって遁にげたんです。しかも貴女、女房が孕はらんでいたと云うじゃありませんか。」
「まあ、」
1343
と、夫人は我知らず嘆息した。
「忌々しい、とそこで大弓の株を売って、今度は安東村の空地を安く借りて、馬場を拵こさえて、貸馬を行やったんですな。
1344
貴女、それこそ乳母おんば日傘で、お浅間へ参詣にいらしった帰り途、円い竹の埒らちに掴つかまって、御覧なすった事もありましょう。道々お摘みなすった鼓草たんぽぽなんぞ、馬に投げてやったりなさいましたのを、貞造が知っています。
1345
阿母おふくろが死んだあとで、段々馬場も寂れて、一斉いっときに二頭ひき斃死おちた馬を売って、自暴やけ酒を飲んだのが、もう飲仕舞で。米も買えなくなる、粥かゆも薄くなる。やっと馬小屋へ根太を打附ぶッつけたので雨露を凌しのいで、今もそこに居るんですが、馬場のあとは紺屋の物干になったんです。……」
三十四
「私わたくしは不思議な縁で、去年静岡へ参って……しかもその翌日でした。島山さんのと、浅間を通った時、茶店へ休んで、その貞造に逢ったんです。それからこういう秘密な事を打明けられるまで、懇意になって、唯今の処じゃ、是非貴女のお耳へ入れなくってはなりませんほど、老人危篤きとくなのでございます。
1346
私でさえ、これは一番ひとつ貴女に願って、逢ってやって頂きたいと思いましたから、今迄幾度いくたびか病人に勧めても見ましたけれども、いやいや、何にも御存じない貴女に、こういう事をお聞かせ申すのは、足を取って地獄へ引落すようなもの。あとじゃ月も日も、貴女のお目には暗くなろう。お最惜いとしい、と貞造が頭かぶりを掉ふります。
1347
道理もっともだと控えました。もっとも私も及ばずながら医師いしゃの世話もしたんです、薬も飲ませました。名高い医学士でお在いでなさるから一ツ河野さんの病院へ入院してはどうか、余所よそながらお道さんのお顔を見られようから、と云いましたが、もっての外だ、と肯ききません。
1348
清い者です。
1349
人の悪い奴で御覧なさい、対手あいてが貴女の母様おっかさんで、そのお手紙が一通ありゃ、貞造は一生涯朝から刺身で飲めるんですぜ。
1350
またちっとでも強情ねだりがましい了見があったり、一銭たりとも御心配を掛かけるような考かんがえがあるんなら、私は誓って口は利かんのです。
1351
そうじゃない! ただ一目拝みたいと云う、それさえ我慢をし抜いた、それもです……老人自分じゃ、まだ治らないとは思っていなかったからなので。煎じて飲むのがまだるッこし、薬鍋の世話をするものも無いから、薬だと云う芭蕉の葉を、青いまんまで噛かじったと言います――
1352
その元気だから、どうかこうか薬が利いて、一度なんざ、私と一所に安倍川へ行って餅を食べて茶を喫のんで帰った事もあったんですが、それがいいめ[#「いいめ」に傍点]を見せたんで、先頃からまたどッと褥とこに着いて、今は断念あきらめた処から、貴女を見たい、一目逢いたいと、現うつつに言うようになったんです。
1353
容態が容態ですから、どうぞ息のある内にと心配をしていたんですが、人に相談の出来る事じゃなし、御宅へ参ってお話をしようにも、こりゃ貴女と対向さしむかいでなくっては出来ますまい。
1354
失礼だけれども、御主人の医学士は、非常に貴女を愛していらっしゃるために、恐ろしく嫉妬深い、と島山さんのに、聞きました。
1355
ほとんど当惑していた処へ、今日のおいでは実に不思議と云っても可い。一言父よ。とおっしゃって、とそれまでも望むんじゃないのです。弥陀みだの白光びゃっこうとも思って、貴女を一目と、云うのですから、逢ってさえ下されば、それこそ、あの、屋中うちじゅう真黒まっくろに下った煤すすも、藤の花に咲かわって、その紫の雲の中に、貴女のお顔を見る嬉しさはどんなでしょう。
1356
そうなれば、不幸極まる、あわれな、情ない老人が、かえって百万人の中に一人も得られない幸福なものとなって、明かに端麗な天人を見ることを得て、極楽往生を遂げるんです、――夫人おくさん。」
1357
と云った主税の声が、夫人の肩から総身へ浸渡るようであった。
「貞造は、貴女の実うみの父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。」
「は……い。」
「会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜も更ふけると申しますから、人目を紛らすのに仔細しさいありません。得難い機会です。私わたくしがお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。」
1358
と片手に燐寸マッチを持ったと思うと、片手が衝つと伸びて猶予ためらわず夫人の膝から、古手紙を、ト引取って、
「一度お話した上は、たとい貴女が御不承知でも、もうこんなものは、」
1359
と※ぱっと火を摺すると、ひらひらと燃え上って、蒼くなって消えた。が、靡なびきかかる煙の中に、夫人の顔がちらちらと動いて、何となく、誘われて膝も揺ら揺ら。
1360
居坐いずまいを直して、更あらたまって、
「お連れ下さいまし、どうぞ。」
1361
がらがらと格子の開く音。それ、言わぬことか。早や座に見えた菅子の姿。眩まばゆいばかりの装いで、坐りもやらず、
「まあ、姉さん!」
私 語さゞめごと
三十五
「もう遅いわ、姉さん、早くいらっしゃらないでは、何をしているの、」
1362
と菅子は立ったままで急込せきこんで云う。戸外おもての暑さか、駈込んだせいか、赫かっと逆上のぼせた顔の色。
1363
胸打騒げる姉夫人、道子がかえって物静かに、
「先刻さっきから待っていたんですよ。」
「待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、」
「何ですねえ、邪険な、和女あなたを待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。」
「私は用があるわ。」
「寄道をするんですか。」
「じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。」
1364
とまだ坐りもせぬ。
1365
主税は腕組をしながら、
「はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。」
「承わって参りましょうか。」
1366
と姉夫人が立ちかけた膝をまた据えて、何となく残惜そうな風が見えると、
「早くいらっしゃらなくっちゃ……私は可いいけれども、姉さん、貴女は兄さん医学士がやかましいんだもの、面倒よ。」
1367
と見下みおろす顔を、斜めに振仰いだ、蒼白あおじろい姉の顔に、血が上のぼって、屹きっとなったが、寂しく笑って、
「ああ、そうね、私は前さきに参りましょう。会場の様子は分らないけれど、別にまごつくような事はありますまいから。」
1368
とおとなしく云って、端然きちんと会釈して、
「お邪魔をいたしましてございます。」とちょいと早瀬の目を見たが――双方で瞬きした。
「まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。」
「いいえ、そうしてはおられません、もっと、」
1369
と声に力が籠って、
「種々いろいろお話を伺いとう存じますけれども……」
「私も、直じきだわ。」
「待っていますよ。」
1370
と優しい物越、悄々しおしおと出る後姿。主税は玄関へ見送って、身を蔽おおいにして、密そっとその袂たもとの端を圧おさえた。
「さようなら!」
1371
勢いきおいよく引返すと、早や門の外を轣轆れきろくとして車が行く。
「暑い、暑い、どうも大変に暑いのね。」
1372
菅子はもうそこに、袖を軽く坐っていたが、露の汗の悩ましげに、朱鷺とき色縮緬の上〆うわじめの端を寛ゆるめた、辺あたりは昼顔の盛りのようで、明あかるい部屋に白々地あからさまな、衣きぬばかりが冷すずしい蔭。
「久振だわね。」
「久振じゃないじゃありませんか。今の言種いいぐさは何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、傍そばで聞いていられやしない。」
「だって事実だもの。病院に入切はいりきりで居ながら、いつの何時なんどきには、姉さんが誰と話をしたッて事、不残のこらず旦那様御存じなの、もう思召おぼしめしったらないんですからね。
1373
それでも大事にして置かないと、院長は家中うちじゅうの稼ぎ人で、すっかり経済を引受けてるんだわ。お庇様かげさまで一番末の妹の九ツになるのさえ、早や、ちゃんと嫁入支度が出来てるのよ。
1374
道楽一ツするんじゃなし、ただ、姉さんを楽たのしみにして働いているんですからね。ちっとでも怒らしちゃ大変なのだから、貴下も気をつけて下さらなくっちゃ困るわ。」
「何を云ってるんです、面白くもない。」
「今の様子ッたら何です、厭いやに御懇ごねんごろね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。」
「可い加減になさい。串戯じょうだんも、」
「だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と対向さしむかいで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。」
「まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。」
三十六
1375
しめやかな声で、夫人が――
「貴下……どうするのよ。」
「…………」
「私がこれほど願っても、まだ妙子さんを兄さん英吉には許してくれないの。今までにもどんなに頼んだか知れないのに、それじゃ貴下、あんまりじゃありませんか。
1376
去年から口説くどき通しなんだわ。貴下がはじめて、静岡こちらへ来て、私と知己ちかづきになったというのを聞いて、精一杯御待遇おもてなしをなさい。ッて東京から母さんが手紙でそう云って寄越したのも、酒井さんとの縁談を、貴下に調えて頂きたければこそだもの。
1377
母さんだって、どのくらい心配しているか知れないんだわ。今まで、ついぞ有った験ためしは無い。こちらから結婚を申込んで刎はねられるなんて、そんな事――河野家の不名誉よ、恥辱ッたらありませんものね。
1378
兄さんも、どんなにか妙子さんを好いていると見えて、一体が遊蕩あそび過ぎる処へ、今度の事じゃ失望して、自棄やけ気味らしいのよ、遣り方が。自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」
1379
と一際低声こごえで、
「ちょいと、いかな事こッても小待合へなんぞ倒込むんですって。監督おめつけの叔父さんから内々注意があるもんだから、もう疾とっくに兄さんへは家うちでお金子かねを送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。
1380
この頃じゃ北町桐楊塾へも寄り着かないんですって。
1381
だってどこに転がっていたって、皆みんなお金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百と纏まとまったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。
1382
妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。……
1383
もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、遊蕩あそびも駄々で可よかったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さが堪たまらないんだもの。
1384
病院の義兄にいさんは養子だし、大勢の兄弟中なかに、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それは家うちでもほんとうに困るのよ。
1385
早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思って肯きいて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」
「ですから、ですから。」
1386
と圧おさえるように口を入れて、
「決けして厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」
1387
事もなげに打笑って、
「それじゃ反対あべこべだった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」
「そのかわりまた、あの安東村の紺屋の隣家となりの乞食小屋で結婚式を挙げろッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地いこじに、さもしいお米の価ねを気にするようなことを言うんだろう。
1388
ほんとうに串戯じょうだんではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい[#「御覧なさい」は底本では「御覧さない」と誤記]、痩やせたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山理学士を見ると、もうね、身体からだが萎すくむような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。
1389
跪ひざまずいて、夫の足に接吻キッスをする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。
1390
ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」
1391
机に凭もたれて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、屹きっと居直って、
「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に欲ほしいと言うんですか。」
「まあ……そうよ。」
「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」
三十七
「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」
「貴女が水臭い事を言うからさ。」
「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜よる内を出るわけには行ゆかず、お稽古に来たって、大勢入込いれごみなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。
1392
過日いつか何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙かわずの声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯しごきか何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇やみか、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯じょうだん云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵こしらえさせたんだわ。
1393
頭痛がしてならないから、十畳の真中まんなかへ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」
「演劇しばいのようだ。」
1394
と低声こごえで笑うと、
「理想実行よ。」と笑顔で言う。
「どうして渡るんです。」
「まさか橋をかける言種いいぐさは、貴下、無いもの。」
「だから、渡られますまい。」
「合歓の樹の枝は低くってよ。掴つかまって、お渡んなさいなね。」
「河童かっぱじゃあるまいし、」
「ほほほほ、」
1395
と今度は夫人の方が笑い出したが。
「なにしろ、貴下は不実よ。」
「何が不実です。」
「どうかして下さいな。」
1396
――更あらたまって――
「妙子さんを。」
「ですから色仕掛けか、と云うんです。」
「あんな恐い顔をして、と莞爾にっこりして。ほんとうはね、私……自ら欺あざむいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲ぎせいにして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来ゆききをしているの。
1397
でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母ばあやにだって面おもてを見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然ぞっとしてよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠やせるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他ほかの人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多かるた会時分から、有りもしない事でもありそうに疑うたぐっているようなの。もしかしたら、貴下私の身体からだはどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、私がどうかして早瀬さんに承知させます。と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」
1398
言い言い、縋すがるように言う。
「詰らん言ことを。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」
「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」
「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わず拳こぶしを握ったのを、我を引緊ひきしめられたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、
「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」
「訳は無い、島山から離縁されて、」
「そんな事が、出来るもんですか。」
「出来ないもんですか。当前あたりまえだ、」
1399
と自若として言うと、呆れたように、また……莞爾にっこり、
「貴下はどうしてそうだろう。」
三十八
「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟を食くらわずとさえ云うんだ。貴女、」
1400
と主税は澄まして言い懸けたが、常ただならぬ夫人の目の色に口を噤つぐんだ。菅子は息急いきぜわしい胸を圧おさえるのか、乳ちの上へ手を置いて、
「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」
1401
と、ツンとする。
「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。
1402
それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分の許とこへ令夫人おくがたをお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。
1403
だから貴女もそうなさい。懊悩おうのうも煩悶はんもんも有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、大不埒だいふらちを働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」
1404
夫人はこれを戯たわむれのように聞いて、早瀬の言ことばを露も真まこととは思わぬ様子で、
「戯談じょうだんおっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」
1405
と皆まで言わせず、事も無げに答えた。
「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」
「暢気のんきで怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」
「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負しょい込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ堪こたえまさ。」
1406
余あまりの事と、夫人は凝じっと瞻みまもって、
「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」
「いざと云う時、貴女を棄てて逐電ちくてんでもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を極きめて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二まっぷたツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人おくさんが御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」
「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」
「また、一も二も無いんですから、」
「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」
「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。盗賊どろぼうは自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、放火つけび、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた当前あたりまえじゃありませんか。愚図々々ぐずぐず塗秘ぬりかくそうとするから、卑怯未練な、吝けちな、了見が起って、他ひとと不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ疾とくに――先生……には面おもては合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。
1407
それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の亀鑑きかんともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。
1408
浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」
「じゃ……私を、」
1409
と擦寄って、
「不埒と言わないばッかりね。」
1410
さすがに顔の色をかえて屹きっと睨にらむと、頷うなずいて、
「同時に私だって、」
1411
と笑って言う。
1412
その肩を突いて、
「まあ、仕ようの無い我儘わがままだよ。」
三十九
「貴下は始めからそうなんだわ。……
1413
道学者の坂田アバ大人さんが、兄さんの媒口なこうどぐちを利くのが癪しゃくに障るからって、攫徒すりの手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間に袂たもとへ入れて置いて逆捩さかねじを食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それで宜よろしくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の食詰者くいつめものです。とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」
1414
早瀬の胸のあたりに、背向うしろむきになって、投げ出した褄つまを、熟じっと見ながら、
「私、どうしたら、そんな乱暴な人を友だちにしたんだか。」
1415
と自から怪むがごとく独言ひとりごつと、
「不都合な方と知りながら、貴女と附合ってる私と同一おんなじでしょう。」
「だって私は、貴下のために悪いようにとした事は一つも無いのに、貴下の方じゃ、私の身の立たないように、立たないようにと言うじゃありませんか。早瀬さんへ行くのが悪いんなら、どうでもして下さい、御心まかせ。何のって、そんな事が、譬たとえにも島山に言われるもんですか。
1416
島山の方は、それで離縁になるとして、そうしたら、貴下、第一河野の家名はどうなると思うのよ。末代まで、汚点しみがついて、系図が汚けがれるじゃありませんか。」
「すでに云々うんぬんが有るんじゃありませんか。それを秘かくそうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。」
「そんな事を云って、なぜ、貴下は、」
1417
少し起返って、なお背向うしろむきに、
「貴下にちっとも悪意を持っていない、こうして名誉も何も一所に捧げているような、」
1418
と口惜くやしそうに、
「私を苦しめようとなさるんだろうねえ。」
「ちっとも苦しめやしませんよ。」
「それだって、乱暴な事を言ってさ、」
「貴女が困っているものを、何も好き好んで表向おもてむきにしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の身体からだはどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。」
1419
と言う顔を斜めに視て、
「ですから、そんな打破ぶちこわしをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気が易やすまって、良心の呵責かしゃくを免れることが出来ますッて云うのにね。肯ききますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げている婦おんなの願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。」
「名誉も何もとおっしゃるんだ。」
「ああ、そうよ。」と捩向ねじむいて清すずしく目を※みひらく。
「なぜその上、家も河野もと言わんのです。名誉を別にした家がありますか。家を別にした河野がありますか。貴女はじめ家門の名誉と云う気障きざな考えが有る内は、情合は分りません。そういうのが、夫より、実家さとの両親ふたおやが大事だったり、他ひとの娘の体格検査をしたりするのだ。お妙さんに指もささせるもんですか。
1420
お妙さんの相談をしようと云うんなら、先ず貴女から、名誉も家も打棄うっちゃって、誰なりとも好いた男と一所になるという実証をお挙げなさい。」
1421
と意気込んで激しく云うと、今度は夫人が、気の無い、疲れたような、倦うんじた調子で、
「そしてまた結婚式は、安東村の、あの、乞食小屋見たような茅屋あばらやで挙げろでしょう。貴下はまるッきり私たちと考えが反対あべこべだわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に仇あだする敵かたきだわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市バザアへ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」
1422
夫人と……別れたあとで、主税はカッと障子を開けて、しばらく天を仰いでいたが、
「ああ、今日はお妙さんの日だ。」と、呟つぶやいて仰向けに寝た――妙子の日とは――日曜を意味したのである。
宵 闇
四十
1423
同おなじ、日曜の夜よの事で。
1424
日が暮れると、早瀬は玄関へ出て、框かまちに腰を掛けて、土間の下駄を引掛けたなり、洋燈ランプを背後うしろに、片手を突いて長くなって一人でいた。よくぞ男に生れたる、と云う陽気でもなく、虫を聞く時節でもなく、家は古いが、壁から生えた芒すすきも無し、絵でないから、一筆描がきの月のあしらいも見えぬ。
1425
ト忌々いみいみしいと言えば忌々しい、上框あがりがまちに、灯ともしびを背中にして、あたかも門火かどびを焚いているような――その薄あかりが、格子戸を透すかして、軒で一度暗くなって、中が絶えて、それから、ぼやけた輪を取って、朦朧もうろうと、雨曝あまざれの木目の高い、門の扉とに映って、蝙蝠こうもりの影にもあらず、空を黒雲が行通うか何ぞのように、時々、むらむらと暗くなる……また明あかるくなる。
1426
目も放さず、早瀬がそれを凝じっと視ながめる内に、濁ったようなその灯影が、二三度ゆらゆらと動いて、やがて礫つぶてした波が、水の面おもに月輪を纏まとめた風情に、白やかな婦おんなの顔がそこを覗のぞいた。
1427
門の扉とが開あくでもなしに……続いて雪のような衣紋えもんが出て、それと映合うつりあってくッきりと黒い鬢びんが、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の鮮麗あざやかになったのは――道子であった。
1428
門に立忍んで、密そと扉を開けて、横から様子を伺ったものである。
1429
一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、ABアアベエ横町の左右を※みまわす趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。
「ようこそ、」と莞爾にっこりして云う。
1430
姉夫人は、口を、畳んだ手巾ハンケチで圧おさえたが、すッすッと息が忙せわしく、
「誰方どなたも……」
「誰も。」
「小使さんは?」
1431
ともう馴染んだか尋ね得た。
「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」
「何から何まで難有ありがとう存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」
1432
とその手巾が目に障る。
「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」
「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で憩やすむように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、好いい都合に、点燈頃あかりのつきごろの混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下あなた、片々蠣目かきめのようで、その可恐こわらしい目で、時々振返っては、あの、幌ほろの中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時しばらく立っておりましたの。」
「お心づかい、お察し申します。」
1433
と頭こうべを下げて、
「島山さんの、お菅さんには。」
「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」
「いいえ。」
「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。灯あかりの点つきます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に言ことばも交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」
「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可いけません。直ぐに、これから、」
「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」
「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」
1434
ふと心着いたように、
「お待ちなさいよ、夫人おくさん。」
四十一
1435
早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好く麗うるわしい姿を視ながめて、
「宵暗よいやみでも、貴女あなたのその態なりじゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女手巾ハンケチを。」
1436
と慌あわただしい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、背後うしろから夫人の肩を肩掛ショオルのように包むと、撫肩はいよいよ細って、身を萎すくめたがなお見好よげな。
1437
懐中ふところからまた手拭てぬぐいを出して、夫人に渡して、
「姉あねさん冠かぶりと云うのになさい、田舎者がするように。」
「どうせ田舎者なんですもの。」
1438
と打傾いて、髷まげにちょっと手を当てて、
「こうですか。」白地を被かぶって俯向うつむけば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余る鬢びんの馥かの、雪に梅花を伏せたよう。
1439
主税は横から右瞻左瞻とみこうみて、
「不可いけない、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を端折はしょって、そう、不可いかんな。長襦袢ながじゅばんが突丈ついたけじゃ、やっぱり清元の出語でがたりがありそうだ。」
1440
と口の裡うちに独言つぶやきつつ、
「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」
「厭いやでございますね。」
「御免なさいよ。」
1441
と言うが疾はやいか、早瀬の手は空を切って、体を踞しゃがんだと思うと、
「あれ、」
1442
かっとなって、ふらふらと頭つむり重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬の掌たなそこには逸早く壁の隅なる煤すすを掬すくって、これを夫人の脛はぎに塗って、穂にあらわれて蔽おおわれ果てぬ、尋常なその褄つまはずれを隠したのであった。
「もう、大丈夫、河野の令夫人おくがたとは見えやしない。」
1443
と、框の洋燈ランプを上から、フッ!
1444
留南奇とめきを便たよりに、身を寄せて、
「さあ、出掛けましょう。」
1445
胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。
1446
この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末の賤しずが家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方遥はるかに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、孤家ひとつやのそれと疑わるる。
1447
名門の女子深窓に養われて、傍かたわらに夫無くしては、濫みだりに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心の裡うち、蓋けだし察するに余あまりあり。
1448
我は不義者の児こなりと知り、父はしかも危篤きとくの病者。逢うが別れの今世こんじょうに、臨終いまわのなごりを惜おしむため、華燭かしょく銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、慈善市バザアの光を思うにつけても、横町の後暗さは冥土よみじにも増まさるのみか。裾端折り、頬被ほほかぶりして、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。辛からく乗切って行ゆく先は……実まことの親の死目である。道子が心はどんなであろう。
1449
大巌山の幻が、闇やみの気勢けはいに目を圧おさえて、用水の音凄すさまじく、地を揺ゆるごとく聞えた時、道子は俤おもかげさえ、衣きぬの色さえ、有るか無きかの声して、
「夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行あるきますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」
「しっかりと! 可いい塩梅あんばいに人通りもありませんから。」
1450
人は無くて、軒を走る、怪しき狗いぬが見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、燐火おにびとなって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。
四十二
1451
道子は声も※※さまようように、
「ここは野原でございますか。」
「なぜ、貴女?」
「真中まんなかに恐しい穴がございますよ。」
「ああ、それは道端の井戸なんです。」
1452
と透すかしながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、大おおいなる口のごとくに見えたのである。
1453
早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえって戦おののきに音高く、辿々たどたどしく四辺あたりに響いて、やがて真暗まっくらな軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱い婦ひとは、得え堪えず倒れたであろう、あたかもその頸うなじの上に、例の白黒斑まだらな狗いぬが踞うずくまっているのである。
1454
音訪おとなう間も無く、どたんと畳を蹴けて立つ音して、戸を開けるのと、ついその框かまちに真赤まっかな灯の、ほやの油煙に黒ずんだ小洋燈こランプの見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、細面ほそおもての壮佼わかもので、巾狭はばぜまな単衣ひとえに三尺帯を尻下り、粋いなせな奴やっこを誰とかする、すなわち塾の小使で、怪! 怪! 怪! アバ大人を掏損すりそこねた、万太まんたと云う攫徒すりである。
1455
はたと主税と面おもてを合わせて、
「兄哥あにい!」
「…………」
「不可いけねえぜ。」と仮色こわいろのように云った。
「何だ――馬鹿、お連がある。」
「やあ、先生、大変だ。」
「どう、大変。」
1456
衝つと入る。袂たもとに縋すがって、牲にえの鳥の乱れ姿や、羽掻はがいを傷いためた袖を悩んで、塒ねぐらのような戸を潜くぐると、跣足はだしで下りて、小使、カタリと後を鎖さし、
「病人が冷くなったい。」
「ええ、」
「今駈出そうてえ処でさ。」
「医者か。」
「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可いけねえッて、今しがた帰ったんで。私わっしあ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」
「そんな法はない。死ぬなんて、」
1457
と飛び込むと、坐ると同時いっしょで、ただ一室ひとまだからそこが褥しとねの、筵むしろのような枕許へ膝を落して、覗込のぞきこんだが、慌あわただしく居直って、三布蒲団みのぶとんを持上げて、骨の蒼あおいのがくッきり[#「くッきり」に傍点]見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当てて熟じっとしたが、
「奥さん、」
1458
と静しずかに呼ぶ。
1459
道子が、取ったばかりの手拭を、引摺ひきずるように膝にかけて、振ふりを繕う遑いとまもなく、押並んで跪ひざまずいた時、早瀬は退すさって向き直って、
「線香なんぞ買って――それから、種々いろいろ要るものを。」
「へい、宜ようがす。」
1460
ぼんやり戸口に立っていた小使は、その跣足はだしのまま飛んで出た。
1461
と見れば、貞造の死骸なきがらの、恩愛に曳ひかれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、幽かすかに唱名の声が漏れる。
「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」
1462
手洋燈を摺ずらして出したが、灯あかりが低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、破※子やぶれれんじの下に、汚れた飯櫃めしびつがあった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、霑うるみをもった目を見据え、現うつつの面おもてで受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になった蓋ふたを辷すべって、※呀あなやと云う間に、袖に俯向うつむいて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵が赫かっと赤くなった。
1463
この明あかりで、貞造の顔は、活きて眼まなこを開いたかと、蒼白あおざめた鼻も見えたが、松明たいまつのようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら引掴ひッつかんで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、
「大変だ、帯に、」と一声。余りの事に茫ぼうとなって、その時座を避けようとする、道子の帯の結目むすびめを、引断ひっきれよ、と引いたので、横ざまに倒れた裳もすその煽あおり、乳ちのあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、膚はだえの雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは黒白あやめも分かず。阿部街道を戻り馬が、遥はるかに、ヒイインと嘶いななく声。戸外おもてで、犬の吠ゆる声。
「可恐おッそろしい真暗ですね。」
1464
品々を整えて、道の暗さに、提灯ちょうちんを借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、※子に腰をかけて、吻ほっとして腕をさすっていた。――猛虎肉酔初醒時もうこにくにようてはじめてさむるとき。揩磨苛痒風助威かようをかいましてかぜいをたすく。
廊下づたい
四十三
1465
家の業でも、気の弱い婦おんなであるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なく行ゆかぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、遍あまねく見舞うのが勤めであった。
1466
その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ御気分はいかがですか、お大事になさいまし、と、だけだけれども、心優しき生来うまれつきの、自おのずから言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、と唸うなると云うが、まさかであろう。
1467
で――この事たるや、夫の医学士、名は理順りじゅんと云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても仔細しさいない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。
1468
ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、下階したの病室を済ました後、横田の田畝たんぼを左に見て、右に停車場ステイションを望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、雪洞ぼんぼりを手にした、白衣びゃくえの看護婦を従えて、真中まんなかに院長夫人。雲を開いたように階子段はしごだんを上へ、髪が見えて、肩、帯が露あらわれる。
1469
質素じみな浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬の夜よなぞは寝衣ねまきに着換えて、浅黄の扱帯しごきという事がある。そんな時は、寝白粉ねおしろいの香も薫る、それはた異香薫くんずるがごとく、患者は御来迎、と称となえて随喜渇仰。
1470
また実際、夫人がその風采とりなり、その容色きりょうで、看護婦を率いた状さまは、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶勝すぐれず、円髷まるまげも重そうに首垂うなだれて、胸をせめて袖を襲かさねた状は、慎ましげに床し、とよりは、悄然しょうぜんと細って、何か目に見えぬ縛いましめの八重の縄で、風に靡なびく弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。
1471
扉ドアを開放あけはなした室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白まっしろな月夜で、月の表には富士の白妙しろたえ、裏は紫、海ある気勢けはい。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。
1472
例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっと明あかくなって、ややあって、遥かに暗い裏階子うらばしごへ消える筈はずのが、今夜は廊下の真中まんなかを、ト一列になって、水彩色みずさいしきの燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ引返ひっかえして来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。
1473
順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……
1474
と見ると胡粉ごふんで書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。
1475
道子は間なかに立って、徐おもむろに左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の一団ひとかたまり。
1476
ずッと離れて廊下を戻る。
1477
道子は扉ドアに吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや背屈せかがみをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を差覗さしのぞくと、表階子の欄干てすりへ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人附着くッついて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。
四十四
1478
1479
寝台ねだいに沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。
1480
道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸を仄ほのかに、顔を暗く、寝台に添うて彳たたずんで、心しんを細めた洋燈ランプのあかりに、その灰のような面おもてを見たが、目は明かに開いていた。
1481
ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく睫毛まつげが震えたのである。
1482
ややあって、
「早瀬さん、私が分りますか。」
「…………」
「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」
1483
「お庇様かげさまで。」
1484
と確たしかに聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。
「酷ひどいお熱だったんでございますのねえ。」
「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、全まるッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の中旬なかばだそうで。」と瞑ねむったままで云う。
「宅では、東京の妹たちが、皆みんな暑中休暇で帰って参りました。」
1485
少し枕を動かして、
「英吉君も……ですか。」
「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃ家うちへ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。
1486
ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚を斜ななめに見て、
「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」
「見ました、先刻はじめて、」
1487
と調子が沈む。
「二通とも、」
「二通とも。」
「一通はただ直ぐ帰れ。ですが、二度目のには、ツタビョウキ蔦病気――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤ごきとくのように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」
「……病気が幸です。達者で居たって、どの面つらさげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」
「なぜ? 貴下、」
1488
と、熟じっと頤おとがいを据えて、俯向うつむいて顔を見ると、早瀬はわずかに目を開あいて、
「なぜとは?」
「…………」
「第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。」
1489
と云う呼吸いきづかいが荒くなって、毛布けっとを乗出した、薄い胸の、露あらわな骨が動いた時、道子の肩もわなわなして、真白な手の戦おののくのが、雪の乱るるようであった。
「安東村へおともをしたのは……夢ではないのでございますね。」
1490
早瀬は差置かれた胸の手に、圧おし殺されて、あたかも呼吸の留るがごとく、その苦くるしみを払わんとするように、痩細やせほそった手で握って、幾度いくたびも口を動かしつつ辛うじて答えた。
「夢ではありません、が、この世の事ではないのです。お、お道さん、毒を、毒を一思いに飲まして下さい。」
1491
と魚うおの渇けるがごとく悶もだゆる白歯に、傾く鬢びんからこぼるるよと見えて、衝つと一片ひとひらの花が触れた。
1492
颯さっとなった顔を背けて、
「夢でなければ……どうしましょう!」
1493
と道子は崩れたように膝を折って、寝台の端に額を隠した。窓の月は、キラリと笄こうがいの艶つやに光って、雪燈ぼんぼりは仄かに玉のごとき頸うなじを照らした。
1494
これより前さき、看護婦の姿が欄干から消えて、早瀬の病室の扉とが堅く鎖とざされると同時に、裏階子うらはしごの上へ、ふと顕あらわれた一人にんの婦おんながあって、堆うずたかい前髪にも隠れない、鋭い瞳は、屹きと長廊下を射るばかり。それが跫音あしおとを密ひそめて来て、隣の空室あきまへ忍んだことを、断って置かねばならぬ。こは道子等の母親である。
1495
――同一おなじ事が――同一事が……五晩六晩続いた。
四十五
1496
妙なことが有るもので、夜ごとに、道子が早瀬の病室を出る時間の後れるほど、人こそ替れ、二人ずつの看護婦の、階子段の欄干を離れるのが遅くなった。
1497
どうせそこに待っていて、一所に二階を下りるのではない――要するに、遠くから、早瀬の室を窺う間が長くなったのである、と言いかえれば言うのである。
1498
で、今夜もまた、早瀬の病室の前で、道子に別れた二人の白衣びゃくえが、多時しばらく宙にかかったようになって、欄干の処に居た。
1499
広庭を一つ隔てた母屋の方では、宵の口から、今度暑中休暇で帰省した、牛込桐楊塾の娘たちに、内の小児こども、甥おいだの、姪めいだのが一所になった処へ、また小児同志の客があり、草深の一家いっけも来、ヴァイオリンが聞える、洋琴オルガンが鳴る、唱歌を唄う――この人数にんずへ、もう一組。菅子の妹の辰子というのが、福井県の参事官へ去年こぞの秋縁着いてもう児こが出来た。その一組が当河野家へ来揃うと、この時だけは道子と共に、一族残らず、乳母小間使と子守を交ぜて、ざっと五十人ばかりの人数で、両親ふたおやがついて、かねてこれがために、清水港みなとに、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、興津おきつ、清見きよみ寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘の設もうけが有って、例年必ずそこへ避暑する。一門の栄華を見よ、と英臣大夫妻、得意の時で、昨年は英吉だけ欠けたが、……今年も怪しい。そのかわり、新しく福井県の顕官が加わるのである……
1500
さて母屋の方は、葉越に映る燈ともしびにも景気づいて、小さいのが弄もてあそぶ花火の音、松の梢こずえに富士より高く流星も上ったが、今は静しずかになった。
1501
壇の下から音もなく、形の白い脊の高いものが、ぬいと廊下へ出た、と思うと、看護婦二人は驚いて退すさった。
1502
来たのは院長、医学士河野理順である。
1503
ホワイト襯衣しゃつに、縞しまの粗あらい慢ゆるやかな筒服ずぼん、上靴を穿はいたが、ビイルを呷あおったらしい。充血した顔の、額に顱割はちわれのある、髯ひげの薄い人物で、ギラリと輝く黄金縁きんぶちの目金越に、看護婦等を睨ねめ着けながら、
「君たちは……」
1504
と云うた眼まなこが、目金越に血走った。
「道子に附いているんじゃないか。」
「は、」と一人にんが頭こうべを下げる。
「どうしたか。」
「は、早瀬さんの室を、お見舞になります時は、いつも私わたくしどもはお附き申しませんでございます。」と爽さわやかな声で答えた。
「なぜかい。」
「奥様がおっしゃいます。御本宅の英吉様の御朋友ですから、看護婦なぞを連れては豪えらそうに見えて、容体ぶるようで気恥かしいから、とおっしゃって、お連れなさいませんので、は……」と云う。
「いつもそうか。」
1505
と尋ねた時、衣兜かくしに両手を突込んで、肩を揺ゆすった。
「はい、いつでも、」
「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。
「あれ、主人あるじの跫音あしおとでございます。」
「院長ですか。」
1506
道子は色を変えて、
「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」
「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。
1507
目も尋常ただならず、おろおろして、
「両親も知りませんが、主人あるじは酷ひどい目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って立窘たちすくむと、
「寝台ねだいの下へお隠れなさい。可いいから、」
1508
とむっくと起きた、早瀬は毛布けっとを飜ひるがえして、夫人の裾を隠しながら、寝台に屹きっと身構えたトタンに、
「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が物凄ものすごく響いたのである。
1509
理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、忽然こつぜんとして、母夫人が立露たちあらわれて、扉ドアに手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッと圧おさえて……曰く、
「院長。」
1510
と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、
「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」
1511
燃ゆるがごとき嫉妬の腕かいなを、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて退のいた。――
蛍
四十六
「己おれが分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」
1512
酒井俊蔵ただ一人、臨終いまわのお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には……
「ああ、皆みんな居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、致方いたしかたが無い。断念あきらめなよ。」
1513
と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、
「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に縋着すがりついていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。
1514
己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。
1515
早瀬に過失あやまちをさすまいと思う己の目には、お前の影は彼奴あいつに魔が魅さしているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己は敵かたきだ。間なかをせい[#「せい」に傍点]たって処女きむすめじゃない。真まこと逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をし徹とおしたか。可哀相に。……今更卑怯な事は謂いわない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己を呪のろえよ!
1516
どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石に喰くいついても恢復なおって、生樹なまきを裂いた己へ面当つらあてに、早瀬と手を引いて復讐しかえしをして見せる元気は出せんか、意地は無いか。
1517
もう不可いけまいなあ。」
1518
と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、熟じっと見て、
「瘠やせたよ。一昨日おととい見た時よりまた半分になった。――これ、目を開あきなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。皆みんな居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。
1519
なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の情婦いろは持余しているんだ、世の中は面倒さな。
1520
あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが不便ふびんだから、剣突けんつくを喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つ擦さすって貰えないのは、お前たち何の因果だ。
1521
さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、昨夜ゆうべ髪を結いったそうだ。ああ、島田が好よく出来た、己が見たよ。」
1522
と云う時、次の室まで泣音なくねがした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その真先まっさきだったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。芸妓げいこ島田は名誉の婦おんなが、いかに、丹精をぬきんでたろう。
1523
上らぬ枕を取交えた、括蒲団くくりぶとんに一いちが沈んで、後毛おくれげの乱れさえ、一入ひとしおの可傷いたましさに、お蔦は薄化粧さえしているのである。
1524
お蔦は恥じてか、見て欲ほしかったか、肩を捻ひねって、髷まげを真向きに、毛筋も透通るような頸うなじを向けて、なだらかに掛けた小掻巻こがいまきの膝の辺あたりに、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。
四十七
「似合った、似合った、ああ、島田が佳よく出来た。早瀬なんかに分るものか。顔を見せな、さあ。」
1525
とじりりと膝を寄せて、その時、颯さっと薄桃色の瞼まぶたの霑うるんだ、冷たい顔が、夜の風に戦そよぐばかり、蓐しとねの隈くまに俤おもかげ立つのを、縁から明取あかりとりの月影に透かした酒井が、
「誰か来て蛍籠を外しな、厭いやな色だ。」
「へへい、」と頓興な、ぼやけた声を出して、め[#「め」に傍点]組が継つぎの当った千草色の半股引はんももひきで、縁側を膝立って来た――婦おんなたちは皆我を忘れて六畳に――中には抱合って泣いているのもあるので、惣助一人三畳の火鉢の傍わきに、割膝で畏かしこまって、歯を喰切くいしばった獅噛面しがみづらは、額に蝋燭ろうそくの流れぬばかり、絵にある燈台鬼という顔色がんしょく。時々病人の部屋が寂しんとするごとに、隣の女連の中へ、四ツ這ばいに顔を出して、
死んだか、と聞いて、女房のお増に流眄しりめにかけられ、
まだか、と問うて、また睨ねめつけられ、苦笑いをしては引込ひっこんで控えたのが――大先生の前なり、やがて仏になる人の枕許、謹しんで這って出て、ひょいと立上って蛍籠を外すと、居すくまった腰が据すわらず、ひょろり、で、ドンと縁へ尻餅。魂が砕けたように、胸へ乱れて、颯と光った、籠の蛍に、ハット思う処を、
「何ですね、お前さん、」
1526
と鼻声になっている女房かみさんに剣呑けんのみを食って、慌てて遁込にげこむ。
1527
この物音に、お蔦はまたぱっちりと目を※みひらいて、心細く、寂しげに、枕を酒井に擦寄せると……
「皆みんな居る、寂しくはないよ。しかしどうだい。早瀬が来たら、誰も次の室まへ行って貰って、こうやって、二人許りで、言いたいことがあるだろう。致方しかたが無い断念あきらめな。断念めて――己を早瀬だと思え。世界に二人と無い夫だと思え。早瀬より豪えらい男だ。学問も出来る、名も高い、腕も有る、あれよりは年も上だ。脊も高い、腹も確たしかだ、声も大おおきい、酒も強い、借金も多い、男振ぶりもあれより増ましだ。女房もあり、情婦いろもあり、娘も有る。地位も名誉も段違いの先生だ。酒井俊蔵を夫と思え、情夫いろおとこと思え、早瀬主税だと思って、言いたいことを言え、したいことをしろ、不足はあるまい。念仏も弥陀みだも何なんにも要らん、一心に男の名を称となえるんだ。早瀬と称えて袖に縋すがれ、胸を抱け、お蔦。……早瀬が来た、ここに居るよ。」
1528
と云うと、縋りついて、膝に乗るのを、横抱きに頸うなじを抱いた。
1529
トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を掴つかんで、
「咽喉のどが苦しい、ああ、呼吸いきが出来ない。素人らしいが、と莞爾にっこりして、口移しに薬を飲まして……」
1530
酒井は猶予ためらわず[#「猶予らわず」は底本では「猶了らわず」と誤記]、水薬を口に含んだのである。
1531
がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚うっとりしたが、
「早瀬さん。」
「お蔦。」
「早瀬さん……」
「むむ、」
「先せ、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」
1532
酒井は、はらはらと落涙した。
おとずれ
四十八
1533
病室の寝台ねだいに、うつらうつらしていた早瀬は、フト目が覚めたが……昨夜あたりから、歩行あるいて厠かわやへ行ゆかれるようになったので、もう看護婦も付いておらぬ。毎晩極きまったように見舞ってくれた道子が、一昨日おとといの夜よの……あの時から、ふッつり来ないし、一寝入りして覚めた今は、昼間、菅子に逢ったのも、世を隔てたようで心寂しい。室内を横伝い、まだ何か便り無さそうだから、寝台の縁に手をかけて、腰を曲げるようにして出たが、扉との外になると、もう自分でも足の確たしかなのが分って、両側のそちこちに、白い金盥かなだらいに昇汞水しょうこうすいの薄桃色なのが、飛々の柱燈はしらあかりに見えるのを、気の毒らしく思うほど、気も爽然さっぱりして、通り過ぎた。
1534
どこも寝入って、寂しんとして、この二三日[#「二三日」は底本では「三三日」と誤記]めっきり暑さが増したので、中には扉とを明けたまま、看護婦が廊下へ雪のような裙すそを出して、戸口に横よこたわって眠ったのもあった。遠くで犬の吠ゆる声はするが、幸いどの呻吟声うめきごえも聞えずに、更けてかれこれ二時であろう。
1535
厠は表階子おもてばしごの取附とッつきにもあって、そこは燈あかりも明あかるいが、風は佳よし、廊下は冷たし、歩行あるくのも物珍らしいので、早瀬はわざと、遠い方の、裏階子の横手の薄暗い中へ入った。
1536
ざぶり水を注かけながら、見るともなしに、小窓の格子から田圃たんぼを見ると、月は屋やの棟に上ったろう、影は見えぬが青田の白さ。
1537
風がそよそよと渡ると見れば、波のように葉末が分れて、田の水の透いたでもなく、ちらちらと光ったものがある。緩い、遅い、稲妻のように流れて、靄もやのかかった中に、土のひだが数えられる、大巌山の根を低く繞めぐって消えたのは、どこかの電燈が閃ひらめいて映ったようでもあるし、蛍が飛んだようにも思われる。
1538
手水ちょうずと、その景色にぶるぶると冷くなって、直ぐに開けて出ようとする。戸の外へ、何か来て立っていて、それがために重いような気がして、思わず猶予ためらって[#「猶予って」は底本では「猶了って」と誤記]、暗い中に、昼間被きかえた自分の浴衣の白いのを、視ながめて悚然ぞっとして咳せきをしたが、口の裡うちで音には出ぬ。
「早瀬さん。」
「お蔦か、」
1539
と言った自分の声に、聞えた声よりも驚かされて、耳を傾けるや否や、赫かっとなって我を忘れて、しゃにむに引開けようとした戸が、少しきしんで、ヒヤリと氷のような冷いものを手に掴んで、そのまま引開けると、裏階子が大おおきな穴のように真黒まっくろなばかりで、別に何にも無い。
1540
瓦を噛かむように棟近く、夜鴉よがらすが、かあ、と鳴いた。
1541
鳴きながら、伝うて飛ぶのを、※ぼうとして仰ぎながら、導かれるようにふらふらと出ると、声の止む時、壇階子の横を廊下に出ていた。
1542
と見ると打向い遥か斜めなる、渠かれが病室の、半開きにして来た扉との前に、ちらりと見えた婦おんなの姿。――出たのか、入ったのか、直ぐに消えた。
1543
ぱたぱたと、我ながら慌あわただしく跫音あしおと立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。
1544
バサリと音して、一握ひとにぎりの綿が舞うように、むくむくと渦うずまくばかり、枕許の棚をほとんど転ころがって飛ぶのは、大きな、色の白い蛾ひとりむしで。
1545
枕をかけて陰々とした、燈ともしびの間に、あたかも鞠まりのような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の天鵝絨びろうどに似た西洋花の大輪おおりんがあったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬嫌ぎらいが、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――水薬すいやくの瓶に、ばさばさと当るのを、熟じっと瞻みつめて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番明あかるかった燈ひが、アワヤ消えそうになっている。
1546
その時、蛾ひとりむしに向うごとく、衝つと踏込む途端に、
「私ですよう引[#「引」は小書き]」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、蛾ひとりむしがハタと落ちた。
1547
はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで握緊にぎりしめていた、左の拳こぶしに、細い尻尾のひらひらと動くのは、一尾ぴきの守宮やもりである。
1548
はっと開くと、雫しずくのように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の発奮はずみに、蹌踉よろけて、片膝を支ついたなり、口を開けて、垂々たらたらと濺そそぐと――水薬の色が光って、守宮の頭を擡もたげて睨にらむがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように真赤まっかになって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えて屹きっと視た。
四十九
1549
早瀬はその水薬すいやくの残余のこりを火影ほかげに透かして、透明な液体の中に、芥子粒けしつぶほどの泡の、風のごとくめぐる状さまに、莞爾にっこりして、
「面白い!」
1550
と、投げる様に言棄てたが、恐気おそれげも無く、一分時の前は炎のごとく真紅まっかに狂ったのが、早や紫色に変って、床に氷ついて、飜ひるがえった腹の青い守宮やもりを摘つまんで、ぶらりと提げて、鼻紙を取って、薬瓶と一所に、八重にくるくると巻いて包んで、枕許のその置戸棚の奥へ、着換の中へ突込んで、ついでにまだ、何かそこらを探したのは、落ちた蛾を拾おうとするらしかったが、それは影も無い。
1551
なお棚には、他に二つばかり処方の違った、今は用いぬ、同一おなじ薬瓶があった。その一個ひとつを取って、ハタと叩きつけると、床に粉々になるのを見向きもしないで、躍上るように勢込んで寝台ねだいに上って、むずと高胡坐たかあぐらを組んだと思うと、廊下の方を屹きっと見て、
「馬鹿な奴等! 誰だと思う。」
1552
と言うと斉ひとしく、仰向けに寝て、毛布けっとを胸へ。――鶏とりの声を聞きながら、大胆不敵な鼾いびきで、すやすやと寝たのである。
1553
暁かけて、院長が一度、河野の母親大夫人が一度、前後して、この病室を差覗さしのぞいて、人知れず……立去った。
1554
早瀬が目を覚ますと、受持の看護婦が、
「薬は召上りましたか。瓶が落ちて破われておりましたが。」
1555
と注意をしたのは言うまでもなかった。
1556
で、新あたらしい瓶がもう来ていたが、この分は平気で服した。
1557
その日燈あかりの点つくちと前に、早瀬は帯を緊直しめなおして、看護婦を呼んで、
「お世話になりました。お庇様かげさまでどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、種々いろいろ用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。」
「はあ、大先生に……申し上げましょう。」
「どうぞ。ああ、もし、もし、」
1558
と出掛けた白衣びゃくえの、腰の肥ふといのを呼留めて、
「御書見中ででもありましたら、御都合に因って、こちらから参りましても可ようございますと。」
1559
馴染んでいるから、黙って頷うなずいて室を出て、表階子の方へ跫音あしおとがして、それぎり忙しい夕暮の蝉の声。どこかの室で、新聞を朗読するのが聞えたが、ものの五分間経たったのではなかった。二階もまだ下り切るまいと思うのに、看護婦が、ばたばた忙せわしく引返して、発奮はずみに突込むように顔を出して、
「お客様ですよ。」
「島山さんの?」
1560
と言う、呼吸いきも引かず、早瀬は目を※みはって茫然とした。
1561
昨夜ゆうべの事の不思議より、今目前まのあたりの光景を、かえって夢かと思うよう、恍惚うっとりとなったも道理。
1562
看護婦の白衣にかさなって、紫の矢絣やがすりの、色の薄いが鮮麗あざやかに、朱緞子しゅどんすに銀と観世水のやや幅細な帯を胸高に、緋鹿子ひがのこの背負上しょいあげして、ほんのり桜色に上気しながら、こなたを見入ったのは、お妙である!
「まあ!……」
1563
ときょとんとして早瀬はひたと瞻みつめた。
「主税さん。」
1564
と、一年越、十年ととせも恋しく百年ももとせも可懐なつかしい声をかけて、看護婦の傍かたわらをすっと抜けて真直まっすぐに入ったが、
「もう快よくって?」
1565
と胸を斜めに、帯にさし込んだ塗骨の扇子おうぎも共に、差覗さしのぞくようにした。
「お嬢さん……」とまだ※ぼうとしている。
「しばらくね。」
1566
と前さきへ言われて、はじめて吃驚びっくりした顔をして、
「先生は?」
「宜しくッて、母さんも。」と、ちゃんと云う。
五十
1567
寝台ねだいと椅子との狭い間、目前めさきにその燃ゆるような帯が輝いているので、辷すべり下りようとする、それもならず。蒼空あおぞらの星を仰ぐがごとく、お妙の顔を見上げながら、
「どうして来たんです。誰と。貴女あなた。いつ。どの汽車で。」と、一呼吸ひといきに慌あわただしい。
「今日の正午おひるの汽車で、今来たわ。惣助ッて肴屋さかなやさんが一所なの。」
「ええ、め[#「め」に傍点]組がお供で。どうしてあれを御存じですね。」
「お蔦さんの事よ、」
1568
と言いかける、口の莟つぼみが動いたと思うと、睫毛まつげが濃くなって、ほろりとして、振返ると、まだそこに、看護婦が立っているので、慌てて袂たもとを取って、揉込もみこむように顔を隠すと、美しい眉のはずれから、振ふりが飜ひるがえって、朱鷺とき色の絽ろの長襦袢の袖が落ちる。
「今そんな事を聞いちゃ、厭いや!」
1569
と突慳貪つっけんどんなように云った。勿な、問いそそこに人あるに、涙得え堪えず、と言うのである。
1570
看護婦は心得て、
「では、あの、お言託ことづけは。」
「ちと後にして頂きましょう。お嬢さん、そして、お伴をしました、め[#「め」に傍点]組の奴は?」
「停車場ステイションで荷物を取って来るの。半日なら大丈夫だって、氷につけてね、貴下あなたの好すきなお魚を持って来たのよ。病院なら直じき分ります、早くいらっしゃいッて、車をそう云って、あの、私も早く来たかったから、先へ来たわ。皆みんな、そうやって思ってるのに、貴下あなたは酷ひどいわ。手紙も寄越さないんですもの。お蔦さん……」
1571
とまた声が曇って、黙って差俯向さしうつむいた主税を見て、
「あの、私ねえ、いろいろ沢山話があるわ。入院していらっしゃる、と云うから、どんなに悪いんだろうと思ったら、起きていられるのね。それだのに、まあ……お蔦さん……私……貴下に叱言こごとを言うこともあるけれど、大事な用があるから、それを済ましてから緩ゆっくりしましょうね。」
1572
と甘えるように直ぐ変って、さも親しげに、
「小刀ナイフはあって?」
1573
余り唐突だしぬけな問だったから、口も利けないで……また目を※みはる。
「では、さあ、私の元結もとゆいを切って頂戴。」
「元結もとゆいを? お嬢さんの。」
「ええ、私の髪の、」
1574
と、主税が後へずらないとその膝に乗ったろう、色気も無く、寝台ねだいの端に、後向きに薄いお太鼓の腰をかけると、緋鹿子がまた燃える。そのままお妙は俯向うつむいて、玉のごとき頸うなじを差伸べ、
「お切んなさいよ、さあ、早くよ。父上とうさんも知っていてよ、可いいんだわ。」
1575
と美しく流眄ながしめに見返った時、危なく手がふるえていた。小刀の尖さきが、夢のごとく、元結を弾はじくと、ゆらゆらと下った髪を、お妙が、はらりと掉ふったので、颯さっと流れた薄雲の乱るる中から、ふっと落ちた一握ひとにぎりの黒髪があって、主税の膝に掛ったのである。
1576
早瀬は氷を浴びたように悚然ぞっとした。
「お蔦さんに託ことづかったの。あの、記念かたみにね、貴下に上げて下さいッて、主税さん、」
1577
と向う状ざまに、椅子の凭かかりに俯伏うつぶせになると、抜いて持った簪かんざしの、花片が、リボンを打って激しく揺れて、
「もうその他ほかには逢えないのよ。」
1578
お蔦の記念の玉の緒は、右の手に燃ゆるがごとく、ひやひやと練衣ねりぎぬの氷れるごとき、筒井筒振分けて、丈にも余るお妙の髪に、左手ゆんでを密そっと掛けながら、今はなかなかに胴据どうすわって、主税は、もの言う声も確たしかに、
「亡くなったものの髪毛かみのけなんぞ。……
1579
飛んでも無い。先生が可いい、とおっしゃいましたか、奥様が可い、とおっしゃったんですかい。こんなものをお頭つむりへ入れて。御出世前の大事なお身体からだじゃありませんか。ああ、鶴亀々々、」
1580
と貴いものに触るように、静しずかにその緑の艶つやを撫でた。
「私、出世なんかしたかないわ。髪結さんにでも何にでもなってよ。」
1581
と勇ましく起直って、
「父さんがね、主税さん、病気が治ったら東京へお帰んなさいッて、そうして、あの、……お墓参をしましょうね。」
日 蝕
五十一
1582
日盛りの田畝道たんぼみちには、草の影も無く、人も見えぬ。村々では、朝から蔀しとみを下ろして、羽目を塞いだのさえ少くない。田舎は律義で、日蝕は日の煩いとて、その影には毒あり、光には魔あり、熱には病やまいありと言伝える。さらぬだにその年は九分九厘、ほとんど皆既蝕と云うのであった。
1583
早朝あさまだき日の出の色の、どんよりとしていたのが、そのまま冴えもせず、曇りもせず。鶏卵たまご色に濁りを帯びて、果し無き蒼空あおぞらにただ一つ。別に他に輝ける日輪があって、あたかもその雛形ひながたのごとく、灰色の野山の天に、寂寞として見えた――
1584
風は終日ひねもす無かった。蒸々むしむしと悪気の籠った暑さは、そこらの田舎屋を圧するようで、空気は大磐石に化したるごとく、嬰児みどりごの泣音なくねも沈み、鶏の羽はさえ羽叩くに懶ものうげで、庇間ひあわいにかけた階子はしごに留まって、熟じっと中空を仰ぐのさえ物ありそうな。透間に射さし入る日の光は、風に動かぬ粉にも似て、人々の袖に灰を置くよう、身動みじろぎにも払われず、物蔭にも消えず、細こまやかに濃く引包ひッつつまれたかの思おもいがして、手足も顔も同じ色の、蝋にも石にも固かたまるか、とばかり次第に息苦しい。
1585
白昼凝って、尽ことごとく太陽の黄なるを包む、混沌こんとんたる雲の凝固かたまりとならんず光景ありさま。万有あわや死せんとす、と忌わしき使者つかいの早打、しっきりなく走るは鴉からすで。黒き礫つぶてのごとく、灰色の天狗てんぐのごとく乱れ飛ぶ、とこれに驚かされたようになって、大波を打つのは海よ。その、山の根を畝うねり、岩に躍り、渚なぎさに飜かえって、沖を高く中空に動けるは、我ここに天地の間に充満みちみちたり、何物の怪しき影ぞ、円まどかなる太陽ひの光を蔽おおうやとて、大紅玉の悩める面おもてを、拭ぬぐい洗わんと、苛立ち、悶もだえ、憤れる状さまがあったが、日の午に近き頃ころおいには、まさにその力尽き、骨萎なえて、また如何いかんともするあたわざる風情して、この流動せる大偉人は、波を伏せ※しぶきを収めて、なよなよと拡げた蒼き綿のようになって、興津、江尻、清水をかけて、三保の岬、田子の浦、久能の浜に、音をも立てず倒れたのである。
1586
一分ぶたちまち欠け始めた、日の二時頃、何の落人おちゅうどか慌あわただしき車の音。一町ばかりを絶えず続いて、轟々ごろごろと田舎道を、清水港の方から久能山の方かたへ走らして通る、数八台。真前まっさきの車が河野大夫人富子で、次のが島山夫人菅子、続いたのが福井県参事官の新夫人辰子、これが三番目の妹で、その次に高島田に結ったのが、この夏さる工学士とまた縁談のある四番の操子みさこで、五ツ目の車が絹子と云う、三五の妙齢。六台目にお妙が居た。
1587
一所に東京へと云うのを……仔細しさいあって……早瀬が留めて、清水港の海水浴に誘ったのである。
1588
お妙の次を道子が乗った。ドン尻に、め[#「め」に傍点]組の惣助、婦おんなばかりの一群ひとむれには花籠に熊蜂めくが、此奴こいつ大切なお嬢の傍かたえを、決して離れる事ではない。
1589
これは蓋けだし一門の大統領、従五位勲三等河野英臣の発議に因て、景色の見物をかねて、久能山の頂で日蝕の観測をしようとする催もよおしで。この人達には花見にも月見にも変りはないが、驚いて差覗いた百姓だちの目には、天宮に蝕の変あって、天人たちが遁にげるのだと思ったろう。
1590
共に清水港の別荘に居る、各々めいめいの夫は、別に船をしつらえて、三保まわりに久能の浜へ漕こぎ寄せて、いずれもその愛人の帰途かえりを迎えて、夜釣をしながら海上を戻る計画。
1591
小児こどもたち、幼稚おさないのは、傅もり、乳母など、一群ひとむれに、今日は別荘に残った次第。すでに前にも言ったように、この発議は英臣で、真前まっさきに手を拍うって賛成したのは菅子で、余は異論なく喜んで同意したが、島山夫人は就中なかんずく得意であった。
1592
と云うのは、去年汽車の中で、主税が伊太利人に聞いたと云うのを、夫人から話し伝えて、まだ何等の風説の無い時、東京の新聞へ、この日の現象を細かに論じて載せたのは理学士であったから。その名たちまち天下に伝えて、静岡では今度の日蝕を、島山蝕――とさえ称となえたのである。
五十二
1593
田を行ゆく時、白鷺が驚いて立った。村を出る時、小店の庭の松葉牡丹まつばぼたんに、ちらちら一行の影がさした。聯つらなる車は、薄日なれば母衣ほろを払って、手に手にさしかざしたいろいろの日傘に、あたかも五彩の絹を中空に吹き靡なびかしたごとく、死したる風も颯さっと涼しく、美女たおやめたちの面おもてを払って、久能の麓ふもとへ乗附けたが、途中では人一人、行脚の僧にも逢わなかったのである。
1594
蝕あり、変あり、兵あり、乱みだれある、魔に囲まれた今日の、日の城の黒雲を穿うがった抜穴の岩に、足がかりを刻んだ様な、久能の石段の下へ着くと、茶店は皆ひしひしと真夜中のごとく戸を鎖とざして、蜻蛉とんぼうも飛ばず。白茶けた路ばかり、あかあかと月影を見るように、寂然ひっそりとしているのを見て、大夫人が、
「野蛮だね。」
1595
と嘲笑あざわらって、車夫に指揮さしずして、一軒店を開けさして、少時しばらく休んで、支度が出来ると、帰りは船だから車は不残のこらず帰す事にして、さて大おおいなる花束の糸を解いて、縦に石段に投げかけた七人の裾袂、ひらひらと扇子を使うのが、さながら蝶のひらめくに似て、め[#「め」に傍点]組を後押えで、あの、石段にかかった。
1596
が、河野の一族、頂へ上ったら、思いがけない人を見よう。
1597
これより前さき、相貌堂々として、何等か銅像の揺ゆるぐがごとく、頤おとがいに髯ひげ長き一個の紳士の、握にぎりに銀しろがねの色の燦爛さんらんたる、太く逞たくましき杖ステッキを支ついて、ナポレオン帽子の庇ひさし深く、額に暗き皺しわを刻み、満面に燃もゆるがごとき怒気を含んで、頂の方を仰ぎながら、靴音を沈めて、石段を攀よじて、松の梢こずえに隠れたのがあった。
1598
これなん、ここに正に、大夫人がなせるごとく、海を行く船の竜頭に在るべき、河野の統領英臣であったのである。
1599
英臣が、この石段を、もう一階で、東照宮の本殿になろうとする、一場の見霽みはらしに上り着いて、海面うなづらが、高くその骨組の丈夫な双の肩に懸かかった時、音に聞えた勘助井戸を左に、右に千仞せんじんの絶壁の、豆腐を削ったような谷に望んで、幹には浦の苫屋とまやを透すかし、枝には白き渚なぎさを掛け、緑に細波さざなみの葉を揃えた、物見の松をそれぞと見るや――松の許もとなる据置の腰掛に、長くなって、肱枕ひじまくらして、面おもてを半ば中折の帽子で隠して、羽織を畳んで、懐中ふところに入れて、枕した頭つむりの傍わきに、薬瓶かと思う、小さな包を置いて、悠々と休んでいた一個ひとりの青年を見た。
1600
と立向って、英臣が杖ステッキを前につき出した時、日を遮った帽子を払って、柔かに起直って、待構え顔に屹きと見迎えた。その青年を誰とかなす――病後の色白きが、清く瘠やせて、鶴のごとき早瀬主税。
1601
英臣は庇下ひさしさがりに、じろりと視ながめて、
「疾はやかった、のう」と鷹揚おうように一ツ頤あごでしゃくる。
「御苦労様です。」
1602
と、主税は仰ぐようにして云った。
「いや、ここで話しょうと云うたのは私わしじゃで、君の方が病後大儀じゃったろう。しかし、こんな事を、好んで持上げたのはそちらじゃて、五分々々か、のう、はははは、」
1603
と髯の中に、唇が薄く動いて、せせら笑う。
1604
早瀬は軽く微笑ほほえみながら、
「まあ、お掛けなさいまし。」
1605
と腰掛けた傍かたわらを指で弾はじいた。
「や、ここで可ええ。話は直じき分る。」と英臣は杖ステッキを脇挟んで、葉巻を銜くわえた。
「早解りは結構です、そこで先日のお返事は?」
「どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。」
「申しましょうかね。」
「うむ、」
1606
と吸いつけた唾つばを吐く。
「ここで極きめて下さいましょうか。過日このあいだ、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ竜爪山りゅうそうざんへでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。」
「余計な事を言わんで、簡単に申せ。」
1607
と今の諧謔かいぎゃくにやや怒気を含んで、
「私わしが対手あいてじゃ、立処たちどころに解決してやる!」
「第一!」
1608
と言った……主税の声は朗ほがらかであった。
「貴下あなたの奥さんを離縁なさい。」
隼
五十三
1609
一言亡状いちげんぼうじょうを極めたにも係わらず、英臣はかえって物静ものしずかに聞いた。
「なぜか。」
「馬丁べっとう貞造と不埒ふらちして、お道さんを産んだからです。」
1610
強いて言ことばを落着けて、
「それから、」
「第二、お道さんを私に下さい。」
「何でじゃ?」
「私と、いい中です。」
「むむ、」
1611
と口の内で言った。
「それから、」
「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」
「なぜな。」
「私と約束しました。」
「誰と?」
1612
はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、
「私とさ。」
「うむ、それから?」
「第四、病院をお潰つぶしなさい。」
「なぜかい。」
「医学士が毒を装もります。」
「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。
「河野家の家庭は、かくのごとく汚けがれ果てた。……最早や、忰せがれの嫁を娶とるのに、他ひとの大切な娘の、身分系図などを検しらべるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。
1613
就中なかんずく、独逸文学者酒井俊蔵先生の令嬢に対して、身の程も弁えず、無礼を仕つかまつりました申訳が無い、とお詫びなさい。
1614
そうすりゃ大概、河野家は支離滅裂、貴下のいわゆる家族主義の滅亡さ。そこで敗軍した大将だ。貴下は安東村の貞造の馬小屋へでも引込ひっこむんだ。ざっと、まあ、これだけさ。」
1615
と帽子で、そよそよと胸を煽あおいだ。
1616
時に蝕しつつある太陽を、いやが上に蔽おおい果さんずる修羅の叫喚さけびの物凄ものすさまじく響くがごとく、油蝉の声の山の根に染み入る中に、英臣は荒らかな声して、
「発狂人!」
「ああ、狂人きちがいだ、が、他ほかの気違は出来ないことを云って狂うのに、この狂気きちがいは、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。」
1617
舌もやや釣る、唇を蠢うごめかしつつ、
「で、私わしがその請求を肯きかんけりゃ、汝きさま、どうすッとか言うんじゃのう。」と、太息を吐ついたのである。
「この毒薬の瓶をもって、ちと古風な事だけれど、恐れながらと、遣やろうと云うのだ。それで大概、貴下の家は寂滅でしょうぜ。」
1618
英臣は辛うじて罵ののしり得た。
「騙かたりじゃのう、」
「騙ですとも。」
「強請ゆすりじゃが。汝きさま、」
「強請ですとも。」
「それで汝きさま人間か。」
「畜生でしょうか。」
「それでも独逸語の教師か。」
「いいえ、」
「学者と言われようか。」
「どういたしまして、」
「酒井の門生か。」
「静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。」
「何、騙じゃ、」
「強請です。畜生です。そして河野家の仇あだなんです。」
「黙れ!」
1619
と一喝、虎のごとき唸うなりをなして、杖ステッキをひしと握って、
「無礼だ。黙れ、小僧。」
「何だ、小父さん。」
1620
と云った。英臣は身心ともに燃ゆるがごとき中にも、思わず掉下ふりおろす得物を留めると、主税は正面へ顔を出して、呵々からからと笑って、
「おい、己おれを、まあ、何だと思う。浅草田畝たんぼに巣を持って、観音様へ羽を伸のすから、隼はやぶさの力りきと綽名あだなアされた、掏摸すりだよ、巾着切きんちゃくきりだよ。はははは、これからその気で附合いねえ、こう、頼むぜ、小父さん。」
五十四
「己おれが十二の小僧の時よ。朝露の林を分けて、塒ねぐらを奥山へ出たと思いねえ。蛙けえろの面つらへ打ぶっかけるように、仕かけの噴水が、白粉おしろいの禿げた霜げた姉さんの顔を半分に仕切って、洒亜しゃあと出ていら。そこの釣堀に、四人連づれ、皆洋服で、まだ酔の醒さめねえ顔も見えて、帽子は被かぶっても大童おおわらわと云う体だ。芳原げえりが、朝ッぱら鯉を釣っているじゃねえか。
1621
釣ってるのは鯉だけれど、どこのか田畝の鰌どじょうだろう。官員で、朝帰りで、洋服で、釣ってりゃ馬鹿だ、と天窓あたまから呑んでかかって、中でも鮒ふならしい奴の黄金鎖きんぐさりへ手を懸ける、としまった! この腕を呻うんと握られたんだ。
1622
掴つかまえて打ぶちでもする事か、片手で澄まし込んで釣るじゃねえか。釣った奴を籠へ入れて、小僧これを持って供をしろ。ッて、一睨ひとにらみ睨まれた時は、生れて、はじめて縮すくんだのさ。
1623
こりゃ成程ちょろッかな隼の手でいかねえ。よく顔も見なかったのがこっちの越度おちどで、人品骨柄を見たって知れる――その頃は台湾の属官だったが、今じゃ同一所おんなじとこの税関長、稲坂と云う法学士で、大鵬たいほうのような人物、ついて居た三人は下役だね。
1624
後で聞きゃ、ある時も、結婚したての細君を連れて、芳原を冷かして、格子で馴染なじみの女に逢って、
一所に登楼あがるぜ。と手を引いて飛込んで、今夜は情女いろおんなと遊ぶんだから、お前は次の室まで待ってるんだ、と名代みょうだいへ追いやって、遊女おいらんと寝たと云う豪傑さね。
1625
それッきり、細君も妬やかないが、旦那も嫉気じんすけ少しもなし。
1626
いつか三月ばかり台湾を留守にして、若いその細君と女中と書生を残して置くと、どこの婦おんなも同一おんなじだ。前ぜんから居る下役の媽々かかあども、いずれ夫人とか、何子とか云う奴等が、女同士、長官の細君の、年紀としの若いのを猜そねんだやつさ。下女に鼻薬を飼って讒言つげぐちをさせたんだね。その法学士が内へ帰ると、お帰んなさいまし、さて奥様はひょんな事。と、書生と情交わけがあるように言いつける。とよくも聞かないで、――出て行ゆけ。――と怒鳴り附けた。
1627
誰に云ったと思います。細君じゃない。その下女にさ。
1628
どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人業わざじゃねえような、河野さん、貴下のお婿様さん連にゃ、こういうのは有りますまい。
1629
己が掴つかまったのはその人だ。首を縮すくめて、鯉の入へえった籠を下げて、魚籃ぎょらんの丁稚でっちと云う形で、ついて行ゆくと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで歩行あるいてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。
1630
学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。奥さん、これにもお膳を下さい。と掏摸すりにも、同一おんなじように、吸物膳。
1631
女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだ少わかかった――縮緬ちりめんのお羽織で、膳を据えて下すって、遠慮をしないで召食めしあがれ、と優しく言って下すった時にゃ、己おらあ始めて涙が出たのよ。
1632
先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。何だい、と聞かれたので、法学士が大口開いて掏摸だよ。と言われたので、ふッつり留やめる気になったぜ、犬畜生だけ、情なさけには脆もろいのよ。
1633
法学士が、さあ、使賃だ、祝儀だ、と一円出して、酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手に攫やれよ。と言われて、畳に喰くいついて泣いていると、親がないんだわねえ、と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。晩の飯を内で食って、翌日あすの飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。と、それから親鳥の声を真似まねて、今でも囀さえずる独逸語だ。
1634
世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな料簡方りょうけんかただい。
1635
可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家いっけの繁昌はんじょうとは何事だろう。
1636
たまたま人間に生を受けて、しかも別嬪べっぴんに生れたものを、一生にたった一度、生命いのちとはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥めくらどりを占めるように野郎の懐へ捻込ねじこんで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。
1637
見たが可い、こう、己おれが腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、新粉しんこ細工で拵こしらえた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」
1638
英臣の目は血走った。
五十五
「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女の児こを親勝手に縁附けるほど惨むごたらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、無垢むくな女むすめが、頭かぶり一ツ掉ふり得るものか。羞含はにかんで、ぼうとなって、俯向うつむくので話が極きまって、赫かっと逆上のぼせた奴を車に乗せて、回生剤きつけのような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝て起おきりゃ人の女房だ。
1639
うっかり他ひとと口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人が繋つながって、光った態なりでもして歩行あるけば、親達は緋縅ひおどしの鎧よろいでも着たように汝うぬが肩身をひけらかすんだね。
1640
娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい味噌漉みそこしを提げたって、玉の冠を被かぶったよりは嬉しがるのを知らねえのか。傍はたの目からは筵むしろと見えても、当人には綾錦あやにしきだ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。
1641
己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へ入へえっても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」
「不埒ふらちな奴だ?」
1642
と揺ゆらめいた英臣の髯の色、口を開あいて、黒煙に似た。
「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって怯然びくともしねえ。豪えらい、と讃ほめりゃ吃驚びっくりするがね。
1643
今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんの許とこのような家風で、婿を持たした娘たちと、情事いろごとをするくらい、下女を演劇しばいに連出すより、もっと容易たやすいのは通相場よ。
1644
こう、もう威張ったって仕ようがねえ。恐怖おっかなくはないと言えば、」
1645
と微笑ほほえみながら、
「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。――
1646
おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹を栄さかえさそうと、お前さんが頼みにしている、四番目の娘だがね、つい、この間、暑中休暇で、東京から帰って来た、手入らずの嬢さんは、医学士にけがされたぜ。
1647
己に毒薬を装もらせたし、ばれかかったお道さんの一件を、穏便にさせるために、大奥方の計らいで、院長に押附おッつけたんだ。己と合棒の万太と云う、幼馴染の掏摸の夥間なかまが、ちゃんと材料たねを上げていら。
1648
やっぱり家の為だろう。河野家の名誉のために、旧悪を知ってる上、お道さんと不都合した、早瀬と云う者を毒殺しようと、娘を一人傷物にしたんじゃないか。
1649
そこを言うのだ。児こどもよりも家を大切がる残酷な親だと云うのは、よ。
1650
なぜ手をついて懺悔ざんげをしない。悪かった。これからは可愛い娘を決して名聞みょうもんのためには使いますまい。家柄を鼻にかけて他ひとの娘に無礼も申掛けますまい、と恐入ってしまわないよ。
1651
小児こども一人犠牲にえにして、毒薬なんぞ装らないでも、坊主になって謝あやまんねえな。」
五十六
1652
面おもても触ふらず言ことばを継ぎ、
「それに、お前さん何と云った。――この間も病院で、この掛合をする前に、念のために聞いた時だ。――
1653
たって英吉君の嫁に欲しいとお言いなさる、私わっしが先生のお妙さんは、実は柳橋の芸者の子だが、それでも差支えは無いのですか、と尋ねたら、お前さん、もっての外な顔をして、いや、途方もない。そんな賤いやしい素性の者なら、たとえ英吉がその為に、憧こがれ死じにをしようとも、己たち両親が承知をせん。家名に係わる、と云ったろう。
1654
こう、お前めえたちにゃ限らねえ。世間にゃそうした情無なさけねえ了簡な奴ばかりだから、そんな奴等へ面当つらあてに、河野の一家いっけを鎗玉やりだまに挙げたんだ。
1655
はじめから話にならねえ縁談だから可いけれど、これが先生も承知の上、嬢さんも好いた男で、いざ、と云う時、そでねえ系図しらべをされて、芸者の子だというだけで、破談にでもなった時の、先生御夫婦、お嬢さんの心持はどんなだろう。
1656
己おいらそれを思うから、人間並にゃ附合えねえ肩書つきの悪丁稚あくでっちを、一人前に育てた上、大切な嬢さんに惚れているなら添わしてやろう、とおっしゃって下すった、先生御夫婦のお志。掏摸の野郎と顔をならべて、似而非えせ道学者の坂田なんぞを見返そうと云った江戸児えどッこのお嬢さんに、一式の恩返し、二ツあっても上げたい命を、一ツ棄てるのは安価やすいものよ。
1657
お前さんにゃ気の毒だ。さぞ御迷惑でございましょう。」
1658
と丁寧に笑って言って、
「迷惑や気の毒を勘酌しんしゃくして巾着切が出来るものか。真人間でない者に、お前めえ、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査おまわりほどにも恐くはねえから、言句もんくなしに往生するさ。軍いくさに負けた、と思えば可よかろう。
1659
掏摸の指で突つついても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる濛ほりを穿ほって、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。
1660
お前さん、さぞ口惜くやしかろう。打ぶちたくば打て、殺したくば殺しねえ、義理を知って死ぬような道理を知った己じゃねえが、嬢さんに上げた生命いのちだから、その生命を棄てるので、お道さんや、お菅さんにも、言訳をするつもりだ。死んでも寂さびしい事はねえ、女房が先へ行って待っていら。
1661
お蔦と二人が、毒蛇になって、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪竜が絡まとい繞めぐって、その器に非ずして濫みだりに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。
1662
呪詛のろわれたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。」
1663
と膝に手を置き、片面はんおもてを、怪しきものの走るがごとく颯さと暗くなった海に向けて、蝕ある凄すごき日の光に、水底みなそこのその悪竜の影に憧るる面色おももちした時、隼の力の容貌は、かえって哲学者のごときものであった。
1664
英臣は苔蒸せる石の動かざるごとく緘黙かんもくした。
1665
一声高らかに雉子きじが啼なくと、山は暗くなった。
1666
勘助井戸の星を覗のぞこうと、末の娘が真先まっさきに飜然ひらりと上って、続いて一人々々、名ある麗人の霊のごとく朦朧もうろうとして露あらわれた途端に、英臣はかねてその心構えをしたらしい、やにわに衣兜かくしから短銃ピストルを出して、衝つと早瀬の胸を狙った。あわやと抱いだき留めた惣助は刎倒はねたおされて転んだけれども、渠かれ危あやうし、と一目見て、道子と菅子が、身を蔽おおいに、背せなより、胸より、ひしと主税を庇かばったので、英臣は、面おもてを背けて嘆息し、たちまち狙を外らすや否や、大夫人を射て、倒して、硝薬しょうやくの煙とともに、蝕する日の面おもてを仰ぎつつ、この傲岸ごうがんなる統領は、自からその脳を貫いた。
1667
抱合って、目を見交わして、姉妹きょうだいの美人たおやめは、身を倒さかさまに崖に投じた。あわれ、蔦に蔓かずらに留とどまった、道子と菅子が色ある残懐なごりは、滅びたる世の海の底に、珊瑚さんごの砕けしに異ならず。
1668
折から沖を遥はるかに、光なき昼の星よと見えて、天に連つらなった一点の白帆は、二人の夫等の乗れる船にして、且つ死骸なきがらの俤おもかげに似たのを、妙子に隠して、主税は高く小手を翳かざした。
1669
その夜よ、清水港の旅店において、爺じじいは山へ柴苅に、と嬢さんを慰めつつ、そのすやすやと寐ねたのを見て、お蔦の黒髪を抱いだきながら、早瀬は潔く毒を仰いだのである。
1670
早瀬の遺書は、酒井先生と、河野とに二通あった。
1671
その文学士河野に宛あてたは。――英吉君……島山夫人が、才と色とをもって、君の為に早瀬を擒とりこにしようとしたのは事実である。また我自から、道子が温良優順の質に乗じて、謀はかって情を迎えたのも事実である。けれども、そのいずれの操をも傷きずつけぬ。双互にただ黙会したのに過ぎないから、乞う、両位の令妹のために、その淑徳を疑うことなかれ。特に君が母堂の馬丁ばていと不徳の事のごときは、あり触れた野人の風説に過ぎなかった。――事実でないのを確めたに就いて、我が最初の目的の達しられないのに失望したが、幸か、不幸か、浅間の社頭で逢った病者の名が、偶然貞造と云うのに便って、狂言して姉夫人を誘出おびきだし得たのであった。従って、第四の令妹の事はもとより、毒薬の根も葉もないのを、深夜蛾ひとりむしが燈ともしびに斃おちたのを見て、思い着いて、我が同類の万太と謀って、渠をして調えしめた毒薬を、我が手に薬の瓶に投じて、直ちに君の家厳に迫った。
1672
不義、毒殺、たとえば父子、夫妻、最親至愛の間においても、その実否じっぷを正すべく、これを口にすべからざる底ていの条件をもって、咄嗟とっさに雷らい発して、河野家の家庭を襲ったのである。私は掏賊すりだ、はじめから敵に対しては、機謀権略、反間苦肉、有あらゆる辣手段らつしゅだんを弄して差支えないと信じた。
1673
要はただ、君が家系門閥もんばつの誇の上に、一部の間隙を生ぜしめて、氏素性、かくのごとき早瀬の前に幾分の譲歩をなさしめん希望に過ぎなかったに、思わざりき、久能山上の事あらんとは。我は偏ひとえに、君の家厳の、左右一顧の余裕のない、一時の激怒を惜おしむとともに、清冽一塵の交るを許さぬ、峻厳なるその主義に深大なる敬意を表する。
1674
英吉君、能あたうべくは、我意を体して、より美うつくしく、より清き、第二の家庭を建設せよ。人生意気を感ぜずや――云々の意を認したためてあった。
1675
門族の栄華の雲に蔽おおわれて、自家の存在と、学者の独立とを忘れていた英吉は、日蝕の日の、蝕の晴るると共に、嗟嘆さたんして主税に聞くべく、その頭脳は明あきらかに、その眼まなこは輝いたのである。
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早瀬は潔く云々以下、二十一行抹消。――前篇後篇を通じその意味にて御覧を願う。はじめ新聞に連載の時、この二十一行なし。後単行出版に際し都合により、徒とを添えたるもの。或あるいはおなじ単行本御所有の方々の、ここにお心つかいもあらんかとて。
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明治四十一九〇七年一〜四月 [#地付き]
底本:「泉鏡花集成12」筑摩書房
1997平成9年1月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。青空文庫
入力:真先芳秋
校正:かとうかおり
ファイル作成:かとうかおり
2000年8月17日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
【表記について】
本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。
【前篇】
※おくび
|
第3水準1-15-23
|
※紅をさして
|
|
※みはる
※みはって
※みひらいた
※みはって
|
第3水準1-88-85
|
※ふき
|
第3水準1-91-72
|
※ぱっと
|
|
※さび
|
第3水準1-93-39
|
※にんべん
|
第4水準2-1-21
|
※みまわして
※みまわす
※みまわした
※みまわしながら
|
第4水準2-81-91
|
軽※そそっかしく
粗※そそっかしい
|
第3水準1-14-76
|
※むしり
|
第3水準1-84-77
|
【後篇】
※みはって
※みひらいて
※みはった
※みひらく
※みはる
|
第3水準1-88-85
|
※にたのでも
※にるのだ
|
第3水準1-87-52
|
※みまわしたが
※みまわして
※みまわしながら
※みまわす
|
第4水準2-81-91
|
※ぼうとした
※ぼうとして
|
第4水準2-12-81
|
※※さまよう
|
第3水準1-84-33、第3水準1-84-32
|
※ぱっと
|
|
破※子やぶれれんじ
※子
|
第3水準1-86-29
|
※呀あなや
|
第4水準2-4-5
|
※しぶき
|
|
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年3月