人魚の祠
泉鏡花
一
1
「いまの、あの婦人が抱いて居た嬰兒ですが、鯉か、鼈ででも有りさうでならないんですがね。」
「…………」
2
私は、默つて工學士の其の顏を視た。
「まさかとは思ひますが。」
3
赤坂の見附に近い、唯ある珈琲店の端近な卓子で、工學士は麥酒の硝子杯を控へて云つた。
4
私は卷莨を點けながら、
「あゝ、結構。私は、それが石地藏で、今のが姑護鳥でも構ひません。けれども、それぢや、貴方が世間へ濟まないでせう。」
5
六月の末であつた。府下澁谷邊に或茶話會があつて、斯の工學士が其の席に臨むのに、私は誘はれて一日出向いた。
6
談話の聽人は皆婦人で、綺麗な人が大分見えた、と云ふ質のであるから、羊羹、苺、念入に紫袱紗で薄茶の饗應まであつたが――辛抱をなさい――酒と云ふものは全然ない。が、豫ての覺悟である。それがために意地汚く、歸途に恁うした場所へ立寄つた次第ではない。
7
本來なら其の席で、工學士が話した或種の講述を、こゝに筆記でもした方が、讀まるゝ方々の利益なのであらうけれども、それは殊更に御海容を願ふとして置く。
8
實は往路にも同伴立つた。
9
指す方へ、煉瓦塀板塀續きの細い路を通る、とやがて其の會場に當る家の生垣で、其處で三つの外圍が三方へ岐れて三辻に成る……曲角の窪地で、日蔭の泥濘の處が――空は曇つて居た――殘ンの雪かと思ふ、散敷いた花で眞白であつた。
10
下へ行くと學士の背廣が明いくらゐ、今を盛と空に咲く。枝も梢も撓に滿ちて、仰向いて見上げると屋根よりは丈伸びた樹が、對に並んで二株あつた。李の時節でなし、卯木に非ず。そして、木犀のやうな甘い匂が、燻したやうに薫る。楕圓形の葉は、羽状複葉と云ふのが眞蒼に上から可愛い花をはら/\と包んで、鷺が緑なす蓑を被いで、彳みつゝ、颯と開いて、雙方から翼を交した、比翼連理の風情がある。
11
私は固よりである。……學士にも、此の香木の名が分らなかつた。
12
當日、席でも聞合せたが、居合はせた婦人連が亦誰も知らぬ。其の癖、佳薫のする花だと云つて、小さな枝ながら硝子杯に插して居たのがあつた。九州の猿が狙ふやうな褄の媚かしい姿をしても、下枝までも屆くまい。小鳥の啄んで落したのを通りがかりに拾つて來たものであらう。
「お乳のやうですわ。」
13
一人の處女が然う云つた。
14
成程、近々と見ると、白い小さな花の、薄りと色着いたのが一ツ一ツ、美い乳首のやうな形に見えた。
15
却説、日が暮れて、其の歸途である。
16
私たちは七丁目の終點から乘つて赤坂の方へ歸つて來た……あの間の電車は然して込合ふ程では無いのに、空怪しく雲脚が低く下つて、今にも一降來さうだつたので、人通りが慌しく、一町場二町場、近處へ用たしの分も便つたらしい、停留場毎に乘人の數が多かつた。
17
で、何時何處から乘組んだか、つい、それは知らなかつたが、丁ど私たちの並んで掛けた向う側――墓地とは反對――の處に、二十三四の色の白い婦人が居る……
18
先づ、色の白い婦と云はう、が、雪なす白さ、冷さではない。薄櫻の影がさす、朧に香ふ裝である。……こんなのこそ、膚と云ふより、不躾ながら肉と言はう。其胸は、合歡の花が雫しさうにほんのりと露である。
19
藍地に紺の立絞の浴衣を唯一重、絲ばかりの紅も見せず素膚に着た。襟をなぞへに膨りと乳を劃つて、衣が青い。青いのが葉に見えて、先刻の白い花が俤立つ……撫肩をたゆげに落して、すらりと長く膝の上へ、和々と重量を持たして、二の腕を撓やかに抱いたのが、其が嬰兒で、仰向けに寢た顏へ、白い帽子を掛けてある。寢顏に電燈を厭つたものであらう。嬰兒の顏は見えなかつた、だけ其だけ、懸念と云へば懸念なので、工學士が――鯉か鼈か、と云つたのは此であるが……
20
此の媚めいた胸のぬしは、顏立ちも際立つて美しかつた。鼻筋の象牙彫のやうにつんとしたのが難を言へば強過ぎる……かはりには目を恍惚と、何か物思ふ體に仰向いた、細面が引緊つて、口許とともに人品を崩さないで且つ威がある……其の顏だちが帶よりも、きりゝと細腰を緊めて居た。面で緊めた姿である。皓齒の一つも莞爾と綻びたら、はらりと解けて、帶も浴衣も其のまゝ消えて、膚の白い色が颯と簇つて咲かう。霞は花を包むと云ふが、此の婦は花が霞を包むのである。膚が衣を消すばかり、其の浴衣の青いのにも、胸襟のほのめく色はうつろはぬ、然も湯上りかと思ふ温さを全身に漲らして、髮の艶さへ滴るばかり濡々として、其がそよいで、硝子窓の風に額に絡はる、汗ばんでさへ居たらしい。
21
ふと明いた窓へ横向きに成つて、ほつれ毛を白々とした指で掻くと、あの花の香が強く薫つた、と思ふと緑の黒髮に、同じ白い花の小枝を活きたる蕚、湧立つ蕊を搖がして、鬢に插して居たのである。
22
唯、見た時、工學士の手が、確と私の手を握つた。
「下りませう。是非、談話があります。」
23
立つて見送れば、其の婦を乘せた電車は、見附の谷の窪んだ廣場へ、すら/\と降りて、一度暗く成つて停まつたが、忽ち風に乘つたやうに地盤を空ざまに颯と坂へ辷つて、青い火花がちらちらと、櫻の街樹に搦んだなり、暗夜の梢に消えた。
24
小雨がしと/\と町へかゝつた。
25
其處で珈琲店へ連立つて入つたのである。
26
こゝに、一寸斷つておくのは、工學士は嘗て苦學生で、其當時は、近縣に賣藥の行商をした事である。
二
「利根川の流が汎濫して、田に、畠に、村里に、其の水が引殘つて、月を經、年を過ぎても涸れないで、其のまゝ溜水に成つたのがあります。……
27
小さなのは、河骨の點々黄色に咲いた花の中を、小兒が徒に猫を乘せて盥を漕いで居る。大きなのは汀の蘆を積んだ船が、棹さして波を分けるのがある。千葉、埼玉、あの大河の流域を辿る旅人は、時々、否、毎日一ツ二ツは度々此の水に出會します。此を利根の忘れ沼、忘れ水と呼んで居る。
28
中には又、あの流を邸内へ引いて、用水ぐるみ庭の池にして、筑波の影を矜りとする、豪農、大百姓などがあるのです。
29
唯今お話をする、……私が出會ひましたのは、何うも庭に造つた大池で有つたらしい。尤も、居周圍に柱の跡らしい礎も見當りません。が、其とても埋れたのかも知れません。一面に草が茂つて、曠野と云つた場所で、何故に一度は人家の庭だつたか、と思はれたと云ふのに、其の沼の眞中に拵へたやうな中島の洲が一つ有つたからです。
30
で、此の沼は、話を聞いて、お考へに成るほど大なものではないのです。然うかと云つて、向う岸とさし向つて聲が屆くほどは小さくない。それぢや餘程廣いのか、と云ふのに、又然うでもない、ものの十四五分も歩行いたら、容易く一周り出來さうなんです。但し十四五分で一周と云つて、すぐに思ふほど、狹いのでもないのです。
31
と、恁う言ひます内にも、其の沼が伸びたり縮んだり、すぼまつたり、擴がつたり、動いて居るやうでせう。――居ますか、結構です――其のつもりでお聞き下さい。
32
一體、水と云ふものは、一雫の中にも河童が一個居て住むと云ふ國が有りますくらゐ、氣心の知れないものです。分けて底澄んで少し白味を帶びて、とろ/\と然も岸とすれ/″\に滿々と湛へた古沼ですもの。丁ど、其の日の空模樣、雲と同一に淀りとして、雲の動く方へ、一所に動いて、時々、てら/\と天に薄日が映すと、其の光を受けて、晃々と光るのが、沼の面に眼があつて、薄目に白く人を窺ふやうでした。
33
此では、其の沼が、何だか不氣味なやうですが、何、一寸の間の事で、――四時下り、五時前と云ふ時刻――暑い日で、大層疲れて、汀にぐつたりと成つて一息吐いて居る中には、雲が、なだらかに流れて、薄いけれども平に日を包むと、沼の水は靜に成つて、そして、少し薄暗い影が渡りました。
34
風はそよりともない。が、濡れない袖も何となく冷いのです。
35
風情は一段で、汀には、所々、丈の低い燕子花の、紫の花に交つて、あち此方に又一輪づゝ、言交はしたやうに、白い花が交つて咲く……
36
あの中島は、簇つた卯の花で雪を被いで居るのです。岸に、葉と花の影の映る處は、松葉が流れるやうに、ちら/\と水が搖れます。小魚が泳ぐのでせう。
37
差渡し、池の最も廣い、向うの汀に、こんもりと一本の柳が茂つて、其の緑の色を際立てて、背後に一叢の森がある、中へ横雲を白くたなびかせて、もう一叢、一段高く森が見える。うしろは、遠里の淡い靄を曳いた、なだらかな山なんです。――柳の奧に、葉を掛けて、小さな葭簀張の茶店が見えて、横が街道、すぐに水田で、水田のへりの流にも、はら/\燕子花が咲いて居ます。此の方は、薄碧い、眉毛のやうな遠山でした。
38
唯、沼が呼吸を吐くやうに、柳の根から森の裾、紫の花の上かけて、霞の如き夕靄がまはりへ一面に白く渡つて來ると、同じ雲が空から捲き下して、汀に濃く、梢に淡く、中ほどの枝を透かして靡きました。
39
私の居た、草にも、しつとりと其の靄が這ふやうでしたが、袖には掛らず、肩にも卷かず、目なんぞは水晶を透して見るやうに透明で。詰り、上下が白く曇つて、五六尺水の上が、却つて透通る程なので……
40あゝ、あの柳に、美い虹が渡る、と見ると、薄靄に、中が分れて、三つに切れて、友染に、鹿の子絞の菖蒲を被けた、派手に涼しい裝の婦が三人。
41
白い手が、ちら/\と動いた、と思ふと、鉛を曳いた絲が三條、三處へ棹が下りた。
42
一尺しやく、金鱗きんりんを重おもく輝かゞやかして、水みづの上うへへ飜然ひらりと飛とぶ。」
三
「それよりも、見事みごとなのは、釣竿つりざをの上下あげおろしに、縺もつるゝ袂たもと、飜ひるがへる袖そでで、翡翠かはせみが六むつつ、十二の翼つばさを飜ひるがへすやうなんです。
43
唯と、其その白しろい手ても見みえる、莞爾につこり笑わらふ面影おもかげさへ、俯向うつむくのも、仰あふぐのも、手てに手てを重かさねるのも其その微笑ほゝゑむ時とき、一人ひとりの肩かたをたゝくのも……莟つぼみがひら/\開ひらくやうに見みえながら、厚あつい硝子窓がらすまどを隔へだてたやうに、まるつ切きり、聲こゑが……否いや、四邊あたりは寂然ひつそりして、ものの音おとも聞きこえない。
44
向むかつて左ひだりの端はしに居ゐた、中なかでも小柄こがらなのが下おろして居ゐる、棹さをが滿月まんげつの如ごとくに撓しなつた、と思おもふと、上うへへ絞しぼつた絲いとが眞直まつすぐに伸のびて、するりと水みづの空そらへ掛かゝつた鯉こひが――」
45
――理學士りがくしは言掛いひかけて、私わたしの顏かほを視みて、而そして四邊あたりを見みた。恁かうした店みせの端近はしぢかは、奧おくより、二階にかいより、却かへつて椅子いすは閑しづかであつた――
「鯉こひは、其それは鯉こひでせう。が、玉たまのやうな眞白まつしろな、あの森もりを背景はいけいにして、宙ちうに浮ういたのが、すつと合あはせた白脛しろはぎを流ながす……凡およそ人形にんぎやうぐらゐな白身はくしんの女子ぢよしの姿すがたです。釣つられたのぢやありません。釣針つりばりをね、恁かう、兩手りやうてで抱だいた形かたち。
46
御覽ごらんなさい。釣濟つりすました當たうの美人びじんが、釣棹つりざをを突離つきはなして、柳やなぎの根ねへ靄もやを枕まくらに横倒よこだふしに成なつたが疾はやいか、起おきるが否いなや、三人にんともに手鞠てまりのやうに衝つと遁にげた。が、遁にげるのが、其その靄もやを踏ふむのです。鈍どんな、はずみの無ない、崩くづれる綿わたを踏越ふみこし踏越ふみこしするやうに、褄つまが縺もつれる、裳もすそが亂みだれる……其それが、やゝ少時しばらくの間あひだ見みえました。
47
其その後あとから、茶店ちやみせの婆ばあさんが手てを泳およがせて、此これも走はしる……
48
一體いつたいあの邊へんには、自動車じどうしやか何なにかで、美人びじんが一日いちにちがけと云いふ遊山宿ゆさんやど、乃至ないし、温泉をんせんのやうなものでも有あるのか、何どうか、其その後ごまだ尋たづねて見みません。其それが有あればですが、それにした處ところで、近所きんじよの遊山宿ゆさんやどへ來きて居ゐたのが、此この沼ぬまへ來きて釣つりをしたのか、それとも、何なんの國くに、何なんの里さと、何なんの池いけで釣つつたのが、一種いつしゆの蜃氣樓しんきろうの如ごとき作用さようで此處こゝへ映うつつたのかも分わかりません。餘あまり靜しづかな、もの音おとのしない樣子やうすが、夢ゆめと云いふよりか其その海市かいしに似にて居ゐました。
49
沼ぬまの色いろは、やゝ蒼味あをみを帶おびた。
50
けれども、其その茶店ちやみせの婆ばあさんは正しやうのものです。現げんに、私わたしが通とほり掛がかりに沼ぬまの汀みぎはの祠ほこらをさして、あれは何樣なにさまの社やしろでせう。と尋たづねた時ときに、賽さいの神樣かみさまだ。と云いつて教をしへたものです。今いま其その祠ほこらは沼ぬまに向むかつて草くさに憩いこつた背後うしろに、なぞへに道芝みちしばの小高こだかく成なつた小ちひさな森もりの前まへにある。鳥居とりゐが一基いつき、其その傍そばに大おほきな棕櫚しゆろの樹きが、五株かぶまで、一列れつに並ならんで、蓬々おどろ/\とした形かたちで居ゐる。……さあ、此これも邸やしきあとと思おもはれる一條ひとつで、其その小高こだかいのは、大おほきな築山つきやまだつたかも知しれません。
51
處ところで、一錢せんたりとも茶代ちやだいを置おいてなんぞ、憩やすむ餘裕よゆうの無なかつた私わたしですが、……然さうやつて賣藥ばいやくの行商ぎやうしやうに歩行あるきます時分じぶんは、世よに無ない兩親りやうしんへせめてもの供養くやうのため、と思おもつて、殊勝しゆしようらしく聞きこえて如何いかゞですけれども、道中だうちう、宮みや、社やしろ、祠ほこらのある處ところへは、屹きつと持合もちあはせた藥くすりの中なかの、何種なにしゆのか、一包ひとつゝみづゝを備そなへました。――詣まうづる人ひとがあつて神佛しんぶつから授さづかつたものと思おもへば、屹きつと病氣びやうきが治なほりませう。私わたしも幸福かうふくなんです。
52
丁度ちやうど私わたしの居ゐた汀みぎはに、朽木くちきのやうに成なつて、沼ぬまに沈しづんで、裂目さけめに燕子花かきつばたの影かげが映さし、破やぶれた底そこを中空なかぞらの雲くもの往來ゆききする小舟こぶねの形かたちが見みえました。
53
其それを見棄みすてて、御堂おだうに向むかつて起たちました。
54
談話はなしの要領えうりやうをお急いそぎでせう。
55
早はやく申まをしませう。……其その狐格子きつねがうしを開あけますとね、何どうです……
まあ、此これは珍めづらしい。
56
几帳きちやうとも、垂幕さげまくとも言いひたいのに、然さうではない、萌黄もえぎと青あをと段染だんだらに成なつた綸子りんずか何なんぞ、唐繪からゑの浮模樣うきもやうを織込おりこんだのが窓帷カアテンと云いつた工合ぐあひに、格天井がうてんじやうから床ゆかへ引ひいて蔽おほうてある。此これに蔽おほはれて、其その中なかは見みえません。
57
此これが、もつと奧おくへ詰つめて張はつてあれば、絹一重きぬひとへの裡うちは、すぐに、御廚子みづし、神棚かみだなと云いふのでせうから、誓ちかつて、私わたしは、覗のぞくのではなかつたのです。が、堂だうの内うちの、寧むしろ格子かうしへ寄よつた方はうに掛かゝつて居ゐました。
58
何心なにごころなく、端はしを、キリ/\と、手許てもとへ、絞しぼると、蜘蛛くもの巣すのかはりに幻まぼろしの綾あやを織おつて、脈々みやく/\として、顏かほを撫なでたのは、薔薇ばらか菫すみれかと思おもふ、いや、それよりも、唯今たゞいま思おもへば、先刻さつきの花はなの匂にほひです、何なんとも言いへない、甘あまい、媚なまめいた薫かをりが、芬ぷんと薫かをつた。」
59
――學士がくしは手巾ハンケチで、口くちを蔽おほうて、一寸ちよつと額ひたひを壓おさへた――
「――其處そこが閨ねやで、洋式やうしきの寢臺ねだいがあります。二人寢ふたりねの寛ゆつたりとした立派りつぱなもので、一面いちめんに、光ひかりを持もつた、滑なめらかに艶々つや/\した、絖ぬめか、羽二重はぶたへか、と思おもふ淡あはい朱鷺色ときいろなのを敷詰しきつめた、聊いさゝか古ふるびては見みえました。が、それは空そらが曇くもつて居ゐた所爲せゐでせう。同おなじ色いろの薄掻卷うすかいまきを掛かけたのが、すんなりとした寢姿ねすがたの、少すこし肉附にくづきを肥よくして見みせるくらゐ。膚はだを蔽おほうたとも見みえないで、美うつくしい女をんなの顏かほがはらはらと黒髮くろかみを、矢張やつぱり、同おなじ絹きぬの枕まくらにひつたりと着つけて、此方こちらむきに少すこし仰向あをむけに成なつて寢ねて居ゐます。のですが、其それが、黒目勝くろめがちな雙さうの瞳ひとみをぱつちりと開あけて居ゐる……此この目めに、此處こゝで殺ころされるのだらう、と餘あまりの事ことに然さう思おもひましたから、此方こつちも熟じつと凝視みつめました。
60
少すこし高過たかすぎるくらゐに鼻筋はなすぢがツンとして、彫刻てうこくか、練ねりものか、眉まゆ、口許くちもと、はつきりした輪郭りんくわくと云いひ、第一だいいち櫻色さくらいろの、あの、色艶いろつやが、――其それが――今いまの、あの電車でんしやの婦人ふじんに瓜二うりふたつと言いつても可いい。
61
時ときに、毛け一筋ひとすぢでも動うごいたら、其その、枕まくら、蒲團ふとん、掻卷かいまきの朱鷺色ときいろにも紛まがふ莟つぼみとも云いつた顏かほの女をんなは、芳香はうかうを放はなつて、乳房ちぶさから蕊しべを湧わかせて、爛漫らんまんとして咲さくだらうと思おもはれた。」
四
「私わたしの目めか眩くらんだんでせうか、婦をんなは瞬またゝきをしません。五分ふんか一時いつときと、此方こつちが呼吸いきをも詰つめて見みます間あひだ――で、餘あまり調そろつた顏容かほだちといひ、果はたして此これは白像彩塑はくざうさいそで、何どう云いふ事ことか、仔細しさいあつて、此この廟べうの本尊ほんぞんなのであらう、と思おもつたのです。
62
床ゆかの下した……板縁いたえんの裏うらの處ところで、がさ/\がさ/\と音おとが發出しだした……彼方あつちへ、此方こつちへ、鼠ねずみが、ものでも引摺ひきずるやうで、床ゆかへ響ひゞく、と其その音おとが、變へんに、恁かう上うへに立たつてる私わたしの足あしの裏うらを擽くすぐると云いつた形かたちで、むづ痒がゆくつて堪たまらないので、もさ/\身體からだを搖ゆすりました。――本尊ほんぞんは、まだ瞬またゝきもしなかつた。――其その内うちに、右みぎの音おとが、壁かべでも攀よぢるか、這上はひあがつたらしく思おもふと、寢臺ねだいの脚あしの片隅かたすみに羽目はめの破やぶれた處ところがある。其その透間すきまへ鼬いたちがちよろりと覗のぞくやうに、茶色ちやいろの偏平ひらつたい顏つらを出だしたと窺うかゞはれるのが、もぞり、がさりと少すこしづゝ入はひつて、ばさ/\と出でる、と大おほきさやがて三俵法師さんだらぼふし、形かたちも似にたもの、毛けだらけの凝團かたまり、足あしも、顏かほも有あるのぢやない。成程なるほど、鼠ねずみでも中なかに潛もぐつて居ゐるのでせう。
63
其奴そいつが、がさ/\と寢臺ねだいの下したへ入はひつて、床ゆかの上うへをずる/\と引摺ひきずつたと見みると、婦をんなが掻卷かいまきから二にの腕うでを白しろく拔ぬいて、私わたしの居ゐる方はうへぐたりと投なげた。寢亂ねみだれて乳ちゝも見みえる。其それを片手かたてで祕かくしたけれども、足あしのあたりを震ふるはすと、あゝ、と云いつて其その手ても兩方りやうはう、空くうを掴つかむと裙すそを上あげて、弓形ゆみなりに身みを反そらして、掻卷かいまきを蹴けて、轉ころがるやうに衾ふすまを拔ぬけた。……
64
私わたしは飛出とびだした……
65
壇だんを落おちるやうに下おりた時とき、黒くろい狐格子きつねがうしを背後うしろにして、婦をんなは斜違はすつかひに其處そこに立たつたが、呀あ、足許あしもとに、早はやあの毛けむくぢやらの三俵法師さんだらぼふしだ。
66
白しろい踵くびすを揚あげました、階段かいだんを辷すべり下おりる、と、後あとから、ころ/\と轉ころげて附着くツつく。さあ、それからは、宛然さながら人魂ひとだまの憑つきものがしたやうに、毛けが赫かつと赤あかく成なつて、草くさの中なかを彼方あつちへ、此方こつちへ、たゞ、伊達卷だてまきで身みについたばかりのしどけない媚なまめかしい寢着ねまきの婦をんなを追※おひまはす。婦をんなはあとびつしやりをする、脊筋せすぢを捩よぢらす。三俵法師さんだらぼふしは、裳もすそにまつはる、踵かゝとを嘗なめる、刎上はねあがる、身震みぶるひする。
67
やがて、沼ぬまの縁ふちへ追迫おひせまられる、と足あしの甲かふへ這上はひあがる三俵法師さんだらぼふしに、わな/\身悶みもだえする白しろい足あしが、あの、釣竿つりざをを持もつた三人にんの手てのやうに、ちら/\と宙ちうに浮ういたが、するりと音おとして、帶おびが辷すべると、衣きものが脱ぬげて草くさに落おちた。
「沈しづんだ船ふね――」と、思おもはず私わたしが聲こゑを掛かけた。隙ひまも無なしに、陰氣いんきな水音みづおとが、だぶん、と響ひゞいた……
68
しかし、綺麗きれいに泳およいで行ゆく。美うつくしい肉にくの脊筋せすぢを掛かけて左右さいうへ開ひらく水みづの姿すがたは、輕かるい羅うすものを捌さばくやうです。其その膚はだの白しろい事こと、あの合歡花ねむのはなをぼかした色いろなのは、豫かねて此この時ときのために用意よういされたのかと思おもふほどでした。
69
動止うごきやんだ赤茶あかちやけた三俵法師さんだらぼふしが、私わたしの目めの前まへに、惰力だりよくで、毛筋けすぢを、ざわ/\とざわつかせて、うツぷうツぷ喘あへいで居ゐる。
70
見みると驚おどろいた。ものは棕櫚しゆろの毛けを引束ひツつかねたに相違さうゐはありません。が、人ひとが寄よる途端とたんに、ぱちぱち豆まめを燒やく音おとがして、ばら/\と飛着とびついた、棕櫚しゆろの赤あかいのは、幾千萬いくせんまんとも數かずの知しれない蚤のみの集團かたまりであつたのです。
71
早はや、兩脚りやうあしが、むづ/\、脊筋せすぢがぴち/\、頸首えりくびへぴちんと來くる、私わたしは七顛八倒しつてんはつたうして身體からだを振ふつて振飛ふりとばした。
72
唯と、何なんと、其その棕櫚しゆろの毛けの蚤のみの巣すの處ところに、一人ひとり、頭づの小ちひさい、眦めじりと頬ほゝの垂下たれさがつた、青膨あをぶくれの、土袋どぶつで、肥張でつぷりな五十ごじふ恰好かつかうの、頤鬚あごひげを生はやした、漢をとこが立たつて居ゐるぢやありませんか。何なにものとも知しれない。越中褌ゑつちうふんどしと云いふ……あいつ一ひとつで、眞裸まつぱだかで汚きたない尻けつです。
73
婦をんなは沼ぬまの洲すへ泳およぎ着ついて、卯うの花はなの茂しげりにかくれました。
74
が、其その姿すがたが、水みづに流ながれて、柳やなぎを翠みどりの姿見すがたみにして、ぽつと映うつつたやうに、人ひとの影かげらしいものが、水みづの向むかうに、岸きしの其その柳やなぎの根ねに薄墨色うすずみいろに立たつて居ゐる……或あるひは又また……此處こゝの土袋どぶつと同一おなじやうな男をとこが、其處そこへも出でて來きて、白身はくしんの婦人をんなを見みて居ゐるのかも知しれません。
75
私わたしも其その一人ひとりでせうね……
や、待まてい。
76
青膨あをぶくれが、痰たんの搦からんだ、ぶやけた聲こゑして、早はや行掛ゆきかゝつた私わたしを留とめた……
見みて貰もれえたいものがあるで、最もう直ぢきぢやぞ。と、首くびをぐたりと遣やりながら、横柄わうへいに言いふ。……何なんと、其その兩足りやうあしから、下腹したばらへ掛かけて、棕櫚しゆろの毛けの蚤のみが、うよ/\ぞろ/\……赤蟻あかありの列れつを造つくつてる……私わたしは立窘たちすくみました。
77
ひら/\、と夕空ゆふぞらの雲くもを泳およぐやうに柳やなぎの根ねから舞上まひあがつた、あゝ、其それは五位鷺ごゐさぎです。中島なかじまの上うへへ舞上まひあがつた、と見みると輪わを掛かけて颯さつと落おとした。
ひい。と引ひく婦をんなの聲こゑ。鷺さぎは舞上まひあがりました。翼つばさの風かぜに、卯うの花はなのさら/\と亂みだるゝのが、婦をんなが手足てあしを畝うねらして、身みを※もがくに宛然さながらである。
78
今いま考かんがへると、それが矢張やつぱり、あの先刻さつきの樹きだつたかも知しれません。同おなじ薫かをりが風かぜのやうに吹亂ふきみだれた花はなの中なかへ、雪ゆきの姿すがたが素直まつすぐに立たつた。が、滑なめらかな胸むねの衝つと張はる乳ちゝの下したに、星ほしの血ちなるが如ごとき一雫ひとしづくの鮮紅からくれなゐ。絲いとを亂みだして、卯うの花はなが眞赤まつかに散ちる、と其その淡紅うすべにの波なみの中なかへ、白しろく眞倒まつさかさまに成なつて沼ぬまに沈しづんだ。汀みぎはを廣ひろくするらしい寂しづかな水みづの輪わが浮ういて、血汐ちしほの綿わたがすら/\と碧みどりを曳ひいて漾たゞよひ流ながれる……
あれを見みい、血ちの形かたちが字じぢやらうが、何なんと讀よむかい。
79
――私わたしが息いきを切きつて、頭かぶりを掉ふると、
分わからんかい、白痴たはけめが。と、ドンと胸むねを突ついて、突倒つきたふす。重おもい力ちからは、磐石ばんじやくであつた。
又また……遣直やりなほしぢや。と呟つぶやきながら、其その蚤のみの巣すをぶら下さげると、私わたしが茫然ばうぜんとした間あひだに、のそのそ、と越中褌ゑつちうふんどしの灸きうのあとの有ある尻しりを見みせて、そして、やがて、及腰およびごしの祠ほこらの狐格子きつねがうしを覗のぞくのが見みえた。
奧おくさんや、奧おくさんや――蚤のみが、蚤のみが――
80
と腹はらをだぶ/\、身悶みもだえをしつゝ、後退あとじさりに成なつた。唯と、どしん、と尻餅しりもちをついた。が、其その頭あたまへ、棕櫚しゆろの毛けをずぼりと被かぶる、と梟ふくろふが化ばけたやうな形かたちに成なつて、其そのまゝ、べた/\と草くさを這はつて、縁えんの下したへ這込はひこんだ。――
81
蝙蝠傘かうもりがさを杖つゑにして、私わたしがひよろ/\として立去たちさる時とき、沼ぬまは暗くらうございました。そして生なまぬるい雨あめが降出ふりだした……
奧おくさんや、奧おくさんや。
82
と云いつたが、其その土袋どぶつの細君さいくんださうです。土地とちの豪農がうのう何某なにがしが、内證ないしようの逼迫ひつぱくした華族くわぞくの令孃れいぢやうを金子かねにかへて娶めとつたと言いひます。御殿ごてんづくりでかしづいた、が、其その姫君ひめぎみは可恐おそろしい蚤のみ嫌ぎらひで、唯たゞ一匹ぴきにも、夜よるも晝ひるも悲鳴ひめいを上あげる。其その悲かなしさに、別室べつしつの閨ねやを造つくつて防ふせいだけれども、防ふせぎ切きれない。で、果はては亭主ていしゆが、蚤のみを除よけるための蚤のみの巣すに成なつて、棕櫚しゆろの毛けを全身ぜんしんに纏まとつて、素裸すつぱだかで、寢室しんしつの縁えんの下したへ潛もぐり潛もぐり、一夏ひとなつのうちに狂死くるひじにをした。――
まだ、迷まよつて居ゐさつしやるかなう、二人ふたりとも――旅たびの人ひとがの、あの忘わすれ沼ぬまでは、同おなじ事ことを度々たび/\見みます。
83
旅籠屋はたごやでの談話はなしであつた。」
84
工學士こうがくしは附つけたして、
「……祠ほこらの其その縁えんの下したを見みましたがね、……御存ごぞんじですか……異類いるゐ異形いぎやうな石いしがね。」
85
日ひを經へて工學士こうがくしから音信おとづれして、あれは、乳香にうかうの樹きであらうと言いふ。
底本:「鏡花全集 巻十六」岩波書店
1942昭和17年4月20日第1刷発行
1987昭和62年12月3日第3刷発行
入力:馬野哲一
校正:鈴木厚司
ファイル作成:鈴木厚司
2000年12月13日公開
2001年10月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
本文中の※/\は二倍の踊り字「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」。
本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。
婦をんなを追※おひまはす。
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第4水準2-12-11
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身みを※もがくに宛然さながらである。
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第3水準1-92-36
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■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年3月