蛇くひ
泉鏡花
1
西は神通川の堤防を以て劃とし、東は町盡の樹林境を爲し、南は海に到りて盡き、北は立山の麓に終る。此間十里見通しの原野にして、山水の佳景いふべからず。其川幅最も廣く、町に最も近く、野の稍狹き處を郷屋敷田畝と稱へて、雲雀の巣獵、野草摘に妙なり。
2
此處往時北越名代の健兒、佐々成政の別業の舊跡にして、今も殘れる築山は小富士と呼びぬ。
3
傍に一本、榎を植ゆ、年經る大樹鬱蒼と繁茂りて、晝も梟の威を扶けて鴉に塒を貸さず、夜陰人靜まりて一陣の風枝を拂へば、愁然たる聲ありておうおう[#「おうおう」に傍点]と唸くが如し。
4
されば爰に忌むべく恐るべきをに譬へて、假にといへる一種いつしゆ異樣いやうの乞食こつじきありて、郷がう屋敷田畝やしきたんぼを徘徊はいくわいす。驚破すは「應おう」來きたれりと叫さけぶ時ときは、幼童えうどう婦女子ふぢよしは遁隱にげかくれ、孩兒がいじも怖おそれて夜泣よなきを止とゞむ。
「應おう」は普通ふつうの乞食こつじきと齊ひとしく、見みる影かげもなき貧民ひんみんなり。頭髮とうはつは婦人をんなのごとく長ながく伸のびたるを結むすばず、肩かたより垂たれて踵かゝとに到いたる。跣足せんそくにて行歩かうほ甚はなはだ健けんなり。容顏ようがん隱險いんけんの氣きを帶おび、耳みゝ敏さとく、氣き鋭するどし。各自おの/\一條でうの杖つゑを携たづさへ、續々ぞく/\市街しがいに入込いりこみて、軒毎のきごとに食しよくを求もとめ、與あたへざれば敢あへて去さらず。
5
初はじめは人皆ひとみな懊惱うるさゝに堪たへずして、渠等かれらを罵のゝしり懲こらせしに、爭あらそはずして一旦いつたんは去されども、翌日よくじつ驚おどろく可べき報怨しかへしを蒙かうむりてより後のちは、見みす/\米錢べいせんを奪うばはれけり。
6
渠等かれらは己おのれを拒こばみたる者ものの店前みせさきに集あつまり、或あるひは戸口とぐちに立並たちならび、御繁昌ごはんじやうの旦那だんな吝けちにして食しよくを與あたへず、餓うゑて食くらふものの何なになるかを見みよ、と叫さけびて、袂たもとを深さぐれば畝々うね/\と這出はひいづる蛇くちなはを掴つかみて、引斷ひきちぎりては舌鼓したうちして咀嚼そしやくし、疊たゝみとも言いはず、敷居しきゐともいはず、吐出はきいだしては舐ねぶる態さまは、ちらと見みるだに嘔吐おうどを催もよほし、心弱こゝろよわき婦女子ふぢよしは後三日のちみつかの食しよくを廢はいして、病やまひを得えざるは寡すくなし。
7
凡およそ幾百戸いくひやくこの富家ふか、豪商がうしやう、一度どづゝ、此この復讐しかへしに遭あはざるはなかりし。渠等かれらの無頼ぶらいなる幾度いくたびも此この擧動きよどうを繰返くりかへすに憚はゞかる者ものならねど、衆ひとは其その乞こふが隨意まゝに若干じやくかんの物品ものを投とうじて、其その惡戲あくぎを演えんぜざらむことを謝しやするを以もて、蛇食へびくひの藝げいは暫時ざんじ休憩きうけいを呟つぶやきぬ。
8
渠等かれら米錢べいせんを惠めぐまるゝ時ときは、「お月樣つきさま幾いくつ」と一齊いつせいに叫さけび連つれ、後あとをも見みずして走はしり去さるなり。ただ貧家ひんかを訪とふことなし。去さりながら外面おもてに窮乏きうばふを粧よそほひ、嚢中なうちう却かへつて温あたゝかなる連中れんぢうには、頭あたまから此この一藝いちげいを演えんじて、其家そこの女房にようばう娘等むすめらが色いろを變へんずるにあらざれば、決けつして止やむることなし。法はふはいまだ一個人いつこじんの食物しよくもつに干渉かんせふせざる以上いじやうは、警吏けいりも施ほどこすべき手段しゆだんなきを如何いかんせむ。
9
蝗いなご、蛭ひる、蛙かへる、蜥蜴とかげの如ごどきは、最もつとも喜よろこびて食しよくする物ものとす。語ごを寄よす應おうよ、願ねがはくはせめて糞汁ふんじふを啜すゝることを休やめよ。もし之これを味噌汁みそしると酒落しやれて用もちゐらるゝに至いたらば、十萬石まんごくの稻いねは恐おそらく立處たちどころに枯かれむ。
10
最もつとも饗膳きやうぜんなりとて珍重ちんちようするは、長蟲ながむしの茹初ゆでたてなり。蛇くちなは[#底本ではくちはなのルビ]の料理れうり鹽梅あんばいを潛ひそかに見みたる人ひとの語かたりけるは、應おうが常住じやうぢうの居所ゐどころなる、屋根やねなき褥しとねなき郷がう屋敷田畝やしきたんぼの眞中まんなかに、銅あかゞねにて鑄いたる鼎かなへに類るゐすを裾すゑ、先まづ河水かはみづを汲くみ入いるゝこと八分目はちぶんめ餘よ、用意ようい了をはれば直たゞちに走はしりて、一本榎いつぽんえのきの洞うろより數十條すうじふでうの蛇くちなはを捕とらへ來きたり、投込なげこむと同時どうじに目めの緻密こまかなる笊ざるを蓋おほひ、上うへには犇ひしと大石たいせきを置おき、枯草こさうを燻ふすべて、下したより爆※ぱツ/\と火ひを焚たけば、長蟲ながむしは苦悶くもんに堪たへず蜒轉※のたうちまはり、遁のがれ出いでんと吐はき出いだす纖舌せんぜつ炎ほのほより紅あかく、笊ざるの目めより突出つきいだす頭かしらを握にぎり持もちてぐツと引ひけば、脊骨せぼねは頭かしらに附つきたるまゝ、外そとへ拔出ぬけいづるを棄すてて、屍しかばね傍かたへに堆うづたかく、湯ゆの中なかに煮にえたる肉にくをむしや――むしや喰くらへる樣さまは、身みの毛けも戰悚よだつばかりなりと。
應おうとは殘忍ざんにんなる乞丐きつかいの聚合しうがふせる一團體いちだんたいの名ななることは、此一このいちを推おしても知しる可べきのみ。生いける犬いぬを屠ほふりて鮮血せんけつを啜すゝること、美うつくしく咲さける花はなを蹂躙じうりんすること、玲瓏れいろうたる月つきに向むかうて馬糞ばふんを擲なげうつことの如ごときは、言いはずして知しるベきのみ。
11
然しかれども此この白晝はくちう横行わうぎやうの惡魔あくまは、四時しじ恆つねに在ある者ものにはあらず。或あるひは週しうを隔へだてて歸かへり、或あるひは月つきをおきて來きたる。其その去さる時とき來きたる時とき、進退しんたい常つねに頗すこぶる奇きなり。
12
一人にん榎えのきの下もとに立たちて、「お月樣つきさま幾いくつ」と叫さけぶ時ときは、幾多いくたの應おう等ら同音どうおんに「お十三じふさん七なゝつ」と和わして、飛禽ひきんの翅つばさか、走獸そうじうの脚あしか、一躍いちやく疾走しつそうして忽たちまち見みえず。彼かの堆うづたかく積つめる蛇くちなはの屍しかばねも、彼等かれら將まさに去さらむとするに際さいしては、穴あなを穿うがちて盡こと/″\く埋うづむるなり。さても清風せいふう吹ふきて不淨ふじやうを掃はらへば、山野さんや一點いつてんの妖氛えうふんをも止とゞめず。或時あるときは日ひの出いづる立山りふざんの方かたより、或時あるときは神通川じんつうがはを日沒につぼつの海うみより溯さかのぼり、榎えのきの木蔭こかげに會合くわいがふして、お月樣つきさまと呼よび、お十三じふさんと和わし、パラリと散ちつて三々五々さん/\ごゞ、彼かの杖つゑの響ひゞく處ところ妖氛えうふん人ひとを襲おそひ、變幻へんげん出沒しゆつぼつ極きはまりなし。
13
されば郷がう屋敷田畝やしきたんぼは市民しみんのために天工てんこうの公園こうゑんなれども、隱然いんぜん應おうが支配しはいする所ところとなりて、猶なほ餅もちに黴菌かびあるごとく、薔薇しやうびに刺とげあるごとく、渠等かれらが居きよを恣ほしいまゝにする間あひだは、一人にんも此この惜をしむべき共樂きようらくの園そのに赴おもむく者ものなし。其その去さつて暫時ざんじ來きたらざる間あひだを窺うかゞうて、老若らうにやく爭あらそうて散策さんさく野遊やいうを試こゝろむ。
14
さりながら應おうが影かげをも止とゞめざる時ときだに、厭いとふべき蛇喰へびくひを思おもひ出いださしめて、折角せつかくの愉快ゆくわいも打消うちけされ、掃愁さうしうの酒さけも醒さむるは、各自かくじが伴ともなひ行ゆく幼をさなき者ものの唱歌しやうかなり。
15
草くさを摘つみつつ歌うたふを聞きけば、
拾乎ひらを、拾乎ひらを、豆まめ拾乎ひらを、
鬼おにの來こぬ間まに豆まめ拾乎ひらを。
16
古老こらうは眉まゆを顰ひそめ、壯者さうしやは腕うでを扼やくし、嗚呼あゝ、兒等こら不祥ふしやうなり。輟やめよ、輟やめよ、何なんぞ君きみが代よを細石さゞれいしに壽ことぶかざる!
などと小言こごとをおつしやるけれど、拾ひろはにやならぬ、いんまの間ま。
17
斯かくの如ごとく言消いひけして更さらに又また、
拾乎ひらを、拾乎ひらを、豆まめ拾乎ひらを、
鬼おにの來こぬ間まに豆まめ拾乎ひらを。
18
と唱となへ出いだす節ふしは泣なくがごとく、怨うらむがごとく、いつも應おうの來きたりて市街しがいを横行わうかうするに從したがうて、件くだんの童謠どうえう東西とうざいに湧わき、南北なんぼくに和わし、言語ごんごに斷たえたる不快ふくわい嫌惡けんをの情じやうを喚起よびおこして、市人いちびとの耳みゝを掩おほはざるなし。
19
童謠どうえうは應おうが始はじめて來きたりし稍やゝ以前いぜんより、何處いづこより傳つたへたりとも知しらず流行りうかうせるものにして、爾來じらい父母※兄ふぼしけいが誑だましつ、賺すかしつ制せいすれども、頑ぐわんとして少すこしも肯きかざりき。
20
都人士とじんしもし此事このことを疑うたがはば、請こふ直たゞちに來きたれ。上野うへのの汽車きしや最後さいごの停車場ステエシヨンに達たつすれば、碓氷峠うすひたうげの馬車ばしやに搖ゆられ、再ふたゝび汽車きしやにて直江津なほえつに達たつし、海路かいろ一文字いちもんじに伏木ふしきに至いたれば、腕車わんしや十錢せん富山とやまに赴おもむき、四十物町あへものちやうを通とほり拔ぬけて、町盡まちはづれの杜もりを潛くゞらば、洋々やう/\たる大河たいがと共ともに漠々ばく/\たる原野げんやを見みむ。其處そこに長髮ちやうはつ敝衣へいいの怪物くわいぶつを見みとめなば、寸時すんじも早はやく踵くびすを囘かへされよ。もし幸さいはひに市民しみんに逢あはば、進すゝんで低聲ていせいに應おうは?と聞きけ、彼かれの變へんずる顏色がんしよくは口くちより先さきに答こたへをなさむ。
21
無意むい無心むしんなる幼童えうどうは天使てんしなりとかや。げにもさきに童謠どうえうありてより應おうの來きたるに一月ひとつきを措おかざりし。然しかるに今いまは此歌このうた稀々まれ/\になりて、更さらにまた奇異きいなる謠うたは、
屋敷田畝やしきたんぼに光ひかる物ものア何なんぢや、
蟲むしか、螢ほたるか、螢ほたるの蟲むしか、
蟲むしでないのぢや、目めの玉たまぢや。
22
頃日けいじつ至いたる處ところの辻つじにこの聲こゑを聞きかざるなし。
23
目めの玉たま、目めの玉たま! 赫奕かくやくたる此この明星みやうじやうの持主もちぬしなる、應おうの巨魁きよくわいが出現しゆつげんの機き熟じゆくして、天公てんこう其その使者ししやの口くちを藉かりて、豫あらかじめ引いんをなすものならむか。
底本:「鏡花全集 巻四」岩波書店
1941昭和16年3月15日第1刷発行
1986昭和61年12月3日第3刷発行
入力:馬野哲一
校正:鈴木厚司
ファイル作成:鈴木厚司
2000年11月9日公開
2001年10月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
・本文中の/\は、二倍の踊り字「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号。濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」。
・本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。
爆※ぱツ/\と火ひを焚たけば、
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蜒轉※のたうちまはり、
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第4水準2-12-11
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父母※兄ふぼしけい
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変更終了:平成14年3月