義血侠血
泉鏡花
[表記について]
本文中、底本のルビは「」の形式で処理した。また、JIS外字にない外字は「※」で代用し、字形についてはファイル末尾の外字一覧表中のグラフィックで示した。
一
1
越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
2
賃銭の廉きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨みて、人と馬との軋轢ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
3
七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃えんとて、奴はその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車よりお疾うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
4
甲走る声は鈴の音よりも高く、静かなる朝の街に響き渡れり。通りすがりの婀娜者は歩みを停めて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
5
沢庵を洗い立てたるように色揚げしたる編片の古帽子の下より、奴は猿眼を晃かして、
「ものは可試だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴きません」
6
かく言ううちも渠の手なる鈴は絶えず噪ぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
7
奴は昂然として、
「虚言と坊主の髪は、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
8
微笑みつつ女子はかく言い捨てて乗り込みたり。
9
その年紀は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力みありて、眼色にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
10
これはたして何者なるか。髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に※脂のみを点したり。服装は、将棊の駒を大形に散らしたる紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬の蹴出しを微露し、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包みを持ち添えたり。
11
挙止侠にして、人を怯れざる気色は、世磨れ、場慣れて、一条縄の繋ぐべからざる魂を表わせり。想うに渠が雪のごとき膚には、剳青淋漓として、悪竜焔を吐くにあらざれば、寡なくも、その左の腕には、双枕に偕老の名や刻みたるべし。
12
馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者より待合所の縁に倚りて、一篇の書を繙ける二十四、五の壮佼あり。盲縞の腹掛け、股引きに汚れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解れたる深靴を穿き、鍔広なる麦稈帽子を阿弥陀に被りて、踏ん跨ぎたる膝の間に、茶褐色なる渦毛の犬の太くたくましきを容れて、その頭を撫でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音を聞くと斉しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
13
渠の形躯は貴公子のごとく華車に、態度は森厳にして、そのうちおのずから活溌の気を含めり。陋しげに日に※みたる面も熟視れば、清※明眉、相貌秀でて尋常ならず。とかくは馬蹄の塵に塗れて鞭を揚ぐるの輩にあらざるなり。
14
御者は書巻を腹掛けの衣兜に収め、革紐を附けたる竹根の鞭を執りて、徐かに手綱を捌きつつ身構うるとき、一輛の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠めて、瞬く間に一点の黒影となり畢んぬ。
15
美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車よりおそいじゃないか」
16
奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾えといったな」
17
奴は愛嬌よく頭を掻きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
18
御者は黙して頷きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶きて一文字に跳ね出だせり。不意を吃いたる乗り合いは、座に堪らずしてほとんど転び墜ちなんとせり。奔馬は中を駈けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻きを緩め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
19
車夫は必死となりて、やわか後れじと焦れども、馬車はさながら月を負いたる自家の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息逼りて、今や殪れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野の駅に来たりぬ。
20
この街道の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後れて、喘ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間の一人は、手に唾して躍り出で、
「おい、兄弟しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
21
やにわに対曳きの綱を梶棒に投げ懸くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点だい!」
22
それと言うまま挽き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車は無二無三に突進して、ついに一歩を抽きけり。
23
車夫は諸声に凱歌を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳せて、軽迅丸の跳るがごとく二、三間を先んじたり。
24
向者は腕車を流眄に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人は、
「さあ、やられた!」と身を悶えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤を握るもあり、地蹈※を踏むもあり、奴を叱してしきりに喇叭を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮いて、激しく手綱を掻い繰れば、馬背の流汗滂沱として掬すべく、轡頭に噛み出だしたる白泡は木綿の一袋もありぬべし。
25
かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲き、早瀬の浮き木を弄ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰し、左右に頽れて、片時も安き心はなく、今にもこの車顛覆るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我は免れぬところと、老いたるは震い慄き、若きは凝瞳になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
26
七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍ちて、車も憾くばかりに喝采せり。奴は凱歌の喇叭を吹き鳴らして、後れたる人力車を麾きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色もなく、意を注ぎて馬を労り駈けさせたり。
27
怪しき美人は満面に笑みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣なる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発りませんね。平気なものだ、女丈夫だ。私なんぞはからきし意気地はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
28
その言の訖わらざるに、車は凸凹路を踏みて、がたくりんと跌きぬ。老夫は横様に薙仆されて、半ば禿げたる法然頭はどっさりと美人の膝に枕せり。
「あれ、あぶない!」
29
と美人はその肩をしかと抱きぬ。
30
老夫はむくむく身を擡げて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁さんや、もし若い衆さん、なんと顛覆るようなことはなかろうの」
31
御者は見も返らず、勢籠めたる一鞭を加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
32
老夫は眼を円くして狼狽えぬ。
「いやさ、転ばぬ前の杖だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老のことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
33
呆れはてて老夫は呟けば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚で歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
34
老夫は腹だたしげに御者の面を偸視せり。
35
後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押しを加えたれども、なおいまだ逮ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面より空車を挽き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳きは血声を振り立て、
「後生だい、手を仮してくんねえか。あの瓦多馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇は叫べり。
36
血気事を好む徒は、応と言うがままにその車を道ばたに棄てて、総勢五人の車夫は揉みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
37
そのとき車夫はいっせいに吶喊して馬を駭ろかせり。馬は懾えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
38
恐怖、叫喚、騒擾、地震における惨状は馬車の中に顕われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
39
一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻せらるる汽船の、やがて千尋の底に汨没せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾々たる穏波を截ると異ならざる精神をもって、その職を竭くすがごとく、従容として手綱を操り、競争者に後れず前まず、隙だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨み合いつつ推し行くさまは、この道堪能の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
40
されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌て忙きて、あまたの神と仏とは心々に祷られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶りたり。
41
かくて六箇の車輪はあたかも同一の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲い、客に茶を売るを例とすれども、今日ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想いぬ。
42
御者はこの店頭に馬を駐めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮り、声を揚げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
43
乗り合いは切歯をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙に裹まれて、ついに眼界のほかに失われき。
44
旅商人体の男は最も苛ちて、
「なんと皆さん、業肚じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早く行ってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者はまことにはやどうも。第一この疝に障りますのでな」
45
と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫なり。馬は群がる蠅と虻との中に優々と水飲み、奴は木蔭の床几に大の字なりに僵れて、むしゃむしゃと菓子を吃らえり。御者は框に息いて巻き莨を燻しつつ茶店の嚊と語りぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟けば、田舎女房と見えたるがその前面にいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
46
最初の発言者はますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。どうぞ御賛成を願います」
47
渠は直ちに帯佩げの蟇口を取り出して、中なる銭を撈りつつ、
「ねえあなた、ここでああ惰けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
48
やがて銅貨三銭をもって隗より始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人の前に差し出して、渠はあまねく義捐を募れり。
49
あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
50
美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞を卑うして挨拶せり。
「とんだお附き合いで、どうもおきのどく様でございます」
51
美人は軽く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
52
余所目に瞥たる老夫はいたく驚きて面を背けぬ、世話人は頭を掻きて、
「いや、これは剰銭が足りない。私もあいにく小かいのが……」
53
と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
54
世話人は呆れて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
55
これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財の婦女子に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝れり。
56
世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「〆て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
57
御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
58
彼は気軽に御者の肩を拊きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
59
御者は流眄に紙包みを見遣りて空嘯きぬ。
「酒手で馬は動きません」
60
わずかに五銭六厘を懐にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的に御者の面を眺めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
61
車は徐々として進行せり。
「戴く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
62
六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入せんとせり。渠は固く拒みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由がございません」
63
世話人は推し返されたる紙包みを持ち扱いつつ、
「理由も糸瓜もあるものかな。お客が与るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車を抽いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
64
世話人は冷笑いぬ。
「そんなりっぱな口を※いたって、約束が違や世話はねえ」
65
御者はきと振り顧りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅いという約束だぜ」
66
儼然として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な酒手も奮もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
67
鼻蠢かして世話人は御者の背を指もて撞きぬ。渠は一言を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
68
なお渠は緘黙せり。その唇を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄たちまち高く挙がれば、車輪はその輻の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾に盪られて、浮沈の憂き目に遭いぬ。
69
縦騁五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗を取らざるを得ざるべきなり。憐れむべし過度の馳※に疲れ果てたる馬は、力なげに俛れたる首を聯べて、策てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
70
何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
71
乗り合いは顔を見合わせて、この謎を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨りたり。
72
魂消たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面を鳩め、あけらかんと頤を垂れて、おそらくは画にも観るべからざるこの不思議の為体に眼を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動とを載せてましぐらに馳せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復りて響動めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
73
例の老夫は頭を悼り悼り呟けり。
「いや洒落どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
74
不審の眉を※めたる前の世話人は、腕を拱きつつ座中を※して、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常の鼠じゃあんめえと睨んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態を見せられて、置き去りを吃うやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯た真似をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
75
奴は途方に暮れて、曩より車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「活きてるものの動かないという法があるものか」
「臀部を引っ撲け引っ撲け」
76
奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭曳きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
77
腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊まれり。渠はさんざんに苛まれてついに涙ぐみ、身の措き所に窮して、辛くも車の後に竦みたりき。乗り合いはますます躁ぎて、敵手なき喧嘩に狂いぬ。
78
御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋りつ。風は※々と両腋に起こりて毛髪竪ち、道はさながら河のごとく、濁流脚下に奔注して、身はこれ虚空を転ぶに似たり。
79
渠は実に死すべしと念いぬ。しだいに風歇み、馬駐まると覚えて、直ちに昏倒して正気を失いぬ。これ御者が静かに馬より扶け下ろして、茶店の座敷に舁き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主の嫗に嘱みて、その身は息をも継かず再び羸馬に策ちて、もと来し路を急ぎけり。
80
ほどなく美人は醒めて、こは石動の棒端なるを覚りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊ねて、金さんなるを知りぬ。その為人を問えば、方正謹厳、その行ないを質せば学問好き。
二
81
金沢なる浅野川の磧は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯ねて、猿芝居、娘軽業、山雀の芸当、剣の刃渡り、活き人形、名所の覗き機関、電気手品、盲人相撲、評判の大蛇、天狗の骸骨、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑あらず。
82
なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸なり。太夫滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当たり。
83
時まさに午後一時、撃柝一声、囃子は鳴りを鎮むるとき、口上は渠がいわゆる不弁舌なる弁を揮いて前口上を陳べ了われば、たちまち起こる緩絃朗笛の節を履みて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結い掛けて、脂粉こまやかに桃花の媚びを粧い、朱鷺色縮緬の単衣に、銀糸の浪の刺繍ある水色絽の※※を着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々に喚きぬ。
「いよう、待ってました大明神様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう金沢暴し!」
「ここな命取り!」
84
喝采の声のうちに渠は徐かに面を擡げて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙げて一咳し、
「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初腕調べとして御覧に入れまするは、露に蝶の狂いを象りまして、。ありゃ来た、よいよいよいさて」
85
さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手ゆんでに把とりて、右手めてには黄白こうはく二面の扇子を開き、やと声発かけて交互いれちがいに投げ上ぐれば、露を争う蝶一双ひとつ、縦横上下に逐おいつ、逐われつ、雫しずくも滴こぼさず翼も息やすめず、太夫の手にも住とどまらで、空に文あや織る練磨れんまの手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声だみごえ高く喚よばわりつつ、外面おもての幕を引き揚あげたるとき、演芸中の太夫はふと外との方かたに眼を遣やりたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
86
口上は狼狽ろうばいして走り寄りぬ。見物はその為損しそんじをどっと囃はやしぬ。太夫は受け住とめたる扇を手にしたるまま、その瞳ひとみをなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
87
口上はいよいよ狼狽して、為せん方を知らざりき。見物は呆あきれ果てて息を斂おさめ、満場斉ひとしく頭こうべを回めぐらして太夫の挙動ふるまいを打ち瞶まもれり。
88
白糸は群れいる客を推し排わけ、掻かき排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
89
あわただしく木戸口に走り出で、項うなじを延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼わかものあり。
90
何事や起こりたると、見物は白糸の踵あとより、どろどろと乱れ出ずる喧擾ひしめきに、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面おもてを見るを得たり。渠は色白く瀟洒いなせなりき。
「おや、違ってた!」
91
かく独語ひとりごちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。
三
92
夜よはすでに十一時に近づきぬ。磧かわらは凄涼せいりょうとして一箇いっこの人影じんえいを見ず、天高く、露気ろきひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
93
熱鬧ねっとうを極きわめたりし露店はことごとく形を斂おさめて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩もるる燈火ともしびは、かすかに宵のほどの名残なごりを留とどめつ。河かわは長く流れて、向山むこうやまの松風静かに度わたる処ところ、天神橋の欄干に靠もたれて、うとうとと交睫まどろむ漢子おのこあり。
94
渠かれは山に倚より、水に臨み、清風を担にない、明月を戴いただき、了然たる一身、蕭然しょうぜんたる四境、自然の清福を占領して、いと心地ここちよげに見えたりき。
95
折から磧の小屋より顕あらわれたる婀娜者あだものあり。紺絞りの首抜きの浴衣ゆかたを着て、赤毛布ゲットを引き絡まとい、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄げたの爪頭つまさきに戞々かつかつと礫こいしを蹴遣けやりつつ、流れに沿いて逍遥さまよいたりしが、瑠璃るり色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
96
川風はさっと渠の鬢びんを吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
97
しかと毛布ケットを絡まといて、渠はあたりを※みまわしぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色けしきなもんだ」
98
渠は再び徐々として歩を移せり。
99
この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠はたごを取らずして、小屋を家とせるもの寡すくなからず。白糸も然さなり。
100
やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄あずまげたの音は天地の寂黙せきもくを破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛おかしさに、なおしいて響かせつつ、橋の央なかば近く来たれるとき、やにわに左手ゆんでを抗あげてその高髷たかまげを攫つかみ、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
101
暴々あらあらしく引き解ほどきて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
102
かくて白糸は水を聴きき、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾ちんきんとして露下月前に快眠せる漢子おのこは、数歩のうちにありて※いびきを立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
103
囃子方はやしかたに新という者あり。宵より出いでていまだ小屋に還かえらざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を※のぞきたり。
104
新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。彼ははたして新にはあらざりき。新の相貌そうぼうはかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝まさること千の新なるべき異常の面魂つらだましいなりき。
105
その眉まゆは長くこまやかに、睡ねむれる眸子まなじりも凛如りんじょとして、正しく結びたる唇くちびるは、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽しゅんそうなるを語れり。漆のごとき髪はやや生おいて、広き額ひたいに垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦そよげり。
106
つくづく視ながめたりし白糸はたちまち色を作なして叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
107
欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者ぎょしゃなり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
108
渠は跫音あしおとを忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
109
恍惚こうこつとして瞳ひとみを凝らしたりしが、にわかにおのれが絡まといし毛布ケットを脱ぎて被きせ懸かけたれども、馭者は夢にも知らで熟睡うまいねせり。
110
白糸は欄干に腰を憩やすめて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝ひざのあたりをはたと拊うてり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚めざまして、叭あくびまじりに、
「ああ、寝た。もう何時なんどきか知らん」
111
思い寄らざりしわがかたわらに媚なまめける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
112
馭者は愕然がくぜんとして顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布ケットありて、深夜の寒を護まもれり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
113
白糸は微笑えみを含みて、呆あきれたる馭者の面おもてを視みつつ、
「夜露に打たれると体からだの毒ですよ」
114
馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌ごきげんよう」
115
いよいよ呆あきれたる馭者は少しく身を退すさりて、仮初かりそめながら、狐狸変化こりへんげのものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺ながめたる渠の眼色めざしは、顰ひそめる眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑かたほえみて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首こうべを傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
116
馭者はいたく驚けり。月下の美人生面せいめんにしてわが名を識しる。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸こりの類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所とこで!」
117
袖そでを掩おおいて白糸は嫣然えんぜん一笑せり。
118
馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首こうべを正して言えり。
「抱いた記憶おぼえはないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走かけっくらをして、石動いするぎ手前からおまえさんに抱かれて、馬上うまの合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手よこでを拍うちて、馭者は大声たいせいを発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
119
馭者は唇辺しんぺんに微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶おもい出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上うまの合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
120
二人は相見て笑いぬ。ときに数杵すうしょの鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
121
白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日いつ、どうしてお出でなすったの?」
122
四顧寥廓しこりょうかくとして、ただ山水と明月とあるのみ。※戻りょうれいたる天風てんぷうはおもむろに馭者の毛布ケットを飄ひるがえせり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄ながしめに見遣みやりぬ。
「いや、それはともかくも、話説はなしをせんけりゃ解わからん」
123
馭者は懐裡ふところを捜さぐりて、油紙の蒲簀莨入かますたばこいれを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発ひらかんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃はたくを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
124
馭者は言下ごんかに莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管が壅つまってます」
「いいえ、結構」
125
白糸は一吃いっきつを試みぬ。はたしてその言ことばのごとく、煙管は不快こころわろき脂やにの音のみして、煙けむりの通うこと縷いとすじよりわずかなり。
「なるほどこれは壅つまってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要いるのだ」
「ばかにしないねえ」
126
美人は紙縷こよりを撚ひねりて、煙管を通し、溝泥どぶどろのごとき脂に面おもてを皺しわめて、
「こら! 御覧な、無性ぶしょうだねえ。おまえさん寡夫やもめかい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶あいさつだ。でも、情婦いろの一人や半分はんぶんはありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝いっかつせり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
127
渠はこの問答を忌まわしげに空嘯そらうそぶきぬ。
「おまえさんの壮年としで、独身ひとりみで、情婦がないなんて、ほんとに男子おとこの恥辱はじだよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
128
馭者は傲然ごうぜんとして、
「そんなものは要いらんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除そうじができたから、一服戴いただこう」
129
白糸はまず二服を吃きっして、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「また壅つまったときは、いつでも持ってお出でなさい」
130
大口開あいて馭者は心快こころよげに笑えり。白糸は再び煙管を仮かりて、のどかに烟けぶりを吹きつつ、
「今の顛末はなしというのを聞かしてくださいな」
131
馭者は頷うなずきて、立てりし態すがたを変えて、斜めに欄干に倚より、
「あのとき、あんな乱暴を行やって、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜くやしがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
132
美人は眉まゆを昂あげて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟りくつなんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩けんかを仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便おんびんがいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
133
白糸は身に沁しむ夜風にわれとわが身を抱いだきて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
134
渠は慰むる語ことばなきがごとき面色おももちなりき。馭者は冷笑あざわらいて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
135
美人は愁然として腕を拱こまぬきぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨ぶらついていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁べっとうの口でもあるだろうと思って、探さがしに出て来た。今日きょうも朝から一日奔走かけあるいたので、すっかり憊くたびれてしまって、晩方一風呂ひとっぷろ入はいったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼すずみに出掛けて、ここで月を観みていたうちに、いい心地こころもちになって睡ねこんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者は頭かしらを掉ふりぬ。
136
白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
137
馭者は長嘆せり。
「生得うまれからの馬丁でもないさ」
138
美人は黙して頷うなずきぬ。
「愚痴ぐちじゃあるが、聞いてくれるか」
139
わびしげなる男の顔をつくづく視ながめて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細しさいがあって、幼少ちいさいころに家うちは高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺おやじに亡なくなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止やめさ。それから高岡へ還かえってみると、その日から稼かせぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体からだだろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父おやじは馬の家じゃなかったけれど、大の所好すきで、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児こどもの時分稽古けいこをして、少しは所得おぼえがあるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計くらしを立てているという、まことに愧はずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡りょうけんでもない、目的も希望のぞみもあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
140
渠は茫々ぼうぼうたる天を仰ぎて、しばらく悵然ちょうぜんたりき。その面上おもてにはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝たえざる声音こわねにて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望のぞみというのは、私たちには聞いても解わかりはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修業さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃあありませんか」
141
馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
142
白糸は軽かろく小膝ひざを拊うちて、
「黄金かねの世の中ですか」
「地獄の沙汰さたさえ、なあ」
143
再び馭者は苦笑いせり。
144
白糸は事もなげに、
「じゃあなた、お出いでなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
145
深沈なる馭者の魂も、このとき跳おどるばかりに動ゆらめきぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄おののきたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性ましょうのものを睨ねめたりけり。さきに半円の酒銭さかてを投じて、他の一銭よりも吝おしまざりしこの美人の胆たんは、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に※目とうもくせし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出ほとばしらん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸こりか、変化へんげか、魔性か。おそらくは※脂えんしの怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
146
馭者は美人の意こころをその面おもてに読まんとしたりしが、能あたわずしてついに呻うめき出だせり。
「なんだって?」
147
美人も希有けうなる面色おももちにて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚に唾つばするがごとく独語ひとりごちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番ひとつ私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
148
馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなに慮かんがえることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁ゆかりもないものに……」
「縁というのも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければ報かえさんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩おんがえしができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父おじさんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉つかまえて、やたらにお金を貢みついでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生ごしょうだから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要いるものじゃない。私はおまえさんの希望のぞみというのが※かないさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩おんがえしさ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物ひとになれると想おもうから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
149
その音おん柔媚じゅうびなれども言々風霜を挟さしはさみて、凛りんたり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
150
渠は襟きんを正して、うやうやしく白糸の前に頭かしらを下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
151
美人は喜色満面に溢あふるるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語ことばを遣つかわれると、私は気が逼つまるから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々りりしくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ窮こまったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
152
馭者は夢みる心地ここちしつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面おもてに露あらわして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩おんがえしには、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望のぞみはありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が※かないさえすれば……」
「それはいかん! 自分の所望のぞみを遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩おんがえしになるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
153
かく言いつつ美人は微笑ほほえみぬ。
「いや、理屈りくつを言うわけではないがね、目的を達するのを報恩おんがえしといえば、乞食こじきも同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞もらった報恩おんがえしになるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
154
とみには返す語ことばもなくて、白糸は頭かしらを低たれたりしが、やがて馭者の面おもてを見るがごとく見ざるがごとく※うかがいつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はやや容かたちを正せり。
「ちっと羞はずかしいことさ」
「なんなりとも」
「諾きいてくださるか。いずれおまえさんの身に適かなったことじゃあるけれども」
「一応聴きいた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
155
白糸は鬢びんの乱おくれを掻かき上げて、いくぶんの赧羞はずかしさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶まもりつつ、固唾かたずを嚥のみてその語るを待てり。白糸は始めに口籠くちごもりたりしが、直ちに心を定めたる気色けしきにて、
「処女きむすめのように羞はずかしがることもない、いい婆ばばあのくせにさ。私の所望のぞみというのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君おかみさんにしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯しょうがい親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」
156
馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。
「よろしい。けっしてもう他人ではない」
157
涼しき眼めと凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅※ほうはくは、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。
「私は高岡の片原町かたはらまちで、村越欣也むらこしきんやという者だ」
「私は水島友といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
158
白糸ははたと語ことばに塞つまりぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。
「お宅はちっと窮こまったねえ」
「だって、家うちのないものがあるものか」
「それがないのだからさ」
159
天下に家なきは何者ぞ。乞食こつじきの徒といえども、なおかつ雨露を凌しのぐべき蔭かげに眠らずや。世上の例ならいをもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿たまのこしに乗るべきなり。しかるを渠は無宿やどなしと言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如しかず、と馭者は思えり。
「それじゃどこにいるのだ」
「あすこさ」と美人は磧かわらの小屋を指させり。
160
馭者はそなたを望みて、
「あすことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑えみを含みぬ。
「ははあ、見世物小屋とは異かわっている」
161
馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸がけざりき、寡すくなくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌くみておのれを嘲あざけりぬ。
「あんまり異かわりすぎてるわね」
「見世物の三味線しゃみせんでも弾ひいているのかい」
「これでも太夫元たゆうもとさ。太夫だけになお悪いかもしれない」
162
馭者は軽侮けいぶの色をも露あらわさず、
「はあ、太夫! なんの太夫?」
「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目きまりが悪いからさ」
163
馭者はますますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
164
かく言いつつ珍しげに女の面おもてを※のぞきぬ。白糸はさっと赧あからむ顔を背そむけつつ、
「ああもうたくさん、堪忍かにしておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
165
白糸は渠の語ことばを手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情ふぜいにて、欣弥は頷うなずけり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
166
つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞つきたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳いくつになるのだ」
「おまえさん何歳いくつになるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆ばばあだね」
「何歳いくつさ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳はたちぐらいかと想おもった」
「何か奢おごりましょうよ」
167
白糸は帯の間より白縮緬ちりめんの袱紗ふくさ包みを取り出だせり。解ひらけば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「ここに三十円あります。まあこれだけ進あげておきますから、家うちの処置かたをつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
「家うちの処置といって、別に金円かねの要いるようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
「全額みんなもらったらおまえさんが窮こまるだろう」
「私はまた明日あす入はいる口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
168
欣弥は受け取りたる紙幣を軽かろく戴いただきて懐ふところにせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥いちべつして、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
169
渠は愚弄ぐろうの態度を示して、両箇ふたりのかたわらに立ち住どまりぬ。白糸はわずかに顧眄みかえりて、棄すつるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」
「なんだね、人をばかにして。一人いちにん乗りに同乗あいのりができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
170
おもしろ半分に※まつわるを、白糸は鼻の端さきに遇あしらいて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。他ひとのことよりは、早く還かえって、内君うちのでも悦よろこばしておやんな」
171
さすがに車夫もこの姉御の与くみしやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
172
渠は直ちに踵きびすを回めぐらして、鼻唄はなうたまじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫くるまや!」とにわかに呼び住とめたり。
173
車夫しゃふは頭かしらを振り向けて、
「へえ、やっばりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木ふしきまで行くか」
174
渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
175
伏木はけだし上都じょうとの道、越後直江津えちごなおえつまで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐに発たとうと思う」
「これから?!」と白糸はさすがに心むねを轟とどろかせり。
176
欣弥は頷きたりし頭かしらをそのまま低たれて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳ひとみを凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
177
一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若い衆しゅさん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
178
渠が紙入れを捜さぐるとき、欣弥はあわただしく、
「車夫くるまや、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
179
五銭の白銅を把とりて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間なかに分け入りて、
「少し都合があるのだから、これから遣やってくれ」
180
渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚さとりて、潔く未練を棄すてぬ。
「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」
181
このとき両箇ふたりの眼まなこは期せずして合えり。
「そうしてお母かあさんには?」
「道で寄って暇乞いとまごいをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯ふざけでないよ」
182
欣弥はすでに車上にありて、
「車夫くるまや、どうだろう。二人乗ったら毀こわれるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。姉ねえさんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
183
欣弥は手招けば、白糸は微笑ほおえむ。その肩を車夫はとんと拊うちて、
「とうとう異おつな寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
184
月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。
四
185
滝の白糸は越後の国新潟にいがたの産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間業わざを離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶かなわざるなきがゆえに、四方の金主きんしゅは渠かれを争いて、ついに例ためしなき莫大ばくだいの給金を払うに到いたれり。
186
渠は親もあらず、同胞はらからもあらず、情夫つきものとてもあらざれば、一切いっさいの収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放かったつごうほうの気は、この余裕あるがためにますます膨張ぼうちょうして、十金じっきんを獲うれば二十金にじっきんを散ずべき勢いをもって、得るままに撒まき散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難かたきを渠は知らざりしゆえなり。
187
渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越ほうえつして鉄拐てっかとなりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。
188
渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳いくとせをのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸はしを控えて渠が饋餉きしょうを待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。
189
従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫ひしぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩ねじ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有たもちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年みとせの長きに亙わたれり。
190
あるいは富山とやまに赴おもむき、高岡に買われ、はた大聖寺だいしょうじ福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭いとわず八方に稼かせぎ廻まわりて、幸いにいずくも外はずさざりければ、あるいは血をも濺そそがざるべからざる至重しちょうの責任も、その収入によりて難なく果たされき。
191
されども見世物の類たぐいは春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸ようやく寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪せつ世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居ちっきょせざるべからざるをや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采やんやは全く暑中にありて、冬季は坐食す。
192
よし渠は糊口ここうに窮せざるも、月々十数円の工面くめんは尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖そでを振りける? 魚は木に縁よりて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借したりしなり。
193
その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方塞ふさがりて、融通の道も絶えなむとせり。
194
翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技わざとをもって、希有けうの人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主附つきて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調ととのいき。
195
白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借し、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰あましてけり。これをもってせば欣弥母子おやこが半年の扶持に足るべしとて、渠は顰ひそみたりし愁眉しゅうびを開けり。
196
されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
197
渠の希望のぞみはすでに手の達とどくばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支ささうるを得ば足れり。無頓着むとんじゃくなる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為なさざりき。その約に負そむかざらんことを虞おそるる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専もっぱらなりき。
198
かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を※おわりたりしは、一時に垂なんなんとするころなりき。白昼ひるまを欺くばかりなりし公園内の万燈まんどうは全く消えて、雨催あまもよいの天そらに月はあれども、四面※※おうぼつとして煙けぶりの布しくがごとく、淡墨うすずみを流せる森のかなたに、たちまち跫音あしおとの響きて、がやがやと罵ののしる声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹あとに残りて語合かたらう女あり。
「ちょいと、お隣の長松ちょうまつさんや、明日あしたはどこへ行きなさる?」
199
年増としまの抱いだける猿さるの頭を撫なでて、かく訊たずねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首ろくろくびの因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
200
年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛想よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公ちょんこのほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
201
渠は抱いだきし猿を放ち遣やりぬ。
202
折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被ほおかぶりせる男の顔は赤く顕あらわれぬ。黒き影法師も両三箇ふたつみつそのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視すかしみて、
「おや、出刃打ちの連中があすこに憩やすんでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後うしろに声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
203
旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住どまりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、姉ねえさん」
「参りましょうかね」
204
両箇ふたりの女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇だいじゃを籠かごに入れて荷になう者と、馬に跨またがりて行く曲馬芝居の座頭ざがしらとを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹らくえきとして森蔭もりかげに列を成せるその状さまは、げに百鬼夜行一幅の活図かっとなり。
205
ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃しんすいとして月色ますます昏くらく、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、※谺こだまに響き、水に鳴りて、魂消たまぎる一声ひとこえ、
「あれえ!」
五
206
水は沈濁して油のごとき霞かすみが池いけの汀みぎわに、生死も分かず仆たおれたる婦人あり。四肢しを弛ゆるめて地つちに領伏ひれふし、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕まくらを返して、がっくりと頭かしらを俛たれ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起あがりて、※よろめく体たいをかたわらなる露根松ねあがりまつに辛からくも支ささえたり。
207
その浴衣ゆかたは所々引き裂け、帯は半ば解ほどけて脛はぎを露あらわし、高島田は面影を留とどめぬまでに打ち頽くずれたり。こはこれ、盗難に遇あえりし滝の白糸が姿なり。
208
渠はこの夜の演芸を※おわりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫まどろみたりき。一座の連中は早くも荷物を取纏まとめて、いざ引き払わんと、太夫たゆうの夢を喚よびたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現うつつに言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常へいぜいを識しりければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
209
程ほど経て白糸は目覚めざましぬ。この空小屋あきごやのうちに仮寝うたたねせし渠の懐ふところには、欣弥が半年の学資を蔵おさめたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静しずかなるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴おもむかんとて、これまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍おどり出ずる人数にんずあり。
210
みなこれ屈竟くっきょうの大男おおおのこ、いずれも手拭てぬぐいに面おもてを覆つつみたるが五人ばかり、手に手に研とぎ澄ましたる出刃庖丁でばぼうちょうを提ひさげて、白糸を追っ取り巻きぬ。
211
心剛こころたしかなる女なれども、渠はさすがに驚きて佇たたずめり。狼藉者ろうぜきものの一個ひとりは濁声だみごえを潜めて、
「おう、姉ねえさん、懐中ふところのものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
212
かく言いつつ他の一個ひとりはその庖丁を白糸の前に閃ひらめかせば、四挺ちょうの出刃もいっせいに晃きらめきて、女の眼めを脅かせり。
213
白糸はすでにその身は釜中ふちゅうの魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁のがるること難かたし。
214
渠はその平生へいぜいにおいてかつて百金を吝おしまざるなり。されども今夜懐ふところにせる百金は、尋常一様の千万金に直あたいするものにして、渠が半身の精血とも謂いっつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲うるの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達かったつの女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
215
白糸は死守せんものと決心せり。渠の唇くちびるは黒くなりぬ。彼の声はいたく震いぬ。
「これは与やられないよ」
「与くれなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
「遣やっつけろ、遣っつけろ!」
216
その声を聞くとひとしく、白糸は背後うしろより組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫ひしぐるばかりの翼緊はがいじめに遭あえり。たちまち暴あらくれたる四隻よつの手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈かきさがせり。
「あれえ!」と叫びて援すくいを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個ひとりの賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声は※こたえぬ。
217
白糸は猿轡さるぐつわを吃はまされて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶もだえて、跋はね覆かえさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛ゆるみぬ。虚すかさず白糸は起き復かえるところを、はたと※仆けたおされたり。賊はその隙ひまに逃げ失うせて行くえを知らず。
218
惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還かえらざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚もゆるがごとく、万感の心むねを衝つくに任せて、無念已やむ方なき松の下蔭したかげに立ち尽くして、夜の更ふくるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念あきらめるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう?!」
219
渠はひしとわが身を抱いだきて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々ようようたる霞が池は、霜の置きたるように微黯ほのぐらき月影を宿せり。
220
白糸の眼色めざしはその精神の全力を鍾あつめたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面おもを屹きと視みたり。
「ええ、もうなんともかとも謂いえないいやな心地こころもちだ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
221
渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛ばんこくの水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉よろよろと汀みぎわに寄れば、足下あしもとに物ありて晃きらめきぬ。思わず渠の目はこれに住とどまりぬ。出刃庖丁なり!
222
これ悪漢が持てりし兇器きょうきなるが、渠らは白糸を手籠てごめにせしとき、かれこれ悶着もんちゃくの間に取り遺おとせしを、忘れて捨て行きたるなり。
223
白糸はたちまち慄然りつぜんとして寒さを感おぼえたりしが、やがて拾い取りて月に翳かざしつつ、
「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」
224
この証拠物件を獲えたるがために、渠はその死を思い遏とどまりて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀みぎわを離れて、渠は推し仆たおされたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然ぼつぜんとして起これり。繊弱かよわき女子おんなの身なりしことの口惜くちおしさ! 男子おとこにてあらましかばなど、言い効がいもなき意気地いくじなさを憶おもい出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。
225
渠は再び草の上に一物あるものを見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地あさぎじに白く七宝繋つなぎの洗い晒ざらしたる浴衣ゆかたの片袖かたそでにぞありける。
226
またこれ賊の遺物なるを白糸は暁さとりぬ。けだし渠が狼藉ろうぜきを禦ふせぎし折に、引き断ちぎりたる賊の衣きぬの一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹つつみて懐中ふところに推し入れたり。
227
夜はますます闌たけて、霄そらはいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下あしもとの叢くさむらより池に跋はね込む蛙かわずは、礫つぶてを打つがごとく水を鳴らせり。
228
行く行く項うなじを低たれて、渠は深くも思い悩みぬ。
「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕つかまろうか。捕ったところで、うまく金子かねが戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期あてにしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮こまってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到いかなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情わけだとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺おやじだもの。のべつに小癪こしゃくに障さわることばっかり陳ならべやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁つらい! といって才覚のしようもなし。……」
229
陰々として鐘声の度わたるを聞けり。
「もう二時だ。はてなあ!」
230
白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠もたせたるは、未央柳びおうりゅうの長く垂たれたる檜ひのきの板塀いたべいのもとなりき。
231
こはこれ、公園地内に六勝亭ろくしょうていと呼べる席貸せきがしにて、主翁あるじは富裕の隠居なれば、けっこう数寄すきを尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。
232
白糸が佇たたずみたるは、その裏口の枝折しおり門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖ささでありければ、渠が靠もたるるとともに戸はおのずから内に啓ひらきて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。
233
渠はしばらく惘然ぼうぜんとして佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを※みまわせり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮ねしずまりたる気勢けはいなり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森しげり」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵いたりぬ。
234
このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃ぬすみて他の門内に侵入するは賊の挙動ふるまいなり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。
235
ここに思い到いたりて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗とうというなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某なにがしらがこの手段に用いたりし記念かたみなり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭かしらを傾けたり。
236
良心は疾呼しっこして渠を責めぬ。悪意は踴躍ゆうやくして渠を励ませり。渠は疾呼の譴責けんせきに遭あいては慚悔ざんかいし、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃たのむべからざるを知りて、ついに迭たがいに闘たたかいたりき。
「道ならないことだ。そんな真似まねをした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚はじも顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗とろう。盗ってそうして死のう死のう!」
237
かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可ゆるさざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪ゆらるる小舟おぶねのごとく、安んじかねて行きつ、還もどりつ、塀ぎわに低徊ていかいせり。ややありて渠は鉢前はちまえ近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事くせごとを行なわんとはせざりしなり。渠かれは再び沈吟せり。
238
良心に逐おわれて恐惶きょうこうせる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑いとまあらざりき。渠が塀ぎわに徘徊はいかいせしとき、手水口ちょうずぐちを啓ひらきて、家内の一個ひとりは早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍おぞくも知らざりけり。
239
鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面おもてを露あらわせり。白糸あなやと飛び退すさる遑ひまもなく、
「偸児どろぼう!」と男の声は号さけびぬ。
240
白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟とどろけり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手めてに閃ひらめきて、縁に立てる男の胸をば、柄つかも透とおれと貫きたり。
241
戸を犇ひしめかして、男は打ち僵たおれぬ。朱あけに染みたるわが手を見つつ、重傷いたでに唸うめく声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦すくみて、わなわなと顫ふるいぬ。
242
渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞ふるまいをなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪たおれたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。しかれども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
243
白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後うしろに、
「あなた、どうなすった?」
244
と聞こゆるは寝惚ねぼれたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣みやりぬ。
245
灯影ひかげは縁を照らして、跫音あしおとは近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると※うかがいぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿ねまきすがたのしどけなく、真鍮しんちゅうの手燭てしょくを翳かざして、覚めやらぬ眼を※みひらかんと面おもてを顰ひそめつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸しがいに近づきて、それとも知らず、
「あなた、そんな所とこに寝て……どうなすっ。……」
246
燈あかしを差し向けて、いまだその血に驚く遑いとまあらざるに、
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝つき付けたり。
247
内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝ひざを折り敷き、その場に打ち俯ふして、がたがたと慄ふるいぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君おかみさん、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
248
俯して答いらえなき内儀の項うなじを、出刃にてぺたぺたと拍たたけり。内儀は魂魄たましいも身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとは要いらないんだ。百円あればいい」
249
内儀はせつなき呼吸いきの下より、
「金子かねはあちらにありますから。……」
「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」
250
出刃庖丁は内儀の頬ほおを見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能あたわざりき。
「さあ早くしないかい」
「た、た、た、ただ……いま」
251
渠は立たんとすれども、その腰は挙あがらざりき。されども渠はなお立たんと焦あせりぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌あわてつ、悶もだえつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間ふたまを隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需もとむる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、
「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡さるぐつわを箝はめてておくれ」
252
渠は内儀を縛いましめんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地ひとごこちあらざるまでに恐怖したりし主婦あるじは、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴あらくれたる大の男おのこにはあらで、軆度とりなり優しき女子おんなならんとは、渠は今その正体を見て、与くみしやすしと思えば、
「偸児どろぼう!」と呼び懸かけて白糸に飛び蒐かかりつ。
253
自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄えを返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻ねじ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬かみ着き、片手には庖丁振り抗あげて、再び柄をもて渠の脾腹ひばらを吃くらわしぬ。
「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴じだたらを踏みて、内儀はなお暴あららかに、なおけたたましく、
「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。
254
これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭のんどを目懸めがけてただ一突きと突きたりしに、覘ねらいを外はずして肩頭かたさきを刎はね斫きりたり。
255
内儀は白糸の懐に出刃を裹つつみし片袖を撈さぐり得あてて、引っ掴つかみたるまま遁のがれんとするを、畳み懸けてその頭かしらに斫きり着けたり。渠はますます狂いて再び喚わめかんとしたりしかば、白糸は触あたるを幸いめった斫ぎりにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐ちしおを見ざりき。一坪の畳は全く朱あけに染みて、あるいは散り、あるいは迸ほとばしり、あるいはぽたぽたと滴したたりたる、その痕あとは八畳の一間にあまねく、行潦にわたずみのごとき唐紅からくれないの中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳こぶしを握り、歯を噛くい緊しめてのけざまに顛覆うちかえりたるが、血塗ちまぶれの額越ひたいごしに、半ば閉じたる眼まなこを睨にらむがごとく凝すえて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。
256
白糸は生まれてより、いまだかかる最期さいごの愴惻あさましきを見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業しわざなるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念おもえり。渠の心は再び得堪えたうまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免のがれんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想おもいして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄すつるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急こころせくまま手水口の縁に横たわる躯むくろのひややかなる脚あしに跌つまずきて、ずでんどうと庭前にわさきに転まろび墜おちぬ。渠は男の甦よみがえりたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。
257
風やや起こりて庭の木末こずえを鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面おもてを打てり。
六
258
高岡石動いするぎ間の乗り合い馬車は今ぞ立野たてのより福岡までの途中にありて走れる。乗客の一個ひとりは煙草火たばこびを乞かりし人に向かいて、雑談の口を開きぬ。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会でございますか」
「さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……」
259
渠かれは話好きと覚しく、
「ヘへ、何か公務おつとめむきの御用で」
260
その人は髭ひげを貯たくわえて、洋服を着けたるより、渠かれはかく言いしなるべし。官吏?は吸い窮つめたる巻煙草を車の外に投げ棄すて、次いで忙いそがわしく唾つば吐きぬ。
「実は明日あすか、明後日あさってあたり開くはずの公判を聴きこうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
261
渠はその公判のなんたるを知らざるがごとし。かたわらにいたる旅商人たびあきゅうどは、卒然我われは顔がおに喙くちばしを容いれたり。
「ああ、なんでございますか。この夏公園で人殺しをした強盗の一件?」
262
髭ある人は眼まなこを「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳細事くわしいことは存じませんで。じゃあの賊は逮捕つかまりましてすか」
263
話を奪われたりし前の男も、思い中あたる筋やありけん、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな風説うわさがございましたっけ。有福かねもちの夫婦を斬きり殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」
264
髭は再びこなたを振り向きて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
265
渠は話児はなしを釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末てんまつを聞かんとせり。乙者おつも劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本ぜっぽんはようやく軟やわらぎぬ。
「賊はじきにその晩捕やられた」
「こわいものだ!」と甲者こうは身を反そらして頭かしらを掉ふりぬ。
「あの、それ、南京ナンキン出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」
266
乙者おつは直ちにこれに応ぜり。
「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣やりかねますまいよ」
「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎とがめるとこそこそ遁にげ出したから、こいつ胡散うさんだと引っ捉とらえて見ると、着ている浴衣ゆかたの片袖かたそでがない」
267
談ここに到いたりて、甲と乙とは、思わず同音に嗟うめきぬ。乗り合いは弁者の顔を※うかがいて、その後段を渇望せり。
268
甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」
269
弁者はこの訛言かたことをおかしがりて、
「天網恢々てんもうかいかい疎にして漏らさずかい」
270
甲者は聞くより手を抗あげて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
271
乗り合いの過半おおくはこの恢々に笑えり。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁あるじは桐田きりたという金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業しわざだか、いや、それは、実に残酷に害やられたというね。亭主は鳩尾みぞおちのところを突き洞とおされる、女房は頭部あたまに三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を刳えぐられて、僵たおれていたその手に、男の片袖を掴つかんでいたのだ」
272
車中声なく、人は固唾かたずを嚥のみて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸しがいのそばに出刃庖丁でばぼうちょうが捨ててあった。柄えの所に片仮名かたかなのテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用つかっていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違ちがいないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
273
旅商人は膝ひざを進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
274
弁者はたちまち手を抗あげてこれを抑おさえぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪とりましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門かどは通過とおりもしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者は眉まゆを動かして、弁者を凝視みつめたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨まきたばこを取り出だして、唇くちびるに湿しつつ、
「話はこれからだ」
275
左側さそくの席の前端まえはしに並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭たがいに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台ふしせんだいの袴はかまを穿はきて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装いでたちにはあらざるなり。されどもその相貌そうぼうとその髭とは、多く得うべからざる紳士の風采ふうさいを備えたり。
276
弁者は仔細しさいらしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
277
乙者は頷うなずき頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶うつくしいので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のあの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪とるときに、おおかた断ちぎられたのであろうが、自分は知らずに遁にげたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅おどすために持っていたのを、慌あわてて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟りくつには合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ」
278
甲者は頬杖ほおづえ※つきたりし面おもてを外はずして、弁者の前に差し寄せつつ、
「へえへえ、そうして女はなんと申しました」
「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」
279
思いも寄らぬ弁者の好謔こうぎゃくは、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。
「ところが金子かねを奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児どろぼうのほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡おおおか政談にでもありそうな話さ」
「これにはだいぶ事情わけがありそうです」
280
乙者は首を捻ひねりつつ腕を拱こまぬけり。例の「なるほど」は、談はなしのますます佳境に入るを楽しめる気色けしきにて、
「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどう致いたしました」
281
傍聴者は声を斂おさめていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。
282
弁者はなおも語ことばを継ぎぬ。
「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶ間ひまがあったのだ。この間あいだに出刃打ちの弁護士は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕を揮ふるって、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉てぐすねを引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
283
甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色を作なせり。
「へえ、そのなんでございますか、旦那だんな、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女に誣なすろうという姦計たくみなんでございますか」
284
弁者は渠の没分暁ぼつぶんぎょうを笑いて、
「何も姦計たくみだの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
285
甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者を睨げいして、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手あいては女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだって管かまやしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎を極きめ付けてやりまさあ」
286
渠の鼻息はすこぶる暴あららかなりき。
「そんな弁護士をだれが頼むものか」
287
と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑い寝やむころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席を起たてり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃いんぎんに一揖いちゆうして、
「おかげさまでおもしろうございました」
「どうも旦那だんなありがとう存じました」
288
弁者は得々として、
「おまえさんがたも間ひまがあったら、公判を行ってごらんなさい」
「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」
289
乗客は忙々いそがわしく下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りて扶たすけ下ろしつつ、
「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車くるまでございます」
290
渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇たたずめり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳ひとみを凝らせり。
291
たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所失とれたる茶羅紗ちゃらしゃのチョッキに、水晶の小印こいんを垂下ぶらさげたるニッケル鍍めっきの※くさりを繋かけて、柱に靠もたれたる役員の前に頭かしらを下げぬ。
「その後は御機嫌ごきげんよろしゅう。あいかわらずお達者で……」
292
役員は狼狽ろうばいして身を正し、奪うがごとくその味噌漉みそこし帽子を脱げり。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから肖にているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手じょうずなりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理というのかい」
293
老いたる役員はわが子の出世を看みるがごとく懽よろこべり。
294
当時むかし盲縞めくらじまの腹掛けは今日黒の三つ紋の羽織となりぬ。金沢裁判所新任検事代理村越欣弥氏は、実に三年前の馭者台上の金公なり。
七
295
公判は予定の日において金沢地方裁判所に開かれたり。傍聴席は人の山を成して、被告および関係者水島友は弁護士、押丁おうていらとともに差し控えて、判官の着席を待てり。ほどなく正面の戸をさっと排ひらきて、躯高たけたかき裁判長は入り来たりぬ。二名の陪席判事と一名の書記とはこれに続けり。
296
満廷粛として水を打ちたるごとくなれば、その靴音くつおとは四壁に響き、天井に※こたえて、一種の恐ろしき音を生なして、傍聴人の胸に轟とどろきぬ。
297
威儀おごそかに渠かれらの着席せるとき、正面の戸は再び啓ひらきて、高爽こうそうの気を帯び、明秀の容かたちを具そなえたる法官は顕あらわれたり。渠はその麗しき髭ひげを捻ひねりつつ、従容しょうようとして検事の席に着きたり。
298
謹慎なる聴衆を容いれたる法廷は、室内の空気些さも熱せずして、渠らは幽谷の木立ちのごとく群がりたり。制服を絡まといたる判事、検事は、赤と青とカバーを異にせるテーブルを別ちて、一段高き所に居並びつ。
299
はじめ判事らが出廷せしとき、白糸は徐しずかに面おもてを挙あげて渠らを見遣みやりつつ、臆おくせる気色けしきもあらざりしが、最後に顕われたりし検事代理を見るやいなや、渠は色蒼白あおざめて戦おののきぬ。この俊爽なる法官は実に渠が三年みとせの間夢寐むびも忘れざりし欣さんならずや。渠はその学識とその地位とによりて、かつて馭者ぎょしゃたりし日の垢塵こうじんを洗い去りて、いまやその面おもてはいと清らに、その眉はひときわ秀ひいでて、驚くばかりに見違えたれど、紛まがうべくもあらず、渠は村越欣弥なり。白糸は始め不意の面会に駭おどろきたりしが、再び渠を熟視するに及びておのれを忘れ、三たび渠を見て、愁然として首を低たれたり。
300
白糸はありうべからざるまでに意外の想おもいをなしたりき。
301
渠はこのときまで、一箇ひとりの頼もしき馬丁べっとうとしてその意中に渠を遇せしなり。いまだかくのごとく畏敬すべき者ならんとは知らざりき。ある点においては渠を支配しうべしと思いしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かすべき力のわれにあらざるを覚えき。ああ、闊達かったつ豪放なる滝の白糸! 渠はこのときまで、おのれは人に対してかくまで意気地いくじなきものとは想わざりしなり。
302
渠はこの憤りと喜びと悲しみとに摧くじかれて、残柳の露に俯ふしたるごとく、哀れに萎しおれてぞ見えたる。
303
欣弥の眼まなこは陰ひそかに始終恩人の姿に注げり。渠ははたして三年みとせの昔天神橋上月明げつめいのもとに、臂ひじを把とりて壮語し、気を吐くこと虹にじのごとくなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰えたるかな。
304
恩人の顔は蒼白あおざめたり。その頬ほおは削こけたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌溌かつはつはつの鉄拐てっかを表わせしに、今はその憔悴しょうすいを増すのみなりけり。
305
渠は想えり。濶達豪放の女丈夫! 渠は垂死の病蓐びょうじょくに横たわらんとも、けっしてかくのごとき衰容をなさざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火はすでに燼きえたるか。なんぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。
306
欣弥はこの体ていを見るより、すずろ憐愍あわれを催して、胸も張り裂くばかりなりき。同時に渠はおのれの職務に心着きぬ。私をもって公に代えがたしと、渠は拳こぶしを握りて眼まなこを閉じぬ。
307
やがて裁判長は被告に向かいて二、三の訊問ありけるのち、弁護士は渠の冤えんを雪すすがんために、滔々とうとう数千言を陳つらねて、ほとんど余すところあらざりき。裁判長は事実を隠蔽いんぺいせざらんように白糸を諭さとせり。渠はあくまで盗難に遭あいし覚えのあらざる旨を答えて、黒白は容易に弁ずべくもあらざりけり。
308
検事代理はようやく閉じたりし眼まなこを開くとともに、悄然しょうぜんとして項うなじを垂たるる白糸を見たり。渠はそのとき声を励まして、
「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、裹つつまず事実を申せ」
309
友はわずかに面おもてを擡あげて、額越ひたいごしに検事代理の色を候うかがいぬ。渠は峻酷しゅんこくなる法官の威容をもて、
「そのほうは全く金子きんすを奪とられた覚えはないのか。虚偽いつわりを申すな。たとい虚偽をもって一時を免のがるるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代なだいの芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽いつわりなどを申しては、その名に対しても実に愧はずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数おおくの贔屓ひいきもあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽を申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言って誉ほめるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日きょう限り愛想あいそを尽かして、以来は道で遭あおうとも唾つばもしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯ひきょう千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
310
かく諭さとしたりし欣弥の声音こわねは、ただにその平生を識しれる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸の愁うれわしかりし眼まなこはにわかに清く輝きて、
「そんなら事実ほんとうを申しましょうか」
311
裁判長はしとやかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は奪とられました」
312
ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。
「なに? 盗とられたと申すか」
313
裁判長は軽かろく卓たくを拍うちて、きと白糸を視みたり。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠てごめにして、私の懐中の百円を奪りました」
「しかとさようか」
「相違ござりません」
314
これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。
315
検事代理村越欣弥は私情の眼まなこを掩おおいてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を累かさねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是ぜなりとして、渠に死刑を宣告せり。
316
一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、永ながく恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居ぐうきょの二階に自殺してけり。
[校正者註]全集版をもとに、以下の書き換えを行った。
全集版:『鏡花全集 巻一』岩波書店1942年7月30日発行、1986年9月3日第3刷
数字は底本のページ数と行数と示す。「底本」→「修正」。
9-12「握るものあり」→「握るもあり」
10-7「隣たる」→「隣なる」
14-4「なにとぞ」→「どうぞ」
16-11「持て扱いつつ」→「持ち扱いつつ」
17-12「脣」→「唇」。25-13、28-9、53-4、66-5も同様。
17-13 「挙ぐれば」→「挙がれば」
23-11「一箇ひとり」→「一箇いっこ」
26-8「眼覚めさまして」→「眼覚めざまして」
34-8「いうじゃありませんか」→「いうじゃあありませんか」
36-5「縁というものも」→「縁というのも」
41-4「思い懸かけざりき」→「思い懸がけざりき」
43-8「これに」→「ここに」
47-5「金主きんす」→「金主きんしゅ」
48-7「赴いき」→「赴おもむき」
48-12「べからざるや」→「べからざるをや」
48-16「前借りしたりしなり」→「前借ぜんしゃくしたりしなり」
49-5「前借りし」→「前借ぜんしゃくし」
50-5「愛相よく」→「愛想よく」
52-5「そこまで」→「これまで」
52-16「かつ」→「かつて」
58-7「鈍おそくも」→「鈍おぞくも」
59-1「されども」→「しかれども」
64-16「訛言かたごと」→「訛言かたこと」
65-10「かたわらに」→「そばに」
66-15「かの女」→「あの女」
69-5「おかげで」→「おかげさまで」
73-4「虚偽に」→「虚偽を」
[表記について]
本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。
※脂べに[6-15]
※脂えんし[35-8]
|
|
※くろみたる[7-12]
|
第4水準2-94-60
|
清※明眉せいろめいび[7-12]
|
|
地蹈※じだたら[9-12]
|
第3水準1-93-84
|
※きいたって[16-16]
|
|
馳※ちぶ[18-1]
|
第4水準2-92-92
|
※あつめたる[19-4]
|
第3水準1-85-6
|
※みまわして[19-4]
※みまわしぬ[24-7]
※みまわせり[57-4]
|
第4水準2-81-91
|
※々しゅうしゅう[20-11]
|
|
※※かみしも[21-15]
|
第4水準2-88-9、第4水準2-88-10
|
※いびき[25-6]
|
第4水準2-94-72
|
※のぞきたり[25-9]
※うかがいつつ[38-15]
※のぞきぬ[41-17]
※うかがいぬ[59-9]
※うかがいて[64-11]
|
第4水準2-88-41
|
※戻りょうれいたる[29-3]
|
第4水準2-92-40
|
※目とうもくせし[35-6]
|
第3水準1-88-91
|
※かないさえすれば[36-13]
※かないさえすれば……[37-17]
|
第3水準1-84-56
|
磅※ほうはく[40-2]
|
第3水準1-89-18
|
※まつわるを[44-7]
|
第4水準2-5-29
|
※おわりたりしは[49-13]
※おわりしのち[51-16]
|
第3水準1-93-53
|
四面※※おうぼつとして[49-15]
|
第4水準2-79-5、該当なし
|
※谺こだまに響き[51-6]
|
第4水準2-88-88
|
※よろめく[51-12]
|
第3水準1-92-38
|
※こたえぬ[53-13]
※こたえて[70-17]
|
|
※仆けたおされたり[53-16]
|
第4水準2-89-38
|
※みひらかんと[59-10]
|
第3水準1-88-85
|
※つきたりし[67-5]
|
第3水準1-84-73
|
※くさり[69-16]
|
第4水準2-91-32
|
底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
1971昭和46年4月20日改版初版発行
1999平成11年2月10日改版40版発行
初出:「読売新聞」1894明治27年11月1日〜30日
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年10月23日公開
ファイル作成:鈴木厚司
青空文庫作成ファイル:
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■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
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行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年3月