泉鏡花
1
「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」
2
寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えば可い。
「しゃあっ! 八貫―ウん、八貫、八貫、八貫と十ウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫!」
3
目の下およそ八寸ばかり、濡色の鯛を一枚、しるし半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、じりじりと下ろして行くが、
「しゃッ、しゃッ。」
4
と、腰を切って、胸を反らすと、再び尾から頭へ、じりじりと響を打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。
「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」
5
親仁の面は朱を灌いで、その吻は蛸のごとく、魚の鰭は萌黄に光った。
「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々に糶るのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」
6
と黒い外套を着た男が、同伴の、意気で優容の円髷に、低声で云った。
「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」
7
人だちの背後から覗いていたのが、連立って歩き出して、
「……と言われると、第一、東京の魚河岸の様子もよく知らないで、お恥かしいよ。――ここで言っては唐突で、ちと飛離れているけれど、松江だね、出雲の。……茶町という旅館間近の市場で見たのは反対だっけ――今の……」
8
外套の袖を手で掲げて、
「十貫、百と糶上げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然と投げる。――処をすかさず受取るんだ、よう、と云って後の方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口に、仲仕とかのするような広い前掛を捲いて、お花見手拭のように新しいのを頸に掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。」
「陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱られるかも知れないけれど、皆が蓮根市場というくらいなんですわ。」
「成程、大きに。――しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池を見に、寄道をしたんだっけ。」
9
と、外套は、洋杖も持たない腕を組んだ。
10
話の中には――この男が外套を脱ぐ必要もなさそうだから、いけぞんざいだけれども、懇意ずく、御免をこうむって、外套氏としておく。ただ旅客でも構わない。
11
が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた――渠の帰省談の中の同伴は、その容色よしの従姉なのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣の留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの二十七八。で、親まさりの別嬪が冴返って冬空に麗かである。それでも、どこかひけめのある身の、縞のおめしも、一層なよやかに、羽織の肩も細りとして、抱込んでやりたいほど、いとしらしい風俗である。けれども家業柄――家業は、土地の東の廓で――近頃は酒場か、カフェーの経営だと、話すのに幅が利くが、困った事にはお茶屋、いわゆるおん待合だから、ちと申憎い、が、仕方がない。それだけにまた娘の、世馴れて、人見知りをしない様子は、以下の挙動で追々に知れようと思う。
12
ちょうどいい。帰省者も故郷へ錦ではない。よって件の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。
「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖さ。」
「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」
13
湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。
14
いかにも、湖は晃々と見える。が、水が蒼穹に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺は、麓の迫る裾になり、遠山は波濤のごとく累っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端は、巨きな猪の横に寝た態に似た、その猪の鼻と言おう、中空に抽出た、牙の白いのは湖である。丘を隔てて、一条青いのは海である。
15
その水の光は、足許の地に影を映射して、羽織の栗梅が明く澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた――一段高く台を蹈んで立った――糶売の親仁は、この小春日の真中に、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。
「あの煙突が邪魔だな。」
16
ここを入って行きましょうと、同伴が言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、その猪の鼻の山裾を仰いで言った。
「あれ、温泉よ。」
「温泉?」
「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」
「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀がないていた……」
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蟋蟀は……ここでも鳴く。
「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場でしたわね。」
「そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」
「そのお飯粒で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸の方とは違うんですか。」
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鯛はまだ値が出来ない。山の端の薄に顱巻を突合せて、あの親仁はまた反った。
「違うんだよ。……何も更めて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして――活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、明取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」
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と笑いながら、
「そうかい、温泉かい……こんな処に。」
「沸すんですよ……ただの水を。」
「ただの水はよかった、成程。」
「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢の湯っていうんですよ。」
「狢の湯?……」
20
と同伴の顔を見た時は、もうその市場の裡を半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥の抽斗の一つ足りないような気がする。今来た入口に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹でた豌豆を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履ものの目立って紅いのも、もの侘しい。蒟蒻の桶に、鮒のバケツが並び、鰌の笊に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗いている……といった形。
21
――あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。――
「皆その御眷属が売っているようだ。」
「何? おじさん。」
「いえね、その狢の湯の。」
「あら聞こえると悪ござんすわ。」
22
とたしなめる目づかいが、つい横の酒類販売店の壜に、瞳が蝶のようにちらりと映って、レッテルの桜に白い頬がほんのりする。
「決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈が五つ六つあってごらん。――横露地の初午じゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。」
「そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさんならですけど、可厭よ、私、こんな処で、腰掛けて一杯なんぞ。」
「大丈夫。いくら好きだって、蕃椒では飲めないよ。」
23
と言った。
24
市場を出た処の、乾物屋と思う軒に、真紅な蕃椒が夥多しい。……新開ながら老舗と見える。わかめ、あらめ、ひじきなど、磯の香も芬とした。が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩で一杯であった。
「見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。」
25
串戯ではない。日向に颯と村雨が掛った、薄の葉摺れの音を立てて。――げに北国の冬空や。
26
二人は、ちょっとその軒下へ入ったが、
「すぐ晴れますわ、狐の嫁入よ。」
27
という、斜に見える市場の裏羽目に添って、紅蓼と、露草の枯れがれに咲いて残ったのが、どちらがその狐火の小提灯だか、濡々と灯れて、尾花に戦いで……それ動いて行く。
「そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずらずらと降って来るようじゃあないか。」
「可厭、おじさん。」
28
と捩れるばかり、肩を寄せて、
「気味が悪い。」
「じゃあ、言直そう。ここは蓮池のあとらしいし、この糸で曼陀羅が織れよう。」
「ええ、だって、極楽でも、地獄でも、その糸がいけないの。」
「糸が不可いとは。」
「……だって、椎の木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗ともいうんですわ。」
29
後前を見廻して、
「それはね、城のお殿様の御寵愛の、その姉さんだったと言いましてね。むかし、魔法を使うように、よく祈りのきいた、美しい巫女がそこに居て、それが使った狢だとも言うんですがね。」
30
あなたは知らないのか、と声さえ憚ってお町が言った。――この乾物屋と直角に向合って、蓮根の問屋がある。土間を広々と取り、奥を深く、森と暗い、大きな家で、ここを蓮根市とも呼ぶのは、その故だという。屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶の黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木の梢である。大昔から、その根に椎の樹婆叉というのが居て、事々に異霊妖変を顕わす。徒然な時はいつも糸車を廻わしているのだそうである。もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとを訪うために来た。……その時分には遊びに往来もしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちは威しもしまい。……近所に古狢の居る事を、友だちは矜りはしなかったに違いない。
31
――町の湯の名もそれから起った。――そうか、椎の木の大狢、経立ち狢、化婆々。
「あれえ。」
「…………」
「可厭、おじさんは。」
「あやまった、あやまった。」
32
鉄砲で狙われた川蝉のように、日のさす小雨を、綺麗な裾で蓮の根へ飛んで遁げた。お町の後から、外套氏は苦笑いをしながら、その蓮根問屋の土間へ追い続いて、
「決して威す気で言ったんじゃあない。――はじめは蛇かと思って、ぞっとしたっけ。」
33
椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩に搦んで、ちょろちょろと首と尾が顕われた。その上下に巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車が畝って通る。……で悚気としたが、熟と視ると、鼠か、溝鼠か、降る雨に、あくどく濡れて這っている。……時も時だし、や、小さな狢が天井へ、とうっかり饒舌って、きれいな鳥を蓮池へ飛ばしたのであった。
「そんな事に驚く奴があるものか。」
「だって、……でも、もう大丈夫だわ、ここへ来れば人間の狸が居るから。」
34
と、大きに蓮葉で、
「権ちゃん――居るの。」
35
獣ならば目が二つ光るだろう。あれでも人が居るかと思う。透かして見れば帳場があって、その奥から、大土間の内側を丸太で劃った――――その劃の外側を廻って、右の権ちゃん……めくら縞の筒袖を懐手で突張って、狸より膃肭臍に似て、ニタニタと顕われた。廓の美人で顔がきく。この権ちゃんが顕われると、外土間に出張った縁台に腰を掛けるのに――市が立つと土足で糶上るのだからと、お町が手巾でよく払いて、縁台に腰を掛けるのだから、じかに七輪の方がいい、そちこち、お八つ時分、薬鑵の湯も沸いていようと、遥な台所口からその権ちゃんに持って来させて、御挨拶は沢山……大きな坊やは、こう見えても人見知りをするから、とくるりと権ちゃんに背後を向かせて、手で叩く真似をすると、えへへ、と権ちゃんの引込んだ工合が、印は結ばないが、姉さんの妖術に魅ったようであった。
36
通り雨は一通り霽ったが、土は濡れて、冷くて、翡翠の影が駒下駄を辷ってまた映る……片褄端折に、乾物屋の軒を伝って、紅端緒の草履ではないが、ついと楽屋口へ行く状に、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルの壜、と見ると片手に持った硝子盃が、光りを分けて、二つになって並んだのは、お町さんも、一口つき合ってくれる気か。
「しゃッ、しゃッ。」
37
思わず糶声を立てて、おじさんは、手を揚げながら、片手で外套の膝を叩いた。
「お手柄、お手柄。」
38
土間はたちまち春になり、花の蕾の一輪を、朧夜にすかすごとく、お町の唇をビイルで撓めて、飲むほどに、蓮池のむかしを訪う身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根が柵の内外、浄土の逆茂木。勿体ないが、五百羅漢の御腕を、組違えて揃う中に、大笊に慈姑が二杯。泥のままのと、一笊は、藍浅く、颯と青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、尉を払い、火箸であしらい、媚かしい端折のまま、懐紙で煽ぐのに、手巾で軽く髪の艶を庇ったので、ほんのりと珊瑚の透くのが、三杯目の硝子盃に透いて、あの、唇だか、その珊瑚だか、花だか、蕾だか、蕩然となる。
「町子嬢、町子嬢。」
「は。」
39
と頸の白さを、滑かに、長く、傾いてちょっと嬌態を行る。
「気取ったな。」
「はあ。」
「一体こりゃどういう事になるんだい。」
「慈姑の田楽、ほほほ。」
40
と、簪の珊瑚と、唇が、霞の中に、慈姑とは別に二つ動いて、
「おじさんは、小児の時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。――そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。――お母さんがそういって話すんだわ。」
「悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。」
41
今度は、がばがばと手酌で注ぐ。
「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」
「ああ、情ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌だと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。――ああ、お町ちゃん。」
42
わざとした歎息を、陽気に、ふッと吹いて、
「……そういえば、一昨日の晩……途中で泊った、鹿落の温泉でね。」
「ええ。」
「実際、お念仏を唱えたよ、真夜半さ。」
「夜半。」
43
と七輪の上で、火の気に賑かな頬が肅然と沈んだ。
「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折とった形に通るんだ。――知っているかも知れないが。――座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊と蝦は結構だったし、赤蜻蛉に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布の綿の厚いのがごつごつ重くって、肩がぞくぞくする。枕許へ熱燗を貰って、硝子盃酒の勢で、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。厠へ行くのに、裏階子を下りると、これが、頑丈な事は、巨巌を斫開いたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけ幽にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍に大きな石の手水鉢がある、跼んで手を洗うように出来ていて、筧で谿河の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」
「まあ……」
「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈が点いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧されて、薄暗かったと思っておくれ。」
「可厭あね。」
「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。
44
山霧の冷いのが――すぐ外は崖の森だし――窓から、隙間から、立て籠むと見えて、薄い靄のようなものが、敷居に立って、それに木目がありそうに見える。ところで、穿いた草履が、笹葉でも踏む心持にバサリとする。……暗い中に、三つ並んでいるんです。」
「あの、鹿落。」
45
と、瞳を凝らした、お町の眉に、その霧が仄にうつッた。
「三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。」
「どうかしたかい。」
「どうして……それから。」
46
お町は聞返して、また息を引いた。
「その真中の戸が、バタン……と。」
「あら……」
「いいえさ、怯かすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが――開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条、うねうねと伝っている。」
「…………」
「どこからか、細目に灯が透くのかしら?……その端の、ふわりと薄※ったい処へ、指が立って、白く刎ねて、動いたと思うと、すッと扉が閉った。招いたような形だが、串戯じゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ――あ、どうした。」
47
その唇が、眉とともに歪んだと思うと、はらりと薫って、胸に冷り、円髷の手巾の落ちかかる、一重だけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟に外套の袖をしごくばかりに引掴んで、肩と袖で取縋った。片褄の襦袢が散って、山茶花のようにこぼれた。
48
この身動ぎに、七輪の慈姑が転げて、コンと向うへ飛んだ。一個は、こげ目が紫立って、蛙の人魂のように暗い土間に尾さえ曳く。
49
しばらくすると、息つぎの麦酒に、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮を剥がして、おじさんに振舞ったくらいであるから。――次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。
50
一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘を怯かすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰る音に紛れる、その椎樹――
51
はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状
52
ふと、おじさんの方が少し寒気立って、
「――そういえば真中
「おじさん――それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。」
「幽霊を。」
「もう私……気味が悪いの、可厭
「知ってるとも。――現在、昨日
「いいえ、あすこの、女中
「おどかしなさんない。おじさんを。」と外套氏は笑ったが。
53
――今年余寒の頃、雪の中を、里見、志賀の両氏が旅して、新潟の鍋茶屋
54
近頃は風説
55
それと、戸前
56
蝙蝠
57
今は、自動車さえ往来
58
水と、柳のせいだろう。女中は皆美しく見えた。もし、妻女、娘などがあったら、さぞ妍艶
59
さて、「いらして、また、おいで遊ばして」と枝折戸でいう一種綿々たる余韻の松風に伝う挨拶は、不思議に嫋々
「――お藻代さんの時が、やっぱりそうだったんですってさ。それに、もう十時すぎだったというんです。」
60
五年前
61
その夜、松の中を小提灯で送り出た、中京、名古屋の一客――畜生め色男――は、枝折戸口で別れるのに、恋々としてお藻代を強いて、東の新地――廓
「あの提灯が寂しいんですわ……考えてみますと……雑で、白張
「うぐい。」――と一面――「亭」が、まわしがきの裏にある。ところが、振向け方で、「うぐい」だけ黒く浮いて出ると、お経ではない、あの何とか、梵字
62
それを、しかも松の枝に引掛
63
話はちょっと前後した――うぐい亭では、座つきに月雪花。また少々慾張
「――みんな、いい女らしいね。見た処。中でも、俵のなぞは嬉しいよ。ここに雪形に、もよ、というのは。」
「飛んだ、おそまつでございます。」
64
と白い手と一所に、銚子
「これだけは、密
「いや、どうもその時の容子
65
名古屋の客は、あとで、廓の明保野で――落雁で馴染の芸妓を二三人一座に――そう云って、燥
66
落雁を寄進の芸妓連が、……女中頭ではあるし、披露
67
――断るまでもないが、昨日
68
さて、至極古風な、字のよく読めない勘定がきの受取が済んで、そのうぐい提灯で送って出ると、折戸を前にして、名古屋の客が動かなくなった。落雁の芸妓を呼びに廓へ行く。是非送れ、お藻代さん。……一見は利かずとも、電話で言込めば、と云っても、威勢よく酒の機嫌で承知をしない。そうして、袖たけの松の樹のように動かない。そんな事で、誘われるような婦
69
やがて、出て来た時、お藻代は薄化粧をして、長襦袢
70
その長襦袢で……明保野で寝たのであるが、朱鷺色
71
風が、どっと吹いて、蓮根市の土間は廂下
72
どうも話が及腰
73
一体黒い外套氏が、いい年をした癖に、悪く色気があって、今しがた明保野の娘が、お藻代の白い手に怯
74
だから、ちょっとこの子をこう借りた工合
75
そこで川通りを、次第に――そうそうそう肩を合わせて歩行
76
「――藤紫の半襟が少しはだけて、裏を見せて、繊
77
私?……私は毎朝のように、お山の妙見様へお参りに。おっかさんは、まだ寝床に居たんです。台所の薬鑵
78
外套氏は肩をすくめた。思わず危険を予感した。
「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆を辷
79
あの、美しい、鼻も口も、それッきり、人には見せず……私たちも見られません。」
「野郎はどうした。」
80
と外套氏の膝の拳
「それはね、ですが、納得ずくです。すっかり身支度をして、客は二階から下りて来て――長火鉢の前へ起きて出た、うちの母の前へ、きちんと膝に手をついて、
81
分外なお金子
82
ひっそりしていたそうです。
83
ものに包まれたような、ふくみ声で、
84
と、震えて、きれぎれに聞こえたって言います。
85
おじさん、妙見様から、私が帰りました時はね、もう病院へ、母がついて、自動車で行ったあとです。お信たちのいうのでは、玉子色の絹の手巾
「不可
86
外套氏は、お町の顔に当てた手巾を慌
87
雨が激しく降って来た。
「……何とも申様がない……しかし、そこで鹿落の温泉へは、療治に行ったとでもいうわけかね。」
「湯治だなんのって、そんな怪我ではないのです。療治は疾
88
お藻代さんは、ただ一夜
89
旅行
90
温泉宿でも、夜汽車でついて、すぐ、その夜半
「ああ、そうか。」
「うぐい亭の庭も一所に、川も、山も、何年ぶりか、久しぶりで見る気がして、湯ざめで冷くなるまで、覗
91
――かきおきにあったんです――
92
ハッと手をのばして、戸を内へ閉めました。不意に人が来たんですね。――それが細い白い手よ。」
「むむ、私のような奴だ。」
93
と寂しく笑いつつ、毛肌になって悚
「ぎゃっと云って、その男が、凄
94
もう身も世も断念
「厠
「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体
「もの凄
「でも、分らないのは、――新聞にも出ましたけれど、ちゃんと裾腰
「ああ、縁台が濡れる。」
95
と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。
「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白
96
堤防
「寒くなった。……出ようじゃないか。――ああ西日が当ると思ったら、向うの蕃椒
97
提灯なしに――二人は、歩行
「……あすこに人が一人立っているね、縁台を少し離れて、手摺
「ええ、どしゃ降りの時、気がつきましたわ。私、おじさんの影法師かと思ったわ。――まだ麦酒
「何だ、いま泣いた烏がもう出て笑う、というのは、もうちと殊勝な、お人柄の事なんだぜ。私はまた、なぜだか、前刻
98
それだと、あすこで一杯やりかねない男だが、もうちと入組んだ事がある。――鹿落を日暮方出て此地
99
貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾
100
そこで、小鳥の回向料
101
十時四十分頃、二つさきの山の中の停車場へ下りた。が、別れしなに、袂
102
――小鳥は比羅
103
家業がら了解
「その向
「いや、大きに――それじゃ違ったろう。……安心した。――時に……実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。」
「ええ、どちらでも。……ですが、もうこの軒を一つ廻った塀外が、じきその椎の樹ですよ。棟に蔭がさすでしょう。路地の暗いのもそのせいですわ。」
「大きな店らしいのに、寂寞
「有名な、湯葉屋です。」
「湯葉屋――坊主になり損
「入ってみましょう。」
「障子は開いている――ははあ、大きな湯の字か。こん度は映画と間違えなかった。しかし、誰も居ないが、……可
「何かいったら、挨拶をしますわ。ちょっと参観に、何といいましょう、――見学に、ほほほ。」
104
掃清めた広い土間に、惜
105
この火が、一度に廻ると、カアテンを下ろしたように、窓が黒くなって、おかしな事には、立っている土間にひだを打って、皺
106
お町が、しっかりと手を取った。
107
背後
「失礼ですが、貴方
108
前刻
「おお、これは。」
109
名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸
「見覚えがおありでしょう。」
110
と斜
「まあ。」
111
時めく婿は、帽子
「後刻、お伺いする処でした。」
112
驚破す、再び、うぐい亭の当夜の嫖客
113
三人のめぐりあい。しかし結末にはならない。おなじ廓
114
落葉のそよぐほどの、跫音
115
蒼白
「お姥
116
と鷹揚
117
何と、媼
「無断で、いけませんでしたかね。」
118
外套氏は、やや妖変
「どうなとせ。」
119
唾
120
が、ばっと音を立てて引抜いた灰汁
121
口のあたりが、びくりと動き、苔
122
同時に、蛇のように、再び舌が畝
123
お町の肩を、両手でしっかとしめていて、一つ所に固
「あッ。」
124
片手で袖を握
125
同時に、雨がまた迫るように、窓の黒さが風に動いて、装
126
足許も定まらない。土間の皺
127
市
128
――病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、他
129
生命
130
男だ。容色なんぞは何でもあるまい。
131
ただお町の繰り言に聞いても、お藻代の遺書
132
現代――ある意味において――めぐる因果の小車
133
待て、それとても不気味でない事はない。
134
魔は――鬼神は――あると見える。
135
附言。
136
今年、四月八日、灌仏会
「お釈迦様と、お閻魔さんとは、どういう関係があるんでしょう。」
137
唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品
「いずれ、それは……その、如是我聞
「いや。」
「これは御挨拶。」
138
いきな坊主の還俗したのでもないものが、こはだの鮨を売るんだから、ツンとして、愛想のないのに無理はない。
「朝飯
139
午後三時半である。ききたまえ。
「そこを見込んで誘いましたよ。」
「私もそうだろうと思ってさ。」
140
大通りを少しあるくと、向うから、羽織の袖で風呂敷づつみを抱いた、脊のすらりとした櫛巻
「いい女ね。見ましたか。」
「まったく。」
「しっとりとした、いい容子
141
三人とも振返ると、町並樹の影に、その頸許
142
かねて、外套氏から聞いた、お藻代の俤
143
路地うちに、子供たちの太鼓の音が賑
144
縦通りを真直
「そっくりね。」
「気味が悪いようですね。」
145
と家内も云った。少し遠慮して、間をおいて、三人で斉
146
家へ帰って、摩耶夫人
●表記について
・本文中の※は、底本では次のような漢字
ふわりと薄※ |
第4水準2-3-48 |
あの、うぐい ※ ※ 血の頬白は、※ |
第3水準1-94-43 |
羽衣でも※ |
第4水準2-78-12 |
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年3月