菊池寛
人物
狂人 勝島義太郎 二十四歳
その弟 末次郎 十七歳の中学生
その父 義助
その母 およし
隣の人 藤作
下男 吉治 二十歳
巫女と称する女 五十歳位
時
明治三十年代
所
瀬戸内海の讃岐に属する島
舞台
[#以下、全体を2文字分下げる]
この小さき島にては、屈指の財産家なる勝島の家の裏庭。家の内部は結いめぐらした竹垣に遮ぎられて見えない。高い屋根ばかりが、初夏の濃緑な南国の空を画っている。左手に海が光って見える。この家の長男なる義太郎は、正面に見ゆる屋根の頂上に蹲踞して海上を凝視している。家の内部から父の声がきこえる。[#文字下げ終り]
[#以降、せりふのまま次の行に移った場合には、1文字下げた位置から次の行を始める]
義助 義め、また屋根へ上っとるんやな。こなにかんかん照っとるのに、暑気するがなあ。
吉治! 吉治はおらんのか。
吉治 へえなんぞ御用ですか。
義助 義太郎を降してくれんか。こんなに暑い日に帽子も被らんで、暑気がするがなあ。どこから屋根へ上るんやろ。この間いうた納屋のところは針金を張ったんやろな。
吉治 そらもう、ちゃんとええようにしてありますんや。
義助 あなに焼石のような瓦の上に座って、なんともないんやろか。義太郎! 早う降りて来い。そなな暑い所におったら暑気して死んでしまうぞ。
吉治 若旦那! 降りとまあせよ。そなな所におったら身体のどくやがなあ。
義助 義やあ、早う降りて来んかい。何しとんやそなな所で。早う降りんかい、義やあ!
義太郎 何や。
義助 何やでないわい。早う降りて来いよ。お日さんにかんかん照り付けられて、暑気するがなあ。さあ、すぐ降りて来い。降りて来んと下から竿でつつくぞう。
義太郎 厭やあ、面白いことがありよるんやもの。金比羅さんの天狗さんの正念坊さんが雲の中で踊っとる。緋の衣を着て天人様と一緒に踊りよる。わしに来い来いいうんや。
義助 阿呆なこというない。お前にとりついとる狐が誑しよるんやがなあ。降りんかい。
義太郎 面白うやりよるわい。わしも行きたいなあ。待っといで、わしも行くけになあ。
義助 そななことをいうとると、またいつかのように落ち崩るぞ。気違いの上にまた片輪にまでなりゃがって、親に迷惑ばっかしかけやがる。降りんかい阿呆め。
吉治 旦那さん、そんなに怒ったって、相手が若旦那やもの効くもんですか。それよりか、若旦那の好きなあぶらげを買うて来ましょうか。あれを見せたらすぐ降りるけに。
義助 それより竿で突ついてやれ、かまやせんわい。
吉治 そななむごいことができるもんな。若旦那は何も知らんのや。皆憑いている者がさせておるんやけに。
義助 屋根のぐるりに忍び返しをつけたらどうやろうな、どうしても上れんように。
吉治 どななことしても若旦那には効き目がありゃしません。本伝寺の大屋根へ足場なしに上るんやもの、こなな低い屋根やこしはお茶の子や。憑いとる者が上らせるんやけに、どうしたって効きゃせん。
義助 そうやろうかな。あいつには往生するわい。気違いでも家の中にじっとしとるんならええけれど、高い所へばっかし上りゃがって、まるで自分の気違いを広告しとるようなもんや。勝島の天狗気違いというたら、高松へまで噂がきこえとるいうて末がいいよって。
吉治 島の人は狐がとり憑いとるいうけれど、俺は合点がいかんがなあ。狐が木登りするということはきいたことがないけになあ。
義助 俺もそう思うとんや。俺の心当りは別にあるんや。義の生れる時にな、俺はその時珍しい舶来の元込銃でな、この島の猿を片っ端しから撃ち殺したんや。その猿が憑いとるんや。
吉治 そうやろうな。それでなけりゃ、あなに木登りのおたっしゃなわけはないからな。足場があろうがあるまいが、どなな所へでも上るんやけにな。梯子乗りの上手な作でも、若旦那にはかなわんいいよりますわい。
義助 阿呆なことをいうない。屋根へばかり上っとる息子を持った親になってみい。およしでも俺でも始終あいつのことを苦にしとんや。義太郎! 早う降りて来んかい。義太郎! 降りんかい。……屋根へ上っとると人の声はきこえんのや、まるで夢中になっとるんや。あいつが上って困るんで、家の木はみんな伐ってしまったけんど、屋根ばかりはどうすることもできんわい。
吉治 私の小さい頃には、御門の前に高い公孫樹がござんしたなあ。
義助 うむ、あの木かい。あれは島中の目印になった木やがな。いつであったか、あの木のてっぺんへ義太郎が上ってな、十四、五間もある上でぱかんと枝の上に腰かけているやないか。俺もおよしもあいつの命はないもんやと思ってあきらめていると、またするする降りて来てな、皆あきれてものがいえなかったんや。
吉治 ヘへえ。まるで人間業でござんせんな。
義助 だから俺あ猿が憑いとると思うんや。義やあ、降りんかい。吉治! お前上ってくれんかい。
吉治 けど人が上ると、若旦那はきつうお腹を立てるけんな。
義助 ええわ、怒ってもええわい。上って引っ張り降してこい。
吉治 へいへい。
藤作 旦那さん、今日は。
義助 やあ、ええ天気やな。昨日降した網はどうやったな、大小かかったかな。
藤作 根っからかかりゃしまへなんだわ、もうちっと季
義助 そうやろうな、もうちっと遅いわい。もう鰆
藤作 昨日清吉
義助 そうけい。
藤作
義助 そうや、あいかわらず上っとるわい。上げとうはないんやけど、座敷牢の中へ入れとくと水を離れた船のようにしているんでな。ついむごうなって出してやるとすぐ屋根や。
藤作 けど若旦那のようなのは、傍
義助 あんまり迷惑にならんこともないでな。親兄弟の恥になるでな、こなに高い所に上って、おらんでいるとなあ。
藤作 けど弟さんの末
義助 末次郎
藤作 実はな、旦那さん。よく効く巫女
義助 そうけ。けど御祈祷しても今までなんべん受けたかわからんけどもな、ちょっとも効かんでな。
藤作 今度ござらっしゃったのは金比羅
義助 そうやなあ。御礼はどのくらい要るもんやろ。
藤作 治らな要らんいうておりますでなあ。治ったら応分に出せいうとります。
義助 末次郎は、御祈祷やこし効くもんかいうとるけど、損にならんことやけに頼んでみてもええがなあ。
藤作 そんなら私は、金吉のところにいる巫女さんを呼んできますけにな。若旦那を降しといておくれやす。
義助 お苦労様やなあ。そんならええように頼んまっせ。
吉治
義太郎
吉治 阿呆なこといわんと、さあ降りまあせ。
義太郎 わしにちょっとでも触ると天狗さまに引き裂かれるぞ。
吉治
義助 気付けて降すんやぜ。
吉治
義助 義はよう金比羅さんの神さんと話しするいうけになあ。金比羅さんの巫女さんいうたら、効くかも知れんと思うてな。
およし
義助 巫女さんを頼んだんやがなあ、どうやろう。
およし
義太郎
義助 阿呆! いつかも五色の雲が来たいいよって屋根から飛んだんやろう。それでその通り片輪になっとるんや。今日は金比羅さんの巫女さんが来て、お前に患いとるものを追い出してくれるんやけに、屋根へ上らんと待っているんやぞ
藤作 旦那さん、これがさっきいうた巫女さんや。
義助 やあ今日は、ようおいで下されました。どうも困ったやつでござんしてな、あなた、まったく親兄弟の恥さらしでな。
巫女
義助 左様でござんす。もう二十四になりますのにな、高い所へ上るほかは何一つようしませんのや。
巫女 いつからこんな御病気でござんしたかな。
義助 もう生れついてのことでござんしてな。小さい時から高い所へ上りたがって、四つ五つの頃には床の間へ上る、御仏壇へ上る、棚の上に上る、七つ八つになると木登りを覚える、十五、六になると山のてっぺんへ上って一日降りて来ませんのや。それで天狗様やとか神様やとかそんなもんと話しているような独り言を絶えずいうとりますのや。一体どうしたわけでござんしょうな。
巫女 やっぱり狐が憑いとるのに違いござんせん。どれ私が御祈祷をして上げます。
義太郎
巫女
義太郎
巫女
巫女
皆
巫女
皆 へへっ。
巫女
義助 どうもあらたかなことでござんした。
巫女 神様のおっしゃったことは、早速なさらんとかえってお罰が当りますけに、念のために申しておきますぞ。
義助
およし なんぼ神さんのおっしゃることじゃいうて、そななむごいことができるもんかいな。
巫女 燻
義太郎 金比羅さんの声はあなな声ではないわい。お前のような女子
巫女
巫女 神さんの仰せは大切に思わぬと罰が当りますぞ。
義太郎 お父
巫女 それをその方の声じゃと思うと燻
およし なんぼなんでもむごいことやな。
末次郎
義助
末次郎 どうしたんです、お父さん。
義助
末次郎 どうしたんです、松葉なんか燻
義太郎
末次郎
義助 そやけどもな、あらたかな巫女さんに神さんが乗り移ってな。
末次郎 何をばかなことを。兄さんが理屈がいえんかってそななばかなことをして。
巫女 お待ちなさい。その火は神様の仰せで点
末次郎
義助
末次郎 松葉で燻
義助 でもな、お医者さまでも治らんけんにな。
末次郎 お医者さんが治らんいうたら治りゃせん。それに私がなんべんもいうように、兄さんがこの病気で苦しんどるのなら、どななことをしても治してあげないかんけど、屋根へさえ上げといたら朝から晩まで喜びつづけに喜んどるんやもの。兄さんのように毎日喜んでいられる人が日本中に一人でもありますか。世界中にやってありゃせん。それに今兄さんを治してあげて正気の人になったとしたらどんなもんやろ。二十四にもなって何も知らんし、いろはのいの字も知らんし、ちっとも経験はなし、おまけに自分の片輪に気がつくし、日本中で恐らくいちばん不幸な人になりますぜ。それがお父さんの望みですか。なんでも正気にしたらええかと思って、苦しむために正気になるくらいばかなことはありません。
巫女
末次郎
巫女
末次郎 詐欺め、かたりめ!
藤作
末次郎
藤作 さあ、一度引きとることにしましょう。俺があんたを連れて来たのが悪かったんや。
義助
巫女 神さまが乗り移っている最中に私を足蹴にするような大それたやつは、今晩までの命も危ないぞ。
末次郎 何をぬかすんや。
およし
巫女
義助
末次郎 あんなかたりの女子に神さんが乗り移るもんですか。無茶な嘘をぬかしやがる。
およし 私は初めから怪しいやつじゃ思うとったんや、神さんやったらあななむごいこというもんけ。
義助
末次郎 何が厄介なもんですか。僕は成功したら、鷹の城山のてっぺんへ高い高い塔を拵
義助 それはそうと、義太郎はどこへ行ったやろ。
吉治
義助
末次郎 普通の人やったら、燻
義太郎
末次郎
義太郎
末次郎
義太郎
――幕――
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年8月