湯ヶ原より
島崎藤村
1
内山君足下
2
何故そう急に飛び出したかとの君の質問は御尤である。僕は不幸にして之を君に白状してしまはなければならぬことに立到つた。然し或はこれが僕の幸であるかも知れない、たゞ僕の今の心は確かに不幸と感[#「感」に丸傍点]じて居るのである、これを幸であつたと知[#「知」に丸傍点]ることは今後のことであらう。しかし將來これを幸であつた[#「あつた」に丸傍点]と知る時と雖も、たしかに不幸である[#「ある」に丸傍点]と感ずるに違いない。僕は知らないで宜い、唯だ感じたくないものだ。
『こゝに一人の少女あり。』小説は何時でもこんな風に初まるもので、批評家は戀の小説にも飽き/\したとの御注文、然し年若いお互の身に取つては、事の實際が矢張りこんな風に初るのだから致し方がない。僕は批評家の御注文に應ずべく神樣が僕及び人類を造つて呉れなかつたことを感謝する。
3
去十三日の夜、僕は獨り机に倚掛つてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]考へて居た。十時を過ぎ家の者は寢てしまひ、外は雨がしと/\降つて居る。親も兄弟もない僕の身には、こんな晩は頗る感心しないので、おまけに下宿住、所謂る半夜燈前十年事[#「半夜燈前十年事」に白丸傍点]、一時和雨到心頭[#「一時和雨到心頭」に白丸傍点]といふ一件だから堪忍たものでない、まづ僕は泣きだしさうな顏をして凝然と洋燈の傘を見つめて居たと想像し給へ。
4
此時フと思ひ出したのはお絹のことである、お絹、お絹、君は未だ此名にはお知己でないだらう。君ばかりでない、僕の朋友の中、何人も未だ此名が如何に僕の心に深い、優しい、穩かな響を傳へるかの消息を知らないのである。『こゝに一人の少女あり、其名を絹といふ』と僕は小説批評家への面當に今一度特筆大書する。
5
僕は此少女を思ひ出すと共に『戀しい』、『見たい』、『逢ひたい』の情がむら/\とこみ上げて來た。君が何と言はうとも實際さうであつたから仕方がない。此天地間、僕を愛し、又僕が愛する者は唯だ此少女ばかりといふ風な感情が爲て來た。あゝ是れ『浮きたる心』だらうか、何故に自然を愛する心は清く高くして、少女を戀こふる心こゝろは『浮うきたる心こゝろ』、『いやらしい心こゝろ』、『不健全ふけんぜんなる心こゝろ』だらうか、僕ぼくは一念ねんこゝに及およべば世よの倫理學者りんりがくしや、健全先生けんぜんせんせい、批評家ひゝやうか、なんといふ動物どうぶつを地球外ちきうぐわいに放逐はうちくしたくなる、西印度にしいんどの猛烈まうれつなる火山くわざんよ、何故なにゆゑに爾なんぢの熱火ねつくわを此種このしゆの動物どうぶつの頭上づじやうには注そゝがざりしぞ!
6
僕ぼくはお絹きぬが梨なしをむいて、僕ぼくが獨ひとりで入はいつてる浴室よくしつに、そつと持もつて來きて呉くれたことを思おもひ、二人ふたりで溪流けいりうに沿そふて散歩さんぽしたことを思おもひ、其その優やさしい言葉ことばを思おもひ、其その無邪氣むじやきな態度たいどを思おもひ、其その笑顏ゑがほを思おもひ、思おもはず机つくゑを打うつて、『明日あすの朝あさに行ゆく!』と叫さけんだ。
7
お絹きぬとは何人なんぴとぞ、君きみ驚おどろく勿なかれ、藝者げいしやでも女郎ぢよらうでもない、海老茶えびちや式部しきぶでも島田しまだの令孃れいぢやうでもない、美人びじんでもない、醜婦しうふでもない、たゞの女をんなである、湯原ゆがはらの温泉宿をんせんやど中西屋なかにしやの女中ぢよちゆうである! 今いま僕ぼくの斯かう筆ふでを執とつて居をる家うちの女中ぢよちゆうである! 田舍ゐなかの百姓ひやくしやうの娘むすめである! 小田原をだはらは大都會だいとくわいと心得こゝろえて居ゐる田舍娘ゐなかむすめ! この娘むすめを僕ぼくが知しつたのは昨年さくねんの夏なつ、君きみも御存知ごぞんぢの如ごとく病後びやうご、赤せき十字社じしやの醫者いしやに勸すゝめられて二ヶ月間げつかん此この湯原ゆがはらに滯在たいざいして居ゐた時ときである。
8
十四日かの朝あさ僕ぼくは支度したくも匆々そこ/\に宿やどを飛とび出だした。銀座ぎんざで半襟はんえり、簪かんざし、其他そのた娘むすめが喜よろこびさうな品しなを買かひ整とゝのへて汽車きしやに乘のつた。僕ぼくは今日けふまで女をんなを喜よろこばすべく半襟はんえりを買かはなかつたが、若もし彼あの娘むすめに此等これらの品しなを與やつたら如何どんなに喜よろこぶだらうと思おもふと、僕ぼくもうれしくつて堪たまらなかつた。見榮坊みえばう! 世よには見榮みえで女をんなに物ものを與やつたり、與やらなかつたりする者ものが澤山たくさんある。僕ぼくは心こゝろから此この貧まづしい贈物おくりものを我愛わがあいする田舍娘ゐなかむすめに呈上ていじやうする!
9
夜來やらいの雨あめはあがつたが、空氣くうきは濕しめつて、空そらには雲くもが漂たゞよふて居ゐた。夏なつの初はじめの旅たび、僕ぼくは何なによりも是これが好すきで、今日こんにちまで數々しば/\此この季節きせつに旅行りよかうした、然しかしあゝ何等なんらの幸福かうふくぞ、胸むねに樂たのしい、嬉うれしい空想くうさうを懷いだきながら、今夜こんやは彼あの娘むすめに遇あはれると思おもひながら、今夜こんやは彼あの清きよく澄すんだ温泉をんせんに入はひられると思おもひながら、此この好時節かうじせつに旅行りよかうせんとは。
10
國府津こふづで下おりた時ときは日光につくわう雲間くもまを洩もれて、新緑しんりよくの山やまも、野のも、林はやしも、眼めさむるばかり輝かゞやいて來きた。愉快ゆくわい! 電車でんしやが景氣けいきよく走はしり出だす、函嶺はこね諸峰しよほうは奧おくゆかしく、嚴おごそかに、面おもてを壓あつして近ちかづいて來くる! 輕かるい、淡々あは/\しい雲くもが沖おきなる海うみの上うへを漂たゞよふて居をる、鴎かもめが飛とぶ、浪なみが碎くだける、そら雲くもが日ひを隱かくした! 薄うすい影かげが野のの上うへを、海うみの上うへを這はう、忽たちまち又また明あかるくなる、此時このとき僕ぼくは決けつして自分じぶんを不幸ふしあはせな男をとことは思おもはなかつた。又また決けつして厭世家えんせいかたるの權利けんりは無なかつた。
11
小田原をだはらへ着ついて何時いつも感かんずるのは、自分じぶんもどうせ地上ちじやうに住すむならば此處こゝに住すみたいといふことである。古ふるい城しろ、高たかい山やま、天てんに連つらなる大洋たいやう、且かつ樹木じゆもくが繁しげつて居をる。洋畫やうぐわに依よつて身みを立たてやうといふ僕ぼくの空想くうさうとしては此處こゝに永住えいぢゆうの家いへを持もちたいといふのも無理むりではなからう。
12
小田原をだはらから先さきは例れいの人車鐵道じんしやてつだう。僕ぼくは一時ときも早はやく湯原ゆがはらへ着つきたいので好すきな小田原をだはらに半日はんにちを送おくるほどの樂たのしみも捨すてて、電車でんしやから下おりて晝飯ちうじきを終をはるや直すぐ人車じんしやに乘のつた。人車じんしやへ乘のると最早もはや半分はんぶん湯ゆヶ原はらに着ついた氣きになつた。此この人車鐵道じんしやてつだうの目的もくてきが熱海あたみ、伊豆山いづさん、湯ゆヶ原はらの如ごとき温泉地をんせんちにあるので、これに乘のれば最早もはや大丈夫だいぢやうぶといふ氣きになるのは温泉行をんせんゆきの人々ひと/″\皆みな同感どうかんであらう。
13
人車じんしやは徐々じょ/\として小田原をだはらの町まちを離はなれた。僕ぼくは窓まどから首くびを出だして見みて居ゐる。忽たちまちラツパを勇いさましく吹ふき立たてゝ車くるまは傾斜けいしやを飛とぶやうに滑すべる。空そらは名殘なごりなく晴はれた。海風かいふうは横よこさまに窓まどを吹ふきつける。顧かへりみると町まちの旅館りよかんの旗はたが竿頭かんとうに白しろく動うごいて居をる。
14
僕ぼくは頭かしらを轉てんじて行手ゆくてを見みた。すると軌道レールに沿そふて三人にん、田舍者ゐなかものが小田原をだはらの城下じやうかへ出でるといふ旅裝いでたち、赤あかく見みえるのは娘むすめの、白しろく見みえるのは老母らうぼの、からげた腰こしも頑丈ぐわんぢやうらしいのは老父おやぢさんで、人車じんしやの過すぎゆくのを避さける積つもりで立たつて此方こつちを向むいて居ゐる。『オヤお絹きぬ!』と思おもふ間まもなく車くるまは飛とぶ、三人にんは忽たちまち窓まどの下したに來きた。
『お絹きぬさん!』と僕ぼくは思おもはず手てを擧あげた。お絹きぬはにつこり笑わらつて、さつと顏かほを赤あかめて、禮れいをした。人ひとと車くるまとの間あひだは見みる/\遠とほざかつた。
15
若もし同車どうしやの人ひとが無なかつたら僕ぼくは地段駄ぢだんだを踏ふんだらう、帽子ばうしを投なげつけたゞらう。僕ぼくと向むき合あつて、眞面目まじめな顏かほして居ゐる役人やくにんらしい先生せんせいが居ゐるではないか、僕ぼくは唯ただがつかりして手てを拱こまぬいてしまつた。
16
言いはでも知しるお絹きぬは最早もはや中西屋なかにしやに居ゐないのである、父母ふぼの家いへに歸かへり、嫁入よめいりの仕度したくに取とりかゝつたのである。昨年さくねんの夏なつも他たの女中ぢよちゆうから小田原をだはらのお婿むこさんなど嬲なぶられて居ゐたのを自分じぶんは知しつて居ゐる、あゝ愈々いよ/\さうだ! と思おもふと僕ぼくは慊いやになつてしまつた。一口ひとくちに言いへば、海うみも山やまもない、沖おきの大島おほしま、彼あれが何なんだらう。大浪おほなみ小浪こなみの景色けしき、何なんだ。今いまの今いままで僕ぼくをよろこばして居ゐた自然しぜんは、忽たちまちの中うちに何なんの面白味おもしろみもなくなつてしまつた。僕ぼくとは他人たにんになつてしまつた。
17
湯原ゆがはらの温泉をんせんは僕ぼくになじみ[#「なじみ」に傍点]の深ふかい處ところであるから、たとひお絹きぬが居ゐないでも僕ぼくに取とつて興味きようみのない譯わけはない、然しかし既すでにお絹きぬを知しつた後のちの僕ぼくには、お絹きぬの居ゐないことは寧むしろ不愉快ふゆくわいの場所ばしよとなつてしまつたのである。不愉快ふゆくわいの人車じんしやに搖ゆられて此この淋さびしい溪間たにまに送おくり屆とゞけられることは、頗すこぶる苦痛くつうであつたが、今更いまさら引返ひきかへす事ことも出來できず、其日そのひの午後ごゝ五時頃じごろ、此宿このやどに着ついた。突然とつぜんのことであるから宿やどの主人あるじを驚おどろかした。主人あるじは忠實ちゆうじつな人ひとであるから、非常ひじやうに歡迎くわんげいして呉くれた。湯ゆに入はひつて居ゐると女中ぢよちゆうの一人ひとりが來きて、
『小山こやまさんお氣きの毒どくですね。』
『何故なぜ?』
『お絹きぬさんは最早もう居ゐませんよ、』と言いひ捨すてゝばた/\と逃にげて去いつた。哀あはれなる哉かな、これが僕ぼくの失戀しつれんの弔詞てうじである! 失戀しつれん?、失戀しつれんが聞きいてあきれる。僕ぼくは戀こひして居ゐたのだらうけれども、夢ゆめに、實じつに夢ゆめにもお絹きぬをどうしやうといふ事ことはなかつた、お絹きぬも亦また、僕ぼくを憎にくからず思おもつて居ゐたらう、決けつして其それ以上いじやうのことは思おもはなかつたに違ちがひない。
18
處ところが其夜そのよ、女中ぢよちゆう[#ルビの「ぢよちゆう」は底本では「ぢうちゆう」と誤植]どもが僕ぼくの部屋へやに集あつまつて、宿やどの娘むすめも來きた。お絹きぬの話はなしが出でて、お絹きぬは愈々いよ/\小田原をだはらに嫁よめにゆくことに定きまつた一條でうを聞きかされた時ときの僕ぼくの心持こゝろもち、僕ぼくの運命うんめいが定さだまつたやうで、今更いまさら何なんとも言いへぬ不快ふくわいでならなかつた。しからば矢張やはり失戀しつれんであらう! 僕ぼくはお絹きぬを自分じぶんの物もの、自分じぶんのみを愛あいすべき人ひとと、何時いつの間まにか思込おもひこんで居ゐたのであらう。
19
土産物みやげものは女中ぢよちゆうや娘むすめに分配ぶんぱいしてしまつた。彼等かれらは確たしかによろこんだ、然しかし僕ぼくは嬉うれしくも何なんともない。
20
翌日よくじつは雨あめ、朝あさからしよぼ/\と降ふつて陰鬱いんうつ極きはまる天氣てんき。溪流けいりうの水みづ増ましてザア/\と騷々さう/″\しいこと非常ひじやう。晝飯ひるめしに宿やどの娘むすめが給仕きふじに來きて、僕ぼくの顏かほを見みて笑わらふから、僕ぼくも笑わらはざるを得えない。
『貴所あなたはお絹きぬに逢あひたくつて?』
『可笑をかしい事ことを言いひますね、昨年さくねんあんなに世話せわになつた人ひとに會あひたいのは當然あたりまへだらうと思おもふ。』
『逢あはして上あげましようか?』
『難有ありがたいね、何分なにぶん宜よろしく。』
『明日あしたきつとお絹きぬさん宅うちへ來きますよ。』
『來きたら宜よろしく被仰おつしやつて下ください、』と僕ぼくが眞實ほんたうにしないので娘むすめは默だまつて唯ただ笑わらつて居ゐた。お絹きぬは此娘このむすめと從姉妹いとこどうしなのである。
21
午後ごゝは降ふり止やんだが晴はれさうにもせず雲くもは地ちを這はふようにして飛とぶ、狹せまい溪たには益々ます/\狹せまくなつて、僕ぼくは牢獄らうごくにでも坐すわつて居ゐる氣き。坐敷ざしきに坐すわつたまゝ爲する事こともなく茫然ぼんやりと外そとを眺ながめて居ゐたが、ちらと僕ぼくの眼めを遮さへぎつて直すぐ又また隣家もよりの軒先のきさきで隱かくれてしまつた者ものがある。それがお絹きぬらしい。僕ぼくは直すぐ外そとに出でた。
22
石いしばかりごろ/\した往來わうらいの淋さびしさ。僅わづかに十軒けんばかりの温泉宿をんせんやど。其外そのほかの百姓家しやうやとても數かぞえる計ばかり、物ものを商あきなふ家いへも準じゆんじて幾軒いくけんもない寂寞せきばくたる溪間たにま! この溪間たにまが雨雲あまぐもに閉とざされて見みる物もの悉こと/″\く光ひかりを失うしなふた時ときの光景くわうけいを想像さう/″\し給たまへ。僕ぼくは溪流けいりうに沿そふて此この淋さびしい往來わうらいを當あてもなく歩あるいた。流ながれを下くだつて行ゆくも二三丁ちやう、上のぼれば一丁ちやう、其中そのなかにペンキで塗つた橋はしがある、其間そのあひだを、如何どんな心地こゝちで僕ぼくはぶらついた[#「ぶらついた」に傍点]らう。温泉宿をんせんやどの欄干らんかんに倚よつて外そとを眺ながめて居ゐる人ひとは皆みな泣なき出だしさうな顏付かほつきをして居ゐる、軒先のきさきで小供こどもを負しよつて居ゐる娘むすめは病人びやうにんのやうで背せの小供こどもはめそ/\と泣ないて居ゐる。陰鬱いんうつ! 屈託くつたく! 寂寥せきれう! そして僕ぼくの眼めには何處どこかに悲慘ひさんの影かげさへも見みえるのである。
23
お絹きぬには出逢であはなかつた。當あたり前まへである。僕ぼくは其その翌日よくじつ降ふり出だしさうな空そらをも恐おそれず十國峠じつこくたうげへと單身たんしん宿やどを出でた。宿やどの者ものは總そうがゝりで止とめたが聞きかない、伴ともを連つれて行ゆけと勸すゝめても謝絶しやぜつ。山やまは雲くもの中なか、僕ぼくは雲くもに登のぼる積つもりで遮二無二しやにむに登のぼつた。
24
僕ぼくは今日けふまで斯こんな凄寥せいれうたる光景くわうけいに出遇であつたことはない。足あしの下したから灰色はひいろの雲くもが忽たちまち現あらはれ、忽たちまち消きえる。草原くさはらをわたる風かぜは物ものすごく鳴なつて耳みゝを掠かすめる、雲くもの絶間絶間たえま/\から見みえる者ものは山又山やままたやま。天地間てんちかん僕ぼく一人にん、鳥とりも鳴なかず。僕ぼくは暫しばらく絶頂ぜつちやうの石いしに倚よつて居ゐた。この時とき、戀こひもなければ失戀しつれんもない、たゞ悽愴せいさうの感かんに堪たえず、我生わがせいの孤獨こどくを泣なかざるを得えなかつた。
25
歸路かへりに眞闇まつくらに繁しげつた森もりの中なかを通とほる時とき、僕ぼくは斯こんな事ことを思おもひながら歩あるいた、若もし僕ぼくが足あしを蹈ふみ滑すべらして此溪このたにに落おちる、死しんでしまう、中西屋なかにしやでは僕ぼくが歸かへらぬので大騷おほさわぎを初はじめる、樵夫そまを※やとふて僕ぼくを索さがす、此この暗くらい溪底たにそこに僕ぼくの死體したいが横よこたはつて居ゐる、東京とうきやうへ電報でんぱうを打うつ、君きみか淡路君あはぢくんが飛とんで來くる、そして僕ぼくは燒やかれてしまう。天地間てんちかん最早もはや小山某こやまなにがしといふ畫ゑかきの書生しよせいは居ゐなくなる! と僕ぼくは思おもつた時とき、思おもはず足あしを止とゞめた。頭あたまの上うへの眞黒まつくろに繁しげつた枝えだから水みづがぼた/\落おちる、墓穴はかあなのやうな溪底たにそこでは水みづの激げきして流ながれる音おとが悽すごく響ひゞく。僕ぼくは身みの髮けのよだつを感かんじた。
26
死人しにんのやうな顏かほをして僕ぼくの歸かへつて來きたのを見みて、宿やどの者ものは如何どんなに驚おどろいたらう。其驚そのおどろきよりも僕ぼくの驚おどろいたのは此日このひお絹きぬが來きたが、午後ごゝ又また實家じつかへ歸かへつたとの事ことである。
27
其夜そのよから僕ぼくは熱ねつが出でて今日けふで三日みつかになるが未まだ快然はつきりしない。山やまに登のぼつて風邪かぜを引ひいたのであらう。
28
君きみよ、君きみは今いまの時文じぶん評論家ひやうろんかでないから、此この三日みつかの間あひだ、床とこの中なかに呻吟しんぎんして居ゐた時とき考かんがへたことを聞きいて呉くれるだらう。
29
戀こひは力ちからである、人ひとの抵抗ていかうすることの出來できない力ちからである。此力このちからを認識にんしきせず、又また此力このちからを壓おさへ得うると思おもふ人ひとは、未まだ此力このちからに觸ふれなかつた人ひとである。其その證據しようこには曾かつて戀こひの爲ために苦くるしみ悶もだえた人ひとも、時とき經たつて、普通ふつうの人ひととなる時ときは、何故なにゆゑに彼時あのとき自分じぶんが戀こひの爲ために斯かくまで苦悶くもんしたかを、自分じぶんで疑うたがう者ものである。則すなはち彼かれは戀こひの力ちからに觸ふれて居ゐないからである。同おなじ人ひとですら其通そのとほり、況いはんや曾かつて戀こひの力ちからに觸ふれたことのない人ひとが如何どうして他人たにんの戀こひの消息せうそくが解わからう、その樂たのしみが解わからう、其苦そのくるしみが解わからう?。
30
戀こひに迷まよふを笑わらふ人ひとは、怪あやしげな傳説でんせつ、學説がくせつに迷まよはぬがよい。戀こひは人ひとの至情しゞやうである。此この至情しゞやうをあざける人ひとは、百萬年まんねんも千萬年まんねんも生いきるが可よい、御氣おきの毒どくながら地球ちきうの皮かはは忽たちまち諸君しよくんを吸すひ込こむべく待まつて居ゐる、泡あわのかたまり先生せんせい諸君しよくん、僕ぼくは諸君しよくんが此この不可思議ふかしぎなる大宇宙だいうちうをも統御とうぎよして居ゐるやうな顏構かほつきをして居ゐるのを見みると冷笑れいせうしたくなる僕ぼくは諸君しよくんが今いま少すこしく眞面目まじめに、謙遜けんそんに、嚴肅げんしゆくに、此この人生じんせいと此この天地てんちの問題もんだいを見みて貰もらひたいのである。
31
諸君しよくんが戀こひを笑わらふのは、畢竟ひつきやう、人ひとを笑わらふのである、人ひとは諸君しよくんが思おもつてるよりも神祕しんぴなる動物どうぶつである。若もし人ひとの心こゝろに宿やどる所ところの戀こひをすら笑わらふべく信しんずべからざる者ものならば、人生じんせい遂つひに何なんの價あたひぞ、人ひとの心こゝろほど嘘僞きよぎな者ものは無ないではないか。諸君しよくんにして若もし、月夜げつや笛ふえを聞きいて、諸君しよくんの心こゝろに少すこしにても『永遠エターニテー』の俤おもかげが映うつるならば、戀こひを信しんぜよ。若もし、諸君しよくんにして中江兆民なかえてうみん先生せんせいと同どう一種しゆであつて、十八里り零圍氣れいゐきを振舞ふりまはして滿足まんぞくして居ゐるならば、諸君しよくんは何なんの權威けんゐあつて、『春はる短みじかし何なにに不滅ふめつの命いのちぞと』云々うん/\と歌うたふ人ひとの自由じいうに干渉かんせふし得うるぞ。『若わかい時ときは二度どはない』と稱しようしてあらゆる肉慾にくよくを恣ほしいまゝにせんとする青年男女せいねんだんぢよの自由じいうに干渉かんせふし得うるぞ。
32
内山君うちやまくん足下そくか、先まづ此位このくらゐにして置おかう。さて斯かくの如ごとくに僕ぼくは戀こひ其物そのものに隨喜ずゐきした。これは失戀しつれんの賜たまものかも知しれない。明後日みやうごにちは僕ぼくは歸京きゝやうする。
33
小田原をだはらを通とほる時とき、僕ぼくは如何どんな感かんがあるだらう。
小山生
底本:「定本 国木田独歩全集 第二巻」学習研究社
1964昭和39年7月1日初版発行
1978昭和53年3月1日増訂版発行
1995平成7年7月3日増補版発行
入力:鈴木厚司
校正:mayu
ファイル作成:野口英司
2001年11月7日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
・本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。
樵夫そまを※やとふて僕ぼくを索さがす、
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第3水準1-14-40
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■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年3月