牛肉と馬鈴薯

             国木田独歩

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こっぷ[#「こっぷ」に傍点]
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1

明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺に西洋作の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了った。

2

この倶楽部が未だ繁盛していた頃のことである、或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火が点いていて、時々高く笑う声が外面に漏れていた。元来この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常も昼間ばかり立ちのぼっているのである。

3

然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。

4

すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。

5

内から戸が開くと、
「竹内君は来てお出ですかね」と低い声の沈重いた調子で訊ねた。
「ハア、お出で御座います、貴様は?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。
「これを」と出した名刺には五号活字で岡本誠夫としてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上って去ったが間もなく降りて来て
「どうぞ此方へ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉を熾に燃いていたので、ムッとする程温かい。煖炉の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。傍の卓子にウイスキーの壜が上ていてこっぷ[#「こっぷ」に傍点]の飲み干したるもあり、注いだままのもあり、人々は可い加減に酒が廻わっていたのである。

6

岡本の姿を見るや竹内は起って、元気よく
「まアこれへ掛け給え」と一の椅子をすすめた。

7

岡本は容易に坐に就かない。見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。竹内はそれと気がつき、
「ウン貴様は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く旧い朋友で岡本君……」

8

と未だ言い了らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で
「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」

9

岡本は唯だ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了った。そして椅子に倚った。
「サアその先を……」と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生している紳士が言った。
「そうだ! 上村君、それから?」と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪の薄い、痩方の紳士が促した。
「イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなったハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少し羞にかんだような笑方をした。
「何ですか?」

10

岡本は竹内に問うた。
「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴いて居給え名論卓説、滾々として尽きずだから」
「ナニ最早大概吐き尽したんですよ、貴様は我々俗物党と違がって真物なんだから、幸貴様のを聞きましょう、ね諸君!」

11

と上村は逃げかけた。
「いけないいけない、先ず君の説を終え給え!」
「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。
「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」
「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。
「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」
「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にして唸るように言った。
「だってねエ、理想は喰べられませんものを!」と言った上村の顔は兎のようであった。
「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。
「否ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」
「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目で言った。
「ハッハッハッハッ」と一坐が噴飯だした。
「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村は少し躍起になって、
「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばかし喰っていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちが可い?」
「牛肉が可いねエ!」と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。
「然しビフテキに馬鈴薯は附属物だよ」と頬髭の紳士が得意らしく言った。
「そうですとも! 理想は則ち実際の附属物なんだ! 馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」

12

と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。
「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊ねた。
「その馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷い目に遇ったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕はこう見えても同志社の旧い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換ゆれば大々的馬鈴薯党だったんです!」
「君が?」とさも不審そうな顔色で井山がしょぼしょぼ眼を見張った。
「何も不思議は無いサ、その頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯党でしたがね、学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れていたもんで、清教徒を以て任じていたのだから堪らない!」
「大変な清教徒だ!」と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸と腮で止めて、ウイスキーを嘗めながら
「断然この汚れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」と言った時、岡本は凝然と上村の顔を見た。
「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中に北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない! 僕は全然まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此ふうな想像を描いていたもんだ。……先ず僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆を撒く、……」
「その百姓が見たかったねエハッハッハッハッハッハッ」と竹内は笑いだした。
「イヤ実地行ったのサ、まア待ち給え、追い追い其処へ行くから……、その内にだんだんと田園が出来て来る、重に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さえ有りゃア喰うに困らん……」
「ソラ馬鈴薯が出た!」と松木は又た口を入れた。
「其処で田園の中央に家がある、構造は極めて粗末だが一見米国風に出来ている、新英洲殖民地時代そのままという風に出来ている、屋根がこう急勾配になって物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個附けたものかと僕は非常に気を揉んだことがあったッけ……」
「そして真個にその家が出来たのかね」と井山は又しょぼしょぼ眼を見張った。
「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは……そうだそうだ若王寺へ散歩に往って帰る時だった!」
「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。
「それから北の方へ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨や鵞鳥がその紫の羽や真白な背を浮べてるんですよ。この川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないほうが自然だというんで附けないことに定めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……先ず冬になると……」
「ちょッとお話の途中ですが、貴様はその『冬』という音にかぶれやアしませんでしたか?」と岡本は訊ねた。

13

上村は驚ろいた顔色をして
「貴様はどうしてそれを御存知です、これは面白い! さすが貴様は馬鈴薯党だ! 冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何だかその冬則ち自由というような気がしましてねエ! それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうクリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、軒から棒のような氷柱が下っていないと嘘のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聴ても『冬になると……』とこういわれると、身体がこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然家を埋めて了う、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢から雪がばたばたと墜ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛がモーッと唸る!」
「君は詩人だ!」と叫けんで床を靴で蹶たものがある。これは近藤といって岡本がこの部屋に入って来て後も一言を発しないで、唯だウイスキーと首引をしていた背の高い、一癖あるべき顔構をした男である。
「ねエ岡本君!」と言い足した。岡本はただ、黙言て首肯いたばかりであった。
「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々霞み入合の』ていうグレーのチャルチャードの飜訳を愛読して自分で作ってみたものだアね、今日の新体詩人から見ると僕は先輩だアね」
「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」と松木が今度は少し乗地になって言った。
「ナーニ僕だって二ツ三ツ作たものサ」と井山が負けぬ気になって真面目で言った。
「綿貫君、君はどうだね?」と竹内が訊ねた。
「イヤお恥しいことだが僕は御存知の女気のない通り詩人気は全くなかった、『権利義務』で一貫して了った、どうだろう僕は余程俗骨が発達してるとみえる!」と綿貫は頭を撫てみた。
「イヤ僕こそ甚だお恥しい話だがこれで矢張り作たものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハッハッハッハッハッ」
「ハッハッハッハッハッ」と一同が噴飯して了った。
「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々!」と綿貫が叫んだ。
「そうか、諸君も作たのか、驚ろいた、その昔は皆な馬鈴薯党なんだね」と上村は大に面目を施こしたという顔色。
「お話の先を願いたいものです」と岡本は上村を促がした。
「そうだ、先をやり給え!」と近藤は殆ど命令するように言った。
「宜しい! それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎! というような心持がしてねエ、上野の停車場で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭いたよ真実に!」
「一寸と君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。
「唯だ東京の奴等を言ったのサ、名利に汲々としているその醜態は何だ! 馬鹿野郎! 乃公を見ろ! という心持サ」と上村もまた真面目で註解を加えた。
「それから道行は抜にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂る額に汗するのはこれからだというんで直に着手したねエ。尤も僕と最初から理想を一にしている友人、今は矢張僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っておるだろう梶原信太郎のことサ……」
「ウン梶原君が!? あれが矢張馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のように肥ってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。
「そうサ、今じゃア鬼のような顔をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。ところが先生僕と比較すると初から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時大に反対した、君止すなら止せ、僕は一人でもやると力味んだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞を吐いて直ぐ去って了った。取残された僕は力味んではみたものの内内心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月ばかり辛棒したねエ。豪いだろう!」
「馬鹿なんサ!」と近藤が叱るように言った。
「馬鹿? 馬鹿たア酷だ! 今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かったよ」
「矢張馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食うなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」
「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有いことには僕に馬鈴薯の品質が無かったのだ。其処で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次近づいて来た、その露払が秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、森とした林の上をパラパラと時雨て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒幾価と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処は木の皮を壁に代用した掘立小屋」
「それは貴様覚悟の前だったでしょう!」と岡本が口を入れた。
「其処ですよ、理想よりか実際の可いほうが可いというのは。覚悟はしていたものの矢張り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩せますもの」

14

上村は言って杯で一寸と口を湿して
「僕は痩せようとは思っていなかった!」
「ハッハッハッハッハッハッ」と一同笑いだした。
「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、止そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死でいたね」
「其処でどういうんです、貴様の目下のお説は?」と岡本は嘲るような、真面目な風で言った。
「だから馬鈴薯には懲々しましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味いものが喰えて、こうやって諸君と煖炉にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹が減たら牛肉を食う……」
「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴が馬鹿なんだ」と綿貫は大に敦圉いた。
「僕は違うねエ!」と近藤は叫んだ、そして煖炉を後に椅子へ馬乗になった。凄い光を帯びた眼で坐中を見廻しながら
「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない! 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をぴくぴくさして牛の焦る臭を嗅いで行く、その醜体ったらない!」
「オイオイ、他人を悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」と上村が切り込んだ。
「堕落? 堕落たア高い処から低い処へ落ちたことだろう、僕は幸にして最初から高い処に居ないからそんな外見ないことはしないんだ! 君なんかは主義で馬鈴薯を喰ったのだ、嗜きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓えたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だってがつがつしない、……」
「一向要領を得ない!」と上村が叫けんだ。近藤は直に何ごとをか言い出さんと身構をした時、給使の一人がつかつかと近藤の傍に来てその耳に附いて何ごとをか囁いた。すると
「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ!」と怒鳴った。
「何だ?」と坐中の一人が驚いて聞いた。
「ナニ、車夫の野郎、又た博奕に敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。……要領を得ないたア何だ! 大に要領を得ているじゃアないか、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマ[#「ヘチマ」に傍点]でもない!」
「大に賛成ですなア」と静に沈重いた声で言った者がある。
「賛成でしょう!」と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。
「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」と岡本はその冴え冴えした眼光を座上に放った。
「その説を承たまわろう、是非願いたい!」と近藤はその四角な腮を突き出した。
「君は何方なんです、牛と薯、エ、薯でしょう?」と上村は知った顔に岡本の説を誘うた。
「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉が嗜きとも決っていないんです。勿論例の主義という手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいう嗜好にも従うことが出来ません」
「それじゃア何だろう?」と井山がその尤もらしいしょぼしょぼ眼をぱちつかした。
「何でもないんです、比喩は廃して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾を充して以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為ないのではないので、実をいうと何方でも可いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以て唯った一つ、不思議な願を持ているからそのために何方とも得決めないでいます」
「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例の圧《お》しつけるような言振で問うた。
「一口には言えない」
「まさか狼の丸焼で一杯飲みたいという洒落でもなかろう?」
「まずそんなことです。……実は僕、或少女に懸想したことがあります」と岡本は真面目で語り出した。
「愉快々々、談愈々佳境に入って来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉の方へ引寄た。
「少し談が突然ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女はなかなかの美人でした」
「ヨウ! ヨウ!」と松木は躍上らんばかりに喜こんだ。
「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排は西洋婦人のように肉附が佳くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌を含めて凝然と睇視られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位から変に引つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未だ恋したとは思いませんでしたねえ。
「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯だ女中とその少女と妹の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女は身体の具合が少し悪いと言って鬱いで、奥の間に独、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺に腰をかけたまま聴いていました。
『お栄さん僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪りません』と思わず口に出しますと
『小妹は何故こんな世の中に生きているのか解らないのよ』と少女がさもさも頼なさそうに言いました、僕にはこれが大哲学者の厭世論にも優って真実らしく聞えたが、その先は詳わしく言わないでも了解りましょう。
「二人は忽ち恋の奴隷となって了ったのです。僕はその時初めて恋の楽しさと哀しさとを知りました、二月ばかりというものは全で夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二お安価ない幕を談すと先ずこんなこともありましたっケ、
「或日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃漸く散会になり僕はホテルから芝山内の少女の宅まで、月が佳いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行って来ると、途々母は口を極めて洋行夫婦を褒め頻と羨ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間的傾向を有しているのを残念がる意味があって、かかる傾向を有するも要するにその交際する友に由ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩るいていた娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。
「それから山内の森の中へ来ると、月が木間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩ばかり先を歩るいていました。夜は更けて人の通行も稀になっていたから四辺は極めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響していたが、先刻の母の言草が胸に応えているので僕も娘も無言、母も急に真面目くさって黙って歩るいていました。
「森影暗く月の光を遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って
『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠めました。突然明い所へ出ると、少女の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、一は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を覚えて恐いとも哀しいとも言いようのない思が胸に塞えてちょうど、鉛の塊が胸を圧しつけるように感じました。
「その夜、門口まで送り、母なる人が一寸と上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路に就きましたが、或難い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解りでもするといったような心持がして、決して比喩じゃアない、確にそういう心持がして、気になってならない。そこで直ぐは帰らず山内の淋むしい所を撰ってぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時く凝然と品川の沖の空を眺めていました。
『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電のように僕の心中最も暗き底に閃いたと思うと僕は思わず躍り上がりました。そして其所らを夢中で往きつ返りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔を叱するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視ていると、蒼白い少女の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
「遂に僕は心を静めて今夜十分眠る方が可い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上る時は少も気がつかなかったが路傍にある木の枝から人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水をかけられたように感じて、其所に突立って了いました。
「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館の方から山内へ下りると突当にあるあの交番まで駈けつけてその由を告げました……」
「その女が君の恋していた少女であったというのですかね」と近藤は冷ややかに言た。
「それでは全で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰って了われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、ともかく僕はその夜殆ど眠りませんでした。
「然かし能くしたもので、その翌日少女の顔を見ると平常に変っていない、そしてそのうっとり[#「うっとり」に傍点]した眼に笑を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
「なるほどこれはお安価くないぞ」と綿貫が床を蹶って言った。
「まア黙って聴きたまえ、それから」と松木は至極真面目になった。
「其先を僕が言おうか、こうでしょう、最後にその少女が欠伸一つして、それで神聖なる恋が最後になった、そうでしょう?」と近藤も何故か真面目で言った。
「ハッハッハッハッハッハッ」と二三人が噴飯して了った。
「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。
「君でも恋なんていうことを知っているのかね」これは井山の柄にない言草。
「岡本君の談話の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或少女と乙な中になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰の恋でもこれが大切だよ、女という動物は三月たつと十人が十人、飽きて了う、夫婦なら仕方がないから結合いている。然しそれは女が欠伸を噛殺してその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」
「そうかも知れません、然し僕のは幸にその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。
「僕もその頃、上村君のお話と同様、北海道熱の烈しいのに罹っていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽でした、矢張上村君の亜米利加風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、……」
「だって僕は相手が無かったのですもの」と上村が情けなそうに言ったので、どっと皆が笑った。
「君が馬鈴薯党を変節したのも、一はその故だろう」と綿貫が言った。
「イヤそれは嘘言だ、上村君にもし相手があったら北海道の土を踏ぬ先に変節していただろうと思う、女と言う奴が到底馬鈴薯主義を実行し得るもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女は芋が嗜好きなんていうのは嘘サ!」と近藤が怒鳴るように言った。その最後の一句で又た皆がどっと笑った。
「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたので漸々静まった。
「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先故郷に帰り、親族に托してあった山林田畑を悉く売り飛ばし、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位の積で国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合やらで思わず二十日もかかりました。 すると或日少女の母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、少女は最早死んでいました」
「死んで?」と松木は叫けんだ。
「そうです、それで僕の総ての希望が悉く水の泡となって了いました」と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言った、それが全で演説口調、
「イヤどうも面白い恋愛談を聴かされ我等一同感謝の至に堪えません、さりながらです、僕は岡本君の為めにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧ろ喜びます、却て喜びます、もしもその少女にして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」

15

とまでは頗る真面目であったが、自分でも少し可笑しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味を含ませて、
「何となれば、女は欠伸をしますから……凡そ欠伸に数種ある、その中尤も悲むべく憎くむ可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」

16

と少し真面目な口調に返り、
「則ち女子は生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、幸にしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽という字の全意義はかかる女子の境遇に於て尽されているだろう。然し忽ち倦で了う、則ち恋に倦でしまう、女子の恋に倦だ奴ほど始末にいけないものは決して他にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろ憐れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、かかる場合に恋に出遇う時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在ては恋則ち男子の生命である」

17

と言って岡本を顧み、
「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿っているでしょう」
「一向に要領を得ない!」と松木が叫けんだ。
「ハッハッハッハッ要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯だ一の不思議なる願を持っているということは、死んだ少女に遇いたいというんでしょう」
「否!」と一声叫けんで岡本は椅子を起った。彼は最早余程酔っていた。
「否と先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるなら談しましょう」
「諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆は唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目で、綿貫と井山と上村は笑味を含んで。
「それでは否の一語を今一度叫けんで置きます。
「なるほど僕は近藤君のお察の通り恋愛に依て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女の死は僕に取ての大打撃、殆ど総ての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、もし例の返魂香とかいう価物があるなら僕は二三百斤買い入れたい。どうか少女を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度僕は少女を思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女の今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。
「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだ大なる願、深い願、熱心なる願を以ています。この願さえ叶えば少女は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜しい。少女が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
「朝に道を聞かば夕に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶わん位なら今から百年生きていても何の益にも立ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。
「全世界の人悉くこの願を有ていないでも宜しい、僕独りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾の妻を与えよ我これを姦せん爾の子を与えよ我これを喰わん然らば我は爾に爾の願を叶わしめんと言えば僕は雀躍して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」
「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」と綿貫がその髯を力任かせに引て叫けんだ。
「今に申します。諸君は今日のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤みたような人間をつきまぜて一鋼鉄のような政府を形り、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釈迦や孔子のような人になりたい、真実にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴いているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪らなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明し、そして安心立命の地をその上に置こうと悶いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔に『偽』の一字を烙印します」
「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、喫驚しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」

18

岡本は静に
「喫驚したいというのが僕の願なんです」
「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何のこった!」
「落語か!」

19

人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言て岡本の説明を待ているらしい。
「こういう句があります、
  Awake, poor troubled sleeper: shake off
  thy torpid night-mare dream.
即ち僕の願とは夢魔を振い落したいことです!」
「何のことだか解らない!」と綿貫は呟やくように言った。
「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」
「愈々以て謎のようだ!」と今度は井山がその顔をつるりと撫でた。
「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」
「イクラでも君勝手に驚けば可いじゃアないか、何でもないことだ!」と綿貫は嘲るように言った。
「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能わざるほどにこの宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」
「なるほどこいつは益々解りにくいぞ」と松木は呟やいて岡本の顔を穴のあくほど凝視ている。
「寧ろこの使用い古るした葡萄のような眼球を※[#偏が「宛」で旁が「りっとう」]り出したいのが僕の願です!」と岡本は思わず卓を打った。
「愉快々々!」と近藤は思わず声を揚げた。
「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆は喰いたく思わない、彼が十九歳の時学友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。
「勝手に驚けと言われました綿貫君は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
「僕の恋人は死ました。この世から消えて失なりました。僕は全然恋の奴隷であったからかの少女に死なれて僕の心は掻乱されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡なったが為の悲痛である。死ちょう冷刻なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
「曰く習慣の力です。
  Our birth is but asleep and forgetting.

20

この句の通りです。僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々な事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立ているかの態度を以てこの宇宙を取扱う。
  Full soon thy soul shall have her earthly freight,
  And custom lie upon thee with a weight,
  Heavy as frost, and deep almost as life !

21

この通りです、この通りです!
「即ち僕の願はどうにかしてこの霜を叩き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣の圧力から脱がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯主義となろうが、将た厭世の徒となってこの生命を咀うが、決して頓着しない!
「結果は頓着しません、源因を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。
「ヤレ月の光が美だとか花の夕が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々たる詩人の文字は、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、まぼろし[#「まぼろし」に傍点]を見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろし[#「まぼろし」に傍点]を見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代の末流に至ては悉くそうです。
「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや((What am I ?))なんちょう馬鹿な問を発して自から苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです、然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。
「我何処より来り、我何処にか往く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。
「もう止しましょう! 無益です、無益です、いくら言っても無益です。……アア疲労た! しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人……」
「僕は何方へ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。
「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独りでとぼとぼ辿って行きながら思わず『マサカ死うとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」
「人に驚かして貰えばしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]が止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに好んで喫驚したいというのも物数奇だねハハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。
「イヤ僕も喫驚したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」
「唯だ言うだけかアハハハハ」
「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」
「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」
「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」と岡本は一所に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。



底本:新潮文庫『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』
   1970昭和45年5月30日発行
入力:八木正三
校正:LUNA CAT
1998年5月23日公開
1999年8月18日修正
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変更終了:平成14年3月