禁酒の心

       太宰 治

1

私は禁酒をしようと思っている。このごろの酒は、ひどく人間を卑屈ひくつにするようである。昔は、これにって所謂浩然之気いわゆるこうぜんのきやしなったものだそうであるが、今は、ただ精神をあさはかにするばかりである。近来私は酒を憎むこと極度きょくどである。いやしくも、なすあるところの人物は、今日此際このさい、断じて酒杯しゅはい粉砕ふんさいすべきである。

2

日頃酒を好む者、いかにその精神、吝嗇卑小りんしょくひしょうになりつつあるか、一升いっしょう配給酒はいきゅうしゅびんに十五等分の目盛めもりし、毎日、きっちり一目盛ずつ飲み、たまに度を過して二目盛飲んだ時には、すなわち一目盛分の水を埋合うめあわせ、びんを横ざまにかかえて震動しんどうを与え、酒と水、両者の化合かごう醗酵はっこうくわだてるなど、まことに失笑しっしょうきんない。また配給の三合の焼酎しょうちゅうに、薬缶やかん一ぱいの番茶を加え、その褐色かっしょくの液を小さいグラスに注いで飲んで、このウイスキイには茶柱が立っている、愉快ゆかいだ、などと虚栄きょえいの負け惜しみを言って、豪放ごうほうに笑ってみせるが、傍の女房はニコリともしないので、いっそうみじめな風景になる。また昔は、晩酌ばんしゃく最中さいちゅうにひょっこり遠来えんらいの友など見えると、やあ、これはいいところへ来て下さった、ちょうど相手が欲しくてならなかったところだ、何も無いが、まあどうです、一ぱい、というような事になって、とみに活気をていしたものであったが、今は、はなはだ陰気いんきである。 「おい、それでは、そろそろ、あの一目盛をはじめるからな、玄関をしめて、じょうをおろして、それから雨戸もしめてしまいなさい。人に見られて、うらやましがられても具合いが悪いからな。」なにも一目盛の晩酌ばんしゃくを、うらやましがる人も無いのに、そこは精神、吝嗇卑小りんしょくひしょうになっているものだから、それこそ風声鶴唳ふうせいかくれいにも心を驚かし、外の足音にもいちいちきもを冷やして、何かしら自分がひどい大罪たいざいでも犯しているような気持になり、世間の誰もかれもみんな自分を恨みに恨んでいるような言うべからざる恐怖と不安と絶望と憤懣ふんまん怨嗟えんさと祈りと、実に複雑ふくざつ心境しんきょうで部屋の電気を暗くして背中を丸め、チビリチビリと酒をなめるようにして飲んでいる。 「ごめん下さい。」と玄関で声がする。 「来たな!」っと身構みがまえて、この酒飲まれてたまるものか。それ、このびん戸棚とだなに隠せ、まだ二目盛残ってあるんだ、あすとあさってのぶんだ、この銚子ちょうしにもまだ三猪口みちょこぶんくらい残っているが、これは寝酒にするんだから、銚子ちょうしはこのまま、このまま、さわってはいけない、風呂敷でもかぶせて置け、さて、手抜かりは無いか、と部屋中をぎょろりと見まわして、それから急に猫撫声ねこなでごえで、 「どなた?」

3

ああ、書きながらも嘔吐おうともよおす。人間も、こうなっては、すでにだめである。浩然之気こうぜんのきもへったくれもあったものでない。「月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語してさかずき出したる、よろずのきょううるものなり。」などと言っている昔の人の典雅てんが心境しんきょうをも少しは学んで、反省するように努めなければならぬ。それほどまでに酒を飲みたいものなのか。夕陽をあかあかと浴びて、汗は滝のごとく、ひげをはやした立派な男たちが、ビヤホオルの前に行儀よく列を作って、そうして時々、そっとびあがってビヤホオルの丸い窓から内部をのぞいて、首を振って溜息ためいきをついている。なかなか順番がまわって来ないものと見える。内部はまた、いもを洗うような混雑こんざつだ。ひじと肘とをぶっつけ合い、互いにとなりの客を牽制けんせいし、負けずおとらず大声をげて、おういビイルを早く、おういビエルなどと東北なまりの者もあり、喧々囂々けんけんごうごう、やっと一ぱいのビイルにありつき、ほとんど無我夢中で飲みおわるや否や、ごめん、とも言わずに、次のお客の色黒く目の光のただならぬのが自分を椅子いすから押しのけて割り込んで来るのである。すなわち、呆然ぼうぜんとして退場しなければならぬ。気を取りなおして、よし、もういちど、とさら戸外こがい長蛇ちょうだごとき列の末尾まつびについて、順番を待つ。これを三度、四度ほど繰り返して、身心共に疲れてぐたりとなり、ああ酔った、と力無くつぶやいて帰途きとにつくのである。国内に酒が決してそんなに極度きょくどに不足しているわけではないと思う。飲む人が此頃このごろ多くなったのではないかと私には考えられる。少し不足になったという評判が立ったので、いままで酒を飲んだ事のない人まで、よろしい、いまのうちに一つ、その酒なるものを飲んで置こう、何事も、経験してみなくては損である、実行しよう、という変な如何いかにも小人のもの欲しげな精神から、配給の酒もとにかくいただく、ビヤホオルというところへも一度突撃とつげきして、もまれてみたい、何事にも負けてはならぬ、おでんやというものも一つ、試みたい、カフェというところも話には聞いているが、一たいどんな具合いか、いまのうちに是非ぜひ実験をしてみたい、などというつまらぬ向上心こうじょうしんから、いつのまにやら一ぱしの酒飲みになって、お金の無い時には、一目盛の酒を惜しみ、茶柱の立ったウイスキイを喜び、もう、やめられなくなっている人たちも、かなり多いのではないかと私には思われる。とかく小人は、しがたいものである。

4

たまに酒の店などへ行ってみても、実に、いやな事が多い。お客のあさはかな虚栄きょえい卑屈ひくつ、店のおやじの傲慢貧欲ごうまんどんよく、ああもう酒はいやだ、と行く度毎たびごとに私は禁酒の決意をあらたにするのであるが、機がじゅくさぬとでもいうのか、いまだに断行だんこうの運びにいたらぬ。

5

店へはいる。「いらっしゃい」などと言われて店の者に笑顔で迎えられたのは、あれは昔の事だ。いまは客のほうで笑顔をつくるのである。「こんにちは」と客のほうから店のおやじ、女中などに、満面卑屈まんめんひくつえみをたたえて挨拶あいさつして、そうして、黙殺もくさつされるのが通例になっているようである。念いりに帽子ぼうしを取ってお辞儀じぎをして、店のおやじを「旦那だんな」と呼んで、生命保険の勧誘かんゆうにでも来たのかと思わせる紳士しんしもあるが、これもまさしく酒を飲みに来たお客であって、そうして、やはり黙殺されるのが通例つうれいのようになっている。更に念いりな奴は、はいるなりすぐ、店のカウンタアの上に飾られてある植木鉢うえきばちをいじくりはじめる。「いけないねえ、少し水をやったほうがいい。」とおやじに聞えよがしにつぶやいて、自分で手洗いの水を両手ですくって来て、シャッシャと鉢にかける。身振りばかり大変で、鉢の木にかかる水はほんの二、三滴だ。ポケットからはさみを取り出して、チョンチョンと枝をって、枝ぶりをととのえる。出入りの植木屋かと思うとそうではない。意外にも銀行の重役だったりする。店のおやじの機嫌きげんをとりたい為に、わざわざポケットに鋏を忍び込ませてやって来るのであろうが、苦心の甲斐かいもなく、やっぱりおやじに黙殺されている。しぶい芸も派手な芸も、あの手もこの手も、一つとして役に立たない。一様いちように冷く黙殺されている。けれどもお客も、その黙殺にひるまず、なんとかして一本でも多く飲ませてもらいたいと願う心のあまりに、ついには、自分が店の者でも何でも無いのに、店へ誰かはいって来ると、いちいち「いらっしゃあい」とさけび、また誰か店から出て行くと、必ず「どうも、ありがとう」とわめくのである。あきらかに、錯乱さくらん発狂はっきょうの状態である。実にあわれなものである。おやじは、ひとり落ちつき、 「きょうは、たいの塩焼があるよ。」とつぶやく。

6

すかさず一青年はたくをたたいて、 「ありがたい! 大好物。そいつあ、よかった。」内心は少しも、いい事はないのである。

7

高いだろうなあ、そいつは。おれは今迄いままで、鯛の塩焼なんて、たべた事がない。けれども、いまは大いに喜んだふりをしなければならぬ。つらいところだ、畜生ちくしょうめ! 「鯛の塩焼と聞いちゃ、たまらねえや。」実際、たまらないのである。

8

他のお客も、ここは負けてはならぬところだ。われもわれもと、その一皿二円の鯛の塩焼を注文する。これで、とにかく一本は飲める。けれども、おやじは無慈悲むじひである。しわがれたる声をして、 「豚の煮込にこみもあるよ。」 「なに、豚の煮込み?」老紳士は莞爾かんじと笑って、「待っていました。」と言う。けれども内心は閉口へいこうしている。老紳士は歯をわるくしているので、豚の肉はてんでめないのである。 「次は豚の煮込みと来たか。わるくないなあ。おやじ、話せるぞ。」などと全く見えいたおろかなお世辞せじを言いながら、負けじ劣らじと他のお客も、その一皿二円のあやしげな煮込みを注文する。けれども、この辺で懐中かいちゅう心細くなり、落伍らくごする者もある。 「ぼく、豚の煮込み、いらない。」と全く意気悄沈いきしょうちんして、六号活字ほどの小さい声で言って、立ち上り、「いくら?」という。

9

他のお客は、このあわれなる敗北者はいぼくしゃ退陣たいじん目送もくそうし、ばかな優越感ゆうえつかんでぞくぞくして来るらしく、 「ああ、きょうは食った。おやじ、もっと何か、おいしいものは無いか。たのむ、もう一皿。」と血迷ちまよった事まで口走る。酒を飲みに来たのか、ものを食べに来たのか、わからなくなってしまうらしい。

10

なんとも酒は、魔物まものである。




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太宰治全作品集 1
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変更終了:平成14年2月