HUMAN LOST

       太宰 治


       (思いは、ひとつ、窓前花)

昭和十一年十月十三日。なし。
十四日。なし。
十五日。かくまで深き、
十六日。なし。
十七日。なし。
十八日。
  ものかいておうぎひき

1

2

ふたみにわかれ 十九日。

3

十月十三日より、板橋区のとある病院にいる。来て、三日間、歯ぎしりして泣いてばかりいた。銅貨のふくしゅうだ。ここは、気ちがい病院なのだ。となりの部屋の若旦那わかだんなは、ふすまをあけたら、浴衣ゆかたがかかっていて、どうも工合ぐあいがわるかった、など言って、みんな私よりからだが丈夫じょうぶで、大河内昇おおこうちのぼるとか、星武太郎などの重すぎる名を有し、帝大、立大を卒業して、しかも王者のごとく尊厳の風貌ふうぼうをしている。しいことには、諸氏ひとしく自らの身のたけよりも五寸ほどずつ恐縮きょうしゅくしていた。母をなぐった人たちである。

4

四日目、私は遊説ゆうぜいに出た。鉄格子てつごうしと、金網かなあみと、それから、重いとびら、開閉のたびごとに、がちん、がちん、とかぎの音。寝ずの番の看守、うろ、うろ。この人間倉庫の中の、二十余名の患者かんじゃすべてに、私のからだを投げ捨てて、話しかけた。まるまると白く太った美男の、かたを力一杯いっぱいゆすってやって、なまけもの! とののしった。目のさめて在る限り、枕頭ちんとうの商法の教科書を百人一首を読むような、あんなふしをつけて大声で読みわめきつづけている一受験きょうに、勉強やめよ、試験全廃ぜんぱいだ、と教えてやったら、一瞬いっしゅんぱっと愁眉しゅうびをひらいた。うしろ姿のおせん様というあだ名の、セル着たる二十五歳の一青年、日がな一日、部屋のすみかべにむかってしょんぼり横座りに居崩いくずれて座って、だしぬけに私に頭をなぐられても、ぼくはたった二十五歳だ、捨てろ、捨てろ、と低くつぶやきつづけるばかりで私の顔を見ようとさえせぬゆえ、こんどは私、めそめそするな、としかって、力いっぱいうしろからいてやって激しくせきにむせかえったら、青年いささか得意げに、放せ、放せ、肺病がうつると軽蔑けいべつして、私は有難ありがたくて泣いてしまった。元気を出せ。みんな、青草原をほしがっていた。私は、部屋へかえって、「花をかえせ。」という王さまのつぶやきに似た調子の張った詩を書いて、回診しに来た若い一医師にお見せして、しんみに話し合った。午睡ごすいという題の、「人間は人間のとおりに生きて行くものだ。」という詩を書いてみせて、ふたりとも、顔を赤くして笑った。五六百万人のひとたちが、五六百万回、六七十年つづけてささやき合っている言葉、「気の持ちよう。」というこのなぐさめを信じよう。僕は、きょうからなみだ一滴いってき、見せないつもりだ。ここに七夜あそんだならば、少しは人が変ります。豚箱ぶたばこなどは、のどかであった。越中えっちゅう富山の万金丹まんきんたんでも、くまの胃でも、三光丸でも五光丸でも、ぐっと奥歯おくばみしめて苦いが男、微笑びしょう、うたをうたえよ。私の私のスウィートピイちゃん。
  あら、
  あたし、
  いけない
  女?
          ほらふきだとさ、
          わかっているわよ。
  にじよりも、
  それから、
  しんきろうよりも、きれいなんだけれど。
  いけない?

5

一週間、私は誰ともっていません。面会、禁じられて、私は投げられた様に寝ているが、けれども、これは熱のせいで、いじめられたからではない。みんな私を好いている。Iさん、一生にいちどのたのみだ、はいってくれ、と手をつかぬばかりにたのんで下さって、ありがとう。私は、どうしてこんなに、情が深くなったのだろう。Kでも、Tでも、Fさんでも、Dはうろうろ、Yのばか、兄さん。会いたくて、会いたくて、のたうちまわっているんだよ。先生夫婦と、Iさん夫婦と、Y夫婦、無理矢理つれて、浅虫へ行こうか、われは軍師さ、途中とちゅうの山々の景色眺けしきながめて、おれは、なんにもらない。

6

乃公だいこういでずんば、蒼生そうせいをいかんせむ、さ。三十八度の熱を、きみ、たのむ、あざむけ。プウシュキンは三十六で死んでも、オネエギンをのこした。不能の文字なし、とナポレオンの歯ぎしり。

7

けれども仕事は、神聖の机で行え。そうして、花を、立ちはだかって、きっぱりと要求しよう。

8

立て。権威けんいの表現に努めよ。おれは、いま、目の見えなくなるまで、おまえを愛している。
  「日没のうた。」

9

せみは、やがて死ぬる午後に気づいた。ああ、私たち、もっと仕合わせになってよかったのだ。もっと遊んで、かまわなかったのだ。いと、せめて、われに許せよ、花の中の一瞬いっしゅんの笑顔を。

10

ああ、花をかえせ!(私は、目が見えなくなるまでおまえを愛した。)ミルクを、草原を、雲、──(とっぷり暮れてもなげくまい。私は、なくした。)
  「一行あけて。」
  あとは、なぐるだけだ。
  「花一輪。」
  サインを消せ
  みんなみんなの合作だ
  おまえのもの
  私のもの
  みんなが
  心配して心配して
     やっとかせた花一輪
  ひとりじめは
     ひどい
  「どれどれ
  わしに貸してごらん」
  やっぱり
  じいさん
  ひとりじめの机の上
  いいんだよ
  さきを歩く人は
  白いひげの
     羊飼いのじいさんに
  きまっているのだ
  みんなのもの
  サインを消そう
  みなさん
  みなさん
  おつかれさん
     犬馬の労
  骨を折って
     やっと咲かせた花一論
  やや
  お礼わすれた
  声をそろえて
  ありがとう、よ、ありがとう!
     (聞えたかな?)
二十日。

11

この五、六年、きみたち千人、私は、ひとり。
二十一日。

12

ばつ。 二十二日。

13

死ねと教えし君の目わすれず。
二十三日。
「弱者をののしる文。」

14

私が君を、どのように、いたわったか、君はっているか。どのように、いたわったか。どのように、賢明けんめいにかばってやったか。お金をしがったのは、誰であったか。私は、筋子すじこに味の素の雪きらきら降らせ、納豆なっとうに、青のり、と、からし、えて在れば、他には何も不足なかった。人を悪しざまにののしったのは、誰であったか。ねや審判しんぱんを、どんなにきびしく排撃はいげきしても、しすぎることはない、と、とうとう私に確信させてしまったほどの功労者は、誰であったか。妻は、職業でない。妻は、事務でない。ただ、すがれよ、たよれよ。わがうでまくらの細きがゆえか、ねこの子一匹、いのちゆだねてねむってはくれぬ。まことの愛の有様は、たとえば、みゆき、朝顔日記、めくらめっぽう雨の中、ふしつ、まろびつ、あと追うてゆく狂乱きょうらんの姿である。君ひとりの、ごていしゅだ。自信をもって、愛して下さい。

15

一豊かずとよの妻など、いやなこった。だまって、百円のへそくり出されたとて、こちらは、いやな気がするだけだ。なんにもらない。はい、と素直な返事だけでも、しておくれ。すみません、と軽い口調で一言そっと、おわびをなさい。君は、無知だ。歴史を知らぬ。芸術の花うかべたる小川の流れの起伏きふくを知らない。陋屋ろうおくの半つぼの台所で、ちくわの夕食にれたる盲目もうもくねずみだ。君には、ひとりの良人を愛することさえできなかった。かつて君には、一葉の恋文さえ書けなかった。じるがいい。女体の不言実行の愛とは、何を意味するか。ああ、君のぼろを見とどけてしまった私の目を、私自身でくじり取ろうとした痛苦の夜々を、知っているか。

16

人には、それぞれ天職というものが与えられています。君は、私をうそつきだと言った。もっと、はっきり言ってごらん。君こそ私をあざむいている。私は、いったい、どんな嘘をついたというのだ。そうして、もっと重大なことには、その具体的の結果が、どうなったか。記録的にお知らせ願いたいのだ。

17

人を、いのちも心も君に一任したひとりの人間を、あざむき、脳病院にぶちこみ、しかも完全に十日間、一葉の消息だに無く、一輪の花、一個のなしの投入をさえ試みない。君は、いったい、誰のよめさんなんだい。武士の妻。よしやがれ! ただ、ただ、T家よりの金銭の仕送りに小心よくよく、あるいは左、あるいは右。真実、なんの権威けんいもない。信じないのか、妻の特権を。

18

含羞がんしゅうは、誰でも心得ています。けれども、一切いっさいに目をつぶって、ひと思いに飛びむところに真実の行為こういがあるのです。できぬとならば、「薄情はくじょう。」受けよ、これこそは君のかんむり

19

人、おのおの天職あり。十坪の庭にトマトを植え、ちくわを食いて、洗濯せんたくに専念するも、これ天職。われとわがはらわたを破り、わがそで炎々えんえんほのおあげつつあるも、われはあらしにさからって、王者、かたそびやかしてすすまなければならぬ、さだめを負うて生まれた。大礼服着たる衣紋竹えもんだけ、すでに枯木かれき、刺さば、あ、と一声のさけびも無く、そのままに、かさとたおれ、せむ。空なる花。ゆるせよ、私はすすまなければいけないのだ。上へ、上へ、とのがれゆくこそ、われのさだめ。断絶、この苦、君にはわからぬ。

20

投げ捨てよ、私を。とわに遠のけ!「テニスコートがあって、看護婦さんとあそんで、ゆっくり御静養できますわよ。」と悪ばばささやき。われは、君のそのいたわりの胸を、ありがたく思っていました。見よ、あくる日、運動場にずれば、あおおに、黒いくま、さながら地獄じごく、ここは、かの、どんぞこの、脳病院にあらずや。我もまた、一囚人しゅうじん。「ひとり!」とかぎの束持てるポマアドの悪臭あくしゅうたかき一看守に背されて、昨夜あこがれ見しテニスコートに降り立ちぬ。

21

22

銅貨のふくしゅう。ただ、ただ、レッド・テエプにすぎざる責任、規約の槍玉やりだまにあげられた鼻のまるいキリスト。「温度表を見て下さい。二十日以降、注射一本、求めていません。私にも、責任の一半を持たせて下さい、、、 、、、、、、、、、、、、、。注射しなけれあいいんでしょう?」「いいえ、保証人から全快、、までは、と厳格にたのまれてあります。」ただ、飼い放ち在るだけでは、金魚も月余の命、保たず。いつわりでよし、プライドを、自由を、青草原を!
二十四日。なし。
二十五日。
「金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。」(その一。)

23

われより若きものへ自信つけさせたく、走り書。断片の語なれども、私は、くるっていません。

24

社会制裁の目茶目茶は医師のはんらんと、小市民の、医師の良心に対する盲目的信仰もうもくてきしんこうより起った。たしかに重大の一因である。ヴェルレエヌ氏の施療せりょう病院における最後の詩句、「医者をののしる歌。」を読み、思わず哄笑こうしょうした五年まえのおのれをじる。厳粛げんしゅくの意味で、医師のひとみおくをさぐれ!

25

私営脳病院の経営法にいて。 一、この病棟びょうとう患者かんじゃ十五名ほどの中、三分の二は、ふつうの人格者だ。他人の財をかすめる者、又、かすめむとする者、ひとりもなかった。人を信じすぎて、ぶちこまれた。
一、医師は、決して退院の日を教えぬ。確言せぬのだ。底知れず、、、、、言を左右にする。
一、新入院の者ある時には、必ず、二階の見はらしよき一室に寝かせ、電球もあかるきものとつけかえ、そうして、付きって来た家族の者を、やや、安心させて、あくる日、院長、二階はまだ許可とってないから、と下の陰気いんきな十五名ほどの患者と同じの病棟へ投じる。
一、ちくおんき慰安いあん。私は、はじめの日、腹から感謝して泣いてしまった。新入の患者あるごとに、ちくおんき、高田浩吉の歌、はじめるごとし。 一、事務所のほうからは、決して保証人へ来いと電話せぬ。むこうのきびしく、さいそくせぬうちは、いつまでももくしている。たいてい、二年、三年放し飼い。みんな、出ることばかり考えている。
一、外部との通信、全部没収ぼっしゅう
一、見舞みまい絶対に謝絶。もしくは時間定めて看守立ち合い。 一、その他、たくさんある。思い出し次第しだい、書きつづける。忘れねばこそ、思い出さずそろ、か。(この日、退院の約束、断腸だんちょうのことどもあり。自動車の音、三十も、四十も、はては、飛行機の爆音ばくおん牛車ぎゅうしゃ、自転車のきしりにさえむかえが来たかと胸やぶれる思い。)
「出してくれ!」「やかまし!」どしんのもの音ありて、秋の日あえなく暮れむとす。
二十六日。
「金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。」(その二。)

26

昨日、約束の迎え来らず。ありがとう。けさ、おもむろに鉛筆執えんぴつとった。

27

夫を失いしある妻のつぶやき、「夜のつらさは、ごまかせるけれども、夜あけが──。」あかつきばかりきものはなし、とはねむいうらみを述べているのではない。くらきうち目さえて、かならず断腸だんちょうのこと、正確に在り。大西郷は、目さむるとともに、ふとんってはね起きてしまったという。菊池寛きくちかんは、午前三時でも、四時でも、やはり、はね起き、しかして必ず早すぎる朝食をきっするという。すべて、みな、この憂きにしずむことの害毒を人一倍知れる心弱くやさしき者の自衛手段と解して大過なかるべし。

28

営利目的の病院ゆえ、あらゆる手段にて患者かんじゃの退院はばむが、これ、院主、院長、医師、看護婦、看守のはてまで、おのおの天職なりと、きびしく固く信じている様子である。悪の数々、目おおえども、耳ふさげども、かべのすきま、鉄格子てつごうしの窓、四方八方よりひそひそしのびいる様、春の風のごとく、むしろ快し。病院では、死骸しがいなど、飼い犬死にたるよりも、さわがず、思わず、うわさせず。壁り左官のかけ梯子はしごより落ちしものの左腕さわんの肉、て食いし話。一看守の語るところ、信ずべきふし在り。再び、かの、ひらひらの金魚を思う。
「人権」なる言葉を思い出す。ここの患者すべて、人の資格はがれ落されている。

29

われら生きびてゆくには、二つのみちのみ。脱走だっそう足袋たびはだしのまま、雨中、追われつつ、一汁一莱いちじゅういっさい、半じょうの居室与えられ、犬馬の労、誓言せいげんして、ちまたちりの底に沈むか、もしくは、とても金魚として短きいのち終らむと、ごろり寝ころび、いとせめて、油多き「ふ」を食い、うろこかがやき増したるを紙よりうすき人の口のにのぼせられて、ぺちゃぺちゃほめられ、数分後には、けろりと忘れられ、笑われ、冷き血のまま往生とげむか。あとは、自らくびれて、甲斐かいなき命絶ち、四、五日、人の心の片はし、ひやとさせるもよからむ。すべて皆、人のための手本。われの享楽きょうらくのための一夜もなかった。

30

私は、享楽のために売春婦かったこと一夜もなし。母を求めに行ったのだ。乳房ちぶさを求めに行ったのだ。葡萄ぶどうの一かご、書籍しょせき、絵画、その他のお土産みやげもっていっても、たいてい私は軽んぜられた。わが一夜の行為こうい、うたがわしくば、君、みずから行きて問え。私は、住所も名前も、いつわりしことなし。ずべきこととも思わねば。

31

私は享楽きょうらくのために、一本の注射打ちたることなし。心身ともにへたばって、なお、家のむちの音を背後に聞き、ふるいたちて、強精ざい、すなわち用いて、愚妻ぐさいよ、われ、どのような苦労の仕事しおおせたか、おまえにはわからなかった。食わぬ、しし、食ったふりして、しし食ったむくいを受ける。

32

その人と、面とむかって言えないことは、かげでも言うな。私は、この律法を守って、脳病院にぶちこまれた。求めもせぬに、私に、とめどなき告白したる十数人の男女、三つきちて、必ず私をしざまに、それも陰口かげぐち、言いちらした。いままでお世辞たらたら、かわやに立ちし後姿見えずなるやいな、ちえっ! と悪魔あくま嘲笑ちょうしょう。私は、このおにを、なぐり殺した。

33

私の辞書に軽視の文字なかった。

34

作品のかげの、私の固き戒律かいりつ、知るや君。

35

私は、私の作品の中の人物に、なり切ったほうがむしろ、よかった。ぐうたらの漁色家ぎょしょくか

36

私は、キリストの卑屈ひくつを得たく修業しゅぎょうした。

37

聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなきほどの鮮明さをもって、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章。読み終えるのに、三年かかった、マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝のつばさを得るは、いつの日か。
「苦しくとも、少し我慢がまんなさい。悪いようには、しないから。」世の所謂いわゆる大人おとなの言葉。母よ、兄よ。私たちこそ、私たちのあがきこそ、まこと、いつわらざる「我慢下さい。悪いようにはしないから。」の切々、無言の愛情より発していること、知らなければいけない。一時のはじを、しのんで下さい。十度の恥を、しのんで下さい。もう、三年のいのち、保っていて下さい。われらこそ、光の子に、なりうる、しかも、すべて、あなたへの愛のため。

38

その時には、知るであろう。まことの愛の素晴しさを。私たちの胸ひろくして、母を、兄をれて、ねむけさせることができるのだという事実を。その時には、われらにそっとささやけ、「私たちは、愛さなかった。」
「まあいいよ。人の心配なぞせずと、ご自分のそでのほころびでも縫いなさい。」それでは、立ちあがって言おうじゃないか。「人たれか、われ先に行くと、たとい、一分いちぶなりとも、その自矜じきょううちくだかれて、なんの、維持いじぞや、なんの、設計ぞや、なんの建設ぞや。」さらに、笑ったならば、その馬づらを、なぐれ!

39

求めよ、求めよ、切に求めよ、口にさけんで、求めよ。沈黙ちんもくは金という言葉あり。桃李とうり言わざれども、の言葉もあった。けれども、これらはわれらの時代を一層、貧困に落した。告げざれば、うれい、全く無きに似たり、とか、きみ、こぶしを血にして、たたけ、五百度たたきて門の内こたえなければ、千度たたかむ、千度たたきて門、ひらかざれば、すなわち、門をよじのぼらむ、足すべらせて落ちて、死なば、われら、きみの名を千人の者に、まことに不変の敬愛もちて千語ずつ語らむ。きみの花顔、世界のちまたちまた、露路ろじ奥々おくおく、あつきなみだとともに、き散らさむ。死ね! われら、いま、微細びさいといえども、君ひとり死なせたる世の悪への痛憤つうふん、子々孫々ひまあるごとに語り聞かせ、君の肖像しょうぞう、かならず、子らの机上きじょうかざらせ、その子、その孫、約して語りつがせむ。ああ、この世くらくして、君に約するに、世界をおお厳粛華麗げんしゅくかれいの百年祭の固き自明の贈物おくりもののその余をもってするあたわざることを、数十万の若き世代の花うばわれたる男女と共に、深く恥じいる。
二十七日。
「金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。」(その三。)

40

人、口々に言う。「リアル」と。問わむ、「何をもってか、リアルとなす。はすの開花に際し、ぽんと音するか、せぬか、大問題、これ、リアルなりや。」「いな。」「ナポレオンもまた、風邪かぜをひき、クレオパトラもまた、脱糞だっぷんせりとの事実。これこそは君等のいうリアルならむ。」笑って答えず。「さらに問わむ、太宰もまた泣いて原稿げんこうを買って下さい、とたのみ、チエホフもとびら敷居しきいすりへってしまうまで、売りみの足をはこんだ、ゴリキイはレニンに全く牛耳ぎゅうじられて易々諾々いいだくだくのふうがあった、プルウストのかの出版屋への三拝九拝さんぱいきゅうはいの手紙、これをこそ、きみ、リアルというか。」用心のニヤニヤ笑いつづけながらも、少し首肯うなずく。「おろかなる者よ。きみ、人その全部の努力用いて、わが妻子わすれむと、あがき苦しみつつ、一度持たせられし旗の捨てがたくして、沐雨櫛風もくうしっぷう、ただ、ただ上へ、上へとすすまなければならぬ、肉体すでに半死の旗手の耳へ、妻を思い出せよ、きみ、私め、かわってもよろしゅうございますが、その馬の腹帯は破れていますよと、かの宇治川、佐々木のでんをねらっていることに、気づくがよい。名への恋着にあらず、さだめへの忠実、確定の義務だ。川の底からいあがり、目さえおぼろ、必死に門へかじりつき、また、よじ登り、すこし花きかけたる人のいのちを、よせ、よせ、芝居しばいは、と鼻で笑って、足ひっつかんで、むざん、どぶどろの底、ひきずり落とすのが、これが、リアルか。」かれ少し座り直して、「リアルとは、君の様に、針ほどのものを、棒、いや、門柱くらいにさけさわがずして、針は、針、と正確に指さし示す事なり。」「おろかや、君は、かの認識の法を、研究したにちがいない。また、かの、弁証法をも、学びたるなるべし。われ、かのレクチュアをなす所存なけれど、いまの若き世代、いまだにリアル、リアル、と穴てんてんの青き表現の羅紗らしゃかぶせたる机にしがみつき、すがりつき、にかわづけされて在る状態の、『不正。』に気づくべきはずなのに。帰りて、認識論入門、アンダラインのみ拾いながらでもよし、まず、十ページ、読み直せ。お話は、それから、再びし直そう。」かく言いて、その日は、わかれた。

41

リアルの最後のたのみのつなは、記録と、統計と、しかも、科学的なる臨床りんしょう的、解剖かいぼう学的、それ等である。けれども、いま、記録も統計も、すでに官僚かんりょう的なる一技術に成りせ、科学、医学は、すでに婦人雑誌ふうの常識にし、小市民リアリストは、何々開業医のえらさを知っても、野口英世ひでよの苦労を知らぬ。いわんや、解剖学の不確実など、寝耳に水であろう。天然たる厳粛げんしゅく現実リアリティの認識は、二・二六事件の前夜にて終局、いまは、表現の時期である。叫びの朝である。開花の、その一瞬いっしゅんまえである。

42

真理と表現。この両頭食い合いの相互そうご関係、君は、たしかに学んだ筈だ。相剋そうこくやめよ。いまこそ、アウフヘエベンの朝である。信ぜよ、花ひらく時には、たしかに明朗の音を発する。これを仮に名づけて、われら、「ロマン派の勝利。」という。ほこれよ! わがリアリスト、これこそは、君が忍苦にんく三十年の生んだ子、玉の子、光の子である。

43

この子のひとみの青さを笑うな。羞恥しゅうち深き、いまだはだやわらかき赤子なれば。獅子しし真似まねびて三日目の朝、がけの下に蹴落けおとすもよし。崖の下の、蒲団ふとんわするな。勘当かんどうと言って投げ出す銀煙管ぎんぎせる。「は、は。この子は、なかなか、おしゃまだね。」

44

知識人のプライドをいたわれ! 生き、死に、すべて、プライドのゆえ、と断じ去りて、よし。職工を見よ、農家の夕食の様をのぞけ! 着々、陽気を取りもどした。ひとり、くらきは、一万円使って大学を出た、きみら、せたる知識人のみ!

45

くたびれたら寝ころべ!

46

悲しかったら、うどんかけ一杯いっぱいと試合はじめよ。

47

私は君を一度あざむきしに、君は、私を千度あざむいていた。私は、「嘘吐うそつき」と呼ばれ、君は、「苦労人。」と呼ばれた。「うんとひどい嘘、たくさん吐くほど、嘘つきでなくなるらしいのね?」

48

十二、三歳の少女の話を、まじめに聞ける人、ひとりまえの男というべし。

49

その余は、おのれのほっするがまにまに行え。
二十八日。 「現代の英雄えいゆうについて。」
   ヴェルレエヌ的なるものと、ランボオ的なるもの。

50

スウィートピイは、蘇鉄そてつの真似をしたがる。鉄のサラリイマンを思う。片方は糸で修繕しゅうぜんした鉄ぶちのがねをかけ、スナップ三つあまくなったかわのカバンをひざに乗せ、電車で、多少の猫背ねこぜつかって、二日そらないあごの下のひげを、手さぐり雨のちまたを、ぼんやり見ている。なぐられて、やかれて、いまはくろがねの冷酷れいこくを内にひそめて、(断)
二十九日。

51

十字架じゅうじかのキリスト、天をあおいでいなかった。たしかに。地に満つ人の子のむれを、うらめしそうに、見おろしていた。

52

手の札、からりと投げ捨てて、笑えよ。
三十日。

53

雨の降る日は、天気が悪い。
三十一日。
かべに。)ナポレオンのほっしていたものは、全世界ではなかった。タンポポ一輪の信頼しんらいを欲していただけであった。
(壁に。)金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。
(壁に。)われより後に来るもの、わが死を、最大限に利用して下さい。
一日。

54

実朝さねともをわすれず。

55

伊豆の海の白く立ち立つ波がしら。

56

塩の花ちる。

57

うごくすすき。

58

蜜柑みかん畑。 二日。

59

誰も来ない。たより寄こせよ。

60

疑心暗鬼あんき。身も骨も、けずられ、むしられる思いでございます。

61

紫蘇しその葉いちまいの手土産てみやげで、いいのに。
三日。

62

不言実行とは、暴力のことだ。手綱たづなのことだ。むちのことだ。

63

いい薬になりました。
四日。 「梨花りか一枝。」

64

改造十一月号所載しょさい、佐藤春夫作「芥川あくたがわ賞」を読み、だらしない作品と存じました。それゆえに、また、類なく立派であると思った。真の愛情は、めくらの姿である。狂乱きょうらんであり、憤怒ふんぬである。さらに、(断)

65

寝間の窓から、羅馬ローマ炎上えんじょう凝視ぎょうしして、ネロは、もくした。一切いっさいの表情の放棄ほうきである。美妓びぎ巧笑こうしょうに接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりのかげなる大敗将の沈黙ちんもくを思うよ。

66

ごうの歯には、一噛の歯を。一杯いっぱいのミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「なんじをうったうる者とともにみちに在るうちに、早く和解せよ。おそらくは、訴うる者なんじを審判人さばきびとにわたし、審判人は下役したやくにわたし、ついになんじはひとやに入れられん。

67

まことに、なんじに告ぐ、一りんも残りなくつぐなわずば、そこをいずることあたわじ。」(マタイ五の二十五、六。)

68

晩秋騒夜そうや、われ完璧かんぺきの敗北を自覚した。

69

一銭を笑い、一銭になぐられたにすぎぬ。

70

私のひとみは、よごれてなかった。

71

享楽きょうらくのための注射、一本、求めなかった。おめん! の声のみ盛大の二、三の剣術けんじゅつ先生的文士をけたにすぎぬ。「水の火よりも強きを知れ、キリストの嫋々じょうじょう威厳いげんをこそ学べ。」

72

他は、なし。

73

天機は、もらすべからず。
          (この日、亡父命日。)
五日。

74

うことの、いま、いつとせ、早かりせば、など。
六日。
「人の世のくらし。」

75

女学校かな? テニスコート。ポプラ。夕陽ゆうひ。サンタ・マリヤ。(ハアモニカ。)
「つかれた?」
「ああ。」

76

これが人の世のくらし。まちがいなし。 七日。

77

言わんか、「死屍ししむち打つ。」
言わんか、「窮鳥きゅうちょうを圧殺す。」
八日。

78

かりそめの、人のなさけの身にしみて、まなこ、うるむも、老いのはじめや。
九日。

79

窓外、庭の黒土をばさばさいずりまわっているみにくき秋のちょうを見る。並はずれて、たくましきがゆえに、死なず在りぬる。はかなきていにはあらず。
十日。

80

私が一ばん悪いのです。私こそ、すみません、を言えぬ男。私のアクが、そのまま素直に私へ又はねかえって来ただけのことです。

81

よき師よ。

82

よき兄よ。

83

よき友よ。

84

よき兄嫁あによめよ。

85

姉よ。

86

妻よ。ゆるせ。

87

医師よ。

88

亡父も照覧。 「うちヘかえりたいのです。」

89

かき一本の、生まれ在所ざいしょや、さだ九郎。

90

笑われて、笑われて、つよくなる。 十一日。

91

無才、醜貌しゅうぼうの確然たる自覚こそ、むっと図太い男をつくる。たまものなり。(家兄ひとり、面会、対談一時間。)
十二日。

92

この日、午後一時半、退院。

93

なんじらのかたきを愛し、汝らを責むる者のために祈れ。天にいます汝らの父の子とならんためなり。天の父はそのしき者のうえにも、善き者のうえにものぼらせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせたまうなり。なんじら己を愛する者を愛すとも何の報をかうべき、取税人ももくするにあらずや。兄弟にのみ挨拶あいさつすとも何の勝ることかある、異邦人いほうじんしかするにあらずや。然らば汝らの天の父の全きがごとく、汝らもまた、全かれ。
昭和十六年五月実業之日本社刊『東京八景』所収




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太宰治全作品集 1
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